ここで紹介している作品
『ラティーナ』曽根麻也子
『バロック・デュオ・コンサート』
『トリスタンの哀歌』西山まりえ
『パーセル〜ひとときの音楽』
パーセル『ディドとエネアス』
シュッツ『十字架上の七つの言葉』








『ラティーナ』曽根麻也子icon








『バロック・デュオ・コンサート』icon


















『トリスタンの哀歌』西山まりえicon  

















『パーセル〜ひとときの音楽』icon























パーセル『室内楽全集』icon































































『ディドとエネアス』デイヴィス(輸入盤)icon















『ディドとエネアス』レッパード(輸入盤)icon



『ディドとエネアス』クリスティ(輸入盤)icon






























































シュッツ『十字架上の七つの言葉』icon


























シュッツ『カンティオネス・サクレ』淡野弓子icon


シュッツ『マタイ受難曲』淡野弓子icon

バロックの作曲家2


バロック時代2

 バロック期の作曲家は数多く、いちいち取り上げていたらきりがない。とは言え、幾人かの作曲家には、触れないではいられない。実はバロック期よりもロマン派時代の方が、本当は作曲家の数が多かったはずだと思う。ところがロマン派の作曲家といえば誰でも10人前後しか名前を挙げられない。埋もれた作曲家たちの音楽は、生き残れなかったと言えばそれまでなのだが、それでは忘却の彼方に葬り去ってもいいような、価値のない音楽だったかと言えばそうでもないと思う。

『ラティーナ』/曽根麻也子(チェンバロ)

 ソレールの『ファンダンゴ』を中心としたすばらしいCD作品である。曽根麻也子は、現在世界最高のチェンバリストと言っても過言ではない。日本の女性演奏家はすごいのだということを改めて認識させられる。

 『ファンダンゴ』は生き生きとした無窮動的な音楽で、題名は「バカ騒ぎ」とでも言った意味だ。ボッケリーニにもファンダンゴというタイトルの作品があり、そのリズムや、いかにもスペイン風の情熱を帯びたメロディなど、雰囲気は共通している。最も面白いのはこのソレールで、私の体質に合っているのか、聴いていて、この音楽がいつまでも続いて欲しい気持ちになる。


『バロック・デュオ・コンサート』(フィッシャー=ディースカウ、ジャネット・ベーカー)

 これは廉価盤で出た珍しくも地味な内容のCDだが、強烈な魅力を放つ名盤だ。曲目は作曲家がリリウス、シュッツ、シャイン、ヘンリー・ローズ、ウィリアム・ローズ、ヘンデルで、知らない名前もある。CDの帯にある「バロック名品集」というより、「埋もれた名曲集」と呼ぶべきだろう。

 歌唱は当然モダン寄りだが、二人の大歌手(ちなみに伴奏はジョージ・マルコムという大物)による万全の名演で、何気なく聴いているだけでも、うっとりしてしまう。今後これだけの企画は二度と実現しないだろう。歌詞対訳付きで、録音も1970年のライブながら、優秀である。

 このEMIの廉価盤シリーズには、他にも「ロッシーニ・マーヤベーア歌曲集」(ハンプソン)、サヴァリッシュの「ストコフスキー・トランスクリプションズ」といった掘り出し物がある。


『トリスタンの哀歌』/西山まりえ(ゴシック・ハープ他)

 これといった目的もなく買ったCDだが、出来映えのすばらしさに耳を奪われた。マショーやランディーニのヴィルレー、バラータなどが演奏(ただし歌唱はない)されており、バロックと言うよりルネッサンス音楽に属する。調律が平均律とは少し違っているようで、意識の隙間に入り込んで感覚を神秘の領域に誘う。つまり、われわれの受けてきた音楽教育による平均律的な音感と、生理的な本来の音感との間に微妙なずれがあり、神経のどこかにかさぶたになって残留していて、それをゆっくりと剥がして行くような感じである。単に古色蒼然たる中世音楽集ではない。当時の人々の思いが身近に甦ってくるようだ。「こういう音楽世界もあるのか」と驚きを味わいたい人にはお奨めである。


パーセル『ひとときの音楽』

 波多野睦美(メゾ・ソプラノ)、寺神戸亮(ヴァイオリン)他。平たく言えばバロック名曲集だが、曲目はパーセルの『ひとときの音楽』、『嘆きの歌』、『ダイドーのラメント(ディドの死)』などパーセル作品が全体の半分を占め、バッハの「マタイ」からの『わが神、憐れみたまえ』も入っている。全体に穏やかな雰囲気で、ぎりぎりと締め付けるような緊張感はない。憂いを帯びてひたすら美しく演奏され、寺神戸がリーダーを務める器楽部も繊麗である。歌唱抜きの器楽演奏もいくつか入っている。

 かつて92年だったか、大阪いずみホールで渡邊順生氏によるモンテヴェルディ連続演奏会を聴いてレベルの高い出来映えに感心したことがあるが、その後もすばらしい演奏家が続々と登場するのは、日本で古楽演奏がブームになっているのだろうか。


パーセル/オペラ『ディドとエネアス』〜「ディドの死」

 ヘンリー・パーセル(1659−1695)は若くして世を去った天才だが、生前から名声が高く、バッハやモーツァルトほどの苦闘を強いられなかったのはせめてもの幸いだ。現在でもイギリス最高の作曲家と見なされており、ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』は主題をパーセルの『ロンド(英語では“Round”)』に取っているのは有名である。ちなみにこの“Round”は、ブリリアント・レーベルで出た『パーセル室内楽曲全集』(演奏:ベルダー)の6枚目に入っている。

『ディドとエネアス』は、伝承によると、ある女子寄宿舎学校の学芸会用に作曲されたという。確かに台本はあっけなく、上演時間も1時間足らずで、外見的にはミニ・オペラとでもいうべき作品だ。しかし、『ディドの死』を聴けば、そんなものではないことを思い知らされる。これはバロック期(モンテヴェルディの『オルフェオ』に始まり、バッハの死をもって終わった時代)を通じて、最高のオペラの一つなのである。パーセルは音楽の形式云々を超えて、永遠に真実なメロディを書いた。

 このオペラの筋書きは、次のようなものである。滅亡したトロイアの王子エネアスが一時カルタゴに滞在している。彼はカルタゴの王女ディドと恋に落ちる。ところが意地悪な魔女たちが二人の仲を裂こうとして、神のお告げのような形でエネアスに「トロイア復興のため、すぐに帰国せよ」と告げる。そこでエネアスはディドに別れを告げるのだが、彼がいよいよ出発すると、ディドは悲しみのあまり死んでしまう。

 なお前記の『ひとときの音楽』の解説では、ディドは「死を選ぶ」とあり、実際そうなのかも知れないが、原曲は自殺とはしていない。ただ「今はむしろ死の方が親しい友達」などと歌っているので、選んだと解釈しても、もちろん誤りではない。

 私が思うのは、サックス博士の『レナードの朝』に登場した一人の患者の物語である。その患者は10才で嗜眠性脳炎にかかり、サックス博士がL−ドーパを処方するまで、20年以上眠っていた。かなり知性の優れた人物だったように読めるが、覚醒したとき、知識は10才のまま、肉体年齢はすでに中年に達していた。初めはそれまで知らなかったことをどんどん学ぼうとしていたのだが、やがてもう遅すぎたことを認識する。L−ドーパの投与も量の調整が難しく、過量になると苦しいそうだ。彼は自分の人生は失われたと感じるようになり、最後には涙のうちに投薬を拒否した。もう一度嗜眠状態に入ったのだが、すぐに衰弱して死んだという。「人は信じられないと言うだろうが、私は彼が悲しみのために死んだことを疑わない。誰が何と言おうと、人は悲しみだけで死ぬことがあるのだ」とサックス博士は言う。

 曲は全体に短調の分量が多く、短調8割、長調2割というところか。清楚で憂いに満ちた音楽の中に、ほんの少し喜びの表現がある。『ディドの死』の場面はほぼハ短調で書かれたレシタティーヴォで始まり、やがて半音階下降に導かれたト短調のアリアになる。伝承の通り女子寄宿舎学校で上演されたとすれば、女学生たちも「ステキ」と思ったのではないだろうか。当時の女性は苛酷な社会常識の中で生きて行かねばならなかった。いや、現代もあまり当時と変わっていないかも知れない。

 デイヴィス/アカデミー=Veasey(メゾ・ソプラノ)。71年録音である。この歌手は、日本ではあまり有名ではないので、カナ表記ではどう書くのか分からない。ヴィージーとでも表記するのだろうか。すばらしい歌唱で、かつてレコードで聴いたときは、涙を催したほどだった。300年の時を超えて、直接にわれわれの肺腑を抉る、感動的なメロディだ。ここでのデイヴィスの演奏は、弦楽器のアタック(音の頭)の強い現代奏法である。古楽奏法の場合は、アタックを弱くして、後に続く持続音を徐々に強くするのだ。その結果、倍音成分は、持続音部分で夢が広がるように、徐々に強く出てくる。それも悪くはないが、現代奏法で描かれたパーセルの音楽は、精彩のある生き生きしたリズムを持ち、大変感動的である。デイヴィスの録音はしばしば無彩色に聞こえるのだが、ここでは色彩感の濃厚な音がしている。最新録音と比べても悪くはない。この盤が私のベスト・ワンだ。

 レッパード/イギリス室内管=トロヤノス(メゾ・ソプラノ)。77年録音。デイヴィス盤によく似た演奏である。Veaseyの噴き上げるような激しい表現と違って、やや抑えてなめらかに歌おうとしている。

 クリスティ/レザール・フロリザン=ローレンス。古楽奏法である。ディドの死の場面は、可愛く演じられ、いかにも儚かった王女の歌である。あまり切実ではなく、すべてが夢のうちに終わるようだ。音も美しいが、全体に白っぽい。言ってみれば石膏像と大理石像が立ち並んだような感じだ。

シュッツ『十字架上の七つの言葉』

 ハインリヒ・シュッツ(1585−1672)はヘルマン・シャインやザムエル・シャイトと共に『3S』と呼ばれ、ほぼ同時期に活躍した。イタリアでジョヴァンニ・ガブリエリとモンテヴェルディに学んだというから、当時のドイツでは大変な「学歴」の持ち主であった。

 皆川達夫氏の指摘によると、音楽史はほぼ200年ごとに中心地を移動しているという。始まりはパリ・ノートルダム楽派ということになるが、1200年頃、ノートルダム寺院の音楽僧(?)が作曲を始めた新しい音楽(アルス・ノーヴァ)である。中世盛期までパリを中心に音楽が栄え、約200年後、中心地はフランドルに移る。これがルネッサンス音楽であり、教会旋法を基にしながらも、調性音楽の基本が築かれた。たとえば1450年頃(グーテンベルクの印刷機と同時期)作曲されたデュファイのミサ曲「ス・ラ・ファス・エ・パル(もしも顔が青いなら)」は、ほぼ長調の下降音階で始まる。その後1600年になると、今度はイタリアが音楽の中心地になる。そして1800年頃、「英雄」交響曲の登場によってドイツがヨーロッパ音楽の中心となるまで、ほぼ200年間はイタリアが中心であった。

 もちろん歴史は多層的であり、イタリア・トレチェント(1300年代)の音楽は、中世ともルネッサンスとも見なしうる。それどころか、ノートルダム寺院の建設開始の頃(1100年頃)に図書館建設などヨーロッパにおける「知の爆発」が始まっていたので、これを「12世紀ルネッサンス」と呼ぶ人もある。

 いずれにせよ、シュッツの頃には、まだイタリア音楽こそ音楽の本流だという考えがあったわけで、明治時代の日本人画家がパリで学んで帰国すると、「パリ帰りの画家」と、大した権威のように言ったのと同じようなものだっただろう。外国崇拝は日本人特有の症状ではない。多かれ少なかれ、人間はどこか遠いところに答を求めようとするものだ。もちろん、自分の狭い知識範囲に閉じこもるのは、しばしば独善に陥るものだから、決して間違った考えでもない。

 シュッツの作品数は400曲ほどあるという。バッハの作品にBWV番号が付いているように、シュッツにはSWV番号が付けられており、『ダヴィデの詩編曲集』や『ガイストリッヒェ・コーアムジーク』などの曲集は、収められた曲ごとに番号が付けられている。『十字架上の七つの言葉』(単純に『七言:しちげん』と略して呼ぶこともある)は、独唱、合唱、器楽合奏から成るオラトリオである。どういう機会に作曲演奏されたのかは定かでない。ヘンデルのオラトリオは、教会の定めでオペラなど世俗的な作品の上演が禁止される期間に、代わりの娯楽として、時には劇場で上演されたというが、シュッツの頃にはまだそういうことはなく、教会で演奏されただろう。

 淡野(たんの)弓子=ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京。手持ちのCDは、これだけである。淡野は現在の世界のシュッツ演奏家の中でもトップクラスの解釈者だ。思い入れが強いというか、表出力が強いというか、人によっては鬱陶しく感じる人もいるだろうが、私はこれこそシュッツだと思う。

 ホグウッドの名著『ヘンデル』に、こういうエピソードがある。ヘンデルがイタリア旅行したおり、コレルリに面会した。コレルリは自分の音楽を披露した後、ヘンデルに「あなたもチェンバロの名手だと伺っています。何か弾いてくださいませんか」と言った。そこでヘンデルがチェンバロを弾いたが、そこで展開された激情の嵐に、コレルリは椅子からずり落ちんばかりに驚いたというのである。「それにしても、なぜザクセン人はあれほど激しい演奏をするのだろう」と述懐したそうだ。

 われわれからすると、ヘンデルはそれほど激しい音楽ではないように聞こえ、もしコレルリがバッハを聴いたら、驚きはもっと大きかっただろうと思う。だが、ドイツ人の内面には、そうした側面が先天的にあったとも言える。それがロマン派の時代になって、ドイツが世界の音楽の中心になった理由でもあるという気がする。

 つまりシュッツの音楽にも、一見静かな佇まいの中にドイツ的情念が潜んでいて、それを余すところなく表出しているのが、淡野の演奏である。このCDには名作『ムジカーリッシェ・エクセクヴィエン』(音楽による葬送:もう少し分かりやすく言えばドイツ・レクィエム)も入っていて、なかなかお買い得のように思う。

 なお、淡野のシュッツでは、『カンティオネス・サクレ』と『マタイ受難曲』も所有している。『カンティオネス・サクレ』は『七言』と同じようにすばらしいが、『マタイ』は、イエスの声が私の好みではない。少しデロリとした、中年男の体臭がするような感じだった。もちろんこれはこれで好きな人もいるだろうから、「悪い」と言うつもりはない。


とっぷ  音楽談義  バッハ
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