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中国が抱いた疑問
疑われた使者
「日本」国号の始まり?
信じてもらえた粟田真人
















日本書紀はなぜ書かれたか


日本書紀はなぜ書かれたか

 天武天皇は十年(681年)三月に川嶋皇子らに命じて国史の編纂をさせた。続日本紀によると、元正天皇の養老四年(720年)五月には、舎人親王らが完成した国史を奏上したという。これが日本書紀であろうと思われる。四十年もかけた大事業であり、開始時のメンバーの多くは、完成時には死亡したり隠退していて、ほとんど入れ替わっていたようだ。

 私はこの時期に国史編纂が行われたのは、大和朝廷にとってやむにやまれぬ事情があったからだと考える。

<中国が抱いた疑問>

 旧唐書によると、初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。なぜ中国は疑ったのだろうか。倭国が数十カ国に分かれて、それぞれの国名を名乗り、てんでに遣使を送っていたらしいことは、魏志倭人伝からも察せられる。倭人の国から来たといえば、知らない名前の国であっても、当然倭国から来たと考えたであろう。それなのに、中国は日本からの使者を「別の国から来た」と考えた。

『日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、(・・・中略・・・)その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)へず。故に中国焉(これ)を疑う。』(岩波文庫『旧唐書倭国日本伝ほか』より)

 『倭国の別種』とは、『倭人だが倭国ではない』という意味である。この文には読み方が複数ある。中には、このすぐ後に現れる粟田朝臣真人が、その疑われた遣使だと考える人があるほどだ。彼は「日本から来た」と名乗ったことが続日本紀に出ており、記録上もこれが初めてだからである。だがもちろんそれは誤読だ。『自ら矜大、実を以て対へず』というのはどう見ても好意的でなく、むしろ不快感を持ったようである。これに対し、粟田朝臣真人については『真人好んで経史を読み、文を属するを解し、容止温雅なり』と、たいへん好感を持ったらしい記述がある。初期遣唐使が粟田朝臣真人と全く違う人物であることは明白だ。

 私は『その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対へず』という文を「その後も『日本人』を名乗る使者がたびたびやってきたが、その多くはやたら大国ぶって威張るばかりで、みな本当のことを言わなかった」と解釈する。しかしもちろん、他の解釈もある。『そのとき入朝した者の多くは自ら矜大で、本当のことを言わなかった』と読むのである。「疑われた遣使があったらしいが、それはただ一回だけだ」と解釈するわけだ。だが同行者を『入朝する者』と呼ぶだろうか?むしろたびたび入朝を求めてくる者があったと解する方が自然なのではないだろうか。

 彼らが言わなかった「本当のこと」とは、一体何なのだろう?その答はたぶん最初の一文、『日本国は倭国の別種なり』にある。倭人の国だが、倭国とは異なるという。それは中国が何の材料もなく倭国ではないと判断したのでなく、使者自身がそう名乗ったのだろう。つまり「倭国から来たのではない、日本から来た」と言ったのだと思う。そこで中国ではどう考えればよいのか混乱した。倭人の国であって、倭国とは違う国が使者を送ってきたのは、初めてのことだったのだ。

 中国の認識では、倭人の国は倭国であり、倭人を代表して外交権を掌握しているのは倭国だけである。『日本』などという訳の分からない国と国交を結んでしまったら、倭国との関係悪化は免れない。それまで、倭国は唐の冊封体制に組み込まれたいと望み、常に従順であった。朝鮮半島情勢からしても、その方が望ましかったのである。

 疑われた遣使がどんな名前であったか、彼らがどんな話をしたかは、具体的には分からない。いつのことかも書かれていない。旧唐書倭国条の最後の記事は貞観二十二年(648年)であり、その後の遣唐使ではないかと思うが、よく分からないのである。この遣使は、旧唐書の通り、国名が雅でないので改めた、または日本は小国であったが、倭国を併呑して大国になった、などという話をしたのかも知れない。私はこれらの弁明は最初の遣唐使でなく、そのあとに続く遣唐使がしたのだと思っている。あれこれ言ってみて、どう話せば中国が納得するか、試したのだろう。しかし中国はなかなか認めなかった。

 中国の文献にも、倭人であって倭国(女王国)に属していない国が記録されていた。それは狗奴国である。倭国、倭奴国、狗奴国などの国名は、中国側の複数の文献に登場するので、誤記誤伝の可能性は小さいだろう。「倭人だが、倭国ではない、日本だ」と使者が名乗ったら、中国はどう考えただろうか。当然、「では、狗奴国なのか?」と尋ねただろう。だが日本人使者は、狗奴国を知らなかった。「日本国」は、それまでの倭国と中国の交流を知らなかった。私は、狗奴国は後の大和であり、日本国の中心になった国だと思うのだが、それまで中国との行き来がなく、自分たちの国がかつて「狗奴国」と呼ばれていたことも知らなかったのである。

 中国もまた、狗奴国から直接の使者を迎えたことはなかった。倭人の使者と言えば、かつて女王卑弥呼のいた倭国、もしくはもっと古い倭奴国からの使者に決まっていたからである。

<疑われた使者>

 その最初の使者は、どんな扱いを受けただろうか。宋史には、天聖四年(1026年)に日本国太宰府からの使者が日本国の正式の表文を持たずにやって来たとき、拝謁を許さなかったことが出ている。おそらく疑われた第一回遣唐使も拝謁がかなわず、「さっさと帰れ」と言われたのではないだろうか。彼は上表文を持っていただろうが、そもそも「日本」などという国を認めていないのだから、正式の国書にならなかったのである。もちろん、唐でも「国書」を出さなかった。

 この使者は、大和朝廷最初の本格的な中国外交だったのに、あまりの不首尾に失望し、天皇の恥にもなることだと考えた。そこで「帰国の途上で国書を奪われた」と報告して、すべてを自分の責任にしようとした。大和朝廷ではいったん彼を流刑に決めたが、真相を推察した天皇は彼をかばい、罪を許しただけでなく、後には冠位十二階の最高位である大徳にまで昇らせた。

 というのは私の妄説だが、この疑われた使者を小野妹子だと考えると、一番つじつまが合うように思う。日本書紀では、彼が裴世清を伴って帰国したというが、その裴世清の報告を元にしたと思われる隋書のタイ(=イ+妥)国はどう見ても北九州のことで、彼は大和の地を見ていないようだ。竹斯(チクシ、ツクシ)までの行程の記述は詳細なのに、後はそこで聞いた話を適当に略記しただけのような書き方だからである。また裴世清は、タイ国を魏志にある倭国と同一の国であると見て、全く疑問を差し挟んでいない。だが『日本国は倭国の別種なり』という中国の疑いを考えると、私は、推古紀の裴世清来日記事は、書紀編纂者による付会であると考える。

 いずれにせよ、初めての「日本」の使者は中国を納得させる話ができなかったのである。もし「倭国=日本」であったら、すんなりと歴史的連続性を説明できたはずだ。中国は文の国であり、歴史と地理が分かれば、何ら疑問を抱く必要はなかった。「倭国≠日本」であった、使者がそう説明したからこそ疑われたのだろう。

 これについては、他の見方もできなくはない。中国は倭国を相当な大国と見ていたし、隋書には「新羅や百済は倭国を大国で珍物が多いと言い、敬仰を持っている」といった記述がある。実際には、倭国はかなり貧しい国である。だがおそらく倭国では、中国がどのような献物を好むか、何を贈れば実際以上に豊かに見えるか、長い外交歴を通じてよく知っていた。ところが大和朝廷は、それまで中国使節を送ったことがなかった。そのため、中国から見ると、倭国に比べて非常に貧弱な物(ありのままを見せる物)しか贈らなかった。『倭国を併合して大国になった』というのに、倭国より貧相に見えたのである。言っていることと実際(の献物)のギャップが大きい。それではインチキなことを言っているようにしか見えなかったのだ。

 もっとも、私の目にした限りでは、中国には日本遣使以来、もう倭国からの使者はやって来なかったようだ。現代の歴史家も、「倭国≠日本」だとするなら、なぜ倭国消滅と入れ替わりに日本が現れるのか、大きな疑問だと言うであろう。中国でも、徐々に「やはり倭国は日本になったんだ」という認識が生まれたようだ。

 孝徳白雉四年二月には、日本からの遣使が天子に拝謁したという記事がある。その際、東宮監門が遣使たちに日本の地理や日本の初めの神の名を尋ねた。倭国なら、ある程度中国側に史料がある。倭国の使者なら、そんな質問はされなかっただろう。だが日本国は分からない。本当はどこにある国なのか?倭国と同一なのか、違うのか?

 伊吉連博徳が同行した遣唐使は、この頃何度も成功したように見えた。献じた方物も、最初より豪華な物になっていったらしい。彼らが天子に拝謁できたのは、「一応ちゃんとした国らしい」という印象を与えることに成功したからだろう。

 だがおそらくこの頃は、「日本国」は全面的に承認されるには至っていない。中国ではまだうさんくさく感じていたが、もう倭国からの使節はやって来ず、ただ日本国を名乗る遣使がしきりとやって来る。半信半疑ながらも、倭国と日本の歴史的連続性や中国側の古代文献にある倭国記事との整合性を探ろうとしていたのだろう。

 同じ頃には、中国から学者や僧侶が来日したという記事が増えている。中国でも日本に関心を持ち始め、歴史や地理、国制を知りたいと思ったようだ。また中国側文献では、使者達が皇帝からの下賜を受けると、それを金に換えて書籍を大量に買い込んだという記載もある。日本側も中国の歴史や倭国に関する文献を知る必要があったのである。

 おそらくこの頃、日本では「倭国=日本」を基礎にしなければ、中国を納得させることは難しい、だからそのことを明確に記述した日本の歴史が必要だと考えるようになったのだろう。そこでは、倭国は最初から日本であったと書かれていることが望ましく、国の最初の神から始まっていなければならなかった。また中国で歴史を説明する目的があるから、漢文で書かれている必要もあった。

 最初の国史編纂は、日本書紀が記す通り、聖徳太子と蘇我馬子の時代であろうと思う。結局彼らはまとまった史書を残せなかったが、おそらく小野妹子の遣唐使失敗にショックを受け、中国のような総合的な歴史書が必要だと考えるようになったのだ。それは、小野妹子が中国で日本国の歴史について質問され、ろくに答えることができなかったからだろう。

 私は「日本」国号の発案者も聖徳太子たちではなかったかと考えているのだが、それは現在では立証不可能である。非常におぼろげな印象に過ぎない。推古紀に、渡来僧の慧慈(えじ)という人物が聖徳太子の師となったが、太子が死んだと聞くと嘆き悲しんで、「日本国に聖人有り」などと言ったというエピソードがあり、そこに現れる「日本之国」という言葉遣いが、それまでと違うような気がするからである。「日本国」は「ヤマトのくに」と読むだろうが、「日本之国」は「ニッポンのくに」と読むように見えるからだ。

 もちろん日本書紀は、国の名を神代から「日本」としているが、最初の方ではもっぱら天皇の名に使っていた。たとえば神武天皇を「神日本磐余彦天皇」と記す。~武紀や垂仁紀には「日本国」という表記があるし、欽明紀には「日本天皇」の語がある。とにかく書名が「日本書紀」なのだから、日本は初めから国号が日本だった、初めは「倭」だったが、後に改めて「日本」になったのではない、と主張していることになる(この点では古事記の歴史観と大きく違っている)。

 ただし孝徳紀以降になると、「明神御宇日本倭根子天皇(あきつかみとアメノシタシロスやまとねこのスメラミコト)」といった表記も出てくる。『倭』という文字が、天皇に冠せられるのである。天武紀には、同じ意味で「明神御大八洲倭根子天皇(あきつかみとオオヤシマシロスやまとねこのスメラミコト)」とあり、ここでは『日本』の文字がない。昔は日本は倭といった、というのと逆の現象である。

<「日本」国号の始まり?>

 日本書紀では、大和朝廷の初めを中国の東周の初めに置く。それは中国文献における最も古い倭国記事に合わせたからだろう。

『周の時、天下太平、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず』

 つまり日本書紀は、このときすでに『倭』は日本であったと言っているのだ。もっとも、この記事は周の成王の年代のこととされており、~武即位に設定された時期より数百年前のことだ。現代の歴史観からすると、東周はもう周代でなく、春秋戦国である。しかし名目だけにせよ、周王朝は存続した。最終的に滅んだのは、秦が中国を統一したときのことである。書紀編纂時から見ると、大変な古代だ。当時の人々には、秦を数百年さかのぼればもう周代だという認識しかなかったと思う。

 改めて考えてみれば、「倭」はもともと国号ではない。つまり自分で自分の国は倭国だと名乗っていたのでなく、中国が倭人と呼び、倭人の国という意味で倭国と呼んだに過ぎない。中国の冊封体制に組み込まれることを望んでいたうちは、倭人も中国の呼び名に合わせて「倭国」「倭王」と名乗ったのだが、「日本」を名乗るようになってからは、中国と対等な帝国のように振る舞っている。「倭」を「日本」に改めたといっても、それは「国号」変更ではなかった。実際はこのとき初めて公式に国号を定め、名乗ったのである。

 そう考えると、倭と日本とはずいぶん国としての性格が違う。日本からの最初の使者は、その意味でも言動が違っていた。中国と対等な国として国交を結ぼうとしたのだ。『自ら矜大』というのは、そのことだったのかもしれない。

 私は当時日本が倭国を併呑して、初めて倭人の国の統一政権を樹立したので、かなり意気軒昂だったのだろうと思っている。詳しくは別に論ずるが、中国の冊封体制の中で一つの国として承認されたいのでなく、中国帝国の外にある別の国として友好的な関係にありたい、という意志があったのだ。

 帝国とは何かというと、一つの強大な帝国があって、その下にいくつかの国と国王があるのだが、「国王の任命権を帝王が持つ」ということである。中国皇帝は倭王を任命する権限があり、倭王は倭国の領主、つまり倭国の領内の国の王を任命することができる。そのように樹状分岐して、順次末端に至る。冊封体制とはそういうことだ。任命するからにはそれより下のことは任せるわけだが、「あそこの国は統治がなってない」と聞けば、帝王はその国王を処罰したり、退位させて他の者を国王にする権限もあった。「親魏倭王」にせよ、「安東大将軍」にせよ、倭国はそうした中国帝国下の国だという意識を持っていた。ところが「日本」を名乗ってからは、違った道を歩もうとしている。

 日本書紀の編纂目的については、あれこれ論じられてきたが、おおむね「古代部分はすべて書紀編纂者による造作」と見なす立場から、天皇家の正統性を「証明」するため、あるいは国民に嘘八百を信じ込ませるため、という見方をする向きが多い。

 だが天皇家の正統性が、一冊の歴史書で証明できるだろうか。あなたが古代貴族で、日本にまだまとまった歴史書がない状況にあるとする。そのとき天皇から「天皇家の正統性を証明するようなウソで塗り固めた歴史書を造れ」と命じられたら、何を考えるだろうか?「そもそも天皇家の正統性に疑義を呈するのは誰で、その論拠は何か?」ということから調べるだろう。天武の正統性については、議論があってもおかしくない。だがそれに答えるために歴史書を作る必要があるだろうか?壬申の乱が片付いた後に、誰かが天武天皇に向かって「お前は簒奪者だ」と言ったのか?

 国民に嘘八百を信じさせるというのは、明治時代の皇国史観教育のことを言っているのだろうが、平安時代までは、日本書紀はそれほど誰でも知っているものではなかった。日本書紀完成の翌年には、書紀講筵という催しが開かれた。希望者を募って日本書紀を読み聞かせ、詳しく説明するのである。これは貴族の子弟が主な参加者だった。江戸時代には庶民でも読むことが可能になったらしいが、すぐに書紀のここがおかしい、あそこがおかしいという議論が出て来た。「無知な大衆」はどんな嘘八百でも信じると思うのは、迷信に過ぎない。むしろ彼ら(大衆)は「公式にコレコレこうとされているのはウソで、真相はこうでしたよ」といった情報に惹かれるものである。

 日本書紀を天皇家の大陰謀による創作物とする説では、「造作と考えるとつじつまは合う」というので、あれも造作、これも造作と言っているが、そのために造作者が不自然に大きな創作力を持たされているような気がしている。「みんながデタラメな歴史をむりやり信じさせられるところをボクは確かに見たんだ、」と言うだろうが、それは明治以降、戦前の皇国史観教育の下でのことである。日本書紀成立の当初もそれと同じ状況だったかどうかは、はなはだ疑わしい(戦前でもみんなが日本書紀を信じていたとは思わない。おかしいと思っても、口をつぐんでいた人の方が多いのではあるまいか)。私は、~武を始祖として天武を第四十代天皇とする系譜がもともとあり、ある程度古代豪族たちの共通認識が成立していたと考える方が、無理がないように思う。書紀編纂者たちは、それを中国文献に合わせて書こうとしたと思うのである。そのために今では実年代が分からなくなってしまったが、当時の日本には、そういう歴史が必要だったのだ。

<信じてもらえた粟田真人>

 粟田朝臣真人は中国に全面的に信用されたが、彼が遣唐使に任命されたのは大宝元年(701年)正月のことである。天武十年(601年)三月に始まった国史編纂の大事業もすでに二十年経って大筋はできあがり、完成間近であったと思われる。彼はおそらく遣唐使に任ぜられてから、編纂中の「日本の歴史」に目を通しただろう。当代超一流の知識人でもあり、部分的には彼の方から編纂者グループにアドバイスするようなことがあったかも知れない。そのため、中国が満足するような歴史の説明ができたのだと思う。それこそ書紀編纂の主目的であった。

 日本書紀の完成は養老四年(720年)六月のことで、粟田朝臣真人の遣唐使はまだ編纂の中頃じゃないかという人があるだろう。しかし私は、編纂期間の前半には大筋を決定し、主要な史料を配列して、骨格がほとんど出来上がっていたと思う。後半は、漢籍を参照して文章を整えたり(これを「文飾を加える」という)、「一書に曰く」のように資料間に齟齬や不一致があれば、もっと多くの資料を収集探索するなどの作業があっただろうという気がする。

 外交上の目的や国内政治上の目的があったにせよ、歴史書の編纂者たちが、そうした目的だけで歴史を考えたとは思えない。やはりそこには知的好奇心があったはずだし、疑問点があれば追求せずにはいられなかっただろう。日本書紀は、できるだけ多くの伝承を併記しようとしている。古事記には日本書紀のどの一書にもない異説が出ているが、それはやはり日本書紀に漏れたことを記録しておこうという意図によるのであろう。

 古事記の方が古いと思っている人には変に聞こえるだろうが、古事記は日本書紀のおよそ百年後に忽然と現れた書物である。「それまで閲覧を禁止されていた」などと言っている人もあるが、禁書だったという理由もない。現れてからは、全く自由に読まれている。それまで存在しなかったと考える方が理にかなっている。

 古事記は日本をすべて倭と記す。これは「日本は古くは倭といった」という考えに基づくもので、前述のように倭は元来国号ではないのだから、歴史の誤認である。おそらく日本書紀の「日本」をことごとく「倭」に改めて書いたものであろう。日本書紀で倭という字を用いるのは、大和地方を指す場合だけであり、倭人全体の国を指していない(なお、女性名に「ヤマト」がある場合は、ほとんど『倭』を用いている。『倭』に『女』が含まれているからかも知れないが、とにかく編纂に当たって用字の原則を設けたように思われる)。

 古事記を現在の形にまとめたのはおそらく多人長だろうが、その弘仁私記の序において、すでに「日本は古くは『倭』といった」と魏志倭人伝などを引いて説明されている。また「倭という文字の意味は不詳であるが、一説には我を意味する『ワ』を中国人が音写した」と、現在でも繰り返されているような議論が現れている。だが古代には『倭』は『ワ』でなく、『ウィ』と発音されていたらしい。日本書紀にも『倭』の文字がしばしば登場するが、それはすべて『ヤマト』と読まれており、『ワ』という読みは登場しない。書紀編纂当時には、おそらくまだ『ウィ』と読まれていたのだ。『ワ』と読むようになったのは、弘仁私記の時代であろう。ただし後代には中国の漢字字典にも『ワ』の読みが載るようになり、それは国名としての倭の読みに限定されているそうだ。日本人が『倭国=ワコク』の読みを発明し、中国でも日本側の意図を尊重した結果だろう。

 他に参考となる書物はないのだろうか。

 日本書紀と同時期に完成したらしいと思われるのは、風土記の一部である。常陸国風土記、播磨国風土記、出雲国風土記、豊後国風土記などがある。日本武尊の名は、肥前国風土記では日本武尊、常陸国風土記には「倭武天皇」とあって注目されるが、これらは鎌倉時代の写本だという。古事記的歴史観に沿って、『日本』を『倭』に書き換えた可能性もあって、必ずしも日本武尊の表記として古い形だとは言えない。逆に肥前国風土記の表記も日本書紀に合わせて書いてあるようなので、こちらが原型とは言えない。

 日本書紀では、日本武尊が熊襲征伐で大功があったとする。しかし九州地方の風土記ではなぜか存在感が薄く、ほとんど何もしていない。逆に常陸国風土記では大活躍で、日本書紀の東国征伐が熊襲征伐より軽い扱いなのに比べると、違和感がある。

 九州地方の本来の伝承の面影があると思われる『宇佐家伝承』では、日本武尊は全く登場しない。しかもその父景行天皇は、天皇家の始祖のように扱われる。~武は『東征』の途中安芸で死んでしまい、後を継いだ~武の兄である景行が、今度は一転して九州を襲い、朝廷の基礎を築いたというのである。日本書紀とは全く違う意外な話である。景行の九州討伐まで、九州地方では大和朝廷の存在を全く知らなかったのかも知れない。

 実を言うと日本書紀でも、景行以前の部分には、筑紫がほとんど登場しない。~武が筑紫の日向から出発したこと、崇神が出雲の神宝を「検校(調べるという意味だが、実は強奪)」したとき、出雲振根が筑紫に行っていて留守だったという記事がある程度だ。この出雲振根はまたの名を「阿多命」ともいい、阿多隼人との関係が推測される。日本書紀によると~武は吾田邑にいたらしいので、彼自身阿多隼人の一人だったようである。ところが隼人族は続日本紀の時代まで、大和朝廷に抵抗をやめることがなかった。古代史の疑問点の一つである。

 それはさておき、日本書紀のおかげでその後唐から疑われることはなくなったのだとすると、一定の役割は果たしたことになる。現代の歴史家も、「倭=日本」を前提としている。だがそれでは、なぜ旧唐書にあるように、中国が「日本は倭国の別種なり」と疑ったのか、説明は付くまい。歴史家達は「ちょっと誤解されただけ」と軽く見ているが、私は重大問題だと考える。日本国成立を中国から承認してもらえなかった数十年間は、日本にとって苦悩の時代だった。それが推古代に始まり、粟田朝臣真人の遣唐使まで続いていた。やはり国運をかけた大事業だったと思うのである。



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