『古事記傳』21−5


黒田の宮の巻【孝霊天皇】


大倭根子日子賦斗邇命。坐2黒田廬戸宮1。治2天下1也。此天皇。娶2十市縣主之祖大目之女名細比賣命1。生御子。大倭根子日子國玖琉命。<一柱。玖琉二字以レ音>又娶2春日之千千速眞若比賣1。生御子。千千速比賣命、<一柱>又娶2意富夜麻登玖邇阿礼比賣命1。生御子。夜麻登登母母曾毘賣命。次日子刺肩別命。次比古伊佐勢理毘古命。亦名大吉備津日子命。次倭飛羽矢若屋比賣。<四柱>又娶2其阿礼比賣命之弟蠅伊呂杼1。生御子。日子寤間命。次若日子建吉備津日子命。<二柱>此天皇之御子等并八柱。<男王五女王三>

訓読:オオヤマトネコヒコフトニのミコト、クルダのイオドのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、トオチ(旧仮名トホチ)のアガタヌシのオヤ、オオメのむすめ、ナはクワシヒメのミコトをめして、ウミませるミコ、オオヤマトネコヒコクニクルのミコト。<ひとはしら>またカスガのチヂハヤマワカヒメをめして、ウミませるミコ、チヂハヤヒメのミコト。<ひとはしら>またオオヤマトクニアレヒメのミコトにみあいましてウミませるミコ、ヤマトトモモソビメのミコト。つぎにヒコサシカタワケのミコト。次にヒコイサセリビコのミコト、またのみなはオオキビツヒコのミコト、つぎにヤマトトビハヤワカヤヒメ。<よばしら>またそのアレヒメのミコトのミいろど、ハエイロドにみあいまして、ウミませるミコ、ヒコサメマのミコト、つぎにワカヒコタケキビツヒコのミコト、<ふたばしら>このスメラミコトのミコドモあわせてヤバシラませり。<ヒコみこイツバシラ、ヒメみこミバシラ>

口語訳:大倭根子日子賦斗邇命は、黒田の廬戸宮に住んで天下を治めた。この天皇が十市の縣主の祖、大目の娘、細比賣命を娶って生んだ子が大倭根子日子國玖琉命<一柱>である。また春日の千千速眞若比賣を娶って生んだ子が千千速比賣命である。<一柱>また意富夜麻登玖邇阿礼比賣命を娶って生んだ子が夜麻登登母母曾毘賣命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比賣である。<四柱>またその阿礼比賣命の妹、蠅伊呂杼を娶って生んだこが日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命である。<二柱>この天皇の御子は合わせて八柱だった。<男王が五柱、女王が三柱>

この天皇の漢風諡号は孝霊天皇という。○黒田(くるだ)は和名抄に「大和国城下郡黒田郷は『くるだ』」とあるのがそうだろう。今も黒田村がある。【出雲国風土記に「意宇郡黒田驛は土の色が黒いので黒田という」とある。この例からすると、ここもそういう意味の名か。】○廬戸宮(いおどのみや)。この宮址は、大和志に「宮古(みやこ)村と黒田村の間にある都杜(みやこのもり)だ」とある。書紀には「日本足彦國押人天皇の百二年、冬十二月癸亥朔丙寅、皇太子は都を黒田に遷した。これを廬戸の宮という」とある。○十市縣主(とおちのあがたぬし)。十市は和名抄に「大和国十市郡は『とおち(旧仮名トホチ)』」とあるのがそうだ。【「十」は「トヲ」なのだが「トホ」とあるのは、仮名が違っている。地名だからだろうか。しかしそれはやや後の訛った言い方で、古くから「十」と書いてきたのは、元が「トヲ」だったからだろう。だがここは取りあえず和名抄に従って読んでおいた。】延喜式神名帳に尾張国山田郡の大目神社、佐渡国羽茂郡の大目神社があり、和名抄には同郡の大目【おおめ】郷などとある。この人は、書紀の孝元の巻に「磯城の縣主」とある。○細比賣命(くわしひめのみこと)。「細」は師(賀茂真淵)が「くわし」と読んだのに従う。「目微比賣(まぐわしひめ)」などの例もあるからである。また、「細」の字をそう読んだ例も万葉などに多く見える。書紀には「二年春二月丙辰丙寅、細媛(くわしひめ)命を皇后に立てた。一説に春日の千乳早山香(ちぢはやまか)媛という。また一説に十市の縣主の祖の娘、眞舌媛(ましたひめ)という」と見え、孝元の巻に「母を細媛命という。磯城の縣主大目の娘である」とある。○大倭根子日子國玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)。書紀には「皇后は大日本根子彦國牽(おおやまとひこくにくる)天皇を生んだ」とある。この名の意味は、「玖琉」は「括る」で、統括することだ。【今の俗言でも、ものを統べることを「くるめる」、「くくる」などと言う。一般に「くる」とは巡る意味だから、統べることも括るということも、巡らし包含して、漏らさないのである。書紀に「牽」の字を書いたのは、たぐり寄せ引くという意味か。それとも「拘である」と注されているような意味か。それは史記(六国表三)で「學者牽2於所1レ聞(学者は定説にとらわれる)」というのと同じで、俗言で「くくられる(囚われる)」と言うのに当たる。】○春日(かすが)。和名抄に「大和国添上郡、春日郷は『かすが』」とあるのがそうだ。延喜式神名帳で同郡に春日神社、春日に祭る神などがある。書紀の開化の巻に「春日、これを『かすが』という」とあり、継体の巻の勾大兄皇子(まがりのおおえのおうじ)の歌に「播屡比能、カ(加の下に可)須我能倶爾(正字はイ+爾)(はるひの、かすがのくに)」【武烈の巻の歌でも同様にある。前に引いた。「はるひの」という枕詞は師の冠辞考に「春の日のかすむ」という意味で掛けたのだろうとある。万葉巻九(1740)に「春日之霞時爾(はるひのかすめるときに)」とあるので分かる。そこで「かすが」を「春日」と書くのは、言い慣れた枕詞の字を、直接その地名としたのだ。「飛鳥の明日香」と言ったことから明日香を「飛鳥」と書くのと同じだ。このことは別に論ずる。】この地名の起こりは、新撰姓氏録の大春日臣の條に見えるが疑わしい。【その文は前に春日臣のところで引いた。それによると、大雀(仁徳)天皇の御代、春日氏の先祖が糟(かす)で垣を作ったので、「糟垣(かすがき)の臣」という姓を賜ったが、後に春日臣と改めたという。つまり元は「かすがき」だったのを、後には省いて「かすが」と言ったわけだ。するとその糟垣が元で、地名になったのは後のことということになる。しかしそれは疑わしい。書紀の綏靖の巻には既に春日縣主という名が見え、この段でも「春日之云々」とあるのなどは、まさに地名である。ところが糟垣のことは遙か後代の大雀天皇の御代のことである。だから地名が元で、春日姓は地名から付いたのだろう。だが強いてこの説を立てて考えるなら、糟垣のことははるかな上代のことだったから、誤って大雀の御代と伝えたのかも知れない。あるいはその糟垣から地名を「かすが」と言って来たのを、後に姓に賜ったのが大雀天皇の御代なのかも知れない。ところで糟で垣を作ったのは、どういうことかというと、いにしえには川の堤のように広く築いた垣もあったかと思われるので、そういう状態の垣だったのだろう。歌などで「垣穂(かきほ)」と言うのも、堤のような垣に生えた草木を言う。】○千々速眞若比賣(ちぢはやまわかひめ)。名の意味は、まず「千々」は神代の栲幡千々姫命の「千々」と同じだろう。水垣の宮(崇神天皇)の段の皇女に千々都久和比賣(ちぢつくわひめ)命という名もある。「速」は「光映(はえ)」である。【このことは神代の歌、「阿那陀麻波夜(あなだまはや)」のところで言った。】書紀ではこれを細媛(くわしひめ)のところの一説として、春日の千乳早山香媛(ちぢはややまかひめ)としている。【「はやまわか」と「はややまか」は、互いに「や」、「わ」が省かれただけで、同じである。】ところで記紀ともに父の名が挙げられていないのは、伝わらなかったからだ。○千々速比賣命(ちぢはやひめのみこと)。書紀にはこの御子はない。延喜式神名帳に尾張国中嶋郡に知除波夜(ちぢはや)神社<現在は廃絶>がある。○意富夜麻登玖邇阿礼比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)は浮穴の宮の天皇(安寧)の曾孫で、その段に見える。蠅伊呂泥(はえいろね)のまたの名である。書紀には「倭國香媛(やまとくにかひめ)、またの名ハエ(糸+亘)某姉(はえいろね)」とある。○夜麻登々母々曾毘賣命(やまととももそびめのみこと)。この名の「夜麻登々(やまとと)」は、書紀では「倭迹々日百襲姫(やまとトトビももそひめ)命」とある。また妹の「倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはわかやひめ)」というのも、書紀では「倭迹々稚屋姫(やまとトトわかやひめ)命」とある。それぞれ少しずつ違いがあるが、おそらく本来「倭登々(やまとトト)」だったのを、「と」を一つ省いて「やまとと」と言ったのだろう。【この記は省いた方を書いてある。】妹の名を見ればそうと分かる。【これも書紀では「やまとトト」になっている。】書紀の崇神の巻【三丁】(七年八月)に「倭迹速(やまととはや)云々」と言うことがある。これも同名なのだが、「と」を一つ省いのだ。同音が重なるときは、一つ省いて言う例が多い。【「とどまる」を「とまる」とも言うのと同じ。この名を書紀と比べて「と」が一つ脱けたかと思うのは、かえって不正確である。】また書紀でもこの記の妹の名にも「と」の次に「び」が付いているから、これもそうあるべきところを「び」が脱けたのかと思われるだろうが、そうではない。「び」は称え名だから省いて言うこともあり、ここでは本来なかったのである。妹の名の「倭飛」を書紀では「倭迹々」と書いて「び」がなく、上記の崇神の巻でも「倭迹速」は妹の名と同じように「はや」と続いているが、これにも「び」がない。これらの例で知るべきである。名の意味は、「とと」は【「と」を一つ省いても意味は同じだ。】上記の「千々」と同じく、【通音である。】「もも」は、「ももそ」は勤功(いそ)を意味する。【「いそ」は「いさお」が縮まったのである。】この姫命は、書紀の崇神の巻に「五年、国内に疫病が起こり、民の半数以上が死んだ。六年、百姓が土地を離れてさすらい、反乱を企てる者もいた。・・・七年、天皇は神浅茅原(かむあさじはら)に行幸し、八十萬神を集えて卜った。このとき神が倭迹々日百襲姫命に乗りうつり、『天皇、憂うることはない。私を敬い祭るなら、国は平和になるだろう』と言った。天皇は『そうおっしゃるあなたはどの神ですか』と訊ねた。すると『私は倭国の域(さかい)の内にいる神だ。名は大物主神という』と答えた。・・・すると疫病の流行が止み、国内が静まって、五穀がよく実り、百姓の生活も潤った」、また「十年・・・この天皇の叔母、倭迹々日百襲姫は聡明で叡智があり、よくその歌に現れた怪しいところを予知し」とあって、武埴安彦が謀反を謀っていることを予知したという。こうして朝廷のために数々の勲功があったため、百勤功(ももいそ)と称えられたのだろう。ところで同年の続きに「その後、倭迹々日百襲姫は大物主神の妻となった。その神は、昼は姿を見せず、夜ごとにやって来た。倭迹々日百襲姫は『あなたは、昼はいらっしゃらないから、お顔がはっきり見えないわ。お願いだから明日の朝まで暫く留まっていてください。お顔を拝見したいわ』と言った。大神は『それもそうだな。では朝には、あなたの櫛笥(くしけ)の中に隠れていよう。だが私の姿を見て驚いてはいけないよ』と答えた。倭迹々姫は『妙なことを言うのね』と思いながらも、朝を待って櫛笥を開けて見ると、きれいな小蛇が入っていた。その大きさは衣の紐ぐらいだった。姫は驚き叫んだ。大神は恥に思い、すぐに人の形になってその妻に『よくも私に恥をかかせたな。私もお前に恥を見せてやる』と言うと、大空に駆け上がり、御諸山に登ってしまった。倭迹々姫はそれを仰ぎ見て、後悔の念に駆られ、急居した(どしんと尻もちをついて座り込んだ)。そのため陰部に箸が突き刺さって死んだ。大市に葬ったところ、世人はそれを『箸墓』と呼んだ。この墓は、昼は人が作り、夜は神が作った。云々」とある。【訓注に「急居、これを『つきう』と読む」とあるのは、言葉の基本形を書いたのだ。ここは活用形だから「つきい」と読む。中古の物語文などで「ついい賜う」などとあるのはこの言葉だ。大市は大和国城上郡の郷である。この墓は天武紀にも「箸陵」とある。その地を今も箸中村と言い、墓も大道の西面にあり、甚だ大きな塚山である。箸中というのは、「箸の墓」が縮まった名のように聞こえる。ところで、この崇神の巻の倭迹々日百襲姫命をある人は疑って、「これは孝霊の皇女の百襲姫命でなく、孝元の皇女の倭迹々姫命のことだろう。孝霊の皇女は、崇神の頃にはもう百歳を超えているから、大物主神の妻になることは似つかわしくない。また彼女は崇神の大叔母なのに、ここでは叔母と書いている。孝元の皇女ならまさしく叔母だから、ここによく合うだろう。それにこの記事で、初めには倭迹々日百襲姫命と書きながら、後には三箇所まで倭迹々姫命とある。すると、最初の「日百襲」が衍字であって、孝元の皇女の倭迹々姫命が正しい」と言った。これは一見もっともな説だが、さらによく考えると、孝元の皇女の倭迹々姫命は、書紀にはあるがこの記にはない。孝霊の皇女と同じような名だから、実は同一人物が紛れて、孝霊の皇女とも、孝元の皇女とも伝わっていたのが、書紀では二説ともに採用したのだろう。そういう例も多い。また父の姉妹を「おば」と言い、祖父の姉妹を「おおおば」と言って分けるのは、やや後のことでこそあれ、非常に古い時代には、どちらでも同じように「おば」と呼んでいた。これは子孫をすべて「子」と言い、先祖をすべて「オヤ」と呼んだのと同じだ。とすると孝霊の皇女を崇神の「おば」と呼んでも間違ってはいない。また孝霊の皇女が崇神の時代にはもう百歳を超えているのは確かだが、こうした上代のことは年紀があれとこれと合わないことも多く、その一点を捕らえて深く疑うべきではない。この大物主神の妻となった話にも異伝があったらしく、この記では生玉依毘賣のことであり、時代も崇神の頃よりはるかな昔のことだ。だからこの話は、百襲姫命のことであったにせよ、それは崇神の御代よりも前のことであり、箸で陰部を突いて死んだというのは、その時ではないだろう。というのは、箸は物を食うときに使うものであるが、上記の物語では夜が明けるのを待って櫛笥を開けて見たとなっていて、食事をしていたのではないから、箸を持つ理由がない。それを紛れて、あのことと、このこととが同時に起こったように語り伝えられたのは、崇神の御代に大物主神を祭った故事があるのに引かれて、その妻になった話が混同されたのだろう。そうでないなら、この話は他人の事件か。それは定かでない。】○日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)。この名の「刺肩」の意味は思いつかない。「別(わけ)」のことは日代の宮(景行天皇)の段で言う。この御子は書紀にない。○比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりびこのみこと)。書紀に彦五十狹芹彦(ひこいさせりびこ)命と書かれている。この名の「いさ」は「勇」、【万葉に鯨を「勇魚(いさな)」と書いてある。】「せり」は神代の火須勢理(ほすせり)命の須勢理と同じで、【「すせ」は「せ」に縮まる。】進む意味である。同神の名を書紀の一書に火進命とも書いてあるので分かる。前に出た孝安天皇の皇子、大吉備諸進命も、この皇子のことを伝え誤ったかと言ったことを想起せよ。続日本紀の廿五に「伊予国の人、周敷(すふ)連、眞國ら二十一人に周敷伊佐世利(すふのいさせり)宿禰の姓を与えた」とあるのも、勇敢であることを誉め讃えた姓だろう。【延喜式神名帳には、播磨国賀古郡に天伊佐々比古(あめのいささひこ)神社(現在の日岡神社)というのもある。】○大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)。書紀には「吉備津彦命」とある。名の吉備は国名である。この名が付いた理由も、吉備のことも後で言う。○倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)。書紀には「倭迹々稚屋姫命(やまとトトわかやひめのみこと)」とある。「飛」は「「とび」と読む。姉の名も書紀に「倭迹々日(やまとトトビ)」とあるからだ。【これを「とぶ」と読むのは間違いだ。また書紀の「迹々日」の「日」を濁って読むことは、ここに「飛(とび)」とあるので分かるだろう。】この名の意味は、「飛」は「ととび」の省略で、姉の名と同じ、意味も同じだ。「び」は比古、比賣などの「比」で、称え名である。【書紀では、姉の方に「日」があってこの名にはなく、この記では姉の方になくて、この名にあるのは、称え名を添えたかどうかの違いのみである。】「羽矢」は前述の「千々速」の「速」と同じだ。【一般に「はや」は「速」と書くのだが、ここに「羽矢」と書いたのは、上に「飛」という字があるので、関連のある字を何となく書いただけである。特別な意味があるわけではない。】「屋」は「あや」で美称である。継体天皇の皇女、若屋郎女(わかやのいらつめ)を書紀では稚綾姫(わかやひめ)と書いているので分かる。ところで他の名を見ると、ここで「命」の尊称がないのは、脱けたのだろうか。○「弟」は「ミいろど」と読む。○蠅伊呂杼(はえいろど)。浮穴の宮の段に出た。書紀には「また妃ハエ(糸+亘)某弟(はえいろど)」とある。○日子寤間命(ひこさめまのみこと)。【「寤間」を師は「『さなま』、あるいは『さのま』と読むべきだ。書紀に彦狹嶋(ひこさしま)とあるが、嶋は単に『ま』と言うこともある」と言ったが、「さな」とか「さ」と言うなら「寤」の字を書くことはないだろう。書紀でも「ま」を書くのに「嶋」を書くことはないから、やはり「さめま」と読むのが正しいだろう。】名の意味は分からない。書紀には彦狹嶋命とある。【この書紀の名は議論がある。景行の巻に「五十五年、彦狹嶋王を東山道十五国の都督に派遣した。これは豊城命の孫である。ところが春日の穴咋(あなくい)邑に到ったとき、突然病に倒れて死んでしまった。当地の百姓はその王が目的地に到着しなかったことを悲しみ、ひそかに遺体を盗み出して上野の国に葬った」とあり、下総国に狹嶋郡があるから、この地名から出て、後に称えた名だろう。とすると、彦狹嶋命という名は、この御代の皇子ではないのに、「寤間」と似ていることから混同したもので、これはこの記が正しいとすべきだろうか。新撰姓氏録の垂水の史の條にも「豊城入彦命の子、彦狹嶋命」と見える。「子」とあるのは、書紀に「孫」とあるのと少し違うが、どちらにせよこの御代の皇子ではない証拠だ。国造本紀に「活目帝(垂仁天皇)の皇子、大入來命の孫、彦狹嶋命」とある。大入來命は崇神の皇子なのを活目帝の皇子と言い、彦狹嶋命をその孫と言っているのは、また異なる伝えだが、これもこの御代の皇子ではない証拠である。いにしえには同名の人も多かったが、一人の人を取り違えて、あちこちに挙げた例も多かっただろう。】○若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)。この人の名もまた「吉備」が付いている理由は後に見える。書紀には稚武彦(わかたけひこ)命とある。【この名に「吉備」がないのはいぶかしい。という理由は後に論ずる。】○(註)男王は「ひこみこ」、女王は「ひめみこ」と読む。すべて天皇の御子、皇胤は「みこ」と言うべきであることは、伊邪河の宮の段。日子坐王(ひこいますのみこ)のところで言う。

 

故大倭根子日子國玖琉命者。治2天下1也。大吉備津日子命與2若建吉備津日子命1。二柱相副而。於2針間氷河之前1。居2忌瓮1而。針間爲2道口1以。言=向=和2吉備國1也。

訓読:かれオオヤマトネコヒコクニクルのミコトは、アメノシタしろしめしき。オオキビツヒコのミコトとワカタケキビツヒコのミコトとは、ふたばしらあいそわして、ハリマのヒノカワのさきに、イワイベをすえて、ハリマのみちのくちとして、キビのクニをことむけやわしたまいき。

口語訳:大倭根子日子國玖琉命は、後に天下を治めた。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。

若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)。これは前後で「若建」の二字の間に「日子」が入っているのに、ここでは諸本共にその字がない。これは書紀に「稚武彦」とあるように、省いても言ったのだ。そういう例は多い。日代の宮(景行天皇)の段に出ているのも、この二字がない。【それを延佳本で補っているのは、さかしらに改めたのである。】○二柱相副而(ふたばしらあいそわして)とは、相並んでという意味だ。このことは上巻の「石長比賣を副(そ)えて」とあるところ【伝十八の廿六葉】で言った。【一般に「そう」とは大きなものに小さなものが付き、尊いものに卑しいものが付いていることに限って言うように思われているが、元々はそうでない。同じ程度のものが相並び、結びあっているようなことも言う。だからここも兄は大将軍で、弟は副将軍などと言うのではない。「副」の字にこだわってはいけない。】○針間(はりま)。和名抄に「播磨國は『はりま』」とある。国の名の意味は、同国風土記(揖保郡)に「萩原(はりはら)の里は、土中に井がある。萩原と名付けた理由は、息長帯日賣命が韓国から帰る途中、船をこの村に泊めた。一夜の間に萩が生え、高さが一丈ほどになった。それで萩原という。そのとき井戸を掘った。それで針間井という」とある<訳者註:「土中に井がある」というのは宣長の誤解か。岩波日本古典文学大系本では「土は中の中」とある>。ここには国名の由来とは言っていないが、「針間井という」とあるのは、国名がここから出たようにも思われる。もしそうなら、榛(はり)の木に由来する名である。【谷川氏いわく、「赤染衛門集に播磨から来た人が針をよこして、と見え、藤原明衡の新猿楽記に諸国の名産を挙げた中にも、播磨の針と見えるから、針に関係した名ではないか」という。これも捨てがたい。上代から針を出したかどうかは分からない。】○氷河は「ひのかわ」か「ひかわ」か分からないが、取りあえず「ひのかわ」と読んでおく。この川も氷という名前も、物の本に見えない。今はこの名はないのかどうか、その国人に聞いてみる必要がある<訳者註:兵庫県の加古川上流のことと思われる>。【備前国のある人の説に、「須佐之男命が大蛇を斬った簸川(ひのかわ)は、出雲の斐伊川でなく備前国の簸川だ。備前の簸川は赤坂郡の石上布都之魂神社の山の下を流れ、御野郡に至って海に入る。後には御野川と言う。また大川とも西川とも言う。古事記に針間の氷河とあるのもこの川だ」と言ったが、すべて受け入れられない。備前にあるものをどうして針間などと言うだろう。ましてその御河は、備前国でも東寄りにある川ではない。この氷河は、やはり播磨にあるだろう。上記の説で、神代の簸川を備前にあると言うために、いろいろと強説し、忌部正通の口决なども引用しているが、それも口决の文を曲解してこじつけたもので、証拠とするには当たらない。古い書物に見える名高い地を、こじつけて自分の国に引き入れようとするのは片腹痛いしわざだ。】○前は「さき」と読む。【師は「くま」と読んだ。確かに「くま」に「前」の字を当てた例は、古い書物に多く見え、川の地形などに「くま」をよく言うので、これもそうであってもおかしくはないが、この記では「くま」にはクマ(土+冂の中に口)とばかり書いて、「前」と書いた例はない。「さき」に「前」を当てるのが普通だから、河の「さき」と言うのは珍しいけれども、その例によって読んだ。】○忌瓮は、延佳本で「いわいべ」と読んでいるのがいい。瓮は、書紀の仁賢の巻に「瓮、これを『へ』と言う」とあり、貞観儀式の大嘗の用度に「淡路國御原郡、瓮十口【それぞれ容量一斗五升】」などと見える。【いにしえ、「へ」に用いた文字は「オウ(瓮)」か「ボン(分の下に瓦)」か決められない。どちらか一つだろうが、字形も意味も似ているので、後には取り違えて、どちらにも書いたのだろう。そこで今少し弁じておく。瓮は烏貢の反(ウにコウの母音、つまりヲウ)、説文には「罌(オウ:ほとぎ)のことである」と言って、甕と同じことだ。ボン(分の下に瓦)は歩奔の反(ブの子音にホンの母音、つまりボン)、盆と同じ。和名抄には「甕、字はまたボンと書く。和名『もたい』」、「盆、字はまたボンと書く。『ひらか』、俗に『ほとぎ』と言う」とあって、「へ」という名は見えない。「瓮」は全体が大きく、特に腹が大きい。ボンは小さいものと思われる。しかし漢国にしても、昔の使い方は紛らわしかった。今考えると、「へ」にはボンの字より瓮の方がよく当たっているようだ。古い書物はみなその字だろう。】書紀の~武の巻に「嚴瓮、これを『いづべ』と読む」というのも見える。堝(なべ)も魚菜(な)を煮る瓮(へ)ということである。忌瓮は神祭りに用いる器で、齋忌(いわ)ってものを献じることを言う。「居(すえ)」というのは、地面を浅く掘って、底の方を少し埋めて安定させるのである。万葉の歌に穿居(ほりすえ)とあるのがこれだ。【最近でも土中から上代の瓦器が掘り出されることが時々あるが、それを見ると底が丸いので、直接置くと転びやすいのだ。】水垣の宮(崇神天皇)の段にも、「丸邇坂(わにざか)に忌瓮を据えて云々」とある。書紀には「そこに鎭坐(いわいすう)」とある。万葉巻三【三十七丁】(379)に「齋戸乎忌穿居(いわいべをいわいほりすえ)」【また四十六丁(420)、巻十三の十九丁(3284)にもある。】また【五十一丁】(443)に「齋忌戸乎前坐置而(いわいべをまえにすえおきて)」、巻十七【十五丁】(3927)に「久佐麻久良、多妣由久吉美乎佐伎久安禮等、伊波比倍須恵都、安我登許能弊爾(くさまくら、たびゆくきみをさきくあれと、いわいべすえつ、あがとこのべに)」、巻廿【十九丁】(4331)に「伊波比倍乎、等許敝爾須恵弖(いわいべを、とこべにすえて)」など詠んでいる。ここでも水垣の宮の段でも、軍が出陣しようとするときに、こういう神事があるのは、まつろわぬ国を攻めるために出立する道の口で必ず行うことであって、行く先が平安で、ことむけが無事終わるようにと祈るのだろう。【木を切るために山に入るとき、山口祭を行うようなものだ。】ところがこれを単に「忌瓮を据えた」と言って、神を祭ったとも何とも言っていないのは、いにしえには神を祭って祈ることを「忌瓮を据える」と言っていたのだろう。【上記の万葉巻十七の歌に「伊波比倍須恵都」とあるのなどは、明らかにそう聞こえる。書紀は、どこもかしこも潤色の多い書物だが、崇神の巻では単に「和珥坂に忌瓮を据えて」とだけ言っているのを見ても分かる。】祭祀の具にも色々ある中で、取り分けこのものを据えることでその行事としたのは、上代の礼典であって、深い理由のあることなのだろう。【中古以降、こういう儀式が絶え果てたのは、たいへん嘆かわしいことだ。】○道口(みちのくち)とは、そこへ入る初めのところを「口」、奥の方を「尻」と言う。【人体の口、尻も同じ。】それに前・後の字を当てて、北陸道では「越の道の口」を越前、「越の道の中」を越中、「越の道の尻」を越後と言う。山陽道では「吉備の道の口」を備前、「吉備の道の中」を備中、「吉備の道の尻」を備後と言った。西海道では「筑紫の道の口」は筑前、「筑紫の道の尻」は筑後、「肥の道の口」は肥前、「肥の道の尻」は肥後、「豊国の道の口」は豊前、「豊国の道の尻」は豊後と言った。みな和名抄にある。ここは吉備国に入る道の口であり、後までも播磨は山陽道の入り口である。ここに「道の口として」と言ったのは、水垣の宮の段に「東方十二道」とあるところ【伝廿三の五十八葉】で言う。参照せよ。すべて道の口、道の尻というのは、その国を治めるために京から行く道の順序に依っている。○吉備國(きびのくに)は上巻【伝五の廿一葉】に出た。○言向和(ことむけやわし)も神代に出ている。一本には「向」の下に「平」の字がある。それでも悪くはない。この兄弟共に吉備津日子命の名があるのは、この時の功績によってである。だがこの時の言向けについて考えると、書紀の崇神の巻に「十年秋七月、群卿に詔して・・・九月丙戌朔甲午、大彦命を北陸(くぬが)に遣わし、武淳川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に遣わし、吉備津彦を西道(にしのみち)に遣わし、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波に遣わした。そのとき詔に『もしまつろわぬ者がいたら、攻め殺してしまえ』とあった。そして印綬を賜い、将軍とした」とあって、その頃武埴安彦が妻の吾田媛と共謀して謀反するということが起こったため、「この将軍たちを留めて、どうしたらよいか議らせた。・・・天皇は五十狹芹彦(いさせりひこ)命を遣わして吾田媛の軍勢に当たらせ、これを大坂で迎え撃ち、大破した」、それで埴安彦は滅び、このことが収まったので、「冬十月、群卿に詔して、『四道将軍は今すぐ出発せよ』と言った。将軍たちはみな出発した。十一年夏四月、四道将軍はその派遣された国々をすべて平定し、復命した」とある。【四道は、前記の北陸、東海、西道、丹波である。西道とは山陽道のことだろう。西海道(九州地方)までは含まれていない。この段の様子では、吉備津彦命と五十狹芹彦命とは別人のように見える。いぶかしいことだ。なお同じ御世に、吉備津彦と武淳川別を遣わして出雲振根を殺させたことも、書紀に見える。】

 

故此大吉備津日子命。<吉備上道臣之祖。>次若日子建吉備津日子命者。<吉備下道臣。笠臣祖。>次日子寤間命者。<針間牛鹿臣之祖也。>次日子刺肩別命者。<高志之利波臣。豊國之國前臣。五百原君。角鹿海直之祖也。>

訓読:かれこのオオキビツヒコのミコトは、<キビのカムツミチのオミのおやなり。>つぎにワカヒコタケキビツヒコのミコトは、<キビのシモツミチのオミ、カサのオミのおやなり。>つぎにヒコサメマのミコトは、<ハリマのウジカのオミのおやなり。>つぎにヒコサシカタワケのミコトは、<コシのトナミのオミ、トヨクニのクニサキのオミ、イオバラのキミ、ツブガのアマのアタエのおやなり。>

口語訳:この大吉備津日子命は<吉備の上道臣の先祖である。>次に若日子建吉備津日子命は、<吉備の下道臣、笠臣の先祖である。>次に日子寤間命は、<針間の牛鹿臣の先祖である。>次に日子刺肩別命は、<高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である。>

上道臣(かむつみちのおみ)。和名抄に「備前国上道郡は『かみつみち』」とある、この地名による姓である。【上道郷もこの郡にある。この郡は、今は二つに分かれて、奥上道(おくかんみち)、口上道(くちかんみち)と言う。師は「上道とは備前国を言う」と言った。それも一理あるが、やはりそうではないだろう。】国造本紀に「上道の国造は、軽嶋の豊明の宮(應神天皇)の御世に、もと中津彦命を封じていたが、子の多佐臣(たさのおみ)を初めて国造とした」という。【仲彦(なかつひこ)は應神紀に見える。その文は後に引く。】書紀の雄略の巻に「七年吉備の上道臣田狹(たさ)」のことが見え、清寧の巻にもこの氏人に罪があったという記事がある。こうしたことから衰えたのだろうか、天武の御世に朝臣姓を賜った人たちの中にはこの氏はなく、新撰姓氏録などにも見えない。続日本紀には「天平宝字元年七月、上道臣斐太都(ひたつ)に朝臣姓を与えた」、「同閏八月、上道朝臣斐太都を吉備国造とした」と見える。【この人が栄達したのは、それなりの理由がある。】この吉備姓の始祖のことは、書紀ではこの記と違っている。それは次の下道臣のところで述べる。○下道臣(しもつみちのおみ)。「下」の字を諸本に「上」と書いているのは誤りである。ここでは真福寺本によった。【諸本みな二つ共に「上道」とある。一方は下道であることは疑問の余地がないが、どちらがどちらと決める手立てがないので、以前は書紀の應神の巻の記事から考察を加えて、兄の方を下道として書いておいたが、後に真福寺本を見たら、弟の方が下道だった。】吉備姓のことは、書紀に「稚武彦命は吉備臣の始祖」と見え、【兄はどの氏の始祖とも書かれていない。】また應神の巻に「二十二年春三月、妃吉備臣の祖、御友別(みともわけ)の妹、兄媛(えひめ)は父母を恋しがる情が深く、毎日西の方を眺めて嘆いていた。・・・天皇はこのことを聞き、吉備に送り返すことにして、夏四月、兄媛は船で出発した、天皇は兄媛の船を見送って、歌にいわく・・・秋九月、天皇は淡路嶋で狩をしたが、そのとき吉備に立ち寄った。すると御友別がやってきて、兄弟や子供たちを膳夫としてもてなした。天皇は御友別が非常に恐れ入って尽くすのを見てうれしく思い、吉備の国を分けてその子供たちに与えた。川嶋縣を長子の稻速別(いなはやわけ)に与えた。これは下道臣の始祖である。次に上道縣を中子の仲彦に与えた。これは上道臣、香屋(かや)臣の始祖である。次に三野の縣を弟彦に与えた。これは三野臣の始祖である。また波區藝(はくぎ)の縣を御友別の弟、鴨別(かもわけ)に与えた。これは笠臣の始祖である。また苑(その)の縣を兄の浦凝別(うらこりわけ)に与えた。これは苑臣の始祖である。また織部(はとり)の縣を兄媛に与えた。彼らの子孫たちが吉備国にいるのはそのためである」と言う。御友別は稚武別の子孫である。【弟彦は御友別の末子のようである。香屋は備中国賀夜(賀陽)郡である。三野縣は、備前国の御野郡だ。波區藝縣は、他に見えない。苑縣は備中国下道郡に曾能郷があるので、これだろう。織部縣は備前国邑久郡、また備中国賀夜郡に服部郷、備後国品治(ほんじ)郡に服織郷があり、このうちのどれかだろう。】こういうことだと、書紀の伝えでは下道臣も上道臣もみな稚武彦の子孫となり、兄命の子孫はないことになる。たいへんいぶかしい。【というのは、崇神の巻で四道将軍のうち、西道を言向けたのはこの兄の命の方であって、そこには弟命の名は見えず、もしも弟命がほとんどの吉備臣の先祖だったら、この記のように兄弟が相並んで平定しただろうに、兄の名だけを挙げて、氏々の祖である弟を書かないのはなぜか。吉備国を平定したのが弟であったのを、この記では兄弟二人を挙げ、書紀では若建吉備津日子命という名を兄と取り違えて、ただ吉備津日子と伝えたため、兄のことのようになったかとも思ったが、それでは兄の名を吉備津日子という理由がない。あるいはこの二人は、実は一人だったのを記紀ともに名が紛れて二人のように伝えたかとも考えたが、兄は大吉備津日子、弟は若建吉備津日子で、大と若とはっきり名が違うので、そうでもないようだ。どうにも疑わしいことである。】ただし、新撰姓氏録などでも、吉備から出た氏はいずれも「稚武彦命の子孫」とだけあって、大吉備津日子の名は見えない。【続日本紀廿六に「吉備津彦の苗裔、上道臣云々」とあるのは、これも弟の方の子孫を言っている。そのことは三代実録卅六に見える。また新撰姓氏録の「椋椅部(くらはしべ)首は、吉備津彦五十狹芹命の子孫というが見えない」とあるのも、未定雑姓になっている。国造本紀に「葦北国造は吉備津彦命の子、三井根子命を国造に定めた」とあるのも不確かな記事である。】そこで当面書紀の伝えに従って言うと、【ただし吉備の国を平定したのは、この記にあるように兄弟が力を合わせて行ったことだろう。さもなければ、弟の子孫が吉備にいた理由がない。】兄弟が相並んで吉備を平定したのだが、兄の子孫はなく、ただ弟の子孫だけが吉備で栄えたのだろう。その世継ぎは若建日子命の子、吉備建日子命、【そのことは新撰姓氏録に見える。この命は、倭建命の段にも出る。】その二男が前記の御友別である。【そのことは三代実録卅六に見える。】そしてその長子【稻速別】は下道臣、次の子【仲彦】は上道臣の先祖なのを、この記では兄弟を誤って、始祖の兄弟【つまり大吉備津日子と若建日子】と伝えたということではないだろうか。【以前に、しばらく兄の子孫を下道臣と考えていたのも、このためである。書紀の伝えも兄は下道、弟は上道の先祖だからだ。】といっても、この記の伝えも一つの伝えだから、間違いと決めることもできない。この吉備の姓は、上記のように二つに分かれているが、広く吉備の臣とも言ったらしく、日代の宮の段、書紀の神功の巻などでは、単に「吉備臣の先祖」ともあり、その後も雄略、顕宗、欽明などの巻に「吉備臣」と出ている。延喜式神名帳には「備中国賀夜郡、吉備津彦神社【名神大。】」、これはこの氏神である。【伝えでは吉備武彦命を祭るという。神号からすると、始祖、若建日子命だろうか。また始祖でなくとも、国を平定した大吉備津日子命かもしれない。延喜式に載っているのは、いずれにせよ一柱である。この神社は世間でいう吉備津宮で、宮内(みやのうち)村というところにある。】下道臣は、和名抄に「備中国下道郡は『しもつみち』」とある。この地名による姓だ。【書紀に「川嶋縣を分けて云々」とある川嶋という地名は、後には見えないから、これはすなわち下道郡の域ではないだろうか。】国造本紀に「下道国造は、軽嶋豊明の宮の朝の御世に、兄彦命、またの名稻建別を国造とした」とある。【この「建」の字は、書紀によると「速」の誤りだろう。これを国造と言っているのは、覚束ないことである。】書紀の雄略の巻に「吉備下道臣、前津屋(さきつや)」という罪人があって、その一族七十人が殺されたという。天武の巻には「十三年十一月戊申朔、下道臣に姓を賜い、朝臣とした」とあり、続日本紀に「天平十八年冬十月丁卯、従四位下、下道朝臣眞備に吉備朝臣の姓を与えた」とある。【巻十二の二葉に、この人の姓を上道朝臣と書いてあるのは誤写である。】この人だけがこの時下道を改めて吉備となっている。「天平神護二年十月、右大臣とした」。【宝亀六年十月に死んだ。年八十三。この人が世に名高い吉備の大臣(吉備真備)である。】また「同二十年十一月己丑、下道朝臣乙吉備(おときび)、直事廣の三人に吉備朝臣の姓を与えた。【「直事廣」は二人の名である。誤字か脱字か。】新撰姓氏録の左京皇別に「吉備朝臣は【この朝臣を今の本に宿禰と書いてあるのは誤りだ。】大日本彦太瓊天皇の皇子、稚武彦命の子孫である」とある。【これは上記の天平の頃、下道を改めて吉備朝臣となった一族である。】また続日本紀に「天平神護二年五月癸亥、下道臣色夫多(しこぶた)に朝臣姓を与えた。」、新撰姓氏録の左京皇別に「下道朝臣は、吉備朝臣と同祖、稚武彦命の孫、吉備武彦命の子孫である」とある。【ここには吉備武彦を稚武彦命の孫とあるが、次の眞髪部のところに「子」とあるのが正しい。】○笠臣(かさのおみ)。書紀の應神の巻に「また波區藝の縣を御友別の弟、鴨別に与えた。これは笠臣の始祖である」とあり、前に引いた通りである。【この臣の字を、今の本に「田」と書いているのは誤りだ。】これは神功の巻にも「吉備臣の祖、鴨別」とある人だ。国造本紀に「笠臣国造は、軽嶋の豊明の宮の朝の御世に、もと鴨別命を封じておいたが、八世の孫、笠三枚臣を国造と定めた」【ここに「笠臣国造」とある「臣」の字は何の意味があるのか。たいへんまずい作り事だ。しかし八世の孫というのは拠り所があって言っているようだから、ここに引いた。】書紀仁徳の巻に、笠臣の祖、縣守という人が見え、孝徳の巻に吉備の笠臣垂(しだる)、天智の巻に笠臣諸石などの人の名が見える。天武の巻には「十三年十一月戊申朔、笠臣に朝臣の姓を与えた」、続日本紀に「天平神護元年六月、笠臣氣多麻呂(けたまろ)に朝臣の姓を与えた」とあり、新撰姓氏録の右京皇別に「笠朝臣は、孝霊天皇の皇子、稚武彦命の子孫である。應神天皇が吉備国に巡幸して、加佐米(かさめ)山に登ったとき、突風が吹いて天皇の笠を飛ばした。天皇は怪しいことだと思った。このとき鴨別命は『神祇が天皇にお仕えしようと思っているのです。だからそうしたのです』と申し上げた。天皇はその真偽を確かめたいと思って、その山で狩をさせたところ、獲物がたいへん多かった。天皇は甚だ喜んで、『賀佐(かさ)』という名を与えた」とある。【「賀佐という名を与えた」というのは山の名のことか。「加佐米山」とあるからだ。それとも鴨別に与えた名か。もしそうなら、この名を姓にもしたのだろうか。また「名」とはあっても、元から姓だったのか。いずれにしろ、】「笠」という名の起こりはこれである。続日本紀に「天平神護二年十月、備前国の人、三財部(みたからべ)の毘登(ひと)、方麻呂ら九烟に笠臣の姓を与えた」とある。新撰姓氏録の右京皇別に「笠臣は笠朝臣と同祖、稚武彦命の孫、鴨別命の子孫である」とあり、続日本後紀には「承和三年三月、飛騨国の人、三尾臣永主、同姓息長らに笠朝臣の姓を与え、右京五條に本貫を移させた。永主は稚武彦命の子孫である」とある。【三代実録に「元慶三年十月、左京の人、印南野臣宗雄、息子三人、娘一人、妹一人に笠朝臣の姓を与えた。その先祖は吉備武彦命より出た。宗雄みずから言うところでは『吉備武彦命の第二男、御友別命の十一世の孫、人上が天平神護元年、住んでいたところの名を取って印南野臣の姓を賜りました。第三男の鴨別神は、笠朝臣の祖です。兄弟が後に同姓となるのはうれしいことです』」とある。鴨別神の「神」の字は「命」の誤りだろう。この宗雄が言ったことは納得できない。自分の先祖の御友別の子孫である下道朝臣や上道朝臣の姓を差し置いて、その弟の鴨別の子孫の姓を望んだというのはどういう意味か。】ところで若建日子命の子孫は、これらの姓の他にも、新撰姓氏録に「吉備臣は稚武彦命の孫、御友別命の子孫である」、【印本では臣の字が脱けている。古い本にはある。】「眞髪部は同命の子、吉備武彦命の子孫である」【備中国窪屋郡に眞髪郷がある。】などが見える。○針間牛鹿臣(はりまのうじかのおみ)。牛は「うじ」と濁って読む。【他の書に「宇自加」とあるからだ。黒牛(くろうじ)、黄牛(あめうじ)なども濁るのが一般的だ。】書紀の安閑の巻に「播磨国牛鹿屯倉」がある。新撰姓氏録の右京皇別に「宇自可臣は、孝霊天皇の皇子、彦狹嶋命の子孫である。」【続日本紀廿一に宇自賀臣山邊、廿二に宇自可臣山道という人の名が見える。これは「邊」と「道」のどちらか一方は誤りで、同一人物だろう。】続日本後紀に「承和二年九月、右京の人、宇自可臣良宗に春庭(はるにわ)宿禰の姓を与えた。彦狹嶋命の苗裔である」、文徳実録に「斉衡二年八月、宇自可臣武雄の姓を改めて笠朝臣とした」、三代実録に「貞観六年八月、右京の人、宇自可臣吉人に笠朝臣の姓を与えた。彦狹嶋命の子孫である」、また「元慶元年十二月、右京の人、宇自可臣秋田ら男女十四人に笠朝臣の姓を与えた。彦狹嶋命の子孫である」とある。【彦狹嶋命の子孫に笠朝臣の姓を与えたのは、どういう理由によるのか。○小右記に宇自可の春利、宇自可の吉忠という人名が見える。】○高志之利波臣(こしのとなみのおみ)。高志は「越国」である。上巻に見える。利波は和名抄の「越中国礪波郡は『となみ』」というのがそうだ。【越後国磐船郡に利波郷があるが、それではないだろう。万葉巻十七(4008)に「刀奈美夜麻(となみやま)」、巻十八(4085)に「刀奈美能勢伎(となみのせき)」、巻十九(4177)に「利波山(となみやま)」などと詠んでいる。一代要記に「越中加賀の境、礪波山」とある。】続日本紀十七、廿八、卅五に越中国の人、利波臣志留志(しるし)という人が見える。【この人は東大寺のことで功績があって、越中の員外の介となり、従五位上に叙せられ、後に伊賀の守となった。】○豊國之國前臣(とよくにのくにさきのおみ)。豊國のことは上巻に見える。國前は和名抄に「豊後国、國埼郡は『君佐木(くんさき)』」【「君」の字を書いたのは、単に「く」の仮名でなく、「くに」を音便で「くん」と言っていたからだろう。】とあるのがそうだ。書紀の垂仁の巻にも「豊國國前郡(とよくにのくにさきのあがた)」とある。景行の巻に、「十二年熊襲が反乱したので、(天皇は)筑紫に出かけた。まず國前臣の祖、菟名手(うなで)を遣わして云々」とあり、国造本紀に「國前の国造は、志賀高穴穂の朝、吉備臣と同祖、吉備都命の六世の孫、午佐自命を国造とした」とある。【「午」の字は「乎」の誤りだろうか。】吉備臣と同祖というのは、異なる伝えである。○五百原君(いおばらのきみ)。和名抄に「駿河国廬原郡は『いおばら』」とあるのがそうだ。廬原郷もある。【万葉巻三の歌(296)に「廬原乃(いおばらの)云々」とある。】国造本紀に「廬原国造は、志賀高穴穂の朝の代、池田坂井の君の祖、吉備武彦命の子、意加部彦命を国造とした」とある。【「池田坂井の君の祖」というのは不審だ。「意」の字は、一本に「思」とある。】書紀の天智の巻に「廬原君臣」、続日本紀九に「五百原君虫麻呂」、続日本後紀四に「廬原公有守」などの人の名が見える。新撰姓氏録の右京皇別に、「廬原公は、笠朝臣と同祖、稚武彦命の子孫である。孫の吉備武彦命は、景行天皇の御代に東方を平定するために遣わされ、毛人(えみし)や凶鬼神(あらぶるかみ)どもを征伐して、阿倍廬原に到った。復命の時に、廬原の国を賜った」【阿倍郡も駿河にある。】とある。ところでこれ以前の姓は「〜の国の」と国名を挙げているのに、ここでは「駿河の」と言わないのはなぜかと言うと、おそらく朝廷に出て、天皇の近くで仕えている人の姓には国名を言わず、国を言うのは、普段はその国にいて、いつも親しく仕えていない氏だろう。○角鹿海直(つぬがのあまのあたえ)。角鹿は越前国の敦賀である。この地のことは訶志比の宮(仲哀天皇)の段の終わりの方に出てくる。海は師が「あま」と読んだのを用いる。海部(あま)だからである。【書紀の雄略の巻に「吉備の海部直」、続日本紀九に「海部直」などとある「海部」と同じ。】「海部」を省いて「海」だけを書く例は、凡海(おおしあま)連、海犬養(あまのいぬかい)連などがある。海部という地名は、あちこちにあるので、【たとえば「尾張国海部郡は『あま』」など。】ここも角鹿の中野幡能地名による姓か。それとも海人のことを掌ることから付いた姓か、定かでない。【上記の凡海連、海犬養連などは、海人に由来する名のようだ。というのは、これらの氏は、新撰姓氏録によると、安曇宿禰と同祖だからである。安曇氏が海人の宰だったことは、伝六の六十九葉で言った通りだ。○続日本紀廿六に「敦賀の直」が見え、類聚国史に「天長五年、越前国の采女、角鹿直福貴子」、三代実録十四に「角鹿直眞福子」など見える。これらは別の姓ではないだろうか。】国造本紀に「角鹿国造は、志賀高穴穂の朝の御代、吉備臣の祖、若武彦命の孫、建功狹日命を国造に定めた」とあるが、これはこの姓か別の氏か、定かでない。ところで、これらの氏のことは、新撰姓氏録の伝えも、多くは書紀と一致していて、この記とは異なっている。その理由は、書紀が諸説ある中から正しいものを選択して書かれたからとも言えるだろうが、それだけでもない。おそらく書紀ができてからは、何事も書紀の記事に合うのを正しいとし、合わなければ正しくないとするので、各家の伝えなども、おのずと書記に合うように書き直されたということも、少しはあるだろう。【旧事紀で「彦五十狹芹彦命、またの名、吉備津彦命は、吉備臣らの祖、彦狹嶋命は海直らの祖、稚武彦命は、宇自可臣らの祖」と言っているのは、また異なる説だ。一般にあの書は信じられないけれども、時々は捨てがたいところもあるから、これも一つの伝えではなかろうか。】これらの皇子を挙げた順序として、二柱の吉備津日子をまず挙げたのは、吉備を平定したことに続けているのだろう。次に日子刺肩別命と日子寤間命は、前に出たのと前後が違っているが、その理由は分からない。あるいは子孫の姓に尊卑があって、それによった順序か。

 

天皇御年壹佰陸歳。御陵在2片岡馬坂上1也。

訓読:このスメラミコトみとしモモチマリムツ。みはかはカタオカのウマサカのエにあり。

口語訳:天皇は百六歳で崩じた。御陵は片岡の馬坂付近にある。

御年壹佰陸歳(みとしモモチマリムツ)。書紀には」「七十六年春二月丙午朔癸丑、天皇が崩じた」とあるだけで、その時の年齢は書かれていない。【ただし父の天皇のとき、「七十六年春正月に皇太子を立てた」とあることからすると、百二十八歳だろう。】ある書には百二十八とも百三十四とも言う。○片岡。書紀の綏靖の巻に見える片丘も同じ所だろう。推古の巻に「二十一年、皇太子は片岡に遊びに行った。・・・歌を詠んで、『斯那提流、箇多烏箇夜摩爾(しなてる、かたおかやまに)』云々」とある。古今集の序に「片岡の朝原(あしたのはら)は云々」などもある。延喜式神名帳には「片岡坐(かたおかにます)神社」も見える。○馬坂(うまさか)。書紀の孝元の巻に「六年秋九月戊戌朔癸卯、大日本根子彦太瓊天皇を片丘の馬坂の陵に葬った」とあり、諸陵式に「片岡の馬坂陵は、黒田の廬戸の宮で天下を治めた孝霊天皇である。大和国葛下郡にあり、兆域は東西五町、南北五町、守戸五烟」とある。前皇廟陵記に「馬坂は、ある人によると、今の馬の瀬坂がそうだと言う」、大和志には「王寺村、馬の脊坂の東の山中にある。陵のほとりに塚が二つある」という。

 


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