『古事記傳』21−3


境岡の宮の巻【懿徳天皇】


大倭日子スキ(金+且)友命。坐2輕之境岡宮1治2天下1也。此天皇。娶2師木縣主之祖賦登麻和訶比賣命。亦名飯日比賣命1。生2御子1御眞津日子訶惠志泥命。<自レ訶下四字以レ音。>次多藝志比古命。<二柱>

訓読:オオヤマトヒコスキトモのミコト、カルのサカイオのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、シキのアガタヌシのおや、フトマワカヒメのミコト、またのなはイイビヒメのミコトをめして、うみませるミコ、ミマツヒコカエシネのミコト、つぎにタギシヒコのミコト。<ふたばしら>

口語訳:大倭日子スキ(金+且)友命は軽の境岡の宮で天下を治めた。この天皇が師木の縣主の祖、賦登麻和訶比賣命、またの名は飯日比賣命を娶って生んだ子は、御眞津日子訶惠志泥命、次に多藝志比古命である。<二柱。>

この天皇の漢風諡号は懿徳天皇である。○輕(かる)は大和国高市郡にある。延喜式神名帳に、この郡に「輕樹村坐(かるのきむらにます)神社」が載っている。【これは軽の地の樹村という地名か、それとも軽樹(かるき)という地名か。大和志に、この社は池尻の属邑、軽子というところにあるという。どうだろう。】今も軽村というところがある。【大軽(おおがる)とも言う。それは中昔に大小二村あったが、小軽の方は絶えたのではないだろうか。】この地は水垣の宮の段、玉垣の宮の段、書紀の應神の巻【五十七丁】(十五年八月か)、雄略の巻【二十丁】(十年十月か)、欽明の巻【四十一丁】(二十三年八月か)、推古の巻【十七丁】(二十年二月か)にも見え、万葉巻二【三十七丁】(207)に「天飛也輕路者(あまとぶやカルのみちは)・・・輕市爾吾立聞者、玉手次畝火乃山爾喧鳥之音母不所聞(かるのいちにワガたちきけば、たまだすきウネビのやまになくとりのおともきこえず)」、巻三【四十丁】(390)に「輕池之(かるのいけの)云々」、巻四【二十三丁】(543)に「天翔哉輕路従、玉田次畝火乎見管(あまとぶやカルのみちより、たまだすきウネビをみつつ)」、巻十一【二十八丁】(2656)に「天飛也輕乃社之齋槻(あまとぶやアルのやしろのイワイつき)云々」などと詠んでいる。○境岡宮(さかいおのみや)。「岡」は師(賀茂真淵)が「お」と読んだのに従う。書紀には「曲峽(まがりお)」とある。神功の巻に淳中倉之長峽(ぬなくらのながお)とある地名を摂津国風土記で「沼名椋之長岡之前(ぬなくらのながおのさき)」とある。これらが証拠である。万葉巻七【三十五丁】(1356?)に「向岡(むかつお)」ともある。【「おか」の元の名は「お」であったところに「か」を加えて「おか」と言う。「か」は「處」のことである。「坂」も元は「さ」だったところに「か」を加えた語だということは、上巻で言った。それと同じだ。「丘」も普通は「おか」と言っているが、書紀では「お」とだけ読むことがある。】この宮は、上記の「かる村」から西の方、三瀬と言うところへ行く途中の、小高く広くなった岡越えの道で、坂がある。そのあたりだろう。境は「坂合」だから、境岡と言える地形だ。またこの丘の上は広い原になっており、堺原の宮【孝元天皇の大宮である。】もこの辺りかと思う。書紀には、二年春正月甲戌朔戊寅、都を輕の地に遷した。これを曲峽の宮という」とある。【ある人が言うには、この宮の址は軽の坤(南西)にある。今も「まわりおさ」という田地の名が残っているそうだ。】○師木縣主(しきのあがたぬし)。前記と同祖である。○賦登麻和訶比賣命(ふとまわかひめのみこと)。名の意味は「太眞若」だろう。○飯日比賣命(いいびひめのみこと)。名の意味については、これという考えはない。【「日」は美称で、前に言った通り。】書紀には、二年二月癸卯朔癸丑、天豊津媛(あめとよづひめ)命を立てて皇后とした。一にいわく、磯城縣主葉江男(はえお)の弟、猪手(いで)の娘、泉媛といい、一にいわく、磯城縣主太眞稚彦(ふとまわかひこ)の娘、飯日媛(いいびひめ)ともいう)」とある。【天豊津媛命は、孝昭の巻に「息石耳命(おきしみみ)の娘」とある。息石耳命は安寧天皇の息子で、天皇の兄に当たる。】○御眞津日子訶惠志泥命(みまつひこかえしねのみこと)。名の意味は、「御眞」は御眞木入日子(みまきいりびこ)、御眞津比賣(みまつひめ)などの「御眞」と同じで、御孫の意味か、地名などか、定かでない。【国造本紀に長国造(ながのくにのみやつこ)は「志賀の高穴穂の朝(成務天皇)の御世に、觀松彦色止(みまつひこいろと)命の九世の孫、韓背足尼(からせのすくね)を国造とした」とある。「長」は阿波国那賀郡である。延喜式神名帳に、その国の名方郡、御間都比古(みまつひこ)神社が出ている。上記の色止命を祭っているか。】「訶惠志泥」もよく分からない。【「泥」は例によって美称だろう。】○多藝志比古命(たぎしひこのみこと)。名の意味は、多藝志耳命と同じだろう。書紀に「后は觀松彦香殖稻(みまつひこかえしね)天皇、一にいわく、天皇の同母弟、武石彦奇友背(たけしひこくしともせ)命という」とある。【多藝志と武石とは音が通う。旧事紀にはこの御子はなく、安寧天皇の御子で、師木津日子命の弟に手研彦奇友背(たぎしひこくしともせ)命がある。】

 

故御眞津日子訶惠志泥命者。治2天下1也。次當藝志比古命者。<血沼之別。多遲麻之竹別。葦井之稻置之祖。>

訓読:かれミマツヒコカエシネのミコトは、アメノシタしろしめしき。つぎにタギシヒコのミコトは、<チヌのわけ、タジマのタケのわけ。アシイのイナキのおや。>

口語訳:御眞津日子訶惠志泥命は天下を治めた。次に當藝志比古命は、<血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置の先祖である。>

血沼之別(ちぬのわけ)。血沼は地名で、和泉国和泉郡にある。前【伝十八の三十九葉】に出た。「別(わけ)」は姓(かばね)である。このかばねのことは、日代の宮(景行天皇)の段に「国々の国造をまた『わけ』ともいう云々」とあるところで言う。だがこの氏は他に見えない。【書紀の雄略の巻に「茅渟の縣主」があるが、別の姓である。】○多遲麻之竹別(たじまのたけのわけ)。但馬には竹というところは、古い本に見えない。【和名抄に、美含(みくみ)郡に竹野は『たかの』」という郷はある。】○葦井之稻置(あしいのいなき)。同国にはこの地も見えない。【延喜式神名帳には、氣多郡に葦田神社は載っている。】これらの地名は、今もあるのかないのか、国人に尋ねてみたい。この二つの姓も、他には見えない。

 

天皇御年肆拾伍歳。御陵在2畝火山之眞名子谷上1也

訓読:このスメラミコトみとしヨソヂマリイツツ。みはかはウネビヤマのマナゴダニのえにあり。

口語訳:この天皇は崩じたとき、四十五歳だった。御陵は畝傍山の眞名子谷の付近にある。

御年肆拾伍歳(みとしヨソヂマリイツツ)。書紀には「三十四年秋九月甲子朔辛未、天皇は崩御した」とあるだけで、年齢は記されていない。【ただし父の天皇の十一年、皇太子は年十六】とあるのによると、七十七歳になる。○眞名子谷上(まなごだにのエ)。書紀には「明年冬十月戊午朔庚午、大日本彦耜友天皇を畝傍山の南、纖沙谿上(まなごだにのエ)の陵に葬った」とある。【纖沙を「まさご」と読んではいけない。この記に依拠して「まなご」と読むべきである。万葉でも「沙(まなご)」、「細砂(まなご)」など、みなそう読む。また「眞名子」、「麻奈胡」などとも書き、弘仁私記にも「萬奈古」とある。】諸陵式に「畝傍山の南、纖沙渓上(の陵は、輕の曲峽の宮で天下を治めた懿徳天皇である。大和国高市郡にある。兆域東西一町、南北一町、守戸五烟」とある。この御陵は畦樋(うねひ)村から西、吉田村へ越える道の少し南にある。すなわち畝火山の南の谷の中である。【貝原氏が「畝火山の巽(東南)の方に小谷陵がある。懿徳天皇の陵だ」と言った小谷は、眞名子谷の「眞名」を省いたのだろうか。そのころここをそう呼んだのだろう。またある説に久米寺の東南にあると言うのは、場所が大きく違っている。】

 


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