本居宣長『古事記伝』(現代語訳)37

 

天皇戀2八田若郎女1。賜=遣2御歌1。其歌曰。夜多能。比登母登須宜波。古母多受。多知迦阿禮那牟。阿多良須賀波良。許登袁許曾。須宜波良登伊波米。阿多良須賀志賣。爾八田若郎女答歌曰。夜多能。比登母登須宜波。比登理袁理登母。意富岐彌斯。與斯登岐許佐婆。比登理袁理登母。故爲2八田若郎女之御名代1。定2八田部1也。

 

訓読:スメラミコト、ヤタのワキイラツメをこいたまいて、みうたをおくりたまえる。そのみうた、「やたの、ひともとすげは、こもたず、たちかあれなん、あたらすがはら、ことをこそ、すげはらといわめ、あたらすがしめ」。かれヤタのワキイラツメのミこたえのうた。「やたの、ひともとすげは、ひとりおりとも、おおきみし、よしときこさば、ひとりおりとも」。かれヤタのワキイラツメのミナシロとして、ヤタベをさだめたまいき。

 

歌部分の漢字表記:八田の、一本菅は、子持たず、立ちか荒れなむ、あたら菅原、言をこそ、菅原と言はめ、あたら清し女

八田の、一本菅は、獨居りとも、大君し、よしと聞こさば、獨居りとも

 

口語訳:天皇は八田の若郎女が恋しくなって、歌を贈った。その歌は、「八田の一本菅は、子を持たず。立ち荒れるだろうか。惜しいことだ、あの菅原は。言葉でこそ菅原というが、惜しいことだ、あの清い女が」。そこで八田の若郎女は、答えた。「八田の一本菅は、一人でいますが、大君がそれでいいとおっしゃるならば、一人でいます」。そこで八田の若郎女の御名代として、八田部を定めた。

 

「天皇戀2八田若郎女1(スメラミコト、ヤタノワキイラツメをこいたまいて)」。このことは前に出た。【伝三十六】○賜遣は「おくりたまえる」と読む。【字の通りに読んだのでは、どうかと思う。あるいは「賜」の字が、「贈」を誤ったのではないか。】○夜多能(やたの)は、【三音一句】「八田の」である。この地のことは、前に言った。【伝卅二の十一葉】○比登母登須宜波(ひともとすげは)は、「一本菅は」である。神代の歌に「一本薄(ひともとすすき)」とあるたぐいだ。和名抄に「菅、和名『すげ』」とある。これはこの皇女を喩えたのである。女を菅に喩えたのは、万葉巻七【三十三丁】(1341)に「眞珠付、越能菅原、吾不苅、人之苅巻、惜菅原(またまつく、おちのすがはら、われからず、ひとのかりまく、おしきすがはら)」、巻十三【二十七丁】(3323)に「師名立、都久麻左野方、息長之、遠智能小菅、不連爾、伊苅持來、不敷爾、伊苅持來而、置而、吾乎令偲、息長之、遠智能子菅(しなてる、つくまさぬかた、おきながの、おちのこすげ、あまなくに、いかりもちき、しかなくに、いかりもちきて、おきて、あをしのばしむ、おきながの、おちのこすげ)」など、この他にもある。○古母多受(こもたず)は、「子持たず」で、子を持っていないのである。【こういうところの「ず」は、後世には「で」と言ったけれども、いにしえには「で」と言ったことはない。万葉の歌などにもみな「ず」とある。】契沖いわく、「笋を竹の子と言うように、草木も親について出るのを『子』と言う。八田の皇女の腹には皇子がいなかったので、一本菅に喩えて、惜しんだのである。【拾遺集(1168)に「吾のみや子持(こもた)るてへば高砂の、尾上に立(たて)る松もこもたり」とある。】○多知迦阿禮那牟(たちかあれなん)は、「立ちか荒れなん」である。契沖いわく、「『立ち荒れ』とは『立ち栄え』と言うのと反対である」。【私は以前、「阿」の字は「訶」の誤りで、「枯れなむ」なのだろうと思っていたが、皇女を喩えて、その許に贈る歌に、縁起の悪い「枯れなん」とは言わなかっただろうという気がする。それでもやはり「かれ」であったかも知れない。甕栗の宮の段、袁祁命の歌に、「訶禮」を「阿禮」と誤った例もある。】○阿多良須賀波良(あたらすがはら)は、「惜しむべき菅原」である。○許登袁許曾(ことをこそ)は、「言をこそ」である。「を」は「に」と言うのと同じだ。【後世には「に」という言を、いにしえは「を」と言った例は他にもある。】遠つ飛鳥の宮の段で、輕太子(かるのみこ)の歌に、「許登袁許曾、多々美登伊波米(ことをこそ、たたみといわめ)」、催馬楽の櫻人に、「己止乎己曾、安須止毛以波女(ことをこそ、あすともいわめ)」とある。○須宜波良登伊波米(すげはらといわめ)は、「菅原と言わめ」である。【前には「すがはら」、ここでは「すげはら」とある。このように同じ言を二度言う時に、少し変えて言うのは、古歌では普通である。】二句の意味は、契沖はかの輕太子の歌を解いていわく、「言葉にこそ『畳よ、決して』と言うが、実際には『我が妻よ、決して決して』の意味である。ここもそれと同じで、実際は単に菅原のことでなく、汝命のことだと言ったのだ」と言う。私が思うのに、万葉巻十一(2581)に「言云者、三々二田八酢四、少九毛、心中二、我念羽奈九二(こといえば、みみにたやすし、すくなくも、こころのうちに、わがもわなくに)」という歌の意味で、「言葉でこそ菅原と言えば容易だろうが、実はそうでない。あたら清い乙女を」と言ったのかと思ったが、やはり契沖の説が優っているだろう。【「伊波米」は、ここにあるのも、上記に引いた二つも、「言え」とあるのが普通のようだが、よく考えると「伊波米」でよく分かることである。】○阿多良須賀志賣(あたらすがしめ)は、「惜しい清し女」である。書紀の雄略の巻の歌に、「阿タ(てへん+施のつくり)羅陀倶彌ハ(白+番)夜(あたらたくみはや)」、また「婀タ(てへん+施のつくり)羅須彌儺ハ(白+番)(あたらすみなわ)」などもある。契沖いわく、「神代紀に『吾心清々之(あがこころすがすがし)』とあるのによると、『清い女』と賞めたのである。菅を祓えの具に用いるのも、清い物で清々しいという意味に、『すげ』と名付けたものだ。だから菅を喩えに用いていったのだ」と言った。師(賀茂真淵)のいわく、「『すかしめ』とは、『さかしめ』、『くわしめ』などと同じ言い方だ」と言った。物語書などに、女の美しさを「きよらなり」と言うのと同じ言い方である。○夜多能比登母登須宜波(やたのひともとすげは)は、二句上にあるのと同じ。○比登理袁理登母(ひとりおりとも)は、「一人でいても」ということだ。【「おるとも」と言わないで、「おりとも」と言うことは、伝十九の卅五葉で言った。】天皇の歌に「子持たず云々」とあるのを承けて言ったのだ。○意富岐彌斯(おおきみし)は、「天皇し」である。「し」は助辞である。○與斯登岐許佐婆(よしときこさば)は、「それでよいと詔り賜えば」である。「一人おりとも」、「よしや」と続いて、「御子はなくともそれでよい」の意味である。【契沖は「與斯」を「好」と注して、「私を良いとおっしゃるならば」の意味だとしたが、自分のことを良いというのは言うべきことではないだろう。】「詔賜う」ということを「きこす」と言った例は、書紀のこの天皇(仁徳)の歌に、「以破能臂謎餓、飫朋呂伽珥、枳許瑳怒、于羅愚波能紀(いわのひめが、おおろかに、きこさぬ、うらぐわのき)」、【何も言わないのである。】万葉巻四【三十四丁】(619)に「根毛許呂爾、君之聞四手、年深、長四云者(ねもころに、きみがきこして、としふかく、ながくしいえば)」、【「言って」ということである。今の本は「手」を「乎」に誤っている。】巻十一【三十三丁】(2710)に「狗上之、鳥籠山爾有、不知也河、不知二五寸許瀬、余名告奈(いぬかみの、とこのやまなる、いさやがわ、いさとをきこせ、わがなのらすな)」、十二【二十四丁】(3063)に、「空言毛、將相跡令聞、戀之名種爾(そらごとも、あわんときこせ、こいのなぐさに)」、【これらは「言ってくれ」ということだ。】巻十三【十九丁】(3289)に「莫寝等、母寸巨勢友(ないねそと、ははきこせども)」、【「言ったけれども」ということだ。】また【二十六丁】(3318)「君者聞之二二(きみはきこしし)」【「言いきかせた」ということだ。】巻廿【五十九丁】(4499)に「和我勢故之、可久志伎許散婆(わがせこし、かくしきこさば)」などとあるのと同様だ。【この言の本来の意味は「聞かせる」ということだが、用いる意味は単に「のりたまう」と言うことと同じである。言葉の意味を解くのに、基本の意味を言うと、かえって違っていることが多い。用いた意味を主眼とすべきである。】○比登理袁理登母(ひとりおりとも)。前と同じ。このところに含んだ意味があるだろう。御子はなくとも、それでよいと思おし、棄てることはないだろうと天皇が言えば、一人でいても、なお頼もしく思うということだ。○御名代(みなしろ)。前に出た。【伝三十五の十葉】○八田部(やたべ)。すべて「〜部」という名のことは、前【伝廿四の十五葉】に言った。旧事紀【物部連氏の世系を書いた中】に、「矢田の皇女は、難波の高津の宮で天下を治めた天皇の御世に、皇后となって子がなかったとき、侍臣の大別連公(おおわけのむらじのきみ)に言って、皇子代として、その后の御名を氏の名とし、氏の造として、改めて矢田部連公という姓を与えた」とある。【「后の名を氏の名とした」というのは、さかしらに改めた文と見え、「氏の造として」などというのは、納得できない。これは皇后の御子代として矢田部を定め、大別連をその部造(とものみやつこ)として、矢田部の連という姓を与えたのだろう。その記載が古い文献にあったのを取って、意味をわきまえず、みだりに書いたものである。旧事紀にはそういう例が多い。部造はいずれにせよ、その部を掌る者である。旧事紀に於いては、八田皇女の母は、物部連氏の女で、大別連はその弟だったから、その由縁によって八田部を掌らせたのだろう。新撰姓氏録に「矢田部連は、伊香我色乎(いかがしこお)命の子孫である」、「矢田部は饒速日命の七世の孫、大新河(おおにいかわ)命の子孫である」、「矢田部造は、伊香我色雄命の子孫である」、「矢田部首は、伊香我色雄命の子孫である」などと見える。伊香我色雄命も大新河命も、大別連の先祖だ。この他に「矢田部は、鴨縣主と同祖云々」という姓も見える。】和名抄に、「摂津国八田部郡、八部【やたべ】郷」がある。○書紀にいわく、「三十八年春正月癸酉朔戊寅、八田皇女を立てて皇后とした」とある。

 

亦天皇。以2其弟速總別王1爲レ媒而。乞2庶妹女鳥王1。爾女鳥王語2速總別王1曰。因2大后之強1。不レ治=賜2八田若郎女1。故思レ不2仕奉1。吾爲2汝命之妻1。即相婚是以速總別王不2復奏1。爾天皇直=幸2女鳥王之所1レ坐而。坐2其殿戸之閾上1。於レ是女鳥王坐レ機而。織レ服。爾天皇歌曰。賣杼理能。和賀意富岐美能。淤呂須波多。他賀多泥呂迦母。女鳥王答歌曰。多迦由久夜。波夜夫佐和氣能。美淤須比賀泥。故天皇。知2其情1。還=入2於1レ宮。

 

訓読:またスメラミコト、そのみおとハヤブサワケのミコをなかびととして、ままいもメドリのミコをこいたまいき。ここにメドリのミコ、ハヤブサワケのミコにかたりたまわく、「おおぎさきのおずきによりて、ヤタのワキイラツメをもおさめたまわず。かれつかえまつらじ。アはナがミコトのみめになりなんとおもう」といいて、すなわちみあいましき。ここをもてハヤブサワケのミコかえりこともうしたまわざりき。ここにスメラミコトただにメドリのミコのますところにいでまして、そのトノドのシキミのうえにましき。ここにメドリのミコはたにまして、みそをおらせり。かれスメラミコト、ミうたよみしたまわく、「めどりの、わがおおきみの、おろすはた、たがかねろかも」。メドリのミコ、ミこたえのうた。「たかゆくや、はやふさわけの、みおすいがね」。かれスメラミコト、そのこころをしりて、ミヤにかえりましき。

 

歌部分の漢字表記:女鳥の、我が王の、織ろす服、誰が料ろかも

高行くや、速總別の、御襲料

 

口語訳:また天皇はその弟速總別王を媒として、異母妹の女鳥王を娶ろうとした。ところが女鳥王は速總別王に「大后の嫉妬が激しいので、八田若郎女も宮に入れることができない。だから私は天皇に仕えることはしないわ。むしろあなたの妻になろうと思うの」と言った。そこで(二人は)まぐわいを行った。そのため、速總別王は天皇に復命しなかった。天皇は直接女鳥王の所へ行って、殿戸の閾のところに立った。女鳥王は機の前に坐って、服を織っていた。天皇が「女鳥王、誰の服の材料を織っているのか」と歌で尋ねると、女鳥王は「速總別王の服の材料ですわ」と歌で答えた。天皇はその気持ちを知って、宮に帰った。

 

速總別王(はやぶさわけのみこ)のことは、前に出た。【伝卅二の十三葉】○媒は「なかびと」と読む。催馬楽の淺水に「不利爾之和禮乎多禮曾古乃名加比止太天々美毛止乃加太知世宇曾己之止不良比爾久留也(ふりにしわれをたれぞこのなかびとたててみもとのかたちしょうそこしとぶらいにくるや)」とあるのによる。中人の意味だ。【今の世でも「なこうど」と言う。】新撰字鏡には「媒は『奈加太豆(なかだづ)』」とある。【「豆」の字はどうか。「知」とあるべきだろう。「なかだち」と言うのも、古い名だろう。】○女鳥王(めどりのみこ)は、前に出た。【伝卅二の三十四葉】○「語2速總別王1曰(はやぶさわけのミコにかたりたまわく)」。この上に、天皇が乞うたことを、速總別王が女鳥王に伝えた言葉があるはずだが、それは「媒として乞い賜う」という言葉に含めて、省いたのだ。○大后(おおぎさき)は、石之比賣命のことである。○強は、「おずし」と読むのがよろしい。この言のことは、上巻の天宇受賣命のところ【伝八の四十九葉】に言った。ここは嫉妬深く、恐いことを言う。○「不レ治=賜(おさめたまわず)」とは、思うままに召し入れて、愛することもできないのを言う。この「治」という語の意味は、上巻伝十二【二十一葉】で言った。○不仕奉吾(つかえまつらじ、あ)は、「吾」を「不仕奉」の上に置いて考えよ。○「直=幸2女鳥王之所1レ坐而(ただにめどりのみこのところにいでまして)」。ここで「許(もと)」などとは言わず、「所坐(ますところ)」と言ったのは、「その殿にいでます」というのとは気持ちが違い、そのいるところまで直接に入ったのである。それで「直に」と言う。【あるいは「直に」と言ったのは、速總別王が返り事を言わないので、自ら出かけたことを言うか。】「所坐」は、「坐(ま)す處」の意味だ。上巻に「不レ知レ所レ出」とあるのも、「出る處(ところ)を知らない」という意味で同じだ。【「所」の字は虚字ではない。この記にはこういう文が多い。師は「坐」の下に「處」の字が落ちたと言ったけれどもそうではない。】○閾上(しきみのうえ)は、一本や釈日本紀に引いたものなどには「間」の一字に書いてある。それも悪くはない。しかしここでは真福寺本、延佳本、また一本によった。【一本に「閾」を「闕」と書いてあるのは誤りだ。また旧印本にはこのところ、「王」の字から「王」の字まで、十七字が脱けている。】「閾」は「しきみ」と読む。和名抄に「爾雅の注にいわく、閾は門の限りである。兼名苑にいわく、閾は一名コン(もんがまえに困)、和名『しきみ』、俗に言う『とじきみ』」と見え、日本霊異記に「コンは『とじきみ』」とある。敷いて戸を立てる意味で、「敷持(しきもち)」の意味か。○賣杼理能(めどりの)は「女鳥の」である。○和賀意富岐美能(わがおおきみの)は、「吾王の」である。「自分の王」と親しみ、持ち上げて言ったのである。○淤呂須波多(おろすはた)は、「織ろす服」である。「おる」を延ばして、「おらす」とも「おろす」とも言うのは、古言では普通のことだ。【「ら」と言わないで「ろ」と言ったのは逆のようだが、「うつる」を「うつろう」、「隠る」を「かくろう」と言うたぐいだ。また「所知看(しらしめす)」を「しろしめす」と言うのなども同じ。】「はた」には二つある。一つは「機」で、織機だということは誰でも知っている。もう一つは「服」の字を書いて、布や帛のたぐい、すべて織り成したものの総名である。「倭文布(しつぬの)」を「しつはた」と良い、神功記に「千ハタ(糸+曾)高ハタ」、天武紀に「綾羅(うすはた)」また「綺(かむはた)」などがある。これらによっても納得すべきである。【それを世には、「はた」といえば「機」のことだけだと考えて、布や帛の総名であることが分からない。「機」は「はた」を織る道具なので、「はたもの」と言うべきなのを、省いて「はた」とだけ言うのだ。】「はとり」を服部と書くのもこのためだ。【「服織部(はたおりべ)」のことだ。】「はた織る」と言うにも、機を織るのと、服を織るのと、二つの意味がある。ここは書紀には「於瑠箇儺麼多(おるかなばた)」とあるのによると、「織機(おろすはた)」だろうが、後の句を考えると、やはり「服」とする方がしっくりする。○他賀多泥呂迦母(たがかねろかも)は、「誰が料かも」だ。「多泥」は「かね」とあるべきだ。上巻の八千矛神の歌にも「茜」を「阿多泥(あたね)」と書いてある。「加」の草書を「多」に誤ったのではないだろうか。「かね」でなければならないと言う理由は、次の歌に「速總別の御襲がね」と答えた「賀泥」と同一の言葉で、ここは「誰のかねか」と質問した言葉だからだ。さらに答えの歌のところで言う。【「多泥」を「為(ため)」とするのはどうか。「多米」をそう言った例はないことだ。】「呂迦母」の例は、中巻の明の宮の段の歌のところで言った。【伝卅二の四十一葉】「ろ」と「も」は助辞である。○多迦由久夜(たかゆくや)は、「高行くや」である。「虚空飛ぶ」といったことである。【単に高く行くのとは、少し違う。】このことは、中巻玉垣の宮の段に「高往鵠之音(たかゆくたづのおと)」とあるところ【伝廿五の五葉】で言った。これは「隼」の枕詞である。○波夜夫佐和氣能(はやぶさわけの)は「速總別の」である。○美淤須比賀泥(みおすいがね)は、「御おすい料」である。「おすい」は上代に、体の形を隠すために着た服である。このもののことは、上巻の八千矛神の歌のところ【伝十一の八葉】で言った。「賀泥」は、中昔の物語書などに【皇后の候補となる姫君を】「后がね」、【皇太子になるべき皇子を】「坊(ぼう)がね」、【博士になるべき学者を】「博士がね」、【婿になるべき男を】「婿がね」などと言った「がね」で、そのものになる「かねて設けた下かた」の意味であるから、これも「御おすい」になるべき料ということだ。なお万葉の歌に「〜賀泥」、「〜賀爾(がに)」という言葉が多い、それも【用言から続く言い方の違いだけで、】同じ言葉だ。【万葉の「賀泥」、「賀爾」という歌は、詞の玉緒の七の巻に出してある。】これは天皇の歌に「この服は誰の料に織っているか」と尋ねたので、「速總別王の御おすい料ですわ」と答えたのである、そこで上の「多泥」も「加泥」だろうと言ったのだ。【上にあるのは「之」から続いているから、「加」は清音である。ここは「淤須比」から続くから、「賀」と濁音になる。】こう詠んだ意味は、このとき速總別王は天皇の媒をしていたから、忍び忍びに天皇の言葉を伝えに、ここへ通ってくる時に、着る服の料だという意味に言ったのではあるまいか。「おすい」は上代には、男女ともに体を隠す服だったからである。【このように見なければ、この答えの歌は納得できない。というのは、天皇が乞うているときに、その前ではばかりもなく、「速總別王の料だ」とあからさまに言ったのは、上代の人の心がいかに真っ直ぐだったとしても、ありそうにないことだ。必ず包み隠しただろう。】○「知2其情1(そのこころをしりて)」。諸本に「情」の字が脱けている。ここは真福寺本、延佳本によった。「情」とは内々の実情を言う。【「心」を「裏」とも言って、「内」と通じる。からぶみにも、「情状」、「情實」などと書いてある。】歌では、上記のように似つかわしく、いいように言っていても、それは偽りで、実際は速總別王とまぐわいしたために、彼が忍んで通うための「おすい」を織っているのだと、内々の実情を悟ったのである。【答えの歌をこのように見ないで、何となく見る時は、「知2其情1」ということは確かに当たらない。「情」とはうわべの言葉に対し、内々の実を言う言葉だからである。よく味わうべきである。】○還入の二字を「かえりましき」と読む。【ここは「入」ということには用がないので、「入」の字は単に添えて書いてあるだけだ。】こうした風に書いてあるのも例がある。朝倉の宮の段に「賜入」と見え、万葉巻二(113詞書)に「奉入歌(たてまつるうた)」、祝詞式に「齋内親王奉入時(いつきのひめみこをたてまつるとき)」などもあるたぐいだ。【これらも、「入」の字は読むべきでない。】○書紀にいわく、「四十年春三月、雌鳥の皇女を召して妃にしようとした。隼別の皇子を媒とした。このとき隼別皇子は密かに雌鳥皇女と通じて、久しく復命しなかった。天皇はそのことを知らず、自ら雌鳥皇女の殿に行った。皇女は機を織っていた。女人たちは歌って、『比佐箇多能、阿梅箇儺麼多、謎廼利餓、於瑠箇儺麼多、波椰歩佐和氣能、瀰於須譬ガ(鳥+我)泥(ひさかたの、あめかなばた、めどりが、おるかなばた、はやぶさわけの、みおすいがね)』と言っていた。天皇は隼別皇子が密通したのを知って恨みに思ったが、皇后の言をはばかり、また兄弟の義を考えて、忍んで罪をとがめなかった」とある。

 

此時。其夫速總別王到來之時。其妻女鳥王歌曰。比婆理波。阿米邇迦氣流。多迦由玖夜。波夜夫佐和氣。佐邪岐登良佐泥。天皇聞2此歌1。即興レ軍。欲レ殺。爾速總別王女鳥王。共逃退而。騰レ于2倉椅山1。於レ是速總別王歌曰。波斯多弖能。久良波斯夜麻袁。佐賀志美登。伊波迦伎加泥弖。和賀弖登良須母。又歌曰。波斯多弖能。久良波斯夜麻波。佐賀斯祁杼。伊毛登能爐禮波。佐賀斯玖母阿良受。故自2其地1逃亡。到2宇陀之蘇邇1時。御軍追到而。殺也。

 

訓読:この後、そのおハヤブサワケのミコのきませるときに、そのみめメドリのミコうたいたまわく、「ひばりは、あめにかける。たかゆくや、はやぶさわけ、さざきとらさね」。スメラミコトこのうたをききて、すなわちイクサをおこして、とりたまわんとす。かれハヤブサワケのミコ、メドリのミコ、ともににげさりて、クラハシヤマにのぼりましき。ここにハヤブサワケのミコうたいたまわく、「はしたての、くらはしやまを、さがしみと、いわかきかねて、わがてとらすも」、また「はしたての、くらはしやまは、さがしかど、いもとのぼれば、さがしくもあらず」。かれそこよりにげて、ウダのソニにいたりませるときに、ミイクサおいいたりて、しせまつりき。

 

歌部分の漢字表記:雲雀は、天に翔る、高行くや、速總別、鷦鷯取らさね

梯立ての、倉椅山を、嶮しみと、岩かきかねて、和が手取らすも

梯立ての、倉椅山は、嶮しけど、妹と登れば、嶮しくもあらず

 

口語訳:この後、速總別王がやって来たとき、その妻の女鳥王が歌って、「雲雀は天を翔る。速總別よ、鷦鷯を取りなさい」と言った。天皇はこの歌を聞くと、軍を興して殺そうとした。速總別王と女鳥王は共に逃げ出し、倉椅山に登った。そこで速總別王は歌って、「梯立ての倉椅山の険しさに、岩をつかみかねて私の手を取ることだ」、また「梯立ての倉椅山は険しいが、妹と二人で登れば、険しくもない」。そこから更に逃げて、宇陀の曾爾に到ったとき、御軍は追いついて殺した。

 

此時は誤字かと師が言ったが、実際どうかと思われる。【下に「到來之時」とあるからだ。】そこで思うに、前に「自レ此後時云々」ともあり、また下に「此時之後」ともあるから、ここも「時」の下か上に「後」の字が脱けたのではないか。だから取りあえず「こののち」と読んでおく。○夫は「お」と読む。上巻の須勢理毘賣命の歌に「那袁岐弖、遠波那志」【「汝を置いて夫はなし」である。】とあるからである。和名抄に「夫は『おうと』」とあるのは、後のことである。「後夫は『うわお』」、「前夫は『したお』」とあるので、「夫」は「お」と読むことを知るべきである。○到來は「きませる」と読む。○比婆理波(ひばりは)は、「雲雀は」である。和名抄に「崔禹錫の食經にいわく、雲雀は雀に似て大きな鳥である。和名『ひばり』、楊氏の漢語抄にいわく、ソウ(倉+鳥)コウ(庚+鳥)は和名同上」とある。○阿米邇迦氣流(あめにかける)は、「天に翔る」である。飛んでたいへん高く登るのを言う。○多迦由玖夜、波夜夫佐和氣(たかゆくや、はやぶさわけ)。上にあるのと同じだ。ただしここは名を言って、直接に「隼」を言っている。○佐邪岐登良佐泥(さざきとらさね)は、「鷦鷯(さざき)取らさね」だ。「とれ」を延ばして「とらせ」と言うのは普通だが、このように「ね」と言うのも一つの言い方だ。【「行け」を「ゆかさね」、「遣れ」を「やらさね」というのもみな同じ格である。また「取れ」を「とりね」、「行け」を「ゆきね」というたぐいがある。これも一つの格で、意味はみな同じだ。】「取りなさい」ということである。これは大雀命【天皇】を殺しなさいという意味だ。【釈日本紀に「皇朝の鷹の初めは、仁徳四十三年である。それ以前は鷹の才学については、読むことができなかった云々」というのは、当たらないことである。鷹を用いて鳥を取らせることは、この御世から始まったと言っても、鷹のたぐいは、もとから鳥をよく取るものである。】上に、「雲雀は天に翔る」というのは、単にこの句を言うためである。雲雀は天高く翔るもので、取るに苦労はないだろうから、近くにいる鷦鷯を取りなさいと言うのである。【「雲雀云々」は譬えの意味には関わらない。また契沖が「雲雀のように鷹も高く翔って、鷦鷯を取れという意味だ」と言ったのは、書紀の歌に拘泥した説でよくない。「雲雀は」という語の勢いに合わない。】なぜ天皇を弑せよと言ったのかと言うと、初め天皇が乞うたのに従わず、速總別王と交わったから、天皇の咎めがあることへの恐れからだろう。○書紀にいわく、「突然隼別皇子は、皇女の膝に枕して語った。『鷦鷯と隼と、どちらが速いだろうか』。答えて『隼の方が速いですわ』。そこで皇子は『それなら私の方が先に行くべきだ』と言った。天皇はこれを聞いて、更に恨んだ。この時、隼別皇子は、舎人らと歌って、『破夜歩佐波、阿梅珥能朋利、等弭箇慨梨、伊菟岐餓宇倍能、婆弉岐等羅佐泥(はやぶさは、あめにのぼり、とびかけり、いつきがうえの、さざきとらさね)』」、【「婆」の字は、「裟」を誤ったのだ。「天にかけり」を契沖が「天位にのぼる意味だ」と言ったのは良くない。この二句は、隼の勢いを言っただけである。「伊菟岐(いつき)」は「五十槻」であろう。「嚴木」は関係がない。】○「聞2此歌1(このうたをききて)」は、伝聞で聞いたのだろう。○欲殺は、「とりたまわんとす」と読む。「殺」を「とる」と読むべき理由は、中巻の水垣の宮の段【伝廿三の六十葉】で言った。考え合わせよ。○逃退は「にげさり」と読む。【この二字は、訶志比の宮の段の終わりにあるのを、「にげしりぞき」と読んでおいたが、ここはそうは読まない。】穴穂の宮の段に「逃去」とあるのと同じ様子だからだ。○倉椅山(くらはしやま)は大和国十市郡にある。崇峻天皇の倉椅の柴垣の宮、諸陵式に「倉梯(くらはし)の岡の陵は、大和国十市郡にある」。これらは同じ地である。【今の倉橋村は、櫻井から多武峰に行く間にある。山は村の東の方にある。延喜式神名帳に「十市郡、下居(おりい)神社」がある。それを文徳実録には「椋橋(くらはし)の下居の神」とある。今も下居村は、倉橋村の南に続いている。】書紀の天武の巻に、「七年、この春・・・齋宮を倉梯の河上に建てた。云々」、また「十二年十月、天皇は倉梯で狩りをした」、続日本紀の「慶雲二年三月癸未、天皇の車は倉橋の離宮に到った」、三代実録に「貞観十一年七月八日、大和国十市郡の椋橋山の河岸が崩れ去った。高さ二丈、深さ一丈二尺、その中に鏡があった。広さは一尺七寸あり、採って献げた」、万葉巻三【二十一丁】(290)に「椋橋乃山乎高可夜隱爾、出來月乃光乏寸(くらはしのやまをたかみかよごもりに、いでたるつきのひかりとぼしき)」、巻七【二十七丁】(1282)に「橋立倉椅山立白雲(はしだてのくらはしやまにたてるしらくも)云々」とある。【同巻に(1283)「橋立倉椅川(はしだてのくらはしがわの)云々」、(1284)「橋立倉橋川(はしだてのくらはしがわの)云々」とある。】ここでこの王たちがこの山に登ったのは、書紀によれば、そこを越えて伊勢に逃げようとしてのことである。○波斯多弖能(はしたての)は、「梯立ての」であって、倉椅の枕詞である。その由縁は冠辞考に見える。【「倉の梯」という意味で続く。】○久良波斯夜麻袁(くらはしやまを)は、「倉椅山を」である。○佐賀志美登(さがしみと)は、「嶮しみと」である。【「さがしさに」というようなものだ。】新撰字鏡に「嵯峨は『さがし』」、また「ショク(やまかんむりに則)男は、峻嶮の兒、『さがし』」、また「ギョウ(山+尭)ゲイ(山+兒)は『さがし』、峨であり嶮である」、また「タイ(山かんむりに替)崟は高く峻なる兒、『さがし』」などとある。【この言を「嵯峨」の字の音と思うのは誤りである。その字音は、たまたま合うだけである。】○伊波迦伎加泥弖(いわかきかねて)は、【旧印本には「迦」の字、または「加」の字が脱けている。一本には「伎」の字、また「泥」の字が落ちている。ここでは真福寺本、延佳本、他一本によった。】「岩掻きかねて」である。○和賀弖登良須母(わがてとらすも)は、「吾が手取らすも」である。「とらす」は「とる」を延ばして言った言で、「も」は助辞である。【こうしたところで「も」という例は、古歌に多い。】歌全体の意味は、「倉椅山の険しさに、岩をつかみながら登るのに、女鳥王は手弱女だから、そのように岩をつかむこともできず、我が手に取り付くことよ」というのである。【「吾手」は速總別王の手である。第四句を契沖は、「伊毛波伎加泥弖(いもはきかねて)」として、「妹は来かねて」だ、としたのはどの本に依ったのか。勝手に「毛」の字を加えたのか。しかし契沖は、そうしたことは滅多にしない人である。大和志に引いたものにもそうある。いぶかしい。師もこれを用いた。だがそれは誤りである。険しい山を登るうちには、「来かねて」という言葉は似つかわしくない。「のぼりかねて」などと言うべきだろう。また「来かねて我が手とらすも」と言ったのでは、言葉が合わない。「かね」は「不得」と書くように、来ることができなかったら、どうして「我が手」を取ることがあるだろうか。】肥前国風土記に、「杵嶋郡に一孤山がある。名を杵嶋と言う。里の女は毎年春と秋に、登って望み、楽飲歌舞する。歌の詞にいわく、『阿良禮符縷耆資熊加多ケ(土+豈)塢嵯峨紫彌苔、區縒刀理我泥底伊母我提鷗刀縷(あられふるきしまがたけをさがしみと、くさとりがねていもがてをとる)』、これを杵嶋振りの曲という」とあるのは、【「熊」の字はどうだろう。】ここの歌を取って、所々詞を変えて、その歌曲に用いたものだ。【万葉巻三(385)に、「霰零吉志美我高嶺乎險跡、草取可奈和妹手乎取(あられふるきしみがたけをさがしみと、くさとりかなわいもがてをとる)」、これは上の杵嶋曲の歌であるのを、仙柘枝(やまひとつみのえ)の歌としているのは、誤りである。荒木田久老いわく、「可奈和」は「可禰手」を写し誤ったものだ。】○又歌曰・・・佐賀斯祁杼(さがしけど)は、「険しいけれど」である。それを「れ」を省いて言うのは、古歌の常である。○伊毛登能爐禮波(いもとのぼれば)は、【「波」の字は「婆」が正しいのだが、諸本みな「波」と書いているのは、写し誤ったのだ。】「妹と登れば」である。○佐賀斯玖母阿良受(さがしくもあらず)は、「険しくもない」ということだ。妹と手をつないで登れば、険しいとも苦しいとも思わない、という意味だ。この歌、書紀には「破始多弖(氏の下に一)能佐餓始枳椰摩茂和藝毛古等、赴駄利古喩例麼椰須武志呂箇茂(はしたてのさがしきやまもわぎもこと、ふたりこゆればやすむしろかも)」とあり、意味は同じことだ。【「梯立てのように険しい山だが、妹とともに越えれば、苦しくもなく、安楽なむしろにいるようなものだ」との意味だ。】○逃亡は、二字を「にげて」と読む。○宇陀は、前に出た。【伝十八の七十二葉】○蘇邇(そに)は大和国宇陀郡の東の端の山中で、今は八村【長野村、掛村、小長尾村、今井村、葛村(かづらむら)、伊賀見村、太郎路村(たろうじむら)、鹽井村】があって、曾爾谷という。いにしえの漆部の郷だという。伊賀、伊勢の境に近いところである。【今の世では、長谷から伊勢へ越えるのに、大道が二つある。萩原の駅から分かれて、北は伊賀の国を経て、伊勢の一志郡に到る。南は赤羽越えといって、直接に伊勢の同郡に到る。蘇邇はその二道の間にあって、赤羽越えの道である菅野の駅より少し西北の方である。この王たちが行った道は、書紀の記載から考えると、蘇邇から一志郡の家城村(いえきむら)を経て、川口に到る道のようである。いにしえの大道はこれではなかったろうか。川口の關というのも、この道にある。】○殺は、「しせまつりき」と読む。「しせ」ということは、上巻の沼河比賣の歌のところ【伝十一の廿葉】で言った通りだ。○書紀にいわく、「天皇はこの歌を聞いて勃然と大きな怒りを発して言った。『私は私恨でもって、親しい者を亡くそうというのではない。忍んでである。どうして行いに傷があると言って、私事を社稷に及ぼそうとするのか』。直ちに隼別皇子を殺そうとした。そこで皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮に逃げ延びようと走った。このとき天皇は隼別皇子が逃げたと知って、吉備品遲部の雄鰤(おふな)、播磨の佐伯の直、阿俄能胡(あがのこ)を遣わして、『追いついたところで殺せ』と言った。皇后は『雌鳥皇女は、本当に重い罪に当たります。けれども殺すときに、皇女の身を露わにしたくはありません』と言って、雄鰤たちに『皇女の持っている足玉・手玉を取ってはなりません』と言った。雄鰤らは急追して菟田に到り、素珥(そに)の山に迫った。この時、(皇子等は)草の中に隠れて、わずかに逃れた。急いで走り、山を越えた。そこで皇子は歌って『破始多弖(氏の下に一)能云々』。雄鰤らは皇子が逃げ去ったことを知り、急に伊勢の蒋代野(こもしろの)で追いついて殺した。雄鰤らは、皇女の玉を探って、裳の中から見出した。そこで二王の屍を廬杵河(いおきがわ)のほとりに埋め、復命した」とある。【「この歌を聞いて」とは、「さざきとらさね」という歌である。伊勢の蒋代野で殺したとあるのは、この記と伝えが異なる。廬杵河は、谷川氏いわく、「今の一志郡の家城川だろう。河口というのも、この川の口である」と言う。その通りだろう。家城川は、雲出川(くもずがわ)の上流で、川を隔てて北家城村、南家城村というのがある。川口というのは、その東方である。北家城村のあたりに、石を畳んで造った窟があって、里人は夫婦窟(めおといわや)と言う、これがこの二王の墓だろう。その窟の上に塚がある。これは窟がその塚の下の方がほぼ崩れて、構築が露出したものなのだろう。】

 

其將軍山部大楯連。取B其女鳥王。所レ纏2御手1之玉釧A而。與2己妻1。此時之後。將レ爲2豊樂1之時。氏氏之女等皆朝參。爾大楯連之妻。以2其王之玉釧1。纏レ于2己手1而參赴。於レ是大后石之日賣命。自取2大御酒柏1。賜2諸氏氏之女等1。爾大后見=知2其玉釧1。不レ賜2御酒柏1。乃引退。召=出2其夫大楯連1以。詔之。其王等因レ无レ禮而退賜。是者無2異事1耳。夫之奴乎。所レ纏2己君之御手1玉釧。於2膚オン(火+榲のつくり)1剥持來。即與2己妻1乃給2死刑1也。

 

訓読:そのいくさのきみヤマベのオオタテのムラジ、そのメドリのミコの、みてにまかせるタマクシロをとりて、おのがメにあたえたりき。こののち、とよのあかりしたまわんとするときに、うじうじのおみなどもみなミカドまいりす。ここにオオタテのムラジがメ、かのミコのタマクシロを、おのがてにまきてまいれり。ここにおおぎさきイワノヒメのミコト、みずからオオミキのカシワをとらして、もろもろのうじうじのおみなどもにたまいき。かれおおぎさきそのタマクシロをしりたまいて、みきのカシワをたまわずて、すなわちひきそけたまいて、そのおオオタテのムラジをめしいでて、のりたまわく、「かのミコたちいやなきによりてきらいたまえる。こはケなることなくこそ。それのヤツコや、おのがキミのみてにまかせるタマクシロを、はだもあたたけきにはぎもちきて、おのがメにあたえること」とのりたまいてすなわちコロスつみにおこないたまいき。

 

口語訳:その将軍だった山部の大楯連は、女鳥王が手に纏いていた玉釧を取って、自分の妻に与えた。この後、豊樂を開こうとした時、氏々の女たちが朝廷にやって来ていた。そこへ大楯連の妻は、自分の手にその王の玉釧を纏いてやって来た。大后の石之比賣命は、自ら大御酒の柏を取って、女たちに分け与えていた。大后はその玉釧を知っていて、その妻に御酒を与えず、引き避けた。その夫、大楯連を召し出して、「かの王たちは、礼儀知らずだったので討った。これは何も怪しいことではない。おのれの主人が手に纏いていた玉釧を、その死体の肌もまだ温かいのに、剥ぎ取ってきて、おのれの妻に与えることよ」と責めて、死刑にした。

 

將軍(いくさのきみ)は、前に出た。【伝卅一の十一葉】○山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)。山部連氏は、甕栗の宮の段に「山部の連、小楯(おたて)」という人が見える。書紀の顕宗の巻に「山部連の先祖、伊豫の來目部の小楯は・・・『前の播磨国の国司、來目部小楯【またの名は磐盾】は、私を迎え求めて、(天皇の位に)就かせた。その功績はたいへん大きい。願わしいことを言え』といった。小楯は謹んで『山の官につきとうございます』と言った。そこで山の官とし、姓を改めて山部連とした」とあり。天武の巻に「十三年十二月、山部連に姓を与えて宿禰とした」、【山部赤人など、この氏の人だ。】続日本紀に、「延暦四年五月。詔して・・・『先帝の名、および私の諱は、公私ともに触れ犯すことは聞くに忍びがたい。これより以降、すべて改めるべきだ。白髪部の姓を改めて、眞髪部とし、山部を山とする』」。【これから山宿禰といった。】こうあるけれども、この姓は何から出たか、物の本に見えたことがなく、詳細は不明だ。新撰姓氏録にも見えない。【大和国皇別に「山公(やまのきみ)は内臣(うちのおみ)と同祖、味内(うましうち)宿禰の子孫である」、また和泉国皇別に「山公は、垂仁天皇の皇子、五十日足彦別命(いかたらしひこわけのみこと)の子孫である」、また同国神別に、「山直(やまのあたえ)は、天穂日命の十七世の孫、日古曾日乃己名命(ひこそひのこなのみこと)の子孫である」などがあるが、姓が異なるので、これらの内にはないだろう。上記の山直は、続日本後紀八に「山直、池作(いけつくり)に宿禰姓を与えた」とある。また摂津国神別に見える山直は、山代直を誤ったものだろう。ある説で、山部赤人を垂仁天皇の末裔であるというのは、この新撰姓氏録の山公の條を見て何となく言い出した説だろう。またこの山部と山邊(やまのべ)とは別氏で、尸も異なる。混同しないように。】上記の顕宗紀に、この姓はもとは伊豫の來目部とあるから、あるいは大久米命の末裔で、久米直と同祖かも知れない。久米直が伊豫國に由縁があることは、上巻のその氏のところ【伝十五の八十二葉】を考え合わせよ。ところが山部連という姓を賜ったのは、書紀によると顕宗天皇の御世であるのに、ここの記述はいぶかしい。【ここは「山部連の祖、大楯」などとあるべきだ。】書紀の伝えは姓名が異なる。次に引く通りだ。○玉釧(たまくしろ)は、諸本に「釧」を「釵」と書き、真福寺本では「釼」と書いてある。みな誤りだ。師が「釧」と改めて「くしろ」と読んだのが正しい。この「くしろ」のことは、冠辞考に「釧着(くしろつく)」、「拆釧(さくくしろ)」、「繁釧(しげくしろ)」、「玉釧」などの條で言われている通りだ。【万葉にも、字を写し誤って「ヘキ(金+爪)」、「釼」などを書き、読みも誤っている。しかし「久志呂」、「串呂」などと書いてあるところもあって、名前ははっきりしている。和名抄の服玩部に、「釧は内典にいわく、指の上にあるものを名付けて『環』と言い、臂の上にあるものを名付けて『釧』と言う。『ひじまき』」とある。これは即ち「くしろ」なのを、「ひじまき」とだけ書いたのは、当時既に「くしろ」という名は失せて、人も知らなかったのだろう。古今和歌六帖(3181)にも、万葉巻九(1766)に「久志呂」とある歌を「櫛の歌」としている。ところが顯昭は袖中抄にその歌を出して、「『くしろ』は釧の字を読んだもので、内典には・・・臂の上にあるのを釧という云々」と言ったのは、さすがに物知りだ。そうして師の冠辞考に詳細にわきまえられたので、この物の名は再び世に明らかになった。また和名抄の農耕具の中に「ヒャク(金+脈のつくり)は『かなかき』、あるいは『くしろ』」とあるのは、この物に「釧」を誤って「ヒャク」と書いたものに「くしろ」という読みがあるのを見て、誤って農具としたものだろう。】釧には、玉や鈴を付けたものと見える。玉釧とは、玉を付けたものを言うのだろう。【また「玉」とは例の美称で、これも鈴を付けたのではないかと思ったが、書紀には直接に「珠」とあるから、やはり玉を付けたのである。鈴を付けたことは、冠辞考で言っている。】○此時之後は「こののち」と読む。前に「自此後時(これよりのちのとき)」ともある。○豊樂(とよのあかり)。前に出た。【伝卅六の二葉】○氏氏之女等(うじうじのおみなども)。書紀に「内外の命婦たち」と書かれているのは、例の漢文調の文である。「氏々」ということは、遠つ飛鳥の宮の段で言う。【伝三十九の十二葉】○朝參は「みかどまいりす」と読む。書紀の雄略の巻に、「臣・連・伴造は、毎日朝参せよ」、舒明の巻に「群卿および百寮は、朝参を怠っている。これより以降、毎朝卯の刻に参って、巳の刻より後に退出せよ。鐘をついて時を整えよ」、天武の巻に「・・・二人に朝参させてはならない」、また「諸の文武官人、および畿内の位ある人は、四つの初めの月の、かならず朝参せよ」、万葉巻十八【三十三丁】(4121)に「朝參乃、伎美我須我多乎、美受比左爾、比奈爾之須米婆、安禮故非爾家里(朝參の、きみがすがたを、みずひさに、ひなにしすめば、あれこいにけり)」、【この「朝參」を「まいいり」と読んでいるがどうだろう。別に読み方がありそうに思われるが、まだ思い付かない。「みかどまいり」と言うのも、何か字によって作った言のように聞こえるが、この書紀の読みによって読んでおく。】○其王之(かのみこの)。「其」は「かの」と読む。女鳥王である。○參赴は、「まいれり」と読む。【師が「マウケリ」と読んだのは、ここには良くない。】○大后石之日賣命(おおぎさきいわのひめのみこと)。書紀では、石之比賣命は既に死んでいて、この時は大后は八田皇女である。しかし書紀の年紀もこだわるべきでない。この記では伝えを異にしており、石之比賣命が大后だった時のことではないだろうか。【この記は一般に年紀を立てず、事を書いてある順序も、前後に関わらないことがあって、ただ事を別々に一つずつ書いてある。】○大御酒柏(おおみきのかしわ)は、中巻の明の宮の段に出て、【伝卅二の五十九葉】そこで言った。またこの段の前に御綱柏とあったところ【伝卅六の二葉】も考え合わせよ。○諸(もろもろ)とは、この豊楽に集まった人々全部を言う。【これは「氏々」にかけて言う「諸々」ではなく、氏々とは別に離して読むべきである。ここは後宮での宴を言っているので、参った人は女に限ったことであろう。次の文に「召=出2其夫大楯連1」とあるのによっても、男どもは参らなかったことが分かる。また男等には、大后が手ずから柏を与えることはなかったのだろうか。とすると、「氏々の女等」と言うのを措いて、他に与える人はなかっただろうから、「諸」はやはり「氏々」に係るようにも思えるだろうが、それならば上に「氏々の女」とあるから、そこで言うべきだ。初めに省いて、次に詳しく言うのは理由がない。だから氏々の女の他には、特に指すべき人はなくても、やはりこの宴に集まった諸人という意味である。諸々の氏々の女等というのではない。】このように皇后が自ら柏を賜うことなどは、いにしえの豊楽のあり方であったろう。○「見=知2其玉釧1(そのたまくしろをしりたまいて)は、大楯の連の妻が手に纏いたのは、女鳥王の玉釧であることを見知っていたことだ。【御酒の柏を与えようとして、御前に近く参ってきて、手を差し伸べたから、よく見えたのだろう。】書紀にその理由が見える。これで考えると、釧にはたいへん貴い物があって、女鳥王のは、ことに世に優れたものがあったのだろう。【書紀に、初めに軍士たちに追わせたとき、「皇后は・・・『勅によって・・・皇女の纏いている足玉・手玉を取ってはいけません』」と言い、またかの王たちを殺した後、女の玉を探って裳の中から得た、などとあるのも、初めから有名な玉だったのだろう。】○引退は、「ひきそけ」と読む。宴の席から退け出してしまって、宴にあずからせなかったのである。○其王等(かのみこたち)は、速總別王と女鳥王である。○无禮(いやなき)は前に出た。【伝廿七の十一葉】○退賜は「きらいたまえる」と読む、この読みのことは、中巻の玉垣の宮の段に「雖怨其兄」とあるのを「其兄(いろせ)をこそきらいたまえれ」と読んで、続日本紀の宣命を引いて言った通りだ。考え合わせよ。【伝廿四の四十五葉】退け棄てたことである。【前にある「引退」の「退」も、意味は通じるが、そこは「きらい」とは読まない。】○異事は、「けなること」と読む。【また「けしきこと」、「あやしきこと」など読むのも悪くない。】万葉巻十三【二十九丁】(3328)に「常從異鳴(つねゆけになく)」、巻十四【二十三丁】(3482)に「家思吉己許呂(けしきこころ)」【巻十五(3775)にも同じようにある。】この他にも「け」と言ったことは多い。書紀の欽明の巻に「異(けなる)」などがある。かの王たちのことを、ここでこう言ったのは、玉釧を剥ぎ取ったのを大きな罪とするのに、それならその王たちを殺させたのはなぜか、という議論のあることを考えて、まずこう言ったのだろう。○夫之は、【「之」の字を諸本に「云」と書いてあるのは誤りだ。ここは延佳本によった。】「それの」と読む。「それ」は「其れ」で、直接大楯連を指して言う。【今の世に、人に対して「そのほう」と指して言う「その」のようなものだ。「爾」の字を「いまし」とも「その」とも読み、これも通う。「夫」の字は当たっていないが、普通に「それ」と読むために、その訓を取って書いただけである。この記にはこうした例が多い。】○奴乎。「乎」の字を諸本に「手」と書いているのは間違いである。ここでは改めておいた。「やつこや」と読む。【「や」は「よ」というようなものだ。】朝倉の宮の段に、「天皇は『奴乎、己の家を天皇の御舎に似せて造りおったな』と言い、人を遣わしてその家を焼かせた」とあるのと、語の勢いも罪を咎めた様子も、全く同じなのを思うべきである。なおこの「乎(や)」は、上巻に「我那邇妹命乎(わがなにものみことや)」、中巻の玉垣の宮の段に「・・・鷺乎(さぎや)」、穴穂の宮の段に「己妹乎(おのがいもや)」などとあるのも同じ言い方だ。○己君(おのがきみ)。いにしえは王(おおきみ)・臣(やつこ)と分けて、臣は皇子たちをも君とすることは、穴穂の宮の段【伝四十の三十三葉】に言うことを考えよ。上に「奴乎」と言ったのも、単に賤しめていったのではなく、君に対して臣の意味である。【このことも、やはり穴穂の宮の段に言うことを考え合わせよ。】「己(おのが)」は軽い意味に解すべきである。【「己君」と言ったから、直接の君のように聞こえるかも知れないが、そういう言い方ではない。】○於膚オン(火+榲のつくり)は、【オンの字は、温と煖を合わせて、こちらで作った字ではないだろうか。】「はだもあたたけきに」と読む。【あきらか、さやか、のどか、ゆたかなどのたぐいは、古言ではあきらけし、さやけし、のどけし、ゆたけしと言う。あきらか、さやか、のどか、ゆたかとは言わない格だから、このオンも「あたたかなる」とは言わず、「あたたけき」と言う。万葉巻三(336)の「筑紫乃綿者・・・暖所見(つくしのわたは・・・あたたかにみゆ)」なども、「あたたけく」と読むべきである。「はだも」と「も」を付けて言っているのは、事を緩やかに言っているのである。】弑してまだその肌も冷え切らないうちに、いたわりもなく剥ぎ取った所行の情けなく、恐ろしいことを言う。○與は「あたえたること」と読む。「こと」は「ことよ」という意味で、【いにしえの仮名文によくある言い方だ。】嘆息する意味を含んでいる。○給死刑は、「ころすつみにおこないたまいき」と読む。書紀の允恭の巻に「死刑(ころすつみ)」、天武の巻に「極刑(しぬるつみ)」、「大辟罪(しぬるつみ)」などがある。「給」を「行い賜う」と読む理由は、続日本紀卅二に「法のままに斬罪に行い賜う」とある。【刑を給うというのは、古言のようでなく、漢文のままのようなので、字の通りに読んではならない。天武紀に「極刑に坐(おく)」というのもあるが、「おく」は古言のようではない。「おこなう」というのがよく当たっている。】○書紀にいわく、「皇后は雄鰤らに『皇女の玉を見なかったか』と聞いた。すると『見ていません』と答えた。この年、新嘗の月の宴會(とよのあかり)に、内外の命婦らに酒を与えていると、近江の山君、稚守山(わかもりやま)の妻と采女磐坂媛と、二人の手に美しい珠が纏かれていた。皇后が見ると、雌鳥皇女の珠にそっくりだった。疑わしく思って、有司にどうやって手に入れたのかを問わせると、『佐伯直、阿俄能胡の妻の玉です』と答えた。阿俄能胡を取り調べると、『皇女を誅殺した日に、この玉を探り当てて取ったのです』と答えた。阿俄能胡を殺そうとすると、阿俄能胡は自分の土地を差し出して、死を免れようとした。そこでその土地を治め、死罪を許した。このためこの地を『玉代(たまぢ)』と言う。」

 

亦一時。天皇。爲レ將2豊樂1而。幸=行2日女嶋1之時。於2其嶋1雁生レ卵。爾召2建内宿禰命1。以レ歌。問2雁生レ卵之状1。其歌曰。多麻岐波流。宇知能阿曾。那許曾波。余能那賀比登。蘇良美都。夜麻登能久邇爾。加理古牟登。岐久夜。於レ是建内宿禰。以レ歌語白。多迦比迦流。比能美古。宇倍志許曾。斗比多麻閇。麻許曾邇。斗比多麻閇。阿禮許曾波。余能那賀比登。蘇良美都。夜麻登能久邇爾。加理古牟登。伊麻陀岐加受。如レ此白而。被レ給2御琴1。歌曰。那賀美古夜。都毘迩斯良牟登。加理波古牟良斯。此者本岐歌之片歌也。

 

訓読:またあるとき、スメラミコト、とよのあかりしたまわとして、ヒメシマにいでませるときに、そのしまにカリこうみたりき。かれタケウチノスクネのミコトをめして、みうたもて、カリのこうめるさまをとわしたまえる。そのみうた、「たまきはる、うちのあそ、なこそは、よのながひと、そらみつ、やまとのくにに、かりこむと、きくや」。ここにタケウチノスクネ、うたもてかたりもうさく、「たかひかる、ひのみこ、うべしこそ、といたまえ、まこそに、といたまえ、あれこそは、よのながひと、そらみつ、やまとのくにに、かりこむと、いまだきかず」。かくもうして、みことをたまわりて、うたいけらく、「ながみこや、ついにしらんと、かりはこむらし」。こはホギウタのカタウタなり。

 

歌部分の漢字表記:たまきはる、内の朝臣、汝こそは、世の長人、そらみつ、倭國に、雁卵生むと聞くや

高光る、日の御子、諾しこそ、問ひたまへ、まこそに、問ひたまへ、吾こそは、世の長人、そらみつ、倭國に、雁卵生むと、未だ聞かず

汝が御子や、終に知らむと、雁は卵生むらし

 

口語訳:またあるとき、天皇は豊楽をしようとして、日女嶋に行った。その時、雁が卵を生んだ。建内宿禰命を呼んで、歌で雁が卵を生んだ様子を語った。その歌は、「たまきはる、内の朝臣、汝こそは世に長生きした人だ。そらみつ、倭国で雁が卵を生んだと聞いたことがあるか」。建内宿禰は歌で語った。「高光る日の御子、いかにもお尋ねです、本当にお尋ねです。私こそ世に長生きした物ですが、そらみつ、倭国に雁が卵を生むとは聞いたことがありません」。こう言ってから、琴を受け取り、歌って「汝皇子、終に国を治めるだろうと、雁は卵を生むのでしょう」。これは壽歌の片歌である。

 

日女嶋(ひめじま)は、摂津国西成郡にある。【難波の古地図を見ると、姫嶋は九條嶋の南に並んでいる島で、今の世で勘助嶋というところのあたりに相当する。大坂の西で、南に寄ったところである。それを通説では、姫嶋はいま稗嶋(ひえじま)というところだと言っている。稗嶋村は下中嶋というところの内にあって、大坂の西北の方である。古図の地には合わない。よく尋ねて定めるべきである。】摂津国風土記に、「比賣嶋の松原は、昔、豊阿伎羅(とよあきら)の宮で天下を治めた天皇(孝徳天皇)の御世に、新羅国に女神があった。その夫から逃げて、しばらく筑紫の伊岐比賣嶋(いきひめのしま)に住んだ。しかし『この島はなお遠くない。ここにいたら、男神が尋ねてこないとも限らない』と言って、更に遷り来て、この島にとどまった。そこでもと住んでいた所の名を取って、島の名とした」とある。【伝五の廿五葉を考えよ。】書紀の安閑の巻に、「大連に勅して、『難波の大隅嶋と媛嶋の松原に、牛を放て』」、続日本紀三に「霊亀二年二月、摂津国に命じて、大隅・媛嶋の牧畜をやめて、百姓が食料を作ることを許した」、万葉巻二(228)に、「和銅四年、河邊の宮人が、姫嶋の松原で嬢子の屍を見て悲しんで作る歌、『妹之名者千代爾將流姫嶋之、子松之末爾蘿生萬代爾(いもがなはちよにながれんひめしまの、こまつがうれにこけむすまでに)』」などがある。この島で豊楽しようとして、出かけたのである。○雁は和名抄に「毛詩の鴻の雁の篇の注にいわく、大きなのを鴻と言い、小さいのを雁と言う。和名『かり』」とある。○生卵は、「こうみたりき」と読む。○「召2建内宿禰命1」は、もとから仕えていたのを、御前に近く召したのか、または仕えていなかったのを召し寄せたのか。いずれでもあるだろう。○多麻岐波流(たまきはる)は、「うち」の枕詞で、「あらたまの」と言うのと同意である。「あらたま」は、中巻の倭建命の段の歌に見え、そこ【伝廿八の十三葉】で言ったように、年月日時の移り行くのを言う言である。「たまきはる」は「あらたま来経つる」という意味で、【「あら」を省き、「へ」を通音で「は」と言うのである。】倭建命の段の歌に「阿良多麻能、登斯賀岐布禮婆、阿良多麻能、都紀波岐閇由久(あらたまの、としがきふれば、あらたまの、つきはきえゆく)」とあるのがそうである。【さらにその段の歌のところを考え合わせよ。】とするとここも年月日時が経て行くことで、「うち」に続くのは「顕現(うつ)」である。【「うち」、「うつ」が通うのは普通のことである。】それは「現身」、「現世」など言って、人のこの世にある限りを言っている。それで万葉に「多麻岐波流命(たまきはるいのち)」と続け、「世」とも続け、【また「うつそみの命」、「うつそみの世」などとも続けるのを見て、心得るべきである。「うつそみ」は「現身」である。】「内限(うちのかぎり)」と詠んでいるのも、「現世の限り」だ。単に「世」のことを「あらた世」と言っているのも、「あらたまの世」、「たまきはる世」と同じことで、「世」と言い、「命」と言い、「現(うつ)」と言うのは、みな年月日時を経て行く間のことだから、「たまきはる」と言う。【この枕詞を「魂極(たまきはる)」として解いてきたのは、誤りである。魂が極まるなどということがあるものか。また万葉巻五の憶良の長歌(897)に「靈剋内限者(たまきはるうちのかぎりは)」というところの注に、「膽浮州(せんぶしゅう)の人は寿命百二十年である」とあるのは、かの「魂極」の説に慣れた人が書いたもので、この上の文に「内教(ないきょう:仏教のこと)にいわく」と言って、この語のあるのを持ってきて、ここに書き入れたのである。これを自注と思うのは間違いである。また巻十(1912)に「靈寸春吾山之於爾(たまきはるわがやまのうえに)」、巻十二(3033)に「吾山爾燒流火氣能(わがやまにやけるけぶりの)」などあるのは、ともに「春山」を「吾山」に誤っている。それとこれと、草書体がよく似ているからである。「春」に続くのは、「あらたまの年」とも「月」とも続くのと同意である。】○宇知能阿曾(うちのあそ)は、「内のあそ」である。「内」は大和国宇智郡で、この人は兄弟共にそこに住んでいたから、兄を「味師内(うましうち)の宿禰」、この人を「建内宿禰」といって、ともに「内の宿禰」である。【「味師(うまし)」と言い、「建(たけ)」と言うのは美称である。なお伝廿二の十五葉で詳しく言った。】「あそ」は「あそみ」を省いたものである。「あそみ」は「吾兄臣(あせおみ)」の縮まった形で、親しみ崇めて言う名である。天武天皇の御代から、「朝臣」と書いて、氏の姓と決まった。【続日本紀卅二に「阿曾美(あそみ)を朝臣とする」、釈日本紀に「朝臣は帝王の親しむ言葉である」と言っている。朝臣の字を当てたのは、「あさおみ」という訓を借りただけで、本来この字の意味の名ではないが、この字を用いたからには、「朝廷の臣」という意味を取られたのだろう。これを後世に「あそん」と言うのは、音便で崩れたのである。天武天皇の御世にはじめてこの姓を賜った氏々は、多くは旧臣の尸だった氏であるから、もと「吾兄臣」の意だったからではないか。】書紀の神功の巻の歌にも、この人を「多摩枳波屡于知能阿曾(たまきはるうちのあそ)」と詠んでいる。また万葉巻十六(3841)には「水渟池田乃阿曾(みずたまるいけだのあそ)」、(3842)「八穗蓼乎穗積乃阿曾(やほたでをほづみのあそ)」、(3843)「薦疊平群乃阿曾(こもだたみへぐりのあそ)」などとも詠んでいる。○那許曾波(なこそは)は。「汝こそは」で、「こそ」も「は」も助辞である。○余能那賀比登(よのながひと)。諸本共に「賀」の下に「乃」の字がある。次の歌も同じだ。ここは真福寺本に、いずれもないのによった。【「長の」という言もどうかと思われる。書紀にも「遠人、長人」とあって、いずれも「の」を付けない。それに「の」の仮名には、記中みな「能」を書いて、「乃」を用いたところは三、四箇所しかない。それなのにここで二箇所共に「乃」を書いているのは疑わしい。とすると、これは後人が「長人」という言葉を聞き慣れないから、世の中の人と考えて、さかしらに「乃」を加えたものと考えられる。そこでこの字がない本を採った。】「世の長人」である。【「世」は世の中を言うのだろう。人の齢も「世」というのが普通だから、齢の長い人という意味かも知れないと思ったが、書紀には「國の長人」ともあるから、やはり「世の中の」であろう。】書紀にはこの句が「豫能等保臂等(よのとおひと)」とあって、【「遠人」である。「遠」も「長」と同じで、久しい時を経た意味である。「遠長」と続けても言う。】次にまた「儺虚曾波、區珥能那餓臂等(なこそは、くにのながひと)」という二句がある。この二句がある方が、調子がよいように聞こえる。この人は、景行天皇の御世に生まれて、この時は二百数十歳だから、【この年齢のことは伝廿二の十六葉で言った。】実に世にもまれな遠く長い人だったのである。○蘇良美都(そらみつ)は、「虚空見つ」で、倭の枕詞である。それは書紀の~武の巻に見え、冠辞考に詳しい。この句は、書紀には「阿耆豆辭マ(くさかんむりに奔)(あきづしま)」とある。○夜麻登能久邇爾(やまとのくにに)は、【諸本で「爾」の字が脱けている。ここは真福寺本、延佳本によった。】「日本の國に」である。ここの「夜麻登」は、皇国の総名である。○加理古牟登(かりこむと)は、「雁子生むと」である。【「うむ」の「う」を省いて「む」と言ったのだ。「あいうお」の音は、省いて言った例が多い。】○岐久夜(きくや)は、【三音一句である。これを上の句と続けて、一句とするのは良くない。】「聞くや」である。書紀には「儺波企箇輸椰(なはきかすや)」とある。【「汝は聞かすや」である。「きく」を延ばして「きかす」と言ったもので、「きくや」と同じだ。「輸(す)」は清音の仮名である。契沖が「聞かずや」だと言ったのは誤りだ。それでは歌の意味もはっきりしない。】○歌全体の意味は、「この日本国に、雁が子を生むことは珍しく、未だ聞いたことがない。内のあそよ、世の中の長人は汝であろう。こうしたことは聞いたことがあるか、どうか」というのである。○語白(かたりもうさく)。【「白」の字は、延佳本他一本には「曰」と書いてある。ここは旧印本、また一本、他一本などによった。真福寺本には「自」とあるが、「白」を誤ったものである。】「答」と言わないで「語」と言ったのは、これは普通の歌の答えとは異なり、問われたことを語り聞かせる歌だったからだろう。○多迦比迦流、比能美古(たかひかる、ひのみこ)。この二句は前に出た。【伝廿八の十一葉】ここはこの天皇を指して言う。書紀には、この二句は「夜輸瀰始之和我於朋枳瀰波(やすみししわがおおきみは)」とある。○宇倍志許曾(うべしこそ)は、「諾しこそ」である。「し」は助辞、「こそ」も助詞だ。この句は書紀には、「于陪儺于陪儺(うべなうべな)」とある。中巻の倭建命の段の歌にも、「宇倍那宇倍那(うべなうべな)」と詠んでいる。「諾(うべ)」という語は、そこ【伝廿八の十三葉】で言った。万葉巻十(2316)に「奈良山乃峯尚霧合宇倍志社、前垣之下乃雪者不消家禮(ならやまのみねなおきらううべしこそ、まがきのしたのゆきはけずけれ)」、伊勢物語に、「是や此の天の羽衣うべしこそ、君が御衣(みけし)と奉りけれ」とある。○斗比多麻閇(といたまえ)は、「問い賜え」である。書紀には「和例烏斗波輸儺(われをとわすな)」とある。【「烏(を)」は「爾(に)」と言うのと同じだ。いにしえは、「に」というところを「を」と言った例が多い。「とわす」は「問う」である。「な」は辞である。】○麻許曾邇(まこそに)は、「真こそに」である。「こそ」も「に」も辞である。「こそ」の下に「に」を添えた例は、遠つ飛鳥の宮の段、輕太子の歌に、「阿理登伊波婆許曾邇(ありといわばこそに)」とある。この「ま」は珍しい使い方だが、意味は「まことにこそ」と言っているので、後世に「げにこそ」と言うのに通う。【契沖が「『そ』は『と』に通じるので、『寔(まこと)に』の意味か。宇津保物語に『ただこそ』という名がある。・・・これらの『こそ』に『眞』の字を加えて、自分のことを詠んだのか」と言ったのは、誤りである。ここの「こそ」は辞でなくては、次の「多麻閇(たまえ)」の「閇」に合わない。いにしえの歌に、そうしたみだりな辞の使用はないことである。また師は「『曾』の辞は『魯』の誤りで、『まごろに』である。『まごろ』は『眼前に』という意味か。後世『げにも』という言葉は、『顯』の字の音で、『眼前』と意味が通う」と言ったが、これも合わない。記中「魯」を仮名に使ったことはない。また「まごろ」という言葉も聞いたことがない。】○阿禮許曾波(あれこそは)は、「吾こそは」である。○余能那賀比登(よのながひと)は、【諸本に、ここにも「賀」の下に「乃」の字がある。ここは真福寺本によった。理由は前に述べた。】上と同じだ。書紀には「麻許曾邇」からここまで、四句がない。【後の方の二句は、なくては言が足りない感じである。】○蘇良美都(そらみつ)。書紀には「阿企菟辭摩(あきづしま)」とある。○加理古牟登(かりこむと)。前と同じだ。○伊麻陀岐加受(いまだきかず)は、「未だ聞かず」である。書紀には「和例破枳箇儒(われはきかず)」とある。【この記の方が優って聞こえる。】○歌全体の意味は、「天皇がこのことを私に聞くことは、実にもっともだ。おっしゃる通り私は世の長人である。しかしながらこの日本の国で、雁が子を生んだとは、この年になるまで聞いたことがない」と言ったのである。○被給は、「たまわり」と読む。「たまわる」は受ける方から言う言葉なので、古い書物では「被」を添えて書く。「たまう」とは主語が違うからである。【「たまう」は、与える方を主語にする。「たまわる」はそれを受ける方から言う言葉で、中昔まではこのけじめははっきりしていたが、近世では区別がはっきりしなくなり、「賜う」も「たまわる」と言っているのは誤りである。】ここは、しばらく請い受けるのを言う。○那賀美古夜(ながみこや)は「汝王や」である。「や」は「よ」と言うようなものだ。【疑問の「や」ではない。】神代の歌に「夜知富許能加微能美許登夜(やちほこのかみのみことや)」とある「夜」と同じだ。続日本紀十七の詔の詞に「奈賀御命(ながみこと)」とあるのは、この記に多く「汝命」とある例で、「汝王」というのと同じ意味合いである。【若櫻の宮の段に「汝王」とあるのとは、少し違う。】○都毘邇斯良牟登(ついにしらんと)【「毘」の字は、「比」であろうが、後に写し誤ったのである。清音のところだから、「比」に間違いはない。この記の仮名は、清濁がたいへん正しく書かれているから、混同されていることは滅多にない。万葉巻廿(4508)にも「須惠都比爾(すえついに)」とある。】「ついに知らん」ということだ。後、終に天下を所知看(しろしめ)ようと言うのである。【「天下」とも「国」とも「世」とも言わないのに、これを「天下を知る」と解く理由は、「ここに於いて、ここを知らん」と言ったから、天下と言わないでも「この天下を」と聞こえるからである。それにこれは前の歌の「夜麻登能久邇」という語を承けて言ったようになる。】○加理波古牟良斯(かりはこむらし)は、「雁は子を生むらし」だ。【「らし」という言葉は、推測を表す辞で、今の俗言に「そうな」と言うのに当たる。ここは「・・・というので雁は子を生んだそうな」という意味だ。】○歌全体の意味は、「この日本の国に、未だ聞かないことだが、珍しく雁が子を生んだことは、汝王こそ後に天下を所知看(しろしめ)すことを示す瑞祥である」と祝い寿ぐ歌である。師のいわく、「この歌からすると、この故事は、この天皇がまだ皇子だったときのことだろう。日本紀とは違う」と言った。本当にそうだと思う。【書紀では仁徳の五十年春三月のことだが、書紀の年紀立てにこだわるべきではないことは、前にも言った通りである。またこの記は事の順序に関係なく、一つ一つのことを取り集めて書いたことが多く、皇子であったときのことをこの天皇に関わることだから、順序に関係なくここに書いたのである。それを契沖は「ついにしらん」と言う句を「君は終に久しく世をしろしめすしるしに」と注したのは強説である。「終に久しく」ということを「ついに知らん」とはどうして言うだろうか。「ついに知らん」とは、行く先を予言する言葉だろう。】○本岐歌(ほぎうた)は、祝い寿く歌である。中巻の神功皇后の歌に、「加牟菩岐本岐玖流本斯、登余本岐本岐母登本斯(かむほぎほぎくるおし、とよほぎほぎもとおし)」とある。「ほぎ」のことは、そこで言った。【伝卅一の四十一葉】○片歌は、中巻の倭建命の段に出ており、そこで詳しく言った。【伝廿八の五十三葉】○書紀には、「五十年春三月、河内の人が『茨田の堤で雁が子を生んだ』と申し出た。見にやらせると、本当に子を生んでいた。天皇は武内宿禰に歌で・・・武内宿禰は答えて・・・」とあり、「那賀美古夜」の歌がない。<訳者註:この話はよくわからないだろうが、雁は渡り鳥で、繁殖期を遠くで過ごし、越冬期に日本で過ごす。そのため日本では卵を生まないのである。>

 

此之御世。免寸河之西。有2一高樹1。其樹之影。當2旦日1者。逮2淡道嶋1。當2夕日1者。越2高安山1。故切2是樹1以。作レ船。甚捷行之船也。時號2其船1謂2枯野1。故以2是船1。旦夕酌2淡道嶋之寒泉1。獻2大御水1也。茲船破壞以。燒レ鹽取2其燒遺木1。作レ琴。其音響2七里1。爾歌曰。加良怒袁。志本爾夜岐。斯賀阿麻理。許登爾都久理。賀岐比久夜。由良能斗能。斗那加能。伊久理爾。布禮多都。那豆能紀能。佐夜佐夜。此者志都歌之返歌也。

 

訓読:このみよに、・・かわのにしのかたに、たかきありけり。そのきのかげ、あさひにあたれば、あわじしまにおよび、ゆうひにあたれば、たかやすのやまをこえき。かれこのひをきりて、ふねにつくれるに、いととくゆくふねにぞありける。ときにそのふねのなをカラヌとぞいいける。かれこのふねをもて、あさよいにあわじしまのしみずをくみて、オオミモイたてまつりき。このふねのやぶれたるもて、しおをやきそのやきのこれるきをとりて、ことにつくりたりしに、そのオトななのさとにきこえたりき。かれうたに、「からぬを、しおにやき、しがあまり、ことにつくり、かきひくや、ゆらのとの、となかの、いくりに、ふれたつ、なずきのきの、さやさや」。こはしずうたのかえしうたなり。

 

歌部分の漢字表記:枯野を、鹽に燒き、其が餘り、琴に作り、かき彈くや、由良の門を、門中の、海石に、振れ立つ、浸漬の木の、さやさや

 

口語訳:この御世に、免寸河の西に、一本の高い木があった、その木の影は、朝日に当たれば淡路島におよび、夕日が当たれば高安山を越えた。この木を切って、船に作ると、たいへん速い船ができた、そのとき、世の人はその船を「枯野」と呼んだ。この船を遣って、淡路島の清水を汲んで、大御水として奉っていた。船が壊れると、これで塩を焼き、その焼き残ったのを取って、琴に作った。その音は七里に響き渡った。そこで世に「枯野を塩に焼き、その余りを琴に作って、かき弾くと、由良の門の門中の、海石にゆらめく、浸漬の木のさやさや」。この歌は志都歌の返し歌である。

 

免寸河。「免」の字は疑いなく写し誤りである。しかしその字は思い付かない。【「兎」の字だろうとは思うが、そんな名の川は思い付かない。その他もあれこれ考えたが、何の誤りかはっきりしない。「寸」の字はもとのままだろう。また上の字によっては、「寸」も誤りだろう。「免」は仮名にも借字にも用いた例がなく、読み方も分からない。「寸」は記中、仮名に用いた例がある。】とすれば、読み方もない。それでしばらく読みが欠けたままにしておく。この河はこの木の朝夕の影の到る所を考えて見れば、高安の西の方だから、河内国高安郡、もしくは若江郡、渋川郡などにある川だろう。【若江郡は高安郡の西、渋川郡はさらに西に続いている。】もしくはその隣の志紀郡、丹北郡の北よりのところでもあろうか。【志紀郡は高安郡の西南、丹北郡はその西である。志紀郡に木本村(きのもとむら)、丹北郡に枯木村(かれきむら)というところがある。これらは何の理由による名か分からない。単に注意を引いておくだけである。】何にせよ、間に山がなく、高安山を常に東に見る地だろう。【高安山の西に当たる地域には、上記の郡々から、津の国の住吉郡の海浜まで山はない。だからこの川は、必ずその間にあるだろう。こういった伝えごとは、普通に見える場所で言うものだから、これも西には淡路島を見、東には高安山を見るところでなくては合わない。それを和泉志にこれを菟才田河(うさいだがわ)として、日根郡の菟才田村というところの川だと言い、今もその村にこの高樹の跡があるというのは、とうてい信じられない。日根郡は和泉国でも南の果てであり、菟才田のあたりから高安山までは遙かに隔たっており、その間には幾重も山々があって、遮っているから、高木の影が至ることはない。方角も違う。河内国の東の方には、山も多いのに、高安山と言っているのは、その山を近くに見るところであろう。他の山々がたくさん隔てになって、他にある高安山を何の理由があって言うのか。「免寸」と「兎寸」と、字がよく似ている上に、この木の跡というところが今もあると言ったのは、本当らしく聞こえるけれども、やはりそこではないだろう。「才」の字を仮名に使うとも思えない。またある誤った説に、「『免』の字は『麁』の誤りで、泉南郡八木郷の荒木村の川か」と言うのも、採用できない。またある説に「和泉郡坂本郷、坂本村の川だろうか。この村は一名『大木村』と言う。それはいにしえに大木があって、朝日に当たれば、その影は大津浦、兵庫にまで及び、夕日に当たれば槇尾山を越えた。これによって大木村と言う。今もその木のあったところの跡の字(あざな)を兵庫畑と言う」と里人が語ると伝えている。その川は源が槇尾山から出て、槇尾川と言い、下流は大津川と言って、大津の海に落ちる。坂本郷はこの川のそばにあると言う。これも高安山からはほど遠い。しかしそういう里人の伝えがあるからには、この記に「高安山」とあるのが誤伝かも知れないので、絶対にないとは言い切れない。】さらによく考えて見るべきである。○一高樹(たかき)。「一」の字は読まない。【こうした「一」の字は、漢文調に添えたものである。「有2一沼1」、「有2一賎夫1」のたぐいだ。】○「當2旦日1者(あさひにあたれば)云々」は、その高樹が朝日夕日に当たれば、その影は淡路島、高安山に至るのである。【「當2旦日1者、其樹之影云々」、「當2夕日1者、其樹之影云々」と書くべきところを、「其樹之影」を上にして書いてあるのだ。その樹の影が、朝日夕日に当たると言うのではない。】○淡路嶋(あわじしま)。前に出た。○高安山(たかやすやま)は、河内国高安郡の東の方にある。【今も高安山と言う。】書紀の天智の巻、天武の巻、持統の巻、続日本紀五などに高安城とあるのがこの山だ。【天智の巻には、「倭の高安の城」とあるが、天武の巻で見ると、それも河内である。天武天皇、持統天皇、元明天皇などが、この城に行幸したことも見える。】今の世の人の心には、いかに高い木であろうと、そうまで大きな木はないだろうに、こう言っているのは、虚説のように思えるだろうが、そうではない。今の世にも思いの他に大きな木が深山の中などにはあることが、時々聞かれる。上代にそれくらい大きな木があったことは、かれこれ物の本にも見えている。書紀の景行の巻に、「十八年秋七月、筑紫の後国の御木に到った。この時、倒れた木があった。長さ九百七十丈あった。・・・老人がいて、『この木は歴木(くぬぎ?)だ。まだ倒れなかった頃、朝日が当たればその影は杵嶋山を隠し、夕日が当たれば阿蘇山を覆った』と語った。天皇は『この木は神木だ。だからこの国を御木国と名付けよ』と言った」と見え、筑後国風土記にも、この木のことを記して、そこには「朝日の影は肥前国藤津郡の多良の峯(多良岳)を覆い、夕日の影は肥後国山鹿郡の荒ショウ(イ+几)山(不詳)を覆った。云々」とある。【近江国栗太郡に、語り伝えて、「いにしえに栗の大木があって、その枝は数十里にはびこっていた。それで栗本という。今その地を掘れば、栗の実、枝などがある。また『すくも』と言って、里人が薪に用いるものがあり、土中から掘り出す。これもその栗の葉である」と言う。このたぐいの語り伝えは、国々にところどころある。とすると、上代には特別な大木が、ところどころにあったことが分かるだろう。】○「作レ船(ふねにつくれるに)」。書紀には「六十二年夏六月、遠江の国司が『大きな木があり、大井川から流れて河曲に流れ着きました。その大きさは十圍あり、根は一つで末は二股になっています』と奏上した。倭直、吾子籠(あここ)を遣わして船に作らせ、南海を廻らして難波津に持ち来たり、御船にした」ということしか書かれていない。○枯野(からぬ)は、書紀では應神の巻に「五年冬十月、伊豆国に船を作らせた。長さ十丈。船が出来上がって海で試運転させたところ、軽く浮かんでとても速く進んだ。そこで船の名を枯野と名付けた」【延喜式神名帳に「伊豆国田方郡、輕野神社」、和名抄に「同郡、狩野郷」もある。】とあるのは、伝えが異なるのである。【書紀の方を正しいとすれば、この記の伝えは、かの「六十二年云々」のことと、應神天皇の御世のことを混同したものだろう。この記の方が正しいとすれば、書紀の伝えは、應神天皇の御世に伊豆国で官船を作ったことがあったのに、同地に輕野神社と言うのもあるから、仁徳天皇の御世の枯野の船のことを混同して、應神の御世のことにしたのだろう。どちらが正しいかは、すぐには決められない。】こう名付けたのは、「枯」は「軽」の意味であるからで、この記も書紀も同じだ。【それなのに「軽」の字を書かず「枯」と書いたのは、いにしえに枯れた野を「からぬ」と言ったから、その字を借りて書いたのだろう。それを書紀の細注に「船が軽くて速いので、枯野と名付く。これは意義が違っている。あるいは「輕野」というのは、後人の訛りか」と言っているのは、借字ということを知らない、後世の人のさかしら事である。】「野」の意味ははっきりしない。【あるいは「主」などの意味でもあろうか。】船にこのように名を付けることは、続日本紀三に「船の號(名)は佐伯」、【印本では「號」の字を「首」と誤っている。これは遣唐使の乗った船で、この船に従五位下を授けられた。】同廿に「船の名は播磨速鳥」、【この舟も遣唐使の乗った船で、同じく従五位下を授けられた。】同廿四に「船の名は能登」、【この船は高麗国に行った船である。従五位下を授けられた。】続日本後紀六に「船の號は大平良」、【遣唐使の船である。従五位下を授けられた。】などの例がある。万葉巻十一【三十八丁】(2747)に「・・・水手船之名者謂手師乎(こぐふねのなはのりてしを)」とあるのも「船の名は」と言いかけたので、上の句は名の序である。○寒泉は「しみず」と読む。書紀の景行の巻にも「寒泉(しみず)」とある。【「寒」と書いているのは、水の冷たいのをいにしえは「寒し」と言ったからである。景行紀に「冷水(さむきみもい)」、万葉巻十六(3875)に「寒水(さむきみもい)」、倭姫命世記に「その河の水は寒かった。そこで寒河と名付けた」とある。】この淡路嶋の清水は、中巻の浮穴の宮の段に「淡道の御井の宮」とある御井か。そのところを考え合わせよ。【伝廿一の十三葉】播磨国風土記に「明石の驛家の駒手の御井は、難波の高津の宮の御世に、楠が良いように生えていた。朝日には淡路嶋に影が差し、夕日には大倭嶋根に影が差した。そこでその木を切って、舟に作った。その速いことは飛ぶようで、一漕ぎに七浪を越えた。それで速鳥と名付けた。この舟に朝夕乗って、御食に供する水を、この泉から汲んだ。ある日御食の時に間に合わず、ために歌を作って中止した。その歌に『住吉之大倉向而飛者許曾、速鳥云閇何速鳥(すみのえのおおくらむきてとべばこそ、はやとりといえなにかはやとり)』」とある。これも一つの伝えである。○酌(くみて)は、この清水を汲んで、この船に乗せて運んだのである。後撰集(829)に「大嶋の水を運びし早船の、早くも人に逢見てしがな」とある。○大御水(おおみもい)。「大御」とは、天皇に奉る水だから言う。水を「もい」ということは、前に「水取司(もいとりづかさ)」のところで言った通りだ。【伝三十六の六葉】書紀の景行の巻に、「冷水(さむきみもい)」、倭姫命世記に「御水(みもい)を飲もうとして、その翁に『どこにいい水があるか』と尋ねた。その翁は寒い御水(みもい)を奉った」、赤染衛門集(176の詞書)に「小舟にをのこ二人ばかり乗て、漕渡るを、何爲るぞと問へば、ひやかなるおもひ汲に、沖へまかるぞと云う」とある。○「燒レ鹽(しおをやき)」は、【諸本に「鹽燒」と書いてあるのは、上下を誤ったのである。ここは真福寺本、延佳本によった。】塩を焼く薪に使ったのである。○燒遺木は、「やけのこれるき」【または「やけのこりのき」とも。】と読む。いわゆる「もえくい」である。【または「たきのこりのき」と呼んで、薪にして残った木とも読めるが、やはりそうではないだろう。書紀にも「餘燼(もえくい)」とある。】○「作レ琴(ことにつくり)」。體源抄に「箏の甲の木は、旧記にいわく、塩風に吹かれた日当たりの孫枝(ひこえ)を用いるべきである」と言っている。とすると、船の材(き)も、長い間潮に当たっているのだから、琴の甲の木にいいのだろう。【また焼け残りも琴の甲にいいのではないか。漢国に「焦尾琴」といったのなどは、そういう理由があったもののようだが、それは焼けたから良いのではなく、本来良材だったのである。】○「響2七里1(しちりにきこえたりき)。「響」は「きこえき」と読む。この琴がたいへん良く鳴り響いて、音が遠いところまで聞こえ、良い琴であったことを言う。「七里」とは、この御世の頃は、道の長さを測って「幾里」と言うことはなかっただろうから、【道の長さを「幾里」と決めたのは、漢国に習ったのである。】これは単に多くの村里を言ったかとも思えるが、やはり距離を言ったのだろう。というのは、この御世にはまだそういうことはなくても、やや後の定めによって、語り伝えたものとするべきである。雑例に「およそ地を測るのには、五尺を歩とし、三百歩を里とする」とある。【「一尺二寸を大尺一尺とし、・・・地を測るには大尺を用いる」とあるから、「五尺を歩とする」の五尺は、普通の尺の六尺に当たるので、今六尺を一間とするのに合う。とすると、三百歩は今の五町に当たる。今は間を積み上げて町と良い、町を積み上げて里というが、いにしえは距離を測るのに何町ということはなかった。中昔の物の本には、幾段ということも見える。町と言い、段と言うのは、田地を測ることから移ったのである。】○歌曰(うたに)。これは誰が詠んだとも書いてない。書紀では、應神天皇の歌である。○加良怒袁(からぬを)は、「枯野を」である。○志本爾夜岐(しおにやき)は、「鹽に燒き」である。これは塩を焼く薪として燃やしたということなのを、こう言ったのでは【その船を焼いて塩にしたように聞こえて、】事が違うようになるが、こう言っても分かることだろう。【上代の言だから、とやかく言えない。】あるいは「塩のために焼く」ということかも知れない。【そうなら「焼く」は「焼き滅ぼす」意味だ。】○斯賀阿麻理(しがあまり)は、「その余り」である。「しが」は上に指したものを言って、「それが」ということだ。前の大后の歌に「斯賀斯多邇(しがしたに)」とあるところ【伝卅六の十七葉】で言った通りだ。【これを上の句に付けて、「焼きしが」と詠んで、「し」を「焼き」に付けた辞とするのは間違いである。】「あまり」は焼け残った余りである。○許登爾都久理(ことにつくり)は、「琴に造り」だ。書紀の継体の巻で、皇子の歌に「駄開能以矩美娜開余襄開、漠等陛鳴麿、コ(くさかんむりに呂)等爾(イ+爾)都倶利(たけのいくみだけよだけ、もとえをば、ことにつくり)」とある。○賀岐比久夜(かきひくや)は「掻き弾くや」である。「かき」は単に添えて言ったのではない。琴を弾くことを「掻く」とも言う。「や」は添えた辞で、「よ」と言うようなものである。○由良能斗能(ゆらのとの)は、「斗」は門で、延喜式神名帳に「淡路国津名郡、由良湊神社」とあるところである。【「湊」は水門で、つまりは「門」である。】今も「由良」と言って、有名な湊であり、淡路嶋の東面の地である。【それを紀の国にあると言うのは、間違いである。紀の国にあるのは、万葉巻七(1220)に「木國之、湯等乃三埼(きのくにの、ゆらのみさき)」、巻九(1671)に「湯羅乃前(ゆらのさき)」などとあるところだ。また曾禰の好忠が歌に詠んだ(410)「由良の門」は、丹後国與謝郡である。それを後世には、これも紀の国と考えて詠んだ歌が多い。紀の国の「ゆら」は、万葉では「崎」と詠んでいて、「門」とも「水門」とも詠んだことはない。】この歌が書紀のように天皇が詠んだ歌だったとすれば、應神天皇であれ仁徳天皇であれ、淡路に行った際に、目の当たりにした光景について、詠んだものだろう。○斗那加能(となかの)は、「門中の」である。水門(みなと)、嶋門(しまと)、迫門(せと)などの門は船の出入り口で、そこの海を言っている。【それを後世に湊と言うのは、船の出入り口のところの陸を言うようだが、そうではない。そこの海の名だったのを、陸の名としても言うのである。】だから「門中」とは、そこの海を言うのである。○伊久理爾(いくりに)は、「海石に」である。万葉巻二【十九丁】(135)に「角障經石見之海乃、言佐敝久辛乃埼有、伊久里爾曾深海松生流(つぬさわういわみのみの、ことさえくからのさきなる、いくりにぞふかみるおうる)」、巻六【十六丁】(933)に「淡路乃野嶋之海子乃、海底奥津伊久利二、鰒珠左盤爾潜出(あわじのぬしまのあまの、わたのそこおきついくりに、あわびたまさわにかづきで)」などが見え、「いくり」は海の石である。【「くり」と言うので、栗を考え、小さい石を言うと思うのは誤りである。「海松の生(お)う」と詠んでいるのからしても、小さいものとは限らないことを知るべきである。また海の底の石を言うというのも間違いだ。ここの歌も、海底の石では合わない。上記の万葉の歌に海底を詠んでいるのは、「奥」の枕詞で、「いくり」に係っているのではない。海の底にあるのも、上に出たのも言い、小さいのも大きなのも言う。】ここは海の上に出た大きな岩を言うのだろう。○布禮多都(ふれたつ)は、「振れ立つ」だ。「ふれ」は「振られ」と縮めた言で、【「折られ」を「おれ」と言い、「知られ」を「しれ」というたぐいは同格である。】「振られ」とは、波に揺られるのを言う。中巻の明の宮の段の終わりに、「振浪比禮(なみふるひれ)」、「振風比禮(かぜふるひれ)」とあるところ【伝卅四の廿二丁、廿三丁】に言ったように、波の立つのも風が吹くのも「振る」と言うから、その振る浪に動かされて、海中の岩に生えて立っているのである。【この「ふれ」を「触れる」と考えてはいけない。「触れ立つ」では岩に生えた木でなく、そのそばにある木が、岩に触れて立っていることになり、それでは「岩に触れ」ということが何の意味もないことになる。また直接岩に生えていることを「岩に触れ立つ」とは言わないだろう。】○那豆能紀能(なずきのきの)は、「浸漬の木の」である。中巻の倭建命の段の歌に、「宇美賀由氣婆許斯那豆牟(うみがゆけばこしなずむ)」、書紀のこの巻(仁徳)の歌に、「許辭那豆瀰曾能赴尼苔羅齊(こしなずみそのふねとらせ)」、これらの「こしなずむ」は、腰まで潮に浸ることである。また万葉に水の底にあることも、水に浮かぶことも、水を渡ることも、すべて水に浸かることを「那豆佐布(なずさう)」と言っている。【この「那豆佐布」のことは、別に考察がある。】とすると、海水に浸って立っている木を「なずの木」と言うのである。【海水に浸っているので、波に揺られているのである。】この木は、荻や葦のたぐいを言うだろう。「木」というのは、植物の総称と思われ、いにしえは草のたぐいも「木」と言ったことがある。【上巻の八千矛神の歌で、茜を「染め木」と歌ったのなどがこれである。】萩、荻、薄、蓬、カン(疑のへんに欠)冬(ふき)、宇波疑(うはぎ)など、草の名にも「き」と言うのはそのためである。【この「なずきの」をあるいは海樹の名と言い、あるいは珊瑚の和名だというのは、みな推測で言っているに過ぎない。新撰字鏡に「ウ(木+于)は塗るものである。こて(木+曼)である。『なづ』」ということがあるが、木の名には聞こえない。契沖は夏の木だと言ったが、これも間違いだ。「豆」の字は濁音である。書紀でも同じ字を用いている。それに夏の木であったらどこにでもあるだろうに、「ゆらのとの、となかの」とは、どうして言うだろうか。同人はまたいわく、「岩に触れて生え立っている夏の木は、栄えて爽やかに見えるのに、海の風が吹いて、波の音も加わるから、落句を言うためだ」と言ったのは、どうしたことか。「栄えて爽やかに見える」というのは、「佐夜佐夜」をさわやかな意味に取ったと聞こえるのに、また「海風が吹いて云々」と言ったのは、騒ぐ意味である。たいへん紛らわしい。これは通じないのを強いて解いた誤りである。】「由良能斗能」からここまで五句は、最後の「佐夜佐夜」を言うための序で、海水に浸って岩に生えている葦や荻などの、波に揺られてその葉がさやさやと騒ぎ鳴る意味で続けたのである。○佐夜佐夜(さやさや)は、喨々(さやさや)の意味で、この琴の音のさやかなことを言う。【上の句から続く意味は、葦や荻の騒ぐ音だが、歌の意味は喨々で、かき弾くと喨々、と続くのである。】中巻の明の宮の段の歌に、「布由紀能須加良賀志多紀能佐々夜々(ふゆきのすからがしたきのさやさや)」とあるのと同格だ。考え合わせよ。【伝卅三の四葉】○志都歌之返歌(しずうたのかえしうた)は、前に出た。【伝卅六の五十六葉】「返歌」は、諸本に「歌返」とある。ここでは延佳本によった。【このことも前に言った。】○書紀では、應神の巻にいわく、「三十一年秋八月、群卿に『官船、名は枯野は、伊豆国が奉った船だ。朽ちて使い物にならないが、久しく官用に使い、その功績は忘れることができない。どうやってその船の名を消えさせず、後の世に伝えようか』と言った。群卿は詔を受けて、有司にその木を取って薪として、塩を焼かせた。五百籠の塩を得たので、あまねく諸国に配布した。そこで船を作らせ、諸国が一度に五百の船を献じた。それをすべて武庫の水門に集めて・・・始め枯野の船を塩焼きの薪にしたとき、燃え残りがあった。それを怪しいと思って、天皇に献上した。天皇も怪しいと思ってこれを琴に作らせた。その音は冴え冴えとして遠くにまで鳴り響いた、この時天皇は歌って云々」とある。日本紀竟宴和歌に「年經たる古き浮木を捨(すて)ねばぞ、さやけき響(ひびき)遠く聞ゆる」。

 

此天皇御年捌拾參歳。御陵在2毛受之耳《上》原1也。

 

訓読:このスメラミコト、みとしやそぢまりみつ。みはかはモズのミミハラにあり。

 

口語訳:天皇が崩じたとき、八十三才であった。陵墓は百舌鳥の耳原にある。

 

真福寺本には、「天皇」の下に「之」の字がある。そういう例も少なくない。○捌拾參歳(やそぢまりみつ)。【「捌」は「八」である。】書紀に「八十七年春正月戊子朔癸卯、天皇が崩じた」とあって、年齢は見えない。【書紀の紀年によって言うと、應神の巻十三年に髪長媛を娶ったことがあるから、その時もう成人だっただろう。そうすると崩御の年には百三十歳を超えていたことになる。帝王編年記には、百十歳と書いてある。日本紀竟宴和歌に「煙なきやどを惠みし皇(すめら)こそ、八十年あまり國しらしけれ」とある。】○旧印本、真福寺本、他一本に、この間に「丁卯年八月十五日崩也」という例の細注がある。【旧印本でこれを大字に書いたのは、これまで例のない書き方である。】丁卯年は、書紀ではこの御世の五十五年【また允恭天皇の十六年】に当たり、月も日も異なるが、これも一つの伝えである。○毛受之耳《上》原(もずのみみはら)。【「耳」の下にある「上」の字は、「耳」を上声に読めという注である、耳原は「みみはら」か「みみのはら」か決められない。摂津国島上郡にも「耳原(みみのはら)村」というところがある。】書紀に「六十七年冬十月、河内の石津原に陵墓を定めて、初めて陵を作った。この日、一頭の鹿が野中から出て、役に用いていた民の中に走り入り、倒れて死んだ。その倒れ方が急だったので怪しみ、傷を探していたところ、百舌鳥が耳から出て飛び去った。そこで耳の中を調べてみると、ことごとく食い裂かれていた。その地を百舌鳥の耳原と言うのは、この由縁である」、【これによると、このところも石津原の内である。和名抄に「和泉国大鳥郡、石津郷は『いしづ』」、延喜式神名帳に「同郡、石津太社神社」もある。今も上石津村、下石津村がある。この御陵に近いところである。今の毛受荘というところは、九村があって、この御陵の東南の地である。御陵の地は、毛受荘の内ではない。○前皇廟陵記に、「天王寺舊記にいわく、四天王寺は難波の荒陵(あらはか)村にある。そこで俗に荒陵寺と言う。寺の西南に荒れた陵がある。仁徳天皇が作った墓だと伝えている。思うに陵墓にしようとしたが、その後この地は適していないと考えて、改めて石津原に陵を定めたのだろう。大山陵がこれである。この(荒陵の)陵は空しく荒れている、それで荒陵と名付ける。俗に言う茶臼山である」と言っている。書紀の推古の巻に「元年、この年初めて四天王寺を難波の荒陵に作った」とある。】「八十七年・・・冬十月癸未己丑、百舌鳥野(もずぬ)の陵に葬った」とある。諸陵式に「百舌鳥の耳原の中の陵は、難波の高津の宮で天下を治めた仁徳天皇である。和泉国大鳥郡にある。兆域東西八町、南北八町、陵戸五烟」とある。【「中の陵」とは、この南にも北にも陵があるから言うのである。】この御陵は、堺の東南の方【舳松村(へのまつむら)の地】にあって、俗に大仙陵(だいせんりょう)というところだ。【ある人は、「だいせんりょう」というのは「大鷦鷯」の字音を訛ったものだという。どうだろう。】和泉志に、「舳松村の東にある。域外四畔に七つの塚がある。長冢は俗に武内宿禰と言い、長山冢は俗に王仁と言う。狐山、寺山、土鼈山、平塚山、圓山(の七つである)」と言っている。



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