このページの主な項目
元出雲
播磨にいた出雲の大神
丹波と大和朝廷
ツクヨミの歩いた道
古代出雲=丹波とすれば
怨霊になった神々
神無月のこと









































































































































































































































































































































































































































































































































































出雲の大神の悲劇


元出雲の伝承

 出雲の大神は、言うまでもなく大己貴神(おおなむちのかみ:われわれにも親しい大国主命の別名といわれる)であり、国土造営を行ったとされる国津神(くにつかみ)のチャンピオンである。だが日本書紀の神代巻で天津神(あまつかみ)族に国を譲った後、早々と姿を消してしまったので、よく分からないところがある。

 梅原猛氏は、この国譲りは天津神族による国の強奪であると考え、「神々の流竄」を書いたが、最初の着想は「大己貴神はもと大和の神であり、その後新しく大和に入った神に追われて出雲に遷された」という考えだった。この仮説はあまり受け入れられなかったが、特別な奇説ではなく、昔からある考えだそうだ。鳥越憲三郎氏も「出雲神話の誕生」(講談社学術文庫)で、出雲の本来の大神は熊野大社の神であり、杵築大社の神はどこからかやって来たと考えていたようである。熊野大社の神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(カブロギのクマノのおおかみクシミケヌのみこと)と長々しいが、素戔嗚尊と同神されている。しかし紀伊の熊野三山との関連も認められ、実体は不明である。

<元出雲>

 ところで京都府亀岡市には「出雲大神宮」という神社がある。丹波一宮で社格も高く、もとは広大な神域を持つ大神宮だったが、現在では小ぢんまりした神社になっている。

 出雲大神宮の御神体は背後にある山(御蔭山)で、国常立尊のことだというが、元は拝殿もなかったらしい。原始的な信仰を伝える神社なのだ。主祭神は大己貴神とその妻である三穂津姫命であり、社伝では和銅二年(709年)に大己貴神だけを現在の出雲の杵築神社に遷した。そのため現在の主神は独り取り残された三穂津姫命であるが、あくまで本来の出雲はこの地であったという。そのため神社では「元出雲」と称している。

 この「元出雲」の伝承はあまり注目されず、信じられてもいないらしい。たいていの人は「出雲大社から勧請したらしい」と書いている(ただし近くには別に出雲大社の分社もある)。

 出雲大神宮の最初の拝殿ができたのは、大神の遷座と同じ和銅二年(709年:2009年には創建千三百年祭)という。非常に古い由来を持っているのである。実際に行ってみると磐座がいくつもあって、なるほど原始信仰らしい様相を伝えている。だが他に崇神天皇を併せ祭っており、かなり重んじているように見える。別の項でも述べたが、崇神天皇は大物主神を天皇家の信仰の中心に据えた天皇である。出雲の大神を崇拝していたわけではない。なぜこんなところに崇神天皇が?と疑問に思った。

 ところで、現在の出雲大社は元来「杵築大社」という名称であり、古くは単に「出雲神社」といえばこの丹波の出雲神社を指したのだそうだ。丹波の古伝にも、昔丹波が湖だった頃、大己貴神が大山祇神(おおやまつみのかみ)と協力して、湖の端を切って保津川に水を落とし、現在の丹波盆地を作ったという伝説がある。正に国土造営の神にふさわしい活躍ぶりだ。地質学的にも古代には丹波盆地の大部分が湖だった証拠があるというから、必ずしも荒唐無稽な話ではない。

 ただし同様の神話は甲府盆地にもあり、一般に盆地地形は水がその中央に貯まりやすいので、大雨の時など湖を彷彿とさせる光景になり、同じような発想が生まれやすいとも考えられる。地質学的には、盆地の地底には地底湖とも言うべき貯水層があるのが普通だそうだ。ちなみに京都盆地の地底湖は特に巨大で、琵琶湖の水量に匹敵する水が地底にあるという。

 しかしながら、鎌倉時代にはもう現在の出雲大社が本来の出雲神社で、丹波の出雲はそこから勧請したという説明が一般に受け入れられていた。「徒然草」にも「出雲の社に摸して立派に作られている」と書いてある。当の出雲大神宮に所蔵されている古文書(徒然草より新しいようだが)にも、そう説明されているほどだ。

 和銅以前の出雲が丹波にあったとすると、日本神話や崇神天皇の四道将軍、誉津別命の伝承は、全く違った意味合いを帯びてくるのではないか?

 素人の異説好みで、この「丹波出雲」の仮説をしばらく追求してみたい。なおこの丹波出雲は丹波全体を指したわけではなく、現在の京都府亀岡市のあたりを指したのだろう。山城国から丹波国に入るあたりで、口丹波などと呼ばれる地域である。かつての丹波国は丹後、但馬を含んでいたので、たとえば兵庫県にも丹波市がある。

<播磨にいた出雲の大神>

 大己貴命は現出雲(「丹波出雲」の対語として言うのだが)にいるので、さぞかし出雲国風土記では活躍するかと思いきや、実はあまり登場していない。かの有名な「因幡の白兎」の伝説も書かれていない。風土記を書いた出雲臣(いずものおみ)廣嶋(ひろしま)という人物が、神話や伝承など歴史部分を少なくして、むしろ客観的な地理や物産の情報を多く盛り込もうとしているからである。「国引き」の説話など、貴重な伝承もあって、価値は高いのだが、歴史資料として古代の出雲を知ろうとしても、肩透かしを食わされる。

 ところが、「播磨国風土記」には、出雲の大神がよく登場する。たとえば「昔出雲の大神が神尾山に住んでいて、出雲の人が通りかかると、その半数を取り殺した」という伝承が伝えられている。男神だけが一人で来て、姫神は遅れて来たので、男神の方は待ちきれずに一人で行ってしまった。遅れてやってきた姫神は、一人でその山にいるという。そのため、いつも不機嫌なのだそうだ。残念ながら、その姫神の名は分からない。

 この話が出雲の大神の遷幸途上のことであったとすれば、出雲大神宮が伝えるところと、かなり符合している。元出雲では妻の三穂津姫と一緒にいたのに、夫の大己貴神だけが現出雲に遷されたという。これに対し、播磨では姫神は遅れてやってきたと伝えている。

 やや相違があるが、妻がいたのに、間を引き裂かれたという点は共通している。行く人の半数を取り殺したというのも、八幡神が鷹居社にあったとき、やはり同じように伝えられており、大神の座を奪われて屈従を余儀なくされた神の鬱屈と憤怒を表しているようである。

 つまり、出雲大神宮が伝える「大己貴神だけを現在の出雲の杵築神社に遷した」という伝承は、神をその本来の居処から追い出したという話になるのだ。日本書紀の第二の一書によると、国譲りの後、妻であった三穂津姫命は、高皇産霊尊のすすめで大物主神の妻となったらしい。国土を奪われ、愛する妻も同時に奪われたのだ。荒々しい怨霊神となったのもうなずける話ではある。

 またこの第二の一書では、大物主神と事代主神は、最初に天孫族に帰順したという。本文では、事代主神は大己貴神の息子であり、大己貴神に先立って去ってしまった(つまりすでに死んだ)のだが、こちらでは国譲りの後も生きていたことになる。古代天皇の項でも書いたように、日本書紀では神武天皇の妻姫蹈鞴五十鈴媛を事代主神の娘としているのに、古事記では大物主神の娘としている。もっとも古事記では、事代主神は世を去った後には登場しない。

 大物主神は、はじめ大己貴神の幸魂奇魂と名乗って現れた神だが、ここでは大己貴神を滅ぼす神の側に立っている。事代主神も大己貴神の息子だというのに、やはり敵側についている。親友と息子に裏切られたのだろうか。

 なお三穂津姫命が大物主神の妻となった話は、白河本旧事紀では高皇産霊尊が大己貴神の妻にしたという話になっている。「国を譲ったといっても、今後国津神の娘を娶るなら、まだ逆心があると考えるぞ」と脅したのであり、日本書紀で大物主神に言った言葉とよく似ている。元来白河本旧事紀は大己貴神と大物主神を同一神としているので、最初から混同されているのだ。日本書紀では別の神として書かれており、本文にはないが、第二の一書では大己貴神が国譲りして隠れた後(ここでは事代主神は隠れない)で、この結婚話が持ち上がっている。ただし三穂津姫命がそれ以前に大己貴神の妻だったということは書かれていない。

 また三穂津姫は田心姫(古事記では多紀理毘賣)と同神と言われるが、この部分では三穂津姫の名前だけが出ている。そもそも高皇産霊尊が「わが娘、三穂津姫」と呼んでいるのであり、天安川の誓約で生まれた田心姫は、素戔嗚尊の娘としている。田心姫はとっくの昔に筑紫に天降らせているのだが、高皇産霊尊の言葉では、三穂津姫はまだ高天原にいるような口ぶりなのである。少なくとも日本書紀によるかぎり、彼女たちは別神のように読める。

 しかし『播磨国風土記』の託賀郡黒田の里の条には、奥津嶋比賣が袁布山で伊和の大神の子を産んだという記事がある。ここで伊和の大神と言っているのは、大己貴神に違いない。奥津嶋比賣は田心姫のことだろう。この託賀郡黒田の里には、現在「古奈為(こない)神社」があり、一部では奥津嶋比賣を祭るのではないかと言う人もあるが、社伝では木花佐久夜比賣だと言っている。

 ところで奥津嶋比賣は市杵嶋姫と同じ神だと言われることもある。奥津嶋比賣は三姉妹神の長女である。書紀本文は市杵嶋姫を三女、古事記は次女としているので、奥津嶋比賣は別の神である。ところが日本書紀の「一書」の第一から第三までは、すべて市杵嶋姫を長女としているので、同神となる。当の宗像神社でも幾度か変遷したらしいが、現在は書紀本文に合わせて祭っているという。

出典

長女(沖津宮)

次女(中津宮)

三女(辺津宮)

書紀本文

田心姫(たごりひめ)

湍津姫(たぎつひめ)

市杵嶋姫(いちきしまひめ)

一書第一

瀛(沖)津嶋姫(おきつしまひめ)

湍津姫(たぎつひめ)

田心姫(たごりひめ)

一書第二

市杵嶋姫(いちきしまひめ)

田心姫(たごりひめ)

湍津姫(たぎつひめ)

一書第三

瀛(沖)津嶋姫(おきつしまひめ)

湍津姫(たぎつひめ)

田霧姫(たぎりひめ)

古事記

多紀理比賣(たぎりひめ)

市寸島比賣(いちきしまひめ)

田寸津比賣(たぎつひめ)

(注)一書第三の瀛(沖)津嶋姫は、またの名を市杵嶋姫と明記してある。

 瀛(沖)津嶋姫=市杵嶋姫かつ田心姫=田霧姫とするなら、三柱の神A,B,Cがいて、ここの所伝は上から順にABC、CBA、CAB、CBA、そして古事記がACBである。CBAが二回あるが、呼び名が違っている。順列組み合わせで、6通りの可能性があり、ここで抜けているのはB(湍津姫)を長女とする所伝だけだ。つまりBAC、BCAの2通りがない。だがこのように見ると、古事記の伝えるところは日本書紀に載っていない説だということがよく分かる。奉斎する氏族も本文では宗像氏、一書第三では水間(みぬま)氏となっていて、書紀編纂者の手元にあった資料が各氏族によりまちまちであったことが分かる。当時の朝廷から見て、宗像氏の方が有力に見えたので、本文記事を採用したのだろうが、他の一書も捨てきれなかったと思われる。

 なお京都の松尾大社では中津嶋姫を祭っているが、それは市杵嶋姫のことだそうだ。つまり古事記の説を採用している。ただし主祭神は大山咋命であり、東の日枝神社や賀茂大社との強い関連をうかがわせる。この松尾大社は秦氏の神社として、地図で見ると平安京の西の守りの位置にある。これは別に論じる必要がありそうだ。

 まあ神は実在の人物と違って、別の神だと思っていたのが同神だったり、ほとんど同じ名前の神が実は別神だったりするので、あまり詮索の必要はないだろう。ここでは、奥津嶋比賣は田心姫のこととしておく。すると、播磨で出産したこの神もやはり三穂津姫と同神だったのだろう。

 播磨国風土記の揖保郡意此川(おしかわ)の条では、出雲の神を「御蔭の大神」とも呼んでいる。この名で呼ばれる神は他にも存在する。白河本旧事紀では孝霊天皇六年、天の御影神が出現したので野洲の三上山に祭ったという。これは天目一箇神であり、製鉄か製銅かは分からないが、金属精錬の神だ。ただ多くは御影神と言えば大己貴命のことである。出雲大神宮のご神体山が御蔭山と呼ばれているのは、偶然の一致ではないだろう。

 気になるのは「出雲の人が通りかかると」という部分(意此川の条では出雲の人に限らず、通行人の半分を取り殺した)で、出雲の神が出雲の人に復讐していたのだ。いずれにせよ、出雲の人がこの地方を通ることが多かったらしい。というのは、たまにしか出雲人が通らないなら、「その半数が取り殺された」というような伝承にはならないはずなのである。一月の間に何人もの出雲人が往来し、その半分がここで死んだとすれば、こういう話が残るだろう。しかし、十年間に二人の出雲人が通ってその一人がここで死んだとすると、「出雲人の半数が死んだ」と思う人はいない。ただの偶然で終わってしまう。出雲との往来が頻繁であったと見るのが自然であろう。

 その出雲は、丹波出雲だと思うのである。播磨は古代から丹波との行き来が頻繁だったという。現出雲は、むしろ備後や吉備とのつながりが強いだろう。丹波も丹後地方まで行くと越前、越後や伯耆、因幡とのつながりが出て来そうだが、直接現出雲にはつながっていなかった。

 ブログの方で書いたが、たとえば京都市内から丹波を通って山陰地方に抜ける「山陰街道」というのは名ばかりが高く、実際には切れ切れで、痕跡があまり明確でない。京都から丹波へ行く道は、そのまま姫路(つまり播磨)に抜ける道の方がはっきりしているのである。これでは山陽道ということになってしまうが、古代人は丹波から播磨に通うことが多かったのだろう。

 風土記が編まれたのは和銅年間の元明天皇の詔勅による。ところが、出雲大神宮の社伝にあるように、和銅年間に大己貴命を現在の出雲の杵築神社に遷したというのが事実なら、少し時代が合わない。風土記では、神尾山に住んでいた時期を相当古い時代のこととしているが、これが和銅年間のことなら、ごく最近の出来事になる。

 だが、おそらく矛盾してはいないのだろう。丹波を大和朝廷の支配下に置いたのは、崇神天皇の代だと思われるからだ。崇神天皇は四道将軍の一人を丹波に派遣している。他の将軍が越、吉備、陸奥などであるから、ずいぶん身近なところに派遣したのである。

<丹波と大和朝廷>

 崇神天皇の近畿制覇の事業は、おそらく当時の丹波に大和朝廷に抵抗する強大な勢力がいたことを示すのだろう。特に丹後地方には、大和勢力とは独立していたと思われる古墳群があるそうだ。丹波はまた、現出雲地方にもつながる重要な道の入り口だった。近鉄京都線の駅名には丹波口、丹波橋など、亀岡からかなり遠いところに、ここが丹波道の入り口だと言わんばかりの地名が残る。丹波との交通が非常に重要であったことを物語る。

 このことは、古代の山背の国が、丹波への道として把えられていたことを示すのだろう。丹波が大和朝廷の権力とは独立していて、山城の国を通して交易するような国だったとしよう。丹波は重要な食料供給の拠点である。当然それを交易するところには、役所のようなものもあったのだろう。

(最近知ったことだが、「丹波の神社」というホームページによると、京都市左京区の北部は、昔は丹波に属していたという。古代には、京都盆地の北部は、ほとんど丹波の領域だったかも知れない。また私の住んでいる西京区の大原野に近い大枝<おおえ>というところは、本来は酒呑童子が住んでいたという大江山だったという説がある。現在は京丹波市の大江山ということになっているのだが、なるほど酒呑童子の親友だったという茨木童子の住んでいたところは、こちらの大枝の方が近い。近くには酒呑童子の首を祭ったという首塚大明神もある)

(上記の件の追加だが、奈良時代の山背國というのは、だいたい巨椋池付近までで、それより北は主として秦氏や栗隅氏が開発したのだという。平安京は秦氏の土地に営まれたわけである。平安京の最大の神社は賀茂大社であって、「鴨一族が入り込んで山背を平定した」という話になっていることが多いのだが、実はそれより古く、土師氏が住んでいたそうだ。)

 当時の山城の国には愛宕(うたぎ)郡出雲郷という地名があり、出雲臣姓の人物が多数住んでいた。その場所は愛宕山からだいぶ離れている。現在の京都市内で、北区、中京区を含むという。同志社大学付近には遺構があるらしい。今も出雲路という地名や出雲神社がそのあたりにある。愛宕山も現在は京都と亀岡の境ぐらいにあるが、かつては丹波の勢力圏で、朝廷が直接統治する場所ではなかったのではなかろうか。

「寧楽遺文(ならいぶん)」に神亀三年(726年)の「山背国愛宕郡雲上里計帳」、同じく「雲下里計帳」が掲載されている。そこに出てくる人名は、ほとんどが「出雲臣」という姓なのである。

 一方、天平六年の「出雲国計会帳」には、「移民部省」という文字が並ぶ。これは「移民」させるという意味ではなく、「民部省に移管した」といった意味らしいが、初めて見たときはぎくりとしたものである。民部省とは、何をしていた部署なのか?Wikipediaには租税とそれに伴う戸籍の管理をしていたという。このころ大勢の人が戸籍を変更したということかも知れない。

 天平五年(733年)の八月に「一廿日符壹道」として、「国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等出雲臣廣嶋追状」の記載があり、「以八月廿五日到国」とある。それまで住んでいたところから、その任地に到着したのである。これが風土記を書いた廣嶋と同一人物かどうかは分からないが、風土記末尾の記載と、官位は完全に一致している。ただ風土記は「天平五年二月三十日勘造」とある。すると「到国」の半年前に書いたことになる。それぞれの章を、各地方役人に書かせているわけだ。出雲国風土記の記述が何だか客観的で冷静な(自分の国を飾り立てて書こうという気がない)ように見えるのは、彼の生国ではないからかもしれない。

 この時代の記録は「遺文」というだけあって、ほんの一部しか残っていないので確認が難しいが、圧倒的多数の出雲臣は、本来山城にいたということではないだろうか。あるいは私の史料の読み方が違っているのかも知れないが、普通に読むと、出雲臣の本拠地はむしろ山城国であって、その後に現出雲に移住したように見えるのである。新撰姓氏録では、当然かも知れないが、山城の出雲臣の本貫の地を山城国愛宕郡としているのだ。

 普通、山城国愛宕郡出雲郷の出雲臣は、現出雲から移住してきたと説明される。だが、「寧楽遺文」に見るような集団が、現出雲の地にはほとんど跡を残さず山城国愛宕郡出雲郷に移住したというなら、それは出雲国そのものが移動したからと考えざるを得ない。

 話は出雲大神宮が伝えるとおり、丹波の出雲こそ本来の出雲だったのだ。松江の杵築大社に出雲の大神が本格的に遷されたのは和銅年間のことだというが、出雲郷には、その後神亀三年になっても出雲臣が大勢住んでいた。彼らが意宇郡に移ったのは、ずいぶん後になったわけだ。どこかに、早く移住するよう督促する文書でもあれば、問題は完全に解決するのであるが。

 神亀三年の愛宕郡に「廣嶋」という人物がいたらいいのだが、そのものずばりの名前は見当たらない。断簡が多いので、「いなかった」とは言い切れないのだが、「戸主正六位下出雲臣大嶋戸別項」の文字が少し気になる。もしやこの「大嶋」が正六位上に上り、出雲国造を仰せつかったとき、改名したということではあるまいか、などと想像している。この前に断簡があって、「別項」でない本来の戸籍の詳細が分からない。少し後には「戸出雲臣族果安」の字も見える。この人物は53才で、「一支廃疾」とあるので、おそらく脳卒中で手か足が不自由になったのだろう。官位はない。例が少ないので分からないが、廃疾になると官位が失われる習慣だったと考えられなくはないので、出雲臣廣嶋の前任者だった果安の名がここに記載されているという解釈もできる。そう考えた場合、「出雲臣」でなく「出雲臣族」となっている理由はよく分からない。

 また、廣嶋の官位は「外正六位上」である。「外」が付いているのとないのとでは、大きな違いだろう。とにかく、私は「丹波出雲」の仮説に合うものを探して読んでいるので、考えが付会に傾きがちなのはやむを得ない。

 実は島根県にも東出雲町出雲郷という地名がある。ところが、この出雲郷は「いずもごう」でなく、なぜか「あだかえ」と読むそうだ。「字」を変えた(アザカエがなまってアダカエになった)、という説がある。それなら出雲郷というのは元来の地名ではないということだ。いかにも山城国の出雲郷から大挙して押しかけた人々が住んだので、町の名を変えたように聞こえるではないか。ただし近くには阿太加夜(あだかや)神社もあり、これが地名の由来という人もある。しかしアダカヤに出雲郷の字を当てる理由にはならない。なおこの出雲郷は、文献では確認できないが、昔「ざいご」といったらしい。「在郷」ということかも知れないが、これまた意味がよく分からない。

『続日本紀』を読むと、和銅から養老年間にかけて、諸国からの税収が朝廷の主な収入源になったようで、国司に生産状況を報告させたり、按察使(あぜち)に国司の勤務状況を綿密に報告するよう勅が頻繁に出されている。もしかすると、古来の山城の地に安閑としていた出雲臣たちが、いよいよ転居を迫られ、しかたなく現出雲に移住したのではないかという気がする。

 問題は、出雲国の国名を変えて現在の地に遷したとすれば、何らかの記録が残るはずだが、それらしい記事は続日本紀にも日本書紀にも見当たらないということだ。移住が始まったのが和銅年間以後だとすれば、その少し前にありそうなものだ。だが実際はもっと昔だったのかも知れない。崇神の代に、丹波攻略が済むと、すぐに国名が変えられたのではないだろうか。日本書紀の編纂が始まったのは天武・持統帝の時代だと思われ、その頃にはもう崇神の時代は遙かな昔のことである。日本書紀編纂者も、出雲と言えば当然現在の島根の出雲だと考えただろう。

 崇神天皇紀には出雲の振根を誅殺したあと、出雲臣らが怖れて大神を祭らなかったとある。この出雲臣は、当然山城国の住民であろう。ところが丹波の氷上(ひかみ)の人が、自分の幼い子に出雲の神が神懸かりし、謎めいた言葉を語ったと報告したので、勅して大神を祭らせたとある。この子供が語ったという言葉は、出雲の大神の神宝を美称で歌ったようなもので、正確な意味は不明である。このとき朝廷が一度は取り上げた神宝を返却したのではないかと見られ、最初の社殿(出雲大神宮)を創建した可能性もある。だが同時に祟る神であり、主神を他に遷す必要があるとされたのかもしれない。なお出雲大神宮では、社殿の創建を七百九年(2009年は創建1300年である)としており、崇神天皇よりかなり遅い時期である。

 この逸話も、出雲が元来丹波にあったとすると、さほど唐突ではない。氷上は兵庫県丹波市にあり、多少亀岡とは条件が違うが、もちろん古代の丹波であった。

 丹波は豊穣な穀倉地帯でもあった。今でもJR山陰本線でいくつものトンネルを抜け、亀岡盆地に入ると、突然田園地帯になり、何か懐かしい風景が見られる。丹波米は全国的なブランド米ではなくとも、たいへんおいしいお米でもある。人口が増加し始めていただろう大和の朝廷には、どうしても欲しい土地だったのだ。

 これを崇神天皇の代に奪ったのだとすると、大己貴命の遷幸もその頃から始まったのだろう。今では詳しい経路は分からない。播磨国風土記に、わずかに痕跡が残る程度である。大物主神の犯行は消されたのである。出雲大神宮に祭られた崇神天皇は、大己貴命の服従を見張っている。大物主神自体を祭ると、敵対する二神を祭ることになって、はばかられたのであろう。

<古墳について>

 前項で少し触れたが、丹後には古墳が多い。大規模古墳が盛行した時期は、大和勢力の勢力が伸張した時期と重なっているので、古墳時代は大和天皇家が中心になって現出したと思われているが、実際にはそういう証拠はない。むしろ初期天皇の墳墓より、同時期の地方の豪族の墓の方が立派である。古墳時代は、実は大和「天皇」家とは独立に現れ、後に「天皇」家が大きな勢力となってから、天皇陵にもその様式が取り入れられたのだろうという気がする。

 このあたりは、現在有力な歴史家が、まだ日本書紀流の歴史観、つまり大和が古代から日本の権力の中心であり、どの巨大古墳も大和「朝廷」の許可なしには造営できなかったはずだ、という見方にとらわれているからである。私は大和「朝廷」は、初期にはまだ弱小な一地方勢力に過ぎなかったと考えている。たとえば京都市西京区にある「天皇塚古墳」なども、かなり大きな古墳だが、被葬者は不明であり、大和とは無関係な土師氏などの作ったものだろうと思う。

 初期古墳には、天皇陵と認定されたものより、被葬者の分からない地方豪族のものの方が多いのである。ある古墳などは、「古墳時代」より前のものだという。しかも、決して小さな古墳でなく、古墳時代を代表するようなものに匹敵する規模のものだそうだ(残念ながら素人なので、実際に私が調査したわけではない)。

 とにかく、「古墳時代」は大和「朝廷」とは無関係に生まれた葬制であって、もっと古い時代には、自然の山の上に葬るといった形だったのが、後には人工の山を築くようになった。~武などの初期天皇はまだ貧しく、山の上などに墓があるのだろう。出雲大神宮の背後にある「ご神体」の山には墳墓があるそうだが、残念ながら禁足地となっている。私が最近住むようになった京都市左京区の岩倉地域にも、古墳時代より遙かに古い時代の「磐座」があり、その背後の山には墳墓があるらしいが、やはり禁足地とされ、調査はできない。

 こうしたものが古代の墳墓で、その後に人工の山を築いて、そこに葬ることになった。残念ながら、文献上の最古の例が卑弥呼の墓(大いに塚を築く)であり、まだ見出されていないので、確かなことは言えない(奈良にある箸墓古墳がそれだと、やけに大声で言っている人があるが、信じるには証拠が足りない。私はむしろ北九州で知られている古墳の一つが、どれだとは言えないが、そうだろうと思っている)。

 いずれにしても、古墳については、大きな誤解があるような気がする。それは強大な権力の行使だ。だから大和朝廷の仕事に違いない。そんなことが言えるのか?そういう先入観を捨てて見ると、本当に大和朝廷が古墳時代の初期から強大な権力を行使していたという証拠はないと考えるのである。


<ツクヨミの歩いた道>

 私の住む地域は阪急桂駅の近くだが、バスに乗って桂大橋を超えると、月読橋(つきよみばし)の地名がある。月読橋という小さな橋があるが、そのそばには月読尊を祭った神社などはない。一番近いのは松尾大社の摂社である月読神社である。だがそこからはかなり離れている(それに松尾大社は秦氏の神社と思われ、少し新しい)。なぜここに月読尊(つくよみのみこと)の名があるのか、不思議だった。

 ところが「山城国風土記逸文」によると、桂という地名は、天照大神の命令で月読尊が保食神を調べに天界から降りてきたとき、最初に到着した場所なのだそうだ。そこに桂の木があったので、月読尊はしばし木に寄って休息した。そこでその土地を桂の里と名づけたというのである。

 この話は、ただの伝説だと思われている。だが、ここから桂川をさかのぼると保津川に至り、さらに丹波に行き着く。月読尊が保食神に出会って殺したのは、あるいは丹波だったかも知れない。そういえば、出雲大神宮には保食神(宇賀御魂:うかのみたま)を祭る磐座もある。もちろん、出雲大神宮のそばにも月読橋、月神社(月読神社)もあるが、これは必ずしも伝承が正しい証拠にはならない。

 そう思っていたら、その近くの大井神社には、まさにその通りの伝承が残るのを発見した。大宝二年(702年)、月読尊が市杵嶋姫と一緒に亀に乗って桂川をさかのぼって来たが、流れが激しくて進めなくなり、鯉に乗り換えて在元(ありもと)渕まで来た。和銅三年、勅命によりそこに神社を建てたが、のち現在の大井神社に遷したという。亀に乗った男女の神というのは、何だか異国的だが、華やかでもある。彼らはたぶん、このあたりで休息したのだろう。

関連サイト:『丹波の神社』(リスト)http://tanbarakuichi.sakura.ne.jp/shrine/list.html

 大宝二年はもう人代のことであり、いささか時代が新しすぎる。書紀では、月読尊は神代にしか登場しない、神秘の闇に閉ざされた神である。しかしその「殺神現場」が丹波だったという可能性は高いと言えよう。

 大井神社の「大井」という名称は、当然「大堰(おおい)」から来ていると思われる。京都の西部には秦氏が大勢住み、暴れ川だった桂川の上流に大きな堰を築いて付近を灌漑し、農地を開いたという。(ただし「大井」は、現在の山城−丹波の国境付近の住民が「おおえ」の「え」を「い」と紛らわしく発音していたことから来た、という考えもある。)もともと保津川は氾濫することが多かったそうで、亀岡盆地はしばしば太古の丹波湖を彷彿とさせる光景になったという。この神社には月読尊、市杵嶋姫の他に、治水のため木股神(きのまたのかみ、又の名は御井神)も祭っている。この神は書紀には登場せず、古事記で木俣神と書く。大己貴神の妃の一人八上姫(やがみひめ)の子供である。

 彼女は大己貴神の正妻(須勢理姫)の嫉妬を怖れて、因幡国に逃げ帰ってしまったが、その途中で大己貴神の子供を産み、木の股に挟んで置き去りにした。岩波古典文学大系本では「どのような神か不明」となっているが、島根県には「御井神社」があり、それによると八上姫はこの場所で産気づき、水がなかったので三つの井戸を掘ったところ、いずれの井戸からも豊富な水が湧き出た。その水で木俣神を産んだので、この神を三井神=御井神とも呼ぶ。水の神というのは、それが由来である。鳥取県にも八上姫を祭る神社が多いが、木俣神は祭られてないようだ。

 月読尊は天照大神の弟であり、市杵嶋姫は姉の子、つまり姪に当たる。その姪が月読尊の丹波行きに同行した理由は分からない。大己貴神の妻という三穂津姫命は、田心姫(たごりひめ:古事記では多紀理毘賣=たぎりひめ)の別名とされる。市杵嶋姫とは姉妹神なのだ。この時点での月読尊は大己貴神の敵対勢力であった可能性が高く、市杵嶋姫とは反対側にいたはずだが、まるで夫婦のように祭られている。ただし夫婦ではなかったようである。月読尊は独身の男神とされており、白河本旧事紀では女に興味がなかったと書いてある。

 これに関して、月読尊の性別は不明だという主張がある。天照大神男神論の提唱者は、月読尊を女神だと考えたいようだ。その論拠は、太陽が男で、月は女だという中国=西洋の性別観念が日本にもあったはずだという妄信である。ある論者は、天照大神男神説が学界にある程度認知されたとき、「これでやっと日本神話も西洋並みになった」と喜んだそうだから、バカにもほどがある。最高神が女神だということがそんなに恥ずかしいのか?私は少しも恥だと思わないのだが。

 保津川の名前は、三穂津姫命の名前から来ているという伝承もある。そうすると、三穂津姫命の名前の「ミ」は美称で、「ホツ」が名前の本体だということになる。ホツは穂が出るという意味なのだろうか。何だか殺された保食神に近いような気もする。ただし一般的にはミホツとは「ミホの」という意味に解され、ミホが名前の本体と考えられることが多い。

 保食神は姫神である。日本書紀本文の前半でははっきりしないが、死体を調べに行った天熊人が「ほと」から豆と麦が生えているのを見つけている。「ほと」は女性の陰部のことを言う。古事記で素戔嗚尊の殺した大氣都比賣(おおげつひめ)も女神だ。豊受大神も元来は姫神である。伊勢神道でははっきりしないが、白河本旧事紀を見ると月読尊を国常立尊および豊受大神と同体としているので、性別は男神となる。国常立尊、つまり世界の根本神だと主張するのである。

 出雲大神宮に殺された女神の伝承があればいいのだが、そういうものは見出せなかった。ただ保食神をそのままの名前で祭っている神社が、丹波にはある。稗田野神社(ひえだのじんじゃ:ヒエはくさかんむりに稗)という。月読尊を祭った神社も大井神社の他、小川月神社などが見られるが、当然と言うべきか、保食神と月読尊を共に祭った神社はない(ちなみに出雲大神宮では摂社に素戔嗚尊社があり、宇賀御魂神の磐座と共存している)。

 丹波の神社は、やはり農産物の神が多い。当時から食物供給の地と認識されていたはずである。今日のように食べ物が豊富に手に入る時代には、製鉄技術など、当時の先進的な技術に注目しがちだが、人間が生きて行くには、食べ物が最優先だ。軍事力だ、支配力だという。しかし武器も他人の持っている食物を強奪するためにこそ必要なのであり、そもそも自分も他人も何の食べ物も持っていないのでは意味をなさない。軍事力さえあれば世界は思いのままだというのは、妄想である。その軍事力を使って奪うべきものがなければ、何のメリットもない。逆に、ありとあらゆる食べ物が無尽蔵に出てくる何かを持っているなら、他のものはいらないだろう。保食神、あるいは宇賀御魂神、豊受大神は豊穣の神であり、最重要の神だったに違いないのである。ちなみに、全国に数多い稲荷神社というのは、宇賀御魂神のことを言う。

 なお白河本旧事紀では、保食神を殺した殺神犯を月読尊でなく天熊人命(日本書紀は天熊人に尊称の「命」や「尊」を付けない)としている。月読尊は、あとで保食神の死体を調べに行ったとしており、日本書紀とは配役が逆転している。伊勢神道は月読尊を非常に重視しており、保食神を殺すなどという乱暴な行動を書くのがはばかられたのであろう。またこのことで天照大神が激怒したというのも、伝承としては具合が悪かった。伊勢神道では、月読尊を天照大神より上位の神とするからだ。

 また天照大神が激怒して天熊人命を処罰しようとしたが、天熊人命が強すぎて重い罰を与えることはできなかったとも書かれている。だが、そもそも天照大神は罰を与える神ではない。不浄のことを嫌う神であり、刑罰は不浄に属するので、天照大神自身は関与しないのである。その意味では、仲哀天皇に死罰を与えた神が天照大神だったのは、驚くべきである。神功皇后紀の伝承に、何か混乱があるように思われるのである。

 なお、保食神は殺された後、一時摂津の三嶋に祭られていたらしい。このことはブログの「謎の稻倉山」でも書いた。その後丹後に移って行ったが、その別名とされる豊受大神は、丹後から能登にかけての大神、つまり地元の最高神となっていたようだ。丹後の咋岡神社の背後の咋石嶽(くいしだけ)という山の頂上には、宇氣持神(うけもちのかみ)の死んでいる姿が見える岩があるという。こういう伝承は、他にはほとんど例がないだろう。

<古代出雲=丹波とすれば>

 それはともかく、古代の伝承に現れる「出雲」は、どれも実はこの丹波の出雲だった可能性があるのだ。山城国愛宕郡出雲郷という地名について言うと、愛宕山は京都と丹波の境にある山だ。京都側からこれを超えると、そこが出雲大神宮のある土地で、丹波の入り口なので「口丹波」とも呼ばれる(ちなみに奥の方は「中丹波」というそうである)。現在の京都府亀岡市である。

1.出雲国風土記では、「出雲」の国名の由来は、八束水臣津野命が「八雲立つ」と言ったからだ、とあるが、以前から「これでは国名の由来になっていない」と不審がられている。

 一方、丹波は季節にもよるが、よく霧が出るそうである。これを「丹波霧」といって、名物の一つだという。霧の日の亀岡盆地は、少し高いところ、たとえば愛宕山から見ると濃密な雲海に閉ざされてしまう。まさに雲が湧き出る国と呼べるのだ。

 丹波霧は「丹波霧の里」でご覧ください。

2.丹波には素戔嗚尊の大蛇退治にある斐伊川の名称がない。だが氷上郡という地名がある。加古川は、古くは冬に上流が凍り付くことから「氷の川」(つまりヒカワ)と言ったので、その川上を「氷上」と呼んだというのだ。氷上には大蛇伝説もある。ただし大蛇が暴れて困ったというのでなく、むしろ土地の守り神である。もし素戔嗚尊がその蛇を殺したとすると、その地の守護神を殺して、代わりに自分が王になったのだ。ただし氷上の大蛇の頭は一つだけらしい。また、氷のヒと斐伊川のヒとでは、前者が甲音、後者は乙音で、一致しないという問題がある。もっとも、少し後代には関東地方の神社などで、この2つの音を混同している例もある。

 そもそも、上代には甲音と乙音の混同は一つもなかったというのは、仮説に過ぎない。当時の日本人に標準語などあったはずはなく、方言は今以上に地方差があったはずだ。万葉集の東歌以外には資料らしい資料がないので、よく分からなくなってしまっただけだ。後世に甲音・乙音の区別がなくなったのは、やはり室町以降、都市が成立して、各地の方言が入り混じるような状況ができたからだと思う。それ以前、地方ではいろんな発音をしていたのが実態だろう。

3.垂仁紀の七年七月七日に、相撲の起源とされる当麻蹴速と野見宿禰の角力の説話がある。天皇は「当麻の蹴速という剛力の者がいるそうだが、それに対抗できる者はいるか」と群臣に問うと、一人が「出雲に野見宿禰という勇士がいる」と答えた。そこで「即日(そのひ)に」使いを送って野見宿禰を召したという。その日のうちに来たとは書いてないが、まるで翌日か翌々日にでも両勇士が都へ来たように読めるのである。当麻なら近いからすぐ呼べるが、島根の出雲なら、往復に一ヶ月はかかる。江戸時代の旅行では、片道で一ヶ月ほどかかったようである。七年七月七日という日付に意味(神事としての意味)があるのだろうから、さほど深く考える必要はないかも知れないが、違和感のある記事ではある。

 これが丹波の出雲なら、都にせいぜい二、三日で到着する。往復なので(迎えに行くのと連れてくるので)、もう少しかかったかも知れない(単身なら、往復で三日だったそうである)。電話がある現代なら、ちょいとダイヤルして「天皇がお呼びだ。すぐに来い」「ははっ、畏まりました」となるが、古代のことである。迎えに行かなければ、本人は何も知らない。

 早馬がその頃からあったかも知れない(相当する記事はない。書紀では十六代應神天皇の御世に馬が伝わったとしている。垂仁天皇は十二代であり、馬はまだなかったことになる。書紀が厳密なのかどうか分からないが、應神天皇の頃までは、そうした場面で馬が出てくることはない。もっとも、~代巻には馬が登場する)。それなら、丹波まで片道が一日だ。連れて来るのに三日でも合計四日である。その程度なら天皇は首を長くして待つ程度で我慢しただろう。しかし一ヶ月も二ヶ月もかかったなら、もう最初の興味も薄れて、どうでもよくなると思うのである。古事記には、崇神天皇が大物主神の託宣を受けて意富多多泥古を探す際、駅馬使を飛ばしたとある。古事記を書いた人物が、古くは「駅馬」という制度がなかった(それどころか、馬そのものがほとんどいなかったらしい)ことを知らずに書いたのである。けれどももちろん、少しは農耕用の馬もいて、駅馬に近い使い方があったかも知れない。

 野見宿禰の住んでいたところは、あるいは山城の出雲郷だったかもしれない。それなら、翌日には到着しただろう。播磨国風土記には、土師の野見宿禰が日下部の野で死に、出雲の人がやってきて墓を作ったと書かれている。これも出雲が播磨から近い場所にあったと読めなくはない。ただ出雲郷にいた人たちは土師ではない。土師はたとえば河内の楠葉(現在の大阪府枚方市)にいて、梁塵秘抄の「楠葉の御牧の土器作り」の歌を考えると、土師氏はともかく、実際に土器を作るのは賤しい身分とされたようだ。

 私は野見宿禰を、自ら土をこねて土器を作っていた職人の頭領のように感じている。垂仁32年、皇后日葉酢媛に関連して、生きた人間の殉葬を悲惨だと考え、代わりに土偶の埋葬を提案したとされるが、やはり実際に作ったものを見せたのである。「このような土人形に、こうして魂を込めてからお供をさせてあげれば、死者も決して寂しくはございません」と力説したのだ。魂込めの呪術を知っていたのかも知れない。しかし古墳から出る殉葬の跡は多くない。また史実なら、ある時から人形埴輪が急激に増えそうなものだが、それらしい形跡もない。

 それはさておき、側近が前もって相撲の準備をしておき、「実は当麻の蹴速というのがおりまして」と、天皇の興味をかき立てるように言い出し(その実は出雲の野見宿禰が勝つようにあらかじめ仕組んである)、「では連れて参れ」「ははっ、早速」と、用意しておいた力士を呼び出す、といったものであったかもしれない。だが天皇もまさか出雲のような遠国から「即日」に呼び出せるとは思っていないはずだ。

 あるいは七月七日(棚機=たなばた)に合わせてその「天覧相撲」を催すように、もっと前から天皇の耳にも入れ、準備を重ねたのかも知れない。とにかく日本書紀の記述は、素直に読む限りつじつまが合っていないように思う。

4.同じく垂仁天皇の息子、誉津別(ほむつわけ)の皇子は口が利けなかったが、あるとき白鳥が空を飛ぶのを見て突然「あれは何?」としゃべった。喜んだ天皇は、湯河板拳(ゆかわのたな)を遣わしてその鳥を捕まえさせた。鳥取部の起源だともいう。板拳は出雲でその鳥を捕らえた。しかし但馬で捕らえたという人もある。出雲と但馬ではずいぶん違うが、丹波出雲だとするとあまりおかしくない。但馬はあまり離れておらず、古代には丹波に含まれていたらしいので、両説があっても不自然ではない。ただし古事記では山辺の大鷹(おおたか:鷹の字は帝+鳥)という人物が紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越と山川を超えて大追跡しているが、出雲には至っていない。

 古事記では、残念ながら誉津別の皇子は、鳥を捕まえてもまだ普通の人のようにはしゃべらなかった。そこで占うと出雲の大神の祟りだったので、皇子に人を付けて出雲に旅をさせ、その神を祭らせた。これも丹波の出雲だろうが、あまりよくは分からない。参拝の後、誉津別の皇子が初めて流暢にしゃべったときの言葉には、現在地の比定ができていない地名が出てくる。丹波のことなのに、現在の出雲のことだと考えて探していたなら、見つからなくても当然だ。そう思って少し探してみたが、丹波にもそれらしい地名がない。

 そもそもこの伝承に現れる地名が「イワクマ」とか「曽の宮」とか、どこにでもありそうな名前なのである。わずか一音節か二音節で地名を比定するのは、危険きわまりない。ある人は古代の神名を朝鮮語でほとんど一音節ずつ「翻訳」して議論している。「カ」の意味はこれこれ、「チ」の意味はこれこれ、というわけだ。しかし私にはそれで本当の意味が分かるとは思えない。恣意的な解釈に陥る危険性の方が高いだろう。

 この話は、別の解釈もできる。『尾張国風土記』逸文の吾縵(あづら)郷の条には、天甕津姫(あめのみかつひめ)という神が現れ、「私は出雲の多具の神だが、誰も私を祭ってくれない。もし祭ってくれたら品津別(ほむつわけ)の皇子が物を言うようになるだろう」と告げたので、山の上から縵(かづら)を投げ、その落ちた場所に社を建てたとある。今は阿豆良(あずら)神社という。この神の名を岩波古典文学大系本では「ミ=イカツ(厳)姫」と解釈しているが、「みかつ姫」が一字違って「みけつ姫」なら「御食津姫」になる。無理にこじつければ、保食神だ。出雲の神の祟りとは、月読尊に殺された保食神の祟りだったと言えなくもない。

 ただし多具という地名は、丹波には見いだせない。島根には多久があり、『出雲国風土記』には多久社という神社も載っている。神は「誰も私を祭ってくれない」と言ったが、この多久社はいつ頃からあるのか不明だ。垂仁以前の古社なら、神の言葉は事実と違うことになる。現在ある神社の多くは、書紀が記録する時代より古い起源を持つと推測され、多久社も有史以前の信仰の跡に成立したものだろう。その起源においても天甕津姫が祭られていたのかどうかは、全く分からない。

 それはともかく、この話のように、神代編で姿を消した後、人代篇で出雲の大神が現れるときは、ほとんどの場合タタリをなす神である。怨霊神なのだ。なお、播磨国風土記にある佐比岡の伝承で、大神の怒りを和らげようと、出雲の人たちが来て「佐比」を奉ったが鎮まらず、大阪の枚方から移住した人々が作った「佐比」が受け入れられた、という伝承がある。これについて、谷川健一氏は「出雲人より枚方から移った渡来系の人々の技術が上だった」と言っているが、これはそうではなく、出雲人の佐比は受け取らず、それ以外なら受け取るのであろう。伝承にあるように、大神は自分を見捨てた出雲の人々を特に怨んでいたのだ。

5.古事記にある、出雲建を倭建命が討ったエピソードでは、熊襲征伐を終えて帰る途中、出雲に立ち寄ったとする。筑紫から大和に帰るには、日本書紀が述べるように瀬戸内海を通るのが普通なのに、なぜ出雲に行ったのかと思っていたが、丹波出雲なら分からなくはない。少々寄り道だが、現出雲に比べると道筋に近いからだ。倭建命の実母は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)という名前であり、播磨の出身かもしれない。幼年期を播磨で過ごした可能性もあり、そこに立ち寄ったとすると、丹波はかなり近い。

 倭建命は出雲建を討とうと思ったが、なかなか手強かった。そこで一計を案じ、まず偽って出雲建と親交を結んだ。一方赤檮(いちい)の木で出雲建の剣とそっくりなニセモノを作り、一緒に川で泳いだ後、一足先に水から上がって剣をすりかえた。それから「剣の稽古をしよう」と自分はすらりと剣を鞘から抜いたが、出雲建のは木刀だから、抜くに抜けない。あえなく討ち取られてしまった。

 この話は、日本書紀では崇神天皇が出雲の神宝を検校(けんぎょう)した話になっている。当時出雲の神宝を守っていたのは、出雲振根(ふるね)と飯入根(いいいりね)の兄弟だった。天皇の使いが「神宝を見せろ」と言ってきたとき、兄の出雲振根は筑紫へ行っていて留守だった。飯入根は天皇の力を恐れて、神宝を見せた。蔵を開けたのだ。「検校する」というのは調べるという意味だが、実は奪い取ることである。神宝はそっくり持って行かれてしまったわけである。出雲振根が帰ってきて弟から事情を聞くと、激怒した。「なぜオレが帰るまで待たなかった」と叱りつけたのだ。

 出雲振根は、その場は収めたものの、だんだん腹が立ってきた。なかなか神宝を返してもらえなかったからだ。ついに弟を殺してしまおうと決心し、木で剣を作った。一緒に水浴びした後、兄は早く水から上がって、弟の剣と木で作った偽物の剣をすりかえた。後は大体古事記と同じである。

 この事件を聞いた朝廷はすぐさま軍を派遣して、兄の出雲振根を責め殺してしまった。実際にこんなことがあったとすれば、でっち上げと考えるのが自然だろう。神宝を奪われてしょげかえっている弟を、そんなやり方で殺すだろうか。強敵を倒すためならともかく、弟を殺すのに奸計を使う必要があったのか?出雲振根が朝廷に反旗を翻す構えを見せたので、朝廷側が兄弟ともども殺してしまい、地元民の信仰の対象であった神社をも朝廷の管理下に置いたのだろう。

 この「出雲の神宝を検校する」という話は垂仁天皇紀にも現れている。物部十千根(もののべのとおちね)に神宝の管理をさせたとある。この後に神社は杵築大社に遷されたのではないだろうか。

 なお、出雲国造の系譜では、出雲振根は阿多命(あたのみこと)といい、自分の意志で崇神に神宝を献上したということになっている。「阿多」という名前は隼人を連想させる。神武の旧妻といわれる吾平津姫は吾田の邑の人という。神武自身も隼人族だったかも知れない。それにもかかわらず、隼人は長らく大和朝廷にまつろわぬ民だった。

 おそらく、神武が日向にいたときは決して高い身分でなく、隼人族から見ると、一族のホープが東方の国へ攻めて行って大国を建てたなどというものではなかった。むしろある一族が「ここでは芽が出ないから、もう少し東で商売でもしよう」と言って村を出て行った。やがて「あいつら、東の方の国で成功したらしいぞ」と伝わってきたが、「何だ、あんな連中。ここじゃ年中ぴいぴいしてた奴らじゃないか」といった受け取り方だったのだろう。

 それでも同行した久米氏のような一族もいたわけだし、大和には隼人族も住んでいたことになる。隼人族が朝廷に現れるのは景行以後になってからで、書紀では景行の九州征伐より日本武尊の熊襲征伐を重視しているが、風土記を読むとむしろ景行の征伐の方が広範で、現地では深く記憶にとどめられたようだ。とにかく、阿多命という名前からは、出雲振根が九州地方となみなみならぬ関係にあったと思わせるものがある。景行の九州征伐を準備する事件だったのかも知れない。

 阿多隼人が丹波に住んでいたらしい形跡は、やはり神社にある。全国的にも珍しい、野椎(のづち)命という女神を祭る神社が、亀岡にあるからだ。この神は元は阿多族の里にいたが、夫に連れ添って近江まで行く途中、丹波に立ち寄った。その輝くばかりの美しさと神威に、邪神たちが思わずひれ伏したそうだ。別名を鹿屋野比売(かやのひめ)とも言うこの女神は、丹波、山城にかけて足跡を残している。ところが、どこで道を間違えたのか、夫の大山祇神は近江でも、比叡でなく少し北よりに鎮座し、野椎命は伊賀の方に鎮座しているらしい。これはもう少し調べる必要がある。

 いずれにしても、この「丹波国強奪」は、朝廷にとって転換点となる事件だったに相違ない。「出雲振根が筑紫に行っていて留守だった」という話は、いかにも丹波と筑紫に交流があったか、同盟していたように聞こえるではないか。別項で述べたように、「倭≠日本」、つまり「倭=筑紫中心勢力」でありかつ「日本=大和勢力」であったなら、丹波は大和にとって最も近い倭の領域だったわけである。そこには、四道将軍による覇業の後も、倭の影響が残っていたのだろう。

<怨霊になった神々>

 倭姫命世記などに天照大神の遷幸の道筋が出ている。その一つに、藤方片樋乃宮にいたとき、付近の安佐賀の山に荒ぶる悪神がいて、道行く人の半数を取り殺した。そこで、倭姫命は景行天皇に訴えて皇子を派遣してもらい、この悪神を鎮めたという。これは現在その近くの阿射加神社に祭られている猿田彦大神である。記紀では、十メートルを超える巨大な体躯と天狗に似た長い鼻、真っ赤な目を持つ異形の神だが、どことなくユーモラスな神と見られていて、さほど恐ろしい印象はない。

 ところが、古事記によると猿田彦神は比良夫貝に手を咥えられて伊勢の海で溺れ死んだ。海底に体が横たわったとき、底度久御魂(そこどくみたま)という神が生まれ、海中を泡が立ち上るとき都夫多都御魂(つぶたつみたま)という神が生まれ、その泡が海面で弾けるとき、阿和佐久御魂(あわさくみたま)という神が生まれた。阿射加神社にはこれらの神が祭られているという。

 何やら普通ではないのだ。どうも猿田彦は伊勢まで追い詰められ、ついに海の藻屑となって滅んだように聞こえるのである。泡の神は、怨霊神となった猿田彦神を永久に海に沈めておくための呪いの神だろう。

「道行く人の半数を取り殺した」という表現は、八幡神が鷹居社にいたとき、あるいは出雲の大神が播磨にいたときと同じ表現である。肥前国風土記にも、姫社(ひめこそ)の郷と神埼(かむさき)の郡の条に同じように荒ぶる神がいたと書かれているが、これらの神の正体は不明である。姫社の神は姫神で、宗像の人に祭らせて鎮めたそうだ。宗像の神と同体かも知れない。(なおこの「半数を取り殺す」という表現や

 ただヒメコソの神は、一般的には素行の悪い夫に追われて渡来したアカルヒメという姫とされ、筑紫の姫島から大阪の姫島まで逃れたが、その経路の瀬戸内地方に足跡を残した。難波に到ってついに夫から逃れることができたという。もちろんタタリ神ではない。

 ちなみにヒメコソという神社は大阪市東成区にもある。比賣許曽神社というのだが、祭られているのは垂仁天皇の御代、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に追われて新羅から逃げてきた姫で、名を阿加流比賣(あかるひめ)という。

 大阪市西淀川区には姫島という地名があるが、これも似たような話から来ていて、應神天皇の御代に新羅から逃げてきた姫がいたところだという。初め国東の姫島にいたが、「ここでは新羅に近すぎる」と難波までやって来たのだ。古事記によると、この姫を追ってきたのは天之日矛(書紀では天日槍:あめのひぼこ)であり、難波で遮られてそれ以上追うことができず、但馬に住んだ。

 異国の姫がやってきたというだけで、あちこちに地名が残るのはかなり異様に感じるが、当時の新羅は日本に比べて遙かに先進国である。ハリウッドの大スターがやってきたようなものだったに違いない。アインシュタインが来日したときも大騒ぎした。「アインシュタインはこの部屋でこの椅子に座った」などと聞くと、誰でも「へえ、これがそうか」と感心する。あやかろうと自分もその椅子に座ってみるかも知れない。伝説や神話と変わらない。「神功皇后がこの野でこの石に腰を掛けて休んだ」というのと同種である。仮にそれが地名に残ったとして、千年後にこういう話を聞くと、何とも他愛のない地名起源説話だと思う。他に証拠がないのだから、事実無根の作り話だと誰でも思う。だがそうとばかりは言い切れない。それに似たことは、現在も起こっているのだ。

 それはさておき、猿田彦の溺死には、日本書紀にも事情が記されていない、何かもっと古代の神々の戦いがあったように思われる。私は、総じて日本書紀の方が古事記より古い形の歴史を語っているように感じる。古事記は日本書紀を下敷きにして書かれ、もっと整理されている。しかし、古事記の筆者は、書紀に収録されなかった古い伝承を多く取り入れた。現在では目にすることのできない諸国の風土記などを参照しているだろう。たとえば~武が姫蹈鞴五十鈴媛に求婚する場面などは、おそらく今では大半が失われた摂津国風土記に取材しているのではないだろうか。そうした古い伝承の一つが、猿田彦の最期ではないかと思うのだ。

 私は、猿田彦は本来大和にいた大神かも知れないと思う。大物主神がやってきて、その地を追い出したのではなかろうか。そもそも大物主神が三輪山に鎮座する前、その地にどんな神がいたか、あるいは全くどの神もいなかったかは、不明である。だが実は何の神もいない土地は、昔はなかったと思う。現代人には、そうした古代人の世界観はもう分からなくなっているが。もしかしたら、伝承に残っていない青銅の神が猿田彦で、製鉄族の大物主神に大和の地を乗っ取られたのかもしれない。その猿田彦族終焉の地が伊勢の海だった。

 そして、この大神を永遠に海の底に沈めておくために、屍体から立ち昇る泡の神が祭られた。そのことには、威力の強い大神を封じ込める呪術的な意味合いがあったのだろう。しかし殺された大神は、やがて荒ぶる怨霊神となって道行く人々に祟りをなした。それは出雲の大神がもっぱら出雲の人に祟ったように、かつて自分を大神と崇めた(そして見捨てた)人々に対して、特に強く表れたのだろう。

<神無月のこと>

 ところで、「神無月」には出雲大社に諸国から八百万の神が集まって、一大会議が催されるので、諸国の神々は現地を留守にする。そのため、出雲以外の土地では10月を神無月と言い、出雲だけは神在月(無の反対は有だから、「神有月」の方がぴったりなのだが)と言う、という説が広く信じられている。実は私も小学生か中学生の時、教師からそう教わったので、長く信じていた。

 のみならず、現在は出雲大社でも、旧暦10月(新暦では11月〜12月頃)を神在月という、と言っており、そのときには「神在祭(かみありさい:じんざいさい)」と称する行事を執り行う。

 ところが、これはどうやら真っ赤なウソであるらしい。井沢蟠竜の『広益俗説弁』(東洋文庫503)の巻二第七には、著者が江戸にいた頃(元禄年間前後)、出雲出身者に会ったので、このことを聴いたところ、「他国の人はいつもそのことを言う。出雲だって『神在月』なんてことを言うもんか。神無月はあくまで神無月だよ」という答だったそうだ。誰彼なしに訊かれるので、うんざりしていたのだろう。

 少なくとも江戸中期までは、出雲だけ「神在月」などという習慣はなかった。柳田国男のある文によると、「出雲大社側では『言いたいやつはそう言わせておけ』と取り合わない」とあるから、大正年間にもなかったらしい。私の知る限りでは、昭和30年代にもそういう話はなかったようで、私の家にしばらくいた松江出身の女性も、やはり出雲だけが神在月などというのは知らなかった。

 神在月、神在祭といったことは、出雲大社は「古来そうなっている」と言っているが、実際には最近になって始められたと思われる。ただし、出雲以外の地域では古くから俗説として広く信じられ、旅行が盛んになると、他郷から来る人が口々に「神在月、神在月」と言うものだから、神社側でもそれに迎合したと考えるべきだろう。

 神在祭自体も、本来は「御忌祭」というものにそう名付けたので、大神が杵築大社周辺を巡幸されるのだが、それに逢うとイケナイ(タタリがある)ので、夜間は外出を控え、物音もできるだけ立てないようにするのが習わしだそうである。実際に神在祭を見た人によると、八百万の神が集まってさぞかしにぎやかと思いきや、逆に普通のお祭りよりひっそり閑とした、異様に厳粛な雰囲気だったという。

 私は、これは出雲の大神の葬送儀礼のようなものだったのではないかと思う。昭和天皇の崩御の後、「大葬の礼が済むまで歌舞音曲のたぐいはできるだけ控えるように」と政府が言ったので、私の会社では朝のラジオ体操を取り止めたことがあった。「ラジオ体操は『歌舞音曲』なのか?」とみんなが苦笑した。

 出雲の大神は、大物主神と天照大神によって大神の地位を追われた神である。勅使参向の時には勅使から「朝廷に服従せよ」と言われ、「おとなしく服従いたします」と答えることになっているらしい。よほど威力の強い、朝廷から見て怪しい神だったのだろう。そのため毎年服従を誓わせるだけでなく、毎年滅ぼさなければならなかったのだ。それが年中行事の葬送儀礼の形になり、大神の怨霊を送るのであるから、出会ってはならないのである。


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