『古事記傳』29−1


日代の宮四之巻【景行天皇四】

於レ是坐レ倭后等及御子等諸下到而。作2御陵1。即匍=匐=廻2其地之那豆岐田1<自レ那下三字以レ音>而。哭爲歌曰。那豆岐能。多能伊那賀良邇。伊那賀良爾。波比母登富呂布。登許呂豆良。

訓読:ここにやまとにますキサキたちまたミコたちもろもろクダリきまして、ミハカをつくりて、そこのナヅキダにはらばいもとおりて、ミネなかしつうたいたまわく、なづきの、たのいながらに、いながらに、はいもとおろう、ところづら。

歌部分の漢字表記:靡きの、田の稻幹に、稻幹に、匍ひ廻ろふ、野蔓

口語訳:倭にいた(倭建命の)后たちや子供たちがやって来て、御陵を作り、その周囲の田に腹這いになって泣き、歌った。「御陵を取り巻く田の稲幹に、稲幹に、這い回る、野老の蔓よ」

后等(きさきたち)は倭建命の妻たちである。この命はすべて天皇に準ずる扱いなので、妻も后ということは、前【伝廿七の六十四葉】で言った通りである。その后は一人ではないので、【このことは伝十一の卅葉、伝廿一の十葉などでも言った。】「等」と言った。後にこの皇子の御子たちを挙げた中に妻たちの名も出ている。そこに「后」と呼ぶべき人の名もあるだろう。布多遲能伊理毘賣(ふたじのいりびめ)命は、玉垣の宮の段にも「倭建命の后となった」とあった。○御子等も同様、倭建命の子供たちである。○諸(もろもろ)は后等を含む。上巻に「天神諸(あまつかみもろもろ)とあったのと同様で、この字の上にある語に係っている。○下到(くだりきまし)は、倭から伊勢に下ったのだ。○陵は、諸陵式に「能褒野の墓は日本武尊である。伊勢国鈴鹿郡にある。兆域は東西二町、南北二町、守戸五烟」【続日本紀に「大宝二年八月、倭建命の墓が震動した。使いを派遣して祭った」とあるのは、この御陵のことだろう。】とあるのがそうだ。能褒野のことは前【伝廿八の四十五葉】に言った。この御陵は、今は定かでないが、高宮村というところに【莊野驛と石藥師驛との間の大道の少し西の方である。】丸山というのがある。茶臼山、経塚、白鳥塚などとも呼び、たいへん大きく、高く丸い。周辺に堀の形などもかすかに残っており、どう見ても上代の御陵の形である。たぶんこれだろうと思える。【谷川氏も、「今高宮村に『ひよどり塚』というのがあるが、能煩野の御陵はこれだろう」と言っている。この塚のことだ。またある人も御陵はこの塚だと言い、「このあたりは高宮郷で高飛野と言う。白鳥塚のほとりの地に『王子田』、『寶冠塚』などの字(あざ)もある。七、八町ほど北には『御所垣内』という田地の字(あざ)があり、その里人が鍬を入れるなどすれば祟りがあるという」と言っている。それなのに延佳が「今の鈴鹿郡長世郷の広野に陵墓がある。俗に『多氣比(たけび)墓』と呼ぶ。これが能褒野の墓だ。『多氣比』は『建部』を訛ったのだろう」と言ったのは、上代の陵墓の構造もよく考えず、後世の人の考えで大体のところを言ったのである。この武備(たけび)塚というのは、石藥薬師の驛から二里余り西の方、長澤村の北の野中の林の中にあり、高さは六、七尺ほどの小さい塚で、小さな木や竹が茂っている。その前には社がある。また同じ林の中に、その塚の後方に車塚、一町ばかり東南には寶冠塚、寶裳塚などというのもある。どれもたいへん小さな塚だ。最近ではこの武備塚を能煩野の御陵と考えるようになって、世人もそう思っているが、これは上代の御陵の造りではない。もしこれが御陵だとしたら、はるかな時を経て崩れたり欠けたりして今のように小さくなったのだろうし、それなら内部の石構えが露出したはずであるが、そういったものは一切見えない。私の友人で伊勢の白子の人、坂倉茂樹の考察でも、「この武備塚は、倭建命のお伴だった吉備武彦、または大伴武日連などの墓ではないか」という。そういうことならありそうだ。お伴をしたので、この人たちも、死後に同じ能煩野に葬ったことは考えられるからだ。あるいは、倭建命の子孫に建部氏があり、この國の安濃郡にもその氏人が住んでいるから、そうした人たちが遠祖の御陵の近くに葬ってほしいと希望したかも知れない。いずれにせよ、この武備塚は御陵ではないだろう。また上記の長澤村の少し西南の方の野中に、高さ一丈あまり、周囲も十丈ほどもある古い塚がある。東面の中程に崩れた跡があり、石構えの口が見えている。口の幅は狭く、穴の内部は奥行きが八、九尺、巾は七、八尺ほどある。上は大きな石で覆い、横も石を重ねて作ってある。これを里人は二子(ふたご)塚とか二子穴と呼ぶ。付近には幾つも大きな石が地に埋もれ、あるは露出して散らばっている、これもこの塚の材料だった石だろう。またその塚の西の方にももう一つ塚がある。この二子塚は、古代の貴人の墓には違いない。だが御陵とは決められない。ある人は「大碓命と小碓命は双子に生まれたから、この名がある。また長澤村に長澤神社があって、その神像はたいへん背の高い姿をしているのも、倭建命が身長一丈余りもあったというのに由来するだろう。この近くに御門(みかど)という地名もあるなど、何か由縁がありそうだ」と言った。しかし双子に生まれたからと言って、それを陵墓の名にするだろうか。また亀山驛と莊野驛との間、大道の北の方の名越村に近い所に丁子塚というのがある。周囲二十丈ほどの丸い山で、東の方に長く引いた尾がある。この形なので丁子と言ったのだろう。内部には石構えがあり、埴輪が出ることもあるという。また山の周囲に、少し離れて小さな岡が五つあるそうだ。この塚にはまだ行って見ていないが、話を聞く限りでは、これも上代の陵墓の構造ではある。また石藥師驛を西南の方に出外れたところ、大道の右の方に日之坪(ひのつぼ)という小山がある。これも陵墓の形に似ている。この山は後方が山の上で平地になっているが、大道側から見て頂点になっている辺りは、後方から見ても盛り上がって塚になっている。これをこの御陵だという人もあるが、どうだろうか。ある人は、「これは中世の城の跡だ」とも言う。とにかくこの能煩野の御陵は、上記のように古い塚は幾つかあるが、どれが確かにそれだという決め手はない。当郡の中をよく探せば、古い塚は他にも見つかるだろう。よく尋ねて考えるべきである。】<訳者註:現在は宮内庁では丁子塚を倭建命の陵としている。>○那豆岐田(なづきだ)。「那豆岐」は「靡附(なみつき)」である。【「き」は「かきくけ」の活用する言である。「なみ」は「なびき」で、「藤なみ」とか、何かが「なみ寄る」などという「なみ」がこれだ。】人や鳥獣が「懐く」というのも元は同じだ。【これからすると、和名抄に「腦は頭の中の髄腦である。和名『なづき』」とあるのも、頭の中に集まり寄ることから言うのかも知れない。しかしこれは定かではない。】とすると、前記の「多々那豆久(たたなづく)青垣山隱れる」というのも、周囲にたたなわり周(めぐ)る山が、その中の国に靡附いていると言うのであって、【その中の国から見ると、周りの山々は、みなその国に靡附いたかのようである。】「那豆岐田」も同様で、御陵に靡附いた田ということだ。【「靡」とは、その形としては靡いているようではないが、寄り付くことを言う。前記の青垣山は、その形が委(たたなわ)っているので「たたなづく」と行ったが、田は「たたなわる」ものではないから、単に「なづく」とだけ言ったのだ。契沖はこの「なづき」を地名だと言ったが、「其地之(そこの)」とあるから、地名でないことは明らかである。また師(賀茂真淵)は「づ」を助辞と見て、「稲つ城田(いなつきだ)」であって、「稻城」とあるあたりの地だろうかと言ったが、これも受け入れられない。「稻城」であればそのまま「いなき」と言うだろう。出雲国風土記に「腦磯(なづきいそ)」、「腦嶋(なづきしま)」というのがあるが、これはどういういわれのある名だろうか。「腦」が正字(文字の意味通りの字)なのか借字(訓を借りて書いた字)なのか、定かでない。】○匍匐は上巻に「(遺体の)枕辺に匍匐(はらば)い、足元で泣いた」とあったのと同じ。【伝五の六十五葉】○廻は「もとおり」と読む。この言葉は白檮原の宮の段の歌に「波比母登富呂布、志多陀美能伊波比母登富理(はいもとおろう、しただみのいはいもとおり)」とあったところで述べた通りだ。【伝十九の四十五葉】ただしその「はい」は「蔓延」の意味で、「匍匐」ではなかった。【そう解する理由も同巻の四十七、八葉で言った。万葉巻三【五十三丁】、大納言大伴卿の薨死の時の歌(458)に「若子乃匍匐多毛登保里、朝夕哭耳曾吾泣君無二四天(わかきこのはいたもとおり、あさよいにねのみぞあがなくきみなしにして)」、また巻二【三十五丁】(199)に「鶉成伊波比廻(うずらなすいはいもとおり)」、【「い」は発語である。】巻三【十三丁】(239)に「鶉己曾伊波比廻禮(うずらこそいはいもとおれ)」などがある。○哭は師が「みねなかしつつ」と読んだのによる。【ただし「なかし」は、師の読みは「なき」だったのをここで改めた。「なかし」は「なき」を延ばした言で、尊敬の意味になる。】それは書紀の欽明の巻に「殯宮に奉哀(みねたてまつる)」、孝徳の巻に「阿倍大臣が薨じたので、天皇は朱雀門に出て擧哀而慟(かなしみたまう)・・・諸々の公卿たちもみなも哀哭(みねたてまつる)」、天武の巻に「みな喪服を着けて、三度擧哀(みねたてまつる)」などとある「奉哀」、「哀哭」、「擧哀」など、また「發哀」、【斉明の巻、天武の巻、持統の巻】「發哭」、【天武の巻】「慟哭」【持統の巻】などをみな「みねたてまつる」と読み、皇極の巻に「蘇我臣蝦夷(虫+夷)と鞍作の遺体を墓に葬ることを許した。また哭泣(ねづかえ)することを許した」、天武の巻に「發哀(ねつかう)」などあり、これは「ねづかえ」、「ねつかう」と読んでいる。「ね」は人の死を悲しんで泣くことを言い、「みね」は「視哭」である。故人の殯(あがり)や葬(はふり)のさまを見て泣くのだ。書紀の神代巻に「喪を弔って大臨(みなきす)」とある「臨」を「みなき」と読んでいる【見て泣くのである。】と考え合わせて理解せよ。【「奉る」と言い、「事(つか)え」と言うのは、自分より身分の高い人のためにすることを言い、尊敬表現である。だから上に引いた孝徳の巻にある天皇の「擧哀」は「かなしみたまう」と読み、天武の巻で、十市の皇女を葬ったところに「天皇は(葬に)臨んで、恩(めぐみ)を降し、發哀」とある「發哀」は「みねしたまう」と読んでいる。】「ね」はすなわち泣くことだが、「ねなく」と重ねて言うのも普通だった。【「ねになく」、「ねのみなく」などとも言った。それは例えば「寐(い)」は寝ることなのに「寐寝(いね)」とも言い、「寐(い)を寝ぬ」などと言うのがそうだ。同じ言い方である。】「ね」は体言(名詞)、「なく」は用言(動詞)だからだろう。【「寐寝」も「い」は体言、「ね」は用言である。同意の語であっても、体言と用言を重ねて言った例は他にもある。歌を歌う、舞を舞うなどのたぐいだ。ところで「ねなく」の「ね」を「音」と解釈する人があるが間違いである。また後世に涙のことを「ね」と言うことがあるが、これは「なく」ということから転じたのである。】○那豆岐能(なづきの)。【「なづき」は用言なのに、「の」と言うのはおかしいと思う人もあるだろうが、どんな言葉でも物の名になり、用言も体言のように使われて、「の」と受ける例は多い。ここは特にこう言わなければ、句の調子が整わないだろう。】四言の句である。【次の「多能」の二言をここに付けて六言に読むのは間違いである。句の調子を味わって知るべきだ。ここに出る四首のうち、後の三首はみな初句が六言なので、これも六言かと思ったが、この歌はそうではない。】○多能伊那賀良邇(たのいながらに)は「田の稲幹に」である。書紀の神代巻に「粟莖(あわがら)」、【新撰字鏡に「カン(禾+干)稈は『あわがら』」と見え、説文に「稈は禾(か:本来は粟の意)の茎である」とある。】万葉巻十一(2759)に「吾屋戸之、穂蓼古幹採生之、實成左右二、君乎志將待(わがやどの、ほたでふるがらとりおおし、みのなるまでに、きみをしまたん)」と見え、字書に「草木の茎を幹と言う」とある。○伊那賀良爾(いながらに)。こう同じ言葉を繰り返すのは、古い歌にはよくあることだ。○波比母登富呂布(はいもとおろう)は「蔓延(は)い廻る」である。この句は白檮原の宮の段に見え、【伝十九の四十五葉】上にも引いた。○登許呂豆良(ところづら)は「カイ(くさかんむり+解)葛」である。和名抄【芋類】に「崔禹錫の食經にいわく、カイは、味は苦く、甘味が少なく、毒性はない。蒸し焼きにして食料にする。和名『ところ』、俗に『タク?(くさかんむり+宅)』の字を用いる。漢語抄に『野老』の二字を書いてある。考えたが、出典は分からない。兼名苑の注にいわく、『黄カイは、根は黄白で、味は苦い』とある」と見え、大膳式に「トコロ(くさかんむり+宅)二合」、また「トコロ(くさかんむり+解)四葉」などとある。万葉巻七【十一葉】(1133)に「冬薯蕷葛、弥常敷爾(ところづら、いやとこしくに)」、巻九【三十六丁】(1809)に「冬ト?(くさかんむり+叙)蕷都良尋去祁禮婆(ところづらとめゆきければ)」【これらを今の本で「さねかづら」と読み、古今和歌六帖(3929)に「まさきづら」として出しているなど、みな誤っている。田中道麻呂いわく、「万葉巻七、巻九にある『冬薯蕷』を『まさきづら』とするのは当たらない。『まさき』には冬薯蕷と言う理由がない。六帖でこの歌を『まさきづら』としているのは、万葉の訓の付け方を知らず、みだりに読んだものである。冠辞考でもこれを『まさきづら』と読んで、『まさき』についての説明は詳しいが、それが冬薯蕷に相当するという理由が見えない。冬薯蕷は『野老(ところ)』である。というのは、野老は葉も蔓も薯蕷(やまのいも)によく似ていて、混同しやすいものである。だが薯蕷は十月初め頃まで蔓があって、その後はすべて枯れる。野老は大部分は薯蕷と同じ頃に枯れるけれども、物蔭に生えているものなどは、冬になっても葉が青く、春まで残るものもあるから、まさに冬薯蕷と言うべきだ。万葉巻七の歌で『いやとこしくに』と続いているのは『とこ』を掛けているのだろう。あるいは常葉(とこは)の意味かも知れない。万葉巻九の歌で『尋去(とめゆき)』と言っているのは、このものは蔓を探して根を掘るものだからだ」という。この考えがよく当たっている。】拾遺集(1032)に「春物へまかりけるに、女どもの野べに侍りけるを見て、何(なに)わざするぞと問(とひ)ければ、野老(ところ)ほるなりといらへければ、『春の野に、處(ところ)求むと・・・』」、返し(1033)「云々」などがある。葛(つら)は世に言う「つる」のことだ。蔓草には「〜づら」という名が多い。葛のことは上巻【伝六の十九葉】で言った。○この歌の意味は、契沖も言った通り、悲しみに耐えず這い廻ることを、そこの田の稲茎にトコロの蔓が這いまとわりつくことに喩えたものと思われるが、そういう意味だとすると、最後が尻切れとんぼである。末の句が脱けたのではなかろうか。【たとえば「伊波比母登富理、泥能美斯那久母(いはいもとおり、ねのみしなくも)」といった二句があるのが自然だ。白檮原の宮の段の歌と比較して見よ。】

 

於レ是化2八尋白智鳥1。翔レ天而。向レ濱飛行。<智字以レ音>爾其后及御子等。於2其小竹之苅杙1雖2足ヒ(足+非)破1。忘2其痛1以。哭追。此時歌曰。阿佐士怒波良。許斯那豆牟。蘇良波由賀受。阿斯用由久那。又入2其海鹽1而那豆美<此三字以レ音>行時歌曰。宇美賀由氣婆。許斯那豆牟。意富迦波良能。宇惠具佐。宇美賀波。伊佐用布。又飛居2其磯1之時歌曰。波麻都知登理。波麻用波由迦受。伊蘇豆多布。是四歌者。皆歌2其御葬1也。故至レ今其歌者。歌2天皇之大御葬1也。

訓読:ここにやひろシロチドリになりて、あめにかけりて、はまにむきてトビいましぬ。かれそのキサキたちミコたち、そこなるシヌのカリグイにミあしきりやぶるれども、そのイタキをもわすれて、なくなくオイいでましき。このときのミウタ、「あさじぬはら、こしなずむ、そらはゆかず、あしよゆくな」。またそのウシオにいりてなづみゆきまししときのミウタ「うみがゆけば、こしなづむ、おおかわらの、うえぐさ、うみがは、いさよう」。またとびてそこのイソにいたまえるときのミウタ、「はまつちとり、はまよはゆかず、いそづたう」このヨウタは、みなそのハブリにうたいたりき。かれいまにそのウタは、スメラミコトのおおミハブリにうたうなり。

歌部分の漢字表記:淺小竹原、腰なづむ、空は行かず、足よ行くな
海處行けば、腰なづむ、大河原の、植ゑ草、海は、いざよふ
濱つ千鳥、濱よは行かず、磯傳ふ

口語訳:このとき、(倭建命は)八尋もある白い千鳥になって飛び立ち、浜に向かって飛んで行った。その后たちや御子たちは、地面の笹の切り株に足が傷ついても、その痛みも忘れて、泣く泣く(鳥の)後を追った。このときの歌は「浅小竹の原に、腰まで草に埋もれ、空は飛べないから、足で行くことだ」。また海に入って、水に浸かりながら行くときの歌は、「海を行けば、腰まで水に浸かり、大河原に植わっている草のように、海はいざよう」。また飛んでしばらくそこの磯にいた時に歌った歌は、「浜の千鳥、浜を行かず、磯伝いに行くよ」。この四首の歌は、その葬礼の時に歌ったものである。だから今も天皇の大葬の礼で歌われている。

八尋白智鳥(やひろしろちどり)。八尋は記中に八尋鰐などとあるたぐいで、それがとても大きいことを言う。【鳥が八尋もあるのは、普通ではない。異常に大きかったのだろう。】白智鳥は書紀には「白鳥」とあり、この記でも御陵の名は白鳥とある。【次に見える。】書紀の仲哀の巻に「『私がまだ幼かった頃、父王(日本武尊)は早くに崩じて、その神霊は白鳥になって空を翔けた。その姿を仰ぎ見たい気持ちは一日といえどなくしたことはない。だから何とか白鳥を捕まえて、その陵墓の周りの池で飼い、それを眺めて心の慰めにしたいものだ』と言って、諸国に命じて白鳥を献上させた。・・・越の国から白鳥四羽を献上してきた」とある。それがどの鳥なのかは定かでない。万葉巻四【三十丁】(588)に「白鳥能、鳥羽山松之(しらとりの、とばまつやまの)」【冠辞考に、「この白鳥は、必ずしも鷺に限らないだろう。仲哀紀に『白鳥を捕まえて飼おう』とあるのは、鵠(くぐい)のことだろうか。出雲国造の神賀詞に『白鵠乃生貢(しらとりのいくみつぎ)』とあるのも『しらとり』と読むのが正しいからだ」とある。鵠のことは伝廿五の六葉で言った。】巻九【十丁】(1687)に「白鳥鷺坂山(しらとりのさぎさかやま)」【これは単に鷺と言えば白い鳥だからこう言ったのか、それとも鷺の一名を白鳥とも言ったのか、分からない。漢籍で詩経の疏に「鷺を白鳥と言う」ともある。ここの白智鳥を白鷺のことだという説もある。】などもある。それをここで特に「白智鳥」といった理由も定かでない。【白い千鳥を言うかとも思えるが、千鳥であるはずはない。千鳥だったら(普通白くないから)白鳥とは言えないだろう。上記の仲哀紀の記事でも、千鳥のような小鳥の印象ではない。それともここも、元は「白鳥」とあったのを、後の歌に「千鳥」とあるので、後人がさかしらに「智」の字を加えたのかとも思ったが、「智の字は音で読む」と注まであるから、そうではないだろう。そこでよくよく考えてみると、后や御子たちが千鳥に喩えて「波麻都知登理」と詠んだ歌によって、この白鳥を推測で白智鳥と言っていたのを、初めの呼び名にも及ぼして。そう語り伝えたのか。その歌で「知登理」と言った理由は、そこで言う。また仲哀紀に「御陵の周囲の池で白鳥を飼い、父を慕う心を慰めよう」と天皇が言ったことから、当時その白鳥を「父鳥(ちちどり)」と呼んだのを、世間でもそう呼んだのを、初めの呼び名に当てはめて「白父鳥」と言ったのかも知れない。「ちち」を「ち」とだけ言うのは、一般に同音が重なれば一つを省いて言うことが多いからだ。また明の宮の段の歌に「麻呂賀知(まろがち)」と詠んだ例もある。】○化(なりて)は葬った倭建命の屍が白鳥に化したのである。書紀には「群卿に詔し、百寮に命じて伊勢国の能褒野の御陵に葬った。このとき日本武尊は白鳥に姿を変えて御陵から飛び出し、倭国を指して飛んで行った。群卿が棺を明けてみると、衣だけが残っていて、屍はなかった」という。○「翔レ天(あめにかけり)」。高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「比婆理波、阿米邇迦氣流(ひばりは、あめにかける)」、書紀の仁徳の巻の歌に「破夜歩佐波、阿梅珥能朋利、等弭箇慨梨(はやぶさは、あめにのぼり、とびかけり)」などが見える。【伊勢国鈴鹿郡の石藥師の寺を、高富山という。高富は、実は高飛(たかとび)で、この辺りの古い地名であり、石藥師の驛も古い名は高飛びと言った。それは倭建命が白鳥になって飛び去ったことから出た名だと伝える。】○「向レ濱飛行(はまにむかいてとびいましぬ)」。これは書紀に「倭国を指して飛んで行った」とあるのと違っているようだ。【倭国は西の方なのに、浜は東の方にあるから。】しかしあちこちと飛び廻ったのだから、方向にはこだわる必要はない。【鈴鹿郡の能煩野から浜に向かったと言うからには、奄藝(あんぎ)郡、河曲郡、三重郡のうちの海辺だろう。鈴鹿郡の東南の方から北の方に、この三郡が並んでおり、海はその東にあるからだ。また延喜式神名帳には、朝明郡に鳥出(とりで)神社がある。ある説に「倭建命が白鳥になって飛び出したから鳥出の名がある。今はこの辺りを『富田』と言うが、『とりで』を訛ったのだろう。大和の琴弾原(ことひきはら)も富田と言い、同じ故事によるため、同じ名になっていることを考えればよい。この鳥出神社は、今は飛鳥神社という」と言っている。朝明郡は三重郡の北にあるから、能煩野から倭国を指して行くには、方角はますます遠くなる。ところが旧事紀に「日本武尊は、東の夷を平定して還る途中、まだ尾張国に行き着く前に薨じた」という説がある。尾張国の愛智郡の白鳥村に白鳥神社があり、倭建命の墓だと言い伝えている。一説に「これは天武天皇の御世に、あの白鳥の三陵になぞらえて、その尊の御霊をここに祭ったのだ」とも言う。どれも確かなことではないが、あるいは能煩野の墓から白鳥に化して出て、初めに東北を目指して、朝明郡の浜辺に向かい、尾張国に到って留まったため、そこに御陵を作ったのが、愛智郡の白鳥の社なのかも知れない。次にまたその御陵から飛び去って、倭国に行ったのではないだろうか。それを書紀では尾張国に行ったことを漏らし、この記では尾張のことも倭のことも漏らして、後に出る河内のことだけを伝えたのではないか。また旧事紀では、白鳥となって留まったところに御陵を作ったことを誤り伝えて、尾張国で薨じたと言ったのではないか。これらはどれも確かなことではないけれども、この記に「浜に向かって飛んだ」とあるのと、尾張国にも白鳥陵があるのと、旧事紀の説と、あれこれ考え合わせると、あるいはそうしたことではなかったかと思う。尾張国には草薙劔を置いてきたのだから、御霊が最初に尾張へと飛んだことも理由がないことではない。朝明郡の鳥出の社も、尾張に向かうには通過点と言えるから、いろいろと試みに言ってみたまでである。】○於其。下に「地」、または「野」の字などが脱けているのではないか。【「其の野」だったら能煩野を言う。】だが諸本にそういうたぐいの字はないので、とりあえずここは「そこなる」と読んでおく。【真福寺本、延佳本では「其」の字を「是」と書いてある。しかし「於レ是(ここに)」というところでもない。またこれを下に掛けて「この」と言うのもおかしい。】○小竹は「しぬ」と読む。【上巻には「小竹は『ささ』と読む」とあるが、ここはそう読んではおかしくなる。】歌に「士怒(しぬ)」とあるからだ。書紀の神功の巻に「小竹、これを『しぬ』と読む」とあり、万葉巻一【八丁】(6)に、「しぬひつ」という借字にも「小竹櫃」とあり、また「細竹」とも書く。和名抄に「篠は細竹である。和名『しの』、あるいは『ささ』と言う。俗に小竹の二字を書いて『ささ』という」とある。【いにしえは「しぬ」と言ったのを、後に「しの」と言うのは、「野(ぬ)」、「角(つぬ)」、「樂(たぬ)し」、「忍(しぬ)ぶ」などと同様である。だが万葉巻一の人麻呂の歌(45)に「四能」とあり、これは珍しい。】ところで「しぬ」というのは、細い竹をはじめ、薄(すすき)や葦にも言い、そういうたぐいの幹の総称だが、【万葉巻一(45)に「旗須爲寸、四能乎押靡(はたすすき、しのをおしなべ)」とあるのも、薄の幹を言っている。「しの薄」というのも、単に薄のことで、別にそういう種類の薄があるわけではない。葦についても「葦の篠屋(しのや)」などと言う。】もっぱら小竹、細竹などと書くのは、そう呼ばれる物のうち、代表的なものを言うのである。【同じように「小竹」と書いても、「ささ」と言うのは竹に限られ、「しぬ」と言うのは竹とは限らない。】「しぬ」という名の意味は、なよやかにしなうということである。【俗に言う「しなやか」ということだ。「ぬ」と「の」と「な」はよく通う音で、「心もしぬに思う」、「恋しぬふ」などという「しぬ」も、心がしない折れることを言うのだ。「思いしなえて」ともよく言うのと、合わせて悟るべきである。とすると「しぬ」と言うのもそれと同様で、「しない」という意味で「しぬ」と言う。これを「繁き」の意味と考えるのは誤りだ。後世には「繁き」ということを「しのに」と言うが、いにしえにはそう言うことはなかった。】ここの「小竹」は、細い竹でも、薄などのたぐいでもあるだろう。○苅杙(かりぐい)は、俗に「苅株」というものだ。和名抄に、「東宮切韻にいわく、根株は草木の本である。読みは、上は『ね』、下は『くいぜ』」【新撰字鏡では「柮」、あるいは「櫪」、「櫟」、また「キ?(木+旡)」などを「くいぜ」と読んでいる。】と見える。木を切った後の株を「きりくい」と言う。【新撰字鏡には、「杠は橦である。『きりくい』」とある。】万葉巻十六【二十二丁】(3846)には「法師等之、鬚乃剃杭、馬繋(ほうしらが、ひげのそりくい、うまつなぎ)云々」もある。【これは髭を剃った後に、また短く生えたのを、草木の株に喩えて言ったのである。】○雖足ヒ(足+非)破は、「みあしきりやぶるれども」と読む。足が傷ついたことを言う。【「ヒ(足+非)」は字書に「ゲツ(月+りっとう)である」とも「足を断つことである」とも注され、足を切り離すことだが、これは単に「足を切る」という言が同じだからこの字を書いたのであって、文字の意味にはこだわっていない。いにしえにはこうした書き方が普通だ。今でも手足が傷つくことを「手を切る」、「足を切る」というのと同じで、単に傷つくことを「切る」と言うのである。】○「忘2其痛1(そのいたきをもわすれ)」。「忘」の字を「忍」と書いた本も幾つかある。それでも悪くはないが、ここは延佳本、また他一本によった。【真福寺本は「忌」と書いてあるが、これは「忘」の誤りである。】「忍」よりは「忘」と言う方が優っているからだ。「痛」は「いたきをも」と読む。【「いたさ」、「いたみを」、「いたむを」などと読むのはよくない。】「忘れて」は、「感じないで」というような意味である。○哭追は「なくなくおいいでましき」と読む。「なくなく」は、【俗に「泣き泣き」ということだ。<訳者註:俗にも「泣く泣く」と言う>】「哭きつつ」というのと同じだ。【俗言で「言いつつ」を「言い言い」、「聞きつつ」を「聞き聞き」と言うが、雅言では「言う言う」、「聞く聞く」と言った。この言い方はみな同じである。】白智鳥を慕って、その飛んで行く方へ泣きながら追ったのだ。○歌は、后たちや御子たちの中の誰かが詠んだのである。次の一首も同じ。○阿佐士怒波良(あさじぬはら)は、契沖によると「浅小竹原」である。万葉巻十一(2774)に「神南備能淺小竹原乃(かんなびのあさじぬはらの)云々」と言っている。万葉巻七(1121)に「妹所等、我通路、細竹爲酢寸、我通、靡細竹原(いもがりと、わがかよいじの、しぬすすき、われしかよわば、なびけしぬはら)」などもある。歌の初句が六言なのは、記中にも書紀にも例がないが、【書紀の雄略の巻の歌に、初句が「瀰致爾(イ+爾)阿賦耶(みちにあうや)」というのがあるが、これは中に「あ」が入っているから、六言の例にはならない。<訳者註:宣長はいわゆる「字余り」の句について、古い歌では必ず句の中に母音(あいうえお)が入っていたことを指摘した。>】ここに出る三首は、すべて初句が六言になっているのは、何か理由があるのだろうか。○許斯那豆牟(こしなずむ)は、契沖によると「腰煩(なず)むである。仁徳紀の歌に注されている。この句で切るべきだ」という。仁徳紀というのは、書紀に「那珥波譬苔、須儒赴泥苔羅齊、許辭那豆瀰、曾能赴尼苔羅齊、於朋瀰赴泥苔禮(なにわひと、すずふねとらせ、こしなずみ、そのふねとらせ、おおみふねとれ)」とあり、契沖は「『こしなずみ』とは『腰悩み』である。腰まで水に浸かって舟を引くのだ」と言った。万葉巻十三(3295)に「夏草乎、腰爾魚積(なつくさを、こしになずみて)云々」、巻十九(4230)に「落雪乎、腰爾奈都美弖(ふるゆきを、こしになずみて)云々」というのがそうだ。「なずむ」という語は、上巻の「踏那豆美(ふみなずみ)」とあるところ【伝七の四十一葉】でも言った。この他万葉巻二【三十九丁】(210)に「石根左久見手、名積來之(いわねさくみて、なずみこし)」、巻三【三十八丁】(382?)に「雪消爲、山道尚矣、名積叙吾來並二(ゆきけする、やまみちすらを、なずみぞあがこし)」、巻四【四十六丁】(700)に「不近、道之間乎、煩参來而(ちかからぬ、みちのあいだを、なずみまいきて)」、巻七【十七丁】(1192)に「山川爾、吾馬難(やまがわに、わがうまなずむ)」、巻十三【二十六丁】(3316)に「君之歩行、名積去見者(きみがかちより、なずみゆくみれば)」など、たいへん例が多い。ここは白智鳥の後を追って行くため、道もなく、小竹が腰まで生い茂る中を分けて行くので、そう速くも進めず、難渋するのである。○蘇良波由賀受(そらはゆかず)。【「賀」の字は、ここは間違いなく清音のところなのに、濁音の字を用いたのはいぶかしい。このことは初めの巻で言った。】契沖によると「『空は行かず』である。白智鳥は空を行くが、我らは空を飛べないので、と言ったのだ」という。白鳥が空を飛ぶのに対して言っている。【万葉巻十四(3425)に「下野(しもつけぬ)安蘇(あそ)の河原よ、石ふまず、蘇良由(空ゆ)と來(き)ぬよ、汝が心能禮(のれ)」と言ったのは、心が急くので、空を飛ぶようにしてやって来たという意味だ。】○阿斯用由久那(あしよゆくな)は、「足より行くな」である。徒歩で行くというようなことだと契沖は言った。「從(より)」を古言で「よ」と言ったことは、前【白檮原の宮の段】で述べた通りだ。徒(かち)より、馬より、船よりなどと言うのが古言では通例で、足で歩くのを「足より」と言ったのだ。「な」は助辞で、「よ」と言うのに似て、少し嘆きの意味がある。この辞は万葉に多いが、巻一【二十四丁】(54)に「都良々々爾、見乍思奈、許湍乃春野乎(つらつらに、みつつおもうな、こせのはるぬを)」、巻十三【二十八丁】(3324)に「珠手次、懸而思名、雖恐有(たまだすき、かけておもうな、かしこくあれども)」、これらの「な」は、ここの語勢に似ている。この他巻四【二十四丁】(550)に「吾者將戀名(あれはこいんな)」など「むな」と続いたのが幾つかある。句の最後にあるのは、巻十【六十三丁】(2344)に「間使遣者、其將知奈(まづかいやらば、それとしらんな)」がある。○歌全体の意味は、いくら追おうとしても、われらは白鳥のように空を飛べないので、徒歩で行くから、小竹の原に難渋して、速くも進めないことよということである。○「入2其海鹽1而(そのうしおにいりて)云々」。海鹽は「うしお」と読む。上巻【伝十の七葉】に出た。白智鳥が海へ飛んだのを、后や御子たちがなおも慕い追い、海の中まで入って追おうとしたのだ。○宇美賀由氣婆(うみがゆけば)は「海を行けば」である。【契沖は「『賀』は『加良(から)』である。『良』の字が脱けたか。省略した言葉か」と言い、師は「『賀』は『随(ながら)』のことで、『海のままに』ということだ」と言ったが、どれも良くない。】陸(くぬが)に対して、海を「うみが」と言うのである。いずれも「が」は「處」の意味で、【在所(ありか)、住所(すみか)などの「か」、坂(さか)、岡(おか)などの「か」、また山里を「やまが」と言うのも同じだ。】「くぬが」は「國處」、「うみが」は海處である。【国であるところ、海であるところということだ。】書紀のこの巻(景行の巻)、また崇峻の巻で北陸を「くにがのみち」とも「くぶがのみち」とも読み、【これを崇神の巻で「くめがのみち」と読んでいるが「め」は「ぬ」を誤ったのだ。また崇峻の巻で「くるがのみち」と読み、西宮記、北山抄などにも「北陸道は『くるがのみち』」とあるのは、「ぬ」を「る」と訛ったのだろう。】欽明の巻に、陸海を「くぬがうみ」と読み、孝徳の巻でも水陸とある陸を「くぬが」と読んでいる。これらに対して海を「うみが」と言ったことを知るべきである。【しかし「くぬが」という語は後世にも残り、今は「くが」と言うが、「うみが」と言う語は早くに使われなくなったため、上記の欽明の巻の陸海の海も、単に「うみ」と読んでいる。だがここの歌に「宇美賀」とあるのは、正しく陸に対して言っているから、海陸、水陸などとある海、水は「うみが」と読むべきなのだ。ただし前記の孝徳の巻の水陸の水は海だけでなく、田の水や河川を含めて言っているので、「みず」と読む。同巻にまた水陸とあるのを「たはたけ」と読んでいる。その言葉の用い方によるのである。そのうちでも、海陸の意味で言う水陸の水は、「うみが」と読むべきである。】○許斯那豆牟(こしなずむ)は上記と同様だが、ここでは前記の仁徳の巻の歌と同じで、腰まで海に入って悩(なず)むのである。○意富迦波良能(おおかわらの)は「大河原の」である。つまりここでは、水の中を河原と呼んでいるのだ。【普通は河水のほとりの地だけを河原と言い、水の中については言わないが、ここはそうではない。】そういう例も多い。【万葉巻七(1385)に「弓削河原之埋木之(ゆげのかわらのうもれぎの)」、巻十一(2703)に「大野川原之水隱(おおぬかわらのみこもりに)」などは、水中を河原と言っている。他にもたくさんある。】海原、渡原(わたのはら)などとも言うのと同じようなことだ。○宇惠具佐(うえぐさ)は「植え草」である。契沖は「生えることを植えると言う。万葉巻十四(3474)に『宇惠多氣能毛頭左倍登與美(うえたけのもとさえとよみ)云々』とある」と言った。また万葉巻三【二十五丁】(310)に「東市之殖木乃(ひむかしのいちのうえきの)」、巻十九【二十五丁】(4207)に「吾屋戸能、殖木橘(わがやどの、うえきたちばな)」、巻廿【五十九丁】(4495)に「宇具比須波、宇惠木之樹間乎、奈枳和多良奈牟(うぐいすは、うえきのこのまを、なきわたらなん)」などとあるのは、みな同じことで、「うえ」は師が「生えていることを言う」と言った通りだ。【「植え」と言えば人が植えることという感じがするが、それだけではない。ただし万葉巻三(407)に「春日里爾殖子水葱(かすがのさとにうえこなぎ)」、巻十四(3415)にも同様の句があるが、それらは人が植えた水葱(なぎ)と聞こえる。】この二句は喩えであって、大河原の植草のようにいざよう、というのである。【そのことは次に言う。喩えを挙げてその後に「の如く」という意味を含むことは、いにしえはもちろん、中昔の歌にも普通だった。これは、その時后たち、御子たちが河原の草を分けて行ったことを言っているわけではない。よく考えなければ思い違いをするだろう。】○宇美賀波(うみがは)は「海は」である。○伊佐用布(いさよう)。【「さ」は清音である。「いさよう」の「さ」は、万葉などでも、常に清音の仮名を使っている。濁って読むのは間違いである。】万葉巻三【三十六丁】(372)に「雲居奈須、心射左欲比(くもいなす、こころいさよい)」、また【四十?丁】(393)「山之末爾、射狹夜歴月乎(やまのはに、いさようつきを)」、また【四十八丁】(428)「山際爾、伊佐夜歴雲者(やまのはに、いさようくもは)」、巻十四【二十七丁】(3511)に「安乎禰呂爾、多奈婢久君母能、伊佐欲比爾(あおねろに、たなびくくもの、いさよいに)」などとあり、「たゆたう」と似て、前へ進まずためらい、停止する意味である。【「たゆたう」は万葉巻二(196)に「猶豫不定」、巻十一(2690)に「猶豫」とも書き、巻四(542)に「今者不相跡、絶多比奴良思(いまはあわじと、たゆたいぬらし)」、また(713)「吾背子之情多由多比、不合頃者(わがせこがこころたゆたい、あわぬこのごろ)」などと見え、巻十一(2816)に「天雲之絶多不心、吾念莫國(あまぐものたゆたうこころ、あがもわなくに)」、巻十二(3031)に「天雲乃絶多比安心有者(あまぐものたゆたいやすきこころあらば)」などもある。この中で雲に「いさよう」とも「たゆたう」とも言っているが、同じことなので、似たような意味だと知るべきだ。ところが似て同じでないのは、雲などはあちらこちらと漂って、どちらか一方に進んで行かないことを言い、人の心などはああしようか、こうしようかと決めかねて、進めないのを言う。「いさよう」は単に休止して進まないことを言い、どう進もうか定まらないという意味はない。だから月には「いさよう」とだけ言い、「たゆたう」とは言わない。また「猶豫不定」といった字は「たゆたう」に用いて「いさよう」には用いない。これらのことでその違いを知るべきである。】ここは海中を追って行こうとしても、腰まで使って進むことができず、停止してしまうのである。【師が上記の「なずむ」と同じで滞ったのだ、といったのは、少し違う。「なずむ」はものに遮られて滞るのだ。「いさよう」は、自分がためらい決めかねて進まないのだから、その意味は同じではない。ここも潮に悩(なず)んだ意味ではあるが、そのことを「いさよう」と言ったわけでなく、潮のために自らためらい決めかねたことを言うのである。その区別をよく理解せよ。】そのためらい休止しているさまを大河原の植草に喩えたのは、海水に浸かって立ち、そこで逡巡している姿が、川の水の中に生えている草が、水と共に流れて行くのでなく、波に揺られながら立っているのに似ているからだ。【契沖はこの意を理解せず、「大河原を行くと、そこでもまた草が茂っているのに難渋して、海でも川でもいさよい、進むことができないということだ」と説いたが、それは誤っている。ここは前文に「海鹽に入れば」とあって、河原を行き進もうとしたとは書かれていない。「宇美賀波」の「賀」の字が濁音であることからも、「河」を言っているのでないことは分かる。それにその説の通りだとしたら、詞の続き具合もしっくりしないだろう。】○「又飛居2其磯1(またとびてそこのいそにいたまえる)」は、白智鳥のことである。「又」は後の「歌曰」に係っており、「また歌って」という意味だ。【「また飛んで」と、「飛ぶ」に係っていると見るのは誤りである。海の上に飛んだのが、また飛んで帰って磯にいたとも取れるけれども、そうではない。】前に「飛んで行った」とあるのに、再び「飛んで」と言ったのは、この「居た」の主語が白智鳥であって、后や御子たちではないことを明らかにするためである。【上記に「於2其小竹之苅杙1云々」、「入2其海鹽1而」というのはいずれも主語が后や御子たちだったので、ここで「飛んで」と言わなければ鳥のことかどうか分からなくなるからだ。】「其(そこの)」と言うのは、「そのあたりの」といった意味である。「磯」は歌のところで言う。「居」は降りてそこに居たということだ。○歌曰は、后や御子たちが歌ったのである。○波麻都知登理(はまつちどり)は【「登」は、ここでは清音の字を書いてあるが、上巻の歌では濁音の「杼」を書いてあり、書紀にあるのも濁音だ。万葉巻十九にも「智杼利」と書いてあるから濁って読む。】「浜つ千鳥」である。【「つ」は「の」に通う辞で、「嶋つ鳥」、「野つ鳥」、「家つ鳥」などと同様である。】書紀神代巻の歌にも「播磨都智耐理譽(はまつちどりよ)」とある。後世の歌では濱千鳥と言っている。【また磯千鳥、河千鳥などとも言う。】○波麻用波由迦受(はまよはゆかず)は、【旧印本、他一本、また他の一本では、「由」の字が脱けており、真福寺本では「波」の字<訳者註:二つ目の「波」>がなく(はまよゆかず)、延佳本では「用」がない(はまはゆかず)。そういう風に、それぞれ一字ずつ足りないのを、相互に参照してこう定めた。真福寺本も延佳本も、それなりに読めるが、「波」も「用」もある方が優っているからだ。契沖の厚顔抄では、ここで定めたのと同じになっている。旧印本と延佳本を合わせて補ったのだろう。】「濱からは行かず」である。○伊蘇豆多布(いそづたう)は「磯伝う」である。「伝う」は、ある場所から他の場所に移動することを言う。このことは前【伝二十五の九葉】で言った。ここは海上の、渚に近いところを伝って行くことである。○この歌は、まず「浜つ千鳥」と言ったのは、後に「濱云々」、「磯云々」と言うための材料として、白智鳥を千鳥に喩えたのである。千鳥は浜辺や磯に多くいる鳥だからだ。【だから、この歌によって、あの白智鳥を千鳥だと思うのは間違いである。その鳥が千鳥だったからこう詠んだのでなく、どの鳥だったにせよ、千鳥に喩えたのである。よく考えなければ取り違えてしまう。】次に浜と磯を対照させて言っているのは、どちらも水際なので、同じことのように思うだろうが、詳しく言うと少し違いがある。同じ水際でも浜はその陸の方を言い、磯は水の方を言うのだ。万葉巻二【卅丁】(185)に「水傳磯乃浦廻乃(みずづたういそのうらまの)」、【これは、磯は水の側で、その磯の辺りの陸を浦廻と言っている。】巻六【十二丁】(918)に「奥嶋、荒磯之玉藻(おきつしま、ありそのたまも)云々」、【藻は水中に生えるものである。】巻七【二十九丁】(1300)に「遠近、礒中在白玉(おちこちの、いそのなかなるしらたま)」、【「中」とあるから水中である。】巻十二【三十九丁】(3199)に「磯廻從、水手運徃爲(いそまより、こぎてゆかせ)」、【「こぐ」とあるから水中だ。】など、みな水の方を磯と言っている。また巻十五【十三丁】(3627)に「多麻能宇良爾、布禰乎等杼米弖、波麻備欲里、宇良伊蘇乎見都追(たまのうらに、ふねをとどめて、はまびより、うらいそをみつつ)」というのは、まさしく浜と磯を分けて詠んでいる。【「舟を留めて」というのは「陸に上がって」ということだ。】また相通わせて、陸にあるものを「磯〜」、水の中にあるものを「浜〜」と呼ぶこともあるが、それも「浜〜」というのは水中にあるけれども陸から見るものを言い、「磯〜」は陸にあっても、水の方から見て言う。【衣通媛(そとおりひめ)の歌に「海の濱藻のよる時々を」とあるなど、藻は水中に生える物ではあっても、陸に寄るので濱藻とも言い、万葉に「礒の室の木」などとあるのは、陸だけれども波の寄せる際にあるものだから、「礒の」と言うのである。これらに準じて判断すべきである。】この前の文に「居2其磯1」とあったのも、陸のことだが、歌に「磯傳ふ」とあるので、これも水の上を行く方から見て言うのであり、時々水際に降りて休息したということである。【新撰字鏡には、「濆は水涯である。『みずぎわ』、または『いそ』、または『はま』」、また「ビ(さんずいへん+眉)は水際である。『はま』または『いそ』」などとあり、「はま」と「いそ」は同じようだが、そうではない。漢字の濆やビなどは「はま」とも「いそ」とも読めるだろうが、「はま」と「いそ」が同じとは言えない。たとえば「帰」は「ゆく」とも「かえる」とも読めるが、だからといって「ゆく」と「かえる」が同じとは言えないだろう。言葉の意味というのは、みなこれと同様だ。和名抄には、「唐韻にいわく、濱は水際である。和名『はま』」とだけあって、磯のことは見えない。玉篇に「礒は水中の碩である<訳者註:意味不詳。水際で大きな石の多い場所を言うのか>」と言い、字書に「石が水を激する<訳者註:これも意味不詳。水が岩などに当たって砕け散るという意味か>のを磯と言う」などがある。「いそ」はこの字か。しかしわが国の古い書物では、「礒」の字を使っている。礒の字には「いそ」という意味は見えないが、古い書物に従うべきである。】さて「濱よ(り)は行かず」とは、「陸からは行かず」という意味で、「礒傳ふ」とは海を行くということであり、【陸、海と言わないで濱、礒と言ったのは水際でのことだからである。海についても澳(おき)などと言わないのも、それほど沖までは飛ばず、渚の辺りを伝って行ったからだ。上記の万葉巻十二の歌で、その様子を知るべきだ。】そう詠んだ意味は、浜を飛んで行くのなら追って行くこともできるだろうが、浜でなく磯伝いに飛んで行くから、水中を追って行くことは難しく、ついに追いつくことができないと嘆いたのだ。○四歌は「ようた」と詠む。四首ということだ。高津の宮の段に「六歌(むうた)は」、遠つ飛鳥の宮(允恭天皇)の段に「この三歌(みうた)は云々」、「この二歌(ふたうた)は云々」、朝倉の宮(雄略天皇)の段に「この四歌(ようた)は云々」とある。どれも同じだ。書紀の神代巻に「此兩首歌辭(このふたうたは)云々」、皇極の巻に「謠歌(わざうた)三首」(みうた)」、古今集の序にも「このふたうたは云々」、土左日記にも「一うたにことのあかねば、今一つ」などがある。みな歌の数について幾歌と言っている。【今の人が歌一首二首というのを「一くさ二くさ」などと言っているのは大きな間違いだ。一つ二つと言うことはあっても、「一くさ二くさ」などと言った例はなく、理由もない。それは古今集序の古い注釈に「大よそ六くさにわかれむことは云々」とあるのなどを六首の意味と勘違いしたのではないだろうか。それは「六種」の意味である。】○其御葬は【「葬」の字を諸本の多くは「?(くさかんむりに大、その下に土)」と書いている。この次も、その後も同じだ。それも誤写ではないのだろう。いにしえからそう書き習わしてきたのだ。】「この後に、河内国の御陵に葬る時に歌ったのを、後代にそう言ったのだ」と師は言ったが、その通りだろう。【というのは、この歌は能煩野で葬った後にできたのだから、能煩野の葬のときに歌ったのでないことは明らかだ。ただし能煩野では陵墓を作っただけで、まだ葬らないうちに白鳥になって飛び去ったのだとも言えなくはないが、書紀の記事では、能煩野で葬ったことは明らかで、この記でも、後に見える河内陵のところの文によれば、能煩野で一度葬ったことは間違いない。】ここの「葬」は「はぶり」と読む。次の「大御葬(おおみはぶり)」も同じだ。これは屍を送り遣(や)る儀式を言うからである、一般に「はぶり」【「はぶる」というのも同様。】とは、その儀式を言う。【同じ「葬」の字でも、「屍をそこに葬った」などと言う場合は「かくしまつる」と読む。これは上巻、伝五の六十八葉で言った。】そう言う意味は、遠つ飛鳥の宮の段の歌に「意富岐美袁、斯麻爾波夫良婆(おおきみを、しまにはぶらば)」、続日本紀卅一の詔に「彌麻之大臣之家内子等乎母波布理不賜失不賜慈賜波牟(みましおおおみのいえぬちのこどもをもはぶりたまわずうしないたまわずめぐみたまわん)云々」などある「はぶる」と、もとは同言で、「放る」である。【今の俗言でものを捨てるのを「ほうる」と言うのも「はぶる」が音便で崩れたのである。「溢(あふ)る」という言葉とも通う。万葉巻十四(3515)に「久爾波布利禰爾多都久毛乎(くにはふりねにたつくもを)」とあるのも、国に満ちあふれることを「はふり」と言っている。巻十九(4254)に「食國之四方之人乎母安夫左波受愍賜者(おすくにのよものひとをもあぶさわずめぐみたまえば)」というのも「放(はふ)らさず」ということだ。今の本に「夫」を「天」と誤っているが、師はこれを「末(ま)」の誤記とみて「余さず」だと言ったが、「余さず」と言うのは俗言である。上記の続日本紀の詔を参照すれば「あぶさわず」だということが分かる。物語書などでも「はふらかす」、「あふらかす」と通わせて言っている。】葬は、住み慣れた家から出して野山へ送り遣るので、「放(はぶら)かし遣る」という意味から出たのだ。【万葉巻二(208)に「秋山の黄葉(もみぢば)を茂み、迷(まど)わせる妹(いも)を求めむ、山道知らずも」、また(210か213)「かぎろ火の、もゆる荒野(あらぬ)に、白妙の天雲隱(がくり)、鳥じもの、朝立いまして、入日なす、隱(かくり)にしかば」、巻三(481)に「白妙の、袂を別れ、にぎびにし、家ゆも出て、緑兒(みどりご)の、哭(なく)をも置て、朝霧の、髣髴(おゝ)になりつゝ、山代の相樂山(さがらかやま)の、山際(やまのま)を、往過(ゆきすぎ)ぬれば」など、みな葬を詠んだ歌で、放(はな)れて往く様子である。】万葉巻二【三十五丁】(199)に高市皇子尊の城上(きのべ)の殯宮のときの歌、「言左敝久、百濟之原從、神葬々伊座而(ことさえく、くだらのはらゆ、かむはぶりはぶりいまして)」、巻十三【二十八丁】(3324)に「朝裳吉、城於道從、角障經、石村乎見乍、神葬、葬奉者(あさもよし、きのべのみちゆ、つぬさわふ、いわれをみつつ、かむはぶり、はぶりまつれば)」、伊勢物語に「崇子(たかいこ)と申す親王(みこ)うせ賜ひて、御はぶりの夜、其の宮の隣なりけむ男、御はぶり見むとて云々」とある。○歌(うたいたりき)。葬儀に歌を歌ったことは、上巻に天若日子が死んだ時、「日八日、夜八夜以遊也」とあるのでも分かり、【伝十三の五十四葉を参照せよ。】書紀の武烈の巻に、鮪臣(しびのおみ)が殺された時、影媛がその殺されたところに行って詠んだ歌、「伊須能箇瀰(いすのかみ)云々」、「於是影媛収埋既畢(ここにかげひめそのしにかばねをかくしおえて)云々」、孝徳の巻(大化五年三月)に「皇太子は造媛(みやつこひめ)が死んだと聞いて・・・野中の川原史(かわらのふびと)滿(みつ)が進んで歌を奉り、『耶麻鵝播爾(やまがわに)・・・模騰渠等爾(もとごとに)・・・(二首)』、皇太子・・・琴を授けて歌わせた」、斉明の巻(四年五月)に「皇孫の建王(たけるのみこ)が八歳で薨じた。今城の谷に殯宮を建てて収めた。天皇は・・・悲しみが極まって・・・歌を作り、『伊磨紀那屡(いまきなる)・・・伊喩之々乎(いゆししを)・・・阿須箇我播(あすかがわ)・・・(三首)』、天皇は時々(思い出して)この歌を歌っては悲しみに沈んだ」などとあるのも【葬ではないが、】類似した場面である。【漢国で「挽歌」と言うのも葬送で歌う歌である。】○其歌者(そのうたは)は、「この歌は」というのに似ているが、倭建命の葬で歌ったから「その」と言ったのだ。○天皇之大御葬(すめらみことのおおみはぶり)。上代の葬礼の儀式は、天皇のも御子たちのも、どんな風に行われたのか、知ることはできない。喪葬令に親王、諸王、諸臣の葬礼の定めを少し載せてあるが、一般に令の定めは漢に習って決めてあるので、上代のことを知る根拠にはならないし、詳しいことは見えない。天皇の葬礼については全く載っていない。【世に、天武天皇の時に定められた葬式として書かれたものがあるが、全くの偽りである。孝徳・天智の頃から、万事が漢風になったため、その後は葬礼も漢国を真似たことが多く混じり、さらにそれ以後はすべて仏法によるので、上代の礼式はほとんど消滅しただろう。しかし辺鄙な田舎などでは、まだ上代からの遺習が残っていると思われることも多かったが、それも年々変わって行くのは、たいへん惜しむべきである。物知り人が「これが上代の礼式だ」と言って行う葬式などは、後代に漢意で考えて定めたものだから、俗に行われている風習より、かえって誤ったやり方が多いものである。】ところで、御代御代の天皇の大葬に、この歌を歌ったという理由は、この倭建命が仲哀天皇の父であり、万事天皇に準じて扱うことはもちろんだが、神のように尊ばれて、世に比類ない大功を立て、ついには白鳥になって飛び去ったなど、すべてが尋常でなかった。それに若くして旅の空に散ったことなど、その非運も普通でなかったから、特に悲哀の感情の深い歌となったことなど、あれこれ考え合わせて知るがよい。

 

故自2其國1飛翔行。留2河内國之志幾1。故於2其地1作2御陵1鎭坐也。即號2其御陵1謂2白鳥御陵1也。然亦自2其地1更翔レ天以飛行。

訓読:かれそのくによりとびかけりいまして、カワチのクニのシキにとどまりましき。かれそこにミハカをつくりてしずまりまさしめき。そのミハカをシラトリのミササギという。しかれどもマタそこよりさらにあまがけりてとびいましぬ。<訳者註:宣長は「河内」に「カフチ」と読みを付けたが、現代発音では「こうち」となるので紛らわしい。ここは「かわち」と表記した。>

口語訳:その国から飛び翔って、河内国の志幾に留まった。そこに御陵を作って鎮まらせようとした。その名を白鳥の御陵という。しかしそこから更に飛び立ち、天空高く飛び去って行った。

「自2其國1(そのくにより)」は、伊勢国からということだ。【前に「浜に向かって飛んだ」と言い、「飛んでそこの浜にいた」と書いて、その続きに、今さらに「その国から飛んで」とあるのは、少しおかしいようだが、ここは「河内国に留まった」ということを言うのだから、その端緒を改めて「伊勢の国から」と言ったのは、納得できるだろう。あるいは書紀では河内国に到る前に、倭国に留まったことが書いてあるから、この記にも、この前に倭にいたことがあったのを落としたのであって、「その国」とは倭国を言うのかとも考えたが、もしそうだったら「自2其國1」の上か下に「亦(また)」、「更(さらに)」などの文字があるはずだ。そういう辞がないのは、この記では最初から倭のことはなかったからだろう。】○飛翔(とびかけりて)。書紀の仁徳の巻の歌に「破夜歩佐波、阿梅珥能朋利、等弭箇慨梨(はやぶさは、あめにのぼり、とびかけり)」とある。○河内國之志幾(かわちこくのしき)は、和名抄に「河内国志紀郡、志紀郷」がある。これである。延喜式神名帳に「同郡志貴縣主(しきのあがたぬしの)神社」、また「志紀長吉(しきのながえ)神社」がある。朝倉の宮(雄略天皇)の段に志幾之大縣主の家のことが見えるのも、この地のことである。【この地名は、この記の場合、倭国のシキを師木と書き、河内国のシキを志幾と書く。この地のことは、伝廿一の四葉で述べた。参照せよ。】これを書紀では「舊市(ふるいち)の村に留まった」とある。それは和名抄に「河内国古市郡、古市郷」とあるのがそうだ。古市郷は志紀郡の南に続いていて、今も古市というところは志紀郡の境界から遠くないので、上代にはそのあたりまで志紀と言ったのかも知れない。とすれば、舊市邑というのも志紀のうちになり、他のところを言うのではない。熱田社の寛平の縁起には、「更に飛んで、河内の国志紀郡に到り、舊市邑に留まった」とある。【ところで「舊市」というのも一つの邑を指す狭い範囲の名だが、それは元からあった名だろうか、それとも後代にできた名なのを、書紀では以前のことに及ぼして書いたということも考えられるだろう。いにしえは志紀郡だったのが、後には他の郡に属しているというのが他にも見えるから、舊市ももとは志紀郡のうちにあったことは間違いない。】○「作2御陵1(みはかをつくりて)。この御陵は今も古市郡古市にあり、【河内志にいわく、「陵の上の祠を『伊岐宮(いきのみや)』という。泉州の大鳥神社の流記にいわく、石津は孝徳天皇が伊岐宮で遊んだ日、そこの石を讃岐国から運んで、この津に置いた。そこで名付けた」とある。「伊岐宮」とは、御陵を作りながらも、白鳥は生きている神霊なので、それを祀るための宮ということで、「生(いき)の宮」ということではないだろうか。】○鎭坐(しずまりまさしめき)とは、生きている白鳥だから、葬ったわけではないので、こう言ったのである。それは神社にその御霊を祀るように、そこに鎮め祭ったのだろう。【それを神社と言わないで御陵を作ったと言うのは、この白鳥が元は能煩野で葬った屍の化したものだからだろう。】「鎭坐」という語の意味は、上巻【伝十一の四十九葉】で述べた。○白鳥御陵(しらとりのみささぎ)。【「白鳥」は、讃岐国の地名は和名抄に「しろとり」とあるが、書紀、万葉などの訓によって「しらとり」と読んだ。万葉巻九(四?)にある歌(588?)は今の本では「しろとり」と読んでいるが、それも古今和歌六帖(2767?)には「しら」とあるから、いにしえにはそう読んだのだろう。】御陵は、ここは「みささぎ」と読む。そのことは上巻【で十七の八十四葉】で言った。ところで河内の古市にある御陵は、今も白鳥の陵と言う。書紀には「使者を遣わして白鳥を追わせたところ、倭の琴彈原(ことひきのはら)に留まった。そこに陵を作った。ところが白鳥は更に飛んで、河内の舊市邑に留まった。またそこに陵を作った。そのため世の人はこの三つの陵を白鳥陵と呼んだ。しかし遂に天を目指して高く翔け上がったので、ただ衣裳や冠だけを葬った。そこでその名を残そうと、武部を定めた。この年は、天皇の踐祚から四十三年であった」とある。【倭の琴彈原は、允恭の巻に琴引坂とあるのと同じ地ではないだろうか。その御陵は今葛上郡の富田(とびた)村というところにあり、今も白鳥陵と言う。前記の仲哀紀に「陵の周囲の池に白鳥を飼い、見て心を慰めようと詔があった」というのは、この倭の御陵のことではないか。仁徳紀の「六十年、白鳥の陵守たちを役丁(えよぼろ)に当てた時、天皇みずからその役を行う所に出て見た。すると陵守の目杵(めき)が、突然白い鹿に姿を変えて逃げ出した。天皇は『この墓はもともと屍がない。それで陵守を廃止しようとして役丁に差そうとしたのだが、今見るとこのような怪異があるのは、畏れ多いことだ。これはつまり陵守を動かしてはいけないということだろう』と言って、(陵守を)土師連に管理させた」とあるのは、河内の御陵のことだろう。<訳者註:陵守は陵戸とも言い、天武以降の律令制で賎民とされた人々である。役や課税を免除され、一定の田地をあたえられるなど、その身分は、ある程度は保護もされていたようだ。役丁は普通の農民などのように課税されるから、賎民ではなく良民になる。古くは陵戸や守戸に欠員が生じると付近の百姓(良民)を充当するなどの規定があったようだから、後代に比べると、良賎の別は厳密でなかったのだろう。あるいはこのエピソードは、「良賎の区別は必要だ」と説いたのかも知れない。>ところで「この三つの陵を白鳥陵と呼んだ」とあるのは、能煩野、琴彈原、舊市の陵をみな白鳥陵と呼ぶのである。しかしこの記の記述では、河内国にあるのだけを白鳥陵と言うようで、能煩野はそう呼ぶとは聞こえない。伝えが異なるのだろうか。しかし「ただ衣裳や冠だけを葬った」というのはどういうことだろう。白鳥には衣冠などはないから、それとは別の倭建命の衣服などを持って来て、琴彈原や舊市の陵にも埋めたのではないだろうか。】この記に倭の琴彈原のことがないのは、早くから漏れたのだろう。【それは稗田阿禮が暗誦した時に漏れたのか、それともそれ以前から漏れていたのかは分からない。この記が文字に書かれた時には、もうそのことはなかったように聞こえる文になっていることは、上述の通りである。だから後人が写し落としたのではないだろう。】○翔天。ここは「あまがけりて」と読む。【前に同じ語があったところとは、言葉の調子が違う。】出雲国造の神賀詞に「天翔國翔弖(あまがけりくにがけりて)云々」、万葉巻五【三十一丁】(894)に「久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利(底本、虚の正字は、とらがしらの下に丘)(ひさかたのあまのみそらゆあまがけり)」などとある。【中古の物語書などで死んだ人の霊がこの世に出現することを「天かけりて云々」と言っている。宇津保物語の俊蔭の巻に、「あまがけりても、いかにかひなく見賜ふらむ」などあるたぐいである。】○飛行(とびいましぬ)。【書紀に「上天」とあるのは例によって漢籍めかして書いたもので、本当に天上に登ったわけではないだろう。ただこの記のように見るべきである。和名抄に「和泉国大鳥郡、大鳥郷」があって、延喜式神名帳に「同郡、大鳥神社」がある。倭建命を祭るという。河内国から更に飛んで、そこにもしばらく留まったなどの伝えがあるのだろうか。また同じく延喜式に「同郡、多治速比賣(たじはやひめ)命神社」がある。弟橘比賣命を祭るという。源平盛衰記に、「日本武尊は白鶴に化して、西の方に飛び去り、讃岐に到った。白鳥明神とする」という。和名抄に、「讃岐国大内郡、白鳥郷」がある。「白鳥は『しろとり』」とある。「この郡の白鳥村に、今も白鳥大神宮というのがある。海辺にあり、たいへん大きな森である。この森に、巨大な白鶴が昔から住んでいる。長さは七丈ほど、頭の大きさは人間の頭ほどもある。時々森の外に出ることもあり、人が大勢いても恐れる気配がない」と里人が言い伝えているのは、「倭建命がこのIに乗ってここにやって来た」とも言うのと、いずれもその国人の説である。あるいは「この神社は、もとは白鳥明神と言っていたのだが、寛文の頃、このあたりを治めていた高松という領主が言上して、大神宮という社号になった。社の領地も二百石を公(朝廷?)から賜った」という。】

 

凡此倭建命平レ國廻行之時。久米直之祖名七拳脛。恒爲2膳夫1以。從仕奉也。

訓読:すべてこのヤマトタケのミコトくにむけにメグリまししとき、クメのアタエのおやナはナナツカハギ、いつもカシワデとしてみともつかえまつりき。

口語訳:この倭建命が国を平定に行った時は、いつも久米の直の遠祖、七拳脛が膳夫としてそばに仕えていた。

凡は「すべて」と読むのが妥当だろう。その理由は白檮原の宮の段の終わりの方【伝廿の六十三葉】に例があって述べた。○平國は「くにむけに」と読む。【「国をむけに」ということで、「むけ」は用言(動詞)である。】「むけ」のことは、上巻に「言趣(ことむけ)」とあるところ【伝十三の十葉】で言った通りだ。書紀の神代巻に「令レ平2葦原中國1(アシハラノナカツクニをむけしむ)」、「以2平レ國時所杖廣矛1(くにむけしときにつけりしひろほこをもて)云々」、万葉巻五【十三丁】(813)に「可良久爾遠、武氣多比良宜弖(からくにを、むけたいらげて)」などがある。ここでは前の熊襲、蝦夷などのことをすべて言っている。○久米直(くめのあたえ)。上巻に出た。【伝十五の八十一葉】その氏ではないだろうか。○七拳脛(ななつかはぎ)は、脛が長い人なので、こういう名なのだろう。越後国風土記に「美麻紀(みまき)天皇(崇神)の御世、越の国に八掬脛(やつかはぎ)という人がいた。脛の長さが八掬あり、たいへん力が強かった」といったたぐいもあるからだ。書紀の孝徳の巻に「高田首(たかたのおびと)根麻呂(ねまろ)、またの名は八掬脛(やつかはぎ)」、新撰姓氏録に「竹田連の祖、八束脛(やつかはぎ)命」などもある。書紀には、蝦夷を平らげるために行く時、「天皇はすぐに吉備武彦と大伴武日の連に命じて、日本武尊に従わせ、また七掬脛を膳夫とした」とあって、姓を書いていない。【尾張国の氷上社の祠官は、久米直氏で、その系図に「大久米命の十世の孫、久米直七拳脛」があり、その祠官の祖である。その子に久米八甕(やはら)がある。熱田社の寛平の縁起に、「稻種公の従者、久米八腹」とあるのは、この人か。】○恒は「いつも」と読む。万葉巻四【十三丁】(491)に「伊都藻之花乃、何時何時(いつものはなの、いつもいつも)」【巻十(1931)にも同じように書いてある。】などが見える。平国に行く時はいつも、ということだ。○爲膳夫は「かしわでとして」と読む。膳夫にて、ということだ。【日本武尊がこの人を膳夫にしたというのとは違う。また膳夫になって、というのとも少し異なる。これらも結局は同じことになりそうだが、言葉の意味には少しずつ違いがある。】膳夫のことは上巻【伝十四の五十五葉】に出た。膳夫といえば賎しい職のように思えるだろうがそうではない。上代には、御膳をたいへん重視したから、膳夫もその人を厳重に選び、軽々しく扱ったりはしなかった。上巻の櫛八玉神のことや、【伝十四】書紀の景行の巻に、東の淡水門で白蛤(うむぎ)を捕ったとき、磐鹿六雁(いわかむつかり)が膳夫として仕えた(調理した)こと、應神の巻に、吉備臣の祖、御友別(みともわけ)が兄弟、子孫を膳夫にして、御餐(にあえ)を奉ったことなどを考えよ。この倭建命の平国の時に仕えた司々はさぞ多かっただろうに、そのうちでも特に膳夫の職だけを書いていることからも、軽い職でなかったことが分かる。○從は「みとも」と読む。玉垣の宮の段に、「所2遣御伴1王等(みともにつかわさえたるみこたち)云々」とあった。

 

此倭建命。娶2伊玖米天皇之女布多遲能伊理毘賣命1。<自レ布下八字以音>生御子帶中津日子命。<一柱>又娶2其入レ海弟橘比賣命1。生御子若建王。<一柱>又娶2近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遲比賣1。生御子稻依別王。<一柱>又娶2吉備臣建日子之妹大吉備建比賣1。生御子建貝兒王。<一柱>又娶2山代之玖玖麻毛理比賣1。生御子足鏡別王。<一柱>又一妻之子息長田別王。凡是倭建命之御子等并六柱。

訓読:このヤマトタケのミコト、イクメのスメラミコトのひめみこフタジノイリビメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、タラシナカツヒコのミコト。<ひとはしら>またかのウミにいりまししオトタチバナヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、ワカタケのミコ。<ひとはしら>またチカツオウミのヤスのクニのミヤツコのおや、オオタムワケがムスメのフタジヒメをめして、ウミませるミコ、イネヨリワケのミコ。<ひとはしら>またキビのオミタケヒコのいも、オオキビタケヒメをめして、ウミませるミコ、タケカイコのミコ。<ひとはしら>またヤマシロのククマモリヒメをめして、ウミませるミコ、アシカガミワケのミコ。<ひとはしら>またあるミメのうめるみこ、ナガタワケのミコ。すべてこのヤマトタケのミコトのミコたちあわせてムハシラませり。

口語訳:この倭建命が伊玖米天皇(垂仁)の娘、布多遲能伊理毘賣命を妻として生んだ子は、帶中津日子命である。<一柱>またあの海に入って死んだ弟橘比賣命を妻として生んだ子は、若建王である。<一柱>また近淡海の安國造の祖、意富多牟和氣の娘、布多遲比賣を娶って生んだ子は、稻依別王である。<一柱>また吉備臣建日子の妹、大吉備建比賣を娶って生んだ子は建貝兒王である。<一柱>また山代の玖玖麻毛理比賣を娶って生んだ子は、足鏡別王である。<一柱>またある妻の生んだ子は息長田別王である。倭建命の子は全部で六人いた。

伊玖米天皇は、師木玉垣の宮で天下を治めた天皇【垂仁】である。○女は、ここでは「ひめみこ(皇女)」と読む。○布多遲能伊理毘賣命(ふたじのいりびめのみこと)。前【伝廿四の九葉】に出て、「倭建命の后になった」とある。姑(おば)と結婚した例は、母方の姑では鵜葺草葺不合命が玉依毘賣命と結婚し、綏靖天皇が五十鈴依媛と結婚した【ただしこれは書紀の伝えである。この記では違っている。】などがある。父方の姑では、雄略天皇が波多毘能若郎女(はたびのわかいらつめ)【またの名は若日下部(わかくさかべ)命】を妻とし、舒明天皇が田眼(ため)皇女を妻とした【書紀の説。】などがある。今の京になってからでも、阿保(あほ)親王の妻、伊登(いと)内親王もそうだ。○帶中津日子命(たらしなかつひこのみこと)。この名は、「帯」は「足(満足する意)」、中津日子というのは、この御子を第一に挙げているが、長子ではなく、第二の御子だったのである。書紀には、「はじめ日本武尊は兩道入姫(ふたじのいりびめ)皇女を妃として、稻依別王を生み、次に足仲彦(たらしなかつひこ)天皇、次に布忍入姫(ぬのしのいりびめ)命、次に稚武(わかたけ)王を生んだ」とあり、異なる伝えになっている。【この御子たちの生まれた順序は、次の稻依別王のところで言う。】仲哀の巻にも、「足仲彦天皇は、日本武尊の第二子である。母は兩道入姫命で、活目入彦五十狹茅(いくめいりひこいさち)天皇(垂仁)の娘だった」とある。○「其入レ海弟橘比賣命(かのウミにいりまししおとたちばなひめのみこと)。前【伝廿七の六十一葉】に出た。其(かの)とは、前に書いたということだ。「かの」と読む。【師は「其入海」三字を後人の書いた注で、削るべきだと言ったが、そうではない。この記の文にはこういう例が多い。】この比賣命は、前にも「后」と書いてあり、ここでも「命」という尊称があって、この後に挙がっている妻たちとは一線を画す存在だった。○若建王(わかたけのみこ)。名の意味は、特別なことは何もない。書紀では、上記のようにこの御子も兩道入姫命の子と書いてあり、これとは別に「次の妃、穂積氏の忍山(おしやま)宿禰の娘、弟橘媛は稚武彦(わかたけひこ)王を生んだ」とあって、異なる伝えである。【孝徳天皇の御子に稚武彦命がある。それと混同したのだろう。】○近淡海之安國造(ちかつおうみのやすのくにのみやつこ)。伊邪河の宮(開化天皇)の段に「近淡海之安直(ちかつおうみのやすのあたえ)」がある。そこ【伝廿二の七十一葉】で言った。○意富多牟和氣(おおたむわけ)。「多牟」は地名ではないか。【倭に田身(たむ)山という例がある。】伊邪河の宮の段には大多牟坂王という名がある。同一人物かどうかは分からない。そこ【伝廿二の七十五葉】で国造本紀を引用したのも考え合わせよ。○布多遲比賣(ふたじひめ)。名の意味はわからない。地名ではないだろうか。○稻依別王(いねよりわけのみこ)。「稻」は文字通りの意味で、「依」は「宜(よろ)し」の意味だ。【そのことは前にも述べた。】旧事紀に、他に稻入別(いねいりわけ)命という名もあるが、別人ではないだろう。【ただ名前が少し違って伝わっただけで、同じ王だろう。】皇太神宮儀式帳に「大歳神の子、稻依比女」という名も見える。【これは同名の例として挙げたのである。】書紀では上記のように、この御子も兩道入姫命の生んだ子で、長子としているのは異なる伝えである。【母はその名によって紛れたのだろう。実は別人なのに、名が似ているために混同して、書紀の伝えでは同一人になったのか、それとも一人なのが紛れて、この記では二人としたのか。どちらが正しいか決められない。】ただし母はどうであれ、帶中津日子命【中津日子と言う。】名からすると、やはりこの稻依別王が長子だろう。それをこの記で挙げた順序は、【生まれた順序ではない。】母の身分の尊卑による。○吉備臣建日子(きびのおみたけひこ)は、前に「吉備臣らの祖、御スキ(金+且)友耳建日子」とあった人物で、そこ【伝二十七の三十九葉】で言った。○大吉備建比賣(おおきびたけひめ)。「建」というのは(普通は男の名だが)、兄の名によったのである。○建貝兒王(たけかいこのみこ)。「貝」の字を諸本みな「兒」と書いているのは誤りだ。ここで改めておいた。【書紀を参照すると、「貝」に間違いないからだ。下巻の他田の宮(敏達天皇)の段にある靜貝(しずかい)王、貝鮹(かいたこ)王、小貝(おかい)王などの貝の字も誤って「兒」と書いた例がある。】この名は、「卵(かいこ)」、または「蚕」などに由縁があるのか。書紀には「またの妃、吉備武彦の娘、吉備穴戸武媛(きびのあなどのたけひめ)は武殻(たけかいこ)王と十城別(とおきわけ)王を生んだ」とある。【この「殻」の字を今の本で「鼓」と書いてあるのは誤りである。すぐ次には「武卵王」とも書いてあるので、「殻」が正しいことは明らかだ。旧事紀で、これと別に「武養蠶(たけかいこ)命」という名を挙げているのも別人ではなく、この名の文字表記が違うだけだ。「殻」という字は、字書に「卵の甲(よろい)である」とあり、その意味で「かいこ」に使ったのである。文選の潘岳の西征の賦に、「危2素卵之累1レ殻(ソランのカイコをかさぬるよりあやうし)」などもある。「コウ(殻のへんの下の几が鳥)」、「コウ?(殻のへんの下の几が卵)」なども「かいこ」と読むが、やはり「殻」の字が正しいだろう。】○玖々麻毛理比賣(くくまもりひめ)。「玖々麻」は地名か。【和名抄に、上総国市原郡に、「菓麻」と書いて「くくま」と読む郷名がある。また書紀の仲哀の巻に「來熊田(くくまだ)造の祖云々」というのがある。】和名抄に、「山城国久世郡、栗隈【くりくま】郷」がある。【仁徳紀、推古紀に、「山背の栗隈の縣」とある。】それを縮めて【「り」を省いて】も言ったのだろうか。定かでない。「毛理」は「守」か「森」か、これも定かでない。なお、この媛は父の名も姓も伝わらなかったのだろう。○足鏡別王(あしかがみわけのみこ)。この「足」は「あし」と読む。【書紀に「蘆」と書かれているからだ。】名の意味は考えつかない。書紀にこの御子がないのは、落としたのである。というのは、仲哀の巻に「元年十一月、越の国から白鳥四羽を献上してきた。この鳥を送る使いが菟道(うじ)の河辺で宿った時、蘆髪蒲見別(あしかみかまみわけ)王が・・・天皇は蒲見別王の無礼を憎み、兵卒を遣わして殺させた。蒲見別王は、天皇の異母弟だった」とあるのはこの王で、名の伝えが少し違うのである。【ここで天皇の異母弟と言いながら、兄弟を挙げた中に入っていないのは前後が合わない。だから脱けたと言うのである。】旧事紀には倭建命の御子を挙げた中に「葦敢竈見別(あしかみかまみわけ)命」とある。【「敢」の字は「かん(旧仮名カム)」だから、「かみ」の仮名に用いてもおかしくない。また「髪」の誤りということもあり得る。】ところで書紀に「菟道(うじ)の河辺で宿った時」とあるのは、この王の母が山代国の人だから、その母のところに住んでいたのだろう。○又一妻は、師が「またあるみめ」と読んだのが良い。この段の初めに「又妾之子(またのみめのみこ)」とあったのと同じ。○息長田別王(おきながたわけのみこ)。「息長」は近江国の地名で、前【伝廿二の六十一葉】に出た。「田」の意味は分からない。【「おきながの」と「の」を添えても読めるが、息長帯比賣(おきながたらしひめ)命、その他も「の」を入れない例が多いから、ここもそれにならって読んだ。】書紀にはこの御子はない。○并六柱(あわせてむはしら)。書紀では違いがあって、七柱である。【それはこの記に出て来ない御子、布忍入姫命と十城別王、稚武彦王の名があり、息長田別王がなく、足鏡別王も、この巻では出ていないからだ。仲哀の巻に出ている蒲見別王を入れると八柱である。旧事紀では十五柱を挙げているが、それらのうち武卵王と武養蠶命、また五十日彦(いかひこ)王と伊賀彦(いがひこ)王は、それぞれ一人を二人とした誤りだろう。】

 

故帶中津日子命者。治2天下1也。次稻依別王者。<犬上君。建部君等之祖。>次建貝兒王者。<讚岐綾君。伊勢之別。登袁之別。麻佐首。官首之別等之祖。>足鏡別王者。<鎌倉之別。小津。石代之別。漁田之別之祖也。>

訓読:かれタラシナカツヒコのミコトは、アメノシタしろしめしき。つぎにイネヨリワケのミコは、<イヌカミのキミ、タケベのキミらがおや。>つぎにタケカイコのミコは、<サヌギのアヤのキミ、イセのワケのキミ、トオのワケ、マサのオビト、ミヤジのワケらがおや。>つぎにアシカガミワケのミコは、<カマクラのワケ、オヅのキミ、イワシロのワケ、フキタのワケのおやなり。>

口語訳:帶中津日子命は、後に天下を治めた。次に稻依別王は、<犬上君、建部君らの祖である。>次に建貝兒王は、<讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別らの祖である。>足鏡別王は、<鎌倉之別、小津(君)、石代之別、漁田之別の祖である。>

犬上君(いぬかみのきみ)。犬上は和名抄にある「近江国犬上【いぬかみ】郡」のことである。万葉巻十一【三十三丁】(2710)に「狗上之、鳥籠山爾有、不知也川(いぬかみの、とこのやまなる、いさやがわ)云々」とある。この王の母は近江国の人だったから、この姓には由縁がある。書紀にも「その兄、稻依別王は、犬上君、武部君、全部で二つの族の祖である」と見え、氏人は神功の巻に「犬上の君の祖、倉見別(くらみわけ)」、推古の巻に「犬上の君御田鍬(みたすき)」、孝徳の巻に「犬上の健部(たけべ)の君」、【この「健部」は名か。】斉明の巻に「犬上の君白麻呂(しろまろ)」などが見える。天武の巻に「十三年十一月、犬上の君に姓を与えて朝臣とした」、新撰姓氏録に【左京皇別】「犬上朝臣は諡景行の皇子、日本武尊から出た」とある。○建部君(たけべのきみ)。この「建部」という名は、書紀に「日本武尊は白鳥に化して・・・そこでその功名を伝えようとして武部を定めた。」と見え、出雲国風土記に「出雲郡健部(たけるべ)郷。健部と名付けたのは、纏向檜代宮で天下を治めた天皇の時、『私の子、倭健命の名を忘れまい』と勅して、健部を定めた。その時神門臣の古禰(ふるね)を健部と定めた。そのため健部臣は古くから今までここに住んでいる。だから健部という」【この神門臣古禰は、建部に定められたうちの一人である。建部はこの一人と限ったものではない。諸国にたくさんの建部がいた。】とあるのがそうである。「建(たけ)」というのは、倭建命の名から取ったわけだ。【このことは玉垣の宮の段に「子代」とあるところ、伝廿四の廿五葉で例を挙げて詳しく言った。】稻依別王は御子なので、その子孫が建部の輩を管掌した。そのため、建部君という姓を負うようになった。諸国に建部という地が多いのはこの建部の部民が住んだところで、【上記の出雲国風土記の記事で、他の所も準じて知るべきだ。】和名抄に「伊勢国安濃郡建部」、【この建部を「たけんべ(旧仮名タケムベ)」とあるのは、「たけるべ」の「る」を音便で「む」と発音したのだ。書紀にも「たけるべ」と仮名を付けている。これらを見ると、どれも「たけるべ」と読むように見えるが、名前の「倭建」も「たけ」と読んできたのだから、一般的にはやはり「たけ」と読むべきだろう。】美濃国多藝郡建部、出雲国出雲郡建部、美作国眞嶋郡健部、備前国津高郡健部、延喜式神名帳に「近江国栗太郡建部神社」などが見える。【この他にももっとあるだろう。】建部君氏もところどころにあったと思われるが、【旧事紀に「稚武王は近江の建部君の祖」、「武田王は尾張国丹羽郡の建部君の祖」と見え、また同書五に「阿努の建部君」というのもある。これは伊勢国の建部君だろう。】ここの建部君は、そのうちのどれか分からない。新撰姓氏録に、【右京皇別】「建部公は犬上朝臣と同祖、日本武尊の子孫である」と見える。【その氏人は、続日本紀十七に「建部公豊足」、廿七に「近江国志賀郡の人、建部公伊賀麻呂に朝臣の姓を与えた」、続日本後紀十七に「肥後国飽田郡の人、建部公弟u、男女ら五人に長統朝臣の姓を与えた。左京三條を本貫として与えた」などと見えるが、どの族か定かでない。続日本紀の廿五に「建部公人上ら十五人に朝臣の姓を与えた」とあるのは、垂仁天皇の子孫で、異姓である。そのことは同紀の卅八に見えて、伝廿四の廿二葉にも引いた。】○讚岐綾君)さぬぎのあやのきみ)。「綾」は和名抄の「讃岐国阿野【綾】郡」がそうだ。【今は綾北條、綾南條といって、二郡に分けている。】姓は書紀にも「武卵(たけかいこ)王は、讃岐の綾君の始祖である」とあり、天武の巻に「十三年十一月、綾君に姓を与えて朝臣とした」、続日本紀四十に「讃岐国阿野郡の人、綾公菅麻呂らが言上して『私たちの先祖は庚午年の後、己亥年に初めて朝臣の姓を賜り、これによって和銅七年以来、三比の籍をみな朝臣と記してきました。ところが養老五年に籍を作る時、遠く庚午年籍に溯って調べられ、朝臣の姓を削られました、百姓の憂いの甚だしいこと、これ以上のものはありません。どうか三比の籍および舊位記に基づいて、朝臣の姓を頂きたいとお願い申し上げます』と言った。これを許可した」<訳者註:「三比」の「比」は、岩波新日本古典文学大系本の注によると「比較すること」で、戸籍の改訂に当たって、既存の戸籍を参照したことを言う。この一族は、庚午年籍より後に朝臣姓となり、その後三度の戸籍改訂では直前の戸籍に基づき朝臣と記されていたが、養老五年の改訂で古い庚午年籍を参照されたため、その姓を削られたと訴えたのである。「旧位記」とは、彼らが朝臣姓を賜ったときの公式記録という。続日本紀には、戸籍改訂に伴うトラブルを訴えた話が多い。>続日本後十九に「讃岐国阿野郡の人、綾公姑繼、綾公武主らの本居を改めて、左京六條三坊を本貫とした」【日本霊異記に「讃岐国香川郡、坂田に一人の裕福な人がいた。夫妻は同姓で、綾君といった」とある。】などとある。新撰姓氏録には見えない。【讃岐国鵜足郡に讃留靈王(さるれいおう)という祠がある。その国に讃留靈記という古い書物があり、「景行天皇二年、南海に大魚の怪物が住んでいて、往来する船を悩ませていたが、倭建命の御子がこの国に下ってきて退治し、そのまま留まって国主となった。それで讃留靈王と呼んだ。これは綾氏、和氣氏の始祖である」と書いてある。あるいはこれを景行天皇の御子、神櫛王だとか、大碓命だとも言い伝える。讃岐の国主の初めは倭建命の御子、武卵(たけかいこ)王だと古い書物に出ているので、武卵王なのかもしれない。今でも国内に変事が起ころうとすると、この讃留靈王の祠が必ず鳴動すると、近年その国のことを書いた書物に書いてある。思うに、讃岐の国造の初めとすれば、神櫛王だろう。だが倭建命の御子と言い、綾君、和氣君の祖というのは、武卵王のようである。それにしても「さるれい」というのはどんな意味の名だろう。讃留靈と書くのは後人の当て字だろう。】○伊勢之別(いよのわけのきみ)。これはもと「伊豫之別君」だったのを、「豫」を「勢」に誤り、「君」を落としたのだろう。【だが後に誤ったようにも見えない。中頃誤って伝えたのか、阿禮が暗誦した時に誤ったのか、いずれにせよこの記が書かれる前からの誤りのように思われる。】というのは、和名抄に「伊豫国和氣【わけ】郡」があり、後に引く書紀の十城別(とおきわけ)王のことを考え合わせると分かる。新撰姓氏録にも、【右京皇別】「別公(わけのきみ)は、建部公と同氏」、【「建部公は日本武尊の子孫である」とある。】また【和泉国皇別】「和氣公は、犬上朝臣と同祖、倭建尊の子孫である」ともあるからだ。この「別(わけ)」は地名だから、その下には「君」とあるはずだ。【「某之別」とだけあったら、「別」というのは「かばね」になる。】○登袁之別(とおのわけ)。【「袁」の字は、諸本「亦」に誤っているが、ここでは真福寺本、延佳本によった。記中に、「袁」を「亦」に誤った例は、他にもある。】この地名は、物の本に見当たらない。思うに、書紀では武卵王の同母弟に十城別王があり、「これは伊豫別君の始祖である」とあるのは、この記と伝えが異なる。それはこの記を中心に見ると、本来「武卵王は登袁之別、伊豫別君の始祖」とあったのを、書紀は誤って登袁之別を別の一柱の御子の名【十城別王】とし、伊豫別君をその子孫としたのだろう。【そうなら、登袁は地名でなければならない。その地はさらに考える必要がある。】また書紀が正しいと考えるなら、十城別王をこの記では誤って登袁之別という姓として、伊豫別君もともに建貝兒王の子孫としたことになる。【そうであれば登袁は御子の名であるから、地名に違いないとは言えなくなる。】これはどちらが正しいか決められないが、どちらにせよその【名の】「十」とこの「登袁」とは、もとは同じだったと思われる。【以前は「袁」の字が写し誤りで、陸奥国の登米郡、備後国奴可郡の斗意郷、筑前国志摩郡の登志郷のどれかだろうと考えていたが、間違いだった。】○麻佐首(まさのおびと)。【「麻」の字は、真福寺本では「鹿」と書いてあるが、「佐」の字は仮名だから、上の字も仮名でなければおかしいだろう。もし「鹿」が正しいなら、「佐」が誤っているのか。しかしそれでも思い当たるものがないから、もとのままにしておいた。】地名も姓も思い付くものはない。○官首之別(みやじのわけ)。「官首」は二字ともに間違いなく誤写である。【書紀の孝徳の巻に「宮首阿彌陀」という名があるが、この「首(おびと)」は「かばね」である。続日本後紀四に「宮人朝臣」という姓の人が見える。「首」は続日本紀に「ひと」ともあるから、これかと思ったがそうではない。常陸国鹿嶋郡に宮前郷、続日本紀四十に、住んでいるところによって宮原宿禰という姓を与えたという記事もあり、これらの地名かと思ったが、みなそうではない。】たぶん「宮道(みやじ)」だろう。というのは、旧事紀に「稚武王は、近江の建部君、宮道君の祖」とあるのがそうだ。それをこの記と相照らして見ると、稚武王と言ったのは、例の兄弟間の伝えの紛れで、宮道君の祖は武貝兒王なのだろう。【景行天皇の子で「宮道別皇子」という名も書紀に見える。これもあるいは上記の十城別王のたぐいで、宮道之別と取り違えたのではないだろうか。】その地は、和名抄に「参河国寶飫郡、宮道【みやじ】郷」とあるのがそうだ。【宮道山というのもそこである。】この姓は【新撰姓氏録には見えないが、】続日本後紀四に「宮道宿禰吉備麻呂、同姓の吉備繼らに朝臣姓を与えた」と見え、【この氏は、はじめは「別」のかばねだったのが、君になり、宿禰になったことが、これ以前にあったのだろう。】三代実録三十に、「宮道朝臣彌u」という人が見え、【これは醍醐天皇の外祖母の父である。新国史に「延喜十一年、山科の神二前は、宮道氏内藏少允、宮道良連らの解(げ)によれば彼らの伴の氏神だと言う。考えるに、醍醐天皇の外祖母は、宮道氏の祖なのだろう」とある。延喜式神名帳に「山城国宇治郡、山科神社二座、並びに大、月次・新嘗」とある。この神社は勧修寺村にあり、宮道大明神と言っている。あるいは建貝兒王などを祭っているのではないか。】○足鏡別王(あしかがみわけのみこ)。前後の例からすると、この前に「次」の字があるはずだが、脱けたのだろうか。○鎌倉之別(かまくらのわけ)は和名抄の「相模国鎌倉【かまくら】郡、鎌倉郷」がそれだろうか。姓については考えがない。【旧事紀には「葦敢竈見別(あしかみかまみわけ)命は、竈口君らの祖」とある。】○小津石代之別(おづのきみいわしろのわけ)。このように地名を二つ重ねたのは記中、他に例がないので、【国名を重ねたのは別である。】小津の下に「君」の字が脱けたのか、それとも「石」の字が「君」の誤りで、「代」の字の上に脱字があるのか。いずれにせよ「小津君」で一つの姓だろう。次に引く旧事紀に「尾津君」があるからだ。小津という地名は、あちこちにあるが、これは延喜式神名帳に「近江国野洲郡、小津神社」があり、この地ではないだろうか。定かではない。姓も他には考えがない。石代は紀伊国日高郡の磐代か。【万葉巻一(10)、巻二(141、143、144、146)、巻七(1343)に歌がある。】これも定かでない。姓についても考えはない。上記のように「石」が「君」の誤りで、「代」の上に文字が脱けているとすれば、考える手がかりもない。○漁田之別(ふきたのわけ)。「漁」の字は、間違いなく誤りだ。だが何の字を誤ったのか、考える手がかりがない。ただ旧事紀に「稚武彦命は尾津君、揮田(ふきた)君、武部君の祖」とあるが、稚武彦命というのは例の兄弟間の伝えを取り違えたもので、この「揮田」ではないだろうか。尾津君も関係があるからだ。【もしこれだとすると「ふきた」である。皇極紀に「劔を揮(ふき)」と見え、この紀の神代巻で「後手(しりえで)にふき」とあるのを書紀では「背揮(しりえでにふき)」と書いてある。「ふり」を古言で「ふき」と言った。万葉巻九(1766の詞書)には「振田向(ふきたのむく)宿禰」という人名も見える。<訳者註:岩波日本古典文学大系本では「ふるのたむけのすくね」と読んでいる。>新撰姓氏録に吹田連という名があるが、これは「ふきた」ではない。「吹」の字は「次」の誤りで、本来「すぎた」なのだが、音便で「すいだ」と言っている。三代実録六に「次田連」とあるのがこれである。】ただしこれも覚束ないことではあるが、【もし「ふきた」だったら「吹」または「振」などの字を書くはずだが、「揮」というのは、この記の文字使いの例から外れた感じがする。かといって「吹」、「振」などの字を誤ったとも思えない。】他に考えもないし、「漁田」ではどうにも読みようがない。【旧印本で「すがた」という訓を付けたのは、たぶん誰かが「すなどり」という訓を考えて「すなだ」と読んだ本があり、その「な」を「が」に誤ったのだろう。延佳本でも「すがた」と読んでいるのは、読みようがないため、旧印本の読みをそのまま付けたのだ。どれも言うに足りない。】とりあえず「ふきた」と読んでおいた。更に考察の必要がある。○上記の他にも倭建命の子孫の氏は、新撰姓氏録に「縣主は和氣公と同祖、日本武尊の子孫である」、「聟木は倭建尊の三世の孫、大荒田命の子孫である」【この「木」は、一本には「本」とある。】などがある。

 

次息長田別王之子。杙俣長日子王。此王之子。飯野眞黒比賣命。次息長眞若中比賣。次弟比賣。<三柱>

訓読:つぎにオキナガタワケのミコのミコ、クイマタナガヒコのミコ、このミコのミコ、イイヌマグロヒメのミコト、つぎにオキナガマワカナカツヒメ、つぎにオトヒメ。<みはしら。>

口語訳;次に息長田別王の子は杙俣長日子王である。この王の子は飯野眞黒比賣命、次に息長眞若中比賣、次に弟比賣。<三柱だった。>

杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)。杙俣は地名で、和名抄に「摂津国住吉郡、杭全【久末多(くまた)】郷」とあるのがそうだ。【「くまた」とあるのは、「久」の下に「比」の字が脱けたのだろう。初めから「くまた」だったら、「杭」の字を書くことはないからだ。とすると、和名抄を根拠にここの「杙」を「く」と読むのは、かえって間違っている。この記は、「く」に「杙」などを書くことは例がない、後の文では「咋」の字を用いている。】○飯野眞黒比賣命(いいぬまぐろひめのみこと)。「飯野」は和名抄に「伊勢国飯野郡」、また延喜式神名帳に「同国河曲郡、飯野神社」などがある。これらのうちのどこかの地名だろう。女性の名に「黒」という字があるのは、前に「訶具漏比賣(かぐろひめ)」のところ【伝二十六の十二葉】で言った。この兄弟三人の女王のうちで、この人だけが「命」とあるのはどういう理由があるのか。【次に出た時には「命」の字がない。】○息長眞若中比賣(おきながまわかなかつひめ)。「中」は「なかつ」と読むのが通例だ。【このとき、「津」の字を添えて書くこともあれば、省いて書くこともある。】第二の娘だったから、中の比賣と言ったのだ。この人は應神天皇の妃になったので、その段に出ている。さらのそこ【伝卅二の??葉】で言う。○弟比賣(おとひめ)。この名に特別なことはない。若沼毛二俣(わかぬけふたまた)王の妻で、明の宮(應神天皇)の段の終わりに出る。さらにそこ【伝卅四の??葉】で言う。○三柱。諸本に「二柱」とあるのは、写し誤ったのだろうが、延佳本に「三柱」とあるのは、訂正したのだろう。ここはそれによった。

 

故上云若建王。娶2飯野眞黒比賣1生子。須賣伊呂大中日子王。<自レ須至レ呂以レ音。>此王娶2淡海之柴野入杵之女柴野比賣1生子。迦具漏比賣命。故大帶日子天皇娶2此迦具漏比賣命1。生子大江王。<一柱>此王。娶2庶妹銀王1生子。大名方王。次大中比賣命。<二柱>故此之大中比賣命者。香坂王忍熊王之御祖也。

かれカミにいえるワカタケのミコ、イイヌマグロヒメにみあいてウミませるミコ、スメイロオオナカツヒコのミコ。このミコ、オウミのシバヌイリキがむすめシバヌヒメにみあいてウミませるミコ、カグロヒメのミコト。オオタラシヒコのスメラミコトこのカグロヒメのミコトをめして、ミコ。オオエのミコをうみましき。<ひとはしら。>このミコ、ままもシロカネのミコにみあいてウミませるミコ、オオナガタのミコ、つぎにオオナカツヒメのミコト。<ふたはしら。>かれこのオオナカツヒメのミコトは、カゴサカのミコ。オシクマのミコのみおやにます。

上云(かみにいえる)。こう言った例は軽嶋の宮の段の末にある。また伊邪河の宮の段に「上所謂」ともある。ここは息長田別王まで、初めに挙げた順序に従って挙げたが、この若建王はその順序とは違うからだ。【そもそも初めに書いた順序と違って、若建王をここで書いたのは、通例のようにその子孫の姓を挙げるためではない。だが息長田別王も、子孫の姓を挙げたのではなく、ここと同じなのに、そちらを先に書いたのはなぜかと言うと、それは初めの順序に従って書いてくると、当然息長田別王のところになるので、そのまま書いたのだ。しかしそれでも順序を正すなら、息長田別王は、この若建王の後に書くべきである。だがよく考えると、飯野眞黒比賣の名を出す前に息長田別王について言っておかなければおかしくなるだろう。】○飯野眞黒比賣(いいぬのまぐろひめ)は、若建王の甥の子である。○須賣伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)は前に出た。【伝廿六の十二葉】○柴野入杵(しばぬいりき)。【「柴」の字は、諸本で「此等」の二字に誤っている。それは「等」を草書で「ホ」(に似た字形)を書くことから出た誤りだ。ここでは真福寺本、延佳本によって書いた。娘の名の「柴」の字も同じである。】柴野は近江の地名だろう。【現在その国にこの名が残っていないか、調べる必要がある。】「いり」は「いろ」と通う。そのことは前【伝廿一の十葉】で言った。「き」は「君」だろう。崇神天皇の御子に「大入杵(おおいりき)命」という名があった。○柴野比賣(しばぬひめ)。名の意味は上記と同じ。○迦具漏比賣命(かぐろひめのみこと)。前に出た。【伝廿六の十二葉】○「大帶日子天皇娶云々」は、伝えに取り違えがあり、前に論じた。【伝廿六の十三葉】参照せよ。○大江王(おおえのみこ)も前に出た。【伝廿六】これは、実は日子人之大兄(ひこひとのおおえ)王なのが取り違えられていることも、前に述べた通りだ。【「江」は前には「枝」と書いてあった。】○庶妹は「ままいも」と読む。【「あらめいろと」などと読むのは間違いだ。】新撰字鏡に「テイ?(白+丁)は『ままいも』」とある。【「テイ?(白+丁)」の字は納得できない。】一般には「庶」の字を「まま」と読むべきことは、白檮原の宮の段に「庶兄(まませ)」とあったところ【伝廿の卅九葉】で言った通りだ。【「庶」の字の意味には関係なく、単に異母の意味である。】○銀王(しろかねのみこ)。景行天皇の子には、この記でも書紀でも、この名は全く見えない。ただこの系譜にはいろいろと取り違えや混同があると思われ、大江王自体も疑わしいから、【まず大江王は日子人之大兄王のことなのに、その日子人之大兄王は、書紀では仲哀の巻に見えて、この巻では出て来ないから、これは兄の五百木之入彦命と紛れて落としたのだろうことは、前に言った通りである。とするとここの大江王の娘の大中比賣も、その五百木之入彦命の孫の中津比賣と紛れ、その父の大江王も中津比賣の父である品陀眞若(ほんだまわか)王と混同された可能性がある。もしそういう取り違えがあったのなら、この銀王は、五百木之入彦命の娘で、品陀眞若王の庶妹だったかも知れない。】これ以上はがんばっても明らかにできない。そのうえ名前も何だか聞き慣れない感じであり、字が誤っているのではないだろうか。【師は「銀は鏡の誤りではないか」と言った。あるいは「鐸」の字を草書で「鈬」のように書くのを写し誤ったか。もしそうなら「ぬて」と読むべきだ。それは大江王の異母妹に「沼代郎女」という名があり、前に見えたが、そこでは「ぬのしろ」と読んでおいたが、これが「ぬて」なのかも知れない。そのことは伝廿六の十葉で言った。考え合わせよ。しかしこれらもやはり「どれが正しい」と断定できないから、とりあえず「銀」の字のまま「しろかね」と読んでおく。】○大名方王(おおながたのみこ)。「名方」は「長田」と同じで【允恭天皇の娘の長田大郎女も書紀で「名形大娘」と書かれているようなものだ。】地名だろう。摂津国八田部郡の長田(神戸市長田区)ではないだろうか、【この地名は、他にも国々にある。】○大中比賣命(おおなかつひめのみこと)。【延佳本では「中」の下に「津」の字があるが、訶志比の宮(仲哀天皇)の段にそう書いてあるので、さかしらに改めたのだろう。「中津」という名は、「津」の字を省いて書くことも普通だから、この字がなくても何の差し支えもない。ここでは諸本にそれがないのに従った。この次に出るこの名は、延佳本では誤って「比賣」の二字を落としている。】書紀には「叔父彦人大兄の娘」とある。これこそ正しい伝えである。【そのことは伝廿六の十三葉、十四葉で言った通りだ。】仲哀天皇の后になった人で、その段に見える。○香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)のことは、訶志比の宮の段で言う。【伝卅の???】○御祖(みおや)。一般に古言で母を「御祖」と言ったことは、上巻【伝十の十六葉】で述べた。ここは「爲2帯中日子天皇之后1(たらしなかつひこのすめらみことのきさきとなりたまう)」などの文があるべきところだが、それはなく、単に御子たちの名を挙げてこう言ったのは、この御子たちが名高かったからだろう。だから「その王の御祖」と言えば、仲哀天皇の后だったことは自明だったのだ。

 

此大帶日子天皇之御年壹佰參拾漆歳。御陵在2山邊之道上1也。

訓読:このオオタラシヒコのスメラミコトのみとしモモチマリミソナナツ。みはかはヤマノベのミチのえにあり。

口語訳:この大帶日子天皇は、崩じた時百三十七歳だった。御陵は山邊の道の付近にある。

御年百三十七歳。書紀には「六十年冬十一月乙卯朔辛酉、天皇は高穴穂の宮で崩じた。この時百六歳だった」とある。【「高穴穂の宮で崩じた」というのは、「五十八年春二月、近江国に行幸し、志賀に三年住んでいた。そこを高穴穂の宮という」とあるのがそうだ。ところで、父の天皇の三十七年に「皇太子となった。この時年廿」とあるのから計算すると百四十三歳のはずだが、百六歳とあるのは大きく違う。もし崩じた時百六歳だったら、立太子の時はまだ生まれていなかったことになる。】ある本には百十三とある。【これは立太子の時から数えて百四十三と書いてあったのが、後に「四」の字が落ちたのである。】○山邊之道上(やまのべのみちのえ)。この地は崇神天皇の「山邊の道の勾の岡の上の御陵」のところ【伝廿三の九十六から九十八葉で言った。】書紀の成務の巻に「二年冬十一月癸酉朔壬午、大足日子天皇を倭国の山邊の道の上の陵に葬った」とあり、諸陵式に「山邊の道上の陵は、纏向日代の宮で天下を治めた景行天皇である。大和国城上郡にある。兆域は東西二町、南北二町。陵戸一烟」とあり、大和志に「柳本村の東にある。『みささぎ』と言っている。陵のほとりには塚が六つある」という。【一説に「山邊郡上總村の東にある。里人は「王墓山」と言い、この辺りは山邊と城上の二郡の境である」という。大和志では、これを「荒墳(荒れ果てた墓)」の中に入れており、前記の柳本村の東にあるのとは別である。どちらがこの御陵なのか、定かでない。】この御陵についても、上記の勾の岡の上の御陵のところで言った。参照せよ。

 



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