『古事記傳』21−5


秋津嶋の宮の巻【孝安天皇】


大倭帶日子國押人命。坐2葛城室之秋津嶋宮1。治2天下1也。此天皇。娶2姪忍鹿比賣命1。生御子。大吉備諸進命。次大倭根子日子賦斗邇命。<二柱。自レ賦下三字以レ音>故大倭根子日子賦斗邇命者。治2天下1也。天皇。御年壹佰貳拾參歳。御陵在2玉手岡上1也。

訓読:オオヤマトタラシヒコクニオシビトノミコト、カツラキのムロのアキヅシマのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、ミめいオシカヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、オオキビノモロススミのミコト。つぎにオオヤマトネコフトニのミコト。<ふたばしら。>かれオオヤマトネコフトニのミコトは、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、みとしモモチマリハタチミツ。みはかはタマデのオカのエにあり。

口語訳:大倭帶日子國押人命は、葛城の室の秋津嶋の宮に住んで天下を治めた。この天皇が姪の忍鹿比賣命を妻として生んだ子は、大吉備諸進命、次に大倭根子日子賦斗邇命<二柱>である。後に大倭根子日子賦斗邇命は天下を治めた。この天皇は、百二十三歳で崩じた。御陵は玉手の岡の上にある。

この天皇の漢風諡号は孝安天皇である。○室(むろ)は和名抄に大和国葛上郡牟婁郷があり、これである。今も室村があり、また三室村もある。書紀の履中の巻に「掖の上の室の山」とあるのもこれだ。○秋津嶋宮(あきづしまのみや)。書紀に「二年冬十二月、都を室に遷した。これを秋津嶋の宮という」とある。この名は、同書の~武の巻に「天皇は出かけたついでに腋の上のホホ(口+兼)間(ほほま)の丘に登り、国の形を見回して、・・・『蜻蛉が交尾しているような形だなあ』と言った。秋津嶋という名はこれから起こった」とあるのが、誰でも大倭一国のことと思うが、あるいはこの掖上あたりの地形を見て漏らした感想かも知れない。【古くは郡、郷なども国と言うのが普通だったから、「国の形を見回して」とあったとしても、おかしくはない。】そうだとすると、秋津嶋というのは元からここの地名だったのが、この天皇が百年以上も宮としていたため、おのずと倭国の総称になったのだろうか。【師木嶋(しきしま)と同じ。】また上記の故事を倭国全体のこととすれば、この宮の名は、その故事があった地だから名付けたのだろうか。いずれにせよ、その故事に因む名である。○姪(ミめい)は和名抄に「姪は釋名にいわく、兄弟の娘を姪という。和名『めい』」とある。「めい」とは「女甥(めおい)」の意味だろう。○忍鹿比賣命(おしかひめのみこと)。この名の「鹿」の意味は分からない。書紀には「二十六年春二月己丑朔壬寅、姪の押媛(おしひめ)を立てて皇后とした。一説に、磯城縣主葉江の娘、長媛だという。また一説に十市の縣主、五十坂彦(いさかひこ)の娘、五十坂媛だともいう」とある。孝霊の巻には「母は押媛という。おそらく天足彦國押人命の娘ではないだろうか」とある。【このように疑って書いているのは、天皇の兄弟が天押帯日子命しかいない以上、姪とすればその娘に違いないが、誰の娘とも伝わっていないので、はっきりと決められないからだ。】○大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)。【「進」を師(賀茂真淵)は「すみ」と読んだが、やはり「すすみ」だろう。】この御子は書紀に見えないが、これは孝霊天皇の皇子「比古伊佐勢理毘古(いこいさせりびこ)命、またの名大吉備津日子(おおきびつひこ)命をこの天皇の御子とでも伝え誤ったのか。というのは、この子に「吉備」という名を付ける理由がなく、また「進」も「伊佐勢理」と同意だからである。【そのことは、そこで言う。】○大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)。この名の意味は、「根子」は尊称で、景行天皇の子にも「倭根子命」という名がある。凡人でも記中に難波根子、書紀の神功の巻に山背根子などの名がある。天皇は大倭国を治めるので、倭根子と言うのだ。そのためこの名は、これを初めとして、孝元、開化の二人、また清寧・元明などの名にも入っている。【光仁から仁明までの天皇の諡号には、みなこの名が入っている。】すべて御代御代の天皇の通名として、詔などにも「倭根子天皇」と言う。【孝徳紀大化二年の詔勅に「明神(あきつかみ)としろしめす日本倭根子(にほんやまとねこ)天皇が詔して云々」、天武紀十二年の詔に「明神と大八洲(おおやしま)しろしめす日本根子(やまとねこ)天皇の勅命を云々」、続日本紀一の詔に、「現御神(あきつみかみ)と大八嶋國(おおやしまぐに)しろしめす倭根子天皇命云々」などの例がある。】「賦斗邇」は書紀に「太瓊」と書いてある字の意味ではないだろうか。【「邇」には他の意味もあるかと考えたが、今のところ思いつかない。】書紀には、「皇后は大日本根子比古太瓊(おおやまとねこひこふとに)天皇を生んだ」とだけあって、大吉備諸進命はない。○御年壹佰貳拾參歳(みとしモモチマリハタチミツ)。書紀には「百二年春正月戊戌朔丙午、天皇は崩じた」とだけあって、年齢の記載はない。【ただし父の天皇の六十八年に、「皇太子を立てた。年二十」とあるから、百三十七歳ということになる。】本によっては百三十七とも百二十七ともいう。○玉手岡(たまでのおか)。書紀の孝霊の巻には、「百二年春正月、日本足彦國押人天皇が崩じた。秋九月甲午朔丙午、玉手の丘の上の陵に葬った」と見え、諸陵式に「玉手の丘の上の陵は、室の秋津嶋の宮で天下を治めた孝安天皇である。大和国葛上郡にあり、兆域は東西六町、南北六町、守戸五烟」とある。今も玉手村というところがあり、御陵もある。前皇廟陵記に「玉手村がこれである。室村の西北、河の東にある」と言い、大和志には「玉手村にある。陵の南に天神の祠があり、小さな塚が二つ、村の中にある」という。【河内国安宿郡にも玉手という地名がある。前に述べた。書紀の仁徳の巻に「四十年、佐伯の直、阿俄能胡(あがのこ)という人が、自分の土地を公(朝廷)に献じ、雌鳥皇女(めどりのみこ)の玉を盗んだ罪をあがなった。その土地を玉代(たまで)と名付けた」とある。これはどこのことか、定かでない。ただし安寧天皇の名の玉手は河内国のことと思われるので、これは仁徳天皇の頃付いた名ではないだろうが、陵の名などは後の地名で呼ぶこともあるから、この玉手だろうか。さらに考察の必要がある。また天智紀の童謡に「多麻提能伊へ(革+卑)能(たまでのいえの)」とあるのも、どちらか分からない。】

 


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