『古事記傳』22−2


伊邪河の宮の巻【開化天皇】


若倭根子日子大毘毘命。坐2春日之伊邪河宮1。治2天下1也。此天皇。娶2旦波之大縣主名由碁理之女。竹野比賣1。生御子。比古由牟須美命。<一柱。此王名以レ音。>又娶2庶母伊賀迦色許賣命1。生御子。御眞木入日子印惠命。<印惠二字以レ音。>次御眞津比賣命。<二柱。>又娶2丸邇臣之祖。日子國意祁都命之妹。意祁都比賣命1。<意祁都三字以レ音。>生御子。日子坐王。<一柱。>又娶2葛城之垂見宿禰之女。ワシ(亶+鳥)比賣1。生御子。建豊波豆羅和氣王。<一柱。自レ波下五字以レ音。>此天皇之御子等。并五柱。<男王四。女王一。>

訓読:ワカヤマトネコヒコオオビビのミコト、カスガのイザカワのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、タニハのオオアガタヌシなはユゴリのむすめ、タカノヒメをめして、ウミませるミコ、ヒコユムスビのミコト。<ひとはしら。>またミままははのイガカシコメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、ミマキイリヒコイニエのミコト。つぎにミマツヒメのミコト。<ふたばしら。>またワニのオミのオヤ、ヒコクニオケツのミコトのいも、オケツヒメのミコトをめして、ウミませるミコ、ヒコイマスのミコ。<ひとはしら。>またカヅラキのタルミのスクネのむすめ、ワシヒメをめして、ウミませるミコ、タケトヨハヅラワケのミコ。<ひとはしら。>このスメラミコトのミコたち、あわせてイツハシラ。<ヒコミコよはしら、ヒメミコひとはしら。>

口語訳:若倭根子日子大毘毘命は、春日の伊邪河の宮に住んで、天下を治めた。この天皇が丹波の大縣主、由碁理の娘、竹野比賣を妻として生んだ子が比古由牟須美命である。<一柱>また庶母(父の妃)の伊賀迦色許賣命を娶って生んだ子が御眞木入日子印惠命、次に御眞津比賣命である。<二柱>また丸邇臣の祖、日子國意祁都命の妹、意祁都比賣命を娶って生んだ子が日子坐王。<一柱>また葛城の垂見宿禰の娘、ワシ(亶+鳥)比賣を娶って生んだ子が建豊波豆羅和氣王。<一柱>この天皇の御子は、全部で五柱いた。<男四人、女一人>

この天皇、後の漢風諡号は開化天皇という。○春日(かすが)は、前に黒田の宮の段で述べた。【伝廿一の四十葉】○伊邪河(いざかわ)。延喜式神名帳に「大和国添上郡、率川坐大神御子神(いざかわにますおおみわのみこがみ)社、率川阿波(いざかわのあわ)神社」がある。【四時祭式に「率川の社」とあるのは、この大神御子神社のことだ。この社はこの天皇を祭るという説がある。どうだろう。三座とあるので、その一座はそうかも知れない。この社は、今奈良の子守町というところにある。阿波神社は西新屋町というところだ。伊邪河の御陵は林小路町というところにあって、どれも奈良の町の西の方にあたる。上代にはそのあたりまで春日の地だったのだろう。】馬寮式に、「大和国京南荘および率川荘の墾田、二十四町一段百三十五歩、云々」、万葉巻七(1112)に「波禰蘰、今爲妹乎、浦若三、去來率去河之音之清左(はねかづら、いませるいもを、うらわかみ、いざイザカワのおとのさやけさ)」【去來(いざ)までは序である。この川は、今春日山から出て、猿沢の池の南を経て、上記の子守町の南を西に流れる小川がそうだという。この川の名が地名にもなったのではないだろうか。】書紀に「元年冬十月丙申朔戊申、都を春日の地に遷した。【春日、これを『かすが』と読む。】これを率川見宮という。【率川、これを『いざかわ』と読む】」とある。○旦波(たには)。和名抄に「丹波は『たには』、丹後は『たにはのみちのしり』」とあり、丹後国に丹波郡丹波郷がある。続日本紀六に「和銅六年四月、丹波国五郡を分けて丹後国を置いた」とある。【この名は「たには」なのだが、後世「たんば」と言うのは、字音に牽かれて訛ったのだ。「に」を「ん」とはねるので、音便で「は」も「ば」と濁るのである。】名の意味は分からない。ここに縣主とあるから、一国の総名でなく、上記の丹波国丹波郡のあたりの地を言うのだろう。【一国の総名も、もとはこのあたりの縣の名から出たのだろう。】○大縣主(おおあがたぬし)。縣主については前【伝七の八十三葉】に言った。これを「大」と言うのは、臣に大臣、連に大連と言う類で、加えて作った名である。朝倉の宮(雄略天皇)の段に「志幾の大縣主」という名も見え、続日本紀には坂上の大忌寸、縣の犬養大宿禰、陸奥の大国造なども見える。これらはみな同類で、「大」は特別に付けて言っただけだ。他にも考えがあるが、それは志賀の宮(成務天皇)の段で言う。【伝廿九の六十四葉】新撰姓氏録の河内国神別に大縣主という姓があるが、それは別だろう。○由碁理(ゆごり)。名の意味は分からない。「こり」という例は書紀の景行の巻に武國凝別(たけくにこりわけ)皇子、神功の巻に熊之凝(くまのこり)、應神の巻に浦凝別(うらこりわけ)などがある。上巻の隠伎嶋のまたの名、忍許呂別(おしころわけ)の「許呂」なども同じだろうか。○竹野比賣(たかぬひめ)。和名抄に「丹後国竹野【たかの】郡、竹野郷」がある。この地名による名である。延喜式神名帳に同郡竹野神社もある。書紀の垂仁の巻、丹波の五女の中にも、竹野媛という名がある。○比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)。【「命(みこと)」は、後には「王(みこ)」とある。】「由牟(ゆむ)」の意味は思いつかない。【「由」は外祖父の名(由碁理)の「由」と同じか。それなら、温、湯などの地名(温泉)に因むのかも知れない。】「須美(すみ)」のことは、上巻の熊野久須毘(くまぬくすび)命のところ【伝七の五十七葉】で言った通りだ。新撰姓氏録に「忍海部は、開化天皇の皇子、比古由牟須美命の子孫」とある。【後の忍海部造のところを参照せよ。】書紀に「丹波の竹野媛を召し入れて妃とし、彦湯産隅(ひこゆむすみ)命を生んだ。またの名は彦蒋簀(ひここもす)命という」とある。【旧事紀に「彦蒋簀命は品治部の君らの祖、彦湯産隅命」と書いている。後の伊勢の品遲部の君、吉備の品遲部の君のところを参照。】○庶母は「ミままはは」と読む。【「み」は「御」である。】和名抄に「継父は和名『ままちち』」、継母は『ままはは』」とある。【今の本には「ままはは」というのがない。古い本にはある。】新撰字鏡に「嫡母は『ままはは』、庶兄は『まませ』」などとある。参照すれば理解できる。【「庶母」は継母や嫡母とは違うが、嫡・庶・継と区別するのは、漢国での差別であって、皇国ではその差別には関わらない。ただ「生(な)さぬ母」を「まま母」と言い、「生さぬ子」を「まま子」と言うのだ。すると嫡母・庶母・継母はみな「まま母」だ。庶兄を「まませ」と言うのでも分かる。このことは白檮原の宮の段でも述べた。参照せよ。伝廿の三十九葉にある。延佳本で「あらめいろは」と読んでいるのは誤っている。】ここで御庶母を娶ったのは、葺不合命が叔母を娶ったのと同様だ。【これも上代には嫌われなかったのだろう。今になって、漢国の制をもとにあれこれ論じるべきではない。】○伊賀迦色許賣命(いがかしこめのみこと)は前に出た。○御眞木入日子印惠命(みまきいりびこいにえのみこと)。この命の段の歌に「美麻紀伊理毘古(みまきいりびこ)」とある。名の意味ははっきりしない。「木」は「城(き)」か。「入(いり)」は「いろせ」、「いろど」などの「いろ」と同じで、親愛の情を以て呼ぶ名である。このことは浮穴の宮の段【常根津日子伊呂泥命のところ、伝廿一の十葉】で言った。この後、御子たちの名に入毘古、入毘賣というのが多いが、みな同様である。【入日子、入日女の「日」は、みな濁って読む。仮名には通常「毘」の字を用いている。「〜之入日子」、「〜之入日女」と、「入」の前に「之」の字がある名と、ない名がある。ない場合は「の」を添えて読むこともあるが、美麻紀伊理毘古、伊久米伊理毘古(いくめいりびこ)など、仮名で書いている名にも「能(の)」の字がないので、「之」の字のない名は「の」を添えずに読むのが正しいこともある。】その他「伊理泥王(いりねのみこ)」、日代の宮(景行天皇)の段の柴野入杵(しばぬいりき)なども同様だ。【孝徳紀二年の所に「子代の入部」、「御名の入部」などの語があるが、これはこの記に「御子代(みこしろ)として〜部を定めた」、「御名代(みなしろ)として〜部を定めた」と言う記事がある。その御子代、御名代としておかれた部を「入部」と言う。というのは、その御子代、御名代は、その御名を後代まで残すために定め置いたもので、それはその人を愛し偲んでのことだから「入」と言うのだ。だから「いりべ」と読むべきである。今の本で「いりとものお」と読んでいるのは誤りだ。また後世の「入部(にゅうぶ)」のことと思うのは、とんでもない間違いだ。】「印惠」、印は「いに」の二音を合わせた仮名である。書紀に「五十瓊殖(いにえ)」と書かれているので分かる。この言葉の意味も不詳だ。玉垣朝(垂仁天皇)の皇子に「印色之入日子(いにしきのいりびこ)命」という名がある。「に」というのは、これ以外にも多い。「え」は御眞津日子訶惠志泥(みまつひこかえしね)命の惠と同じだろう。○御眞津比賣命(みまつひめのみこと)。この名の意味も分からないのは、御眞津日子訶惠志泥命ところで言ったのと同様だ。【伝二十一の十八葉を参照せよ。】大彦命の娘にも同じ名がある。水垣の宮(崇神天皇)の段にある。そこ【伝二十三の七葉】で言うことを参照せよ。書紀には「六年春正月辛丑朔甲寅、伊香色謎(いがかしこめ)命を皇后に立てた。【これは庶母である。】后は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)天皇を生んだ」とあり、同母の兄弟はない。○丸邇臣(わにのおみ)。「丸」の字は「ワン」の音を取った「ワ」の仮名である。【丸は、廣韻に「胡官の反」とあり、反切の上に「胡」の字を用いた場合、呉音では「わゐうゑを」であることが多い。「話は胡掛の反」で「わ」、「慧は胡桂の反」で「ゑ」、「黄は胡光の反」で「わう」、「或は胡國の反」で「わく」のような例である。とすると「丸」も呉音は「わん」だ。それをこの「丸邇」の「丸」を「輪」の意味で訓を取ったと解するのは誤りである。】続日本紀や新撰姓氏録でこの姓を「丸部(わにべ)」と書き、万葉巻十一(2362)に「相狹丸(あうさわに)」【巻八では「相佐和仁(あうさわに)」と書いてある。】とあるのも同じだ。【ただしこれらは、上記の「印(いに)」と同じく、「わに」の二音の仮名である。】「丸邇」は地名で、大和国添上郡にある。この地のことは、水垣の宮の段に「丸邇坂」とあるところで言う。【伝廿三の七十六葉】この姓は、書紀の孝昭の巻に「天足彦國押人(あめたらしひこくにおしひと)命は、和珥臣(わにのおみ)らの先祖である」とある。この命はこの記では「天押帯日子(あめおしたらしひこ)命と書き、子孫の氏をたくさん挙げたうちに、【伝廿一の廿六葉から卅三葉まで】この姓は漏れている。だがこの氏人は、水垣の宮の段に日子國夫玖(ひこくにぶく)命、訶志比の宮(仲哀天皇)の段に難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)命、その他明の宮(應神天皇)、朝倉の宮(雄略天皇)、廣高の宮(仁賢天皇)などの段にも見える。書紀の雄略の巻には「春日の和珥臣」ともある。ところが浄御原の朝の御世、臣姓の氏々の多くに朝臣姓を加えた中(天武十三年十一月の五十二氏の叙位)に、どういうわけかこの氏は漏れている。続日本紀廿六に「天平神護元年七月、左京の人、丸部(わにべ)臣宗人ら二人に、宿禰の姓を与えた」、【「丸部」は丸邇部である。天武紀に「和珥部臣君手」と書かれている人が、続日本紀一では「丸部臣」と書かれているので分かる。】廿九に「神護景雲二年閏六月、左京の人和珥部臣男綱ら三人に和珥部朝臣の姓を与えた」とあり、新撰姓氏録【左京皇別】に「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の四世の孫、矢田宿禰の子孫である」、また【左京皇別】「和邇部朝臣は、大春日朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」、「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖云々」、「丸部は和邇部と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の子、伊富都久(いおつく)命の子孫である」、また【右京皇別】「和邇部は、天足彦國押人命の三世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命の子孫である」、また【山城国皇別】「和邇部は、小野朝臣と同祖、天足彦國押人命の六世の孫、米餅搗大使主(しとぎつきのおおおみ)命の子孫である。一本に彦姥津命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」、また【摂津国皇別】「和邇部は、大春日朝臣と同祖、云々」【これらのうち、続日本紀や新撰姓氏録の「和邇部朝臣」の「邇」の字は、諸本に「安」と書いてある。ところが多くのうちで、朝臣姓だけがそうなっているから、何か理由があってのことかと思ったが、やはり「邇」を誤ったのだろう。】三代実録七に「左京の人和邇部大田麻呂に姓を与えて宿禰とした。大田麻呂がみずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、また「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅繼(やかつぐ?)に姓を与えて邇宗宿禰とした。みずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、【「邇宗」は「ちかむね」と読むのか。】九に「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅貞、宅守らに姓を与えて邇宗宿禰とした」などと見える。この姓は、古くは「和邇」とだけあるのだが、天武紀に初めて「和邇部臣君手」とあり、その後は「和邇部」とばかり書かれる。いつから「部」が加わったのか。延喜式神名帳には若狭国三方郡に和邇部神社がある。○日子國意祁都命(ひこくにおけつのみこと)。名のことは次に言う。この命は、新撰姓氏録の丈部(はせつかべ)のところでは「天足彦國押人命の孫、比古意祁豆命」と見え、羽束首(はづかのおびと)のところでは「天足彦國押人命の子、彦姥津命」とある。どちらが正しいのだろう。【思うに、天足彦國押人命は孝安天皇の兄であり、開化天皇は孝安天皇の曽孫に当たるから、「孫」とある方が正しいとすべきか。】この命の子孫は、和邇臣だけでなく、他にもたいへん多くいる。掖上の宮の段に見える。【伝二十一】参照せよ。○意祁都比賣命(おけつひめのみこと)。同母兄弟が同名で、「比古」と「比賣」のみ違う例は、沙本毘古と沙本毘賣など、他にも多い。名の意味は思い付かない。この次にはこの比賣の妹、「袁祁都比賣(おけつひめ)」という名がある。これは「意(お)」と「袁(を)」で姉妹を分けていて、「億計王(おけのみこ)」と「弘計王(をけのみこ)」のたぐいである。「大(お)小(を)」の意味だろう。【「祁都(けつ)」は地名などだろうか。さらに調べる必要がある。書紀でこの「おけ」に「姥」の字を書いてあるのも理由が分からない。上巻にある「伊斯許理度賣(いしこりどめ)」の「度賣」にもこの字を書いてある。これは姆と同じで老女の意味だから、あるいは老女を「意祁」、少女を「袁祁」ということでもあったのだろうか。しかし兄の名も「意祁都」だから、この名については、姥というのはやはり借字だろう。】舒明紀に「毛津(けづ)」という名が見える。○日子坐王(ひこいますのみこ)。【諸本とも「子」の字が脱けているのを、延佳が補っているのが正しい。】「坐」は「います」と読む。新撰姓氏録に「彦今簀命」とも書かれている。【「坐」の仮名は、雄略紀の歌に「伊麻志(いまし)」、「伊麻西磨(いまさば)」などとある。「居(旧仮名ゐ)」の意味と思って「ゐます」と書くのは間違いである。】名の意味は思い付かない。書紀に「次の妃、和珥臣の遠祖、姥津命の妹、姥津媛は彦坐王を生んだ」とある。この王のことは、水垣の宮の段に見える。ところで、代々の皇子の名は、これ以前はこの記でも書紀でもみな「命(みこと)」とあるのに、この皇子に至って初めて二記ともに「王(みこ)」とあるのは、本当にこの王から始まったのか、それとも「命」とか「王」とか言うのは後代に伝わった伝説上の区別で、本来はそうした区分はなかったのか、確かなことは言えない。【ただこの後、この記では「王」とある名も書紀では「皇子」と書き、「王」と書く例は稀であるのに、この御子は書紀でも「王」とあるから、非常に古くからの伝えのままと思われる。書紀の一本には「命」とあるけれども、垂仁の巻に出たところでも「王」とあり、ここもそれが正しいだろう。新撰姓氏録などには「命」とある。「みこと」と「みこ」は言葉も似ているので、混同されることもあっただろう。】記中に「王」とあるのは、どれも「みこ」と読むべきだ。「御子」という意味である。そもそも御子に「王」の字を当てるのは、非常に古くからのことと見え、この記はもちろんだが書紀にも【ほとんどは「皇子」と書いているのに、】雄略の巻に「星川王」、斉明の巻に「建王(たけるのみこ)」、天智の巻に「大友王」などと見え、倭建命のことを書いたところもみな「王」と見え、履中の巻に「太子王(ひつぎのみこ)」とかいてあり、また應神の巻に「男女合わせて二十王である」、天武の巻に「長幼合わせて十余王」などもある。これが古い書き方だ。【このように天皇の御子に「王」の字を用いたのは、漢国で周代まで、王とは一国の王を意味したのが、その末期頃から諸侯もみな「王」を名乗り、漢代になってからは、一国の王の子を諸侯にして、諸侯王と言って「〜王」などと言うようになったため、それを真似て、皇朝でも御子に「王」と付けるようになったのだ。】天皇の直接の御子だけでなく、その子孫まで、姓を与えない限り、みな「御子」と言ったので、【子孫はみな「子」と言うのがいにしえの習慣だ。】それにも「王」の字を用いた。【上代には、一世・二世などと区別せず、みな「みこ」と称し、「王」の字を書いた。ところが書紀の書きぶりでは、一般に一世の子には「皇子」と書き、二世から後に「王」と書いている。だがしばしば古い書き方のまま、一世にも「王」と書いている場合もある。上述した通りである。皇子と王とは、字は違うが、口に出す場合はいずれも「みこ」であった。ところが「親王」という言い方ができてからは、親王を「みこ」といい、親王でないのを「王」と書いて、それを「おおきみ」と言うようになった。「親王」という名は漢国の隋唐の制度を真似たのである。この名は天武紀四年のところに初めて見えるが、実際には、その時初めて行われたようでもない。ただその時代に始まったことではあるらしい。この語はできたとしても、それを名の下に付けて「〜親王」と呼ぶことは、天武代にはまだなかったようで、舎人皇子や新田部皇子なども、書紀にはみな「皇子」とある。続日本紀に至ってみな「〜親王」と書いてある。親王を「みこ」と呼ぶようになったので、それと分けて諸王を「〜のおおきみ」と呼ぶのが決まりになったが、「おおきみ」というのは天皇を初め、親王や諸王まで、誰にも言う名であって、本来は天皇を呼ぶ名だった。諸王に限ってそう呼ぶのは当たらないことである。またこの記や書紀など、すべて古い書物で「〜王」とある「王」の字をみな「きみ」と読むのも間違っている。古い書物では「王」はすべて「みこ」だ。それを「みこ」と読まないのは、後世の親王・諸王の例ばかり見て、いにしえを知らないからだ。○繼嗣令に「およそ天皇の兄弟・皇子はすべて親王とする。それ以外はみな諸王という。親王から五世は、『王』と名乗っていても、皇親に入れない」とあり、選叙令に「およそ蔭位(父の官位によって、子が生まれながらに持つ官位)については、皇親の場合、親王の子は従四位下、諸王の子は従五位で、その五世の王もまた従五位下、子は一階下げる。庶子はさらに一階下げる」とある。続日本紀六、霊亀元年九月の詔に、「皇親の二世は五位に准じ、三世以下は六位に准ずる」とある。これは蔭位を与える以前の、本来の位を言う。「准」の字で理解せよ。同紀三に、慶雲三年二月、七條を定めたとあり、その七に「令によると、五世の王は『王』と名乗っても良いが、皇親には含まれない。今、五世の王は、『王』の名があっても、すでに皇籍は絶たれている。そのためついに諸臣の中に入ってしまっている。親の恩を顧みると、皇籍を絶ったということは心痛に耐えない。これ以降、五世の孫も皇親のうちに入れよ。その後継ぎになる者も『王』を名乗ってよろしい。他は令の通りにせよ」とある。】○垂見宿禰(たるみのすくね)。名の意味は思い付かない。地名ではないだろうか。【延喜式神名帳に「摂津国豊嶋郡、垂水神社」がある。和名抄に「播磨国明石郡、垂見は『たるみ』」などとある。「垂水」のことは冠辞考に詳しい。】書紀の神功の巻に、依網吾彦男(よさみのあびこお)垂見という名が見える。○ワシ(亶+鳥)比賣(わしひめ)。「亶+鳥」は「わし」と読む。朝倉の宮の天皇(雄略)の御陵の地名、高ワシを書紀では高鷲と書いているからだ。【新撰字鏡では「ワシ(亶+鳥)は『はやぶさ』」と見え、和名抄では「鷂は、兼名苑にいわく『イン(覃+鳥)は、一名はワシ(亶+鳥)、鷂である。野王が考えるに、鷂は鷹に似て小さい』、漢語抄にいわく、『はしたか』」とあって、鷲とは別だが、一般に草木鳥獣の名は、いにしえには思い付くままに字を当てていたので、その字にこだわってはいけない。この記では鷲にもこの字を書いている。「たか」と読むのは良くない。】これは、この鳥に因んで名付けたのか。【鳥の名を付けた例は多い。】それとも借字か、定かでない。○建豊波豆羅和氣王(たけとよはづらわけのみこ)。諸本共に「王」の字が脱けているのを、延佳が補ったのは正しい。「はづら」の意味は分からない。「わけ」のことは日代の宮の段で言う。書紀にはこの子はない。【旧事紀には武齒頬命(たけはづらのみこと)とある。】

 

故御眞木入日子印惠命者。治天下也。其兄比古由牟須美王之子。大筒木垂根王。次讚岐垂根王。<二王。讚岐二字以レ音。>此二王之女。五柱坐也。

訓読:かれミマキイリビコイニエのミコトは、アメノシタしろしめしき。そのミこのかみヒコユムスミのミコのみこ、オオツツキタリネのミコ、つぎにサヌキギタリネのミコ。<ふたばしら。>このふたばしらのミコのミむすめ、いつはしらましき。

口語訳:このうち御眞木入日子印惠命は、後に天下を治めた。その兄、比古由牟須美王の子は、大筒木垂根王、次に讚岐垂根王。<二人である。>この二王には、娘が五人いた。

其兄。この「兄」は「ミこのかみ」と読む。これは五柱の皇子の第一という意味だ。一般に「このかみ」と言うのは「子の上」ということで、子供たちの第一(長男)を言う。【「其」という字を印惠命の、という意味に取るなら「みあに」とも読める。「あに」というのは、長男には限らない。どちらにせよ、この「兄」を「いろせ」、「いろえ」などと読むのは間違いだ。「いろせ」というのは、同母の兄を言う名だからだ。】○大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)。「筒木」は地名で、和名抄に「山城国綴喜【豆々岐(つつき)】郡、綴喜【豆々木(つつき)】郷」がある。【この地名を、ある人は「つづき」と言い、ある人は「つつぎ」と言うが、みな良くない。三音とも清音である。「綴」の字を用いたのは「てつ」を「つつ」に通わせて使ったのだ。「つづり」という訓を借りたわけではない。混同してはならない。】この地のことは、高津の宮(仁徳天皇)の段で言う。【伝卅六の四十四葉】「垂根」は「たりね」と読む。「たり」は「足」で「たらし」と同意だ。【「垂」だけでも「たらし」と読めるが、記中、「たらし」にはみな「帯」の字を書いてあるので、「垂」とあるのを同じように読むのは誤りだ。】「根」は例の尊称である。また「たらし」という名の場合、いずれも上に「の」が付かない。【大倭帯日子(おおやまとたらしひこ)、息長帯比賣(おきながたらしひめ)など。】そのためこの名なども、「筒木」の後に「の」を付けない。垂根という名は、志賀の宮の段に建忍山垂根(たけおしやまたりね)、明の宮の段に櫻井の田部連の祖、嶋垂根(しまたりね)などがある。【古い書物に、宿禰を足尼と書いてある事が多い。この足尼も垂根とよく考えなければ紛れやすい。足尼は二字共に音を取った仮名であり、宿禰と同じだ。そのことは続日本紀卅二にも見える。それを旧事紀に、宿禰と足尼が別の名称のように言っているのはみだりごとである。】○讚岐垂根王(さぬぎたりねのみこ)。「讃岐」は讃岐国の名に因むのだろうか。延喜式神名帳に「大和国廣瀬郡、讃岐神社」また和名抄に同郡、散吉(さぬき)郷【この郷名は「さぬき」だろう。本に「さき」と訓をつけているのはどうだろう。三代実録四十四に「大和国散吉大建命の神、散吉伊能城の神」とあるのは、延喜式の讃岐神社のことだろう。】がある。この地に因む名か。○二王は「ふたばしらのみこ」と読む。【上の注にある二王は、単に「ふたばしら」と読む。前後に一柱、三柱などとある注と同じだからだ。すべてその文脈で、同じ語も違った風に読むことは、他にも多い。】大筒木垂根王と讃岐垂根王の二柱を言う。○女五柱(むすめいつばしら)。これは二王の娘を合わせた総数である。そのうちの何人が大筒木垂根王の娘で、何人が讃岐垂根王の娘なのかは分からない。またその娘たちの名前も伝わらなかった。玉垣の宮の段に、「大筒木垂根王の娘、迦具夜比賣(かぐやひめ)命を娶って」とあるのは、そのうちの一人だろう。○坐也(ましき)というのは「いた」ということだ。「いた」ということを尊んで言うには、「ましき」と言うのだ。

 

次日子坐王。娶2山代之荏名津比賣亦名苅幡戸辨1<此一字以レ音。>生子。大俣王。次小俣王。次志夫美宿禰王。<三柱。>又娶2春日建國勝戸賣之女。名沙本之大闇見戸賣1。生子。沙本毘古王。次袁邪本王。次沙本毘賣命。亦名佐波遲比賣。<此沙本毘賣命者。爲2伊久米天皇之后1。自2沙本毘古1以下三王名。皆以レ音。>次室毘古王。<四柱。>又娶2近淡海之御上祝以伊都久。<此三字以レ音。>天之御影神之女。息長水依比賣1。生子。丹波比古多多須美知能宇斯王。<此王名以レ音。>次水之穗眞若王。次神大根王。亦名八瓜入日子王。次水穗五百依比賣。次御井津比賣。<五柱。>娶2其母弟袁祁都比賣命1。生子。山代之大筒木眞若王。次比古意須王。次伊理泥王。<三柱。此二王名以レ音>凡日子坐王之子。并十一王。

訓読:つぎにヒコイマスのミコ、ヤマシロのエナツヒメ、またのなはカリハタトベにみあいて、ウミませるミコ、オオマタのミコ。つぎにオマタのミコ。つぎにシブミのスクネのミコ。<みばしら。>またカスガのタケクニカツトメがムスメ、なはサホのオオクラミトメにみあいて、ウミませるミコ、サホビコのミコ、つぎにオザホのミコ、つぎにサホビメのミコト。またのなはサワジヒメ。<このサホビメのミコトは、イクメのミコトのキサキとませり。>つぎにムロビコのミコ。<よばしら。>またチカツオウミのミカミのはふりがもちいつく、アメのミカゲのカミのミむすめ、オキナガのミズヨリヒメにみあいて、ウミませるミコ、タニハのヒコタタスミチのウシのミコ。つぎにミズホのマワカのミコ、つぎにカムオオネのミコ、またのなはヤツリイリビコのミコ。つぎにミズホのイオヨリヒメ。つぎにミイツヒメ。<いつはしら。>またみははのオト、オケツヒメのミコトにみあいて、ウミませるミコ、ヤマシロのオオツツキのマワカのミコ、つぎにヒコオスのミコ。つぎにイリネのミコ。<みばしら。>すべてヒコイマスのミコのミコ、あわせてとおまりいつはしら。

口語訳:次に日子坐王が山代の荏名津比賣、またの名は苅幡戸辨を妻として生んだ子は、大俣王、次に小俣王、次に志夫美宿禰王、<三人>である。また春日建國勝戸賣の娘、沙本の大闇見戸賣を妃として生んだ子が沙本毘古王、次に袁邪本王、次に沙本毘賣命、またの名は佐波遲比賣である。<この沙本毘賣命は、後に伊久米天皇(垂仁天皇)の皇后となった。>次に室毘古王、<合わせて四人>である。また近淡海の御上の祝が奉斎する天の御影神の娘、息長水依比賣を娶って生んだ子が、丹波比古多多須美知能宇斯王、次に水穗の眞若王、次に神大根王、またの名は八瓜入日子王、次に水穗の五百依比賣、次に御井津比賣、<五人>である。またその母の妹(叔母)、袁祁都比賣命を娶って生んだ子が山代の大筒木眞若王、次に比古意須王、次に伊理泥王、<三人>である。日子坐王の子は、全部で十一人いた。

次日子坐王(つぎにヒコイマスのミコ)。この「次に」というのは、前文に「其兄」とある次に、ということだ。【讃岐垂根王の次に、ということではない。】○山代(やましろ)は山城国である。この国のことは、上巻【伝七】に出た。○荏名津比賣(えなつひめ)。この名は、諸本に荏名名津とあるが、「名」の字一つは余計だろう。ここでは真福寺本で、一つだけあるのを採用した。「荏名」は地名で、「津」は単なる助辞だろう。それとも「津」までが地名か。【万葉巻三(283)に「墨吉乃得名津爾立而(すみのえのえなつにたちて)云々」、和名抄に「摂津国住吉郡、榎津は『いなづ』」とある。これは「えなづ」の例である。○和名抄に「荏は和名『え』」とある。】今、山城国綴喜郡に江津村というところがある。【古くは江之津(えなつ)と言ったか。】○苅幡戸辨(かりはたとべ)。和名抄に「山城国相楽郡、蟹幡(かんばた)【かむばた】郷」がある。延喜式神名帳に同郡、綺原坐(かんばたのはらにます)健伊那太比賣(たけいなだひめ)神社がある。この地である。【今は綺田(かばた)村という。和名抄の錦綺類に、「綺は『かんばた』」とある。】上代には「かりばた」と言ったのを、やや後には訛って「かにばた」とも言ったのだろう。【郷名に「蟹」という字を書いてあるので分かる。】それから音便でさらに訛って「かんばた」と言った。また下巻の穴穂の宮(安康天皇)の段で「山代の苅羽井(かりばい)」とあるところ【伝四十の四十六葉】も参考にせよ。【その「苅羽井」も、後には「樺井(かにばい)」と言う。】「戸辨」は「戸賣(とめ)」と同じだ。書紀に「石凝姥(いしこりどめ)神」を一書に「己凝戸邊(いしこりとべ)」とあるのでも分かる。【「己」の字は「石」の誤りである。】書紀の~武の巻に名草戸畔【戸畔、これを「妬ベ(鼓の下に卑)(とべ)」と読む】、また丹敷戸畔(にしきとべ)、新城戸畔(にいきとべ)などがある。ところでこの苅幡戸辨は、玉垣の宮(垂仁天皇)の段に同じ名がある。そこ【伝廿四の八葉】で言うことも参照せよ。○大俣王(おおまたのみこ)、小俣王(おまたのみこ)。「俣」は「全」の意味か。この名の例は、明の宮(應神天皇)の段に「多遲麻之俣尾(たじまのまたお)」など、他にもある。兄弟の名を「大小」と分けて付けるのは、大碓命と小碓命(倭建命)、意富祁(おおけ)命(仁賢天皇)、袁祁(おけ)命(顕宗天皇)など、他にもかれこれ見える。大俣王というのは、玉穂の宮の陀、他田の宮の段、書紀の舒明の巻、皇極の巻などに同名の人が見える。○志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)。名の意味は分からない。地名ではないだろうか。延喜式神名帳に「伊勢国安濃郡、志夫彌神社がある。【今も渋見村というところがある。】○春日建國勝戸賣(かすがのたけくにかつとめ)。「戸賣(とめ)」のことは、上巻【伝八の廿八葉】で言った。だが娘の出自を言う時には、親は父を挙げるのが普通なのに、「戸賣」というのは女の名だから、母のように聞こえるのはどうしてか。水垣の宮の段で「荒河刀辨(あらかわとべ)の娘」とあるのも同じだ。これらは何か特別な事情で、父でなく母の名を挙げたのだろうか。【鏡作連の祖、伊斯許理度賣(いしこりどめ)命、猿女の君の祖、天宇受賣(あめのうずめ)命のようなものか。】女の名に「建(たけ)」が入っているのは、倭建命の段に「大吉備建比賣」、書紀の景行の巻に「襲武媛(そたけひめ)」などがある。「國勝(くにかつ)」というのも、孝霊紀に「倭國香媛(やまとのくにかひめ)」がある。【「正鹿山津見(まさかやまつみ)」を書紀で「正勝山祇(まさかつやまつみ)」と書いている。これは「勝(かつ)」と「か」が通っているのだ。】ただし新撰姓氏録に「火明命の五世の孫、建刀米(たけとめ)命の子孫」という氏が幾つか見え、また「同神の三世の孫、天礪目(あめのとめ)命の子孫」というのもあるから、男の名にも「とめ」というのがあったのだろうか。もしそうなら、~武紀にある名草戸畔などもみな男の名かも知れない。「國勝(くにかつ)」というのは、書紀の神代巻に「事勝國勝長狹(ことかつくにかつながさ)」という名があった。○沙本之大闇見戸賣(さほのおおくらみとめ)。諸本に「之」の字はない。ここでは真福寺本ほか一本に「之」があるのを採用した。「沙本」は大和国添上郡の地名である。この地のことは玉垣の宮(垂仁天皇)の段【伝廿四の三十四葉】で言う。「闇見(くらみ)」も地名ではないだろうか。延喜式神名帳に「若狭国三方郡、闇見神社」がある。【その国に今もこの地名がある。】彼女が生んだ子、室毘古王が若狹耳別(わかさみみわけ)の祖であることも、由縁がある。神功紀には倉見別(くらみわけ)という人名も見える。○沙本毘古王(さほびこのみこ)。この王も母の居住した沙本に住んでいたことが、玉垣の宮の段に見える。なおこの王のことは、その段に出ている。【伝廿四の四葉】その妹の沙本毘賣命、またの名は佐波遲比賣というのから考えると、新撰姓氏録【豊階公(とよはしのきみ)のところ】に「彦坐命の子、澤道彦(さわじひこ)命とあるのは、この王だろう。○袁邪本王(おざほのみこ)。小沙本(おざほ)で、上と同じ地名だ。【「沙」を濁るのは、「小」から続いているからだ。】○沙本毘賣命(さほびめのみこと)。兄と同じ地名である。【事のついでに触れておくと、後世の歌に「佐保姫」という名が見える。春の歌には佐保姫、秋の歌には立田姫と詠んでいる。これは奈良京のころから言い出したことだろう。立田は奈良より西にあって、立田姫という神がいるのに対し、佐保は東にあるのでこれを春とし、佐保姫という名を作ったようだ。西三條の公條(きんえだ)公の高野山参詣記に「奈良のあたりのところで、佐保姫の社に参ったところ」とあるから、そういう社もあるのだろうか。】○佐波遲比賣(さわじひめ)。名の意味はよく分からない。これも地名か。【倭姫命世記に「ここから先に行くと澤道野(さわじぬ)があった。そこを澤道小野(さわじのおぬ)と名付けた」とあるが、これは伊勢国度会郡で、今も「佐八」と書いて「そうち」と呼ぶ地だ。】○註の伊久米(いくめ)天皇は玉垣の宮の天皇(垂仁)である。書紀の継体の巻にも活目(いくめ)天皇とある。○室毘古王(むろびこのみこ)。和名抄に「大和国葛上郡、牟婁郷」がある。この地名に因む名か。○近淡海(ちかつおうみ)は上巻【伝十二】に見える。○御上祝(みかみのはふり)。「御上」は和名抄に「近江国野洲郡、三上【みかむ】郷」とあるのがそうだ。【「みかむ」とあるのは、やや後代の音便による言い方だろう。古くは「みかみ」と言ったと思われる。】拾遺集の安和元年大嘗会、みかみの山に、【大中臣能宣(よしのぶ)】(601)「ちはやぶる三上の山の榊葉は、栄えぞ益(まさ)る末の世までに」、【清原元輔】(603)「萬代と三上の山の響くには、野洲の川水清(すみ)ぞ合(あい)にける」とある。千載集の元暦元年大嘗会の悠紀方の風俗歌に、【藤原季經(すえつね)朝臣】(640)「常磐なる三~の山の杉村や、八百万世の表(しるし)なるらむ」、この他にも数多く詠まれている。「祝」は「はふり」と読む。山城国相楽郡の祝園(ほうぞの)は、この記に「はふりその」と書いてある。また和名抄【上野国新田郡の郷名】に「祝人は『はふり』」とある。【これは「はふり」という言葉が正しく見えた例である。】神功紀に小竹祝(しぬのはふり)、天野祝(あまぬのはふり)などが見える。【~武紀に居勢祝(こせのはふり)とあるのは、神社の祝部ではないだろう。景行紀にある蝦夷の那、大羽振邊(おおはふりべ)などのたぐいだろう。】欽明紀に「天皇は神祇伯に命じて、対策を神祇に伺わせました。祝者(はふり)は神懸かりになって、云々」、持統紀に「八年三月乙巳、幣帛を諸々の社に奉って、丙午に神祇官の頭から祝部(はふり)に至るまで、百六十四人にアシ(糸+施のつくり)布を与えた。人によって差があった。」と見える。職員令【神祇官伯一人、神祇の祭祀、祝部、神戸(かんべ)の名籍云々を掌る、とある。】祝部の義解に「祭主のために賛辞を述べるものを言う。その祝(はふり)は、国司が神戸の中から選び定めて、太政官に申告せよ。もし神部に人がいなければ、庶人を任命しても良い」【この祭主は官職の祭主でなく、祭を行う主を言う。賛辞というのは祝詞のたぐいだ。説文に「祝は、祭主が賛詞を述べることである」、書経の疏に「言葉を以て神に告げることを祝という」とある。】神祇式に「およそ諸々の神宮司および神主らのうち、任期が六年に満たないのに、喪にあって解任した場合、代わりを補充してはならない。そのまま祝部のことを行わせ、服喪が終わるときには復任させよ。禰宜、祝部は、一旦補ったら、たやすく交替させてはならない」【同式に「およそ禰宜・祝部が人と闘って殴り合ったり、その他犯罪を犯した場合、よく事情を調べて、この官に身柄を移送せよ。国司が勝手に処罰してはならない」とある。】民部式に「およそ諸々の社の神主・禰宜・祝は、八位以上で六十歳以上の任に堪える者を選ぶ。元来氏が定まっている社、神戸の百姓は、まず八位以上および六十歳以上の者を取り尽くしてから、壮年、白丁(八位未満)の者を取る。選ばれた者は課役を免除とし、四時祭式、祈年祭、神祇官の祭る神七百三十七座に分かたれた幣帛を奉る儀に、神祇官人・・・、大臣以下・・・、神部は祝部らを率いて入る。・・・中臣は進んで座に着き、祝詞をあげるごとに一段が終わる。・・・忌部二人が進んで案(つくえ)を挟んで立ち、史は官の順に従って、御巫および社祝(やしろはふり)を唱える。祝を唱えながら進むとき、忌部は幣帛を分かち終える。・・・国司の祭る祈年の神二千三百九十五座も、祭日と幣を分かつ儀は、神祇官に准ずる」とある。万葉巻四(712)に「三輪之祝(みわのはふり)」、巻十(2309)に「祝部等之齋経社之(はふりらがいわうやしろの)」、巻十二(2981)に「祝部等之齋三諸乃犬馬鏡(はふりらがいわうみもろのまそかがみ)」、巻十九(4243)に「住吉爾伊都久祝之神言等(すみのえにいわうはふりがかみごとと)云々」などがある。ところでこの御上祝とあるのは、単に御上社の祝部というのとは少し違い、上巻に「胸形の君らがもちいつく三前の大神」とあるたぐいだから、姓である。新撰姓氏録に「鴨部祝」、「紀祝」、「波多祝」、「三歳祝」などという姓もある。そのたぐいだろう。玉垣の宮の段に、「出雲の石クマ(土+冂の中に巳)(いわくま)の曾宮(そのみや)に葦原色許男大神をもちいつく祝が云々」とあるのとは、語の様子が違う。○以伊都久(もちいつく)は伝六【六十六葉】で出た。○天之御影神(あめのみかげのかみ)。「天之」というのはよく神名に付いている「天之〜」、「國之〜」という例と同じで、「御影」に付いているのではない。【万葉巻一の藤原の宮の御井の歌(52)に「高知也天之御蔭、天知也日之御影乃水許曾波(たかしるやあめのみかげ、あめしるやひのみかげのミズこそは)云々」とあり、延喜式の祝詞に「皇御孫命能瑞能御舎仕奉弖、天御蔭日御蔭登隠坐弖(スメミマのミコトのミズのミアラカつかえまつりて、あめのみかげひのみかげとかくりまして)」、また「高天原爾千木高知弖、天能御蔭日能御蔭止定奉弖(たかまのはらにチギたかしりて、あめのみかげひのみかげとサダメまつりて)」とあり、推古紀の歌に「やすみししわがおほきみのかくります、阿摩能椰蘇訶礙(あまのやそかげ)云々」などとある。万葉にあるのは「天の影(光)」で、その他は「天の蔭」ということだ。ここの神名の「天之」は、これらとは異なる。】だが「御影」とは何の意味で言う名か、不詳である。この神は新撰姓氏録に「額田部の湯坐(ゆえ)連は天津彦根命の子、明立(あけたつ)天御影命の子孫である」、また「山直は、天御影命の十一世の孫、山代根子の子孫である」【上巻に「天津日子根命は、山代国造の祖」とあり、書紀の神代巻にも「天津彦根命は、凡河内直、山背直らの祖」とあるから、この「山直」は「山代直」だったのが、「代」の字が脱けたのではないか。新撰姓氏録に「山背忌寸は天都比古禰(あまつひこね)命の子、天麻比止都禰(あめのまひとつね)命の子孫である」とあるから、天麻比止都禰命は天御影命と同神だろうか。なお考察の必要がある。旧事紀には、皇孫の天降りの際、警護のためにお伴した三十二人の中に天御蔭命がおり、「凡河内直らの祖」とある。】というのがそうだ。近江国に彦根という地名があるのは、この父神の名だろう。【天津日子根命のことは、伝七に出た。】この神の社は、「近江国野洲郡、御上神社【名神大、月次・新嘗】で、三代実録に「貞観元年正月、近江国三上の神に従五位上を授けた」、「同七年八月、近江国従五位上、三上の神に正四位下を授けた」、「同十七年三月、近江国正四位下、三上の神に従三位下を授けた」と見えているのがそうだ。延喜式神名帳に「丹後国加佐郡、彌加宜(みかげ)神社」がある。この神社のことは次に言う。○女(ミむすめ)。これはこの社の御霊が現実の男の姿になって、女性と交合して生んだのだ。こういう例は多い。白檮原の宮の段に美和の大物主神の御霊が男の姿で勢夜陀多比賣のもとに通い、伊須氣余理比賣命を生んだこと、また水垣の宮の段にある意冨多々泥古(おおたたねこ)のことなど考え合わせれば分かるだろう。○息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)。「息長」は地名で、諸陵式に「息長の墓は近江国坂田郡にある」と見えるところだ。万葉巻十三【二十七丁】(3323)に「師名立都久麻左野方、息長之遠智能小菅(しなてるツクマサヌカタ、おきながのオチのおすげ)云々」【筑摩も近江国坂田郡にあると、仙覺の万葉抄に見える。】とあり、巻廿【四十九丁】(4458)に「爾保杼里乃於吉奈我河波(におどりのおきながかわは)云々」とある。天武紀に「近江軍と息長横河(おきながよかわ)で戦った」、【続日本紀十三に「坂田郡横川の頓宮」、更級日記に「不破の關あつみの山など越て、近江國おきながといふ人の家にやどりて、四五日あり」】などとある。「水」は瑞々しいことを言う。「依」は「よろし」ということだ。【「ろし」は「り」に縮まる。】前に言ったのと同様だ。○丹波比古多々須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)。「丹波」は丹波国である。「多々須」は「立つ」を延ばした語か。国造本紀に「稲葉国造は、志賀の高穴穂の朝の御世に、彦坐王の子、彦多都彦(ひこたつひこ)命を国造とした」とあるのは、この王のように思われるからだ。「美知能宇斯」は「書紀に「道主」とあるのがそうだ。【「ぬし」は「のうし」が縮まったので、「うし」と同じことだ。】欽明紀に「道君(みちのうし)」という名がある。天武の御世、八色の姓を定めた中に、第五に「道師(みちのし)」というのがあるのも、古くから「道主」ということがあったので、このとき文字を替えて新たに姓としたのである。【「ぬ」と「の」は通音だ。】また書紀の神代巻に、「日神が生んだ三女神は・・・今海の北の道中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う」ともある。ところで道主の「道」とは、国ということだ。その理由は、水垣の宮の段に「東方十二道」とあるところで言う。【伝廿三の五十八葉】この王がこう名付けられたのは、書紀の崇神の巻に「十年九月、大彦命を北陸に遣わし、武淳川別を東海に遣わし、吉備津彦を西道に遣わし、丹波道主命を丹波に遣わした。この時、詔して、『もし服従しない者がいたら、兵を挙げて討て』と言った。そしてそれぞれ印綬を与えて、将軍とした」とあって、丹波に派遣されたので、その道の主となったのだ。【「道」とは詔命を受けて、平定のために向かった国を言う。このことはその十二道のところで言う。欽明紀にある「道君」はその前にある「越の國の郡司」とある人物を指している。当時はまだ「郡司」などという号はなかったから、撰者が意のままに書いたもので、実際は京から遣わされた司だっただろう。そこでそれを「みちのうし」と読んでいるのは、古意によく合っている。また前記の三女神は「海北道中にあり」といい、またの一書には「道中に降り、そこに居て、天孫の助けとなるがよろしい」とあるので道主と言うのだ。この「海北道中」とは筑紫の北の海で、つまりは胸形の宮のことである。道中とは、韓国に渡る海路ということで、海外からの侵略に備えてそこに降り居らせたのである。それで「天孫の助け」とも言っているわけだ。このことは伝七の六十五葉で言った。貞観十二年の告文(三代実録十七)の趣意からも分かる。ところで伊勢外宮の書物に、豊受大神が丹波にいたときのことが出ているが、この王のことを付会したうえ、道主という名に因んで、さらに宗像の三女神も付会して、この王の名も「丹波の道主貴」といって、その大神を祀ったというのは、みな丹波ということからこじつけたものであって、たいへんな妄説である。元々集などでも、この妄説を採用している。】ところで前記の加佐郡の彌加宜神社は、この王が外祖神を祭ったのではないだろうか。この王は、書紀の垂仁の巻では「丹波の道主王は、稚日本根子太日日天皇の子孫、彦坐王の子である。一説では、彦湯隅王の子ともいう」とある。【「子孫」の「子」の字は「之」の誤りか。】○註の「此王名」の「名」の字は、諸本に「字」とあるが、それは明らかに間違いだから【延佳が「『名』が正しいだろう」と言ったのに従って】改めておいた。○水之穗眞若王(みずほのまわかのみこ)。「之穂」は「穂之」を上下誤ったのだろう。【この名が後に出たところでは「之」の字はない。妹の名にも「之」の字はない。】そのため「みずほの」と読んでおく。この「水穂」は、近江の地名ではないだろうか。【母の国が近江、またこの王も近江の安直(やすのあたえ)の祖だからだ。今野洲郡に水保村がある、これか。瑞々しい稲穂という意味ではないだろう。】「眞若」は特別な意味のない称え名である。○神大根王(かむおおねのみこ)。特別な意味はない称え名である。書紀の景行の巻に「神骨」とあり、この王のことだ。【「大根(おおね:旧仮名オホネ)」の「オ」を省いて「ホネ」と言ったのだ。】この王の娘たちのことは、日代の宮(景行天皇)の段に見える。○八瓜入日子王(やつりいりひこのみこ)。「八瓜」は「やつり」と読む。【「つ」に「う」の母音が含まれるので、「瓜」の字を借りて書いているのだ。この字を諸本で「爪」と書いているのは誤りだ。「爪」は「つめ」である。延佳が後の「入」の字まで三字を「やつり」と読んだのは、「爪」の字を取ったのだが誤っている。また師(賀茂真淵)は「爪」を「衆」の省略形と見て「やす」と読んだ。近江の野洲を考えてのことだろうが、記中、「衆」を仮名に用いた例はないから、やはり間違いである。】これは地名で、大和国高市郡に上八釣村、十市郡に下八釣村がある。【この二村は相近い。今は「やとり」と言っている。】これだろう。顕宗紀に「近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)」、万葉巻三【十七丁】(262)に「矢釣山」、巻十二【三丁】(2860)に「八釣河」などがあり、この地のことだ。允恭天皇の子に「八瓜之白日子(やつりのしろひこ)王」という名もある。○水穗五百依比賣(みずほのいおよりひめ)。「水穂」は兄と同じ。「五百」は字の意味通りか。例は五百木之入日子(いおきのいりひこ)命、書紀に五百野(いおの)皇女などがある。「依」は「よろし」である。【上にも言った。】○御井津比賣(みいつひめ)。天智紀に「山の御井のかたわらに諸神の座を敷いて、幣帛を分けた」とある。【これは京の近くで行ったようである。この頃の京は近江大津京だった。山の御井とあるのは、美しい井戸があって、いにしえから地名となったのだろう。谷川士清も「これは近江国滋賀郡の三井寺の地ではないか」と言った。一般に古い寺の名称は地名で呼ぶ例が多いから、三井も地名だろう。】この地に因む名ではないだろうか。○母弟は「ミははのオト」と読む。明の宮の段の終わりにもこの言葉がある。【伝卅四】日子坐王の母は意祁都比賣だから、その妹ということだ。【漢国では同母弟を母弟と言うが、それではない。また姉に対しては妹を「妹」と言わず、弟と呼ぶのが古言である。】○袁祁都比賣(おけつひめ)。名の意味は前の意祁都比賣のところで言った通りだ。○山代之大筒木眞若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)。「筒木」は前に出た。○比古意須王(ひこおすのみこ)。「意須」の意味は思い付かない。○伊理泥王(いりねのみこ)。「伊理」は入日子、入日女などの「入」と同じだ。【前に述べた。】「泥」は例の尊称である。○十一王は「とおまりいつはしら」と読む。「一」の字は「五」を写し誤ったか。それとも稗田が読み誤ったのか、ここに挙げられた王たちは、全部で十五人である。【男王十二人、女王三人。】

 

故兄大俣王之子。曙立王。次菟上王。<二柱。>此曙立王者。<伊勢之品遲部君。伊勢之佐那造之祖。>菟上王者。<比賣陀君之祖。>次小俣王者。<當麻勾君之祖。>次志夫美宿禰王者。<佐佐君之祖也。>次沙本毘古王者。<日下部連。甲斐國造之祖。>次袁邪本王者。<葛野之別。近淡海蚊野之別祖也。>次室毘古王者。<若狹之耳別之祖。>其美知能宇志王。娶2丹波之河上之摩須郎女1。生子。比婆須比賣命。次眞砥野比賣命。次弟比賣命。次朝廷別王。<四柱。>此朝廷別王者。<三川之穗別之祖。>此美知能宇斯王之弟。水穗眞若王者。<近淡海之安直之祖。>次神大根王者。<三野國之。本巣國造。長幡部連之祖。>次山代之大筒木眞若王。娶2同母弟伊理泥王之女1。母泥能阿治佐波毘賣1。生子。迦邇米雷王。<迦邇米三字以レ音。>此王。娶2丹波之遠津臣之女。名高材比賣1。生子。息長宿禰王。此王娶2葛城之高額比賣1。生子。息長帶比賣命。次虚空津比賣命。次息長日子王。<三柱。此王者。吉備品遲君。針間阿宗君之祖。>又息長宿禰王。娶2河俣稻依毘賣1。生子。大多牟坂王。<多牟二字以レ音。此者多遲摩國造之祖也。>

訓読:かれこのかみオオマタのミコのミコ、アケタツのミコ、つぎにウナカミのミコ、<ふたばしら>このアケタツのミコは、<イセのホンジベのキミ、イセのサナのミヤツコのおや。>ウナカミのミコは、<ヒメダのキミのおや。>つぎにオマタのミコは、<タギマのマガリのキミのおや。>つぎにシブミのスクネのミコは、<ササのキミのおや。>つぎにサホビコのミコは、<クサカベのムラジ、カイのクニノミヤツコのおや。>つぎにオザホのミコは、<カヅヌのワケ、チカツオウミのカヌのワケのおや。>つぎにムロギコのミコは、<ワカサのミミのワケのおや。>そのミチノウシのミコ、タニハのマスのイラツメにみあいて、ウミませるミコ、ヒバスヒメのミコト。つぎにマトヌヒメのミコト。つぎにオトヒメのミコト。つぎにミカドワケのミコ。<よばしら。>このミカドワケのミコは<ミカワのホのワケのおや。>このミチノウシのミコのおと、ミズホのマワカのミコは、<チカツオウミのヤスのアタエのおや。>つぎにかむおおねのミコは、<ミヌのクニノミヤツコ、モトスのクニノミヤツコ、ナガハタベのムラジのおや。>つぎにヤマシロのオオツツキマワカのミコ、いろどイリネのミコのミむすめ、モネのアジサワビメにみあいて、ウミませるミコ、カニメイカヅチのミコ。このミコ、タニハのトオツのオミのむすめ、なはタカキヒメにみあいて、ウミませるミコ、オキナガのスクネのミコ、このミコ、カヅラキのタカネカヒメにみあいて、ウミませるミコ、オキナガタラシヒメのミコト。つぎにソラツヒメのミコト。つぎにオキナガヒコのミコ。<みばしら。このミコは、キビのホンジのキミ。ハリマのアソのキミのおや。>またオキナガのスクネのミコ、カワマタのイナヨリビメにみあいて、ウミませるミコ、オオタムサカのミコ。<こはタジマのクニノミヤツコのおやなり。>

口語訳:日子坐王の長男、大俣王の子は、曙立王、次に菟上王。<二柱である。>この曙立王は、<伊勢之品遲部君、伊勢之佐那造の祖である。>菟上王は、<比賣陀君の祖である。>次に、小俣王は、<當麻勾君の祖である。>次に志夫美宿禰王は、<佐佐君の祖である。>次に沙本毘古王は、<日下部連、甲斐國造の祖である。>次に袁邪本王は、<葛野之別、近淡海蚊野之別の祖である。>次に室毘古王は、<若狹之耳別の祖である。>その美知能宇志王が丹波の河上之摩須郎女を妻として生んだ子は、比婆須比賣命、次に眞砥野比賣命、次に弟比賣命、次に朝廷別王の<四柱であった。>この朝廷別王は、<三川之穗別の祖である。>この美知能宇斯王の弟、水穗眞若王は<近淡海之安直の祖である。>次に神大根王は、<三野國造、本巣國造、長幡部連の祖である。>次に山代之大筒木眞若王、同母妹、伊理泥王の娘、母泥能阿治佐波毘賣を妻として生んだ子は、迦邇米雷王である。この王が丹波の遠津臣の娘、高材比賣を妻として生んだ子は、息長宿禰王である。この王が葛城の高額比賣を妻として生んだ子は、息長帶比賣命、次に虚空津比賣命、次に息長日子王である。<三柱。この王は、吉備の品遲君、針間の阿宗君の祖である。>また息長宿禰王が河俣稻依毘賣を妻として生んだ子は、大多牟坂王である。<これは多遲摩國造の祖である。>

このくだりは、日子坐王の子供の子孫を列挙している。○「兄(このかみ)」は日子坐王の第一子ということである。○曙立王。(あけたつ)と読む。新撰姓氏録【縣犬養宿禰のところ】に「阿居太都(あけたつ)命」、【印本は「阿」を「佐」に誤っている。ここは古い本に依った。】また【大椋置始連のところ】に「阿居太都命」【これも印本では「阿」の字が脱けている。ここは古い本に依った。また二つとも「太」を「大」と書いているのも間違いだ。「居」の字は、古い書物で「け」の仮名に使っている例が時々ある。】とあり、これらはこの王とは別人なのだが、同名だから挙げた。同書には、明立天御影命という名も見える。名の意味は思い付かない。この王のことは、玉垣の宮の段に見える。【伝廿五の十六葉】○菟上王(うなかみのみこ)。「菟上」のことは、上巻の菟上国造のところ【伝七の六十九葉、七十葉】で言った。ただこの王の名に付いている理由は分からない。延喜式神名帳に「伊勢国朝明郡、菟上神社」がある。【また「參河国寶飫郡、菟足神社」がある。社の伝承に「祭神は開化天皇の孫、大俣王の第二子、菟上王だ」という。どういう由縁なのか、よく分からないことだ。】この王のことも玉垣の宮の段に出ている。○伊勢之品遲部君(いせのほんじべのきみ)。この氏については、何の考えもない。品遲部のことは、玉垣の宮の段【伝廿五の二十七葉】で言う。○佐那造(さなのみやつこ)。佐那の名は、上巻に出ており、そこ【伝十五の五十二葉】で言った。皇太神宮儀式帳に、「佐奈の縣の造、御代宿禰」という人物がある。【その文も伝十五で引いた。曙立王は玉垣の宮の段に出ているが、この御代宿禰云々も同じ御世のことだから、これは異姓の人なのか、それとも曙立王の子などかも知れないが、詳細は分からない。】この他にこの氏のことは考えつかない。○比賣陀君(ひめだのきみ)。若櫻の宮の段で「比賣陀君らに姓を与えて比賣陀之君とした」とある。この氏のことも考えつかない。【延喜式神名帳に「近江国伊香郡、賣比多(めひた)神社」があるのは、「比賣多」の誤りではないだろうか。】○次小俣王(つぎにおまたのみこ)。この「次」は、大俣王の次である。【菟上王のところで「次に」と言わなかったので、文が整っていない。】○當麻勾君(たぎまのまがりのきみ)。「當麻」は大和国葛下郡にある。この地のことは若櫻の宮の段【伝卅八の十五葉】でいう。そこに「たぎま」とあり、そう読む。「勾」は「まがり」と読む。これは書紀の崇峻の巻に「廣瀬の勾(まがり)の原」とあるところだろう。【和名抄に「大和国廣瀬郡、下句」とあるのは「下勾」の誤りだろう。】當麻と廣瀬郡ではやや離れているけれども、上代には當麻は広い地域を指していたから、當麻の勾と言うのだ。なお勾という地のことは、下巻の勾の金箸の宮(安閑天皇)のところで言おう。その他、この氏のことはよく分からない。【旧事紀に「彦坐王は當麻の坂上君(さかのうえのきみ)らの祖」とある。】○佐佐君(ささのきみ)。考えはない。【延喜式神名帳に伊賀国阿拝郡、佐々神社がある。また近世には、佐々という氏族がある。】○日下部連(くさかべのむらじ)。「日下」というのは河内国河内郡にある地名だ。この地のことは、朝倉の宮(雄略天皇)の段で言う。【伝四十一の九葉にある。】だが沙本毘古王の子孫が河内にいたことは、書紀の雄略の巻に「狹穂彦(さほびこ)の玄孫、齒田根(はたね)命は・・・(罰として)齒田根命の財産を、餌香市邊(えがのいちのべ)に露わにして置かせた」【「餌香」は河内国古市郡にある。】とあるので分かる。【さらに、次に引く書物などでも見える。】この氏人は顕宗紀に日下部連使主(おみ)、その子吾田彦、孝徳紀に草壁連醜經(しこふ)などの名が見える。天武紀に「十三年十二月、草壁連に姓を与えて宿禰とした」、続日本紀廿九に「河内国河内郡の人、日下部意卑麻呂(おいまろ)に姓を与えて日下部連とした」、また「日下部連意卑麻呂に姓を与えて宿禰とした」とある。新撰姓氏録【山城国皇別】に「日下部宿禰は、開化天皇の皇子、彦坐命の子、狹穂彦命の子孫である」、また【摂津国皇別】「日下部宿禰は、開化天皇の皇子、彦坐命から出た」、また【河内国皇別】「日下部連は、彦坐命の子、狹穂彦命の子孫である」、「日下部は日下部連と同祖である」、また【和泉国皇別】「日下部首は、日下部宿禰と同祖、彦坐命の子孫である」、「日下部は日下部連と同祖である」などとあり、三代実録九に「播磨国飾磨郡の人、日下部利貞、日下部歳直らに日下部連の姓を与え、摂津国嶋上郡を本居とさせた。狹穂彦命の子孫である」【この日下部を今の本ではみな「早部」に誤っている。しかし廿四の巻に「摂津国嶋上郡の人、日下部連歳直の子、日下部連利貞らの本居を改めて、右京二條三坊に住まわせた」とあり、日下部であることは明らかなので、修正した上で引用した。】などと見える。延喜式神名帳に和泉国大鳥郡、日部(くさかべ)神社がある。【日子坐王を祀るという。】○甲斐國造(かいのくにのみやつこ)。国造本紀に「甲斐国造は、纏向の日代の朝(景行天皇)の御世に、狹穂彦王の三世の孫、臣知津彦公、その子鹽海足尼(しおみのすくね)を国造とした」とある。葛野之別(かづぬのわけ)。「葛野」は山城国葛野郡である。この地のことは上巻【伝十二】で言ったが、また明の宮(應神天皇)の段でも言う。【伝三十二の二十九葉】この氏については分からない。【持統着に葛野の羽衝(はつき)という人名が見えるが、この氏の人かどうか分からない。新撰姓氏録には葛野連、葛野臣などがあるが、異姓である。】○近淡海蚊野之別(ちかつおうみのかぬのわけ)。和名抄に「近江国愛智郡、蚊野郷」がある。この地名である。【延喜式神名帳に、同郡、輕野神社がある。これは同じかどうか分からない。】この氏についても考えはない。○若狹之耳別(わかさのみみのわけ)。和名抄に「若狭国三方郡、彌美(みみ)郷」【今の本は「彌(み)」を「禰(ね)」に誤っている。】がある。延喜式神名帳には、同郡彌美神社もある。この氏も考えはない。○河上之摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)。「河上」は和名抄に「丹後国熊野郡、川上郷」がある。これである。「摩須」の意味は分からない。「郎女」は書紀の景行の巻に「郎女、これを『いらつめ』と読む」という訓注があり、天智の巻に「伊羅都賣(いらつめ)」、続日本紀廿二に「藤原の伊良豆賣(いらつめ)」などもある。これらで訓は定まるだろう。また舒明紀に「郎媛(いらつめ)」、孝徳紀に「娘(いらつめ)」などもある。男に郎子(いらつこ)、女に郎女という「いら」は、「いろせ」、「いろど」などの「いろ」、また入彦、入姫などの「いり」と同言で、親しみと愛情を表す名である。このことは前【伝廿一の十葉】に述べた。○比婆須比賣命(ひばすひめのみこと)。名の意味は考えつかない。この人は玉垣の宮の天皇(垂仁)の皇后で、書紀の垂仁の巻の薨じたときの記事には、「一にいわく、日葉酢根命」ともある。○眞砥野比賣命(まとぬひめのみこと)。これも名の意味が思い付かない。○弟比賣命(おとひめのみこと)。名の意味は字の通りだ。以上三柱の女王たちのことは、玉垣の宮の段に出ている。論ずるべきこともある。そのところ【伝廿六の十一葉】で言おう。○朝廷別王(みかどわけのみこ)。【「廷」の字は「庭」と書いた本もある。それも悪くはない。】「朝廷」は「みかど」と読む。この王がどういう理由でこの名になったのか、定かでない。○三川之穗別(みかわのほのわけ)。「三河」は参河国である。この国は、男川、豊川、矢作川という三つの大川があるので、三川という名が付いたという。【男川は、今は大平川という。豊川は吉田川だという。ある説では、「男川は加茂郡から出て、池鯉鮒(ちりふ)の西、今岡の東を南へ流れている川だろう。大平川ではない」という。】「穂」は和名抄に「參河国寶飫(ほ)郡」とあるのがそうだ。【この「飫」の字は、「飯」と誤って書かれている。今もそうなっている。】旧事紀五に「三川の穂の国造、美己止直(みことのあたえ)」という人物がある。【「みこと」と「みかど」はよく似ているから、あるいはこの朝廷別王のことではないだろうか。国造本紀には「穂国造は、泊瀬の朝倉の朝、生江臣の祖、葛城襲津彦命の四世の孫、菟上足禰を国造とした」とあり、この記と異なる伝えである。】○近淡海之安直(ちかつおうみのやすのあたえ)。「直」の字は、諸本に「置」とある。それはあるいは「稲」の字が脱けたので、もとは「稲置」かとも思ったが、やはり「直」が正しいだろう。【下巻の高津の宮の段などにも「直」を「置」と誤ったところがある。】そこで改めておいた。「安」は和名抄の近江国野洲郡がそれである。この氏については考えがない。倭建命の段に近淡海の安国造というのがあるが、これは同じかどうか分からない。【この記に「木国造の祖」とあるのを、書紀では「紀直の祖」と言っている例もあるから、同じ氏でもその時々の「かばね」のままに、「直」とも「国造」とも語り伝えたかも知れない。】○三野國之(みぬのくにのみやつこ)。本巣國造(もとすのくにのみやつこ)。これは二氏で、上は「三野国造」だったのに、「造」の字を「之」と誤ったのだろう。日代の宮の段に「三野国造の祖、神大根王」とあり、書紀その他でも「美濃国造、名は神骨」とある。【「三野の本巣」なら白檮原の宮の段の終わりに「道奥石城国造」、「常道仲国造」などとある例からすると、「三野之」とあって「國」の字はないはずだが、「三野國」とあるのでも、「本巣」とは別項目であるように見える。】国造本紀にも「三野前國造は、春日の率川の朝の皇子、彦坐王の子、八瓜命を国造とした」とある。【この次に「三野後國造」の項がある。このように前・後と言うのは、越前、越後などというのと同じ例だろうか。もしそうなら、美濃のうちでも、本巣郡は京師に近く、「道の口」とも言った可能性があるから、「三野前國」というのは本巣郡の辺りを言い、それを「三野之本巣國造」と言ったかも知れない。しかし美濃の国を二分して言うなら、その前の方に、本巣以外にまだ数郡の地があるので、本巣国造の他に三野前国造があってもおかしくないし、それを三野国造と呼んでもおかしくない。また本巣郡のうちには美濃郷もあって、上古に「三野國造」と呼んだのは、そのあたりの国造で、「本巣國造」というのは、他に「本巣」という地があって、そこの国造だったとしても、変ではないだろう。あるいは、上記の「前後」は時代の前後を言うかとも考えたが、もしそうなら、同じものとして書くのが普通であって、二つに書いてあるからにはそうではないだろう。八瓜命は神大根命のまたの名で、前に出た。天武紀には「美濃連」と出ているが、異姓のようだ。】本巣は和名抄の「美濃国本巣【もとす】郡」がそうだ。この氏については考えがない。○長幡部連(ながはたべのむらじ)。延喜式神名帳に「常陸国久慈郡、長幡部神社」がある。この地である。類聚国史五十四に「常陸国の人、長幡部福良女(ふくらめ)に、少初位上を授け云々」、主計式の「諸国の輸調」に「長幡部のアシギヌ(糸+施のつくり)【長さ六丈、幅一尺九寸】」とある。【延喜式神名帳には、武蔵国賀美郡にも長幡部神社がある。】○同母弟は、師が「いろど」と読んだのを用いる。若櫻の宮(履中天皇)、穴穂の宮の段などに「伊呂弟(いろど)」とあるのと同じだからだ。【女であれば「伊呂妹」と書き、それは「いろも」である。このことは伝十三の六十三葉で言った。参照せよ。書紀では「母弟」、「同母弟」などを「はらから」、「おもはらから」、「はははらから」、「はらからのいろと」、「おなじはらのいろと」などと呼んでいるが、これらはみな古称ではない。】○母泥能阿治佐波毘賣(もねのあじさわびめ)。「母泥」の二字のうち、一つは誤っているだろう。【真福寺本では、この二字を「丹波」と書いているが、良いとも思えない。また一本には「母」の字のそばに「名か」と書いている。これはいい考えだ。】名の意は分からない。「阿治(あじ)」は「阿遲スキ(金+且)高日子根などの「阿遲」と同じく、「佐波」は佐波遲比賣の佐波と同じか。○迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)。【この「米」の字は、旧印本ほか一本で「來」と書いているが、誤りである。ここは真福寺本、延佳本、その他一本によった。注にあるのも同じだ。】「雷」は「いかづち」と読む。【これを「づち」と読むのは間違いだ。記中、「づち」にこの字を書いた例はない。書紀では「香來雷(かぐつち)」、「山雷(やまづち)」などと書いているところがあるが、この記では「づち」には「椎」、「土」だけが使用されている。「建御雷」の雷は「かづち」の借字で、これも上の「御」に「い」の母音があるから、本来「いかづち」である。】名の意味は「蟹目厳(かにめいか)し」という称え名か。それはこの王の目が厳めしかったからだろうか。蟹は目が殊に厳めしいものだから、喩えに言ったのではないか。「づち」は尊称で、野椎の神のところ【伝五の四十五葉】で言った通り。また建御雷神のところ【伝五の七十三葉】も考え合わせて、「雷」という意味を知るべきである。中臣氏にも「雷大臣(いかづちのおおみ)命」という名がある。【新撰姓氏録、三代実録などに見える。これは仲哀紀、神功紀、允恭紀に「中臣の烏賊津使主(いかつおみ)」と書かれている人である。ただし仲哀の頃から允恭の頃まで、年数が非常に長いから、同名異人だろう。中臣系図には、天兒屋根命の五世の孫にも伊香津臣(いかつおみ)命があり、これも別人だ。というのは、その伊香津臣命の五世の孫に臣陜山(おみさやま)命、その子が雷大臣命とあるからだ。続日本紀卅六に「伊賀都臣(いかつのおみ)は意美佐夜麻(おみさやま)の子で、神功皇后の御世に朝廷に仕えた」とあって、合わせ考えると続日本紀の伊賀都臣は系図の雷大臣だ。系図の「陜」の字は「狹」の誤りであることも分かる。また「伊賀都臣」というのも「雷大臣」というのも同名だと分かるだろう。中臣の世継ぎのなかには、同名の人が三人いる。このことは、ここには関係はないが、雷という名に因んで触れた。】帝王編年記に「大筒城眞若王の子を稚筒城王という。稚筒城王の子は息長宿禰である」と言っている。これは拠りどころがあることか。もしそうなら、この王のまたの名を若筒木王とも言ったのだろう。○丹波之遠津臣(たにはのとおつおみ)。これについては何の考えもない。○高材比賣(たかきひめ)。「材」の字は、記中に用いた例がないから、【この記では、人名・地名などに用いる字がおよそ決まっている。「き」という言葉なら、「木」、「城」などを用いるのが普通だ。】間違いなく誤写である。村、または杙(くい)などだろう。ただ【それにはどんな証拠もなく、】諸本みな「材」と書いているので、ここで安易に改めるわけにも行かない。そのため読み方も、古い本のままにしておく。名の意味も考える手がかりがない。○息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)。息長は近江国坂田郡の地名だ。前に出た。○葛城之高額比賣(かづらきのたかぬかひめ)。和名抄に、「大和国葛下郡、高額郷」がある。この地名に因む名だ。この比賣の世系は明の宮(應神天皇)の段に見える、新羅国からやって来た天之日矛(あめのひぼこ)の子孫、多遲摩比多訶(たじまひたか)という人の娘で、【そこに「これは息長帯比賣命の祖」とある。】但馬国で生まれた人のように聞こえるが、大和の高額の地名が名に付いているのは、そこに移り住んだからではないだろうか。【後に「多遲摩國造」とあるところで言うことがある。考え合わせよ。延喜式神名帳に「但馬国気多郡、鷹貫(たかぬき)神社」がある。似た名ではあるが、こちらは葛城とあるから、大和であることは動かない。】○息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと)。息長は父の名と同じ。その地で生まれ育ったのだろう。【書紀のこの姫の巻に「六十九年に崩じた・・・この日追号して皇后を氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と名付けた」と、この名を諡のように書いてあるが、そうではない。弟も息長日子というから、これも生前からの名だったのだろう。息長日子の例からすると、この姫尊も息長日女命と言っていたのを、崩じて後、足日女(たらしひめ)と加えたのだろう。】「帯」は【字は借字で】「足(たらし)」の意味である。三代実録十七【貞観十二年、宗像大神に奉った告文】には「大帯日姫(おおたらしひひめ)」とある。この名は珍しい。【こういったことも古くはあったのだろう。】書紀には「氣長足姫尊は、稚日本根子彦太日々天皇の曽孫、氣長宿禰王の娘である。母は葛城高ヌカ(桑+頁)媛という」とある。【天皇の曽孫とあるのはこの記と合わない。この記では五世の孫である。曽孫というのが息長宿禰王を指して言っているとしても、やはり合わない。その王も天皇の玄孫だからである。】○虚空津比賣命(そらつひめのみこと)。「虚空」とは、何に因んで言う名か、定かでない。○息長日子王(おきながひこのみこと)。父王、姉命の息長と同じだ。○吉備品遲君(きびのほんじのきみ)。和名抄に「備後国品治【ほむち】郡、品治郷」がある。これである。国造本紀に「吉備の品治造は、志賀高穴穂朝の御世、多遲摩君と同祖、若角城(わかつぬき)命の三世の孫、大船足尼(おおふねのすくね)を国造に定めた」とある。【「品治造」とあるのは、「造」の前に「國」が脱けている。「多遲摩君と同祖」とあるのは、後の「多遲摩國造」のところで言うことと考え合わせよ。】仁徳記に「吉備の品遲部雄鮒(おふな)」という名が見える。○針間阿宗君(はりまのあそのきみ)。延喜式神名帳に「播磨国揖保郡、阿宗神社がある。この地名による名だ。針間のことは、黒田の宮の段に出た。【伝廿一の四十九葉】○河俣稻依毘賣(かわまたいなよりびめ)。「河俣」は河内国若江郡にある。高岡の宮の段【伝廿一の三葉】に出た。「稻」は字の通りの意味で、「依」は例の「よろし」である。○大多牟坂王(おおたむさかのみこ)。「多牟坂」は地名だろうか、【そうならば「廻坂(たむさか)」の意味の名か、】定かでない。国造本紀に「淡海国造は、志賀高穴穂の朝の御世に、彦坐王の三世の孫、大陀牟夜別(おおたむやわけ)を国造とした」とあるのは、この人ではないだろうか。【淡海国造というのも、父の息長に由縁がある。】また倭建命の段に意富多牟和氣という人名がある。考え合わせよ。【伝廿九の卅一葉】○注に「此者」とあるのは、上には「この王は」と言っている意味である。○多遲摩國造(たじまのくにのみやつこ)。但馬国である。国造本紀に「但遲麻国造は、志賀高穴穂の朝の御世に、竹野君と同祖、彦坐王の五世の孫、船穂足尼(ふなほのすくね)を国造とした」【この人が彦座王の五世の孫なら、この大多牟坂王の子ではないだろうか。竹野君と同祖というのは、次に出る「丹波の竹野別」は、建豊波豆羅和氣王の子孫なので、兄弟間で伝えが異なっているのではないだろうか。前記の高額比賣が但馬国の生まれなのと、この大多牟坂王がその国造の祖なのを合わせて考えると、あるいは息長宿禰王が但馬国に下ったことがあり、そこで高額比賣を娶り、大和に連れて帰って、葛城に住んだのではなかろうか。また大多牟坂王がその国造の祖になったのも、かつて父がその国に下ったことが機縁になったのではないか。これらはすべて今ではよく分からないことだが、試みに言っておくのである。】○上の件は、すべて日子坐王の子孫である。この他にも、この王の子孫は新撰姓氏録に「治田(はりだ)連は、開化天皇の皇子、彦坐命の子孫である云々」、「輕我孫(かるのあびこ)は、治田連と同氏、彦坐命の子孫である」、「大私部(おおきさいちべ)は、開化天皇の皇子、彦坐命の子孫である」、「輕我孫公は、治田連と同氏、孫今簀(ひこいます)命の子孫である」、「堅井公(かたいのきみ)は、彦坐命の子孫である」、「別公(わけのきみ)は、上に同じ」、「川俣公は、日下部宿禰と同祖、彦坐命の子孫である」、「川俣公は、日下部連と同祖、彦坐命の子孫である」、「豊階公は、川俣公と同祖、彦坐命の子、澤道彦(さわじひこ)命の子孫である」、「酒人造は、日下部と同祖」などの記事が見え、三代実録八にも「丹波国何鹿(いかるが)郡の人、刑部首夏繼(なつつぐ?)に姓を与えて、豊階宿禰とした。刑部首弟宮子(おとみやこ?)に姓を与えて豊階朝臣とした。夏繼らは自ら語って、彦坐王の子孫だと言っている」とある。

 

上所レ謂建豊波豆羅和氣王者。<道守臣。忍海部造。御名部造。稻羽忍海部。丹波之竹野別。依網之阿毘古等之祖也。>

訓読:かみにいえるタケトヨハヅラワケのミコは、<チモリのオミ、オシヌミベのミヤツコ、ミナベのミヤツコ、イナバのオシヌミベ、タニハのタカヌワケ、ヨサミのアビコらがおやなり。>

口語訳:上記の建豊波豆羅和氣王は、<道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、丹波之竹野別、依網之阿毘古らの先祖である。>

「所謂」は「いわゆる」と読むのが普通だが、ここは倭建命の段に「上云若建王(かみにいえるワカタケのミコ)云々」、また軽嶋の宮の段で「上云多遲摩比多訶(かみにいえるたじまひたか)云々」とあるのと同様だから、「いえる」と読む。○建豊波豆羅和氣王(たけとよはづらわけのみこ)。諸本みな「羅」の字が脱けているが、ここは延佳が考えて補っているのによる。○道守臣(ちもりのおみ)。「道守」は何か理由があってこの名が付いたのか、【采女(女+采)(うねべ)臣、膳(かしわで)臣のたぐい】または地名か、定かでない。【今、和泉国大鳥郡、堺の南の荘に道守社がある。もともと道守は、山守、野守のたぐいで、道を守る者を言う。万葉巻四(543)に「吾兄子が、往のまにまに追むとは、千遍思へど、手弱女の吾身にしあれば、道守の問牟答えを云やらむすべを不知(しらに)と、立てつまづく」、書紀の神代巻に「泉守道者(よもつちもり)」などとある。和名抄の道路具に「遉邏は、漢語抄にいわく、『ちもり』」とあるが、遉邏は敵の様子を伺うために巡行する者だから、道守の意味には合わない。】この氏は、天武紀に「十三年十一月、道守臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録【左京皇別】に「道守朝臣は、開化天皇の皇子、武豊葉頬別(たけとよはづらわけ)命の子孫である」、また【右京皇別】「道守臣は、道守朝臣と同祖、豊葉頬別命の子孫である」、また【山城国皇別】「道守臣は、道守朝臣と同祖、武波都良和氣(たけはづらわけ)命の子孫である」、また「今木は、道守と同祖、建豊羽頬別命の子孫である」、また【摂津国皇別】「道守臣は、道守朝臣と同祖、武葉頬別命の子孫である」などとある。また波多八代宿禰の子孫にも道守朝臣、道守臣があって、新撰姓氏録に見える。【とすると、天武の御世に朝臣姓を与えたのは、どちらの道守氏か、弁別することはできない。あるいは両方の氏に与えたのを、同名だから合わせて書いたのか。新撰姓氏録では、両方の氏に朝臣姓がある。】この氏人は天智紀に道守臣麻呂、続日本紀廿五に道守臣多祁留(たける)、四十に道守臣東人などが見える。【これもどちらの道守か、知りがたい。この東人は百二十歳で「その髪はなおふさふさとして、聡いことは少年のようだった」とある。また続日本紀九に「但馬国の人、寺人・小君ら五人に、改めて道守臣の姓を与えた」とある。】○忍海部造(おしぬみべのみやつこ)。「忍海」は顕宗紀の歌に「於尸農瀰(おしぬみ)」とある。【「のう」は「ぬ」に縮まる。】それは和名抄の「大和国忍海【おしのみ】郡」のことである。この姓は、単にこの地名によるのか、またはその忍海郎女の御名代として定められたのか、【忍海郎女のことは若櫻の宮、甕栗の宮(清寧天皇)の段に見える。御名代のことは玉垣の宮の段の子代のところ、また高津の宮の段で言う。】この氏人は、清寧紀に「播磨国赤石郡、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)、忍海部造細目(ほそめ)」というのが見える。【天智紀に「忍海造小龍(おたつ)」、天武紀に忍海造大國、忍海造能麻呂(よしまろ)という人が見える。同紀の「十年、忍海造鏡荒田能麻呂らに姓を与えて連とした」、「十二年、忍海造に姓を与えて連とした」などの記事がある。これらには「部」の字がない。異姓か同姓か。】新撰姓氏録【河内国皇別】に「忍海部は、開化天皇の皇子、比古由牟須美(ひこゆむすみ)命の子孫である」とあるのは、兄弟の間で伝えが異なるのである。【これから考えると、波豆羅和氣王は、それほど子が多くて、この記だけでなく新撰姓氏録などにも見えているのに、書紀にこの王の名がないのは、比古由牟須美命と同一視した伝えかも知れない。】○御名部造(みなべのみやつこ)。地名か。万葉巻九【八丁】の「紀伊国に行幸したときの歌」(1669)に「三名部乃浦(みなべのうら)云々」と詠まれている。この他にも書物にあって然るべき名である。調べるべきだ。欽明紀に「佐渡嶋の北、御名部の碕」というのもあるが、これではないだろう。この氏びついても考えていることはない。○稻羽忍海部(いなばのおしぬみべ)。「稻羽」は因幡国である。上巻【伝十】に出た。この氏についても考えはない。上記の忍海部造から分かれた氏だろう。○丹波之竹野別(たにはのたかぬわけ)。この地は前に出ており、そこで云った。この氏について、考えはない。【前記の多遲麻国造のところで引いた国造本紀に、竹野君とある。そのことはそこで言った。考え合わせよ。】○依網之阿毘古(よさみのあびこ)。「依網」は和名抄の「摂津国住吉郡、大羅【おおよさみ】郷」、延喜式神名帳の「同郡、大依羅(おおよさみ)神社四座【並びに名神大、月次・相嘗・新嘗】」がある。神功紀に「すぐに神の教えの通りに齋き祀った。そのため依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を祭の神主とした」と見え、【今も住吉郡に吾孫子(あびこ)村というのがある。】和名抄に「河内国丹比郡、依羅【よさみ】郷」がある。水垣の宮の段に、「依網の池を作った」【これは河内国である。その理由はその段で言う。】書紀の推古の巻に「河内国に依網池を作った」【今の丹北郡、池内村の池がこれである】と見える。このように河内と摂津と、二つの依網があるが、丹比郡と住吉郡は相接していて、大依羅社も依網池も、この二郡の境界付近にあり、相近いところだから、もとは一つだった地が、二国に分かれたものだろう。【万葉巻七(1287)に「青角髪依網原(あおみずらよさみのはら)」とあるのは、歌の様子からすると、参河国碧海郡の依網郷であって、別である。】「阿毘古」は日代の宮の段に「木国の酒部の阿毘古」、景行紀に「山部の阿弭古(あびこ)」などという姓も見え、新撰姓氏録にも「輕我孫(かるのあびこ)」などがあるから、そういう姓(かばね)はあるとしても、新撰姓氏録に単に「我孫(あびこ)」、【摂津国神別、また同国雑姓。】「我孫公」【和泉国雑姓である。今和泉国和泉郡に「我孫子(あびこ)」というところがある。また続日本後紀五に「河内国の人、我孫公諸成(もろなり)、同姓阿比古道成(みちなり)」という人が見える。】などもあって、普通の姓(かばね)とは少し違っているようだ。名の意味は「吾彦」ということではないだろうか。【「吾」とは親しい気持ちを表す意味で、「彦」は美称である。「孫」と書くのは借字だろう。「ひこ」にこの字を書くのは、いにしえは子の子を「ひこ」といったからで、「まご」というのは後世の言葉である。だから古い書物に「孫」とあるのは、みな「ひこ」と読むべきだ。和名抄に「孫は和名『むまご』、一にいわく『ひこ』、曽孫は和名『ひひこ』」とある。しかし「むまご」と言うのはやや後のことで、「ひこ」こそ古称である。今の世に孫を「まご」と言うのは「むまご」の訛りで、曽孫を「ひこ」と言うのは「ひひこ」の訛りである。】この氏人は、書紀の仁徳の巻に「四十三年秋九月、依網の屯倉の阿弭古が奇異な鳥を捕まえて、天皇に献上した。言うところでは『私はいつも網を張って鳥を捕らえていますが、今までこんな鳥を見たことがありません。奇異なことと思って献上いたします』・・・これは今の鷹である。・・・この月、初めて鷹甘部(たかかいべ)を定めた、そこで世人は、その鷹を飼うところを『鷹甘邑』と呼んだ」とある。【依網というのは、この人が網を張って鳥を捕らえ、献上した功績によってこの時から名付けられたのではないだろうか。ただすでに神功紀にも見え、ここにも「依網の屯倉」とあるから、どうだろう。これは、後の名を前にも及ぼして書いたのかも知れない。「依網屯倉」は皇極紀にも見えて、河内国のこととある。依網の阿毘古と依網屯倉の阿毘古は同一人物だろう。日本紀竟宴集の註にいわく、「定家卿の家集(拾遺愚草)に、依網の祠官が、求子(求婚のことか?)に歌う歌をほしいと言ったので、詠んで遣わした。(2894)『君が代はよさみの杜のとことはに松と杉とや千年(ちたび)榮えむ』。依網の池は住吉社の辰巳(東南)にあって、十六、七町もあろうか。今は次第に浅くなったようだが、まだ水が多いときは海のようで、蓮・葦・蒋(こも)なども多い。社は池の北の庭井という村の南にあり、今は小さな祠になっている。或孫(あびこ)は村の名になって、その西にある。・・・鷹甘邑は、今は鷹合と書いて『たかい』という村が住吉郡にある」と言う。庭井村、鷹合村は今でもある。】続日本紀十八に「摂津国住吉郡の人、依羅我孫(よさみのあびこ)忍麻呂ら五人に、依羅宿禰の姓を与えた。神奴の意支奈(おきな)、祝の長日ら五十三人に、依羅物忌という姓を与えた」とあり、新撰姓氏録【摂津国皇別】に「依羅宿禰は日下部宿禰と同祖、彦坐命の子孫である」とあるのは、兄弟間で伝えが異なっているのではないだろうか。【この他に依羅連があるが、異姓である。】

 

天皇御年陸拾參歳。御陵在2伊邪河之坂上1也

訓読:このスメラミコト、ミとしムソヂマリミツ。みはかはイザカワのサカのエにあり。

口語訳:天皇は崩じたとき六十三歳だった。御陵は伊邪河の坂の付近にある。

御年六十三歳。書紀には「六十年夏四月丙辰朔丙子、天皇が崩じた。一にいわく、時に年百十五」とある。【父の天皇の「二十二年春正月、皇太子を立てた。年十六」とあるのによると、百十一歳になる。】ある書物には百十一歳とある。【これは上記の立太子の年から計算したのだろう。】○伊邪河之坂上(いざかわのさかのエ)。書紀には「六十年・・・冬十月癸丑朔乙卯、春日の率川の坂本陵に葬った。一にいわく、坂上陵」とある。諸陵式に「春日の率川の坂の上の陵は、春日の率川の宮で天下を治めた開化天皇である。大和国添上郡にある。兆域は東西五段、南北五段、京にある戸十烟を、毎年守に差し向ける」と見える。【「坂上」といい、「坂本」という二つの伝えのうちでは、式にも「坂の上」とあるから、そちらが正しいのだろう。また兆域が狭いのは、京の内にあるからだろう。】前皇廟陵記に「あるいは今奈良の林の小路、韓国(かんこう)社の奥、念仏寺の境内にあるとも言う」とある。【念仏寺の後方にある。今このあたりの坊名に油坂町、坂之新屋町、西坂などというのがある。坂上というのに関連があるだろう。】


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