『古事記傳』32

三十二之巻(明の宮の段−上)

品陀和氣命。坐2輕嶋之明宮1。治2天下1也。此天皇。娶2品陀眞若王<品陀二字以レ音>之女。三柱女王1。一名。高木之入日賣命。次中日賣命。次弟日賣命。<此女王等之父。品陀眞若王者。五百木之入日子命。娶2尾張連之祖。建伊那陀宿禰之女。志理都紀斗賣1。生レ子者也。>故高木之入日賣命之子。額田大中日子命。次大山守命。次伊奢之眞若命。<伊奢二字以レ音>次妹大原郎女。次高目郎女。<五柱>中日賣命之御子。木之荒田郎女。次大雀命。次根鳥命。<三柱>弟日賣命之御子。阿倍郎女。次阿具知能<此四字以レ音>三腹郎女。次木之菟野郎女。次三野郎女。<五柱>又娶2丸邇之比布禮能意富美之女。<自レ比至レ美以レ音>名宮主矢河枝比賣1。生御子。宇遲能和紀郎子。次妹八田若郎女。次女鳥王。<三柱>又娶2其矢河枝比賣之弟袁那辨郎女。生御子。宇遲之若郎女。<一柱>又娶2咋俣長日子王之女。息長眞若中比賣1。生御子。若沼毛二俣王。<一柱>又娶2櫻井田部連之祖嶌垂根之女。糸井比賣。生御子。速總別命。<一柱>又娶2日向之泉長比賣。生御子。大羽江王。次小羽江王。次幡日之若郎女。<三柱>又娶2迦具漏比賣。生御子。川原田郎女。次玉郎女。次忍坂大中比賣。次登富志郎女。次迦多遲王。<五柱>又娶2葛城之野伊呂賣1。<此三字以レ音>生御子。伊奢能麻和迦王。<一柱>此天皇之御子等。并廿六王。<男王十一。女王十五。>此中大雀命者。治2天下1也。

 

訓読:ホムダワケのミコト、カルシマのアキラのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、ホムダのマワカのミコのみむすめ、みはしらのヒメミコにみあいませる。ひとはしらのミナはタカギのイリビメのミコト。つぎにナカツヒメのミコト。つぎにオトヒメのミコト。<このヒメミコたちのミちち、ホムダのマワカのミコは、イオキイリビコのミコト、オワリのムラジのおや、タケイナダのスクネのむすめ、シリツキトメにみあいて、ウミませるミコなり。>かれタカギのイリビメのミコト」のミコ、ヌカタのオオナカツヒコのミコト。つぎにオオヤマモリのミコト。つぎにイザのマワカのミコト。つぎにいもオオハラのイラツメ。つぎのコムクのイラツメ。<いつはしら>ナカツヒメのミコトのミコ、キのアラタのイラツメ。つぎにオオサザキのミコト。つぎにネトリのミコト。<みはしら>オトヒメのミコトのミコ。アベのイラツメ。つぎにアワジのミハラのイラツメ。つぎにキのウヌのイラツメ。つぎにミヌのイラツメ。<いつはしら>またアwニのヒフレのオオミのむすめ、ナはミヤヌシヤカワエヒメをめして、ウミませるミコ、ウジのワキイラツコ。つぎにいもヤタのワキイラツメつぎにメドリのミコ。<みはしら>またそのヤカワエヒメのおとオナベのイラツメをめして、ウミませるミコ、ウジノワキイラツメ。<ひとはしら>またクイマタナガヒコのミコのむすめ、オキナガマワカナカツヒメをめして、ウミませるミコ、ワカヌケフタマタのミコ。<ひとはしら>またサクライのタベのムラジのおや、シマタリネのむすめ、イトイヒメをめして、ウミませるミコ、ハヤブサワケのミコト。<ひとはしら>またヒムカのイズミのナガヒメをめして、ウミませるミコ、オオハエのミコ。つぎにオハエのミコ。つぎにハタビのワキイラツメ。<みはしら>またカグロヒメをめして、ウミませるミコ、カワラダのイラツメ。つぎにタマのイラツメ。つぎにオサカのオオナカツヒメ。つぎにトオシのイラツメ。つぎにカタジのミコ。<いつはしら>またカヅラキのヌイロメをめして、ウミませるミコ、イザのマワカのミコ。<ひとはしら>このスメラミコトのミコたち、あわせてはたちまりむはしら。<ヒコミコとおまりひとはしら。ヒメミコとおまりいつはしら。>このなかにオオサザキのミコトは、アメノシタしろしめしき。

 

口語訳:品陀和氣命は、軽嶋の明の宮にすんで、天下を治めた。この天皇は、品陀眞若王の娘三人を娶った。一人は高木之入日賣命、次が中日賣命、次が弟日賣命という。<この娘たちの父、品陀眞若王は、五百木之入日子命が尾張の連の祖、建伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗賣を娶って生んだ子である。>その高木之入日賣命の子は、額田大中日子命、次に大山守命、次に伊奢之眞若命、次は妹の大原郎女、次に高目郎女の五人である。中日賣命の子は、木之荒田郎女、次に大雀命、次に根鳥命の三人である。弟日賣命の子は、阿倍郎女、次に阿具知能三腹郎女、次に木之菟野郎女、次に三野郎女の五(四)人である。また丸邇の比布禮能意富美の娘、宮主矢河枝比賣を娶って生んだ子は、宇遲能和紀郎子、次に妹の八田若郎女、次に女鳥王の三人である。またその矢河枝比賣の妹、袁那辨郎女を娶って生んだ子は、宇遲之若郎女である。また咋俣長日子王の娘、息長眞若中比賣を娶って生んだ子は、若沼毛二俣王である。また櫻井の田部連の祖、嶌垂根の娘、糸井比賣を娶って生んだ子は、速總別命である。また日向の泉長比賣を娶って生んだ子は、大羽江王、次に小羽江王、次に幡日之若郎女の三人である。また迦具漏比賣を娶って生んだ子は、川原田郎女、次に玉郎女、次に忍坂の大中比賣、次に登富志郎女、次に迦多遲王の五人である。また葛城之野伊呂賣を娶って生んだ子は、伊奢能麻和迦王である。この天皇の御子は、合わせて二十六人<男十一人、女十五人>だった。このうち、大雀命は後に天下を治めた。

 

この天皇の後の漢風の諡は應神天皇という。○輕嶋(かるしま)は大和国高市郡の輕である。この地は既に境岡の宮の段【伝廿一の十七葉】で出た。「嶋」とは、海中の嶋でなくとも、周囲に広がる限定した地域を呼ぶ。秋津嶋、師木嶋などの例がある。【このことは、私の國號考の秋津嶋、師木嶋のくだりで詳しく述べている。】○明宮(あきらのみや)は、続日本紀卅二に「輕嶋の豊明の宮で天下を治めた天皇の御世」、同四十に「輕嶋の豊明の朝」、摂津国風土記に「輕嶋の豊阿岐羅(あきら)の宮で天下を治めた天皇の世」などと見える。【山城国風土記、古語拾遺、日本霊異記の序などにも「豊明の宮」とある。この記と日本書紀では「豊」と言わない。上記の摂津国風土記の記事から、「明」は「あきら」と読むことがはっきりする。「あかり」と読むのは誤りである。なお三代実録十六に「大和国朝日豊明姫、抜田の神」という神名(所在不明)が見える。】書紀には、四十一年に天皇が明の宮で崩じたことのみ見え、初めにこの宮に住んだことが出ていないが、漏れたのだろう。○品陀眞若王(ほむだのまわかのみこ)は、河内の品陀に住んでいたのだろう。【この地のことは、伝卅の六葉で言った。この他仁賢天皇の御子にも眞若王というのがいる。】○三柱女王(みはしらのひめみこ)。この女王たちの母は、眞若王の母の妹だと旧事紀にある。【次に引用する。】○高木之入日賣命(たかぎのいりびめのみこと)。景行天皇の娘に、高木比賣命がある。【それを書紀で高城入姫命としているのは、この女王の名と混同したのだろう。】○中日賣命(なかつひめのみこと)、弟日賣命(おとひめのみこと)。これらの名は、取り立てて言うべきことはない。○細注の五百木之入日子命(いおきのいりびこのみこと)は、景行天皇の御子で、その段に見える。【伝廿六の八葉】○尾張連(おわりのむらじ)は前に出た。【伝廿一の二十一葉】○建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)は、旧事紀に建稻種命(たけいなだねのみこと)とある。饒速日命の十一世の孫、乎止與命(おとよのみこと)の息子で、母は尾張の大印岐(おおいなぎ)の娘、眞敷刀婢(ましきとべ)とある。【ただし、尾張連の祖は火明命なのに、饒速日命と言っているのは偽りである。このことは前に述べた。】○志理都紀斗賣(しりつきとめ)。名の意味は地名によるか。書紀の安閑の巻に「備後国後城(しつき)」、和名抄に「備中国後月【七豆木(しつき)】郡」【これは同じ地だろう。いずれも「後」の字を書いているのは、もとは「しりつき」と言ったのではないか。「七」の字を書いたのも、単に「し」と言ったのではないからだろう。】などが見える。「斗賣」は前【伝八の廿八葉】に出た。旧事紀には「饒速日命の十二世の孫、建稻種命は、邇波縣君(にわのあがたのきみ)の祖、大荒田の娘、玉姫を妻として、二男四女を生んだ。十三世の孫、尻綱根(しりつなね)命、妹の尻綱眞若刀婢(しりつなまわかとべ)である。この命は、五百城入彦命の妻となって、品陀眞若王を生んだ。次の妹は金田屋野姫(かねたやねのひめ)命。この命は、甥に当たる品陀眞若王の妻として、三人の女王を生んだ。これが高城入刀婢命(たかぎいりとべ)、次に中姫(なかつひめ)命、次に弟姫命である。この三人は、いずれも譽田天皇の后妃となり、十三人の皇子を生んだ」とある。ここで兄と妹がともに「尻綱」とあるが、「綱」の字は「調」を誤ったのだろうか。【尻綱根命は、上記の新撰姓氏録にある尻調根命と同じ人物のように思われるからである。延喜式神名帳には「備前国御野郡、尾治針名眞若比女神(おはりはりなまわかひめ)神社<訳者註:今は『おじはりなまわかひめ』という読みが一般的>」がある。】ここの細注は、他の例から見ると、日代の宮の段にあるべきで、「五百木入日子命は〜を娶って品陀眞若王を生み、この王の娘の三柱の女王、一人の名は云々」などとあるのが普通だが、ここにあるのは異例である。しかし後に書き加えたようでもなく、初めからこうだったように見える。○故高木之入日賣命之御子(かれたかぎのいりひめのみことのみこ)。諸本に「命」の字はない。師(賀茂真淵)は「命生御子」とあるべきところを、「命生」の二字を落としたのだと言った。ここで次に続く例を考えると、「中日賣命之御子云々」、「弟日賣命之御子云々」とあるから、ここにも「命」の字はなければおかしいだろう。だからここでは補っておいた。【「生(うむ)」の字は、次の二柱の女王にもないから、ここもなくても差し支えない。だが師が言ったのは、「この部分で『三柱の女王』というところから『伊奢之眞若命』というまでの文は、ここまでの例から見るとずいぶん異なっており、乱れた本を書き写すうちに、後にはこのように書き揃えたのだろう。三柱とも『之御子』とあるが、『之』は『生』とあるのが通例だ」ということだ。実際、ここの書き方は、「某の娘、某を娶って、生んだ御子が誰それ」とは言っておらず、また細注の書き方も、他の例とは異なっている。しかし乱れた文というわけでもなく、後代の人が書き変えたようでもない。初めからこういう文だったのだろう。それでも悪くはない。またこの書き方であれば、「生」ということはなくてもいいだろう。】また「御子」の二字も、多くの本にはないのだが、真福寺本に「子」とある。延佳本だけが「御子」としている。【「御」の字は、そのとき延佳が加えたのか。ともかく、後の例から見ても「御子」とあるのが普通だろう。】○額田大中日子命(ぬかたのおおなかつひこのみこと)。「額田」は地名で、あちこちにあるが、和名抄の「大和国平群郡、額田【ぬかた】郡」というのがそうだろうか。書紀の仁徳の巻に、額田大仲彦(ぬかたのおおなかつひこ)皇子が「倭の屯田を掌ろうとした云々」という事件があった。【これを大山守命のことだという説は、かえって間違っている。】また六十二年に、この御子が闘鶏(つけ)で狩りをして、氷室を見た記事がある。和名抄に「河内国河内郡、額田【ぬかた】郷」があり、これかも知れない。河内は母方に縁がある。【ある人は、今の額田村にこの皇子の社があるという。<訳者註:額田村は近鉄奈良線の額田駅付近である。額田神社に大中彦を祭っていたが、現在は枚岡神社の末社に合祀されている。>】○大山守命(おおやまもりのみこと)。この名のことは、後で出るところで言う。○伊奢之眞若命(いざのまわかのみこと)。崇神天皇の子に、同名の人がある。【伝廿三の七葉で出た。】○大原郎女(おおはらのいらつめ)。大和国高市郡に大原がある。万葉巻二に歌(103)がある。【「大原乃古爾之郷爾(おおはらのふりにしさとに)云々」。これは天武天皇が藤原夫人(五百重娘)に贈った歌である。藤原夫人は「字(あざな)を大原の大刀自という」と万葉巻八に見える。今も大原村がある。】○高目郎女(こむくのいらつめ)。この名は、師が「こむく」と読んだのに従う。「高」の字は、記中で「高志(こし)」など、「こ」の仮名に用いた例である。【「目」は「もく」とも読める。しかし巻向を万葉で「巻目」とも書いているから、「むく」と読んで良い。】これは地名で、和名抄に「河内国石川郡、紺口(こむく)郷」、延喜式神名帳に「咸古(こむく)神社」(現大阪府富田林市)などがある地である。書紀の仁徳の巻に「十四年、咸玖(こむく)に大溝を掘って云々」、應神の巻(二年)では「これ以前に、天皇は皇后の姉、高城入姫を妃として、額田大中彦皇子、大山守皇子、去來眞稚(いざのまわか)皇子、大原皇女、コム(さんずいへん+勞)來田(こむくた)皇女を生んだ」【今の本では、コム來田の「來」の字が脱けている。コムは字書に「潦(雨水などが溜まる)と同じで、積水(水が溜まる意味か)である」とも「淹(滞流)である」とも注される。仁徳紀(十一年)に「北河のコミ(さんずいへん+勞)を防ぐために茨田の堤を築いた」とある。<訳者註:岩波古典文学大系本の注によると、この記事の「コミ」は滞流そのものでなく、そこに溜まった塵芥のことで、後に濁音化して「ごみ」と言うようになったという。>】○木之荒田郎女(きのあらたのいらつめ)。延喜式神名帳に「紀伊国那賀郡、荒田神社」がある。この地名に因む名だろう。【和名抄に、「同郡、荒川郷」があるが、この「川」は「田」を誤ったのではないだろうか。】○大雀命(おおさざきのみこと)。書紀の仁徳の巻に「天皇が生まれた日に、木菟(つく:みみずく)が産殿に飛び込んできた。明くる朝、譽田天皇は大臣武内宿禰を呼んで、「これは何かの瑞(しるし)か」と尋ねた。大臣は答えて、『吉祥です。実はその同じ昨日に、臣の妻も子を生みましたが、鷦鷯(さざき:ミソサザイ)が産屋に飛び込んできました。これもまた奇異なことですね』。そこで天皇は、『今朕の子と大臣の子が同日に生まれ、いずれも同じような瑞があった。これは天の知らせだろう。だからその鳥の名を取り、それぞれ子の名を取り替えて、後葉(後世)の契りにしようと思う』と言った。そこで鷦鷯の名を取って太子を大鷦鷯皇子と言う。また木菟の名を取って、大臣の子を木菟宿禰と言う」とあり、これが名の由縁である。和名抄に「鷦鷯は『さざき』、文選の鷦鷯の賦にいわく、鷦鷯は小さい鳥である。蒿(よもぎ)とライ(くさかんむり+來:あかざ)の間(荒野のことか)に生まれ、藩籬(家の周りの守りとなるところ)のもとで成長する」、新撰字鏡に「鷯は『かやくき』、また『さざき』とも言う」、高津の宮の段の歌に「佐邪岐登良佐泥(さざきとらさね)」とある。○根鳥命(ねとりのみこと)。名の意味は思い付かない。この王の子孫は、最後の方に見える。【伝卅四の六十二葉】書紀には「二年春、仲姫を立てて皇后とした。皇后は荒田皇女、大鷦鷯天皇、根鳥皇子の三人を生んだ」とある。○阿倍郎女(あべのいらつめ)。「阿倍」は地名である。この地については、境原の宮の段、阿倍臣のところで言った。【伝廿二の七葉】○阿具知能三腹郎女(あわじのみはらのいらつめ)。「阿具知」は、書紀に「淡路」とあるから、「具」の字は「波」の誤り【草書では波と具と似ている。<訳者註:私の目には似ているように見えない。それぞれの字形は「波」(http://www013.upp.so-net.ne.jp/santai/jpg/0778.jpg)、「具」(http://www013.upp.so-net.ne.jp/santai/jpg/0214.jpg)を参照のこと。>】かと思ったが、「あわじ」は記中では普通「淡道」と書いてあるのに、ここだけが仮名書きになっているのは疑問である。【あるいは、もとは「阿波知」となっていたのを、「波」を「具」と書いた本があり、阿禮はその本を見て、字のままに「具」と誦したため、こう書いたのではないだろうか。】そのため、取りあえず元の通りに書いておいた。だが「あぐち」という言葉は納得できないから、読みは書紀の例によった。和名抄に「淡路国三原【みはら】郡」がある。○木之菟野郎女(きのうぬのいらつめ)。紀伊国伊都郡に、宇野という地が今もある。ここだろう。【書紀の欽明の巻に、河内国更荒郡、ウ(廬+鳥、茲+鳥:二字)野邑というのが見えるが、ここに「木之」とあるから、それではないだろう。】○三野郎女(みぬのいらつめ)は美濃国に因む名か。書紀には「皇后の妹、弟姫は、阿倍皇女、淡路御原皇女、紀之菟野皇女の三人を生んだ」とあって、この女王はない。【だが「この天皇の男女(息子と娘)は、合わせて二十柱だった」とあるのには数が足りず、十九人の名が見えるから、三野郎女の名が、後に漏れたのだろう。ところがそれを一本に三野郎女という名があるのは、また後に誰かが加えたものだろう。郎女は、書紀ではみな皇女と書いてある例と違っているからだ。旧事紀の五には、弟日賣命が生んだ子には、菟野皇女の後に、大原皇女と滋原皇女があって、合わせて五人となっている。】○五柱というのは、数が違っている。【あるいは一人の名を抜かしたかとも思ったが、そうではない。】この後に「女王十五」とあるのにも合わない。「五」は「四」の誤りだろう。このうちの中比賣、弟比賣の生んだ子に、菟野皇女の次に、畿内の国でもない紀国や淡路などを何しているのは、どういう理由からだろうか。○丸邇之比布禮能意富美(わにのひふれのおおみ)。「丸邇」は姓である。この姓は、伊邪河の宮の段で出た。【伝廿二の四十六葉】「比布禮」は名だが、その意味は思い付かない。「意富美」は名に付けて言う一つの号である。このことは下巻、穴穂の宮の段の「都夫良意富美(つぶらおおみ)」のところで言う。【この名は、書紀では「和珥臣(わにのおみ)の祖、日觸使主(ひふれのおみ)」とあるので、「意富美」は「使主」のことだろうかという疑いがあるが、そうではない。「意富美」と「臣」、「大臣(おおおみ)」と「使主」は、取り違えた例が時々ある。この取り違えのこと、「使主」のことは、下巻、穴穂の宮の段の「都夫良意富美(つぶらおおみ)」のところ、伝四十の十七葉で言う。】この名については、下巻高津の宮(仁徳天皇)の段、師木嶋の宮(欽明天皇)の段に紛らわしい記事がある。そのことはそこで言う。【伝四十の十七葉】○宮主矢河枝比賣(みやぬしのやかわえひめ)。【「河」を「阿」と書いた本もある。誤りである。】「宮主」は、【師は「みやじ」と呼んだが、それは後に「宮主(みやじ)」という神職があり、そう読むからだろうが、ここは字のままに「みやぬし」と読むべきである。】上巻にも「稻田宮主(いなだのみやぬし)云々」という名があった。【それは名の由縁がはっきりしているのだが、】これはどういう由縁で付けた名なのか、定かでない。「八河江比賣」という名も上巻にある。名の意味はそこで言ったのと同じだ。【伝十一の七十一葉】天皇がこの比賣を初めて娶ったときのことは、後に見える。○宇遲能和紀郎子(うじのわきいらつこ)。和名抄に「山城国宇治郡、宇治郷」、「久世郡、宇治郷」がある。【この二つの宇治郷は一続きの地で、二つの郡にまたがっている。】この王が菟道(うじ)の宮に住んでいたことは、書紀の仁徳の巻に見える。【山城国風土記に「宇治というのは、軽嶋の豊明の宮で天下を治めた天皇(應神)の御代に、宇治若郎子(うじのわきいらつこ)が、桐原の日桁(ひけた)の宮を作って住んだ(宇治市宇治山田町の宇治神社の地といわれる)。その名に因んで宇治と言う。元の名は、『許乃國(このくに)』と言った」とあるのは、本末が取り違えられている。この王の名は、この地に住んだことによるのである。出雲国風土記などでも、ある神が住んだことに因んで地名になったなどと説いているのは、本末が逆になっていることが多い。】「和紀」は「若」である。「若」は「わき」、「わく」と通う。【「鴨別雷神(かものわきいかづちのかみ)」も「若雷」を言い、「わき」と読む。狭衣物語に「篠(ささ)のわきば」という語があるのも「若葉」のことだろう。また「若子」を「わくご」と言い、「若産霊」を「わくむすび」と言う。このように「わか」、「わき」、「わく」はかようけれども、この王の名は「和紀」とあるから「わき」と読むべきなのを、「わかいらつこ」と読むのは良くない。古語拾遺に「稚子」を「腋子(わきご)」とする説は言うに足りないが、これも「わきご」と言ったことから出た説だろう。】「郎子」を「いらつこ」と読むのは、郎女と比較して知られる。郎女の例や「いら」の意味などは、前に論じた。【伝廿一の十葉、伝廿二の七十葉】「郎子」という名の例は、仁徳天皇の御子に「波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)」、継体天皇の御子に「大郎子」などがある。なおこの王のことは、最後の方に出る。そこでさらに言う。○八田若郎女(やたのわきいらつめ)【「若」は兄の名にならって「わき」と読む。「田」は清音に読む。高津の宮の段の歌に「夜多」とある。】は、和名抄に「大和国添下郡、矢田郷」、延喜式神名帳に「矢田坐(やたにます)・・・神社」もある(「矢田坐久志玉比古(くしたまひこ)神社」)。この地だろう(現大和郡山市矢田町)。この女王のことは、高津の宮の段に出る。【伝卅六】○女鳥王(めどりのみこ)。名は、何かの雌鳥に由縁があるのだろう。この女王のことも、高津の宮の段に見える。【伝???(三十七)の七葉】そこの歌に「賣杼理能、和賀意富岐美(めどりの、わがおおきみ)」とある。書紀によると「次の妃、和珥臣の祖、日觸使主の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は、菟道稚郎子皇子と矢田皇女、雌鳥皇女を生んだ」ととある。【旧事紀では、これらの王の母を「物部多遲麻大連(もののべのたじまのおおむらじ)の娘、香室(かむろ)媛」としており、五の巻では「山無(やまなし)媛」と言っている。】○袁那辨郎女(おなべのいらつめ)。この名の意味は、書紀に書かれた字<小ナベ(扁+瓦)>の通りか。【旧事紀では「香室媛の妹、小ナベ媛」と書いてある。玉垣の宮の段に「袁邪辨(おざべ)王」とあるのも、「邪」は「那」の誤りで、同名だろう。】○宇遲之若郎女(うじのわきいらつめ)。この人も宇治の住んだのだろう。【そう見る理由はある。後に言う。】この女王のことは、高津の宮の段にも見える。書紀によると、「次の妃、宅媛の妹の小ナベ媛は、菟道稚郎姫(うじのわきいらつひめ)皇女を生んだ。小ナベ。これを烏儺謎(おなべ)という」とある。【この「謎」の字によって「おなめ」と読むのは間違いである。ここは漢音をとり、「べ」の仮名と取る。仲哀紀にも「御ナベ、これを彌名倍(みなべ)と読む」とある。】○咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ)は、前に出た。【伝廿九の四十一葉】○息長眞若中比賣(おきながまわかなかつひめ)も前に出た。書紀には「河派仲彦(かわまたなかつひこ)の娘、弟媛は稚野毛二派(わかぬけふたまた)皇子を生んだ。派、これを『また』と読む」とある。釈日本紀に「上宮記にいわく、一に言う、凡牟都和希(ほむつわけ)王が、經俣那加都比古(またなかつひこ)の娘、弟比賣麻和加(おとひめまわか)を娶って生んだ子、若野毛二俣(わかぬけふたまた)王が、母恩己麻和加中比賣(おきながまわかなかつひめ)を娶って生んだ子は大郎子(おおいらつこ)」【凡牟都和希王は應神天皇である。「經」の字は誤写だ。また「母恩」の間に、「姉」あるいは「弟」の字が脱けているだろう。「恩己」は息長の誤りだ。】とあって、この名は妹の「弟比賣」と混同されている。【この記では、倭建命の段に咋俣長日子王の娘が三人見え、息長眞若中比賣は二女、弟比賣は三女である。またこの段の終わりに「若野毛二俣王は、その母の妹、百師木伊呂辨(ももしきいろべ)、またの名は弟比賣眞若比賣(おとひめまわかひめ)命を娶って、大郎子を生んだ」とある。とすると、弟比賣は若野毛二俣王の妻なのを、書紀や上宮記では應神天皇の妃として、二俣王の母とし、上宮記では、中比賣をその妻としている。書紀には二俣王の妻のことは書かれていないので、その母を弟比賣とするのも、一つの異伝としてあり得るが、上宮記は少し納得いかない。というのは、中比賣と弟比賣では、中比賣が姉であることは言うまでもないが、母の姉を妻にすることは疑問だからだ。いにしえには、母の妹を妻にした例が幾つか見えるが、姉を妻にした例はありそうにない。とすると、ここはこの記の伝えが正しいだろう。この取り違えは、中比賣も息長眞若といい、弟比賣も弟比賣眞若というから、「眞若」が同じことから起こったのだろう。】○若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)。名の意味は、「若沼毛」は、成務天皇の子に「和訶奴氣(わかぬけ)王」という名があり、そこ【伝廿九の四十八葉】で言った。「二俣」は地名ではないだろうか。その地は考察の必要がある。【延喜式神名帳に「周防国都濃郡、二俣神社」がある。】この段の終わりに、この王の御子を挙げてある。○櫻井田部連(さくらいのたべのむらじ)。櫻井は、和名抄に「河内国河内郡、櫻井郷」があり、そこだろう。【なおこの地のことは、伝廿二の廿八葉で、櫻井臣のところに言ってある。】書紀の崇峻の巻に「河内国が『餌香川原(えがのかわら)に・・・ところが櫻井田部連、膽淳(いぬ)の飼っている犬がいて云々』と報告してきた」という記事があり、そこにこの氏の人が住んでいたことが分かる。田部は、屯田の御田を作らせるために置いた民の部である。このことは日代の宮の段【伝廿六の三十二葉】で説明した。参照せよ。つまりこの氏は、河内の櫻井に住んで、田部を掌っていた氏である。書紀の安閑の巻に「櫻井の屯倉と、国々の田部を香々有(かかり)媛に与えた」、また「河内縣の部曲(たみ)を田部とすることは、これから起こった」【これらも日代の宮の段で引用して論じた。参照せよ。河内縣は河内郡である。】とあり、この氏はこれらに関係があるだろう。【万葉巻三に「櫻田部」とあるのは尾張国の佐倉というところの田のことである。混同してはいけない。】ところでこの氏が誰の子孫かは、本に見えたことがなく、【新撰姓氏録にも載っていない。】先祖は分からない。国造本紀には「穴門国造は、纏向日代の朝に、櫻井田部連、同祖邇伎都美(にぎつみ)命の四世の孫、速都鳥(はやつどり)命を国造に定めた」とあるから、この「邇伎都美命」の子孫のように聞こえるが、この名も物の本には出て来ない。さらに調べる必要がある。天武紀に「十三年十二月、櫻井田部連に姓を与えて宿禰とした」とあり、三代実録には氏人が時々出ている。【讃岐国にもある。】○嶋垂根(しまたりね)。「嶋」は地名か。「垂根」という例は伊邪河の宮の段で出た。【伝廿二の五十二葉】○糸井比賣(いといひめ)。地名だろう。延喜式神名帳に「大和国城下郡、糸井神社」がある。この地だろう。新撰姓氏録の大和国諸蕃に「イト(糸+系)井造」がある。【続日本紀廿九にイト井部という姓も見える。和名抄に、「但馬国養父郡、糸井郷は『いとい』」とある。】書紀の安寧の巻にも糸井媛の名が見え、敏達の巻にも絲井王というのが見える。○速總別命(はやぶさわけのみこと)。この名は隼に縁があるのだろう。和名抄に「鶻は和名『はやぶさ』、隼の訓はこれと同じ」とある。高津の宮の段の歌に、「多迦由久夜波夜夫佐和氣(たかゆくやはやぶさわけ)云々」とある。この王のことは、さらにその段【伝三十七の七葉】に出る。書紀には、「次の妃櫻井田部連、男サイ(金+且)(おさい)の妹、糸媛は、隼總別皇子を生んだ」とある。○日向之泉長比賣(ひむかのいずみのながひめ)。「泉」は和名抄の「薩摩国出水【いずみ】郡」がそうだろう。【いにしえは大隅・薩摩までを含めて日向と呼んだことは、前に述べた。書紀の景行の巻には、諸縣君(もろかたのきみ)泉媛という名が見える。】「長」はどういう由縁によるのか、分からない。【書記の孝安の巻にも長媛というのが見え、神功の巻にもある。】○大羽江王(おおはえのみこ)、小羽江王(おはえのみこ)の、名の意味は思い付かない。【「光栄(はえ)」、「生え」などの意味だろうか。】書紀の安寧・孝昭・孝安の巻に「磯城縣主、葉江(はえ)」、顕宗の巻にハエ(くさかんむり+夷)媛【ハエ(くさかんむり+夷)は「はえ」と読む。字書に「草木が生え初める様子」とある。】などの名が見える。書紀には「次の妃、日向の泉の長媛は、大葉枝皇子、小葉枝皇子の二人を生んだ」とある。○幡日之若郎女(はたびのわかいらつめ)。この前の文からすると、ここにも「妹」とあるはずのところだ。名の意味は思い付かない。地名ではないだろうか。【「機(はた)の梭(ひ)」に因むかと思ったが、仁徳天皇の息子の名にもあるから、梭ではないだろう。】なお、この女王は仁徳天皇の娘で、母は日向の髪長媛なのだが、日向の泉の長媛と名が似ているので、紛れてここに入っていると思われる。書紀に、ここには入っていないのが正しいだろう。○迦具漏比賣(かぐろひめ)は、倭建命の曽孫で、日代の宮の段【伝廿六の十二葉】に出た。その天皇【景行】がこの比賣を娶ったというのは、ここで應神天皇が娶ったのと取り違えたもので、その事情はそこで言った。だが應神天皇が娶ったというのも、また取り違えられていて、実は若沼毛二俣王の妃のことと思われる。この段の末に、「若野毛二俣王は弟日賣眞若比賣命を娶って、云々」とある「弟日賣」を、書紀や上宮記では應神の妻としている。【この取り違えについては上述した。】それでこの迦具漏比賣が生んだという忍坂大中比賣は、二俣王が上記の弟日賣に生ませた子の中に同名の人がいる。【また登富志郎女も、同じ王の娘の琴節郎女と同じ人のように聞こえる。これらの比賣たちのことは、この段の末、伝卅四に出ており、そこで言うことを参照せよ。】また「弟日賣」も倭建命の曽孫で、その父の長日子王を書紀に「仲彦」とあるのと、この迦具漏比賣の父の名の大中日子とは同じである。全般にこれらを考えると、この迦具漏比賣は、上記の弟比賣と同じ人である。【だから應神の妃でなく、二俣王の妃なのが、混同されていると言うのである。】とすると、書紀にこの迦具漏比賣の名がなく、その五柱の子のことも出ていないのが正しいのだろう。【だからこの五柱も二俣王の子なのが、ここに紛れ込んだのだろう。】○川原田郎女(かわらだのいらつめ)。地名に因む名だろう。○玉郎女(たまのいらつめ)。美称だろうか。○忍坂大中比賣(おさかのおおなかつひめ)は、段末の若沼毛二俣王の娘に同名がある。そこ【伝卅四の五十二葉】で言う。【ここに出たのはそれが紛れたことは、上記の通りだ。】○登富志郎女(とおしのいらつめ)。これも二俣王の娘、琴節郎女(ことふしのいらつめ)と同人であろう琴は、上述の通り。これもそこ【伝卅四の五十二葉】で言う。【その名からすると、ここには「こ」の字が脱けているのかとも思えるが、それならそちらと同じように琴節と借字で書くべきところを、仮名で書いてあるから、ここは最初から「こ」がなく、「登富志」と伝えていたのだろう。】○迦多遲王(かたじのみこ)。地名ではないだろうか。○葛城之野伊呂賣(かつらぎのぬのいろめ)。「野」も「伊呂」も、例の多い名である。みな前に出た。【師は「賣」の上に「比」が脱けているのではないかと言ったが、「〜め」という名も多い。】○伊奢能麻和迦王(いざのまわかのみこ)は、高木入日賣命の生んだ子の中に既に出ているのに、また出ているのは誤りである。これを入れると、「合わせて廿六王、男十一」とあるのにも合わない。【師は前に出たのを誤りとして、ここの名を除くべきでないと言った。というのは、この母の名だけがあって、一柱しかない子の名を除くのは不適当であり、前の名は五柱の中の一人だから、それを除いた方が良いということだろう。しかし、これはどちらが誤りかは分からない。母の名の「入比賣」と「伊呂賣」とも似ており、「葛木」と「高木」もやや似ているから、どちらにせよ、これから紛れたのだろう。とすると、実は「野伊呂賣」の子なのを高木之入日賣の子と取り違えたか、あるいは「入日賣」と「伊呂賣」は同一人物なのを、名の伝えが少し違っているので、別人と考えて、その子の名も別人として挙げた可能性もある。】

 

於レ是天皇。問3大山守命與2大雀命1。詔汝等者。孰=愛3兄子與2弟子1。<天皇所=以3發2是問1者。宇遲能和紀郎子。有B令レ治2天下1之心A也。>爾大山守命。白レ愛2兄子1。次大雀命。知B天皇所2問賜1之大御情A而白。兄子者。既成レ人。是無レ悒。弟子者。未レ成レ人是愛。爾天皇詔。佐邪岐阿藝之言。<自レ佐至レ藝五字以レ音>如2我所1レ思。即詔別者。大山守命。爲2山海之政1。大雀命。執2食國之政1以白賜。宇遲能和紀郎子。所レ知2天津日繼1也。故大雀命者。勿レ違2天皇之命1也。

 

訓読:ここにスメラミコト、オオヤマモリのミコトとオオサザキのミコトに「ミマシどもは、アニなることオトなること、いずれかはしき」ととわしたまいき。<スメラミコトのかくとわしけるユエは、ウジノワキイラツコにアメノシタしろしめさしめんのミココロましつればなり。>ここにオオヤマモリのミコト「アニなるこぞはしき」ともうしたまいき。オオサザキのミコトは、スメラミコトのとわしたまうオオミココロをしらしてもうしたまわく、「アニなるこは、すでにヒトとなりつれば、いぶせきことなきを、オトなるこは、いまだわかければはしき」ともうしたまいき。ここにスメラミコトのりたまわく、「サザキアギのことぞ、アがおもおすがごとくなる」とのりたまいて、すなわちノリワケたまえらくは、「オオヤマモリのミコトは。ウミヤマのまつりごとをとらしたまえ。オオサザキのミコトは、おすくにのまつりごとをとりもちてもうしたまえ。ウジノワキイラツコは、アマツヒツギしらせ」とノリワケたまいき。かれオオサザキのミコトは、オオキミのみことにたがいまつらざりき。

 

口語訳:天皇はある時、大山守命と大雀命に「お前たちは、兄と弟と、どちらが可愛いか」と尋ねた。<天皇がこう尋ねたのは、(彼らより年少の)宇遲能和紀郎子に皇位を継がせようという考えがあったからである。>大山守命は「兄の方が可愛いでしょう」と答えた。大雀命は、天皇の考えが分かっていたので、「兄の方はもう成長しているので、何の心配もありませんが、弟の方はまだ小さいので、より可愛いでしょう」と答えた。天皇は「雀(サザキ)、お前はよくものの分かった奴だな。それこそ私の思っていたことだ」と言い、それぞれ役割を決めて、「大山守命は海山のことを掌れ。大雀命は、国の政治を取り仕切って、天皇に申し上げろ。宇遲能和紀郎子は天皇の位を継げ」と振り分けた。そこで大雀命は、天皇の命をどこまでも守ろうとした。

 

「問3大山守命與2大雀命1詔(おおやまもりのみこととおおさざきのみことに・・・とわしたまいき)」【この「詔」の字は読まない。これは漢文流に「問レ某曰(某に問いて曰く)」と書く「曰」の字の使い方だが、その通りに読むと良くないことは、初めの巻で言った通りだ。】この天皇の皇子は大勢いたうちで、このことをこの二人に尋ねたのは、この二人と宇遲能和紀郎子の三人が日嗣ぎの御子だったからである。【大山守命は母が高木之入日賣命、大雀命は母が中日賣命で、ともに尊貴の血筋だったから、太子であったのはもちろんだが、宇遲能和紀郎子は母の血筋こそ尊貴でないものの、天皇が特に愛したことが、この記事で分かる。】上代に、太子は一人とは限らなかったことは、日代の宮の段【伝廿六の十六葉】で言った。この三柱がもともと太子であったことも、そこで言ったことを考え合わせよ。○兄子は「あになるこ」、弟子は「おとなるこ」と読む。【これを書紀で「長與レ少」と書いてあるのを見ると、「ひととなれるとわかきと」と読むようにも思われるが、「兄子・弟子」と書いているのはその意味ではない。「子のうちで兄と弟と」という意味である。書紀の「長・少」もその意味である。次に「兄子者既成レ人」とある「成人」を「ひととなれり」と読むはずだから、「兄子」はそう読むのでないことは明らかだ。また延佳本で「いろえのこ・いろとのこ」と読んでいるのは、みだりな読み方である。そう読むと自分の兄弟の子のようで、甥のことになってしまう。また師は兄子を「せこ」、弟子を「てご」と読み、「万葉に『てご』という語がある。『はてこ』の意味だ」と言ったが、これも当たっていない。万葉の「手兒(てご)」は、まだ母の手を離れない幼児である。また「せこ」は、自分の兄を「吾兄兒(わがせこ)」などと呼ぶ言葉で、子の中の年長のものを言う言葉ではない。】○愛は「はしき」と読む。【後に続くのも同じである。】玉垣の宮の段に「夫と兄と、孰(いず)れか愛(は)しき」とあり、この言葉のことはそこで言った。【伝廿四の卅葉】○「所=以3發2是問1者」は「かくとわしけるゆえは」と読む。【この細注を、師は後人の挿入だと言った。「發是問」の三字が書紀と全く同じであるなど、疑わしい点はあるが、やはり初めからあった注だろう。後人が付けたもののようには見えない。】○「愛2兄子1(あになるこぞはしき)」というのは、あるがままに答えたのだ。○知(しらして)は、書紀に「あらかじめ天皇の色(気持ち)を察して」とあるように、問いに先立って天皇の心を悟っていたのである。○成人は「ひととなりつれば」と読む。万葉巻五(904)に「何時可毛、比等々奈理伊弖天(いつしかも、ひととなりいでて)云々」、続日本紀卅の詔に「白壁王波、諸王乃中爾、年齢毛長奈利(しらかべのみこは、みこたちのなかに、よわいもひととなり)」などの例がある。【師は「ひたしなれば」と読んだが、よくない。】○無悒は「いぶせきことなきを」と読む。万葉巻四【五十六丁】(769)に「久堅之、雨之落日乎、直獨、山邊爾居者、欝有來(ひさかたの、あめのふるひを、ただひとり、やまべにおれば、いぶせかりけり)」、巻八【二十五丁】(1479)に「隱耳、居者欝悒(こもりのみ、おればいぶせみ)」、また【四十丁】(1568)「雨隱、情欝悒、出見者(あまごもり、こころいぶせみ、いでみれば)」、巻九【三十五丁】(1809)に「牢(正字は穴かんむりに牛)而座在者、見而師香跡、悒憤時之(こもりていれば、みてしかと、いぶせきときの)」、巻十一【三十四丁】(2720)に「水鳥乃、鴨之住池之、下樋無、欝悒君、今日見鶴鴨(みずとりの、かものすむいけの、したびなみ、いぶせききみを、きょうみつるかも)」、巻十二【十二丁】(2949)に「得田價累、心欝悒(うたがえる、こころいぶせし)」、また【十六丁】(2991)「母我養蚕乃、眉隱、馬聲蜂音石花蜘モ(虫+厨)荒鹿、異母二不相而(ははがかうこの、まゆごもり、いぶせくもあるか、いもにあわずて)」、巻十八【二十九丁】(4113)に「手枕末可受、比毛等可須、末呂宿乎須禮波、移夫勢美等、情奈具左爾(たまくらまかず、ひもとかず、まろねをすれば、いぶせみと、こころなぐさに)」などの例がある。これはまた「おほつかなきことなきを」とも読める。万葉巻八【廿丁】(1451)に「春山乃、於保束無毛所念可聞(はるやまの、おほつかなくもおもおゆるかも)」、巻十【廿丁】(1952)に「今夜乃、於保束無荷(このよらの、おほつかなきに)」、また【十丁】(1875)「春去者、紀之許能暮之、夕月夜、欝束無裳、山陰爾指天(はるされば、きのこのくれの、ゆうづくよ、おほつかなしも、やまかげにして)」などがある。師は「いぶかしみなし」と読んだが、それもいい。【ただ、どう読んでも「無」は「なきを」と読むべきである。】万葉巻四【三十九丁】(648)に「言借吾妹(いぶかしわぎも)」、巻十【四十丁】(2150)に「欝三、妻戀爲良思(いぶかしみ、つまこいすらし)」、巻十一【二十三丁】(2614)に「下言借見思有爾(したいぶかしみおもえるに)」、また「下伊布可之美、念有之、妹之容儀乎(したいぶかしみ、おもえりし、いもがすがたを)」などの例がある。【おおよそのところ、「いぶせし」、「いふかし」、「おほつかなし」、「おぼぼし」、これらは本来同じ語と思われ、意味も同じである。だから万葉では、いずれも同じように「欝悒」と書いてある。その読みは前後の語によって、四通りに読む。今の本は、互いに間違って、良くない読みになっていることが多い。「ゆかし」と読むのも間違いである。この四つの言葉は、後世には少しずつ意味が違っているようになったが、自然と分かれたのである。また「いふかし」の「ふ」、「おほつかなし」や「おほほし」の「ほ」は、後世は濁って読むが、万葉ではどれも清音で書いてある。その「いふかし」から考えると「いぶせし」の「ぶ」も清音だったように思われるが、万葉巻十八には「夫(ぶ)」を書き、巻十二に「蜂音」と書いてあるのも濁音のようだから、これはここでも濁って読んでおく。】書紀でもここの文は「無悒矣」とあって、「いきどおりなし」と読んでいる。それもいい。神功の巻の歌に「淡海の海、瀬田の濟(わたり)に潜(かづ)く鳥、目にし見へねば、いきどほろしも」、万葉巻十九【十一丁】(4154)に「伊伎騰保流(いきどおる)、心の内を思ひ延べ」、などとある。【「いきどおる」とは、後には怒る意味になったが、怒ることだけを言うのではない。これも「悒」の字の意味である。悒は、字書に「不安である」、「憂うることである」とある。】○弟子者(おとなるこはぞ)。この「者」の下に「ぞ」という「てにをは」を付けて、「はぞ」と読む。ここは「ぞ」という辞がなくてはならないところだ。【「者(は)」は「兄子者云々」を受けて「未成人(いまだわかき)」に係る辞、「ぞ」は「愛(は)しき」に係る辞で、】兄子と弟子を比べて、「弟子ぞ(こそ)愛しき」という意味だ。「はぞ」と重ねて言った例は、万葉巻六【三十六丁】(1022)に「吾者叙退、遠杵土左道矣(われはぞまかる、とおきとさじを)」、巻十二【十丁】(2933)に「不相念、公者雖座、肩戀丹、吾者衣戀、君之光儀(あいおもわず、かたこいに、われはぞこうる、きみがすがたを)」などある。【巻六、十二丁の長歌(935のことか)にもある。】○未成人は「いまだわかければ」と読む。【「いまだ」と言っておいて、「ず」、「ぬ」と受けないのも普通のことだ。この言は必ず「ず」、「ぬ」で受けると思うのは、「未」の字にこだわった誤りである。この下にある「是」は読まない。上にあるのも同じ。】「わかき」はまだ成長していないことで、書紀で「稚」とか「幼」などの字をそう読んでいる。【中昔の物語書などでも、たいへん幼いことを「わかし」と言うことが多い。】○佐邪岐阿藝(さざきあぎ)は「雀吾君」で、大雀命(おおさざきのみこと)を指す。「あぎ」は、訶志比の宮の段で「伊奢阿藝」とあったところで言った。【伝卅一の廿葉】○詔別(のりわけ)は上巻の「うけい」の段にも「こう詔別(のりわけ)した」とあった。【伝七の五十八葉】大祓の祝詞にも「〜乎天津罪止法別氣弖(〜をあまつつみとのりわけて)」。【これは国つ罪と天つ罪を告(のり)分けたのである。「法」の字は借字である。】○山海は「うみやま」と読む。【それを反対に山海と書いているのは、漢文の書き方だ、このたぐいは日月(つきひ)、昼夜(よるひる)、男女(めお)、山野(ぬやま)など、わが国と漢国では言い方が逆になっていることが多い。】○政(まつりごと)。この言葉の意味は、白檮原の宮の段【伝十八の七葉】で言った通りである。○爲は「もうしたまえ」と読む。【字の通りに読むと、古言にならない。】次に「白賜(もうしたまえ)」とあるのと同じ意味だからだ。【記中、同じことを二度三度と並べて書くところでは、一つを古語で書き、一つを漢語で書いて、読み比べられるようにしてあることが多い。このことは、初めの巻で述べた。】この職は、後に「この御世に海部、山部、山守部を定めた」とあり、書紀にも「五年秋八月、諸国に令を下して海人と山守部を定めた」とあって、これらの部民を定めたのだが、大山守命は、そのすべてを統括する任務を与えたわけだ。【書紀のこの巻に、阿曇連の祖、大濱宿禰を海人の宰(あまのみこともち)としたことが出ており、顕宗の巻には吉備上道の臣らが山部を統括したこと、來目部の小楯(おだて)を山の官(つかさ)に任じて、姓も山部連と変えさせ、吉備臣を副(すけのつかさ)に任じて、山守部をその民としたこと、また「韓袋宿禰(からふくろのすくね)・・・兼ねて山を守らせ・・・山部連に隷属させた」とあるのなども同じたぐいだ。】ただ書紀で「山川林野を掌らせた」とあるのは、少し違っており、海の政は執らせなかったのだろうか。【この記では林野を「山」に兼ね、川を「海」に兼ねて山海と言ったのだろう。ただし書紀は漢文の飾りが多いので、その字だけを取り上げて詳細に論ずることはできない。】大山守という名は、海人部、山部、山守部のうちの一つを取って名にしている。【これはこの皇子が自分で山を守るのでなく、山守たちを統括する職を言う。】「大」は名を称えた言葉である。【「山」に付けて言ったのではなく、「山守」に付けて言ったのでもない。同じ言葉でも万葉巻二(154)に「神樂浪乃大山守(ささなみのおおやまもり)」とあるのは「山守」を称えて言ったのであって、ここの大山守とは違う。そのことは後に言う。○書紀の仁徳の巻で「額田大仲彦皇子は、倭の屯田および屯倉を掌ろうとして、・・・『この屯田は、本来山守の土地だ。だからこれからは私が治める』・・・その後、大山守皇子は、日頃先帝に(太子の位を)廃されたことを恨みに思っていたところへ、このことでも怨むようになり、云々」とあるので、この額田大仲彦皇子というのを疑って、実は大山守皇子のことかと思うのは、誤っている。それは釈日本紀に「額田大仲彦皇子は、大山守皇子の同母の兄である。だから屯田を山守の地というのは、弟の大山守の田地とするべきだという意味である」とあるように、大仲彦皇子は、大山守命と同母の兄弟だったから、山守の地であるからには、自分が領有しようと思ったのだ。いにしえは、同母の兄弟の親近感はたいへん強く、父子のようだったからだ。大山守命が「このことでも怨むようになり」というのも、同母の兄が望みを絶たれたことを恨んだのだ。】○食國(おすくに)は上巻【伝七の八葉】に出た。天皇が治める天下を総称して言う。○「執−以白賜」は、【「白」の時を旧印本や延佳本で「自」と書いてあるのは間違いである。他の本にはみな「白」とある。】「とりもちてもうしたまえ」と読む。【「白」を「自」と書いてある本によって読んだ読みは、言うに足りない。】「執以(とりもち)」と言った例は、上巻で「次思金神者、取=持2前事1爲政(つぎにオモイカネのカミは、ミマエのことをとりもちてもうしたまえ)とあるところ【伝十五の二十九葉】で言った。「白賜(もうしたまえ)」は、万葉巻二【三十五丁】(199)に「吾大王之、天下、申賜者(わがおおきみの、あめのした、もうしたまえば)」【この「大王」は、高市皇子を言っている。】巻五【二十五葉】(879)に「余呂豆余爾、伊麻志多麻比提、阿米能志多、麻乎志多麻波禰、美加度佐良受弖(よろずよに、いましたまいて、あめのした、もうしたまわね、みかどさらずて)」、また【三十一丁】(894)「愛之盛爾天下、奏多麻比志、家子等(めでのさかりにあめのした、もうしたまいし、いえのこと)」、続日本紀十七に「御世々々爾當天、天下奏賜比(みよみよにあたりて、あめのしたもうしたまい)」、同廿二に「明久淨岐心以弖、御世累弖、天下申給比、朝廷助仕奉利(あかくきよきこころもちて、みよかさねて、あめのしたもうしたまい、みかどたすけつかえまつり)」などの例があり、「白(もうす)」は政を取り持って奉仕することを言う。万葉巻十九【四十丁】(4256)に「古昔爾、君之三代經、仕家利、吾大主波、七世申禰(いにしえに、きみのみよへて、つかえけり、わがおおきみは、ななよもうさね)」、続日本紀卅一に「自今日者、大臣之奏之政者、不聞看夜成牟(きょうよりは、おおおみのもうししまつりごとは、きこしめさずやならん)(左大臣藤原永手の死去を惜しんで光仁天皇が贈った言葉)」などがある。【これ以外に、目上の人のためにすることも、こう言う。万葉巻五(876)に「美夜故麻提意久利摩遠志弖(みやこまでおくりもうして)」とあるのは、「送り奉りて」と言うのと通い、敬って添えた言である。今の俗文で「〜申す」と何にでも付けて言うのと同じだ。】この二人の皇子に任命したことは、大山守命が年長なのだから、より重要な任務に就くべきなのに、かえって軽い職務に任ぜられ、大雀命の方に重い天下の政務を託したのは、この時の答えが天皇の心に合わないのと、合致したのとによっている。○天津日繼(あまつひつぎ)は上巻に見える。【伝十四の三十六葉】○「故大雀命者(かれおおさざきのみことは)云々」、これは後に大山守命が、天皇の大命に背いたことに対して言ったのである。後にも「故天皇崩之後、大雀命者、從2天皇之命1、以2天下1讓2宇遲能和紀郎子1、於レ是大山守命者違2天皇之命1、猶欲レ獲2天下1(かれスメラミコトかむあがりましてのちに、オオサザキのミコトは、さきのオオミコトのまにまに、アメノシタをウジノワキイラツコにゆずりたまいき。ここにオオヤマモリのミコトは、オオミコトにたがいて、なおアメノシタをえんとして)云々」とある。【ここで大山守命が大命に背いたことを言わないのは、ここは天皇の詔別(のりわけ)を言うのが主題だから、この大命に従った方だけを言ったのだ。】○勿違は「たがいまつらざりき」と読む。【「勿」の字を「不」の意味に使うのが、記では普通だということは、初めの巻で言った。】書紀によると、「四十年春正月(八日)、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んで、『お前たちは、自分の子が可愛いか』と尋ねた。二人は『とても愛しています』と答えた。そこで『先に生まれた子と、後で生まれた子と、どちらが可愛いか』と尋ねた。大山守命は『先に生まれた子が可愛いでしょう』と答えた。天皇は喜ばなかった。大鷦鷯尊は以前から天皇の気持ちを察していたので、『年長の子は幾度も寒暑を経験しており、既に成人ですから、もうこれ以上心配することはないでしょう。年少の子は、まだ無事成長するかどうかも分かりません。すると、年少の子はとても可愛いです』と答えた。天皇は満足して、『お前の答えは、私の心にぴったりだ』と言った。この時、天皇はいつも菟道稚郎子を立てて太子にしたい心があった。それでもこの二皇子之の意思を知りたかったので、この問いをしたのである。だから大山守命の返答を喜ばなかった。・・・(二十四日)、菟道稚郎子を立てて皇位継承者とした。この日に大山守命を山川林野を掌る職に任じ、大鷦鷯尊は太子を助けて、国のことを知る(実際の政務を執る)役目に任じた」とある。【この段では、天皇が、身分の高い妃の子を差し置いて、賤しい出自の妃の子であり、弟に当たる皇子を太子に立てたこと、また大雀命の答えが、天皇の心に媚びていることなど、どうかという議論もあるが、それは漢国風の考え方である。上代のことに、こうした賢しら立った議論は当てはまらない。】

 

一時天皇。越=幸2近淡海國1之時。御=立2宇遲野1上。望2葛野1。歌曰。知婆能。加豆怒袁美禮婆。毛毛知陀流。夜邇波母美由。久爾能富母美由。故到=坐2木幡村1之時。麗美孃子遇2其道衢1。爾天皇問2其孃子1曰。汝者誰子。答白。丸邇之比布禮能意富美之女名宮主矢河枝比賣。天皇即詔2其孃子1。吾明日還幸之時。入=坐2汝家1。故矢河枝比賣委曲語2其父1。於レ是父答曰。是者天皇坐那理。<此二字以レ音。>恐之。我子仕奉云而。嚴=餝2其家1。候待者。明日入坐。故獻2大御饗1之時。其女矢河枝比賣令レ取2大御酒盞1而獻。於レ是天皇。任レ令レ取2其大御酒盞1而御歌曰。許能迦邇夜。伊豆久能迦邇。毛毛豆多布。都奴賀能迦邇。余許佐良布。伊豆久邇伊多流。伊知遲志麻。美志麻邇斗岐。美本杼理能。迦豆伎伊岐豆岐。志那陀由布。佐佐那美遲袁。須久須久登。和賀伊麻勢婆夜。許波多能美知邇。阿波志斯袁登賣。宇斯呂傳波。袁陀弖呂迦母。波那美波志。比斯那須。伊知比韋能。和邇佐能邇袁。波都邇波。波陀阿可良氣美。志波邇波。邇具漏岐由惠。美都具理能。曾能那迦都邇袁。加夫都久。麻肥邇波阿弖受。麻用賀岐許邇。加岐多禮。阿波志斯袁美那。迦母賀登。和賀美斯古良。迦久母賀登。阿賀美斯古邇。宇多氣陀邇。牟迦比袁流迦母。伊蘇比袁流迦母。如レ此御合生御子。宇遲能和紀<自レ宇下五字以レ音。>郎子也。

 

訓読:あるときスメラミコト、オウミのクニにいでますとき、ウジヌのうえにミたたして、カヅヌをみさけまして、うたわしけらく、「ちばの、かづぬをみれば、ももちだる、やにわもみゆ、くにのほもみゆ」。かれコハタのムラにいたりませるときに、そのちまたにかおよきオトメあえり。ここにスメラミコトそのオトメに「イマシはたがコぞ」ととわしければ、こたえこうさく、「ワニのヒフレのオオミがむすめ、ナはミヤヌシヤガワエヒメ」ともうしき。スメラミコトそのオトメに、「アレあすかえりまさんとき、イマシのいえにいりまさん」とノリたまいき。かれヤガワエヒメそのチチにつぶさにかたりき。ここにチチがいいけらく、「こはオオキミにましけり。かしこし。アがこつかえまつれ」といいて、そのいえをいかめしくかざりて、さもらいまてば、またのヒいりましぬ。かれオオミアエたてまつるときに、そのむすめヤガワエヒメにおおみさかずきをとらしめてたてまつりき。ここにスメラミコト、そのおおみさかずきをとらしめながらミウタよみしたまわく、このかにや、いずくのかに、ももづたう、つぬがのかに。よこさらう、いずくにいたる、いちじしま。みしまにとき。みほどりの、かづきづき、しなだゆう、ささなみじを、すくすくと、わがいませばや。こはだのみちに、あわししおとめ、うしろでは、おだてろかも。はなみはし、ひひしなす、いちひいの、わにさのにを、はつには、はだあからけみ、しはには、にぐろきゆえみつぐりの、そのなかつにを、かぶつく。まひにはあてず、まよがきこに、かきたれ、あわししおみな。かもがと、わがみしこら、かくもがと、あがみしこに、うただけに、むかいおるかも、いそいおるかも」。かくてミアイましてウミませるミコぞ、ウジのワキイラツコにましける。

 

歌部分の漢字表記:(旧仮名)

千葉の、葛野を見れば、百千(諸富)足る、家庭も見ゆ、國の秀も見ゆ。

この蟹や、何處の蟹、百傳ふ、角鹿の蟹。横去らふ、何處に到る、伊知遲嶋、美嶋に著き、鳰鳥の、潜き息づき、しなだゆふ、佐佐那美路を、すくすくと、我が行ませばや、木幡の道に、遇はしし孃子、後姿は、小楯ろかも、齒並み喙、菱なす、櫟井の、丸邇坂の土を、初土は、膚赤らけみ、底土は、土黒き故、三栗の、その中つ土を、頭衝く、眞日には當てず、眉畫き濃に、畫き垂れ、遇はしし女人、かもがと、我が見しし兒ら、かくもがと、我が見し兒に、うただけに、對ひ居るかも、い添ひ居るかも。

 

口語訳:あるとき天皇は淡海の国に行き、宇遲野の上に立って、葛野を眺めて、歌った。生い茂る千葉のような葛野を見ると、何ともたくさんの家庭も見える、国の美しさも見える」。その後木幡村に到ったとき、とても美しい少女に出会った。そこで「あなたはどこの娘か」と尋ねると、「丸邇之比布禮能意富美の娘で、名は宮主矢河枝比賣と言います」と答えた。天皇は、「明日還る途中で、あなたの家に入ろうと思う」と言った。矢河枝比賣は家に帰ると、父親にこのことを詳しく話した。父は「これは天皇じゃないか。畏れ多いことだ、娘よ、謹んでお召しを受けよ」と言い、家を飾り立て、準備を整えて天皇の訪れを待っていると、翌日やって来た。大御饗のとき、娘の矢河枝比賣に盃を持たせて、酒を献げさせた。すると天皇はその盃を受けながら歌った。この蟹はどこの蟹なのか。遠い角鹿の蟹だ。横ばいでどこに行くのか。伊知遲嶋、美嶋に着いて、かいつぶりが潜っては息づくように、たゆたい、佐佐那美の道をどんどん進んでいくと、木幡の道で、お会いしたお嬢さん、その後ろ姿は小楯のようにすらりとして、歯並みは菱の実を並べたようにきれいだった。櫟井の丸邇坂の土を、(掘り初めの)上の方は赤っぽく、深いところの土は黒すぎるので、中間のほど良い色の土を、かんかん照りの日光には当てず、眉を描くのにちょうど良い色にして、濃く尻下がりに描いていた、お会いしたご婦人、どうにかお近づきになりたいものだと思って、私が見ていた可愛い子よ、こうして近づきたいと思っていた可愛い子が、宴の最中に、真向かいにいることよ。私に寄り添っていることよ」。こうして添い遂げて生まれた御子が、宇遲能和紀郎子である。

 

一時は「あるとき」と読む。○近淡海は、師が単に「おうみ」と読んだのに従う。【前にも「淡海」とだけあったから、ここでも「近」の字は読まない方が良いだろう。】○越幸(こえいでます)とは、倭から淡海国に行くのには、山【那良坂、逢坂など】を越えて行くからである。【この行幸は、禊ぎをするための行幸だったのではないだろうか。次の歌に「佐々那美路を」とあり、木幡にたった一日で帰ってきたことからすると、佐々那美まで行って帰ったように思われる。辛崎など、後世にも禊ぎをしに行くところである。】○宇遲野上、「野上」は「ぬのうえ」と読む。万葉巻廿【十五丁】(4319)に「多可麻刀能、秋野乃宇倍能(たかまとの、あきぬのうえの)」、また【六十一丁】(4506)「多可麻刀能、努乃宇倍能美也波(たかまとの、ぬのうえのみやは)」、巻六【四十丁】(1035)に「多藝乃野之上爾(たぎのぬのうえに)」などが見える。「宇遲(うじ)」は前に出た。「野」というのは、単にそのあたりの野を言うのだろう。【それがどの場所か特定することはできない。】○御立は「みたたして」と読む。万葉巻二【二十九丁】(178)に「御立爲之嶋乎見時(みたたしししまをみるとき)」、【他にもある。】巻五【二十三丁】(869)に「多良志比賣、可尾能美許等能、奈都良須等、美多々志世利斯、伊志遠多禮美吉(たらしひめ、かみのみことの、なつらすと、みたたしせりし、いしをたれみき)」、巻十九【三十六丁】(4245)に「舶騰毛爾、御立座而(ふなどもに、みたたしまして)」もある。○葛野は歌に「かづぬ」とあるので、そう読む。この地のことは、上巻に出た。【伝十二の三十九葉】そこで垂仁紀を引いて行ったように、いにしえは乙訓あたりも葛野と行ったことがあるから、やはり葛野、乙訓、紀伊の三郡を含めた平坦な土地を、広くこう称したのだろう。【延暦十三年十月の詔で、今の京(平安京)のことも「葛野の大宮地(おおみやどころ)」と言っている。】とすると、宇治から見えたのも当然だ。【ある説で、「この葛野は、久世郡の富野村の旧名である。葛野郡とは違う」と言っているのは、宇治から葛野郡までは遠いので、遠く眺めても見えるはずはないと思い、歌に「もゝちだる」とある句によって、「富野」という名にこじつけたのだろう。それは、いにしえには葛野という地名が、広い地域を指していたことを知らないための誤りである。】○望は、師が「みさけたる」と読んだのに従う。万葉巻一【十三丁】(17)に「委曲毛、見管行武雄、數々毛、見放武八萬雄(つばらにも、みつつゆかんを、しばしばも、みさけんやまを)」、巻三【五十二丁】(450)に「去左爾波、二吾見之此埼乎、獨過者見毛左可受伎濃(ゆくさには、ふたりわがみしこのさきを、ひとりすぐればみもさかずきぬ)」【ここに「さかず」とあることからすると、「見放武」も「みさかん」と読むようにも思えるが、「ふりさけみる」という言い方もあるから、やはり「さけ」である。】「さけ」は「振放(ふりさけ)見る」とも言って、遠くを見やることである。○知婆能(ちばの)は、契沖によると、「千葉の」である。葛は葉が多いものだから、その枕詞だ。下総国に千葉郡があるのも、そういう意味から名付けたのだろうか。○加豆怒袁美禮婆(かづぬをみれば)は、「葛野を見れば」である。契沖の言うところでは、「かづ」は「かづら」の下一字を略したのである。【「葛」の音(かつ)だと思うのは間違いだ。後に「かどの」と言うのは、「かづぬ」から転じたのである。】○毛々毛知陀流(ももちだる)。「毛々」は「物々(ものもの)」で、諸々という意味である。「もろもろ」は「ものろものろ」であり、「ろ」は助辞である。【数の百(もも)も、もとは諸の意味から出た。だから「百」と言えば「諸」の意味になることが多い。漢国でもおのずと同じことである。百官(もものつかさ)は、つまり諸々の官を意味する。こうした「百」を、そのまま数を意味する語と考えては、元になった語と派生した語を取り違えることになる。同じような意味でも数が百であることを言うのでなく、ただ「諸」の意味と考えるべきだ。】「ちだる」については、上巻に「登陀流天之御巣」とあったところ【伝十四の卅九〜四十一葉】で言った。【「千足」の意味ではない。】○夜邇波母美由(やにわもみゆ)は「家庭も見ゆ」で、この二句は、多くの民家が見えていると言うことだ。さすがに広い葛野の平野には、村々が多かっただろう。【契沖が「矢場(やにわ)か」と言って、「そうした心得のある者の住む家が多く、ダ(土+朶)(弓の的)を準備して射的を練習する弓場も見え、兵士が多いことを喜んだのだろうか」と言ったのは大きな間違いだ。師は今の京(平安京)の地が、いにしえから大きな都会だったのだろうと言ったが、今の京の辺りは、宇治からは見えない。】○久爾能富母美由(くにのほもみゆ)は、倭建命の歌【伝廿八に出た。】に、「久爾能麻本呂婆(くにのまほろば)」とあるのと同じだと師が言ったように、「久爾能富(くにのほ)」とは山に囲まれた平坦なところを言う。さらに詳しくは「國號考」【夜麻登(やまと)の條】で述べてある。葛野【愛宕・葛野・乙訓・紀伊の四郡に渡って続く平原】は、東・北・西を山に囲まれ、山城国の奥深いところだから、本当に国の富(ほ)である。【契沖が然るべき家の多いことを「国の華」と思ったのかと言ったのは当たっていない。】書紀には「六年春二月、天皇は近江国に出かけたが、菟道野(うじぬ)の上に到って、歌っていわく、」とあり、ここの歌が載っている。全く同じだ。【ただし木幡村云々のことは書かれていない。】○木幡村(こはたのむら)は、延喜式神名帳に「山城国宇治郡、許波多(こはた)神社」、諸陵式に「巨幡(こはた)墓(伊豫親王の墓という)は、山城国宇治郡にある」、万葉巻十一(2425)に「山科、強田山、馬雖在、歩吾來、汝念不得(やましなの、コハタのやまを、うまはあれど、かちよりあれきぬ、なをおもいかねて)」<強は現代仮名遣いでは「こわい」だが、旧仮名では「コハイ」となる>などがある。【木幡村は今もある。】倭から近江へ行く大道である。○道衢は「ちまた」と読む。上巻に「道俣神(ちまたのかみ)」と書いてある字の通りで、道の分かれるところである。「八衢(やちまた)」と言うのは、道がたくさん四方八方に分かれるところを言う。○麗美孃子(かおよきおとめ)は、前に時々出ていた。【下巻、朝倉の宮の段に、天皇が丸邇の佐都紀の臣の娘を娶ろうとして、春日に行ったとき、その娘と道で出会ったときの様子は、丸邇氏の娘であることも含めて、ここによく似ている。】○明日は「あす」と読む。○還幸は「かえりまさん」と読む。○委曲は上巻【天若日子の段】でも「委曲(つぶさ)に天神の詔命(おおみこと)のように」とあった。○父答曰。「答」とは、娘が詳しく話したうちに、「明日来るとおっしゃっていましたが、どうしましょう」という問いがあったのに答えたのだ。しかし「答曰」の二字を「いいけらく」と読むべきである。○坐那理(ましけり)は、上巻に「在祁理(ありけり)」、「有祁理(ありけり)」、また「坐祁理(ましけり)」と見え、「伊多久佐夜藝弖阿理祁理(いたくさやぎてありけり)」という句が、上巻にも白檮原の宮の段にもあったのを、今の本では両方とも「祁」を「那」に誤っていたが、それは間違いだということは、そこ【伝十三の五葉】で言った。とするとここも「那」は誤りで、実は「祁理(けり)」である。それは鹵簿(ロボ:行幸の行列)の様子や、その他服装などのいろいろな様子を、娘が語るので、それは凡人でなく、天皇に違いないと驚嘆して言ったのだ。【こういったことからも、古代人の大らかさが知られる。後世であれば、天皇の行幸に出会ったら、その通り道の人々は、それが天皇だと知らないでおられようか。】○恐之(かしこし)は、記中ではたいてい、身分の高い人の言うことを承り、肯定するところで言うのだが、【このことは伝九の二十六葉で言った。】ここはそうした言葉ではない。しかし意味は同じだ。○我子(あがこ)は、単に自分の子というのでなく、吾君(あがきみ)、吾兄(あがせ)などと言うたぐいで、親しみを込めて言うので、「あご」というのと同じだ。【とすると直ちに「あご」と読んでも良いが、「あぎみ」を「あがきみ」、「あせ」を「あがせ」とも言うから、ここも読みは「あがこ」なのだろう。】○嚴は、後にも「嚴餝之處」とあるのを、師が「いかめしく」と読んだ。ここもそう読むべきである。書紀の舒明の巻に「嚴矛、これを『いかしほこ』と読む」とあり、皇極の巻に「重日、これを『いかしひ』と読む」とある。また古い書物には「いかし」に「茂」を書いてあることが多い。これらの三字が合わさった意味に取る。物語書などで、何かが壮大で麗美なのを「いかめし」と言うのがそれである。【俗言で「結構な」とか「厳重な」、「立派な」と言うのに当たる。また仏教書などで、ものを飾ることを「荘厳(しょうごん)」と言う。「茂」も盛大で密度高く飾る意味で言うのだろう。】○候待者は「さもらいまてば」と読む。【一本に「待」を「侍」と書いてあるが、これも「候」の意味があるから間違いとは言い切れない。しかしやはり「待」が正しいだろう。】万葉巻廿【三十四丁】(4398)に「難波爾伎爲弖、由布之保爾、船乎宇氣須惠、安佐奈藝爾、倍牟氣許我牟等、佐毛良布等、和我乎流等伎爾(なにわにきいて、ゆうしおに、ふねをうけすえ、あさなぎに、へむけこがんと、さもらうを、わがおるときに)」など多数の例があり、伺い待つ意味である。これについては、上巻【伝十四の四十四葉】で詳しく言った。○明日は、ここでは「またのひ」と読む。【前に出たのは台詞だったから「あす」と読んだが、ここは地の文だから、そうは読めない。上巻に「來日」とあるのに基づいて「くるひ」と読むところもあるが、ここはそうは読まないように思われる。】物語書などで「翌日」をそう言っている。【「またの年」などと言うこともある。】○大御饗(おおみあえ)。前に出た。【伝十四の五十五葉、伝十八の二十二葉、伝十九の十二葉】○矢河枝比賣。この「命」の字は、次の「令」の字と紛れた衍字(えんじ。余分な混入のこと)だろう。この名は、どこでも「命(みこと)」と言っているところがない。○大御酒盞(おおみさかずき)。これも前に出た。【伝十一の四十六葉、伝廿八の五葉】○任令取は「とらしめながら」と読む。天皇がまだその盃を手にしないで、乙女が持ったままなのだ。「取る」とは、手に捧げ持つことを言う。【中昔の物語文などに「御盃取(みさかずきとる)」などとあるのも、「差し上げる」のを言う。今の世では、盃をいったん目の前に置き、自分で取って飲むが、いにしえはそうではなく、捧げ持っている人の手から、直接受け取って飲んだ。】○許能迦邇夜(このかにや)は「この蟹や」である。1111「や」は「よ」といった意味だ。上巻に「この口や、答えせぬ口」とあるのと同じ。和名抄に、「野王が思うに、蟹は八本足の虫である。和名『かに』」。また「ホウ(虫+彭)シ?(虫+其)は稻舂蟹(いなつきがに)のたぐいである」。また「ホウ(虫+彭)カツ?(虫+骨)は、葦原蟹(あしはらかに)、形は蟹に似て小さい」、また「石蟹は、海辺の石の下で発生する。そのためこの名がある。和名『いしがに』」という。○伊豆久能迦邇(いずくのかに)は「何處の蟹」である。【「何處」は万葉巻五にも「いずく」とある。これを「いずこ」と言うのは、やや後の言い方である。】ここで蟹のことを歌ったのは、契沖も言ったように、このとき食膳に蟹があったからだろう。白檮原の宮の段の歌に、鯨を詠んでいたのと同じだ。【そのことは伝十九の十六葉で言った。】いにしえに蟹を大御饌に供したことは、万葉巻十六(3886)の「蟹のために痛み(哀悼)を述べる長歌」で知るべきである。【三代実録卅五に「・・・摂津国の蟹胥(かにびしこ:蟹の塩辛)、陸奥国の鹿セキ(月+昔)(鹿の干し肉)は、御膳に奉らせないことにした」とある。】ところでこの歌は、初めの九句半までは序であって、その最初の八句は蟹のことを、二句ずつの問答に作っている。「伊豆久能迦邇」までは問いであり、続く二句は答えである。【契沖が答えを「蟹の答えだ」と言ったのはよくない。歌を詠む人の自問自答と考えるべきだ。】○毛毛豆多布(ももづたう)は「百伝う」で、多くの所を経る意味であると、冠辞考で言っている。下巻、近つ飛鳥の宮(顕宗天皇)の段の歌に「阿佐遲波良、袁陀爾袁須疑弖、毛々豆多布、奴弖由良久母(あさじはら、おだにをすぎて、ももづたう、ぬてゆらくも)」【これも同意だと冠辞考に見える。】書紀の神功の巻に「百傳、度逢縣(ももづたう、わたらいがた)」【これも長い道を経て渡り行くことを言うと、冠辞考に見える。】万葉巻七【四十丁】(1399)に「百傳、八十之嶋廻乎、榜船爾(ももづたう、やそのしままを、こぐふねに)」。【巻九(1711)にも同じような言い回しがある。やはり遠く伝い行くことで、同じ意味だ。ところがこれを冠辞考で「百に(百世にという意味か)数え伝える八十という意味だ」と言っているのは、通例と違っており、誤りである。また万葉巻三(416)に「百傳、磐余池(ももづたう、いわれのいけ)」とある「百傳」は、「角障(つぬさわふ)」を移し誤ったものだ。「磐余」の枕詞は書紀の継体の巻や、万葉巻三にこれ以外に二つ(262、423)、巻十三に二つ(3324、3325)見えているが、いずれも「角障」とあって、「百傳」と言ったのは他に全くないので、誤りだと分かる。ただしどれも「角障經」と三文字に書いているのを、ここに「經」の字がないのは、元はあったのに「百傳」と誤ったことにより、「經」は衍字と見て削ったのか。しかしこの字はなくても構わないだろう。この「百傳磐余」も冠辞考で、「百に数え伝える五十(い)」という意味だとしているのは、やはり間違いである。】○都奴賀能迦邇(つぬがのかに)は、「角鹿の蟹」ということだ。角鹿は前【伝三十一】に出た。いにしえには、この浦の蟹が名産だったのだろう。【契沖が「蟹は越前の名物で、他国よりも大きなものがいるためである」と言ったのは、本当にそうなのだろうか。もっとよく同国の人に確かめるべきだろう。また契沖は「蟹がいる場所も多いのに、特に『角鹿』と言ったのは、この天皇が笥飯(けひ)の大神と名を換えたことがあったから、その由縁であろうか」と言ったが、そういう意味まではないだろう。】角鹿に「百傳」と言ったのは、蟹がその浦から、多くの場所を経て伝い来るからである。【後に続く言葉で分かる。これを単に角鹿は、多くの山路を経て行くところだからと理解するのは精確ではない。もしそうなら、角鹿より遠いところも多いのだから、他の所にもこう詠んで良いはずだが、そういう例はない。単に角鹿が遠いことを言うのでなく、蟹がここ(木幡)まで来ることを言っているのである。ある人は「『百傳角鹿』とは、どこまでも遠く伝い行く蘿(つた)という意味で言ったのだ。天智紀の童謡に『眞葛原(まくずはら)、何の傳言(つてごと)』とあるのも、葛が伝い行くことから『傳』に続けたのと同じであることで分かる。いにしえは『蘿』、『綱』、『角』を通わせて言った」と説いた。なるほどと思わせるが、「百傳」という語はみな一つの意味なのに、ここだけが違った意味ということはないだろう。】○余許佐良布(よこさらう)は「横去らう」である。「さる」を延ばして「さらう」と言ったのだ。「去る」は「行く」と同じで、蟹が横ばいすることを言う。【夫木集(夫木和歌抄)に源仲正の歌(13158)で「横走る葦間の蟹の雪ふれば、あな寒げにやいそぎ隱るゝ」とある。】次の句への続きから言うと「さらい」とあるところを「さらう」と言ったのは、「こう横去らうのは」と言った意味合いだからだ。○伊豆久邇伊多流(いずくにいたる)は「何處に到る」である。この二句が問いで、次の二句が答えである。○伊知遲志麻(いちじしま)は地名だろう。○美志麻邇斗岐(みしまにとき)。「美志麻」も地名だろう。この二つの地はどこなのか、定かでない。角鹿から木幡へ来るまでの道を言っているから、近江の湖の島ではないだろうか。【契沖は「越前にあるのかも知れない」と言った。越前も角鹿から山城へ来る途中だから間違いとは言えないが、両方とも「嶋」と言っているから、やはり湖にある島のように聞こえるだろう。越前の海の島と見て言ったと考えるのは、誤っている。】「斗岐」は「速来(とき)」である。【「斗」は「てにをは」ではない。記中、「てにをは」の「と」には「登」の字だけを書き、「斗」を用いない。また、記中でも万葉でも、「利」や「速」の意味の仮名にはいつも「斗」、「刀」を用い、「登」を書かない。】蟹が進むのは、非常に速いものだからである。「とく」と言うべきところを「と」とだけ言ったのは、「早く来た」というのを「はや来た」とも言うのと同じである。ただこれは単に「速来」ということでなく、速く行こうと急いだことを言う。「速く」と急ぐことには、「と」と言った例が多い。万葉巻十【六丁】(1822)に「夜之不深刀爾(よのふけぬとに)」、巻十五【三十三丁】(3747)に「古非之奈奴刀爾(こいしなぬとに)」、【これらは「夜が更けるから」、「恋いしいあまり死んでしまうから」、早く、急ぐということだ。】巻十九【三十六丁】(4243)に「行得毛來等毛、舶波早家無(ゆくともくとも、ふねははやけん)」、【これは、船は行くにも帰るにも、どうにかして早くと急ぐものなので、それを「行くとも来とも」と言ったのだ。】書紀の継体の巻の歌に、「于魔伊禰矢度爾(イ+爾)、爾(イ+爾)播都等リ(口+利)、柯稽播儺倶儺梨(うまいねしとに、にわつとり、かけはなくなり)」、万葉巻廿【三十三丁】(4395)に「佐久良波奈、知利加須疑奈牟、和我可敝流刀禰(さくらはな、ちりかすぎなん、わがかえるとね)」、【「禰(ね)」は「爾(に)」と同じだ。これらは「鶏が急いで早く鳴いた」、「桜の花が急いで早く散ってしまった」と、歌う人の心に思って言うのである。】これらの例である。【契沖がこの句を「三嶋に早く」か、あるいは「見し間に早く」か、と言ったのは、「三嶋」はもっともだが、「とき」を単に「速い」の意味に解したのは間違っている。それでは後の句への続き具合がどういう意味か、よく分からなくなる。「見し間」という解釈は言うに足りない。師は「とき」を「速行き」の略かと言ったが、これは眼前の蟹について言うから、「来る」と言うのが自然で、「行く」とは言わないだろう。】この句から次の一句半を隔てて、「伊岐豆岐(いきづき)」に続く。ここまでの歌の意味は、「この蟹よ、数多の場所を経てやって来た、はるかな角鹿から、ここ【木幡】まで、早く来ようと急ぎ、伊知遲志麻、美志麻に来て息をつき」という意味である。○美本杼理能(みほどりの)は、「ミホ(辟+鳥)ドリ(へんに褫のつくり+つくりに鳥)の」という意味で、前に忍熊王の歌で「邇本杼理能(にほどりの)」とあったのと同じ。そこ【伝三十一】で言った。従ってここも「迦豆伎(かづき)」の序である。○迦豆伎伊岐豆岐(かづきいきづき)は「潜き息衝き」のことで、「迦豆伎」はまた「伊岐豆岐」の序になっている。それは海人などが潜ると、浮かんでは大きく息をつくものだからだ。【また「みおどり(かいつぶり)」が潜水して、浮かび出ると長く大きく息をつくこととするのもありそうだが、やはりそうではないだろう。「美本杼理」は「迦豆伎」の序に過ぎず、「みおどりのように、海人が潜水する」と言い続けたのだ。枕草子(二八六段)に、海の底から出たことを言ったところで、「舟のはたをおさへて、放ちたる息などこそ、まことにたゞ見る人だにしをるゝに、云々」とある。】「潜(かづき)」のことも、前【伝卅一の二十二葉】に言った。ここの息衝きは、道を急いで這ってきて、息苦しくてとうとうここで休んで、長息を衝いたということだ。前の句からの続きで言うと、蟹が道を急いで、息を衝いたという序であって、この言葉から、天皇自身が佐々那美路を急いで息衝いたことに掛けて言うのである。【契沖いわく、「におどりが浮かび出て息をつくのは、休むことだから、道を歩いたことを潜ったと比喩で言い、息をついて休んだことを浮き上がるに喩えたか」と言ったのは、あまりくだくだしい解釈で、誤っている。およそこの人は、万葉の歌の解釈なども、喩えを一言一言細かく当てはめて間違うことが多いのは、仏教書の喩えを解く説になじんだからだろうか。】万葉巻五【廿六丁】(881)に「加久能美夜、伊吉豆伎遠良牟(かくのみや、いきづきおらん)」、また(897)「夜波母、息豆伎阿可志(よるはも、いきづきあかし)」とある。○志那陀由布(しなだゆう)。「志那」は坂道のこと、【そのことは師の冠辞考の「しなてる」、また「しなざかる」の條に見える。また上巻伝五の四十七葉でも言った。】「陀由布(たゆう)」は道が平らでなく、高低があって、上がったり下がったりしながら行くことを言い、【俗言で「うねる」という状態である。】「たゆたう」と元は同じ言葉だ。【「たゆむ」も元は同じだろう。また俗に「たるむ」と言うのも同じ。】それは万葉巻七【五丁】(1089)に「海原絶塔浪爾(うなはらのたゆたうなみに)」、巻十一【四十五丁】(2816)に「天雲之、絶多不心(あまぐもの、たゆたうこころ)」、などと言っているのが、多くは落ち着き静らないことを言う。巻二【三十三丁】(196)に「大船猶豫不定(おおぶねのたゆたう)」と書いてある字からも知れる。【船に言うのは、波に揺られて、落ち着き定まらないのを言う。雲も波も、みな静かに定まらないで、動き回るから言う。人の心について言うのも同じだ。】坂道の「たゆう」も、平に一定した道でなく、高く低く、上ったり下がったりするので、定まらないわけである。【海原の波などは、形まで似ているだろう。】○佐々那美遲袁(ささなみじを)の「佐々那美」は、近江国の地名で、前に出た。【伝卅一の十八葉】「遲」は「道」で、佐々那美に通じる道を言う。倭に向かう道を倭道(やまとじ)、筑紫へ下る道を「筑紫路(つくしじ)」などと言うのと同じ。【つまり「佐々那美」という道の意味ではない。万葉巻四(551)に「倭道の嶋の浦廻(やまとじのしまのうらみ)」などとあるので理解すべきだ。倭国には嶋浦はない。どの国であっても、倭に上る道は倭道と言うのだ。】ここは近江の佐々那美に行く時のことだから、こう言ったのである。それは宇治から山科の付近で、小さい坂などもあり、確かに「しなだゆう道」である。【万葉巻十三(3323)に「師名立、都久麻左野方(しなたてる、つくまさぬかた)」とあるのと同じ様子だ。契沖が「志那陀由布」を「佐々那美」の枕詞と解し、佐々那美を小波として、「浪が次々と押し寄せるのを『級(しな)』と言ったのか。『陀由布』は『たゆむ』で、小波だから、続いて来る波が遅いのか。それとも『陀由布』は『絶える』ということか。万葉巻十三に『師名立、都久麻左野方』とあるが、築摩は近江国坂田郡にあるから、『級立(しなたてる)さゝ浪の築摩』と続ける意味か。そうであればここも『次々に立つ小浪』と言ったのだろう」と言ったのは、佐々那美を浪のことと思い込んで地名だと知らず、また「志那」が坂道のことだと知らず、ただ階級(階段など)のことと思っていたので、「志那陀由布」を解くことができず、こういうくだくだしい誤った言説を並べたのである。佐々那美は単に地名で、波には関係せず、志那も坂道のことであるのは、師の説で明らかなことだ。また契沖が、源氏物語の早蕨の巻に「しなてるや、にほの水海」と詠んでいるのを引いて論じたのも誤っている。その歌は、もともと「にほとりのあふみの海云々」とあったのを勘違いして、近江の海の枕詞に「にほてる」ということがあったのを、「しなてる云々」と混同して、間違って詠んだ歌だから、本来議論するに足りないのだ。この「志那陀由布」を、師は「しないたゆう篠靡」という意味の冠辞だと言い、これもありそうな解釈だが、やはりよく考えると、「伊岐豆岐(いきづき)」から続いているのは坂道が苦しいことを言っているように聞こえるから、枕詞ではない。たった今天皇がたどった道の苦しかったことを言っている。】○須久須久登(すくすくと)は俗言で「ずかずかと」という言葉で、滞りなく速やかに進む意味だ。竹取物語に【かぐや姫のことを、】「此兒(このちご)やしなふほどに、すくすくと大きになりまさる」、【速やかに成長したことを言う。】狭衣物語に「それよりやがて火の光見ゆる方へ、すくすくとおはすれど」などとあるのと同じだ。この他物語書などに、「すかすかしく」とも、「すかやかに」ともあり、どれも同言で、語の用い方も同じだ。【だからこれらの言も、「すか」の「か」を濁るのは訛りだろう。「清々しい」とは別である。俗言の「ずかずかと」も、もとは「すかすかと」だったのが、訛って「す」を濁ったのである。契沖がここの「須久々々登」を「すごすごと」と解したのは間違いである。それではその前に「息をついた」とあるのと合わない。○上の序で「蟹が速來(とき)」とあったのと、ここの「すくすくと」を対応して考えるべきだ。】○和賀伊麻勢婆夜(わがいませばや)は「吾が行きませば」である。「や」は助辞で、「よ」というような意味である。「行きます」を「います」という例は、万葉巻三【三十八丁】(381)に「好爲而伊麻世、荒其路(よくしていませ、あらきそのみち)」、巻四【三十二丁】(610)に「禰遠、君之伊座者(いやとおく、きみがいませば)」、巻十五【四丁】(3582)に「大船乎、安流美爾伊太之、伊麻須君(おおぶねを、あるみにいたし、いますきみ)」、また【五丁】(3587)「多久夫須麻、新羅邊伊麻須(たくぶすま、しらぎへいます)」、巻廿【四十四丁】(4440)に「安之我良乃、夜敝也麻故要弖、伊麻之奈婆(あしがらの、やえやまこえて、いましなば)」などたくさん見える。これはたた「ます(いる)」を「います」と言うのと意味は違うが、言葉は同じである。たとえば古今集の詞書(919)に「法皇西川におはしましたりける日」などあるたぐいは、「行きます」ということを「おわします」と言っているが、その「おわします」はただ「いる」と言うのと同じである。【今の世の言でも、「そこにいらっしゃる」ということは「そこにいる」ということで、「そこへいらっしゃる」というと「そこへ行きます」という意味になり、意味は異なっても、言葉は同じだ。これは「ます」ことを「行きます」にも通用させることは、いにしえも、中古も今も同様だということだ。俗言に「そこに御出(おいで)なさる」というのは、「そこにいる」という意味で、「そこへおいでなさる」と言えば、「そこへ出かける」のである。これもまた同じ言葉を二通りに使っている。それなのに契沖も他の人も、この「います」を「いにます」の略だと言い、単に「ます」のこととは別だと思っていたのは間違いである。そうだったら、上記の「西川におはします」などは、どう解釈するのか。万葉巻十七(3996)に「和我勢古我、久爾敝麻之奈婆(わがせこが、くにへましなば)」ともあるのは「い」を省いて、ただ「麻之」とさえ言っている。これらで理解すべきだ。】「伊岐豆岐」からここまでの歌の意味は、この「しなだゆう」佐々那美路を、【苦しくて、】息をつきつつ、すくすくと、わが行きませば」という順序で解すべきである。こんな風に息をつき、しかもすくすくと苦しみながら急いだのは、こんなに苦しい坂道を、急いでやって来て、何の楽しみもないかと思ったら、思いがけず美しい少女に出会い、非常な楽しみになったからだ。「や」という助辞を置いたことにも、そういう意味が見て取れる。注意して味わうべきである。【そういう意味でなかったら、単に道を行ったというだけで、「息をついた」、「すくすくと」などと言う言葉は無用である。】○許波多能美知邇(こはたのみちに)は「木幡の道に。」である。○阿波志斯袁登賣(あわししおとめ)は「遇わしし嬢子」で、前の文に「麗美孃子遇2其道衢1」とあったその嬢子である。【「遇」は、向こうがこちらに逢うのである。天皇「が」嬢子「に」逢ったという意味に見るのは、雅文の格ではない。このことは前にも述べた。】○宇斯呂傳波(うしろでは)は、「後方(後ろ姿)は」である。「で」は「つへ」が縮まった形で、「つ」は「の」と同じ、「へ」は「方」である。「おもて」の「て」も同じだ。【「おもて」は「面つ方」ということだ。前は「目(ま)方」、後(しりえ)は「尻方」で、これらも「つ」を入れないだけで、「へ」は同じである。】俗言にも「山の方」を「やまて」、海の方を「うみて」などと言う。これらも「て」は「つへ」で、同じ言葉だ。【なお「道の長手」、「縄手」などの「手」は「道」の意味であって異なる。混同してはならない。】契沖がこの句を「『後ろ手は』のことだ。『手』は助辞として付けただけで、矢河枝比賣の後ろ姿だ」と行ったが、おおよそはその通りだ。前方のことを言わないで後ろ姿を言ったのは、めぐり逢った後で、振り返って後ろ姿を見たのだ。美麗な顔のことは、次の歌にあるからである。○袁陀弖呂迦母(おだてろかも)。「おだて」は「小楯」である。「ろ」と「「も」は助辞、「か」は「かな」の意味で、賛嘆して言ったのである。【後世の歌にある「かな」と同じだ。】「小楯のようではないか」と言ったのだ。それはこの少女の後ろ姿が、楯を立てたように、背筋をまっすぐ伸ばして、凛としていたのを賞めたのだ。ところでここのように「ろかも」と言った例は、下巻の高津の宮の段、大后の歌に「淤富岐美呂迦母(おおきみろかも)」、天皇(仁徳)の歌に「他賀多泥呂迦母(たがねろかも)」、朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌に「登母志岐呂加母(ともしきろかも)」、書紀の仁徳の巻、大后の歌(二十二年)に「箇辭古耆呂箇茂(かしこきろかも)」、万葉巻三【五十九丁】(478)に「悲呂可聞(かなしきろかも)」【巻五(813)にも「多布刀伎呂可舞(イ+まい)(とうときろかも)」とある。】などがある。ところでこの「ろかも」という辞は、どれも歌の結尾にあって、中間で言った例はない。するとここも一つの歌の結尾で、次は別の歌だろう。歌の趣旨も一つの連続した歌のようではない。【同じ歌とすると、「阿波志斯袁登賣(あわししおとめ)云々」のことがあって、次にも「阿波志斯袁美那(あわししおみな)」と似たような句が二箇所にあっておかしい。これは特に重ねて言ったようでもない。また「眉畫(まよがき)」を後で言って、先に後ろ姿のことを歌うのもおかしい。】次にあるのはその日のことを詠み、ここまでは昨日のことを歌っているから、やはり二つの歌だろう。【記中で、これと同じように、二首の歌を続けて書いている例は他にもある。】○波那美波志(はなみはし)は「歯並み喙」で、葉が並んでいる嘴(くちばし)を言う。○比斯那須。は「菱なす」である。【「比」の字の一つは衍字か。延佳本にはない。だが諸本に「比比」とあるから、延佳がさかしらに削ったかも知れない。今は「蕗(ふき)」と言うものも、いにしえに「ふふき」と言ったたぐいで、「菱(ひし)」もふるくは「ひひし」と言ったのかも知れない。和名抄でも「カン(疑のへん+欠)」を「やまふぶき」、または「やまぶき」とある。】和名抄に「菱子は和名『ひし』」とある。この二句は、次の一句を隔てて、「和邇」の序になっている。【句を隔てた序の例は、「にほどりのあふみの海に潜きせな」などがある。】それは丸邇(わに)を鰐の意味に取り、この魚が強く鋭い歯を持っていることを掛けて言ったのだ。和名抄に「麻果の切韻にいわく、鰐はベツ(敞の下に魚:すっぽん)に似て四足がある。喙は三尺もあり、歯はたいへん鋭い」とある。【文選の注でも同じように言っている。この魚のことは、私はよく知らないが、「喙は三尺もあり」と言うから、魚であっても「喙(はし)」と言ったのだろう。魚の喙というのは疑問だから、「はし」は「者(主格の『は』)」で、「し」は助辞だとも考えられるが、序の詞に「者(は)」と言うのはどうだろうか。】「菱」は、書紀のこの巻(應神天皇紀)の大雀命の歌に「伽破摩多曳能、比辭餓羅能、佐辭鶏區(かわまたえの、ひしがらの、さしけく)」などがあり、先端が尖って、突き刺さるようだから、歯が鋭いことを喩えたのである。菱は万葉にも詠まれている。巻七(1249)、巻十六(3876)に見える。【契沖はこの二句を「歯並みは椎なす」と解釈して、「歯並みの美しさは椎の実を並べたようだ、ということだ」と言った。詩経に「歯は瓠犀(ひさごの種)のようだ」とあるのを似た意味だとして、この少女の歯のこととしたのは良くない。師もその意味に取り、「『志比々』の下の『比』は濁って『美』に通い、『椎実』のことか」と言ったのも良くない。もしこれが少女の歯を賞めて言ったのなら、「眉畫」より後で言うことであって、ここにあるのはどうかと思う。というのは、眉と歯を言うなら、眉を先に、歯は後に言うのが当然で、いきなり「歯は」と歌い出し、その後に眉を歌うのに長い序が付いているのは不自然だ。長い序は初めに付けるものであろう。とにかくこれを少女の歯のこととすれば、唐突な感じだ。この前の部分と一続きの歌だとしても、歯はやはり突然であり、「し」という助辞もしっくりしていない。こんなところに助辞を置くはずはないだろう。】○伊知比韋能(いちひいの)は「櫟井の」で、地名である。書紀の允恭の巻に「倭の春日に到って、櫟井の上で食事をした」とあるところで、大和国添上郡である。【今も櫟本村(奈良県天理市櫟本町)、櫟枝村(奈良県大和郡山市櫟枝町)などがあり、ともに和爾に近い(いずれも近くに和爾下神社がある)。契沖はこれを「歯並みは椎のように」と解して、また「椎のような櫟」と解したのは、一つの「那須」という語を上にも下にも用いたことになる。いにしえの歌に、そんなくだくだしい語法があったはずはない。】和邇佐能邇袁(わにさのにを)は「【真福寺本には「邇」と「袁」の間にもう一度「佐能邇」の三字が書いてある。歌にはそういうことも多く、記中にも例があり、悪くはない。】「丸邇坂の土を」である。丸邇坂は、水垣の宮の段に出た。【伝廿三の七十五葉】書紀のその巻(崇神天皇)に「和珥の武スキ(金+操のつくり)坂」とあるのも同じところだ。いにしえには、このあたりは櫟井のうちだったのだろう。「坂」を「さ」と言うのは、上巻の天之狹土(あめのさづち)神のところで言った。【伝五の四十七葉】「邇(に)」は土の総称で、青土を「青丹」【「丹(に)」は借字で、土のことである。】赤土を赭(そおに)、赤丹(あかに)【「丹」ももとは赤土のことだった。赤色を丹と言うのは、後に派生した語である。】白土(しらに)、埴(はに)、また八百丹(やおに)、【「丹」はみな借字で土のことである。】などと言う。【契沖が「和珥狹野土」と言ったのは誤りである。いにしえは「野」を「ぬ」と言ったのであって、「の」と言ったことはなかった。それに「野」とするなら、その下に「の」がなくてはおかしいだろう。大和志に添上郡には今も和珥狹野というところがあるように書いてあるのは、みだりごとである。師は「佐」を「泥」の誤字として、「泥は野である」と言ったが、記中、泥は「ね」の仮名でこそあっても、「ぬ」に使った例はない。また歌なので、訓を取って借字とするべきでもない(古事記の歌はすべて音による仮字書き)。「佐」が「坂」のことであることに疑問の余地はない。】場所も多いのに、特に丸邇坂を歌ったのは、当時黛(まゆずみ)にするのに好適な土が、ここで特に取れたのだろう。【もちろんこの少女は丸邇氏の娘だから、そのことも考えたのだろう。】○波都邇波(はつには)は「初土は」で、掘り始めたとき、表面に近い方の土である。○波陀阿可良氣美(はだあからけみ)は「膚赤らけみ」である。「はだ」とは、表面に近い土は、土の膚だからである。【とすると、「初土」が膚であって、赤らんでいるという意味なのだが、そうは言いにくいので「はだあから」と言ったのである。初土(はつに)の膚という意味ではない。「あからけ」の「け」は「寒けし」、「暑けし」などの「け」で、「赤らけし」、「赤らけき」などと活用する。】「み」は「風疾(かぜはや)み」、「道遠(みちとお)み」などの「み」で、「土黒き故(ゆえ)」の「故」と同意である。「赤らけきゆえに」といった意味だ。【契沖がこの「み」を次の句に付けて解したのは誤りである。】この「赤らけき」は、真っ赤なのでなく、少し赤ばんでいるのも、黄ばんだのも言う。【契沖が言うには、「およそ土を掘るときは、たいてい上の方は黄、あるいは赤であるから、万葉にも黄土・赤土と書いて、いずれも『波邇(はに)』と読む。和名集にいわく、・・・波邇とは波都邇の略であることは、(古事記の)この歌で分かる」と言ったのは、すべて間違っている。これは「はに」は「はつに」の略という予断があって、それに合わせようと無理にこじつけた説である。「はに」は「はつに」の略でなく、別の言葉だ。それに上の方の土は必ず黄、あるいは赤とは決まっていない。かえって上の方はそれほどでもないのに、下の方の土が黄や赤であることも多い。この歌は、全く丸邇坂の土について言っているので、どこの土も同じだと言うのではない。】○志波邇波(しはには)。【真福寺本に、「志波」を「志婆」と書いてあるのは、間違いだろう。】底の方の土はということで、「志波」とは、ものの終わりを言うように思われる。年の終わりを「しはす(しわす)」と言って「極月(ごくげつ)」と書くのは、その一例だ。【これも初土に対して終土と考えれば、筋が通るように思う。】また万葉巻十一【三十二丁】(2696)に「師齒迫山、責而雖問、汝名者不告(しはせやま、せめてとうとも、ながなはのらじ)」といっているのも、「しはせ」を「究極まで責める」の意味に取って、「責める」の序にしているように聞こえる。【そうでないなら、単に「せ」を「責める」の序としていることになるが、ありそうにないことだ。また「しは」を「しばしば」の意味に取るのもどうかと思う。】ところで契沖はまた、「俗に土を掘って底の方から黒い土が出るのを、『しおつち』と言う。これは『しは土』を言っているのではないか」とも言った。【また「鹽土の老翁」を引き合いに出して、これも「塩土」なのを、通わせて「しはに」と言ったかとも言ったが、それはなおさら違っている。師は「は」は「た」と通うから、「下土(したに)」のことだろうと言ったが、これも良くない。】○邇具漏岐由惠(にぐろきゆえ)は、契沖が「土黒(にぐろ)き故」と解したが、これはもっともである。「土黒き」とは、同じ黒いと言っても様々ある中に、土の黒さで、光沢や華やかさのないのを言うのだろう。あるいは「に」と言うのは「鈍い」の意味だろうか。【鈍い黒さ、ということだ。】それも光沢や華やかさのない意味は同じだ。ここまでの四句は、初土(はつに)の赤らんでいるのも、終土(しはに)の土黒(にぐろ)いのも、黛に適していないから取らないことを言っている。○美都具理能(みつぐりの)は「三栗の」ということで、「中」の枕詞である。その説明は冠辞考に見える。○曾能那迦都邇袁(そのなかつにを)は、【真福寺本には、「曾能」の次にもう一度「曾能」とある。】「その中つ土を」である。初土と終土」の中間を言う。それが黛に用いるのに適していたのである。【契沖は「埴(はつに)」と「しお土」の中間には、青い土があるからだと言ったが、これもそうと決まったものではない。単に丸邇坂の土について言ったのだ。仮に丸邇坂の土がそうでなくても、仮構で言ったとも考えられる。】このように上・下・中を挙げて、中を取るのは、書紀の應神の巻の歌にも「下枝(しずえ)は・・・上枝(ほつえ)は・・・三ツ栗の中枝(なかつえ)の」とあるたぐいだ。この他にも、物を種々挙げて、良くないのを捨て、最後にいいのを挙げてそれを取るのは、上巻の八千矛神の歌にもあった。このように、初めに悪いのを挙げて捨てるのは、最後にいいものを取るための序に過ぎない。○加夫都久(かぶつく)は、「頭衝(かぶつく)」だと契沖が言った。また「頭槌の劔」を~武紀の歌で「句ブ(務の下に鳥)都々伊(くぶつつい)」、神功紀の歌に「句夫菟智(くぶつち)」とあり、「兜(かぶと)」も「かぶ」は「頭」、【で、「と」は「尖る」意味か。】「被(かぶる)」も「頭(かぶ)」【「入る」を略した形】だと言った。【この説のうち、「と」は「尖る」の意味だと言い、「入る」を略した形だと言ったのは間違いである。また「蕪(かぶら)」の「かぶ」も挙げているのは当たっていない。】また書紀の神代巻で「垂穎」を「かぶして」と読んでいるのも「頭伏して」である。この句の意味は、かんかん照りの日光に当たると、頭を衝くような感じだと言ったのだ。【契沖が「強い日差しに長く当たると、頭が痛くなるから」と言ったのは、少し違う。また師は「上附く」だろうと言い、日が天高く上っている意味に解したが、これはよくない。】○麻肥邇波阿弖受(まひにはあてず)は、【記中、「肥」は「火」の仮名に用い、「日」には「比」だけを用いるのだが、ここは間違いなく「日」の意味だから、「肥」を書いたのは、うっかりして取り違えたのだろう。】契沖は「『真日には当てず』だ。万葉巻十四(3461)に『眞日久禮底(まひくれて)』とある。強い日に当てると、青い土の色が変色するから、当てないのである」と言った。「眞日」は激しく照るから「眞」と言い。「頭衝(かぶつく)」と同意であり、この言葉は重要な意味がある。【上記の万葉巻十四の「眞日」は、「眞」にそれほど意味はない。「眞」という語は、軽く添えただけの場合と、重要な意味を持つ場合がある。万葉巻廿(4388)に「旅と云へど眞旅(またび)になりぬ」とあるのなどは、重要な意味を持つ例である。】この二句は、穏やかな日に当てて乾かしたことを言うためで、【だから強い日光に当てなかったと言ったのである、そうでなければ、ただ日に当てなかったというだけで、何の意味もないように聞こえるだろう。】穏やかな日に当てて乾かし、粉にして黛に用いたのである。万葉巻十六【蟹の長歌(3886)の中】に「足引乃、此片山乃、毛武爾禮乎、五百枝波伎垂、天光夜、日乃異爾干、佐比豆留夜、辛碓爾舂(あしびきの、このかたやまの、もむにれを、いおえはぎたれ、あまてるや、ひのけにほし、さいずるや、からうすにつき)云々」とあるのに似た様子である。この歌の初めからここまでは、次の「眉畫(まよがき)」の序のようになっている。○麻用賀岐許邇(まよがきこに)は「眉畫き濃に」である。【契沖が「こに」を次の句に付けたのは誤りである。】「眉」は、いにしえは「眉〜」と下に続く語があると「まよ」と言うことが多かった。書紀の仲哀の巻に「美女(おとめ)之ロク?(目に祿のつくり:ただし底本正字は、つくりの下側が水)、ロク、これを『まよびき』と読む」とあり、万葉巻五【九丁】(804)に「惠麻比麻欲毘伎(えまいまよびき)」とあるようなことだ。【「引き」というのは、長く引いたことを言う。】新撰字鏡に、「黛は、青黒色である。夫人の眉を飾る黒色である。『まよびき』」と見え、和名抄には「説文にいわく、眉は目の上の毛である。和名『まゆ』」、また「説文にいわく、黛は眉を描く墨である、和名『まゆずみ』」などとある。「こに」は「濃に」ということで、「濃く」と言うのと同じ。【だから「に」は「てにをは」なのだが、契沖がこれを「丹」と注した(色という名辞に解した)のは誤りである。】加岐多禮(かきたれ)は「描き垂れ」ということだ。「描き」というのは、上記の土で眉を描いたことを言う。【源氏物語の末摘花の巻でも、顔に紅粉を着けるのを「かきつけ」と言っている。】「垂れ」とは、眉の形は三日月のように、細く曲がって、橋を垂れた形に描くので、こう言った。万葉巻六【二十九丁】(993)に「三日月之眉根(みかづきのまゆね)」、巻十四【二十九丁】(3531)に「麻欲婢吉能與許夜麻(まよびきのよこやま)」、巻十九【卅丁】(4220)に「於吉都奈美、等乎牟麻欲妣伎(おきつなみ、とおむまよびき)」【「とおむ」とは、たわんでいることを言う。】ともある。みなその形が似ているからである。女の顔の美しさを言うのに、主に眉を言うのは、万葉巻十二【七丁】(2900)に「吾妹子之、咲眉引、面影懸而(わぎもこが、えまいまよびき、おもかげにかかりて)」、巻十九【二十二丁】(4192)に「青柳乃、細眉根乎、咲麻我理(あおやぎの、ほそきまゆねを、えみまがり)」など、例がたくさんある。【漢国も同じだ。】○阿波志斯袁美那(あわししおみな)は、「遇しし女」である。前日に木幡の衢で逢ったことを言う。「おみな」を後世「おんな」、「おうな」などと言うのは、音便で崩れたのであって、正しくない。いにしえはみな「おみな」と言い、下巻朝倉の宮の段の歌にもそうあり、万葉巻廿【十五丁】(4317のことか?)にも「乎美奈(おみな)」とある。【「おんなご」というのは「女子」のことである。また「おなご」というのは「おんなご」の略した形だ。「嫗(おみな:旧仮名も同じ)」は老女である。女(おみな:旧仮名ヲミナ)とは「を」と「お」で区別している。嫗のことは、上巻、伝九の十八葉で言った。ところで、「おみな」を「麻(お)を績(う)むことから言う」という説は当たっていない。】○迦母賀登(かもがと)は、「迦」については後に言う。「もが」は、欲し願うことで、下にも「も」を添えて「もがも」と言うのも同じ。【後には「〜もがな」と言った。】下巻朝倉の宮の段の歌に「和紀豆紀能、斯多能伊多爾母賀(わきづきの、したのいたにもが)」書紀の雄略の巻の歌に「伊能致謀、那我倶母鵝騰(いのちも、ながくもがと)」、万葉巻三【二十五丁】(306)に「花爾欲得(はなにもが)」、また(478)「如此毛欲得跡(かくしもがと)」、巻五【三十八丁】(902)に「千尋爾母何等、慕久良志都(ちひろにもがと、ねがいくらしつ)」、また【三十九丁】」903)に「千年爾母何等、意母保由留加母(ちとせにもがと、おもおゆるかも)」、巻六【十三丁】(920)に「如是霜願跡、天地之、神乎曾祷(かくしもがもと、あめつちの、かみをぞいのる)」【契沖はこの句を「『鴨か』と言ったのだ。黛が緑だったことを言っている」と言ったのは、大きな間違いだ。眉の色が緑だからと言って、人を「鴨か」とは、どうして言うだろう。】○和賀美斯古良(わがみしこら)は「吾が見し兒ら」である。前日に見たのだ。【次にあるのも同じ。】女を「児等(こら)」と言った例は、万葉に多い。巻三【二十一丁】(284)に「燒津邊、吾去鹿齒、駿河奈流、阿倍乃市道爾、相之兒等羽裳(やきつべ、わがゆきしかば、するがなる、あべのいちじに、あいしこらはも)」、巻五【二十一丁】(856)に「麻都良奈流、多麻之麻河波爾、阿由都流等、多々世流古良何、伊弊遲斯良受毛(まつらなる、たましまがわに、あゆつると、たたせるこらが、いえじしらずも)」【「ら」とは、必ずしも複数をいうのでなく、一人についても言う。東歌では「ころ」と言うことが多い。】○迦久母賀登(かくもがと)。前記の「迦」【迦母賀の迦】と、この「迦久」は相対した言葉で、万葉巻二【十八丁】(138)の「彼依此依(かよりかくよる)」、また【三十三丁】(196)の「彼往此去(かゆきかくゆき)」、巻三【四十一丁】(399)の「左右將爲(かもかくもせん)」、巻四【三十四丁】(619)に「云々意者不持(かにかくにこころはもたず)」、また【三十八丁】(628)に「鹿煮藻闕二毛(かにもかくにも)」、巻五【七丁】(800)に「可爾迦久爾(かにかくに)」、巻十六【十九丁】(3836)に「左毛右毛(かにもかくにも)」などとある「か」と「かく」である。【「彼此」とか「左右」と書いてあるような意味だ、中昔からは「か」を「と」と言って、「とかく」、「とにかくに」などと言った。今の世では「どうこう」などと言う。】とするとここも「迦母賀迦久母賀(かもがかくもが)」と続けて言うべきなのだが、それを二つに分けて言ったのであって、【それはいにしえの長歌では普通の言い方だ。】それはどうにかしてこの少女を手に入れて、ああもしたい、こうもしたいと、いろいろ思い巡らしていたのだ。【たとえば大盃を取って飲みたい、手を繋いで歩いてみたい、手枕をして寝てみたいなど、あれこれ思ったわけで、俗言にどうしようか、こうしようかと思ったという意味である。また以前思ったのは、「か」は「彼」で、その少女もまた同じではないかと思ったことであり、「かく」はついにその少女を得られそうになった今の状態を言い、「私はこうありたいと思ったのだ」と言ったのではないかと考えた。そう見ると、分かりやすいようだが、「か」と「かく」を対に考えるなら、やはりそうではあるまい。前述のような意味だ。契沖はこの句の頭の「か」を前の句に付けて解し、「我が見し児らか」の意味とし、この句を「雲か」と言う意味だと注して、「雲客」など詩にも作っていると言ったが、これは何とも言いようのないひどい解釈だ。人を雲かと見まごうようなことはあるはずがない。】○阿賀美斯古邇(あがみしこに)は、「吾が見し兒に」である。「児」は「児ら」と同じ。【「吾」を前には「わが」、ここでは「あが」とある。前には「こら」、ここでは「こ」とある。このように同じことを前後少しずつ変えて言うのは、古歌の常道である。】○宇多氣陀邇(うただけに)は、【諸本で「多」の字が二つ重なってある。ここは延佳本によった。これは延佳がさかしらに一つ削ったようでもあるが、やはり「多多」と書いているのは、一つは衍字だろう。一字を誤って重ねて書いた例は、幾つかある。ここは五言の句が来るはずのところである。この句が六言だったら、この箇所は六、六、七、七になる。上代の歌は、後世のように五、七、五でこそないが、六言と七言の句が、四句も続いた例はない。その間には、必ず四言、五言の句がはさまっているはずだからだ。】解しがたいが、強いて言えば「轉(うたた)宴(うたげ)に」ということで、「うたた」の「た」を一つ省き、【同音が重なると、一つを省く例が多いのは、上述した。】また「うたげ」の「う」を省いたもので、【頭の「う」を省く例も多い。】もとは「宇多陀氣邇(うただけに)」だったのを、「陀」と「氣」を上下誤ったのだろう。これが本当に「宴」なら、「だ」は清んで言い、「け」は濁るはずだが、清濁が逆なのはなぜかと言うと、「だ」は「うたた」から続いているから濁って読み、「だ」を濁ったから「け」は清むのである。これはいにしえの音便で、上巻に「豊久士比泥別(とよくじひねわけ)」とある「じひ」の清濁と同じだ。そのことはそこで言った。参照せよ。【伝五の十四葉】訶志比の宮の段の歌に「宇多陀怒斯(うただぬし)」とあったのも、「轉(うたた)樂(たぬ)し」だと、そこ【伝卅一の四十九葉】で注したのも考え合わせよ。「うたた」の「た」を一つ省いたのも、「だ」を濁るのもここと同じだ。そこもここも、共に宴に際して歌ったのも同じだ。「うたた」の意味は、そこでもいったように、ますます進んで、盛んになる意味である。【契沖いわく、「『宇多々氣陀邇(うたたけだに)』は、誤って字を入れ違って書いたのであって、正しくは『宇多氣多陀邇(うたけただに)』だろう。『宴直に(うたげただに)』ではないか。宴で直接対面した意味だろう」と言ったのは、疑わしい。宴の席で直接に、というのを「宴直に」と言っては、語が整わない。また師は「『轉(うたた)氣(げ)に』だ。『うたた』は物事が重なり合って重すぎるのを言うから、ここも余りにも近くなったことだと言ったのだ」と言うが、「轉氣(うたたげ)」の「氣」という語は、上代の言葉とは思えない。また「だに」という辞も合わないだろう。】<訳者註:この句は、現在ではやはり「うたたけだに」とあるのが本来で、宣長が誤写と推論したのは間違っているとされる。>○牟迦比袁流迦母(むかいおるかも)は、「向かい居るかも」である。○伊蘇比袁流迦母(いそいおるかも)は、「い」は発語であって、「添い居るかも」だと契沖は言った。「そい」とは、並び合っているのを言う。今の世でも、夫婦であることを「添う」と言う。黒田の宮の段で、「二柱相副而(ふたばしらあいそわして)」とあったところ【伝廿一の四十七葉】で言ったのと同じだ。○この歌全体の意味は、【初めの「はなみはし」から、「まひにはあてず」までを序として、】美しく眉を描いて、美麗な顔貌の少女が、昨日道に遭遇したのを見て、何とかして彼女を手に入れ、ああもしよう、こうもしようと思っていた、その娘が、今日は御盃を提供し、うたた宴して、同じ席に向かい合っている。寄り添っていることだと、たいへん楽しく感じて、喜びをかみしめているのである。○「如此御合云々也」は、「かくみあいまして、うみませるみこぞ、うじのわきいらつこにましける」と読む。というのは、前の段で、この御子に天津日継の地位を取らせようと言っており、それに続けてこの矢河枝比賣のことを語ったのは、この段の全体が和紀郎子の出自を語るためと思われるからで、このように読むと、その意味になるからだ。【それを、この段がただ何となく矢河枝比賣のことを語っただけで、ここの読みも「御子、宇遲能和紀郎子を生んだ」と読んだのでは、前に既にこの御子のことを書いたのと、前後が逆のようでおかしいだろう。だが「自レ宇下五字以レ音」という注は、この名が初めて出たところにあるはずのもので、ここにあるのは変である。】○この段の記述からすると、丸邇の比布禮の臣の家は、木幡村の近くだろう。とすると、この矢河枝比賣の生んだ子も、宇治に住んでいたのだろう。【宇治と木幡はたいへん近い。】また妹の袁那辨郎女(おなべのいらつめ)の生んだ子も、「宇遲之若郎女(うじのわきいらつめ)」と言っているのも、宇治に住んでいたからだと聞こえるから、いずれも外祖父の家に近いところという理由で、宇治に住んでいたのだ。【いにしえには、子は母の家で育てることになっていた。】

 

天皇聞=看2日向國諸縣君之女名髮長比賣。其顏容麗美1。將レ使而。喚上之時。其太子大雀命。見2其孃子泊1レ于2難波津1而。感2其姿容之端正1。即誂=告2建内宿禰大臣1。是自2日向1喚上之髮長比賣者。請=白2天皇之大御所1而。令レ賜レ於吾。爾建内宿禰大臣請2大命1者。天皇即以2髮長比賣1賜レ于2其御子1。所レ賜状者。天皇聞=看2豊明1之日。於2髮長比賣1令レ握2大御酒柏1。賜2其太子1。爾御歌曰。伊邪古杼母。怒毘流都美邇。比流都美邇。和賀由久美知能。迦具波斯。波那多知婆那波。本都延波。登理韋賀良斯。支豆延波。比登登理賀良斯。美都具理能。那迦都延能。本都毛理。阿加良袁登賣袁。伊邪佐佐婆。余良斯那。又御歌曰。美豆多麻流。余佐美能伊氣能。韋具比宇知。比斯良能。佐斯祁流斯良邇。奴那波久理。波閇祁久斯良邇。和賀許許呂志。伊夜袁許邇斯弖。伊麻叙久夜斯岐。如レ此歌而賜也。故被レ賜2其孃子1之後。太子歌曰。美知能斯理。古波陀袁登賣袁。迦微能碁登。岐許延斯迦杼母。阿比麻久良麻久。又歌曰。美知能斯理。古波陀袁登賣波。阿良蘇波受。泥斯久袁斯叙母。宇流波志美意母布。

 

訓読:スメラミコトひむかのくにのムラガタのキミのむすめナはカミナガヒメ、それかおよしときこしめして、つかいたまわんとして、めさげたまうときに、そのひつぎのみこオオサザキのミコト、そのオトメのナニワヅにはてたるをみたまいて、そのかおよきにめでたまいて、すなわちタケウチのスクネのオオオミにあとらえたまわく、「このヒムカよりめさげたまえるカミナガヒメをば、スメラミコトのおおもみもとにコイもうして、アレにたまわしめよ」とノリたまいき。かれタケウチのスクネのオオオミおおみことをコイしかば、スメラミコトすなわちカミナガヒメをそのみこにたまいき。たまえるさまは、スメラミコトとよのあかりきこしめすひ、カミナガヒメにおおみきのカシワをとらしめて、そのひつぎのみこにミウタよみしたまわく、「いざこども、ぬびるつみに、ひるつみに、わがゆくみちの、かぐわし、はなたちばなは、ほつえは、とりいがらし、しずえは、ひととりがらし、みつぐりの、なかつえの、ほつもり、あからおとめを、いざささば、よらしな」。また、「みずたまる、よさみのいけの、いぐいうち、ひしらの、さしけるしらに、ぬなわくり、はえけくしらに、わがこころし、いやおこにして、いまぞくやしき」。かくうたわしてたまいき。かれそのオトメをたまわりてのちに、ひつぎのみこのよみたまえる、「みちのしり、こはだおとめを、かみのごと、きこえしかども、あいまくらまく」。また、「みちのしり、こはだおとめは、あらそわず、ねしくおしぞも、うるわしみおもう」。

 

歌部分の漢字表記(旧仮名)

いざ子ども、野蒜摘みに、蒜摘みに、吾行く道の、香ぐはし、花橘は、上枝は、鳥居枯らし、下枝は、人取り枯らし、三つ栗の、中つ枝の、ほつもり、赤ら嬢子を、いざささば、良らしな

水溜る、依網の池の、堰杭打ち、菱殻の、刺しける知らに、ぬなわ(くさかんむりに専)繰り、延へけく知らに、吾心し、いや愚にして、今ぞ悔しき

道の後、古波陀嬢子を、雷の如、聞こえしかども、相枕枕く

道の後、古波陀嬢子は、争はず、寝しくをしぞも、愛しみ思ふ

 

口語訳:天皇は日向の国の諸縣の君の娘、髮長比賣がたいへん美人だと聞き、娶ろうとして呼び寄せたが、太子の大雀命(後の仁徳天皇)が、その嬢子が船で難波津に着いたのを見て、その美しさに惚れ込んでしまった。すぐに建内宿禰大臣に相談して、「この日向の髪長比賣を私の嫁にしてくれるよう、天皇に取り次いではもらえまいか」と頼んだ。そこで建内宿禰大臣は天皇に、そのように取り計らって頂きたいと頼み込み、天皇はすぐ御子に髪長比賣を与えた。その様子は次のようであった。天皇は豊明(大宴会)を催した日、髪長比賣に御酒を盛った柏を持たせ、太子に捧げさせた。そこで歌って、「さあ、我が子よ。野蒜を摘もうとして行く道に、香しい花橘が咲いていた。上の方の枝は鳥に食われて枯れているし、下の方の枝は人に取られて枯れていたが、三つ栗の中程の枝には実が残って、美しい嬢子がいる。誘うなら、良いようにせよ」。また「依網の池に堰杭を打とうとして、水中に菱の殻があるのも知らず、ぬなわがどこまでも延びているのも知らないで、私は愚かだった。今は悔しい気持ちだ」と歌った。こうして髪長比賣を賜った後、太子は歌って、「西海道の向こうの古波陀嬢子を、遠雷のように遙かに聞いていましたが、こうして床を共にすることができました」。また、「西海道の向こうの古波陀嬢子は、争うことなく共に寝ることができ、愛しく思います」。

 

日向(ひむか)は上巻に出た。○諸縣君(むらがたのきみ)は、和名抄に「日向国諸縣は『むらがた』」とあるところだ。【どの書物にも「諸縣」とあるから、本来は「もろがた」だったのを、「むら」と読むのは、後に訛ったのかも知れないが、取りあえず和名抄に従って読んでおく。「がた」は「あがた」だから、濁るのが当然だ。】この姓は、旧事紀に「豊國別の命は日向の諸縣君の祖」とある他には見えない。【豊國別王は景行天皇の御子で、この記では「日向国造の祖」とある。諸縣の君がこの王の子孫なら、髪長比賣の父は、この王の子、または孫であろう。】書紀の景行の巻には、既に諸縣君泉媛(いずみひめ)という名が見える。高津の宮の段では、「上で言った日向の諸縣君、牛諸(うしもろ)の娘、髪長比賣」とあるが、ここでは姓だけを書いて名がないのは、落ちたのだろう。その名は、書紀では牛諸井(うしもろい)、また細書の説に牛(うし)とある。淡路國風土記にも「諸縣郡牛」とある。【ここの「郡」の字は、「君」の誤りだろう。】○髪長比賣(かみながひめ)。名の意味は、字の通りだろう。ただし書紀の景行天皇の妃にも、日向の髪長大田根という名があり、あるいは地名なのかも知れない。それとも、この名から紛れたのか。【またこの天皇の妃に日向の泉の長比賣という名もある。書紀の景行の巻に、諸縣君泉媛という名もある。】○顏容麗美を「かおよし」と読むことは、既に述べた。【伝十六の廿二葉、伝廿の十五葉】「其」を「それ」と読むべきだということも、同じところで言った。○將使は「つかいたまわんとして」と読む。【師は「みつかいもて」と読んだが、そうではない。】「使う」は、今も人を使うと言う「使う」である。上巻に「石長比賣を使ったなら」とあるところ、【伝十六の二十八葉】玉垣の宮の段に(沙本毘賣が丹波の比古多多須美智宇斯王の娘、兄比賣、弟比賣をすすめて)「・・・故宜レ使也」とあるところ【伝二十四の六十葉】で言った。○喚上(めさげ)は玉垣の宮の段に出た。【伝廿五の四十六葉】書紀【細書に】「一にいわく、日向の諸縣君、牛は長く朝廷に仕えてきたが、年が寄って務められなくなった、そこで本国に帰りたいと申し出たが、そのとき娘の髪長媛を奉った。彼女が初めて播磨にやってきたとき、天皇は淡路島で狩をしに出かけたが、・・・(髪長媛を送ってきた水夫たちに)『お前たちは誰か』と尋ねたところ、『諸縣君の牛は、たいへん年を取って務められなくなりましたが、朝廷を忘れられず、その娘、髪長媛を奉るのです』と答えた。天皇は非常に喜んで、彼らを自分の船に従わせた」とある。○太子(ひつぎのみこ)。いにしえは、太子は一人と限らなかったことは既に述べた。大雀命も太子だったのだ。【師が「ここを太子と書いたのは、後人が誤ったのだ。御子とあるべきところである」と言ったのは、かえって間違いだ。】○難波(なにわ)は、前に「浪速之渡」とあったところ【伝十八の二十七葉】で言った。○泊(はて)とは船が着くことを言う。西国から上る船は、みな難波津に泊まる。これは、いにしえも今も同じだ。この太子は難波に住んでいたので、そこに船が着いたときに見かけたのだ。○姿容を「かお」と読むことは、前にも言った。【伝十三の五十七葉】○端正は「よき」と読む。これも前に言った。【伝廿三の四十六葉】○誂(あとらえ)。前に出た。【伝廿四の三十六葉】○告は「詔」である。【告げたということではない。】○「令レ賜(たまわしめよ)」は、「賜う」は天皇の動作で、「令」は大臣がすることである。【中古の物語文などで、単に賜うことを「たまわす」と言うのとは異なる。】「天皇が私に賜うようにさせよ」と言ったのだ。○「請2大命1(おおみことをこう)」とは上巻に「(伊邪那岐・伊邪那美の二神が)共參上、請2天~之命1」とあったのと同じで、太子の相談を受けて、それを承諾する旨の詔をくださるようお願いしたのである。○其御子(そのみこ)。前後にいずれも「太子」とあるのに、ここだけが「御子」とあるが、特別な意味はないだろう。ただ、太子とあるのは太子だったからそう書いただけで、実はみな「みこ」と読むべきだと知らせようとして、ここに一つだけ書いたのかも知れない。【記中にそういう例は多い。】○所賜状者(たまえるさまは)とは、比賣を太子に与えたときの状況を言う。○豊明は「とよのあかり」と読む。下巻若桜の宮(履中天皇)の段に、「坐2大嘗1而爲2豊明1之時(おおにえにましてとよのあかりきこしめすときに)云々」、また同じ段、高津の宮の段、朝倉の宮の段に「豊樂(とよのあかり)」とも書かれている。万葉巻十九(4266)には「豊宴」とも書かれる。【「明」は言葉のまま書いた字で、その意味で書いたのではない。「樂」、「宴」などは字の意味で書いたのである。】書紀では「宴」また「讌」、「宴樂」、「宴會」、「宴饗」などとあるのをそう読んでいる。「豊」は例によって称えて言ったもので、【「豊之」と「の」を添えて言った例も、万葉に「豊之年」とあり、後には「豊之御禊」などと言ったことがある。】「明」は、もとは酒を飲んで顔が赤らんだのを言い、大嘗の祝詞に「天都御食乃長御食能遠御食登、皇御孫命乃大嘗聞食牟爲故爾(あまつみけのながみけのとおみけと、すめみまのみことのおおにえきこしめさんためのゆえに)・・・千秋五百秋爾、平久安久聞食弖、豊明爾明坐牟、皇御孫命能(ちあきのいおあきに、たいらけくやすくきこしめして、とよのあかりにあかりまさん、すめみまのみことの)云々」、中臣の壽詞(よごと)に、【台記の大嘗會の別記に載っている。】「悠紀主基乃黒木白木乃大御酒遠、大倭根子天皇我、天都御膳乃長御膳乃遠御膳止、汁仁毛實仁毛赤丹乃穂仁所聞食弖、豊明仁明御坐弖(ゆきすぎのくろきしろきのおおみきを、おおやまとねこすめらが、あまつみけのながみけのとおみけと、しるにもみにもあかにのほにきこしめして、とよのあかりにあかりまして)云々」とあるのがそうである。祈年祭の祝詞に「赤丹穂爾聞食(あかにのほにきこしめし)」とあるのも同じで、酒を飲んで顔が赤らむのを言う。続日本紀廿六に「黒紀白紀能御酒乎、赤丹乃保仁多末倍惠良伎(くろきしろきのみきを、あかにのほにたまええらぎ)」【貞観儀式の大嘗祭の儀、新嘗會の儀、また三代実録四十六などにも同様に書いてある。】とあるので分かる。【師はこの「明坐(あかりまし)」も「赤丹の穂」も、出雲国造の神賀詞に、「赤玉乃御阿加良毘坐(あかだまのみあからびまし)」とあるのを引いて、「何の病もなく、御顔が赤い(血色がよい)ことを言う」と注した。出雲国造の神賀詞などはそうだろうが、前記の書物などに出ているのは、普通の顔色を言うのでなく、酒を飲んで顔が赤らんだのを言うのだ。続日本紀の文で理解せよ。大嘗の祝詞には「御食(みけ)」とだけあり、酒のことは言っていないが、「豊明爾云々」とあるのは、どんなことかと言えば、御食といえば酒も入っているのである。大嘗は特に酒を重視することは、言うまでもない。中臣の壽詞の文で分かる。病がなくて顔が元気に赤らんでいるのも、酒を飲んで赤らむのも、御顔が赤いのは同じで、また顔が美麗なのも「赤る」と言う。ここの歌でも「阿加良袁登賣(あからおとめ)」とあり、万葉にも「丹穂面(にのほのおも)」などがある。これもまた顔が赤いと言うのは同じだ。】とすると「豊明」というのは、もともと【豊明爾明坐(とよのあかりにあかりまし)と言って、】前に出た「登余本岐本岐(とよほぎほぎ)云々」、「神集爾集(かむつどいにつどい)」、「伊都の千別に千別て(いつのちわきにちわきて)」などと言うのと同様の言い方だったのが、すなわちその宴の名になったのだ。【そもそも顔が赤いのは、面が栄えているのであって、神代の歌に「朝日の咲栄(えみさか)え」とあるのも、「朝日の赤い光が差してくるような」といった意味である。「酒」という名も、師が言った通り、「さかえ」が縮まったので、これを飲むと、心も(浮き立ち)顔色も(良くなって)栄えることを言う。だから豊明とは、天皇をはじめ、参加した他の者もみな酒を飲んで顔を赤らめ、咲楽(えらぎたぬし)むことを言う名と知るべきだ。それを師は、上記の大嘗祭の祝詞に「豊明爾明坐牟」とあるのを、豊明は冠辞と考え、「豊明節會(とよのあかりのせちえ)は、卯の日之祭が終わって、辰の日の夕べに、豊樂院で宴するのを言う。それは夜のことなので、庭火を立てて明るくし、おびただしく輝くことを『豊の明かり』と言ったのだ。すべて夜の宴を、朝廷で行うのは豊明と言うのは、これと同じである。『豊』は大きなという意味である」と言ったのはどうだろう。「明坐牟」を御顔が赤いことと良いながら、「豊明」は庭火を立てて明るくすることと解したのは納得できない。これは上述のように「神集爾集」などと同様の語法なのだから、前の「明」と後の「明」と意味が違うわけがない。またこのように続けて言う時の豊明は、単に御顔が赤らんだことを言う言葉であって、宴の名ではないのを、宴のこととして説いたのは、言葉の本末が違っているだろう。】続日本紀廿六に「今日方大新嘗乃猶良比能、豊明聞行日仁在(きょうはおおにえのなおらいの、とよのあかりきこしめすひにあり)」、同卅に「今日方新嘗乃猶良比乃、豊乃明聞許之賣須日仁在(きょうはにいなえのなおらいの、とよのあかりきこしめすひにあり)」、万葉巻十九【四十二丁】(4266)に「豊宴、見爲今日者、毛能乃布能、八十伴雄能、嶋山爾、安可流橘、宇受爾指、紐解放而、千年保伎保伎、吉等餘毛之、恵良々々爾、仕奉乎、見之貴左(とよのあかり、みしせすきょうは、もののふの、やそとものおの、しまやまに、あかるたちばな、うずにさし、ひもときさけて、ちとせほぎほぎ、いいとよもし、えらえらに、つかえまつるを、みるがとうとさ)」、宇津保物語、藤原の君の巻に、「七日七夜とよのあかりして、打上げあそぶ」、【「うちあげ」は宴である。】これは大嘗、新嘗に限らず、何時であっても言う名で、ここにあるのもそうである。類聚国史の天長四年正月、踏歌の宴も、詔に「今日の豊樂理(とよのあかり)」と言っている。【それを後世には、新嘗の節会に限るようになり、これを「豊明の節會」と言っている。】○大御酒柏(おおみきのかしわ)は、酒を受けて飲む葉である、貞観儀式の「大嘗會の儀」に、「・・・次に神服の男七十二人が、青摺りの布の衫(ころも)と日蔭縵(ひかげかづら)を着け、おのおの酒柏を取る。ここに言う酒柏は、弓弦葉(ゆづるは)を白木に挟み、四重にしたもので、別に四枚が左右にある」、また午の日の儀に、「次に神祇官、中臣、忌部及び小齋(おみ)の侍従以下、番上以上が、左右に分かれて入る。造酒司人は、別に柏を賜う(配る?)。すなわち酒を受けて飲み終われば、柏を縵にして、和舞を舞う」と見える。大嘗祭式にも見える。この柏のことは、より詳しくは下巻高津の宮の段に、「大后は豊樂(とよのあかり)を行おうとして、御綱柏(みつながしわ)を採り云々」とあるところ【伝三十六の二葉】、また同段に「豊樂を行うとき、・・・大后みずから大御酒の柏を取って、諸氏の女たちに与えた。云々」とあるところ【伝卅七の二十二葉】で言うことも考え合わせよ。そもそも酒を柏に受けて飲むことは、たいへん上代の慣わしだったのが、決まった礼になって、豊明などでは、必ずそうしたのである。万葉巻十九【二十四丁】(4205)に「皇神祖之、遠御代三世波、射布折、酒飲等伊布曾、此保寳我之波(すめろぎの、とおみよみよは、(いしきおり)、さけのめというぞ、このほおがしわ)」<訳者註」この「射布折」を宣長は読んでいない>、催馬楽の美濃山の歌に「美乃也萬爾、之々爾於比多留、太萬加之波、止與乃安可利爾、安不加多乃之左也、安不加太乃之左也(みのやまに、しじにおいたる、たまがしわ、とよのあかりに、あうがたのしさや、あうがたのしさや)」。【これは酒の柏に用いられるのである。】「かしわ」というのは、特定の一種の名ではなく、飲食に用いる木の葉をそう呼んだ。だから書紀の仁徳の巻には「葉」の字を「これを『かしわ』と読む」とある。だが「〜がしわ」などと名の付いた木も、古来いくつかあるのは、特にそうした用途によく用いたものをそう呼んだのだ。【古い書物で、「かしわ」という語に「柏」の字を当てたのはどういう訳だろうか。和名抄には「槲」の字を挙げて「和名『かしわ』」とある。これはどの木のことを言うのか、分からない。あるいは今も主に「かしわ」と呼んでいる木のことだろうか。】一般に上代には飲食の道具に、木の葉を用いることが多く、【後にも、万葉巻二(142)に「家有者、笥爾盛飯乎、草枕、旅爾之有者、椎之葉爾盛(いえならば、けにもるいいを、くさまくら、たびにしあれば、しいのはにもる)」などとある。】飯を炊(かし)くにも、甑に葉を敷き、また上を覆って炊いたから、「炊葉(かしきは)」の意味で「カシハ(新仮名かしわ)」と言ったのである。「ひらで」というものも、書紀に「葉盤」とあるとおり、葉で作ったものである。膳夫(かしわで)というのも、飲食に用いる葉を取り扱うから、この名になった。伊勢物語に「海松(みる)を高坏(たかつき)に盛て、柏をおほひて出しける」とあるのなども、いにしえの風儀が残っていたのだ。【今の世でも、食べ物を盛る器には、木や草の葉を敷いたり、覆ったりすることがある。】○「賜2其太子1(そのひつぎのみこにたまう)」は、髪長比賣を与えたのだ。○御歌(みうた)は天皇が歌ったのである。書紀によると、「十一年、『日向国に髪長媛という女性がおります。諸縣君牛諸井の娘で、たいへん美人だということです』と言う者があった。天皇はこれを聞いて喜び、召したいと思った。十三年、天皇は髪長媛を召すために使いを遣った。秋九月中、髪長媛が日向からやって来たので、一旦桑津邑に留まらせた。ところが皇子の大鷦鷯尊が髪長媛を見て、美しいのに感じ入り、それ以来恋の虜のようになった。天皇は大鷦鷯尊が髪長媛に恋し、何とか娶りたいと思っているのを知ると、後宮で宴を催した日、初めて髪長媛を呼び寄せ、宴に同席させた。また大鷦鷯尊を呼び寄せ、髪長媛を指して歌っていわく、云々」とある。○伊邪古杼母(いざこども)は「いざ、子等」である。書紀には「伊奘、阿藝(いざ、あぎ)」とある。「こども」とは自分の子、あるいは従僕などを言う。万葉巻一【二十六丁】(63)に「去來子等、早日本邊(いざこども、はやもやまとへ)」、巻三【二十丁】(280)に「去來兒等、倭部早(いざこども、やまとへはやく)」、巻廿【五十六丁】(4487)に「伊射子等毛、多波和射奈世曾(いざこども、たわわざなせそ)」などがある。○怒毘流都美邇(ぬびるつみに)は「野蒜摘みに」である。書紀には「怒珥比蘆菟彌珥(ぬにひるつみに)」とある。蒜は前に出た。【伝廿七の七十九葉】これは野生の蒜である。【漢国にも野蒜という種類の蒜がある。ある説に、「『ぬびる』は、和名抄に『澤蒜は、和名ねびる』とあるものだ」と言うが、どうだろうか。】○比流都美邇(ひるつみに)は「蒜摘みに」である。【契沖いわく、「弘仁私記に『師が言ったところでは、まず臭い匂いのあるものの名を言ったのは、芳香のあるものを称えて言うためのきっかけである』とある。按ずるに、これはそれほどの意味ではなく、単にこれで歌の端緒を開いたのだろう」と言ったのももっともだ。だがまた考えてみると、これは単に橘のことを言うための序なのだから、道はどこの行く道であっても良いわけだが、野にものを摘みに行く道を言い、また野で摘むものは他にもいくらでもあるのに、特に蒜を挙げたのは、やはり蒜に意味があるのかもしれない。それはたいへん臭いものだから、次に「香(か)」を言うためだったのだろう。といっても、弘仁私記で言っている意味ではない。香りが良かろうと悪かろうと、単に「香」という言葉に掛かっているのだろう。これが古意である。<訳者注:現代では「香り」と言えば良い香り、芳香のことを言うが、古くは悪臭についても言った。>】○和賀由久美知能(わがゆくみちの)は「吾行く道の」である。書紀では「の」でなく「に」とある。【「の」であれば花橘に係る語だが、「に」だったらすぐ次の句に係る。】橘を言うのに「道」を言った例は、万葉二【十六丁】(125)に「橘之蔭履路乃八衢爾(たちばなのかげふむみちのやちまたに)」、巻六【三十七丁】(1027)に「橘本爾道履(たちばなのもとにみちふみ)云々」などがある。ところで、この歌は、初めから「本都毛理(ほつもり)」までは序なのだが、そのうちでもこの句までは、また「橘」の序である。【ところがこの句までの言い方だと、「いざこども」という語が、後に結ばれていないように聞こえるが、「いざこども、野蒜摘みに」と誘っておいて、「摘みに行く道の」という意味を、縮めて言ったのだ。】○迦具波斯(かぐわし)は、「香細(ぐわ)し」である。「くわし」は、師が「うるわし」を「うるくわし」の縮まった語だと言った通りで、「うるわし」と言うのと同意である。【字は「細し」、または「妙し」、書紀に「微妙」、万葉巻十三(3330)には「麗妹(くわしいも)」など様々に書いている。】だから古言では麗しと言うのを、「くわし」と言った例が多い。ここは「名細(なぐわ)し」、「花細(ぐわ)し」などのたぐいで、香(か)の快美であることを言う。【後に「かんばし」、「こうばし」などと言うのは、この「かぐわし<旧仮名カグハシ」>」が音便で崩れたのである。「は」を濁って言うのは、音便で変形した後の「は」は濁るのが通例だ。】また「香(か)」そのものでなくても言った例は、万葉巻十八(4120)に「香具波之君(かぐわしきみ)」、巻十九(4169)に「香吉於夜能御言(かぐわしきおやのみこと)」、巻廿(4371)に「可具波志伎都久波能夜麻(かぐわしきつくばのやま)」などがある。これらは香りの快美なという意味から転じたのだろう。【神楽歌に「榊葉の香をかぐはしみ」とあるが、賢木に「香」を言うのは珍しい。】○波那多知婆那波(はなたちばなは)は、「花橘は」である。書紀には最後の「は」がない。橘のことは、玉垣の宮の段で言った。【伝廿五の終わり。】万葉巻十【二十一丁】(1967)に「香細寸花橘乎(かぐわしきはなたちばなを)」、巻十九【十六丁】(4169)に「花橘乃香吉(はなたちばなのかぐわしき)」、巻廿(4371)に「多知波奈乃之多布久可是乃可具波志伎(たちばなのしたふくかぜのかぐわしき)」などがある。○本都延波(ほつえは)は、「上つ枝は」である。「ほ」は「秀」の意だ。万葉巻九【廿丁】(1747)に「最末枝者落過去祁利(ほつえはちりすぎにけり)」、巻十【八十一丁】(2330)に「末枝梅乎(ほつえのうめを)」、巻十三【二十四丁】(3307)に「橘末枝乎過而(たちばなのほつえをすぎて)」、巻十九【四十八丁】(4289)に「青柳乃保都枝與治等理(あおやぎのほつえよじとり)」などがある。上巻石屋戸の段に上枝・中枝・下枝と見え、下巻朝倉の宮の段の歌に「本都延(ほつえ)」、「那加都延(なかつえ)」、「志豆延(しずえ)」とある。○登理韋賀良斯(とりいがらし)は「鳥居枯らし」だと延佳がいった。万葉巻九【二十二丁】の霍公鳥(ほととぎす)の歌(1755)に「橘の花乎(はなを)居令散(いちらし)」ともある。【契沖が「『採り居枯らし』だ。花を折り取って、愛でて、枯れるまで置いておくものだから、『居枯らし』と言ったのだ。万葉巻十八の橘の長歌(4111)に、『香具播之美、於枳弖可良之美(かぐわしみ、おきてからしみ)』というのがその意味だ」と言ったのは、誤っている。折って置いておくことを、どうして「居」と言うだろう。それにこの解釈では、次の句に「人取り枯らし」とあるのと同じことになる、ここに「鳥居」とあるのに対して、次に「人取り」と言ったのこそ正解だ。】この「枯らし」は、【鳥がいつも留まっている木の枝は、枯れてしまうことが多いが、そういう意味ではない。】上記の「居散らし」と同じで、花実を食い散らし、なくしてしまったことを言う。次の「人取り枯らし」というのも同じだ。万葉巻十四【十九丁】(3455)に「垣内(かきつ)柳末(やぎうれ)摘み枯し、我立ち待たむ」などとあるのも、葉をみんな摘み取って、なくしてしまったのを言う。花であろうと実であろうと、葉であろうと、枝になくなることを「枯れた」と言うのだ。「冬枯れ」など言うのもこれだ。ところで書紀には、次の二句が前にあって、この二句は後にある。○支豆延波(しずえは)は【「志」の字は、諸本で「友」と誤っている。延佳本で「支」としたのは、さかしらであろう。記中、「支」を仮名に用いた例はない。ここでは朝倉の宮の段の歌に基づいて「志」に改めた。】「下枝は」である。書紀には「辭豆曳羅波(しずえらは)」とある。万葉巻五【十八丁】(842)に「和我夜度能、烏梅能之豆延爾(わがやどの、うめのしずえに)」、巻七【三十五丁】(1359)に「向岡之、若楓木下枝取(むかつおかの、わかかつらのきしずえとり)」、巻九【廿丁】(1747)に「下枝爾遺有花者(しずえにのこれるはなは)」、巻十【六十一丁】(2335)に「梅之下枝(うめのしずえ)」とある。○比登登理賀良斯(ひととりがらし)は「人取り枯らし」である。書紀には「比等未那等利(ひとみなとり)」とある。○美都具理能(みつぐりの)は「三つ栗の」で、枕詞である。前に出た。○那迦都延能(なかつえの)は「中つ枝の」である。万葉巻十三【六丁】(3239)に「花橘乎、末枝爾、毛知引懸、仲枝爾、伊加流我懸、下枝爾、此米乎懸(はなたちばなを、ほつえに、もちひきかけ、なかつえに、いかるがかけ、しずえに、しめをかけ)」とある。○本都毛理(ほつもり)は、書紀には「府保語茂理(ふほごもり)」とある。【契沖によると、「『含隠り』である。神代紀で『含む』に『ふふむ』と読みを付けてある。『ふ』と『ほ』は通う。すぼんでいるときを言う」。】万葉巻十四【三十六丁】(3572)に「由豆流波乃、布敷麻留等伎爾(ゆづるはの、ふふまるときに)」、巻十八【十六丁】(4077)に「佐久良波奈、伊麻太敷布賣利(さくらばな、いまだふふめり)」、巻廿【三十一丁】(4387)に「古乃弖加之波能、保々麻例等(このてかしわの、ほほまれど)」などと見え、「つぼむ」【これも中古以後に見える言である。】という語を考え合わせると、「ふほみつぼまり」という意味で、縮めて「ほつもり」と言ったのだろう。【延佳は「『ホツ(壹の下の豆を田に置き換え、その下に疋を書いた字)守り』である。果実の食べられない部分である」と言った。「ホツ」は「蔕(へた)」と同じで、和名抄に「ほぞ」とあるのを、俗言で「ほす」とも言うのを考えていったのだろうが、それは「ほぞ」の訛りだから、「保受(ほず)」の仮名であって、「つ」には合わない。「果実云々」というのも、ここの歌に合わない。また師は「万葉に『兒の手柏のほゝまれど』ともあるから、『都』の字は『保』または『褒』の誤りで、『ほほもり』だろう」と言った。言葉はなるほどそうとも思えるが、「保」も「褒」も、記中で仮名に使った例はない。また私が以前思ったのは、書紀の歌を考えると、「本」の前に「布」の字が脱けているのではないか。または「ふほ」を縮めて「ほ」と言い、「都」は「許」の誤りで、これも「布本許毛理(ふほこもり)」だろうかと考えたが、記中、「隠(こもり)」の仮名は「許母理」とだけ書き、「毛」を書いた例はないし、「隠り」の意味なら、書紀のように「こ」は濁るのが普通だから、清音の「許」を書くはずはない。だからこの考えも誤っていた。】特にここは、わずかに実がなりはじめた橘の、その実のさまを詠んだところだから、「つぼむ」という言葉がよく当たっている。今の世でも、ものが集まって、形がどうにかこうにか丸まってきたのを、そう言うからだ。【花について(つぼみと)言うのも、その形による。とすると、「含(ふふ)む」と言うのと、状態は同じことだが、言葉の意味は違っている。「つぼむ」というのは古言ではないだろうと思う人もいるだろうが、円(まろ)いことを「つぶら」と言って、それを「つぶ」と言う例は多いから、「つぼむ」なども当然言っただろう。古い書物にこの語が見えないのは、たまたま漏れたのである。】ここでその実が成熟した状態を言わないで、成り初めのところを歌ったのは、その段階が特に称賛すべきだと賞めたのだろう。初めからこの句までは、次の「阿加良(あから)」の序である。万葉巻十八【十一丁】(4060)に「安可良多知婆奈(あからたちばな)」、【巻廿(4301)に「安可良我之波(あからがしわ)」ともある。】巻十九【四十三丁】(4266)に「安可流橘(あかるたちばな)」などとある意味で、実が赤らんだのを言う。【橘の実は、初めから黄色で、やや赤みがかっているものだから、「ほつもり」であっても「あから」と続けたのだ。契沖は、「髪長媛の盛んな様子を中つ枝に喩え、形が美しく整っているのを橘の熟することになぞらえた」と言ったが、そういう意味ではない。それだったら「府保語茂理(ふほごもり)」という表現に合わない。ただ橘のうるわしさに喩えたという意味はあるはずだ。】○阿加良袁登賣袁(あからおとめを)は、「赤ら嬢子を」である。書紀には「阿伽例蘆塢等刀iあかれるおとめ)」とある。女の顔の美しさをこのように言うのは、万葉巻十【二十五丁】(1999)に「朱羅引、色妙子(あからひく、しきたえのこを)」と見え、また巻七【二十六丁】(1273)に「雜豆臈(底本正字は月+獵のつくり)漢女(さにつらうあやめ)」、巻十【十五丁】(1911)に「左丹頬經妹(さにつらういも)」、また【二十三丁】(1986)「丹頬合妹(につらういも)」、また【二十五丁】(2003)「丹穂面(にのほのおも)」、巻十六【二十四丁】(3857)に「赤根佐須君(あかねさすきみ)」、巻五【九丁】(804)に「久禮奈爲能意母提(くれないのおもて)、【一にいわく、爾能保奈須(にのほなす)】」などと言っており、みな同意で、師の説では「艶やかに色づいた顔を言い、外国でも『紅顔』などと言うのと同じだ」とある。【紅葉などについても「さにつらう」と詠んでいる。】○伊邪佐佐婆(いざささば)。人を誘い呼ぶのを「いざさす」と言う。万葉巻十四(3484)に「安左乎良乎、遠家爾布須左爾、宇麻受登母、安須伎西佐米也、伊射西乎騰許爾(あさおらを、おけにふすさに、うまずとも、あすきせざめや、いざせおどこに)」【これは男が夜、女の家に行ってみると、女が麻を紡いでいたのを、「早く寝よう」と誘った歌で、「麻を今夜のうちに、それほど麻笥(おけ)に一杯になるほど紡がなくとも、いいだろう。明日という日もあるのだから、また明日のんびりと紡げばいいじゃないか。今夜はもう小床(おどこ)に入って寝よう」と言っている。「安須伎西佐米也(あすきせざめや)」は、明日という日が来ないだろうか。明日もあるというのに、という意味である。】この「伊射西(いざせ)」は「いざさせ」で、さあさあ、小床にと、女を誘う言である。中昔に、人を誘い呼ぶのを「いざさせたまえ」と言ったのと同じだ。だからここも「いざなわば(誘うなら)」という意味で、大雀命が、この乙女を娶ろうと誘うならば」という意味だ。万葉巻一【廿丁】(44)に「吾妹子乎、去來見乃山乎(わぎもこを、いざみのやまを)」、【これは妹を誘う意味の枕詞である。「いざ見ん(さあ、見に行こう)」という意味で続けたものではない。】巻七【八丁】(1112)に「波禰蘰、今爲妹乎、浦若三去來率去河之(はねかづら、いませるいもを、うらわかみいざいざかわの)」などがある。○余良斯那(よらしな)は、【旧印本、他一本などでは「余」の字を「尓」と書いてある。ここでは真福寺本、延佳本によった。】「良いように思われる」というようなことだ。「らし」は「志具禮降良斯(しぐれふるらし)」など、普通に言う「らし」で、俗言に「〜らしい」と言うのと同じである。【だから「時雨降るらし」と言うのは、俗言で「時雨が降るらしい」、「時雨が降りそうだ」の意味で、時雨が降るように思われるということだ。この語はみなそういう意味である。】とすると「よらし」は、俗言で「よさそうな」と言う意味だ。白檮原の宮の段にも「伊麻宇多婆余良斯(いまうたばよらし)」とある。同意だ。【伝十九の卅八葉】「な」は付けて言う辞で、詠嘆の意がある。【「うつりにけりな」などの「な」である。契沖はこの句を「爾良斯那(にらしな)」とある本に基づいて、「『似らしな』の意味か。お前をこの嬢子の夫と指定すれば、似つかわしいのではなかろうか、と言ったのか」と言ったのは、「似らしや」はそうも言えるだろうが、他は言うに足りぬ間違いだ。「夫と指す」を単に「指す」とだけ言うはずがない。師は書紀に基づいて、この二句も「下の『佐』は『迦』の誤り、『爾』は『衣』の誤りで、『いざさかばえらしな』である」として、「橘の栄えに言寄せたのか。しかし前に酒のことを言っていて、『おとめを』とあるから、酒を与えて祝ったのだろう。酒は『さかえ』の意である」と言った。ここを橘の栄えに言寄せた意味はない。「枯らし」という言葉もあるからだ。それに「衣」を記中で仮名に用いた例はない。私も初めは書紀に基づき、下の「佐」を「迦」の誤り、「爾良」二字を「延」の誤り、また「斯」は衍字であって、「いざさかばえな」が正しいだろうかと思った。白檮原の宮の段の歌に、「伊麻宇多婆余良斯」とあるのも、「余」は「尓」と書いた本の方が正しく、やはり「延」の誤りとして解いたが、今思うとみな誤っていた。「尓」は「余」と書いた本の方が正しく、やはり「よいだろう」といった意味だ。】この二句は、書紀では一句で、「伊弉佐伽婆曳那(いざさかばえな)」とある。【万葉巻十八の橘の長歌(4111)に「霜於氣騰母、其葉毛可禮受、常盤奈須、伊夜佐加波延爾(しもおけども、そのはもかれず、ときわなす、いやさかばえに)」ともあるから、これはその乙女に酒を勧めて栄えさせようと(血色よく、陽気な気分にさせようと)したというのか。しかしこの歌は、おおよそこの記と同じものなのに、この句だけがたいへん異なっており、疑わしく思えるので、「伊弉佐伽婆」はやはり「いざなえば」の意味で、「曳」は「よかろう」の意味か。ただそうすると万葉の歌で言っているのと合わない。さらに考える必要がある。】○歌全体の意味は、「この紅顔の乙女を、お前が求めるなら、好きにしたら良かろう、【俗言の「よさそうな」という意味】求婚して、一緒になれ」と大雀命に言ったのである。○又御歌曰は単に「また」と読む。これも天皇が歌ったのである。○美豆多麻流(みずたまる)は「水溜まる」で、「池」の枕詞である。万葉巻十六(3841)にも「水渟、池田乃阿曾我(みずたまる、いけだのあそが)云々」などとあると、契沖が言っている。その他、巻十三(3289)に「蓮葉爾、渟有水之(はちすばに、たまれるみずの)」などもある。○余佐美能伊氣能(よさみのいけの)は「依網の池の」だ。書紀には「能(の)」を「珥(に)」と書いてある。この池は水垣の宮の段に出た。【伝廿三の九十三葉】○韋具比宇知(いぐいうち)は「堰杭打ち」である。書紀では「うち」を「菟區(つく)」としてあり、次に「迦破摩多曳能(かわまたえの)」という句がある。【とすると、この記と意味が異なり、この句は「川俣」の枕詞である。】新撰字鏡に「ショク(木+式)は『いぐい』」とある。【このショクの字は、杙の誤りか。】また「堰は『いせく』」とある。一般に「ゐ」とは、用水のあるところを言い。田に引く溝のことも言う。【今の世にこれを「ゆ」とも言うのは、「ゐ」に通じて同じである。「ゐで」を「ゆで」とも言う。「湯種」と言うのも、この「ゐ」に漬け置いた稲種を言う。今の世では。この溝を「ゆみぞ」と呼ぶ。】「井」もこれである。【いにしえに川にも「井」と言うことがあるのは、水を汲み取る場所のことである。】その「井」の岸を崩れないようにするため、またはその水をためるため、竹や柴を組み合わせて固めるのを「いせき」と言い、それを支えるために杭を打ち並べ、「いぐい」と言った。○比斯良能(ひしがらの)は「菱殻の」である。この句は、諸本に「賀」の一字のみあって、「比斯」も「良能」も脱けているが、ここでは書紀に依拠して補った。もとのままでは、全く意味不明で、字が脱けていることは明白だからだ。【書紀ではこの前に「迦破摩多曳能」という句があり、これも脱けたのかと思ったが、それでは前の「伊氣能(いけの)」とあるところから、語の続き具合が良くない。また「宇知(うち)」とあるのも、「宇都(うつ)」でなければ合わない。この記は書紀と趣が異なり、最初から「川俣江の」という句がないのだろう。】○佐斯祁流斯良邇(さしけるしらに)は、【「祁」の字は、旧印本では「良」に誤っている。諸本みな「祁」である。】「刺すのも知らないで」ということだ。書紀には「流(る)」を「區(く)」と書いてある。依網の池に杭を打とうとして、水の中に入ると、底にある菱殻が足を刺すのを知らず、不用意に入ることを言い、何を喩えたかというと、大雀命が、髪長比賣に思いを掛けたことを知らなかったというのだ。○奴那波久理(ぬなわくり)は、蓴(じゅんさいのこと)を言う。和名抄の水菜の部に「野王が考えるに、蓴は水菜である。三、四月から七、八月まで、通名を『絲蓴』と言い、甘くて軟らかい。霜が降りてから二月になるまでは『環蓴』と呼び、苦くて渋みがある。和名『ぬなわ』」とある。【俗に「じゅんさい」と言う。】契沖いわく、「この名は沼にあって、縄のように長く延びているから、『沼縄』の意味である」ということだ。万葉巻七【三十四丁】(1352)に「浮蓴、邊毛奥毛依勝益士(うきぬなわ、へにもおきにもよりかてましを)」とある。「くり」とは添えて言う名で、三稜草(みくり)の「くり」と同じく、たぐり寄せて取るものだから言うのだろう。【蔓(つら)草のたぐいを「〜づら」と言うのと同類だ。】これを実際に蓴を手繰る意味に取ると、歌の整いが良くない。その理由は次に言う。○波閇祁久斯良邇(はえけくしらに)は「延(は)えているのも知らないで」ということだ。これも上記の杭を打とうとするものが、蓴の延び広がっているのも知らずに水に入り、足にまつわりつくことを言う。【あるいは上の「韋具比宇知(いぐいうち)」は「菱がら云々」にのみ係っていて、「蓴」には係っていない。「蓴云々」は、これと別に蓴を手繰り寄せることを言うので、延(は)えていると歌ったとも考えられるが、それでは歌として整わない。なぜかと言うと、およそこのように二つのことを並べて言う時は、その二句を同じような言い方にすることで、継いであることをはっきりさせる。もし「蓴云々」が二句で、「菱がら云々」が三句だったら、「韋具比宇知」の句は無用に一句余っていて、「蓴」の方は一句足りないだろう。とすると、「韋具比宇知」までは、二つの句に係っているのだ。】そう喩えた意味は、前述と同じである。またもう一つの考えとして、喩えたのは「菱がら云々」までであって、「延(は)えけく」は喩えでなく、「蓴くり」は、単に「延(は)え」の枕詞なのかも知れない。女に思いを寄せることを「延う」とも言う。【このことは次に言う。】そう取ると、歌全体の意味は「堰杭を打つものが、水の中に菱殻があって、足を刺すことも知らず水に入ったように、私も大雀命がこの乙女に『下延(したばえ)』した(思いを寄せた)ことを知らないで、私の妻に召そうとしたことだよ」という意味になる。読む人は、どちらでも良いと思う方の解釈を取ればよい。ところが書紀では、この二句が依網の池の後にあって、趣がこの記と違う。【書紀の趣は、喩えは「延えけく」、「刺しけく」までで、「不知(しらに)」はこれらの喩えの語に係っていない。「依網の池で手繰る蓴が延びているように、また川俣江の菱がらが足を刺すように、大雀命が思いを掛けていたことを知らないで」という意味だ。この記の趣では、「知らない」というところまで喩えの内に入っている。上記の通りだ。ただし「蓴くり」を、単に「延(は)え」の枕詞とすると、下の「不知」は喩えの内に入っていない。】女に思いを掛けて、妻問いすることを「延え」というのは、下巻、高津の宮の段の歌に「許母理豆能、志多用波閇都々、由久波多賀都麻(こもりづの、したよはえつつ、ゆくはたがつま)」【「したよ」は「下より」である。「つま」は「夫」である。】万葉巻九【三十六丁】(1809)に「隱沼乃、下延置而(こもりぬの、したはえおきて)」、巻十二【二十五丁】(3067)に「玉葛、令蔓之有者、年二不來友(たまかづら、はえてしあらば、としにこずとも)」、巻十四【七丁】(3371)に「阿我志多婆倍乎、許知弖都流可毛(あがしたばえを、こちでつるかも)」、また(3381)「伊多良武等曾與、阿我之多波倍思(いたらんとぞよ、あがしたばえし)」、巻十八【二十九丁】(4115)に「之多波布流、許己呂之奈久波、今日母倍米夜母(したばうる、こころしなくば、きょうもえめやも)」【巻廿(4457)に「住吉の濱松が根の下延へて、わが見る小野の草な刈りそね」。これは妻問いではないが、意味は同じだ。】などの例が見える。○和賀許許呂志(わがこころし)は「わが心」で、「し」は助辞である。「叙」は、契沖も衍字だろうと言っている。実際そうだろう。後にもう一つ「叙」があるからだ。【「ぞ」という言葉を重ねた例はない。】書紀には「わ」を「あ」と書いてあり、「ぞ」はない。○伊夜袁許邇斯弖(いやおこにして)。書紀には「袁」を「于(う)」とある。「伊夜」は白檮原の宮の段の歌に「伊夜佐岐陀弖流(いやさきだてる)」とある「いや」と同じで、【彌(いよよ)の意味とは少し違う。】「最も」の意味だ。【「最」を「いや」と読むことは、伝六の二十八葉で言った。】「袁許(おこ)」は中昔の本などに「袁許なり」、「袁許がまし」、「袁許の者」などと言っているのがそうだ。「おかし」と同言で、意味も同じである。【「おかしき」とは「おこしき」である。】ここは今の俗言で「あほらし」と言う意味だ。また三代実録卅八に「右近衛、内蔵富繼、長尾末繼は、散楽を上手に演ずる。人を大笑いさせるのは、いわゆる嗚呼人(おこびと)に近い」【印本では「嗚呼」を「嶋滸」と書いてある。ここでは古い本に基づいて引用した。このことは西宮記にもあり、そこには「嗚呼者」とかいてあり、「いわゆる」という言葉はない。】これはおかしな芸をする者を言う。【漢籍にも、後漢書に「烏滸の蠻」という国があって、「烏滸人」ともある。文選の呉都の賦などにも見える。本朝文粋の「散楽を辨ず」、村上天皇御製の文に「オ(屮+烏)コ(屮+許)が来朝した。顎が外れるほど笑った」とあるの「オコ」も漢国の人のことである。ここの「オコ」の字は「嗚滸」の誤りだろう。とすると、「おこ」という言葉は漢国から伝わった者と考える人もあるだろうが、そうではない。この天皇(應神)の歌にあるのだから、わが国にもとからある古言だ。それを後に、漢籍にも「嗚呼」、「烏滸」という名があるので、上記の三代実録の文などは、混同したものと思われる。古言の「おこ」は、その「嗚呼」、「烏滸」とはもともと違っている。中昔に「をこなり」、「をこがまし」、「をこの者」などと言ったのも、古言の「をこ」だから、「嗚呼」などの字を当てたのは間違いだ。書紀に「于古(うこ)」とあるのを、釈日本紀で「尾籠(おこ)」であると言ったのは、借字にそう書き習っていたのだろう。そうであってこそ、後世その字を音で読んで「びろう」などということばもできたのだろう。だがこの字に基づいてその意味を説くのは誤りである。また契沖が「うこ」を「集(うこ)」として、「この記に『集』を『うこなわる』と読んでいる。『わが思いのいや集まりに集まった(つのった)』という意味か」と注したのも、大きな間違いだ。】○伊麻叙久夜斯岐(いまぞくやしき)は「今ぞ悔しき」である。書紀にはこの句はない。【なくては結びがおかしいようだが、万葉などにも「にして」という結びの歌がたくさんある。詞の玉の緒の七の巻に引用した通りだ。】○この歌全体の意味は、大雀命の恋情を今まで知らずして、自分が召し抱えようとしたのは袁許(愚か)だったよと、【そのことを聞いて、】今はそれが悔しいというのだ。それは、本当にそう思ったわけではなく、宴の座興に戯れて言ったのである。書紀には、「大鷦鷯尊はこの歌を聞いて、天皇が髪長媛を自分に下さることを知り、非常に喜んで、歌を返した」とあり、大雀命の歌だとするのは、伝えの誤りだろう。【これを大雀命の歌と考えると、この場面には合わない。】○如此歌而賜也(かくうたわしてたまいき)。前に「賜2其太子1」とあって、後にまたこうあるのは、同じことが重なって、煩わしいように、今の人は思うだろうが、いにしえの語り方はみなこういう風だったのだ。○被賜は「たまわりて」と読む。「たまう」とは主語が与える側であり、「たまわる」とは受ける側の動作を言う。だから古語では「被」を付けて書くことが多い。【ここは天皇が与えたのを、太子が受けたことについて言うから「たまわる」なのである。今の人は「賜う」と「賜る」を区別せずに言うが、それは乱れた使い方だ。古言で「賜う」を縮めて「たぶ」とも言うが、これも受け取る側から言うと「たばる」である。】○歌曰は、ここでは「よみたまえる」と読む。書紀に「大鷦鷯尊はすでに髪長媛と交わることがたいへん慇懃(ねんごろ)になってから、髪長媛だけに向かって歌って」とある。○美知能斯理(みちのしり)は「道の後」である。「道前(みちのくち)」、「道後」のことは、黒田の宮の段【伝廿一の五十葉】で言った。ここの「道の後」は、日向の国を指して言う。それは京都(大和)から下る道の順序から言って、筑紫の国々は、北にあるのを「前」、南にあるのを「後」として、【筑前・筑後、豊前・豊後、肥前・肥後などもそうである。】日向【大隅・薩摩】は、筑紫の南の果てだからである。【または諸縣郡を指して言うとも考えられる。この郡は日向国の南の端である。和名抄に挙げているその国の順序も、北から始まって南で終わる。伊勢国で、度會・多氣・飯野の三郡を「神三郡」と言って、「また道後とも言う」と神宮雑例集という本に書いてある。これもその三郡が伊勢国の南の端で、京から下る道の後だからだ。しかしここは、さらに広く日向の国と取るのが良いだろう。】万葉巻十一【七丁】(2423)に「路後、深津嶋山(みちのしり、ふかつしまやま)」とあるのは、備後のことである。【また巻十七(3930)に「美知乃奈加(みちのなか)」とあるのは、越中のことだ。】○古波陀袁登賣袁(こはだおとめを)は「初P嬢子(はつせおとめ)」、「可刀利乎登女(かとりおとめ)」【「難波壯士(なにわおとこ)」なども】などと言うたぐいで、「古波陀」は日向国の地名ではないだろうか。【今の諸縣郡にこの地名はないだろうか。その国人に尋ねてみたい。】それとも美称か。そうだったら、「細肌(こはだ)」などの意味かも知れない。【物の精細であるのを「こまやか」と言い、色が濃いのも「こまやか」と言うから、「細やか」と「濃やか」は通う。とすると、「精細な(しみ一つなく美しい)肌」は「こはだ」とも言うだろう。ここに「相枕纏(あいまくらまく)」とあるのに、肌のことを歌うのは似つかわしい。万葉巻二(194)に「嬬乃命乃、多田名附、柔膚尚乎、劔刀、於身副不寐者(つまのみことの、たたなづく、にごはだすらを、つるぎたち、みにそえねねば)」、巻十四(3537)に「仁必波太布禮思、古呂之可奈思母(にいはだふれし、ころしかなしも)」などもある。延喜式神名帳に「大和国宇陀郡、岡田小秦(命)(おかだのおはため)神社」というのがある。これは「おはた」と読むべきで、関係がないようでもあるが、筆のついでに指摘しておくだけである。】最後の「を」は、結びの句に係ると考えるべきである。しかし、単に「よ」の意味と考えるのも良い。○迦微能碁登(かみのごと)は「神の如く」で、この「神」は雷を言う。○岐許延斯迦杼母(きこえしかども)は「聞こえしかども」である。書紀には「も」の字がない。これは、日向の国のことだから、遙かに遠いものとして聞いていたのである。【名高く聞こえていたと言うのではないだろう。】万葉巻十二【十九丁】(3015)に「如神、所聞瀧之(かみのごと、きこゆるたぎの)」、【これは音が大きく聞こえる意味で、こことは少し意味が違うだろう。】巻六【十一丁】(913)に「鳴神乃、音耳聞師、三芳野之(なるかみの、おとのみききし、みよしぬの)」、巻七【五丁】(1092)に「動神之、音耳聞、巻向之、檜原山乎、今日見鶴鴨(なるかみの、おとのみききし、まきむくの、ひばらのやまを、きょうみつるかも)」、巻十一【二十八丁】(2658)に「天雲之、八重雲隱、鳴神之、音爾耳八方、聞度南(あまぐもの、やえぐもがくり、なるかみの、おとにのみやも、ききわたりなん)」、【これらは、単に「音にのみ聞く」の序である。】○阿比麻久良麻久(あいまくらまく)は、契沖いわく、「『相枕纏く』である。『相枕』とは、継体紀の勾大兄皇子(まがりのおおえのおうじ)の歌に、「伊慕我堤鳴、倭例爾(イ+爾)魔柯シ(糸+施のつくり)毎、倭我堤嗚麿、伊慕爾(イ+爾)魔柯シ(糸+施のつくり)毎(いもがてを、われにまかしめ、わがてをば、いもにまかしめ)」と詠んだのと同じだ」と言った。【「相枕とは」と言ったのは誤っている。「相枕」という言葉はない。「あい」と読んで、「まくらまく」と読むべきである。】この意味だ。「相」は「互いに」である。「枕」という語は、もとは「巻く」という言葉から出た。「巻く」というのは、もとは袖を巻いて、【いにしえの袖は、横にたいへん長かったからだ。】枕にしたから言うのだ。それがもとになって、袖を巻かないようになってからも、枕にすることはみな「まく」と言った。手をまく、手枕を巻くとも言う通りである。【とすると、「枕を巻く」と言うと、言葉が重なっているようだが、それも「歌を歌う」、「舞を舞う」などのたぐいで、体言(名詞)と用言(動詞)を重ねて言うのは普通のことである。】上巻の歌に「多麻傳佐斯麻岐(たまでさしまき)」、【男女が互いに手を差し伸べて枕にすることを言う。】倭建命の歌に、「多和夜賀比那袁、麻迦牟登波、阿禮波須禮杼(たわやがいなを、まかんとは、あれはすれど)」、万葉巻二【四十一丁】(217)に「布栲乃、手枕纒而、劔刀、身二副寐價牟、若草、其嬬子者(しきたえの、たまくらまきて、つるぎたち、みにそいねけん、わかくさの、そのつまのこは)」、また【四十二丁】(222)「色妙乃、枕等巻而(しきたえの、まくらとまきて)」、巻三【四十四丁】(415)に「家有者、妹之手將纒(いえならば、いもがてまかん)」、巻十二【四丁】(2865)に「玉釧、巻宿妹母(たまくしろ、まきぬるいもも)」、また【三十四丁】(3148)「玉釧、巻寐志妹乎(たまくしろ、まきねしいもを)」、【この二つの「巻き」は、枕を交わすことを言っている。】巻十【四十四丁】(2187?)に「妹之袖、巻牟久山之(いもがそで、まきむくやまの)」など、他にもたくさんある。○古波陀袁登賣波(こはだおとめは)。書紀には【最後の】「波」の字がない。【ない方が良い歌に聞こえる。】この歌は、前の歌で言い尽くせなかった気持ちを、また歌ったのである。だから初めの二句は、全く同じである。○阿良蘇波受(あらそわず)は、「争わず」ということで、その乙女が拒否しなかったことを言う。○泥斯久袁斯叙母(ねしくおしぞも)。書紀には「母」の字がない。「泥」は「寝」である。「しく」は助辞だが、その一つの格で、万葉巻七(1412)に「吾背子(わがせこ)を、いづちゆかめと、辟竹(さきたけ)の、背向(そがひ)に宿之久(ねしく)、今し悔しも」、巻十四(3577)に「かなし妹を、何(いづ)ちゆかめと、山菅の、背向(そがひ)に宿思久(ねしく)、今し悔しも」、これと同じだ。また巻四【五十四丁】(754?)に「吾妹子賀、念有四久四、面影爾見由(わぎもこが、おもえりしくし、おもかげにみゆ)」、巻七【十三丁】(1153)に「玉拾之久、常不所忘(たまひりいしく、つねわすらえず)」、巻八【四十二丁】(1577)に「來之久毛知久(こしくもしるく)」、巻十【二十六丁】(2017)に「戀敷者、氣長物乎(こいしくは、けながきものを)」、巻廿【五十三丁】(4475)に「故非之久能、於保加流和禮波(こいしくの、おおかるわれは)」などとある「しく」も同じだ。【これらのうち、宿之久(ねしく)、拾之久(ひりいしく)、「來之久(こしく)」などは、「し」が過去の助辞のように聞こえるだろうが、そうではない。そう考えては、戀敷(こいしく)は過ぎ去ったことを言うのでないから、分からなくなる。またこの「こいしく」は、普通よく言う「恋しく思う」の「しく」とも違う。これらの「しく」は、どれも一つの格の助辞である。】二番目の「斯(し)」も「母(も)」も助辞である。【「袁斯叙(おしぞ)」と続けるのは普通で、例も多い。「ぞも」と言った例は、万葉巻十三(3305)に「汝乎曾母、吾丹依云、吾叫曾毛、汝丹依云(なれをぞも、われによるとう、われをぞも、なれによるとう)」、巻十五(3737)に「比等余里波、伊毛曾母安之伎(ひとよりは、いもぞもあしき)」などがある。】○宇流波志美意母布(うるわしみおもう)は、「愛(うるわ)しみ思う」である。書紀には「意」の字がない。万葉巻十五【三十一丁】(3755)に「宇流波之等、安我毛布伊毛乎(うるわしと、あがもういもを)」書紀の神代巻に「我愛之妹(あがうるわしきなにも)」、「愛也吾夫君(うるわしきあがなにせのきみ)」、また「友善(うるわし)」【友情が深いことに言う。男女の間について言うのと、もとは同じだ。】


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