血液型占いの話


血液型と性格

 血液型による性格判断などは全くでたらめな話だが、意外にも日本人の大半が信じているという。私は「元祖」能見正比古氏の第一著書が発売された当時、ほぼ全部読んでみて(ただし立ち読みだが)、あまりにもバカバカしいので買わなかった思い出がある。以下、記憶にある内容で恐縮だが、この第一著作は絶版になってしまっているので、やむを得ない。国会図書館などでは保存されている可能性があるので、興味のある方は探されると良かろう。

 それによると、能見氏がこの「研究」を始めたきっかけは、若くして亡くなられた同氏のお姉さんの存在にあるそうだ。

  1. 「姉には不思議な能力があって、家に来客があると、客が帰った後で『今の人の血液型はA型ね。見ただけで分かるわ』などと言う。私は見ただけで血液型が分かるということがあるのかと不思議に思っていた」と述べていた。ただし、そのお姉さんの「診断」が当たっていたかどうかは書いてなかったように記憶している。
  2. 「その後、身の回りの人を観察していると、どうも血液型によって性格に違いがあるのではないかと思うようになった」
  3. 「しかし、大規模な調査を行ったわけではないので、手元には統計的にこうだと言い切るだけの十分な量のデータがない。そこで私の考えを広く世に問い、皆さんのご意見を仰ぎたい」

 私の考えでは、この著書に述べられた性格判断は全くの間違いだったので、放置してもどうということはない。買ってもムダである、と思っていた。もしあれを買っていたら、もっと正確な引用ができただろう。

 ところが、しばらくして第2弾が出た。そこには、氏の仮説がついに実証されたと書いてある。目を疑って、どういう方法で実証したのかと、また読んでみた。

  1. 「前著ではまだ統計データがなかったが、ついに待望した大量の統計データが手に入った。それは、前著の読者から寄せられた膨大な愛読者カードの山である。そのほとんどが、私の仮説を支持している」

 どうやら氏は、統計というものをご存じなかったらしい。愛読者カードは統計対象になる通常の母集団ではない。初めから偏ったものだということは明白だ。それを統計処理しても、何の意味もないのである。なお、この著作はまだ絶版になっていないが、改訂版になって上記の文は消えているようだ。ちなみに、晩年、氏は別の著作で次のような文章を書いている。

  1. 「先日ある会社の社長さんがやってきて、『どうも私は長い間血液型の勉強をしていますが、いまだに見ただけでその人の血液型が分かるという境地に至りません。どうしたら見ただけで分かるようになるでしょうか』そこで私は『ははは、私だって見ただけじゃ人の血液型は分かりませんよ。血液型を知る一番良い方法は、その人に聞くことです』と答えた」

 この文章、おかしくないだろうか。第一著作の「研究」の出発点、「見ただけで分かるわ」というお姉さんの言葉は、きれいさっぱり否定されているのだ。身近な人たちを「観察して」血液型と性格の間に関連があるという結論を出したというが、それならやはり「見ただけで分かる」ことになるのではないだろうか。

 第二作以降、氏は「統計的に実証済みの理論」として、自信満々で次々に著作を発表した。書かれていた内容は、おおむね最初の作と同じだったようだ。そのうち第三者による「研究結果」や、スポーツ選手など有名人の「統計データ」も現れた。有名人のデータは、標本が少なすぎ、統計は取れない。野球選手には何型が多いと言ってみても、意味はないのだ。

 やがて血液型ブームとなり、現在ではほとんど「国民的常識」の観すら呈している。ある女性はAB型だというので職場で白い目で見られるようになり、ついには解雇されたとか。行き過ぎと言うより、明らかな人権侵害である。

 欧米では、血液型が発見された当初、やはり同様の趣旨の調査が行われ、「血液型と性格は無関係」という結論が出ているようである。ただし、これは欧米人では先天的性格より、宗教習慣などに左右される率が高いので、微妙な気質の差が出にくいとも考えられる。

 だが、血液型による性格判断は、能見氏の「発見」ではなく、実は古くからあった俗説である。日本人の多くが血液に4つの型があることを知ったのは、徴兵検査だったようだ。そのとき、A型であれば軍医は「何だ、平凡だな」(日本人に多いから)と言い、O型であれば「頼もしいな」(誰にでも輸血できるから)と言っただろう。おそらくAB型には「珍しいな。得したな」(誰からでも輸血してもらえるから)とでも言ったと思う。このような輸血できるかどうかの判断が、そのまま性格の問題として受け取られ、流布したのが起源である。私の父も「AB型はお気楽だが複雑」などと言っていた。

 しかし輸血できるかどうかということが、その人の性格を決めるというのは疑わしい。第一、輸血によって赤血球を補給するときには、現在よく知られているような血液型の適合性(O型は誰にでも輸血できる、AB型は誰からでももらえるなど)があるのだが、血球を除いた血漿を補給するときは逆になる。つまり今度は、AB型の血漿は誰にでも輸血でき、O型は誰からでももらえるのだ。全血輸血の時は、同じ型でなければ具合が悪い。異型輸血ならその全血のうち、血球成分か血漿成分のいずれかが、輸血される側の血漿あるいは血球と凝血反応を起こし、重篤な障害を引き起こす可能性がある。

 いずれにせよ現在では、異型輸血は極力避けられるようになっている。だから「AB型は誰からでももらえるから利己的だ」「O型は誰にでも血をやれるから自己犠牲の精神に富んでいる」などというのは、全くの俗説だが、案外広く流布していた。能見氏の著作は、こういう俗説の上に立っている。

 私が能見氏の最初の著作を全く問題にしなかったのは、周囲の人の性格や行動を観察していて、書かれたこととの一致がほとんど見られなかったからだ。A型やO型は「体制順応的」、B型は「反抗的」と言っていたように思うが、身の回りの人を見ても、そういう結論は出そうにない。置かれた環境によって、人は順応的にも反抗的にもなり得るものである。

 自己評価に頼ったアンケート調査が多いのもいただけない。「反抗的」といっても、現実行動に出て体制をぶちこわそうとする人もあれば、たんに不満を抱いているだけという場合もある。

 私が一緒に働いていたある人は、仕事の計画性もなく、整理整頓が全くできないので、職場で一番だらしないと言われていた。だが残業して帰るときには、電車の時刻表をチェックする。本人は「ボクはA型だから几帳面」と納得していた。まるでマンガのような話なのである。全体から見るとほんの一部に過ぎない行動が血液型占いに合致したとしても、「だから当たっている」ということにはならないのだが、当人は納得していることがある。ただの思い込みで、星占いなどとあまり違わない。

 彼らが「性格」と言っている「几帳面」、「生真面目」、「積極的」、「新奇なことを好む」とかいうのも、本当に生得のものかどうかは疑わしい。多くの特性は、後天的に身に付くものである。かつては先天的だと思われていた知能も、教育環境でかなり差があるらしい。

 サティが死んだとき、葬儀のために友人が彼の家に立ち入ってみると、想像を絶するほどの乱雑さであった。ベートーヴェンの家を訪問した客も、やはり考えられる限りの最大の乱雑さであり、足に踏み場もなかったように伝えている。だがわれわれは、サティの音楽とベートーヴェンの音楽が似ているとは思わない。むしろ全く違うものだと考える。性格というより、彼らが生涯独身であったことに関係があるだろう。

 性格には、先天的に決まる部分があることは、私も否定しない。たとえば男女の差というのは、どうしようもない。性ホルモンは、心に影響する。だから女性は総じて女性的な性格だし、男性は総じて男性的な性格だ。女性は限られた領域(今までの暮らしの環境)を守ろうとし、男性は領域を拡張(新しい要素を持ち込んだり、リーダーとなって別天地を目指すなど)しようとする。それは本能的なもののようだ。血液型の遺伝子も他の遺伝子を伴っているそうで、それが性格を作る決定的なものであれば、血液型占いの理論的根拠になるところだろうが、あいにくそうではない。血液型に伴う何かホルモン・バランスの違いといった要因は見出されていないそうだ。おそらく今後も、いくら「研究」を続けても、ただの迷信以上のものは何も得られないだろう。


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