『古事記傳』2−1


二之巻【序文の解】(系図は省略)

古事記(ふることぶみ)上巻(かみつまき)并序

ここには『古事記序』として、『古事記上巻』という題は、本文の初めにあるのが普通だが、合わせてここに書き、本文の初めでは省いてある。諸本みな同じように書いてある。【「并序」は「ならびに序」、「序にならぶ」とも読めるが、どちらもわが国の言い方ではない。これはどうにも古言には読めない。しかしどう読んでもいいのだろう。また、「序」の字には、昔からの読みはない。強いて言えば、中昔から「奥書」という言葉があり、中国風に言うと「跋」なので、これに準じて「はしがき」、「はしことば」とでも言おうか。】この序は、本文とは大変違っており、漢籍に似せて甚だしく飾り立てた文だ。なぜそうしたかというと、書を作って上に献るときは、こういう風に文を飾りその御代を賞賛するという、漢の一般的な例にならったのである。そして漢文調に文を飾ったから、その心も自然に漢意となり、「混元既凝」、「乾坤初分」、「陰陽斯開」、「齊2五行之序1」といった語句が多い。こうしたことを言わなければ、文章らしいと見られなかったのだ。しかし序にこういう文が多いからといって、軽率に本文の趣旨を見誤ってはいけない。また本文と大きく違うからというので、「序は太安萬侶の作ではない、後人の書いたものだ」と言う人もあるが、それはあまりよく考えてみないで言っているのだ。すべてを考え合わせると、後に他人が書いたものでなく、間違いなく太安萬侶朝臣本人の筆である。本文に似ず漢文めいていることはたいへんなものだが、当時あれほど漢学を盛んに好まれた世であったからといって、誰にでもこの序の文のようなものを書けただろうか。○これからこの序を註するが、文章の飾りに過ぎないところは、一通り触れるだけで、詳しくは論じない。それは漢意であり、取るに足りないからである。しかし終わりの方で、安萬侶がこの記の編纂経過を述べ、書きぶりを説明したところは、本文を読む上で心得ておくべきことであるから、少し詳しく述べる。

臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未レ効。無レ名無レ爲。誰知2其形1。

読み下し:オミやすまろモウス。それコンゲンすでにコリテ、かたちイマダあらわれず。ナモなくワザもなし。タレカそのカタチをシラン。

口語訳:臣、太安萬侶がもうしあげます。原初に渾沌が初めて凝り固まったとき、万物の形というものはありませんでした。名前もなく、何かをするとか、何かになるということもなく、誰もその 形を知りません。

これは天地がまだ分かれていなかった頃の状態を、漢文の趣向で書いた文である。混元は「渾沌」とも言い、「元気未レ分也(ゲンキいまだワカレざるナリ)」と註されている。「既凝」とは、分かれようとするきざしが現れたのである。気象とは、天地のすべてを「気」と「象」の語でいう。

然乾坤初分。参~作2造化之首1。陰陽斯開。二靈爲2群品之祖1。

読み下し:しかしてケンコンはじめてワカレテ、さんじんゾウカノはじめをナシ、いんようココニひらけて、ニレイぐんほんのオヤトなる。

口語訳:その後天地が初めて分かれ、三柱の神が現れて世界の起源となり、これによって陰陽が発生して、陰陽の二柱の神が万物の創造主となりました。

「三柱の神」は天之御中主(アメノみなかヌシ)、高御産巣日神、神産巣日神を言う。本文冒頭に出ている。「造化」は、漢籍で、天地陰陽の運行により、万物が生ずることを言う。「二柱の神」は伊邪那岐、伊邪那美の二神を言う。「群品」は万物のこと。ここは二句ずつ、対(つい)にして書いてある。続く部分もみな対になっている。この序の文を見て、陰陽や乾坤の説はいにしえからあったからこそ、撰者もここにこの句を書いたのであり、一概に否定するのもどうかと思う人もあるが、そうではない。古伝にそういう意味のことがあったのなら、短い序文にもこれほどたくさんあるのだから、本文にも出ているはずだが、一度も出て来ない。本文と序を比べて、ここにこういう言葉があるのは、逆に古伝(本文)においては、全くそういう概念がなかったことの証拠であって、正実と文飾の違いはますますはっきりする。これを見ても、大御国の心映えが漢籍のそれとははるかに異なることを知るべきで、また本文には撰者の個人的見解を混入しなかったことが分かって、いよいよ貴いであろう。【ある人が質問して「太安萬侶は、後に書紀を撰んだ際にも参加したというが、書紀にも陰陽などの説が見える。この序にもあるから、安萬侶朝臣は結局この陰陽の説を信じていたように思われるが、どうだろう。」私は答えて、「書紀の撰は舎人親王が中心になって行われたので、参加したとはいっても、安萬侶朝臣の見解は取り上げられなかった。また朝臣の意図は、いずれにしても書紀の陰陽の論に関わりはない。古伝についてのみ、理解すべきであろう。」】<訳者註:乾坤は易経の言葉で、天地のこと。>

所以出=入2幽顕1。日月彰2於洗1レ目、浮=沈2海水1。~祇呈2於滌1レ身。

読み下し:このゆえに、ユウケンにシュツニュウし、ジツゲツ、メをアラウにアラワレ、カイスイにフチンして、ジンギ、ミをススグにあらわる。)

口語訳:その後、(伊邪那岐神は)冥界と現世を往復され、日と月の二神が目を洗うときに生まれ、海水で身を洗うときに、諸々の神たちが出現しました。

ここに「所以(このゆえに)」とあり、続く部分でも「故(かれ)」、「寔知(まことにしる)」、「是以(これをもって)」、「即(すなわち)」などとあるのは、別に言葉通りの意味はない。軽い接続辞である。伊邪那岐大神が夜見国(よみのくに)を訪問されたことを「幽に入る」と言い、現世に戻られたことを「顕に出る」と言う。「日月云々」は、阿波岐原(あわぎはら)で禊ぎをした際のことである。その後の二句も同じである。

故太素杳冥。因2本教1而識2孕レ土産レ嶋之時1。元始綿ボウ(しんにょうに貌)。頼2先聖1而察2生レ~立レ人之世1。

読み下し:かれ、タイソはヨウメイなれども、ホンギョウにヨリテ、クニをハラミ、シマをウミシときをシリ、ゲンシはメンバクなれども、センセイにヨリテ、カミをウミ、ヒトをタテシヨをシリヌ。

口語訳:そうして、世界の始まりは暗くてはっきりしませんが、神代からの伝承によって、(神が)国土や島々をお生みになった時のことが分かり、元始はあまりにも遠いのですが、いにしえの聖人の伝えによって、神が生まれ人が出現した頃の世界が分かるのです。

「太素」も「元始」も、世の始めを言う。「杳冥」は世の始めがとても遠くおぼろげで、定かでないことを言う。「冥」の辞は、旧印本に「ヨウ(穴かんむり+目)」とある。それでも悪くはない。同様の意である。「本教」は、人に物事を語り聞かせることを「教える」というのと同じで、神代のことなどを口で言い伝え、書き記して伝えた、その説(内容)である。「綿ボウ(しんにょうに貌)」は遠く遙かなさまを言う。「先聖」は神代のことを伝えたいにしえの賢人のことである。「立レ人(ヒトをタツ)」は、天照大御神以降の人に(神の業の)継承を命じられたことを言う。【これでは天照大御神も「人」だということになるが、「生レ神」の対語として書いたもので、言葉の上だけのことだろう。】また考えようによっては、「識(しる)」、「察(しる)」の主語を伊邪那岐命、伊邪那美命と見ることもできる。そう考えると、本教は天つ神の詔ということになる。その場合、先聖は天つ神のことである。

寔知懸レ鏡吐レ珠。而百王相続。喫レ劔切レ蛇。以萬~蕃息歟。

読み下し:マコトにシル、カガミをかけ、タマをはきて、ヒャクオウそうぞくシ、ツルギをカミ、オロチをキリて、バンシンばんそくセシコトを。

口語訳:鏡を掛け、珠を吐いて、世々の王が皇統を守り、劔を噛み、蛇を退治して、神々の子孫が繁栄したことが分かります。

「懸レ鏡」は、天照大御神が天の石屋(アマのイワヤ)にこもられたとき、真賢木(まさかき)の枝に八咫鏡を掛けたことを言うのだろう。【ただしその後に「百王相続」とあるから、皇孫の天降りしようとしたとき、天照大御神がその御霊(形見)として授けられたことを言うようでもあるが、その
後に「吐レ珠」とあるので、どうだろうか(話の筋が逆になる)。】「吐レ珠」、「喫レ劔」は、天照大御神と須佐之男命が誓い(うけい)をされたときのことである。「萬神蕃息」は、須佐之男命の子孫の神々が広がり繁栄したことである。

議2安河1而平2天下1。論2小濱1而清2國土1。

訓読:ヤスカワにハカリてアメノシタをコトムケ、オバマにアゲツライてクニをキヨメき。

口語訳:(神々は)天の安河で相談して天下を平定され、小濱で(国譲りの)議論をされて国土を清くされました。

上の句は、皇孫が天降りしようとするとき、八百万の神が天の安河に集合して相談されたこと、下の句は、建御雷(たけみかづち)の神が伊那佐の小濱に降りて、大国主神と議論して国譲りに同意させることで、天下を和らげ静穏にしたことを言う。

是以番仁岐命。初降2于高千嶺1。~倭天皇。經=歴2于秋津嶋1。

訓読:ココをモチて、ホノニニギノミコト、ハジメてタカチホのタケにクダリたまい、カムヤマトノすめらみこと、アキヅシマにキョウリャクしたまう。

口語訳;これによって番能(ほの)邇邇藝(ににぎ)の命は初めて(高天原から)高千穂の嶺に降られ、神倭伊波禮毘古(~武)天皇は(日向から)大和に移って都を構えられました。

「仁」の辞は、「にん」の音を「にに」の二音に用いたもの。こうした例は多い。「秋津嶋」は大和の地を言う。

化熊出レ爪。天劔獲2於高倉1。生尾遮レ徑。大烏導2吉野1。

訓読:カユウつめをイダシテ、テンケンをタカクラにエ、セイビみちをサエギリ、オオガラスよしのをミチビク。

口語訳:化け物のような熊が現れて爪を出せば、神剣が高倉下によってもたらされて~武を助け、尾の生えた人が現れて行く手を遮ると、八咫烏(やたがらす)が現れて吉野山中の道案内をしました。

これは四つのことを四つの句で書き、二句ずつが対になっている。いずれも白檮原(かしばら:神武天皇)の御世のことで、その段にある。「爪」の字は誤写である。山か穴ではなかろうか。【延佳は水(かわ)か派(なみ)ではないかと言うが、それはあまり良くない。】生尾は「生尾人」とある。大烏は八咫烏のことである。

列レ舞攘レ賊。聞レ歌伏レ仇。(舞の正字はイ+舞)

訓読:マイをツラネてゾクをハライ、ウタをキキてアダをフクす。

口語訳:久米の子らに舞をさせて八十建を討ち、歌を歌わせて登美毘古(兄の仇)を討ちました。

これも同じ段にある。ただし舞のことは出ていない。書紀にも「道臣命乃起而歌之(ミチのオミのミコト、すなわちタチテうたう)」とあるのみである。しかし後の久米舞は、この時の様子を伝承したものと言われており、歌うだけでなく舞もしたのだろう。

即覚レ夢而敬2~祇1。所以稱2賢后1。望レ烟而撫2黎元1。於レ今傳2聖帝1。

訓読:スナワチゆめにサトリテじんぎをウヤマイたもう。ユエニけんこうトしょうす。ケムリをノゾミテれいげんをナデたもう。イマにオイテせいていトつたう。

口語訳:たとえば崇神天皇は、夢に大神の言葉を聞いて神祇をお祭りになったので賢后(賢君)と讃えられ、仁徳天皇は烟を見て民の暮らしを慰撫されたので、今も聖帝と呼ばれております。上は水垣の宮の御世のこと、下は高津の宮の御世のことで、いずれもその段に出ている。「后」は「君」のことである。【神功皇后のことかとも思えるが、そちらには夢のことは出ていない。】「黎元」というのは民のことである。【後に「崇神」、「仁徳」という諡を送られたのも、ここに言うような意味である。】

定レ境開レ邦。制2于近淡海1。正レ姓撰レ氏。勅2于遠飛鳥1。

訓読:サカイをサダメてクニをヒラキ、ちかつオウミにセイシたもう。セイをタダシテうじをエラビ、とおつアスカにチョクシたもう。

口語訳:天智天皇は国の境を定めて多くの国を開かれ、近江の宮で政務を執られ、允恭天皇は姓を正し氏を明らかにされ、遠飛鳥の宮で世を治められました。

上の句は志賀の宮の御世のことで、近つ淡海(ちかつおうみ)は都のあった場所である。下の句は遠つ飛鳥(とおつあすか)の宮の御代のことである。「制す」、「勅す」とは、ただそこにいて天下の政治を行ったという意味だ。ここまでは、いにしえの御代で世評に高いことをあれこれ抜き出して、文飾のために書いたものである。<訳者注:古事記には天智天皇の記事はない。>

雖2歩驟各異。文質不1レ同。莫レ不C稽レ古以縄2風猷於既頽1、照レ今以補B典教於欲Aレ絶。

訓読:ホシュウおのおのコトニ、ぶんしつオナジからずとイエドモ、イニシエヲかんがえてフウユウをスデにスタレタルにタダシ、イマにテラシてモッてテンキョウをタエンとするにオギナハズということなし。

口語訳:このように御代御代の天皇の政治はそれぞれ緩急があり、才能や資質もいろいろでしたが、いずれの天皇もいにしえのことをよく考えて、風儀や道徳が廃れようとしていてもまた正しくされ、今のことを考えて正しい人の道が絶えようとしていても、また新たに力を加えて復興されました。

これはその上のことをとりまとめて述べている。「歩」は静かに歩むことで、「驟」は疾走することであるから、政治もその時々に応じて緩やかであったり、急であったりすることを言う。【「三皇は歩き、五帝は驟(はし)る」という言葉がある。】「風猷」は風致、道徳を言う。この文は、必ずしもこれまでに挙げられた天皇にすべて当てはまる訳ではないが、漢人の教えにあるようなことを、文飾として加えたものである。こう言っておいて、以下の文を起こしたのである。

曁B飛鳥清原大宮。御2大八洲1天皇御世A。

訓読:アスカきよみはらのオオミヤにオオヤシマをしろしめししスメラミコトのミヨにおよびて

口語訳:飛鳥浄御原の宮で国の政を行われた天武天皇の御世に到って、

これ以下は天武天皇のことを書いている。大八洲の「洲」を「州」とした本は良くない。ここに出したのは、ある一本の記載による。

潜龍軆レ元。セン(=さんずい+存)雷應期。

訓読:せんりょうゲンをていし、せんらいキにおうず。

口語訳:水底に潜む龍(太子)だった天皇が皇位に着かれ、雲の向こうでしきりに鳴っていた雷(太子)であった天皇が、活躍される時期が到来しました。

これはまだ儲けの君(皇子)だった頃のことを言った賛辞である。潜龍もセン(=さんずい+存)雷も、易経にあり、太子のことを言う。【セン(=さんずい+存)雷は易<「震」の卦辞>に「しきりに雷震(鳴る)」とあり、「震を長子とす」という言葉から出た。センの字を「游」に作るのは誤りである。】

聞2夢歌1而想レ纂レ業。投2夜水1而知レ承レ基。

訓読:ユメのウタをキキテ、ギョウをツガンコトをおもい、ヨルのカワにイタリテ、モトイをウケンコトをしろしめす。

口語訳:夢の歌をお聴きになって、皇業の継承を思い立たれ、夜、名張の横河のほとりに行かれて、鴻基を受け継ぐ身であるとお知りになりました。

これは皇位に着くよう促す神異があったことを言っている。夢の歌のことは書紀に記載がない。漏れたのであろう。「投2夜水1」というのは、(近江勢力を避けて)東国に下ろうとする途中、伊賀の名張にある横河のほとりに到った際のことである。大きな黒雲がわき起こって、空の大きな範囲を覆ったので、天皇は「不思議なこと」と思われ、自ら占って、「天下が二つに割れ、最後には自分の勝利となる徴だ」と知った。書紀にこの記事がある。【「聞」の字を「開」としたのは間違いだ。ここでは一本を採用した。】

然天時未レ臻。蝉=蛻2於南山1。人事共洽。虎=歩2於東國1。

訓読;しかれどもイマダときイタラザリシカバ、ナンザンにセミのごとヌケたまい、ジンジともにアマネクシテ、トウゴクにトラのごとくアユミたまいき。

口語訳:しかしながら、まだ機会が到来しなかったうちは、蝉が脱皮するようにするりと吉野に脱れられ、お味方が多く集まった時は、虎のように雄々しく東国を歩まれました。

上は近江京を脱出して吉野山に入られたときのこと、下は近江勢力を避けて、吉野から東国へ脱出しようとしたとき、天武天皇の人望を慕って道々応援軍が寄り集まってきて、ついには大軍となって美濃の国に到った時のことである。これらも書紀にある。「洽」の字は、延佳本に「給」とある。それも悪くない。

皇輿忽駕。凌(正字はさんずい)=渡2山川1。六師雷震。三軍電逝。

訓読:コウヨたちまちガして、サンセンをコエわたり、リクシいかづちのゴトクふるい、サングンいなづまのゴトクゆく。

口語訳:天皇が自ら出陣され、山川を越えて進まれると、全軍は雷のようにとどろき、稲妻のように進みました。

「凌(正字はさんずい)」は「歴(経るの意)」だという註がある。【「汎レ海凌(正字はさんずい)レ山(海を渡り山を越える)」などと言う。延佳本に「凌」とあるのは誤りである。】「六師」は「六軍」。下二句は皇軍の勢いの盛んなことを言う。【漢では天子は六軍、大国は三軍などと言うが、ここは数詞を対句に使っているだけで、六、三という語には意味はない。】

杖矛擧レ威。猛士烟起。絳旗耀レ兵。凶徒瓦解。

訓読:ジョウボウいきおいをアゲテ、もうしケムリのごとくオコリ、コウキつわものをカガヤカシテ、キョウトかわらのごとくトケツ。

口語訳:誰もが一斉に杖や矛を差し上げ、勇猛な兵士は至る所から湧き出で、赤い旗が軍を耀かせるようにひるがえって、賊軍はあっという間に滅びました。

上三句は軍の勢いの強いさま、下一句は近江軍の敗れ去ったさまである。

未レ移2浹辰1。氣レイ(さんずい+珍のつくり)自清。

訓読:イマダしょうしんをウツサズして、きれいオノズカラきよまりぬ。

口語訳:速やかに悪い気は治まって清らかになりました。

これは敵が速やかに滅び、天下が治まったことを言う。「浹辰」は子の日から亥の日までの十二日間のことで、その日数を費やさず、速やかに敵が滅んだわけである。レイ(さんずい+珍のつくり)は妖気。この悪い気が去って、清らかになったというのである。この字は諸本誤って「弥」としている。ここは延佳の考証を採った。

乃放レ牛息レ馬。ト悌帰2於華夏1。巻レ旌シュウ(揖のつくりを偏に、戈を旁にした字)レ戈。舞詠停2於都邑1。(舞の正字はイ+舞)

訓読:すなわちウシをはなちウマをいこえ、ガイテイしてカカにかえり、ハタをまきホコをおさめ、ブエイしてトユウにとどまりたもう。

口語訳:(天皇は)ここで戦闘に使った牛を解放し、馬を休め、凱歌を上げて都に帰られました。旗を巻き、武器を収め、舞い歌いして都に留まられました。

「放レ牛息レ馬」とは、漢国で、周の武王が紂王に勝って、馬を崋山の南に帰し、牛を桃林の野に放って、もう使わないことを世に示した故事による。ト悌は戦に勝ったときの音楽である。書紀に「イクサトケテ」とある。【私の考えだが、「悌」の字は不審である。「ト」は「ト楽」ともいって勝ち戦の音楽だが、「悌」の字にその意味があるということは聞かない。「ト悌」という言葉はあるのだが、それはまた意味が異なる。それなのにここでト楽のことをト悌と書いているのは、トの字に引かれて混同したのだろうか。しかし、これは世間によくある間違いだったと思われる。書紀にも同じ間違いがあるからだ。漢籍にもあるのだろうか。もう少し調べる必要がある。】

歳次2大梁1。月踵2夾鍾1。清原大宮。昇即2天位1。

訓読:ほしタイリョウにヤドリ、つきキョウショウにあたりて、キヨミハラのオオミヤにして、ノボリテてんいにツキたもう。

口語訳:(天皇は)酉の年二月に、飛鳥浄御原宮で即位されました。

初めの句は、酉の年を言う。「大梁」は十二支が「昴宿(ぼうしゅく)」にある年のことで、これは二十八宿の西の星であり、西は酉の方だからである。次の句は二月を言う。「夾鍾」は十二律のうち二月の律だからである。「踵」は「鍾」と同じで、通用した例がある。書紀を見ると、天武天皇は癸酉の年、二月癸未【二十七日】に即位されたとある。

道軼2軒后1。徳跨2周王1。

訓読:ミチはケンコウにスギ、トクはシュウオウをこえたもう。

口語訳:(天皇の)行いはあの軒后(黄帝)にも優り、その徳は周王をも超えていました。

軒后は漢国の黄帝という王で、周王は文王、武王のことである。

握1乾符1而ハ2六合1。得2天統1而包2八荒1。

訓読:ケンプをトリテ、リクゴウをスベ、テントウをエテはっこうをカネたもう。

口語訳:(天皇は)天つ御璽を受け継がれて天地を治め、皇統を嗣いで遠い異国までも王化されました。

乾符は天の吉端である。六合は上下四方を言う。天統は天から受けた帝統。八荒は八方の遠く離れた国々を言う。

乗2二氣之正1。齊2五行之序1。

訓読:ニキのタダシキにじょうじ、ゴギョウのついでをトトノエたもう。

口語訳:(天皇は)陰陽二気を正しくされ、五行の循環を整えられました。

二気は陰陽のこと。主君の政が良ければ陰陽五行の運行が正しくて、四時の気候も乱れないという、漢人の例のたわごとである。

設2~理1以奨レ俗。敷2英風1以弘レ國。

訓読:シンリをモウケてモッテならわしをススメ、エイフウをシキてモッテくにをヒロメたもう。

口語訳:(天皇は)神の理を明らかにして風俗を正しく良いものにさせ、優れた教えで国を発展させられました。

神の理は神妙の道理である。「奨レ俗」とは、民の風俗を良い方に勧め導くことである。「英風」は英聖の風教(優れた教え)である。

重加智海浩瀚。潭探2上古1。心鏡イ(火+韋)煌。明覩2先代1。

訓読:しかのみならず、ちかいコウカンにして、ふかくジョウコをさぐり、しんきょうイコウにして、あきらかにセンダイをみたもう。

口語訳:そればかりでなく、(天皇の)智恵は海のように広大で、上古のことを深く探求され、心は澄み切って、まるで目の前のことのように古い時代のことを見通されました。

智海とは、智恵の広く大きいことを海にたとえた言葉で、心鏡とは、心の明らかなことを鏡にたとえたのである。「浩瀚」は広大なこと、「イ(火+韋)煌」は光明輝かしい様子である。ここまでは、この天皇の大体の経歴を述べて、次のことを言おうとしたのである。

於是天皇詔之。朕聞諸家之所レ齎。帝紀及本辭。既違2正實1。多加2虚僞1。

訓読:ココニてんのうミコトノリしたまわく、ワレきく、ショケのモタルところの、テイキおよびホンジ、すでにセイジツにタガイ、おおくキョギをクワウと。

口語訳:ある時、天皇は詔して、「諸々の家で保有している帝紀(天皇の記録)と本辞(各家の史録)は、もう事実と違っていて、偽りのことも多く付け加えられているそうだ。」(と)

「詔之」の「之」の字は延佳本には「云」と書いている。それも悪くない。「もたる」の字(表示不可)は、「齎」の俗字だそうだ。延佳本には「齎」とある。「帝紀」は、後の文で「帝皇日継」とあるのと同じで、御代御代(みよみよ)の天津日継(あまつひつぎ)を記録した書物である。書紀の天武の巻で、川嶋皇子たちによる史書修撰のところにも帝紀とある。推古の巻の皇太子(聖徳太子)による修撰や、皇極の巻の、蘇我蝦夷が焼き捨てようとしたくだりでは「天皇記」とある。「国史」と言わず、「帝紀」、「天皇記」というのがいにしえの呼び名であろう。「本辞」は、下文(後の文)に先代旧辞とあるのと同じ。蘇我蝦夷が焼いた書を「国記(くにつふみ)」と言い、聖徳太子の修撰では「天皇記および国記、臣(オミ)連(ムラジ)伴造(トモノミヤツコ)国造(クニノミヤツコ)百八十部并公民等本記」とあるのも、これに当たるだろうか。川嶋皇子の修撰では、「上古の諸々の事」とあるのは、全くこれである。だがここでは旧事でなく、本辞、旧辞というのは、「辞」という語の意を思えば、天皇がこのことを思い立たれた意図は、もっぱら(事:書かれた内容より)古言を伝えることだったと考えるべきである。この後に続く記述で、「未レ行2其事1牟(ソノコトいまだオコナワレズ)」という箇所までは、この記の書かれたいきさつを述べており、特に注意して読むべきである。前半部の、漢文的修飾の多い部分とは、比較にならない重要性がある。

當2今之時1。不レ改2其失1。未レ經2幾年1。其旨欲レ滅。

訓読:イマのトキにアタリテ、そのシツをアラタメずば、イマダいくばくのトシをヘズして、そのムネほろびんとス。

口語訳:(詔の続き)「今速やかにその誤りを正さなければ、遠からず真の伝えは失われてしまうだろう。」(と)

「其失」とは、前に「多加2虚偽1」とあった状況である。「其旨」は真の伝えである。当時、虚偽が多く加わっていたとしても、まだ真の伝えは、全く失われてはいなかったので、天皇の海のように広い智恵、鏡のように明るい心をもってすれば、正実と虚偽を判別することもできたので、「今、この時に改め、正さなければ、いよいよ虚偽が多く加わり、遠からず真実は全く失われてしまうだろう」と思われたのである。【それなのに後世の人の学問は、その正実をなおざりにして、ただ漢文めいた虚偽のところばかり重視するように思われるのは、一体どうしたことだろう。】

斯乃邦家之經緯。王化之鴻基焉。

訓読:それスナワチほうかのケイイ、おうかのコウキなり。

口語訳:(詔の続き)「それはつまり国の成り立ちのいきさつ、天皇の治世を広めて行く事業の歴史である。」(と)

「経緯」とは、国を治める上で必要な要素を、機織りの経(縦糸)と緯(横糸)にたとえた言葉である。「鴻」とは大いなることである。

故惟撰=録2帝紀1。討=カク(西の下に激のつくり)2舊辭1。削レ僞定レ實。欲レ流2後葉1。

訓読:カレこれテイキをセンロクし、クジをトウカクして、イツワリをけずりジツをさだめて、ノチのヨにツタエンとノタマウ。

口語訳:(詔の続き)「だから今帝紀を撰び、古い言い伝えを考察して、虚偽を除き真実を選び定めて、後世に伝えたい」とおっしゃいました。

ここまでが詔(みことのり)の言葉である。「討カク(西の下に激のつくり)」は伝えの真実を深く考察することである。この一句は、特に古学の要諦とすべきことだ。適当に見過ごしてはならない。「後葉」は後世のこと。【なお「欲」の字は、意味から言うと「撰録」の前にあるべき文字である。】

時有2舎人1。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲レ人聡明。度レ目誦レ口。拂レ耳勒レ心。

訓読:トキにトネリありて、セイはヒエダ、ナはアレ。トシこれニジュウハチ、ひととなりソウメイにして、メにわたればクチによみ、ミミにふるればココロにシルス。<訳者註:二十八は、「ハタチまりヤトセ」といった読みもあるが、宣長の訓がないので、ここでは簡明な読みにした。>

口語訳:このとき、稗田阿禮という舎人がいました。年齢は二十八、たいへん聡明で、一度でも見た書はすぐに憶えて暗誦することができ、耳から聞いたことも、決して忘れませんでした。

稗田という姓は、新撰姓氏録にはない。【延佳本で、弘仁私記の序を引用したところに、天鈿女(あめのうずめ)命の子孫だとある。】書紀の天武紀の上巻に、稗田という地名が見える。大倭(おおやまと)国の地名らしい。【添上郡に稗田村がある。これかも知れない。】その地名から出た姓だろう。「度レ目誦レ口」というのは、一度でも見た書は、すぐに記憶して口で誦えることである。「拂レ耳勒レ心」も、一度でも聞いた言葉は忘れないことを言う。【「廿」という字は、延佳本では「二十」と二文字に書いている。意味は同じであるが、この部分は四文字の句を並べているのだから、この句も四文字とすべきだろう。ここでは旧本によった。

即勅=語2阿禮1。令レ誦=習2帝皇日繼。及先代舊辭1。

訓読:すなわちアレにチョクゴして、テイコウのヒツギ、およびセンダイのクジをヨミならわしむ。

口語訳:そこで阿禮に帝皇日継と昔の言い伝えを暗誦し、学習するようにおおせつけられました。

「勅語」とは、天皇が自ら口でおおせつけられたことである。【役人を通じて、または文書などで命じられるのも「勅」とは言うが、勅語ではない。】あるいは、ここには別の意味もあるかも知れない。それは後に述べる。「令レ誦=習」とは、旧記の書から離れて、空で暗誦させられ、その語を口に習わしめたのである。このように、すぐに文字に記録するのでなく、まず口に暗誦させられ、よくよく習わせたというのは、言葉付きを重視させられたためである。このことは、一之巻ですでに触れた。書紀纂疏には、弘仁私記を引用して「天皇勅2阿禮1使レ習2帝王本紀及先代舊事紀1」とあるのは、「舊辭」を「舊事紀」と取り違えている。【間違っても、今流布している「先代旧事紀」と混同してはならない。その「旧事紀」という題名は、この「私記」の言葉を採って名付けたものである。】

然運移世異、未レ行2其事1牟。

訓読:シカレドモ、うんウツリよコトにして、ソノコトをいまだオコナワレたまわず。

口語訳:けれども、天皇が崩御され、世代が変わって、(後の天皇は)史書の編纂をまだ実行されようとしませんでした。

天武天皇が崩御され、御世が変わったため、撰録が実行されないまま、深く検討された古史古伝も、無駄に阿禮の口に残っていた。

伏惟皇帝陛下。得レ一光宅。通レ三亭育。

訓読:ふしてオモウニこうていへいか、イチをエてコウタクし、サンをツウジてテイイクしたもう。

口語訳:おそれながら、元明天皇は、帝位におつきになって徳を天下に広められ、天地人の三才に通暁せられて、民を化育なさっておられます。

「皇帝」は撰者の当時の天皇、那良の宮で天下を治められた天津御代豊国成姫天皇【後の諡は元明】のこと。「得レ一」は、老子に「天は一を得て(唯一の高い位に着いて)もって清く、地は一を得てもって寧(やす)く、王侯は一を得てもって天下の貞(みさお)となる」とあることから出た。「光宅」とは天下すべてを家とする意味で、「おおきにおる」とか「みちおる」【「光」は「充」である、という註もある。】とも読む。【「尚書(書経)」の「堯典」に、「光=宅2天下1(テンカにコウタクす)」とあることから出た。】「通レ三」とは、天地人の三才(すべての思想、知識、技能)に通じること。「亭育」は、元は「亭毒」と言ったが、通用してこのようにも言う。民を化育することである。【これも老子に「亭レ之毒レ之(コレをテイしコレをドクし)」とあることから出た。その註に、「毒は今では育と書く」とある。○「亭」の字を、旧印本で「亨」とあるのは間違い。】このあたりから、例の漢文の飾り言葉を多く出して天皇をほめそやす文になる。

御2紫宸1而徳被2馬蹄之所1レ極。坐2玄扈1而化照2船頭所1レ逮。

訓読:シシンにギョしてトクはバテイのキワマルところにオヨビ、ゲンコにいましてカはフナガシラのオヨブところをテラシませり。

口語訳:宮中におられながらにして、その徳は馬が走る限りの距離に達し、皇居に居ながらにして、その徳化は卑しい船頭が漕いで行ける限りの範囲に届いています。

「紫宸」も「玄扈」も、天皇のおられる所である。「玄扈」は黄帝が洛水のほとりの玄扈という石室に住んでいたとき、鳳凰が図をくわえて来て授けたという故事から引いた。【旧印本では、「宸」を「震」、「船」を「舩」と書き誤っている。】

日浮重レ暉。雲散非レ烟。

訓読:ヒうかびてヒカリをかさね、クモちりてケムリにあらず。

口語訳:太陽が出て耀き渡り、空には雲が散って煙でないというめでたい徴が現れています。

浮かぶというのは、出ることである。「重レ暉」とは光輝が明らかだということ。雲云々というのは、雲のようで雲でなく、煙のようで煙でないものが空に漂うことを言う。いわゆる「慶雲」である。

連レ柯并レ穗之瑞。史不レ絶レ書。列レ烽重レ譯之貢。府無2空月1。

訓読:カをツラネ、ホをあわすズイ、シしるすことをタタズ。トブヒをツラネおさをカサヌルみつぎ、フむなしきツキなし。

口語訳:連理の木や嘉禾の出現が相次ぎ、史官はその記録を絶つことがありません。またのろしを連ねなければ連絡できない国、通訳を幾人も重ねなければ言葉の通じないような遠い国からの朝貢が、毎月のように官府の倉に参っております。

「連柯」は連理の木(根が別で、枝がつながった木)である。「并」も茎が別で穂が一つになった、いわゆる嘉禾(かか)である(いずれも瑞祥)。下の二句は、外国から来る貢ぎの使いが、月々に絶え間ないことを言い、「列烽」は常に烽を連ねて警戒怠りなく防ぐ国、「重譯」は、通訳を重ねなければ言葉が通じない遠い国のことである。そうした国々も、今は朝貢して来るという。 「府」はその貢ぎの品々を収める府庫のことである。【「列烽」はその朝貢使がやって来たときにのろしを挙げることのようにも思われて、まぎらわしくはあるが、この箇所は「文選」にある顔延年の曲水の詩の序に、「赤(赤+頁)莖素毳、并柯共穗之瑞、史不レ絶レ書、棧山航海、踰沙軼漠之貢、府無2空月1、列2燧千城1、通2譯萬里1、穹居之君、内首稟レ朔、卉服之酋、廻レ面受レ吏(あかきクキ、しろきケバ、あわせるカ、ともなるホのズイ、シしるすことをタタズ。ヤマをこえ、ウミをワタり、スナをこえ、バクをこえるミツギ、フむなしきツキなし。ノロシをセンジョウにつらね、ヤクをバンリにかよわする。キュウキョのキミも、ウチにムカイてサクをウケ、キフクのシュウも、オモテをメグラシてリをウク。)」とある文を少し変えて引いたのだから、その元の文に即して考える。これに限らず、「文選」から引用した箇所はたくさんある。】

可レ謂C名高2文命1。徳冠B天乙A矣。

訓読:ナはブンメイよりもタカク、トクはテンイツにもマサレリとイイツべし。

口語訳:その名は夏の禹王より高く、徳は殷の湯王にも優っていると言うべきでしょう。

「文命」は夏の禹、「天乙」は殷の湯王で、いずれも異国の名高い王たちである。ここまでは当時の天皇を誉めそやす文で、続いて例のことを言い出すために持ち上げたのである。

於焉惜2舊辭之誤忤1。正2先紀之謬錯。

訓読:ココにクジのアヤマリたがえるをオシミ、センキのアヤマリまじれるをタダサンとして、

口語訳:ところが旧辞に誤りが多いことを残念に思われ、先代の古い記録が間違っているのを正そうと、

これ以降はこの記を撰録させられたいきさつを述べるが、この一文は、最初に天皇の御志を言ったのである。「謬」の字は、糸偏に書いた本もあるが、同じ意味である。

以2和銅四年九月十八日1。詔2臣安萬侶1。撰=録2稗田阿禮所レ誦之勅語舊辭1。以獻上者。

訓読:ワドウよねんクガツじゅうはちにちをモチテ、オミやすまろにミコトノリして、ヒエダのアレしょうするトコロノ、ちょくごのクジをセンロクして、モチテけんじょうセシムてへり。

口語訳:和銅四年の九月十八日、わたくし安萬侶におおせがあり、稗田阿禮がおおせによって暗誦する旧辞を、文書に記録して献上せよとのことでした。

この文の様子だと、この時も阿禮は存命だったらしい。【この人は、前に二十八才とあったが、それは天武朝のいつのことかは分からず、和銅四年には何才になっていただろうか。定かでないが、仮に天武元年のことであったとすれば、和銅四年には六十八才である。しかしながら、天武天皇はそのことを思い立たれてから、史書の完成を見ることなく崩御されたということなので、天武末年に近い時期だったのではないだろうか。もし末年のことだったとすれば、五十三才となる。】こうして天武の時に誦み習った帝紀と旧辞は、阿禮の口に残ったままだったのを、この時安萬侶朝臣に仰せつけて、選録させられたのである。ここで旧辞と言って帝紀と言わなかったのは、「旧辞」に帝紀の意味を込めて省いたのである。【また、ここでは口に暗誦する言葉を言っており、帝紀もその中に含まれていたから、特別に言う必要もなかった。】帝紀を除いた旧辞というわけではない。また、ここにさえ「勅語の」とあるからには、元々この勅語は、単にこのことを仰せつけられただけでなく、天皇【天武】自らの御口でこの旧辞を暗誦させられ、それを阿禮に聞き取らせ、大御言をそのまま暗誦させ習わせたのかも知れない。【そうでなければ、ここで特に「勅語の」と書く必要もないからである。だが他の古い書にも、勅語とはただ言いつけるという意味に用いるので、上記はそういう意味合いもあっただろうかと思って注したのである。】もしそうであったら、この記は天武天皇自ら撰び、暗誦したもうた古語であるということになり、この上なく貴い聖典である。だが天武天皇が崩御されて後、その志を継ぐ天皇が現れず、それほど貴い古語も、阿禮の命と共に滅んで行くばかりとなっていたのを、うれしくありがたくも、天神地祇の おかげがあって、和銅の大御代にこの撰録があり、現在までこの書が伝わったのである。学問をする人は、頭上に捧げ持って、天神地祇の恵み、天武、元明二代の天皇、稗田の老翁、また太安萬侶の恩を決して忘れないようにせよ。【この記のことを思い立たれた天武の元年は申年で、撰録させられた元明の和銅元年も申年である。ところが畏れ多くも宣長がこの伝を書き始めた明和の元年も申年だということを、ひそかに奇しき縁だと思っている。】

謹隨詔旨。子細採拾(拾の正字は、てへん+庶)。

訓読:つつしみてミコトノリにシタガイ、シサイにトリひろう。

口語訳:謹んで仰せにしたがい、阿禮の言葉を子細に記録しました。

ここからは撰録の様子を述べている。

然上古之時。言意並朴。敷レ文構レ句。於レ字即難。

訓読:シカルニじょうこのトキ、げんいナラビニぼくにして、フミをしきクをカマウルこと、じにオイテすなわちカタシ。

口語訳:しかし、上古においては言葉も心も至って素朴でしたので、文として文字に書き写すのは、大変なことでした。

これを見ると、阿禮の暗誦したのが非常に古い言葉であることが分かり、ますます貴重な書であるという感を深くする。「敷レ文」と「構レ句」は二つのことでなく、いずれも文に書き写すということである。「於レ字即難」も、文に書き取りがたいことを言う。文は漢文だからである。【後世のようにかな書きだったら、どんな古言も書き取れないことはなかっただろうが、当時はまだ仮字だけで物を書くことはなかったのだ。】上代のことだから、意味合いも言葉も大変古く、撰録当時とはすでに違っていたことが多かったので、漢文には書き取れなかったのも、もっともである。【「上古には、言葉だけでなく、心も素朴であった」と言っているところを、よく考えるべきである。いかにも奥深いように言葉を飾る意図は全くないのだ。だが漢文は心までも飾りばかり多く、その趣は非常に異なっている。】この文をよく味わい、撰者がどれほど上代の心と言葉を誤り違えることなく書き留めようと、いそしみ慎んだか、推し測るべきで、逆に書紀のように漢文で飾り立てた文は、古言とは大きく隔たっていることを理解すべきである。【この記のように飾ることがなくても、なお書き写すことが困難であったというのに、漢文をいかにも漢籍のように飾り立てたのでは、どうして古言を真実の通りに書き得ようか。】

已因レ訓述者。詞不レ逮レ心。

訓読:スデにクンにヨリてノベタルは、ことばココロにオヨバズ。

口語訳:すべてを訓(読み)で書いたら、言葉は心を表せません。

「已に」は「ことごとく」という意味。【書紀の神代巻に、「鋺既破砕(かなまりスデニくだけたり)」、継体の巻に「全壊(スデニそこなう)」、万葉巻十七に「天下須泥爾於保比底布流雪乃(あめのしたスデニおおいてフルゆきの)」、出雲国風土記に「既礒(スデニいそなり)」などあるのは、全部「ことごとく」の意味である。】「因レ訓述」とは、文字の意味を取って語を書くことを言う。いわゆる「真字」のこと。「詞」はその訓で書いた文。「心」は古語の「意」のことである。【「意」の字でなく「心」と書いたのは、その前に「意」の字があるので避けたのである。この序文は、同じ語の繰り返しを嫌っている。】そう言うのは、世にある旧記などを見ると、どれも訓を用いて書くと、いわゆる借字(「鴨」を「かも」と訓読みして歌の結びの「〜かも」の意味に使うなど、万葉によく見られる)が多くなって、文字の意味が違っているので、語の意味におよび至らないということである。【私が思うに、これは記全体の記述法を思い図った言葉ではないだろうか。そうだったら、「述」は「のぶれば」と読み、「心」は撰者自身の心となる。この文の意味は、ことごとく訓で書くと、古語を誤りなく伝えようとする撰者の心に合わず、文が行き届かないということである。そうかも知れないと思う理由は、上記の意味だったら、記には借字を使わないようにするはずなのに、なお借字がしばしば見られるからである。しかしながら、借字が多いのは、いにしえの一般的な傾向であり、神名や地名に広く用いられていたので、正字がよく分からなかった頃、性急に改めようとするのも乱暴であり、全部を除き去ることはできなかったのが道理で、記の信頼性には変わりない。】

全以レ音連者。事趣更長。

訓読:マタクおんをモチテつらねタルハ、コトのオモムキさらにナガシ。

口語訳:しかしすべて音で書いたのでは、いたずらに長くなってしまいます。

「音」とは字の音を借りて書くことで、これがカナである。「事の趣き」とは、それを書いた文面である。そう言うのは、全くカナだけで書くと、文字の数がとても多くなり、訓を併用するのに比べると、「更に長い」と言っているわけである。【前記の考えで読むと、ここも「連者」を「つらぬるは」と読んで、撰者の思いを言っていることになる。】<訳者注:「つらねたるは」は「連ねたものは」で書かれた物のこと、「つらぬるは」は「つらねるのは」で撰者の動作のこと>

是以今或一句之中。交2用音訓1。

訓読:ここをモチテいまアルイハいっくのウチ、オンくんをマジエもちいるなり。

口語訳:このため、時に一句の中でも音と訓を混用しています。

上記のように、すべて訓を用いて漢字書きにすると、借字が多くなって、言葉の意味がわかりにくくなり、だからといってすべて音を用いると、文がとても長くなって煩わしい。そこで、今はほどよいところで音訓を混用したのである。

或一事之内。全以レ訓録。

訓読:アルイハいちじのウチ、マタクくんをモチテしるす。

口語訳:また時には、一つのこと全体をすべて訓で書いています。

もっぱら訓読みを採用していても、古言と言葉も意味もさほど違わない場合と、音読みで書けば、文字の意味は違うが言葉としては正しい場合、あるいは誰でもその古語を知っていて読み違うことはない場合、意味は少し違っていても、もうその書き方をみんなが知っていて、文字に戸惑うようなことはない場合などがあり、そうした場合はあえて長々と仮字書きをしなくても、簡約な漢字書きの方を用いたのである。「一事」、「一句」というのは叙述内容で区別をしたのでなく、文字を変えただけのことである。

即辭理難(正しくは匚に口)レ見。以レ注明レ意。

訓読:すなわちジのリみえガタキは、チュウをもちてイをあきらかにす。

口語訳:そのため、言葉の筋が分かりにくい時は、注を付けて意味を明らかにしました。

「理」は意のことで、以下に「以レ意」というのがそうである。「匚に口」の字は、「不可也」という注があり、「難」と同じ意味に使う。【釈日本紀に引いたのでは、「難」と書いている。】記には、さまさまな注があるが、言葉の意味を書いたのはまれであって、ほとんどはただ読み方を注しているので、ここは文の通りに解釈するべきではなく、おおよそのところを示したものと考えるべきである。【注では訓を教えるのがほとんどであることから、この文の意味を補うとすれば、辞とは字のことで、理あるいは意とは訓のことと考えていいだろうか。訓とはその字の意味だからである。たとえば「訓レ立云2多多志(「立」を読んで「たたし」と言う)」とある例では、読み方を教えているわけだが、「多多志」というのはつまり「立」の字の意味であるから、意味を教えている(明レ意)と言うこともできる。しかし多くの場合には「〜の字は音で読め」と書き、仮名であることを注しているので、「明レ意」とは言い難い。いずれにせよ、事実にぴったり合った内容の文ではない。

况易レ解更非レ注。

訓読:イワンヤわかりヤスキハ、さらにチュウせず。

口語訳:意味が分かりやすい場合は、あえて注しませんでした。

「况」は特に意味はなく、軽く言い添えただけである。【字書には「発語の辞」とある。】「非」の字は「不」の意味で使っている。これは記の本文や書紀でも多く見られる。ところで、序文は全編対句で構成されているのだから、ここも前の文と対応するはずなのに、意味合いこそ対になっているが、文字は対応しないのは、本来は「易」の上に二字、「更」の上か下に一字あったのが脱落したのであろうか。

亦於2姓日下1。謂2玖沙訶1。於2名帶字1。謂2多羅斯1。如レ此之類。隨レ本不レ改。

訓読:またセイの「ヒのシタ」においてクサカといい、ナの「オビ」のジにおいてタラシという。カクのゴトキのタグイ、モトにシタガイテあらためず。

口語訳:一例を挙げますと、人の姓の「日の下」を「くさか」と読み、人の名の「帯」を「たらし」と言いますが、これらは元のままに読んで、改めませんでした。

この文は、正しくは「亦於2姓玖沙訶1謂2日下1、於名2多羅斯1謂レ帶」とあるはずの文である。その理由は、「玖沙訶」を「日下」と書き、「多羅斯」を「帯」と書いて、以前から書いてきた通りで、改めず、その字で書くという意味だからである。「如レ此之類」とは、長谷、春日、飛鳥、三枝のような例である。このたぐいだけでなく、地名や神名の多くは、古来書き慣わしたまま書いている。【だが書紀は神名、人名、地名、姓氏などの文字も、古来のものを用いず、ことさらに改めて、たとえば伊邪那岐命を伊弉諾尊、須佐之男命を素戔嗚尊などと書いている。それなのに後世の人は、書紀ばかり見慣れているので、これが正しい字だと思い、古事記のように伊邪那岐命、須佐之男命と書くのは、かえって誤りのように思うのは間違いだ。他の古い書物を比べてみるといい。どれもほぼこの記のように書いていて、書紀だけが違っている。この記や他の古い書物に出ている久米、川俣などの地名も、書紀だけは来目、川派などと書いている。これらの地名は、現在でもあちこちにあって、昔からその当地で書いてきた字も、みなこの記および他の書物と同じである。小さいことではあるが、これを見ても真実の書と漢文で飾り立てた書との違いを知ることができる。】

大抵所レ記者。自2天地開闢1始。以訖2于小治田御世1。

訓読:タイテイしるすトコロは、テンチカイビャクよりハジメテ、もってオハリダのミヨにオウ。

口語訳:内容の概略を言えば、天地の始まりから、小治田の御世(推古天皇)までです。

ここは古事記全体の始終について言っている。これに続いて、各巻の始終を言う。

故天御中主~以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前。爲2上卷1。(葺は異体字)

訓読:かれ、アメノミナカヌシのかみヨリいか、ヒコなぎさタケうがやフキアエズノみことイゼンを、かみつまきトす。

口語訳:天御中主神から日子波限建鵜草葺不合命(神武天皇の父)までを上巻に書いております。

神代を一巻としたのは、本来そうしたものだからである。「フキ(パソコンにはない)」の字は、延佳本に「葺」とある。同じことである。ここで「命」の字に「尊」とあるのはたいへん珍しい。【この記では、「みこと」には高いのも卑しいのも、一般には「命」だけを用いる。ほかの古い書物でも、天皇の名にも「命」を用いることが多い。ところが書紀では「尊」と「命」を使い分け、「至って貴いのを尊と言い、それに次ぐのを命と表記する」と注釈してあり、「尊」の字は書紀の撰者によって新しく用いられたと思われ、また日子(ひこ)、日女(ひめ)に「彦」、「姫」という字を書くのも書紀であって、古事記には一つもない。これらのことを考え合わせると、ここに「尊」の字があることは、多少不審である。だからと言うので、この序全体を疑い、後世の偽作だと言う人もいるが、それはおそらく間違っている。よく考えてみると、「大雀(おおさざき:仁徳天皇)」を旧印本で「大鷦鷯」としているのも、書紀を見慣れた後世人による誤記であるから、ここの「尊」の字も同じようなことで、書紀を見慣れているために誤写したのではないだろうか。真福寺本は「命」と書いてある。これが正しいだろう。また思うに、次の文で伊波禮毘古(神武天皇)は天皇、品陀(應神天皇)は御世、大雀(仁徳天皇)は皇帝、小治田(推古天皇)には大宮とそれぞれ違った呼び方をしているように、ここもただ書き方を変えただけであって、必ずしも当時「みこと」を「尊」と書いたというわけではなかったのではないか。】ただし、最近発見された上野国多胡の郡の古い碑文の写しを見ると、石上麻呂公を石上尊、藤原不比等公を藤原尊と書いている。この碑は、同じ和銅四年に建てたという。ということは、当時既に、貴人を「尊」と称することが、ままあったのだろう。【その称が「みこと」に当たることから、書紀ではすぐにその字を採って、「みこと」の意味に用い、「至って貴い」場合に書いたということだろう。それなのに、その碑文の「尊」を朝臣(あそみ、あそん)の意味で「そん」の音を採ったという説は、たいへんな曲説である。】

~倭伊波禮毘古天皇以下。品陀御世以前。爲2中卷1。大雀皇帝以下。小治田大宮以前。爲2下卷1。

訓読:かむやまとイワレビコノすめらみことイカ、ほむだのミヨいぜんを、ナカツマキとナス。オオサザキこうていイカ、おはりだのオオミヤいぜんを、シモツマキとナス。

口語訳:~武展から應神天皇までを中巻とし、仁徳天皇以降推古天皇までを下巻としました。

「天皇」、「御世」、「皇帝」、「大宮」は、それぞれ文字を変えて言葉の綾としたのである。【また「天皇」と「皇帝」、「御世」と「大宮」をそれぞれ対にしている。】應神までを中巻、仁徳以降を下巻としたのは、ただ自然の記述に従っただけで、特別な意味はない。【中巻は長く、下巻は短いことを考えると、少しは意味がありそうに思えるが、そうではない。應神の巻を下巻に入れたら、今度は下巻の方が長くなるので、同じことである。】ここで、小治田の御世までで終わりとした理由は、この撰録は阿禮の暗誦するのを書き留めたわけで、それは元々天武天皇の勅語であったので、推古の次の舒明天皇は、天武のお父上でもあったから、はばかってその御世までは語らなかったのであろう。そういう気遣いは、記の中身にも見える。【他田の宮(敏達天皇)の段で、皇子たちを挙げたところでも、舒明天皇については諱を書かず、「岡本の宮で天下を治めた天皇」と書いている。】この記が撰者の新しい見聞を加えることなく、阿禮が暗誦したままを書き留めたことは、これによっても知られるであろう。

并録2三卷1。謹以獻上。臣安萬侶。誠惶誠恐。頓首頓首。

訓読:あわせてサンカンをしるし、ツツシミテもってケンジョウす。オミやすまろ、セイコウせいきょう、トンシュとんしゅ。

口語訳:全部で三巻に記しました。謹んで献上いたします。臣安萬侶、心から恐れ入っております。

三巻としたのは、その程度がほどよい分量だったということである。

和銅五年。正月廿八日。(訓読、口語訳は省略)

その昨年、九月十八日に詔を受けて以来、わずか四ヶ月あまりにして撰録を完了したのは、えらく速いようだが、阿禮が暗誦するままを書き留め、撰者の見解などを加えなかったためである。

正五位上勲五等。太朝臣安萬侶。(訓読、口語訳は省略)

「勲五等」とは、普通の位階の他に、「勲位」といって一等から十二等まであり、官位令にある。義解(ぎげ)によると、五等は正五位に相当する。【勲位は武功によって賜るものである。】太安萬侶朝臣は、神武天皇の皇子、神八井耳(かむやいみみ)の命の末裔である。詳しくは、その段で述べる。安萬侶は誰の子か分からない。【書紀の天武の巻に、多品治(おおのほむじ)という人の名がある。壬申の乱のときに大きな功績を挙げて、位は「小錦下」となっており、持統の巻には「十年八月庚午朔甲午、多臣品治に直廣壹(じきこういち)の位を授け、褒美の品を与えて、天武に初めから従って功績を挙げたこと、また関を堅く守ったことに対し、お褒めの言葉があった」という記事がある。おそらくこの品治朝臣の子ではないかと思う。この氏は、天武の巻で朝臣となって、多朝臣品治と書かれているのに、持統の巻で朝臣でなく臣と書かれているのは、どうしたわけだろうか。なお「直廣壹」は、天武の定めた四十八階の第十位に相当する。】続日本紀の第三巻に、「慶雲元年正月丁亥朔癸巳、正六位下太朝臣安麻呂に従五位下を授けた」【公式記録では初出。】、また第五巻に「和銅四年四月丙子朔壬午、正五位上を授けた」【正五位下になったことは、記事がない。漏れたのであろう】、第六巻には「霊亀元年正月甲申朔癸巳、従四位下に叙す」、第七巻に「同二年九月乙未、氏の長(かみ)となる」、第九巻には「養老七年七月庚午、民部卿従四位下、太朝臣安麻呂が卒した(死んだ)」【民部卿になったことも、記事がない。漏れたのだろう。】とあるが、年齢は書かれていない。この他、「弘仁私記」の序、三統の理平の延喜六年の「日本紀竟宴の歌」の序、橘の直幹の天慶六年の「同竟宴の歌」の序、また忌部の正通の「口决」などに、書紀を舎人親王と太安麻呂の二人が詔を受けて撰述したとある。【続日本紀には、親王一人の撰のように書かれており、太安麻呂のことは出ていない。○神名帳に、大和国十市郡に小杜(こもり)神命神社が出ている。一説に、この神社は多神社の東南にあり、現在「木下社」と称し、安麻呂を祭ると伝える、という。案ずるに、これらを含む四社の後に、「以上四社は太社皇子神(オオのヤシロのミコガミ)」と延喜式に書かれており、多氏の祖先を祭っていることは疑いない。これが事実、安麻呂なのではないだろうか。】なお旧印本には、「謹上」の二文字はない。

系図(省略):系図は底本のままに写しても分かりにくく、あまり重要性はないと考えて、省略することにした。WEBにはよく見やすい系図が紹介されているので、それに譲る。


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