仮名について(仮字<かな>の事) |
この記で用いられた仮字(仮名)を次に列挙しておく。
ア <阿> イ <伊>
ウ <宇>、<[さんずい+于]>
エ <延>、<愛> オ <淤>、<意>、<隠>
カ <加>、<迦>、<訶>、<甲>、<可>、[濁音]<賀>、<何>、<我>
キ <伎>、<紀>、<貴>、<幾>、<吉>、[清濁両用]<岐>、[濁音]<藝>、<疑>、<棄> ク <久>、<玖>、[濁音]<具>
ケ <気>、<祁>、[濁音]<=пA<下>、<牙> コ <許>、<古>、<故>、<胡>、<高>、<去>、[濁音]<碁>、<其>
サ <佐>、<沙>、<左>、[濁音]<邪>、<奢>
シ <斯>、<志>、<師>、<色>、<紫>、<芝>、[濁音]<士>、<自>
ス <須>、<洲>、<州>、<周>、[濁音]<受> セ <勢>、<世>、[濁音]<是>
ソ <曾>、<蘇>、<宗>、[濁音]<叙>
タ <多>、<當>、<他>、[濁音]<陀>、<太>
チ <知>、<智>、[濁音]<遅>、<治>、<地> ツ <都>、[濁音]<豆>
テ <弖>、<帝>、[濁音]<傳>、<殿>
ト <登>、<斗>、<刀>、<等>、<土>、[濁音]<杼>、<度>、<縢>、<騰> ナ <那> ニ <邇>、<爾>
ヌ <奴>、<怒>、<濃>、<努>
ネ <泥>、<尼>、<禰>
ノ <能>、<之> ハ <波>、[濁音]<婆>
ヒ <比>、<肥>、<斐>、<卑>、[濁音]<備>、<毘>
フ <布>、<賦>、[濁音]<夫>、<服>
ヘ <幣>、<閉(閇?)>、<平>、[濁音]<辨>、<倍>
ホ <富>、<本>、<菩>、<番>、<蕃>、<品>、[濁音]<煩> マ <麻>、<摩>
ミ <美>、<微>、<彌>、<味>
ム <牟>、<无>、<武>
メ <米>、<賣>、<刀
モ <母>、<毛>
ヤ <夜>、<也> ユ <由>
ヨ <余>、<用>、<與>、<豫> ラ <羅>、<良> リ <理> ル <琉>、<流>、<留> レ <禮>
ロ <呂>、<路>、<漏>、<侶>、<廬>、<樓>
ワ <和>、<丸> ヰ <韋> ヱ <惠> ヲ <袁>、<遠> この他に、「記、氾、游、劔、梯、之、天、未、末、且、徴、彼、衣、召、此、忌、計、酒、河、被、友、申、祀、表、存、在、又」などを仮字として用いた本がある。いずれも誤写である。 仮名遣いは、おおよそ天暦(947〜957)より古い書物はすべて正しく、伊、韋、延、惠、於、袁の音、またそれに続く、波、比、布、閇、本(ハヒフヘホ)および、阿、伊、宇、延、於(アイウエオ)、和、韋、宇、惠、袁(ワヰウヱヲ)などの音をまぎれ誤ったことは全くなかった。それは、普段使っている言葉自体が、音に違いがあって、文字として書くにも、自然と正しい仮字を選んで書いていたからである。【それを、古くから音に違いがなかったのに、ただ仮字の上で書き分けていたと思うのは、非常な間違いだ。音に違いがなかったら、どうして文字を書き分ける理由があろうか。昔の書をあれこれと比較しても、同じ言葉なら同じ漢字を使っているこのことを見れば、音に差があったことが分かる。ところが中昔ごろから、次第にそれらの音が乱れて混同され、文字で書くにも、一つの音に複数の仮字があるようになった。その後、京極の中納言定家卿が、歌を書くときの仮名遣いを定めて、世に「仮名遣い」ということが始まった。だが当時、既に昔の人の話していた言葉の音が分からなくなってしまっており、また古い書物をよく調べることもなく、自分の知識の範囲で定めたので、その仮名遣いは、古来の決まりとは大きく異なったものになった。それを後代の歌人は、「昔は仮名の使い方など、決まりがなかったのに、定家卿が初めて定めた」と思っているらしい。また近世に至っては、「ただ音の軽い、重いによって使い分けよ」などと説く人があるが、これらはすべていにしえを知らない妄説である。ところが難波の契沖(1640〜1701)という僧侶が、古い書物をよく考察して、昔の仮名遣いが正しかったことを発見した。すべて古学の道は、この僧侶の研究によって始まったのである。実に大変な功績と言わねばならない。】そういうわけで、昔の正しい書のうちでも、この記と書紀と万葉集が、特別に正しい古言を伝えているのだが、殊にこの古事記は、抜き出でて正しいものである。その理由を詳しく言うなら、続日本紀以降の書は、仮名遣いが清濁の区別なく【清音のところに濁音の文字を用い、濁音のところに清音の文字を用いる混用が多い。】、また音と訓を混ぜて書いてある。その点、古事記と書紀と万葉集は、清濁の文字を使い分けている。【この記と書紀、万葉集の清濁の使い分けについては、まだ疑う人がある。今詳しく述べると、後世には濁って言う言葉を、古くは清音に言っていた場合があるらしく、山の枕詞の「あしひき」、また宮人(みやひと)などの「ひ」、嶋つ鳥、家つ鳥などの鳥の「と」、などの音を、これらの古い書では、どれも清音の漢字で書いていて、濁音は一つもない。同じような例は他にも多い。また、後世には清音で読む言葉を、古い書では濁音にのみ書いている例もある。これらは仮名遣いが乱れているのではなく、古語と後代の言葉と、清濁が入れ替わったのだから、疑いの余地はない。その他に、言葉の初めの音は清音であるべきなのに、まれに濁音に書いてある場合があるが、うっかりして間違えたこともあり、後代の人が書き写す際に誤写した可能性もあるだろう。しかしこの記(古事記)では、そうした間違いは非常にまれであって、全体でもわずかに二十箇所ほどしか見えず、そのうち十箇所ほどは「婆」の字であり、ある本にはその八箇所を「波」と書いているので、残りの「婆」も元は「波」だっただろうと推測される。ということは、記に於いては、清濁の明らかな誤りは、十箇所未満であって、その他数百もある清濁はすべて正しく書かれているのだから、わずかな誤りを取り上げて、すべてを疑うべきではない。ところが書紀は、この記に比べて、清濁の誤りがたいへん多い。これは非常に疑わしいことである。しかし、清濁を全く分けず、混用しているわけではない、およそは書き分けられており、後代の完全に混同した書き方の書物とは比較にならない。万葉は、この記に比べると間違いも多いけれども、書紀に比べると間違いはたいへん少なく、ほぼ清濁が正しく書き分けられている。これらの違いは、用いられた仮字を、それぞれ各本を照らし合わせ、詳細に考察して分かることである。ざっと見ただけでは、そうした詳しいことは知り得ないものなのである。】そのうちでは、万葉は音と訓が入り混じっているが【万葉の書き方は、本当の仮字とは言い難い点がある。訓を多用し、いろいろと奇妙な書き方がしてあるからである。】、この記と書紀(の歌)は、音だけを取って、訓を用いた箇所が一つもない。これこそ仮字と言うべきであろう。【訓を用いるというのは、木(き)、止(と)、三(み)、女(め)、井(ゐ)のような用法である。この記と書紀には、そうした仮字の用法が見られない。書紀の允恭の巻の歌に「迹」、「津」があるが、誤写である。「苫」の字がたくさん出てくるのも、「苔」を写し誤ったものである。ここは「タイ」の音を「ト」に使ったのであり、その例は廼(ナイ)を「ノ」、迺(ダイ)を「ド」、耐(ダイ)を「ド」に用いたのと同じである。こういった用法は、他の音でもよく見られる。ただ書紀の仮字は、現行本は誤字、誤写が多い。詳しくは別に論ずる。】しかし書紀は漢音と呉音を混用しており、一つの字を三つも四つもの音に通用させるので、非常にまぎらわしく、読み誤りがよく起きるが、この記は呉音だけを用い、漢音を全く使っていない。【帝を「テ」とし、禮を「レ」にしたのも、漢音の「テイ」、「レイ」でなく、呉音の「タイ」、「ライ」によるのである。それは愛を「エ」、賣や米を「メ」とするのと同じ用法だ。書紀にも同様の使い方がある。開、階を「ケ」、細を「セ」、珮、背を「ヘ」に用いたのと同じだ。ところが用の字は、呉音では「ユウ」であり、「ヨウ」というのは漢音であるのに、「ヨ」に用いている。この字は古くは呉音でも「ヨウ」と言ったかも知れない。書紀も万葉も「ヨ」の仮字にのみ用いており、「ユ」と読んだ例はない。】一字はただ一つの音に用いて、二つも三つもの音に通用させることはない。【=iげ)を「ぎ」とも読み、用を「ユ」とも読むようなのはみな間違いである。】また入声の字を用いることがほとんどない。ただ「お」に「意」の字を用いているが、これだけは入声である。【これは「億」の偏を省いたものだ。古くは偏を省いて書いた例が多い。このことはこの「伝」の十之巻「呉公(むかで)」のところで詳しく述べる。億、憶なども書紀では「お」の仮字に使っている。意の字には億(おく)の音もあり、臆(おく)に通じることもあるが、本来の音を措いて通用によって派生した音に読むべきではない。単に偏を省いたものと考えるのが正しい。】ごくまれには、「シ」に色、「カ」に甲、「ブ」に服といった文字を用いることがある。これらはその理由がある。それ以下にその韻の通音が連続しているところに出るのである。【色の字は、人名に「色許(しこ)」とある場合に限る。「色」は「しき」であって、その「き」は「許(こ)」に通じる。甲の字は「甲斐(カヒ)」と続いた場合に限るが、やはり甲(カフ)の「ふ」が「斐(ヒ)」に通じている。服の字は地名「伊服岐(いぶき)」にのみ用い、服(ぶく)の韻は「く」であって、「岐(キ)」はその通音である。これらを見ても、古代の人々の仮名遣いが厳正であったことを知ることができる。】この他、「吉備(きび)」、「吉師(きし)」の吉の字があるが、国名や姓であるから、本来の仮字とはいささか異なっている。【このため「吉備」も、歌では「岐備」などと書いてある。およそ歌と訓注の文字遣いこそ、本来の仮字の使い方であろう。】また同音の文字でも、その内容によってそれぞれ定まっていることがある。たとえば、「こ」の仮字には一般に「許」、「古」の二字があるが、「子」には「古」のみを用い、「許」を用いることはなく【「彦(ひこ)」、「壮士(おとこ)」などの「こ」も同じ。】、「め」の仮字には一般に「米」、「賣」の二字を用いている中に、「女」の意味には「賣」だけを用いて、「米」を書くことがなく【「姫(ひめ)」、「処女(おとめ)」の「め」も同じ。】、「き」には「伎」、「岐」、「紀」などが用いられる中に、「木」や「城(き)」には「紀」のみを用いて、「伎」、「岐」を書かない。「と」には「登」、「斗」、「刀」などが普通であるが、「戸」、「太(ふと)」、「問(とう)」の「と」には「斗」、「刀」のみを書いて「登」は使わない。「み」には「美」、「微」の二字が広く使われるのに、「神」、あるいは「木の実」の「み」には常に「微」が用いられて、「美」を用いない。「も」には「毛」、「母」の二字が広く使われるが、「妹(いも)」、「百(もも)」、「雲」などの「も」は「毛」だけを書いて「母」は使わない。「ひ」には「比」、「肥」を用いるのが一般的だが、「火」を表すには「肥」だけを書いて「比」を書かない。また「生(オヒ)」の「ヒ」には「斐」だけを用いて、「比」、「肥」を書かない。「び」には「備」、「毘」が用いられるが、「彦」、「姫」の「ひ」を濁って「び」と言う場合には、「毘」のみを書き、「備」は書かない。「け」には「気」、「祁」の字が普通だが、「別(わけ)」の「け」には「気」だけを用い、「祁」を書かない。「ぎ」は普通「藝」が使われるのだが、「過(すぎ)」、「祷(ねぎ)」の「ぎ」には「疑」を用いて「藝」は書かない。「そ」には「曾」、「蘇」が使われるが、「空(そら)」の「そ」には「蘇」のみを書いて「曾」は使わない。「よ」には「余」、「與」、「用」などが使われるが、「自(〜より)」の「よ」には「用」のみを書いて、「余」、「與」を使わない。「ぬ」には「奴」、「怒」の二字があるが、「野(ぬ)」、「角(つぬ)」、「忍(しぬぶ)」、「篠(しぬ)」、「楽(たぬし)」など、後代「の」と読んでいる「ぬ」には「怒」だけを書いて「奴」は書かない。これらは記に同じ言葉が数カ所出たのを調べて、いくつかの例を挙げただけである。同様の決まりは他にもたくさんある。この記だけでなく、書紀、万葉にも同じような使い分けがぼんやりと見えているが、そちらはまだよく調べていない。もっと詳細に調べる必要がある。しかし、それらはこの記の正しさ、精しさには及ばないものである。この事実は、まだ人が気付かなかったのを、私が発見したのであり、古語を解明する上で助けとなることが多いであろう。 ○二合(二音)の仮字これは人名と地名のみにある。<訳者註:ふりがなをカタカナで示したのは旧仮名遣い>
「アム」<淹> 「イニ」<印>
「イチ」<壹> 「カグ」<香> 「カゴ」<香>
「グリ」<群> 「サガ」<相> 「サヌ」<讃> 「シキ」<色> 「スク」<宿> 「タニ」<丹>、<且> 丹波(タニハ)、且波(タニハ) 「タギ」<當> 當麻(たぎま)
「ヂキ」<直> 「ツク」<筑>、<竺> 筑紫(つくし)、竺紫(つくし) 「ヅミ」<曇> 阿曇(アヅミ)
「ナニ」<難> 「ハハ」<伯> 「ハカ」<博> 「ホム」<品>
「マツ」<末>
「ムク」<目> 「ラカ」<楽> およそ古い本には、こうした用法が多く見られるものである。 ○借字(かりもじ)これも人名と地名に多い。 「ウ」菟 「エ」江、枝 「カ」鹿、蚊 「キ」木、寸 「ケ」毛 「コ」子 「シ」師【これは元来音読みによる音であるが、やがて訓にもなり、借字として用いた例である。「師木(しき)」、「百師木(ももしき)」、「味師(うまし)」、「時置師神(ときおかしのかみ)」、「秋津師比賣(アキヅシヒメ)」などの「師」がこれである。これらは音を借りた仮字でなく、訓によって読んだのである。】 「ス」巣、洲、酢 「セ」瀬 「タ」田、手 「チ」道、千、乳 「ツ」津 「テ」手、代 「ト」戸、砥 「ナ」名 「ニ」丹 「ヌ」野、沼「ネ」根 「ハ」羽、歯 「ヒ」日、氷 「ヘ」戸 「ホ」穂、大 「マ」間、真、目 「ミ」見、海、御、三 「メ」目 「モ」裳 「ヤ」屋、八、矢 「ユ」湯 「ヰ」井 「ヲ」尾、小、男。これらの字は、借字としてひんぱんに用いられる。ただしこれらの字を書いてあれば、常に借字だというわけではない。正字として用いられたところも多く、すぐには正字か借字か判別しがたい場合も多い。また借字は、ここに挙げたのがすべてだというわけでもない。よくある例を挙げたに過ぎない。ある人は「借字も結局は仮字であるから、仮字とは別に借字という範疇を設ける必要はない。古い書物の仮字に訓を用いた例が全くないわけでもないだろう」と言ったが、これは考えが足りない。たしかに借字、仮字、煎じ詰めれば同じことになるだろうが、この記にも書紀にも、歌や訓注の中で訓を用いた例は一つもないのだ。それは正しい仮字でないからである。だから借字は、仮字とは別の種類の用法だということを理解すべきだ。別種の用法であるから、別の範疇を立てて「借字」と称したのである。 ○二合(二音)の借字「アナ」穴 「イク」活 「イチ」市 「イナ」稲 「イハ」石 「イヒ」飯 「イリ」入 「オシ」忍、押 「カタ」方、「カネ」金 「カリ」刈 「クシ」櫛 「クヒ」杙、咋 「クマ」熊 「クラ」倉 「サカ」坂、酒 「シロ」代 スキ」(金+且) 「ツチ」椎 「ツヌ」角 「トリ」鳥 「ハタ」幡 「フル」振 「マタ」俣 「マヘ」前 「ミミ」耳 「モロ」諸 「ヨリ」依 「ワケ」別 「ヲリ」折 これらも事情は一字の借字と同様である。この二合の借字は、ここに挙げたほかにも大変多いので、ここでは多数の例のうち、いくつかを選び出して例示したまでである。 |
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