ここで紹介している作品
マタイ受難曲
カンタータ第12番
無伴奏ヴァイオリン〜シャコンヌ
































































































































































バッハ『マタイ、ヨハネ、ロ短調ミサ、クリスマスオラトリオ』リヒター(輸入盤)icon












バロック・マスターワークスicon











































バッハ『マタイ受難曲』クレンペラーicon



バッハ『マタイ受難曲』ショルティ






















バッハ・教会カンタータ全集(60枚組)レオンハルト、アーノンクールicon



バッハ「カンタータNo.10−12」アーノンクール、レオンハルト(輸入盤)icon


























リヒター『バッハ・カンタータ集』Vol.2icon





































無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲(6曲)


無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲(6曲)


無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ全曲(3曲)


無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ全曲(3曲)


無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲(6曲)



J.S.バッハ


J,S,バッハ(1685-1750)
(画像はWikipediaからいただきました)
 クラシック音楽を聴き始めて間もない頃、バッハを知った。それはユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア・オーケストラの「トッカータとフーガニ短調BWV565」である。昭和三十七年のことで、レコードは安くなかった。30センチのLPは1枚で2000円から2500円もした。いや、今も国内新譜のCDなら2800円ぐらいだ。あまり変わっているわけではない。だが当時の大卒サラリーマンの初任給は、2万円程度である。1枚が給料の1割になる。今の若い人たちはいくらもらうのか知らないが、仮に20万円とすると、CD1枚が20000円もしたという感覚だ。軽い気持ちで買えるものではなかった。

 その代わり、17cmLPというのがあった。45回転のドーナツ盤ではなく、33回転LPだ。片面10分ぐらいしか入らない。もっとも、詰め込めば片面15分入り、1枚でベートーヴェンの「運命」全曲という超長時間レコードもあった。当時は30cmLPでも両面で40分足らずしか入っていないレコードが少なくなかったので、大変なお買い得盤だったわけである。

 しかし音楽の感動はまた別である。実を言えば私は「運命」にはあまり感動しなかった。せいぜい「有名曲を聴いたぞ」という程度の感想である。むしろ「ハンガリー狂詩曲第2番」とか「マドンナの宝石」といった曲の方が好きだった。

 そんな時代に出会ったバッハの印象は、圧倒的だったと言えるだろう。巨大な建築物が崩壊するような「宿命」の響き、緻密な思索と超越的な恍惚の瞬間が明滅する。これこそ音楽だ。遠い世界からやって来る『音づれ』なのだと感じた。

 ある人は、母が死んだ後、音楽の分からなかった父親が、夜中に母の部屋にこもり、生前母の愛していた「運命」のレコード(手回し蓄音機のレコード)をかけながら、「これは哲学だ。これは哲学だ」とつぶやいていた、という回想を書いた。私はこの父親の気持ちが分かるような気がする。

 愛していたはずの妻を失う。生前彼女に「愛している」などと言ったことはない。妻が死んでも「これが運命なのかな」と、特に動揺した様子もない。だが妻の愛した音楽を、死後に聴く。そこに妻の心に響いていた音楽、決して一緒に聴いてやることがなく、「音楽なんて軟弱だ」とバカにしていたその音楽が、地の底から激しく盛り上がり、沈静化し、休みなくリズムを刻む。妻の心にあったのは、このリズムなのか?自分は彼女の好きだった音楽を通して心を理解しようとしているのか?心を理解するだと?それは哲学ではないのか?

 バッハを聴いた私の感想も、少しこれに近いものがあった。二百年以上も前に死んだ一人の傑出した楽人の音楽を聴く。音楽室の肖像画を見る限り、単なる中年オヤジなのだが、そこにこれほど激しく悲劇的な想念があったのかと驚く。だが悲劇的というのは、少し違う。それは、個人的な悲劇感情ではないからだ。何か全人類的な悲劇、崇高なものの前に立つ人間の、愚かで悲惨ではあるが真剣な祈り、願いの音楽だった。

 もう少し後で知った「マタイ受難曲」の「あわれみたまえ、わが神」は、バッハの音楽の極致である。西洋音楽三百年の頂点だと思った。バッハのメロディの多くは、心を揺すぶられはしても、決して美しくない。美しいと思ったのはヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調の第2楽章や、初期のカンタータぐらいである。有名なチェンバロ協奏曲第5番ヘ短調の第2楽章などは、心がとろけるような音楽なのに、美しいという感じがしない。少し無彩色なのだ。

 バッハは絶対的なまでに完璧な耳の持ち主であった。その意味ではモーツァルト以外には比べるものがないのだが、モーツァルトが限りなく色彩豊かな美しい音を紡ぎ出したのに、バッハの禁欲的なまでに色のない音はどうしたことだろうか。私には分からない。

 もちろん実人生においては、彼は最初の妻が死ぬとすぐに後妻を娶っている。女なしでは生きられない男だったようだ。しかし音楽にはその要素がほとんどない。むしろ厳粛さや瞑想性、秩序といったものが表面に出てくる。モーツァルトは姉のナンネルに育てられたようなところがあり、その音楽はいくらか女性的な性格を帯びていた。しかしバッハは兄に育てられた。兄によって仕込まれた音楽の理想は、構築性や名技性を重んじるものだったのだろう。

 バッハとモーツァルトの一番の違いは、バッハがエロス的な要素を抑え込んでいたことだ。近代ではバルトークやウェーベルンがそうだった。バルトークの「青ひげ」は、本来はエロティックな題材なのに、それに対する否定的な何か、最後の扉が開くか開かないかの、ぎりぎりの緊張感が表面に出ている。それでも、バルトークの書いた最も美しい音楽は「青ひげ」だ。彼はR・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」を聴いて、ショックを受けたという。音に色彩を感じていたことは確実であり、R・シュトラウスのユーゲント・シュティル的、あるいはウィーン分離派的な音の色合いは、限りない幻想をかき立てたことだろう。

 バッハは科学革命時代の音楽家である。ニュートンの数学的方法による自然哲学が一般的な思潮だっただろう。ニュートンは晩年数学的な方法で神の存在を証明しようとしたし、ライプニッツも形而上学にのめりこんだ。彼らは理性に限界はなく、絶対的実在の世界を知りうると思っていた。バッハの学歴はあまり立派なものではない。こうした新しい科学をどれほど知っていたかは疑わしい。

 昔岩波新書で出ていた宮城音弥氏の『天才』という著書に、歴史的人物の知能指数を推定するという話があった。伝記的事実などから、その人物は子供の頃、理系の科目が得意であったかどうか、学業成績は同級生に比べてどの程度であったか、などを調べて推定するのである。

 それによると、たとえばモーツァルトの知能指数は150、バッハは110と推定されるという。110と言えば平均的なレベルだ。知能について言えば140以上が天才とされる。ただし芸術的天才は別である。

 だが少年時代のバッハは、ずば抜けた秀才だったというのが真相のようだ。父母に早く死に別れ、兄に養われたという事情もあったのだろうが、大学には進めず、18才の時ワイマールで就職した。

 彼はその後音楽職人としての道を歩み、音楽の世界以外では目立った交友関係もない。後年、ライプツィヒで聖トーマス教会のカントールに就任したときには、教師を務めているが、ラテン語は教える自信がなかったらしく、人に金を払って代わってもらったそうだ。

 また遺品の中には、宗教書があったそうだが、それ以外の本はなかったらしい。優秀だったという知力は、すべて音楽に注がれたのだろうか。

 それはさておき、私の好きなバッハの作品を挙げておこう。なお私は小学館が2000年の没後250年に向けて刊行した『バッハ全集』を所有している。文中で単に『バッハ全集』と言う場合は、そのことである(その後廉価盤で出たリリングの全集も持っている)。

『マタイ受難曲』

 以前はよく「無人島の一枚」といって、「無人島で暮らすことになっても、これさえあれば寂しくない、究極のレコードは何か」という質問があった。『マタイ』は、その回答で一番多かったであろう。実は「一枚」と言いながら、CD3枚である。だが非常に浩瀚な、「バロック音楽大全」とでも呼ぶべき雄大な音楽、あの「あわれみたまえ、わが神」の悲痛ながら美しいメロディ、これこそ音楽史上最高の音楽であることを、私は疑わない。

「あわれみたまえ、わが神」は、慰謝の音楽ではない。そこには人生のすべての悔恨が凝縮しているようだ。号泣するペテロを「当然泣くべきだ」と突き放しながら、「それでも許してあげる」と言っているのである。聴くものは涙と悔いをかき立てられるだろう。音楽は少し離れて立ち、慈愛の眼差しでうなずいてくれる。「それでも」というのが音楽のメッセージのようだ。

 ある人は、この音楽を聴いた後、自殺してしまったそうだ。過去に犯してしまった罪に、限りない悔恨を覚えたらしい。だが本来、この曲は「どんなに惨めでも、まだやり直せる、やり直すために生きていなさいよ」と言っているように思う。この世に生きている限り、後悔することはある。それでも、何かそれ以上の償いができるときはあるはずだ。

 リヒターの58年録音盤。ステレオ最初期の録音(日本で家庭にステレオが普及し始めたのは60年以降)だが、非常に高い技術で録られており、今も十分な音質である。最近の古楽系演奏も『バッハ全集』のガーディナー盤、使用楽器はともかくスタイルが古楽演奏に近いリリング盤、アーノンクール盤など、いくつか聴いたのだが、あまりぴんと来ない。現代の演奏家には、リヒターの欝然とした響きとテンポが、あまりにもロマン的な演奏に聞こえるらしい。

 だが、バッハが初期ロマン派の作曲家たちに与えた影響を考えると、ロマン的要素は元々バッハに内在していると考えるべきである。

 最近は大きくテンポが揺れ動くロマン的スタイルの演奏は「正しくない」と切り捨てられる傾向があるのだが、ベートーヴェンやワーグナーの指揮振りも、テンポの変動の激しいものだったという。作曲者自身のそうした演奏を現代の評論家が聴いたら、やはり「正しくない」と言うだろうか。

 バッハのオルガン演奏を聴いた人によると、彼の演奏は「テンポが速い」という。そのせいかどうか知らないが、新しい録音は申し合わせたようにテンポが速い。

 ところがソニー=BMGの廉価盤セット『バロックマスターズ』に入っていたヨスハルト・ダウスの演奏(ただしハイライト盤)は、録音は新しいが例外的にゆったりとしたテンポで、表情もロマン的な(正しくない?)スタイルであり、なかなか聴き応えがあった。「わが神、あわれみたまえ」はリヒターより遅いテンポで、伴奏ヴァイオリンにも「あれっ?」と思わせる瞬間がある。

 今は入手できないかも知れないが、少し以前『プレスティッシッシモ』(グレーテ・ヴェーマイヤー)という面白い本があった。最近の演奏は、テンポが速過ぎるのではないか?と疑問を感じた著者が、資料をたどって速度記号についての誤解などを暴き出す。曲によっては、作曲家の意図の二倍のテンポで演奏されている可能性さえあるというのだ。

 私は、現代人の耳にはバッハ自身の演奏に「テンポが速い」という印象はないだろうと思う。要するに演奏技術の問題だ。現代でも、楽器を始めたばかりの人を集めて「ブランデンブルグ協奏曲」などを演奏させたら、まともなテンポでは演奏できないはずだ。バッハが与えられ指揮していた楽団も、半ば素人の集まりだった。彼の要求水準が高すぎたのである。

 面白いことに、このリヒター盤は、発売当時の評価は低かったらしい。「きびきびと現代的なテンポ」に違和感があり、今では常識になったノンビブラートの合唱も、素人臭い発声と思われたのだそうだ。だが年を経るにつれて評価が上がり、ついには絶対的なまでの名盤と考えられるようになった。それにしても一種独特の峻厳さはどうしたことか。

 教会カンタータ集(全75曲を録音)を聴いて思ったのだが、どうやら彼の中に、第二次世界大戦の惨禍とドイツの悲劇に対する思いがあったようなのである。マタイが録音された頃は、まだ大戦の記憶も鮮明であった。リヒターは少年時代をドレスデンで過ごしたそうだが、そのドレスデンは大空襲で徹底的に破壊された。彼はナチスについて語ったりはしなかったが、当時の大多数のドイツ人と同じように考えたとすれば、ナチスを熱烈に支持していたであろう。そうだとすると、「ドイツの栄光」が無残に崩れ去るのを目撃して、何を思っただろうか?彼の絶対に揺るがないリズムとテンポ、その中に息づく音楽的幻想の豊かさといったものは、確かに生命をかけたメッセージだったのだと思う。

 クレンペラーの61年録音。冒頭合唱は深沈としているが緊張感があり、いわゆる「だるい」演奏ではない。それどころか、リヒター盤と並ぶ名盤だ。悔恨と贖罪、救いを希求する人間の悲嘆と憧れ、といったものはリヒター盤より強く表出されているように思う。場面によっては、ほとんど「予言者的」とも言うべき独特な音楽になっている。EMIの録音は、特に大編成の曲ではあまりいい印象がないのだが、このCDはかなりいい音がすることも付記しておく。

 タワーレコードから出ているショルティ晩年の録音(87年のディジタル録音)。ショルティのバッハと聞けばあまり似合いそうにない感じを持つだろうが、リヒター盤を音だけよくしたような演奏で、テンポも表情もほぼリヒター盤に近い。ショルティは、驚異的な名録音の『指輪』で知られるようになった指揮者である。そのためか、オーケストラの機能性だけをぎらぎらと表面に押し出すような演奏家だと思われがちなのだが、実際には安心して聴けるスタンダードな演奏が多い。その意味では『指輪』だけが飛び抜けた力演で、他にはショルティでなければダメだという録音はないと言ってもいい。しかしどれも水準以上の演奏だし、優秀録音が多いので、失望することはないはずである。ただリヒターやクレンペラーのような「肺腑を抉る」とか「生命をかけた真剣勝負」といった感じがなく、ついつい聞き流してしまうのはなぜだろうか。

『カンタータ第12番「泣き、嘆き、憂い、怯え」BWV12』

 バッハのカンタータ中、最も好きな曲である。冒頭には身をよじって泣き崩れるようなシンフォニアが置かれ、続いて合唱になる。この合唱は晩年の『ミサ曲ロ短調』に転用された有名な曲である。やはり「深き淵よりわれ汝に呼ばわる」といった感じの痛切な曲だ。一言で言うならば「悲痛」ということになるだろう。「悲嘆」とか「悲惨」というのでなく、悲しみをいっぱいに湛えながら必死に耐えている、そういう精神の表面張力を感じる音楽だ。闇の中でまん丸にふくれあがって張り詰めた青い何かがある。張り詰めているのだが、針でつついた程度では弾けてしまわず、柔らかく受け止める優しさもある。

 第3曲にアルトによるレシタティーヴォがあり、第4曲アリアが続く。このアリアは終止オーボエのオブリガードに伴われ、メンデルスゾーンの詩編曲に似た感じである。ここまでは短調の曲が連続するが、第5曲は長調で明るい気分のバスのアリアになる。次の第6曲はまた短調だが、テノールのアリアで、随所に現れるトランペットのコラール旋律が印象的だ。終曲は長調のコラールで、やや救われた気分になる。

 愛聴しているのは、『バッハ全集』のレオンハルトによる演奏だ。この全集の教会カンタータには、レオンハルトとアーノンクールによる全曲録音が収録されている(ちなみに、世俗カンタータはシュライヤー)。『バッハ全集』の中核をなす部分でもあり、配本が始まったとき、ただただ驚嘆していたのを今でも憶えている。

 実はそれまで、バッハのカンタータはごく一部しか知らなかったのだ。「マタイ」や「ミサ曲ロ短調」を聞けばバッハの宗教音楽はほぼ分かる、と思っていたのに、このとき圧倒的に膨大な傑作群が姿を現した。「名曲の森」と言うのがふさわしいだろうが、森は森でも、鬱蒼とした果てしなく深いドイツの森で、その中に踏み迷ってしまうと、もはや出口を探すのも忘れて、驚異の光景がどこまでも続くのに目を見張るしかない。

 ただこの全集は、ソプラノやアルトに男声を使っている。バッハ当時はそうだった、と言えばそれまでだが、果たしてそれは本当にバッハが望んだ声だっただろうか?女声を起用した録音では、やはり華やかさが加わるし、自然な発声とアーティキュレーションで歌われる。それでこそ、本来バッハが思い描いたであろうようなニュアンスが十全に表現されると感じるのは、私だけだろうか?

 それでも、これを特に挙げるのは、ある夏に、それまで使っていたスピーカーに不満が生じ、大阪・日本橋でスピーカー選びをした時の体験からである。このCDを持って行って試聴したところ、比較試聴した2機種のいずれでも、濃紺に沈む合唱の背後にばら色(淡いピンク)の光が差しているような、まあ簡単に言うとステンドグラス的(というよりはもっと立体的)な感動を覚えたからである。「スピーカーの比較試聴」というような即物的な試みの最中に、音楽に感動してしまったのである。

 リヒター盤はやはりすばらしい。女声を起用しているので発声にも無理がないし、第3曲のレシタティーヴォなど、オーケストラが楽曲構造上の意味を超えて強烈な表情を見せる。レオンハルトをステンドグラスだとすると、リヒターは壁画、ないし油絵だということになる。テキストはあまり叙事的な要素がないので、普通は抽象的なオブジェを並べたような演奏になるのだろうが、リヒターは全体を一つの物語として表現している。

 リリング盤も悪くなかった。というより、レオンハルト、アーノンクール、リヒター、リリングといった大家・天才を前にして、私のような一介の素人が、何を言うことがあろう。言えるのは、あれが好きだ、これは嫌いだ、といった単なる好みの話である。本来は他の人に伝えなければならないようなことではない。趣味については、理屈抜きでただただ語り合うのが正しい。しかしリリングは何をやろうとしたのか、といったことなら話してもいいだろう。

 ここで感じたのは、リリングは第5曲に頂点を築こうとしたように聞こえるということである。解釈がリヒターとは根本的に違うようである。リヒター盤は第6曲に向けて音楽を積み上げていくようだ。この第6曲を普通にやると、トランペットのコラール旋律が声楽を覆い隠してしまうのである。しかしそれぐらいでなければ、救いはやって来ない。レオンハルト盤もリヒター盤も、トランペットは強いバランスで録音され、それがあたかも神の啓示のように聞こえるのだが、リリング盤だけが違う。録音上のことだろうが、トランペットの音量が非常に小さく収録され、声楽はよく聞こえる。

 バッハの受難曲やカンタータのコラールは、日本の昔の「反歌」のようなものである。先立つ歌を要約したり、歌いきれなかった感情を表現するのである。第5曲に頂点を置くと、第6曲も「反歌」になるわけで、そこで視点を変えるだけならともかく、全く新しいモチーフが現れることは避けたいだろう。それならトランペットを抑えるという選択になる。リリングのはそういう演奏だ。

『無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番ニ短調〜シャコンヌ』

 様々な編曲を施された名曲だ。よくバッハの運命の調性はロ短調と言われるが、これを聴くと、本当はニ短調こそ彼の調性だったのでは?と思う。

 このシャコンヌは、かつては難曲中の難曲と言われ、技巧だけでなく、音楽内容があまりにも深いので、平凡なヴァイオリニストでは弾きこなせないとまで持ち上げられた。だから私にとって「幻の名曲」だった時期がある。楽器(チェロ)を始めた高校生の時、真っ先に買い求めたのがリー・ポケットスコアの無伴奏ヴァイオリンおよび無伴奏チェロの入った楽譜である。同じクラブ仲間のヴァイオリンを借りて膝に乗せ、チェロスタイルに構えてこの曲を弾いてみると、言われていたほど難しいものでもない。もちろん最後まで弾き通すことはできなかったが、私が初心者レベルだったからに過ぎない。問題はやはり技巧を超えたところ、解釈と表現力にある。

 実際、まだ少女と言って差し支えないようなヒラリー・ハーンも立派に弾いているし、諏訪内晶子もチャイコフスキ・コンクールで優勝したとき、「シャコンヌで『バッハ賞』をもらった」と話していた。かつては「よほどの名人上手でなければ弾けない」などと言われた「ツィゴイネルワイゼン」なども、小学生が特に不安もなく弾きこなす時代である。

 無伴奏でポリフォニー音楽を奏するのは、バッハ時代にはそれほど珍しくなかった。有名なところでは、ビーバーの「ロザリオのソナタ」の終曲「パッサカリア」がある。このソナタ集はスコルダトゥーラ(特殊調弦)を多用して、わざわざ弾くのを難しくしているが、バロック音楽が好きな人なら必聴の名作だ。特に冒頭の曲の呪術的と言おうか、いかにも神秘的な響きは魅力である。

 それはさておき、バッハはチェンバロやオルガンだけでなく、ヴァイオリンも弾くことができたらしい。彼が最初に就職したワイマールの宮廷楽団では、ヴァイオリンまたはヴィオラを弾いていたそうだ。あるとき、オーケストラでヴァイオリンを弾いていたら、隣で別のパートを弾いていた奏者がかなり下手だったので、自分のパートはちゃんと弾きながら、その奏者のパートを口ずさんで教えてやった、という逸話がある。バッハなら上手に弾いたに違いないと思う。だけでなく、完璧な複音楽耳を持っていたという証拠でもある。

 CDでは、まずシェリングの67年録音が不動の名盤と言えるだろう。シャコンヌでは悲壮感が漂う弾き方である。

 最近世評の高いのはクレーメルの新録音盤で、すっきりと繊細に弾いているが、シャコンヌは曲集の中の一曲にすぎないようなアプローチである。

 グリュミオーは私の好きな演奏の一つで、メロディラインを重視しており、書斎でじっくりと思索をめぐらすような趣である。

 『バッハ全集』に収められたミルシテインの演奏も、秋の夕暮れ、枯れ枝に散り残った葉が夕日に赤々と照り映えるのを見ているような雰囲気があって、非常にすばらしいものだ。

 ソニー=BMGの「バロック・マスターワークスにはルドルフ・ゲーラーというヴァイオリニストの演奏が入っている。安定した技巧でなかなか美しく整った演奏だ。ただし上記の巨匠たちに比べると、あまりドラマティックな感じがない。

 ヒラリー・ハーンはゆったりしたテンポで情感のこもった演奏であり、想像力に富んでいる。楽器を超えた世界を夢想しているようだ。間違いなく秀演の一つである。

 リリングの全集には、シトコヴェツキーの演奏が入っている。3弦以上の重音を弾くときは、低い弦からアルペジオ風に弾くので、3つ以上の音が同時に鳴ることはない。普通はその音のずれをできるだけ小さくしようとするのだが、シトコヴェツキーは逆に少し拡大強調しているので、聞き慣れた響きとは違った風に響く部分があり、興味深い演奏となっている。

 バッハには他にもご紹介したい傑作が多いので、随時記事を追加して行く予定である。


とっぷ  音楽談義  モーツァルト
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