本居宣長『古事記伝』(現代語訳)44_6

 

 

 

 

橘豊日命。坐2池邊宮1。治2天下1參歳。此天皇。娶2稻目宿禰大臣之女。意富藝多志比賣1。生御子。多米王。<一柱>又娶2庶妹間人穴太部王1。生御子。上宮之厩戸豊聰耳命。次久米王。次植栗王。次茨田王。<四柱>又娶2當麻之倉首比呂之女1。飯女之子。生御子。當麻王。次妹須賀志呂古郎女。

 

訓読:タチバナのトヨヒのミコト、イケノベのミヤにましまして、みとせアメノシタしろしめしき。このスメラミコト、イナメのスクネのオオオミのみすめ、オオギタシヒメをめして、ウミませるミコ、タメのミコ。<ひとはしら。>またままいもハシビトのアナホベのミコにみあいまして、ウミませるミコ、ウエノミヤのウマヤドのトヨトミミのミコト。つぎにクメのミコ。つぎにエクリのミコ、つぎにマンタのミコ。<よはしら。>またタギマのくらびとヒロがむすめ、イイメのコをめして、ウミませるミコ、タギマのミコ、つぎにいもスガシロコのイラツメ。

 

口語訳:橘豊日命は、池邊宮に住んで、三年間天下を治めた。この天皇が稻目宿禰大臣の娘、意富藝多志比賣を娶って生んだ子は多米王。<一人である。>また庶妹の間人穴太部王を娶って生んだ子が、上宮之厩戸豊聰耳命、次に久米王、次に植栗王、次に茨田王。<四人である。>また當麻之倉首比呂の娘、飯女之子を娶って生んだ子が當麻王、次に妹の須賀志呂古郎女。

 

真福寺本には、この初めに「弟」とある。また「命」の字を「王」と書いている。○この天皇の後の漢風諡号は用明天皇という。○池邊宮は「いけのべのみや」と読む。【和名抄に讃岐の国の郷の名、「池邊は『いけのべ』」とある。これは傍らの例である。ただし「べ」の清濁はどうであろうか。】和名抄に「大和国十市郡、池邊郷」の地である。万葉巻七【二十七丁】(1276)に「池邊小槻下(いけのべのおつきがもと)」とあるのはこの地か。【巻八(1650)に「西之池のほとりにましまして云々」、これは単に池のほとりである。その歌も同じだ。池上眞人、池邊直などという姓は、この地から出たのだろう。】この地名は石村(いわれ)池のほとりなのでこういう名になったのだろう。石村池は、書紀の履中の巻に「二年十一月磐余の池を作る」と見え、継体の巻の歌、万葉巻三(416か?)にも見える。なお石村のことは前に出た。【伝卅八の二葉】書紀に「十四年秋八月、淳中倉太珠敷天皇が崩じた。九月甲寅朔戊午、天皇は磐余で位に就いた。名付けて池邊雙槻宮(いけのべのなみつきのみや)と言う」、続日本紀五に「石村池邊の宮で天下を治めた聖朝」、廿八に「池邊の雙槻宮で天下を治めた」などが見える。【「雙槻」とは、この地に大木の槻が二本植わっていたので宮の号になったのだろう。大和志に「この宮は今の安部の長門邑というところだ」と言う。また石寸(いわれ)の山口神社も長門邑にあって、今は雙槻神社という。ある書にこの宮を高市郡と言っているのは誤りだ。】○參歳(みとせ)。【真福寺本には「參」を「三」と書いている。】この年数は【書紀と一年違う。】位に就いた時から数えたものだろう。○稻目宿禰大臣(いなめのすくねのおおおみ)。【真福寺本には「宿禰」の二字がない。】前に出た。【伝この巻の卅九葉】○意富藝多志比賣(おおぎたしひめ)。名の意味は師木嶋の宮の條で、岐多志比賣のところに言った通りだ。「意富」は「大」である。この名に疑いがあるのは、それと同じ名で、こちらは「大」と言っているのは、姉のように聞こえるが、そちらが妹で父の天皇の妃、こちらは姉でその子の妃であるのは奇妙である。書紀にはこの名は「石寸名」とある。【「石寸」は「いしき」か「いわれ」か。「石村」も古い書物には「石寸」と書くことが多かった。ただし書紀には石村をみな磐余と書いているが、これは人の名だから、古い書物に出ているのをそのまま書いたのか、定かでない。すべてかの紀の地名・人名などの用字は、こういうたぐいの紛らわしいことが多い。】○多米王(ためのみこ)。敏達天皇の子に同じ名がある。書紀に「蘇我大臣稻目宿禰の娘、石寸名を嬪とし、生んだ子が田目(ため)皇子【またの名を豊浦皇子】」とある。○間人穴太部王(はしびとのあなほべのみこ)。前に出た。○上宮之厩戸豊聰耳命(うえのみやのとよとみみのみこ)。「上宮」は書紀の推古の巻に「父の天皇は子を可愛がって、宮の南の上殿に住まわせた。そこでその名を称えて『上宮』という」とあるのによると、大宮の南に別に上の宮という宮があって、【「上殿」と書かれたのは文である。「宮の南」とあるからには、別の宮であることは明らかである。】それは殊にまさったやんごとない宮だったから「上宮」と名付けられたのだろう。それで後世まで残って、地名になった。書紀のこの巻に「初め上宮に住んで、後に斑鳩に移った」とあるのは、後に地名になったのを前に及ぼして言っている。【文の様子からすると、単に宮を指して言っているのではない。】この地の名は今も残って、十市郡に「上宮村」がある。【池邊宮の地に近い。】「うえのみや」と読む。とするとこの名もそう読むべきだ。【書紀で「かむつみや」と読むのは、字の通りに読んでいるので、この地名を尋ねての読みではない。一般に今の世に残ったいにしえの地名は、自然と訛ったのは多いが、「かむつみや」を変えて「うえのみや」というような例は滅多にないので、初めから「うえのみや」と言ったのだろう。ただしもとは「上國(うえつくに)」などのように「うわつみや」と言ったのを今は「うえのみや」と言うようなことは、ないことはない。いにしえに「つ」と言ったのを後に「の」ということは多いからである。この宮のことを太子傳暦に「今言う坂田寺がその宮である」と言っているのはどうだろうか。坂田寺は書紀のこの巻や推古の巻に「南淵の坂田寺」とあって、その寺は高市郡坂田村にある。池邊宮より南の方ではあるが、やはり上宮村こそその跡だと思われる。】「聰耳」は「とみみ」と読む。「利」の意味だ。新撰字鏡に「聆は『とみみ』、また『みみとし』」とある。【日本紀竟宴和歌にこの太子を詠んだ歌に「登與止美己(とよとみこ)」とある「美己」は「美々」を誤ったのだろう。続日本後紀四に「矢田部造聰耳」という人名も見える。】書紀の推古の巻に「元年夏四月、厩戸豊聰耳皇子を立てて皇太子とした。そこで政を摂らせ、あらゆることを委ねた。橘豊日天皇の第二子で、母は皇后の穴穗部間人皇女である。皇后は懐妊分娩の日、禁中を巡行して諸司を監察し、馬の司に至って厩戸の前で苦しむことなく子を生んだ。【このときは用明天皇がまだ皇位になかったので、諸司を監察というのはどうか。思うにこれは何となくそのあたりへ行った時のことを言うのだろう。】生まれた時から物を言い、聖智があった。壮年におよんで十人の訴えを一度に聞いて、過たず聞き分けた。よく未来のことを察知した。また内教を高麗の僧惠慈(えじ)に習って、外典を博士覚煤iかくか)に学んだ。ともに悉く覚った。父の天皇は特に愛して、宮の南の上殿に住まわせた。そこでその名を称えて上宮厩戸豊聰耳命という。【日本霊異記に「聖徳太子は三つの名がある。一つは豊聰耳、二つは聖徳、三つは上宮である。厩戸に向かって生まれたので厩戸という。天の流れを生まれながらに知っていた。十人が一度に訴えたのを一言も誤らずによく聞き分けた。それで豊聰耳という。進みとどまる振る舞いの威儀が僧に似ていて、勝鬘経、法華経などの經疏を著し、法を広めるのに役立てた。孝積、勲功の階を定めた。そこで聖徳という。天皇の宮の上殿に住んだ。そこで上宮皇という」。】九年、皇太子は初めて斑鳩に宮室を作り、十三年間斑鳩宮に住んだ。二十九年春二月己丑朔癸巳、夜中に斑鳩宮で薨じた。・・・この月上宮太子を磯長陵に葬った」とある。【扶桑略記に「二月廿二日に薨じた。年は卅九」とある。書紀の癸巳は五日だから、廿二日は異説である。また年卅九では合わない。卅は四十(卅に一本多い)の誤りだろう。ある書に四十九とある。】諸陵式に「磯長の墓は、橘豊日天皇の皇太子、名を聖徳という。河内国石川郡にある。兆域は東西三町、南北二町、守戸三烟」とある。【河内志に「石川郡叡福寺、山号は科長、また御墓山という。厩戸太子の墓があるのによる。墓の上に小堂を建て、石の柵を廻らしてある。云々」と言っている。「上の太子」というところである。】○久米王(くめのみこ)。乳母の姓か。新撰姓氏録に「久米朝臣」、「久米臣」、「久米直」などがある。また地名でもあるだろう。【高市郡】書紀の推古の巻に「十年、來目皇子は新羅を討つ将軍となった。十一年春二月、來目皇子は筑紫で薨じた。・・・後に河内埴生山の岡の上に葬った」とある。【続日本紀廿八に「参議従三位山村王が薨じた。橘豊日天皇の皇子、久米王の子孫である」、新撰姓氏録に「登美眞人は、諡用明の皇子、春日王から出た」とある春日王を、一本には來目王とある。これは來目を春日に写し誤ったのか。また敏達を誤って用明とした伝えでもあるだろう。それなら來目とは、後にさかしらに改めたのだろう。登美眞人の初めは、続日本紀四十に見える。】○植栗王(えくりのみこ)。新撰姓氏録に「殖栗連」がある。それとも地名か。延喜式神名帳に「城上郡、殖栗神社」がある。【書紀の天武の巻に同じ名が見える。】新撰姓氏録に「蜷淵(みなぶち)眞人は、諡用明の皇子、殖栗王から出た」とある。○次茨田王(つぎにまんたのみこ)。この四字は諸本で落ちている。ここは延佳本で書紀によって加えているのによった。四柱とあるので、落ちたことは明らかだからだ。継体天皇の子に同じ名がある。【茨田郎女】書紀に「元年、穴穗部間人皇女を立てて皇后とした。四男を生んだ。一は厩戸皇子、【またの名は耳聰聖徳(みみとしょうとく)、あるいは豊聰耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)、あるいは法主王(のりのうしのみこ)という。】この皇子は初め上宮に住み、後に斑鳩に移った。豊御食炊屋姫天皇の世になって、東宮(皇太子)の位に就いた。すべて天皇の行うことを行った。話は豊御食炊屋姫天皇の紀にある。その二は殖栗皇子、その四は茨田皇子という」とある。○當麻之倉首比呂(たぎまのくらびとひろ)。「當麻」は姓、【大和国葛下郡の當麻から出た姓だろう。】「倉首」は尸である。「くらびと」と読む。【復姓ではない。「くらのおびと」と読むのは間違いだ。】この尸の例は、天武紀に「次田の倉人(くらびと)、椹足(むくたり)」、続日本紀二に「春日の倉首(くらびと)、老(おゆ)」【万葉巻一(56、62)にも見える。】十一に「河内の藏人(くらびと)、首麻呂(おびとまろ)」、廿七に「春日の倉毘登(くらびと)、常麻呂」、廿九に「白鳥の椋人(くらびと)、廣(ひろ)」、卅に「秦の倉人、呰主(あたぬし)」、万葉巻十九に「高安の倉人、種麻呂」などが見え、新撰姓氏録にも「池上(いけのべ)の椋人」、「河原の藏人」、「日置の倉人」などがある。【字は色々に書いてあるが、みな同じ尸である。】「首」を「びと」と読むのは、「お」を省いたのであって、「おびと」の意味だ。【この尸は、「人」と書いたのも「首」の意味である。首を「ひと」と言って、「人」の字を書いた例は天武紀に「忌部の首、子首(こびと)」、「三輪の君、子首」などを「子人(こびと)」とも書いている。また続日本紀卅に「去る天平宝字九年、首・史(おびと・ふびと)を改めていずれも「毘登(ひと)」としたところ、かれこれ分けがたく、氏族が混雑して穏やかならざることになった。本の字に従うこと」とあり、これも「首」を「びと」という例である。ところでこの文に「天平宝字九年」とあるのは「五年」の誤りである。天平宝字五年からこのときまで、首の尸も史の尸も「ひと」と記してある。】この「倉首」という尸は、もともと倉のことに仕えていたことから起こった。その起こりは古語拾遺に見える。「比呂」は名である。○飯女之子(いいめのこ)。【真福寺本には「女」の字がない。また師(賀茂真淵)は「之子」の二字は衍字だろうと言った。】名の意味には特別なことはない。書紀では父の姓名も違い、この名も「廣子(ひろこ)」とある。【この記、真福寺本に「女」の字がないことから考えると、「いいのこ(旧仮名イヒノコ)」と「ひろこ」とは近い。また父の名「ひろ」とこの名と、かれこれ紛れがあったのだろう。】○當麻王(たぎまのみこ)。地名か。【母の姓であれば、そこに住んだのだろう。】または母の姓を取ったのか。書紀には「麻呂子皇子」とあって、推古の巻十一年のところに「來目皇子の兄、當麻皇子を新羅を討つ将軍とした。云々」とあるのはこの王である。【とするとこの巻に「またの名は當麻皇子」とあるべきところが、漏れたのである。】新撰姓氏録に「當麻眞人は、用明の皇子麻呂古王の子孫である」とある。○須賀志呂古郎女(すがしろこのいらつめ)。【「賀」の字は、真福寺本では「加」と書いてある。】「清白子」の意味か。【記中、白・黒の「ろ」には「漏」、「路」を用いているから、ここは別の意味か。】書紀には「酢香手(すかて)」とあるから、「志呂」は「代」か。【「代」を「て」という例がかれこれあるからである。】書紀に「葛城直、磐村の娘、廣子は一男一女を生んだ。男を麻呂子皇子と言い、これは當麻公の先祖である。女を酢香手姫皇女と言い、三代を経て日神に仕えた」、また天皇即位の月、「酢香手姫皇女を伊勢神宮に遣わし、日神を祀らせた」【この皇女はこの天皇の時から、炊屋姫天皇の世に至るまで、日神の祀りを行い、みずから葛城に退いて薨じた。炊屋姫の天皇紀に見える。ある本にいわく、三十七年間日神の祀りに携わり、自ら退いて薨じた。】」とある。【この王が三代の間伊勢の齋王だったのは、父の天皇が崩じた時も退かなかったのである。これから見ても、いにしえには「服(天皇の死などに当たって齋王が退くこと)」ということがなかったことを知るべきである。】○前の例からすると、ここに「二柱」という細注があるところだが、諸本にない。

 

此天皇。御陵在2石寸掖上1。後遷2科長中陵1也。

 

訓読:このスメラミコト、みはかはイワレのイケノベにありしを、のちにシナガのナカのミササギにうつしまつりき。

 

口語訳:この天皇の御陵は磐余の池邊にあったのを、後に科長の中の陵に遷した。

 

此天皇(このすめらみこと)のところに、旧印本真福寺本、また一本などに「乙未年四月十五日崩」という例の細注がある。【旧印本では本文である。】年と月は書記に合っている。日は合わない。【癸丑は九日である。】書紀に「二年夏四月乙巳朔癸丑、大殿で崩じた」とある。ある書に年六十九と言っているのは、年紀が違う。○石寸掖上(いわれのいけのべ)。【「寸」の字は旧印本で「才」に誤っている。】「寸」の字は「村」の偏を省いたので、石村である。【このことは伝卅八の二葉で言った。】「掖」は書紀によると、「池」の字を写し誤ったのだ。【ただしこの記でも書紀でも、大宮の号には「邊」の字を書いているのに、ここは字を変えて「上」の字であるのは、その地名とは異なり、単に石村の池の上(ほとり)ということだろうか。】石村に掖上という地は聞きつけない。【葛城に「掖上」というところはあって、前に出た。】書紀に「二年・・・七月甲戌朔甲午、磐余池上陵に葬った」とある。大和志に「十市郡石寸の腋上の荒陵は、谷・長門の二邑の境にある」とある。○科長中陵(しながのなかのみささぎ)。「科長」は前に出た。書紀の推古の巻に「元年秋九月、橘豊日天皇を河内の磯長陵に改葬した」、諸陵式に「河内の磯長原の陵は、磐余の池邊の列槻宮で天下を治めた用明天皇である。河内国石川郡にある。兆域は東西二町、南北三町、守戸五烟」とある。「中」とは、この御陵が敏達天皇の御陵と、推古天皇の御陵との間にあるので、後に分けて言うのだろう。【諸陵式にはこの御陵を「磯長原の陵」とあるのに、石姫皇女の墓も「磯長原の墓」とあり、それは敏達天皇の御陵と同じ域内にあるが、敏達天皇の御陵は「磯長の中尾の陵」とある。これで考えれば、ここの「中」も「中尾」で、「尾」の字が落ちたのだろうか。いささか紛らわしい。太子傳暦にはこの御陵も「中尾山陵」とあるけれども信じがたい。この天皇を「二年秋七月、天皇を河内科長の中尾の山陵に葬った」とあるのも、改葬であることを知らない誤りだ。】前皇廟陵記に「あるいは春日村にあると言う、上の太子の墓は山の辰巳五、六町ばかりのところにある」と言っている。【大和志にも「春日村にある」と言う。】

 



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