『古事記傳』27


日代の宮二之巻【景行天皇二】

天皇詔2小碓命1。何汝兄於2朝夕之大御食1不2參出來1。專汝泥疑教覺、<泥疑二字以レ音。下效レ此。>如レ此詔以後至レ于2五日1。猶不2參出1。爾天皇問=賜2小碓命1。何汝兄久不2參出1。若有レ未レ誨乎。答=白3既爲2泥疑1也。又詔2如何泥疑之1。答白。朝署入レ厠之時。持ツカミ<てへん+u>批而。引=闕2其枝1。裹レ薦投棄。

訓読:スメラミコト、オウスのミコトにのりたまわく、「なにとかもミマシのいろせアシタ・ユウベのおおみけにまいでこざる。もはらミマシねぎおしえさとせ」とのりたまいき。かくのりたまいてのち、イツカというまでに、なおまいでたまわざりき。かれスメラミコト、オウスのミコトにといたまわく、「なぞミマシのいろせひさしくまいでこざる。もしいまだおしえずありとや」とといたまえば、「すでにねぎつ」ともうしたまいき。また「いかさまにかねぎつる」とのりたまえば、もうしたまわく、「アサケにカワヤにいりたりしとき、とらえてツカミひしぎて、そのエダをひきかきて、コモにつつみてなげうてつ」とぞもうしたまいける。

口語訳:天皇は小碓命に「どうしてお前の兄は朝夕の大御食に出席しないのか。お前が行って、出てくるように教えてやれ」と言った。ところがその後五日も経つのに、まだ出て来ない。天皇はまた小碓命に「どうしてお前の兄はいつまでも出て来ないのか。まだ説得しに行っていないのか」と尋ねた。すると小碓命は「もう言いました」と答えた。「どんな風に説得したのだ」と重ねて尋ねると、「早朝に兄が便所に行った時、捕まえて引きずり出し、手足をもいで、薦にくるんで投げ棄てました」と答えた。

何は「なにとかも」と読む。孝徳紀の歌に「那爾騰柯母、于都倶之伊母我、磨陀左枳涅渠農(なにとかも、うつくしいもが、まださきでこぬ)」とある。○汝兄(みましのいろせ)とは、櫛角別王か大碓命か、決められない。【思うにこの段の事件は、書紀に「廿八年・・・日本武尊は『私は以前西の国の征伐に行ってきました。今度の兵役は、きっと大碓皇子の役目でしょう』と答えた。大碓命はこれを聞くと驚いて逃げ出し、草の中に隠れたので、使者を遣わして連れて来させた。そこで天皇は彼を責めて云々」とあるのと様子が似ているから、やはり大碓命のことで、伝えの内容が異なっているのだろう。ただそれは倭建命が西の国を平定して後のことだから、どうだろうか。とにかく決定しがたい。】○朝夕之大御食。「朝夕」は「アシタ・ユウベ」と読む。万葉巻四【二十八丁】(572)に「旦夕爾(あしたゆうべに)」とある。また「あさよい」とも読める。万葉巻十七【四十丁】(4000)に「安佐欲比其等爾(あさよいごとに)」など、他にもさらにたくさん見える。【しかし朝と夕をはっきり言うには、「あしたゆうべ」と言うべきではないだろうか。大御食なども、「朝之・夕之」と分けて言う時は、「あしたの・ゆうべの」と読む。「あさの・よいの」とは言わない。なお「あさゆう」という言葉は、万葉までは見えない。やや後の言葉だろう。このことはついでに言ったのだ。】大御食は前【伝廿五の三十一葉】に出た。祈年祭の祝詞に「皇御孫命能、朝御食夕御食能(すめみまのみことの、あしたのみけ・ゆうべのみけの)云々」、【月次祭の祝詞にもこうある。】皇太神宮儀式帳に「朝大御饌夕大御饌(あしたのおおみけ・ゆうべのおおみけ)」、外宮の儀式帳にも「天照坐皇大神乃、朝乃大御饌夕乃大御饌乎、日別供奉(あまてらしますすめおおみかみの、あしたのおおみけ・ゆうべのおおみけを、ひごとにつかえまつる)」とある。○「不2參出來1(まいでこざる)」、こう訊ねたことから考えると、上代の天皇の、朝夕の大御食をきこしめすことは、たいへん重要な儀礼の一つで、しかるべき皇子たちも出席して供奉したのだろう。とすると、そこにはやはり種々の礼法、儀式があったと分かる。【天皇の大御食の儀がそうであれば、その他の貴人、凡人たちにもそれなりに儀礼があったことも、推測できる。だが皇国では、そうしたことも事細かに論じ立てて伝えることはなかったから、今の人は上代には何の儀礼もなかったかのように思う。それは、いにしえのあり方をよく考えないための誤りである。漢国は何事もうるさく論ずるお国柄だから、それを見て、こういう礼儀は漢国にしかないように思うのだろう。口うるさく言うことこそないが、皇国の上代にも、何事についても、あるべき場面には礼儀があったということは、この一事でも推測できるだろう。それを後には、漢国の過剰な言説ばかりありがたがって、そのお国柄を尊く思い、何でもそれを取り入れたため、皇国の上代の風儀はみな消え失せ、細かいことがどうだったのか、まるで分からなくなってしまった。それは、たいへん悪いことである。しかしこうして事に応じて、その趣きが垣間見えるのは、またたいへん貴いことである。なおざりに見過ごしてはならない。】新撰姓氏録の雀部(さざきべ)朝臣の條に「星河の建彦宿禰は、應神の御世に、皇太子大鷦鷯尊に代わって、木綿襷(ゆうだすき)を掛けて御膳を掌った。それで大雀臣の名を賜った」とある。ここにも大御食に皇子たちが供奉したことが見える。【そもそも食は命を継ぐもので、この上なく重要なことだから、その礼儀はこのように厳重だったのも道理である。】中昔までも、御膳の儀式が厳重であったことは、諸家の記録、物語文などを見て知るべきだ。○専(もはら)は、上巻の猿田毘古神の段で「専汝往將問者(もはらいましゆきてとわんは)」とあったのと同じ。この言葉の意味は、そこ【伝十五の十四葉】で言った。○泥疑(ねぎ)は万葉巻六【二十五丁】「天皇が節度使の卿に酒を賜い」、その歌(973)に「食國、遠乃御朝庭爾、汝等之、如是退去者平久、吾者將遊、手抱而、我者將御在。天皇朕、宇頭乃御手以、掻撫曾、禰宜賜、打撫曾、禰宜賜、將還來日、相飲酒曾、此豊御酒者(おすくにの、とおのみかどに、なんじらが、かくまかりゆけばたいらけく、あれはあそばん、たむだきて、あれはいまさん、スメラあが、うずのみてもち、かきなでぞ、ねぎたまう、うちなでぞ、ねぎたまう、かえらんひ、あいのまんキぞ、このトヨミキは)」、巻廿(十八丁)(4331)に「安豆麻乎能故波、伊田牟可比、加敝里見世受弖、伊佐美多流、多家吉軍卒等、禰疑多麻比、麻氣乃麻爾々々(あずまおのこは、いでむかい、かえりみせずて、いさみたる、たけきいくさと、ねぎたまい、まけのまにまに)云々」、また豊後国風土記に「直入郡禰疑野(ねぎぬ)。昔纏向の日代の宮で天下を治めた天皇(景行)がやって来た時、この野に土蜘蛛がいた。・・・天皇は自ら賊を討とうとした。この野にいて、勅して兵士たちを上下の分け隔てなくねぎらった。そのため禰疑野という」【このことは書紀にも、十二年十月のところに見える。】などとある。こうした例と、上巻の天の石屋戸の段の「布刀詔戸言(ふとのりとごと)祷白(ねぎもうす)」とあるのを合わせ考えると、「ねぎ」とは俗に「ご苦労ながら」という意味で、兄王に出席するよう促すことを言う。【上記の風土記で「勞2兵衆1(兵士たちをねぎらった)」とあるのも、その苦労を思って、俗に「大義ながら」という意味合いで、称賛し慰めて、兵士たちのがんばりを請い願ったわけだ。】なお石屋戸の段で言ったこと【伝八の四十六葉】を考え合わせよ。【この言葉は、使ったところによって主意が変わってくるけれども、煎じ詰めれば同じことになる。】○教覺(おしえさとせ)とは、必ず参加しなければならないものだということを説き教えよということである。○至于五日は「いつかというまでに」と読む。○「久不2參出1(ひさしくまいでざる)」は、朝夕の大御食に参加しないだけでなく、全く宮中に出て来ないのを言うのだろう。【初めに小碓命に訊ねた頃は、大御食にこそ出て来ないが、時には宮中にやって来ることもあったのが、この頃には全然出て来なくなったのだろう。それは小碓命に手をもがれてしまったのだから、当然だ。】○有未誨乎は「いまだおしえずありや」と読む。「ずあり」は「ざり」と同じ。【「ざり」、「ざる」は「ずあり」、「ずある」が縮まった形で、同じ言葉である。それなのに、別に「有」の字を添えて書いたのは、古言の書き方だ。万葉などに同様の例が多い。「有未」の二字を「ざり」と読んでも同じことだが、「有」の字を添えて書いているからには、もとの言葉のまま「ずあり」と語り伝えたのだろう。また「ざりや」という語を後世には「ざるや」と言うのが普通だが、そう言ったら正しい活用でなく、卑俗な言い回しになる。こういう風に言葉が一旦切れているところの疑問の「や」は、「ありや」、「なしや」と活用すべきで、「あるや」、「なきや」などとは言わない。だから「ざるや」、「ずあるや」と言うのは俗言だ。こういう違いをよく認識すべきである。これを師(賀茂真淵)が「おしうまじきことあるや」と読んだのは、たいへん良くない。「有」の字のいにしえの言い方を考えなかったのだ。また「ざるや」と読むのが良くないことも、上述の通りである。】まだ「ねぎおしえ」ていないのかと聞いたのだ。【ここでは「ねぎ」と「さとし」を省いて、後では「おしえ」と「さとし」も省いて、単に「ねぎ」とだけ言っている。】○爲泥疑は「すでにねぎつ」と読む。「爲」の字を添えたのは、白檮原の宮(神武天皇)の段に「爲2遠延1(おえまし)」とあったのと同様だ。このことはそこ【伝十八の四十七葉】で述べた。参照せよ。○如何は「いかさまにか」と読む。【俗に「どのように」と言うのに相当する。】万葉巻一【十七丁】(29)に「何方、御念食可(いかさまに、おもおしめせか)」とある。【巻二(162、167)、巻十三(3326)などにも同様の言がある。】○朝署。「署」の字は「曙」の偏を省いて書いたのだ。【延佳本に「曙」と書いてあるのは、例によってさかしらに改めたのだろう。諸本すべて「署」と書いてある。偏を省いた例は、上巻の呉公(むかで)のところ、伝十の卅九葉で言った。】この二字を師が「あさけ」と読んだのに従う。「あした」と言うのと同じだ。【だから「あした」と読んでも良い。】万葉に「朝開(あさけ)」、「旦開(あさけ)」、「朝明(あさけ)」、また「安佐氣(あさけ)」など、例がたくさんある。【伊勢国に「朝明(あさけ)」という郡名もある。】○「入レ厠」。和名抄に「厠は和名『かわや』」とある。厠のことは白檮原の宮の段【伝廿の十八葉】で言った。「入」は兄王が入ったのである、○持捕は「とらえて」と読む。【「持」の字は、真福寺本には「待」とある。とすると、厠に入るのを待って捕らえたことになる。しかし古言で「待〜」というのは、すべて待ち受けてすることを言う。ここは、厠の中で待ち伏せていたようには聞こえないし、そんなことをするはずはないだろう。】若櫻の宮(履中天皇)の段にも「曾婆訶理(そばかり)竊、伺2己王入1レ厠、以レ矛而殺也(ひそかに、おのがミコのカワヤにいりたまえるをうかがいて、ホコさしてころしき)」とある。一般に厠に入る時は、刀なども外し、装束も無防備な状態になるものだから、普通の時よりは隙が多いものである。【だから後世も、乱世などでは、武士は厠に入る時は特に注意したのだ。】○ツカミ<てへん+u>批。この字のことは、上巻【伝十四の二十七葉】で言った。参照せよ。ここもその箇所と同様に「つかみひしぎて」と読む。また上巻に倣って読むと、ここは兄王の手を掴みひしいだのだ。【この後の「枝」というのは手のことだからだ。だからここは「その枝を掴みひしいで、引き欠いた」と言うのだ。】○枝(えだ)は手足を言う。書紀の雄略の巻に「張夫婦四支於木、置假キ(广に技)上、以火燒死(メオのよつのエをきにはりて、サズキのうえにおきてやきころす)」【三代実録卅に「美作の守、四支王」という人名がある。非常に変わった名で、誤字があるのかも知れない。印本には「王」の字がなく、古い本にある。】とある「支と同じ。和名抄の形體の部に、「野王が考えるに、肢は四體である。和名『えだ』」とある。手足は樹木の枝に似ているから、いずれも「えだ」と言う。【樹木の枝が元の言葉で、それに喩えて言うのではない。これもそれも本来の名である。ここの「枝」の字は、延佳が「肢と書くべきか」と言ったが、それも「えだ」と読むから、通わせて「枝」とも書くのが古言では普通だ。漢籍でさえ孟子に「爲2長者1折レ枝(長者のために枝を折る)」とあるのを、趙氏の注に「折枝とは、手節を按摩すること」と言い、後漢書の王キョウ(龍の下に共)傳の注に「劉キ(熈のへんをにすいへんに置き換えた字)のいわく、『孟子にいわく、折枝はあるいは今の按摩のようなものか』」とある。「支」、「枝」、「肢」は、もとは同じで、相通う字である。】○引闕(ひきかき)は、兄の手をもぎ取ったのだ。【それなのに手と言わないで「枝」と言ったから、手足をみなもぎ取ったように聞こえるだろうが、そうではない。前に「つかみひしぎ」とあるから、手をとって掴みひしいで、その手をもぎ取ったのである。「引き闕く」と言う言い方は、「枝」という方が似つかわしい。体に付いた枝をもぎ取る意味だからだ。】上巻に「湯津々間櫛を引き闕き」ともあった。○薦は「こも」と読む。和名抄の坐臥の具に、「唐韻にいわく、薦は席である。和名『こも』」とある。また厨膳の具に「漢語抄にいわく、食單は『すごも』」とあるのも、延喜式などに「食薦(すごも)」とあるものだ。万葉巻十三【十四丁】」3270)に「破薦乎敷而(やれごもをしきて)」、巻十四【二十八丁】(3524)に「麻乎其母能、布能末知可久弖(まおごもの、ふのみちかくて)」、【「眞小薦(まおごも)の、節(ふ)の短くて」である。】巻十六【二十一丁】(3843)に「薦疊(こもだたみ)」などの例がある。また和名抄の草類に「本草にいわく、菰は一名蒋(正字はくさかんむりに將)、和名『こも』」【これは眞菰(まこも)と言って、水草である。】ともある。そもそも「こも」と言うのは、席(むしろ、敷物)のことだったが、草にその名を付けたのは席にするから言ったのか、それとも草の名を「席」の意味に使ったのか、本末はよく分からない。ここに言っているのは「席」の意味の「こも」である。○裹投棄(つつみてなげうてつ)というのは、もぎ取った手を言うのだろう。【死体を棄てたという意味ではないだろう。】さて、手をもぎ取られた兄王の命はどうなったのだろう。その後のことは分からない。【手や足をもがれても死ぬとは限らない。】<訳者註:「手足をもぎ取って殺し、死体は投げ棄てた」と解するのが自然だが、宣長がどうしてこう解釈したのかは分からない>

 

於レ是天皇惶2其御子之建荒之情1而。詔之。西方有熊曾建二人。是不レ伏无レ禮人等。故取2其人等1而遣。當2此之時1。其御髮結レ額也。爾小碓命。給2其姨倭比賣命之御衣御裳1。以レ劔納レ于2御懷1而幸行。故到レ于2熊曾建之家1見者。於2其家邊1軍圍2三重1。作レ室以居。於レ是言=動3爲2御室樂1。設=備2食物1。故遊=行2其傍1。待2其樂日1。爾臨2其樂日1。如2童女之髮1リュウ(てへん+梳のつくり)=垂2其結御髮1。服2其姨之御衣御裳1。既成2童女之姿1。交=立2女人之中1。入=坐2其室内1。爾熊曾建兄弟二人見=感2其孃子1。坐レ於2己中1而。盛樂。故臨2其酣時1。自レ懷出レ劔。取2熊曾之衣衿1。以レ劔自2其胸1刺通之時。其弟建見畏逃出。乃追至2其室之椅本1。取2其背、皮1劔自レ尻刺通。爾其熊曾建白言。莫レ動2其刀1。僕有2白言1。爾暫許押伏。於レ是白=言2。汝命者誰1。爾詔吾者坐2纏向之日代宮1所=知2大八嶋國1。大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子。名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人。不レ伏無レ禮聞看而。取=殺2意禮1詔而遣。爾其熊曾建。白信然也。於2西方1除2吾二人1無2建強人1。然於2大倭國1。u2吾二人1而建男者坐祁理。是以吾獻2御名1。自レ今以後。應レ稱2倭建御子1。是事白訖。即如2熟コ(くさかんむりに瓜)1振折而殺也。故自2其時1稱2御名1謂2倭建命1。然而還上之時。山~河~及穴戸~。皆言向和而參上。

訓読:ここにスメラミコト、そのミコのタケクあらきミココロをかしこみまして、ノリたまわく、「にしのかたにクマソタケルふたりあり。これまつろわずイヤなきヒトどもなり。かれそのヒトどもをとれ」とノリたまいてつかわしき。このときにあたりて、そのミカミ、ミひたいにゆわせり。ここにオウスのミコト、そのミオバ、ヤマトヒメのミコトにミソ・ミモをたまわり、タチをミふところにいれていでましき。かれクマソタケルがイエにいたりてみたまえば、そのイエのほとりにイクサみえにかくみ、ムロをつくりてぞいける。ここにニイムロウタゲせん」といいとよみて、オシモノをまけそなえたりき。かれそのアタリをあるきて、そのウタゲするヒをまちたまいき。ここにそのウタゲのヒになりて、そのゆわせるミかみオトメのかみのごとケズリたれ、そのミオバのミソ・ミモをけして、すでにオトメのすがたになりて、オミナどものなかにマジリたち、そのムロぬちにいりましき。ここにクマソタケルあにおとふたり、そのオトメをミめでて、おのがなかにませて、さかりにウタゲたり。かれそのタゲナワなるにいたりて、ミふところよりタチをいだし、クマソがころものくびをとりて、タチもてそのムネよりさしとおしたまうときに、そのおとタケル、ミかしこみてにげいでき。すなわちそのムロのハシのもとにおいいたりて、そのセをとらえ、タチもてシリよりさしとおしたまいき。ここにそのクマソタケルもうしつらく、「そのミタチをナうごかしたまいソ。われもうすべきことあり」ともうす。かれシマシゆるして、おしふせたまう。ここにもうしつらく、「ナがミコトはたれにますぞ」。「アはマキムクのヒシロのミヤにましまして、オオヤシマクニしろしめす、オオタラシヒコオシロワケのスメラミコトのミコ、ミナはヤマトオグナのミコにます。おれクマソタケルふたり、まつろわずイヤなしときこしめして、おれをとれとノリたまいてつかわせり」とノリたまいき。ここにそのクマソタケル、「まことにシカまさん。にしのかたにアレふたりをおきて、タケクこわきひとなし。しかるにオオヤマトのクニに、アレふたりにましてたけきオはいましけり。ここをもてアレ、ミナをたてまつらん。いまよりのちヤマトタケのミコとたたえもうすべし」ともうしき。このこともうしおえつれば、すなわちホゾチのごとふりさきてコロシたまいき。そのときよりぞミナをたたえてヤマトタケのミコトとはもうしける。しかしてかえりのぼりますときに、やまのカミ・かわのカミまたアナドのカミをみなことむけやわしてマイのぼりましき。

口語訳:天皇は小碓命の猛烈で荒々しい心を知り、恐ろしく思った。そこで、「西の国に、熊曾建という者が二人いる。彼らは天皇に服さず、礼儀というものを知らない。彼らを殺せ」と命じた。この時、小碓命は髪を額で結わえていた。そこで叔母の倭比賣命に女性の衣裳を借り、剣を懐に潜ませて出発した。熊曾建の家に行ってみると、家の周りに軍を三重に配置し、その中に室を作っていた。彼らは新しい家が完成したので、「お祝いをするぞ」と言いふらして食べ物を供え、宴の準備をしていた。小碓命はしばらくその周辺をぶらついて、宴の日を待った。いよいよ宴の日になると、小碓命は髪を少女のように梳き、叔母の着物を着て、すっかり女の姿になった。そして女たちに交じって室内に入った。熊曾建たちはその小碓命をとても可愛い少女だと思って、自分たちの間に座らせ、宴を楽しんだ。宴がたけなわになった時、小碓命は突然懐から剣を取り出し、熊曾の衣の衿を掴んで、胸を刺し貫いた。もう一人の熊曾は驚いて逃げ出した。それを室の入り口の梯子のところに追い詰め、背中を捕まえて、尻から剣を刺し通した。すると熊曾建は「暫く、その剣を動かさないでくれ。言いたいことがあるから」と言った。そこで小碓命はそのまま熊曾建を押し倒して彼が言うのを待った。熊曾建は「お前は誰だ」と訊いた。「私は纏向の日代の宮で大八嶋国を治めている大帶日子淤斯呂和氣の天皇の子で、名は倭男具那の王という。お前たち二人は天皇の命に服さず、無礼だというので、殺せと命じて遣わされたのだ」。熊曾建は「なるほどそうだったのか。この西国では、俺たち以上に強い者はない。だが大倭国には、もっと強い奴がいたのだな。では、俺はお前に名前をやろう。これからは倭建(やまとたけ)の御子と名乗るがいい」と言った。そう言い終わると、小碓命は剣を振り動かして、熊曾建の体を熟した瓜のように切り刻んでしまった。その時から名を倭建命と名乗った。そして都に帰る途上、山の神、川の神、穴戸の神たちをみな平定して帰った。

其御子(そのみこ)は倭建命のことである。○建荒(たけくあらき)とは、前に天皇が命じたのは単に泥疑教覺(ねぎおしえさとせ)ということだったのに、怒りにまかせて前述のような所行に及んだのは、非常に力があるだけでなく、たいへんに荒々しい気性だったということだ。○惶(かしこみ)とは、よく考えると、ただ建(たけし)と言うだけでなく荒(あらし)と言い、また所行と言わず情(こころ)と言っているので、今度のことでその荒々しい心を知って、今後もどんなことをしでかすか分からないと恐ろしくなったのである。とすると、熊曾征伐に遣ったのは、一面では彼が都にいることを恐れて遠ざけようとしたのだろう。ここで西国を平定して帰国すると、すぐに東方征伐に遣わしたのもそのためと思われ、その時叔母の倭比賣命に語ったことも、そういう趣旨に聞こえる。そのことは後に言う。【書紀では、彼の荒々しさを嫌って遠ざけようとした様子は見えない。書紀は天皇がこの皇子を始終特に愛していたように書いてある。伝えが異なるのである。】○詔之。この「之」の字は、旧印本や延佳本には「云」とある。他の本はみな「之」となっている。○熊曾建(くまそたける)。「熊曾」は国名で、上巻【伝五の十五葉】に出た。「建(たける)」の例は、白檮原の宮の段【伝十九の三十二葉】に出た。○二人は、後の文に「兄弟二人」とあるのがそうである。【書紀では一人だ。】○不伏(まつろわず)は白檮原の宮の段【伝十九の六十八葉】に見えた。○无禮【「无」の字は、諸本みな「兄」の字に誤っている。ここでは延佳が訂正したのによる。】は「いやなき」と読む。【万葉巻十二(2915)に「妹登曰者、無禮恐(イモといわば、なめしかしこし)」と見え、書紀でも「輕」を「なめし(軽んずる、なめている)」と読んでいるから、ここの无禮も「なめき」と読んでも良さそうだが、後に引く続日本紀で「無禮」と「奈賣久(なめく)」を並べて言っているから、やはり「いやなき(旧仮名:ゐやなき)」と読むべきだろう。なお「ゐや」の「ゐ」を「い」と書くのは間違いである。続日本紀の宣命に「爲夜(ゐや)」とある。】高津の宮(仁徳天皇)の段に「其王等(そのみこたち)、因2无禮1而(いやなきによりて)、退賜(きらいたまいぬ)<その王たちが無礼だったので退けた>」とあり、穴穂の宮(安康天皇)の段に「言以白事者(ことをもてもうすは)、思无禮(おもうにいやなし)<言葉で言うのは無礼だと思う>」、玉穂の宮(継体天皇)の段に「筑紫君石井(つくしのきみいわい)、不レ従2天皇之命1而(オオミコトにしたがわずして)、多2无禮1(いやなきことおおし)」、書紀の武烈の巻に「無敬(いやなき)」などの例があり、続日本紀廿に「王等臣等乃中爾(おおきみたちオミたちのなかに)、無禮久逆在流人止母在而(いやなくさかさまなるひとどもありて)」、廿四に「汝乃多米仁、無禮之弖、不従奈賣久在牟人乎方(みましのために、いやなくして、したがわずなめくあらんひとをば)」【この「賣」の字は、今の本では「壹」に誤っている。】など、さらに他にもある。「いや」は書紀に「禮レ~(かみをいやう)」、「禮レ賢(ケンをいやう)」、「恭(いやまい)」、「敬(いやまい)」などとある「いや」で、「うやまう」、「うやうやしい」などの「うや」と同じ語である。書紀の景行の巻には「無禮(うやなし)」ともある。○取(とれ)は「殺せ」と言うのと同じである。このことは水垣の宮(崇神天皇)の段【伝廿三の六十葉】で言った。参照せよ。後の文にはそのまま「取殺(とれ)」と書いてある。○「當2此之時1(このときにあたりて)」は、何やら漢文めいた書き方だが、ここではこういう言い方もあって当然なところだ。そのため、字のままに読んでおいた。○其御髮結額は「そのミカミ、ミひたいにゆわせり」と読む。これは書紀の崇峻の巻【蘇我の大臣馬子が、諸皇子と群臣に呼びかけて物部の大連、守屋を討つところ】で、「この時厩戸皇子(聖徳太子)は束髪於額(髪を額で束ねて)軍に従った」とあり、細注に「いにしえには、年少の子供は、年が十五、六歳の頃、髪を額に束ね、十七、八歳の頃に角子(あげまき)にした。今もそうである」と書いてある通りだ。つまりここは、年齢が十五、六歳だったことを言っている。書紀にはこの髪のことを書いてないが、「日本武尊を遣わして、熊襲を討たせた。この時年は十六だった」とあるので知るべきである。【上記の厩戸皇子について言ったのは、次の「四天王の像を作って、頂髪(たぎふさ)に置いた」とあるから、そのためにまず髪のことを書いたようでもあるが、やはりそれも年齢を言う文だろう。単に頂髪に置いたと言うだけでは、髪のことを取り上げて言う必要はないからだ。ここも後の文に「童女の髪のように」とあるから、それを言う準備として言ったようにも聞こえるだろうが、そうだったら「爾小碓命」とあるところで言ったら良さそうなものなのに、それより先に言っているのは、やはり年齢を知らせるためである。このことを先に言ってその後に「爾小碓命」とあるから、何となく記述の順序が違っているような気がするのは、このためだろう。ところで上記の書紀に「束髪於額」を「ひさごばなにして」と読むのは古言だろう。するとここの「結額」もそう読むようにもおもえるが、この記の例を考えると、そうだったら言葉のままに「爲2瓠花1(ひさごばなにす)」などと書きそうなものだ。それを「結額」などとは書かないだろう。とするとここは、やはり字に従って読むべきだ。「ひさごばな」というのは、その額で結った形が瓠の花に似ていたのだろう。なお宇津保物語の初秋の巻に「みな相撲(すまひ)の装束し、ひさご花かざしなど、いとめづらかなることゞもしつつ」とあるのは、瓠の花を髪に挿して飾りにしたことを言うのだろう。】髪をこの形にしたのは、年が十五、六の頃のことだから、その前に「當(あたりて)」と言ったのも、この年齢に当たるということを言ったのだろう。○姨は「みおば」と読む。倭比賣命は、父天皇の同母妹に当たる。和名抄に「伯母は父の姉である。和名『おば』。叔母は和名同じ。父の姉妹を姑と言う。あるいは『阿叔母』とも言う。和名は上に同じ」と見え、姨は同書に「母の姉妹である」とあるけれども、やはり「おば」と言うから、通わせて同じ字を書く。新撰字鏡には「姨は『おば』」とある。「おば」は「小母」の意味の名である。○倭比賣命は前【伝二十四】に出た。○御裳(みも)。和名抄に「裙裳は釋名にいわく、上を裙と言い、下を裳と言う。和名『も』」とあるが、「上を裙、下を裳」と分けるのは漢の言い方だ、わが国ではどれも単に裳(も)と言う。その「も」は、纏衣(まきそ)の縮まった語ではないだろうか。【腰に纏うものだからだ。裏(した)の裳も纏うものである。裏の裳のことは、伝六の四十八葉で言った。】○給は「たまわり」と読む。「たまわる」は「被レ給」で、「給うものを受ける」ことだ。【「たまう」と「たまわる」を今は同じように使っているのは間違いだ。「たまう」は与える方が主語で、「たまわる」はそれを受ける方が主語である。ここは倭比賣命が与えたことを言うのでなく、倭建命が受けたことを言うのだから、「たまい」と読んでは意味が違ってしまう。また「たまう」を「たぶ」、「たまわる」を「たばる」とも言うが、これも「たぶ」と「たばる」の違いは上述の通りだ。】そうやって女の着物を用意して行った理由は、後で分かる。倭比賣命の衣裳を借りたのは、この比賣が伊勢の大御神の御杖代(みつえしろ)だったから、その~の霊力を借りようという意図があったのかも知れない。【そうでなければ、女性の服であっても、すぐに作ることはできただろう。わざわざ伊勢まで行って貸してくれと頼むようなことではない。】○劔(たち)は諸本に「小劔」とあるが、ここは真福寺本と延佳本に「小」の字がないのに依った。書紀にも、単に「ミソ(ころもへん+因)のうちの劔」とある。【ここを「小劔」と書いたのは、「懐に入れて」とあるのから推測して、後人がさかしらに改めたのだろう。懐に入れたのは、玉垣の宮(垂仁天皇)の段でも「紐小刀」とはあるが、記中に「小劔」と書いた例はない。ただし小刀は剣の一種で、そちらは小刀、こちらは小刀でないからといって、小劔と書いていけないというものでもない。また後の文では「出レ劔」、「以レ劔」とあって、諸本みな「小」の字はないけれども、それも最初に「小劔」と言えば、後ではいちいち「小」とは言わないのが普通である。とすると「小劔」とあるのも、全くだめというわけでもない。師は「小劔」とあるのを採用して二字を「さび」と読んだが、この読みはいかがなものか。もし小劔なら「こだち」、「おだち」あるいは「ちいさきたち」などと読むべきだろう。】これは普通の大きさの剣だろう。○懐(ふところ)は含処(ふほところ)の意味である。【私の郷里の下賤の者は、「おところ」と言うことが多い。新撰姓氏録に、物部氏の人で懐(ふところ)大連という名がある。布都久呂(ふつくろ)大連とも書いている。旧事紀では布都久留(ふつくる)大連と書いてある。】ここで懐に剣を入れたのは、女の姿になるために隠したのである。【だから普通の剣だろうと言うのである。普通の剣だったら長いから、懐には入らないのではないかという疑問もあるだろうが、服の下の方だったら、長いものも隠せないことはないだろう。】○圍は「かくみ」と読む。書紀の仁徳の巻の大后の歌に、「箇區瀰夜ダ(イ+嚢)利(かくみやだり)」、【「囲八人」である。】万葉巻廿【三十七丁】(4408)に「若草之、都麻母古騰母毛、乎知己知爾、左波爾可久美爲(わかくさの、つまもこどもも、おちこちに、さわにかくみい)」などの例がある。ここは身を守るために、兵士を常に供えて囲んでおいたのだ。○言動爲御室樂は「ニイムロうたげせんといいとよみて」と読む。「御」の字は「新」の誤りだろう。【「御室樂」と言ったのでは、「室」の字が文脈に合わない。】甕栗の宮(清寧天皇)の段に「到2志自牟之新室1樂(しじむがニイムロにいたりてウタゲす)」とある。新室樂については、そこでさらに言う。【伝四十三の九葉】参照せよ。前文に「作レ室(むろをつくりて)」とあるのも、新しく作ったことを言うのだろう。【そうでなければ、「作」とあるのをどう読むか。】また書紀ではここのことを「親族をみな呼び集めて宴を開こうとした」とある「宴」の字を「にいむろうたげ」と読んでいるが、書紀に新室を作ったことは書いてないのにそう読んでいるのは、この記の古い本に「新室」とあるのに依拠したのだろうと思われる。ところで「樂」を「うたげ」と読むべきだと言うのは、【この「樂」の字は宴楽の楽で、洛の字の音(らく)である。音楽の方(がく)ではない。】上記の書紀の文、また天智の巻でも「宴」をそう読み、允恭の巻では「讌」もそう読むからである。「うたげ」とは「拍(う)ち上げ」の縮まった言葉だ。書紀の顕宗の巻に「縮見(しじみ)の屯倉の首(おびと)は盛大に新室で遊んで・・・夜が更け、宴もたけなわとなり、次々に舞が披露されて、それが終わると・・・天皇は次に立ち上がって、新室を賞める言葉を述べて、・・・手を拍ちあげて、『吾(あ)が常世等(とこよたち)』云々」とあるのがそうだ。【釈日本紀に『拍上とは、飲酒のことである』とある。】酒を飲み、上機嫌になって手を叩くことから言う。【今の世でも、酒宴を開いて手を叩くことがある。】竹取物語に「三日(みか)うちあげ遊ぶ」、宇津保物語【藤原の君の巻】に「すべて七日七夜、とよのあかりして、うちあげあそぶ」、榮華(栄花)物語【見はてぬ夢の巻】に「酒を飲(のみ)のゝしりて、うちあげのゝしる」、また【浅緑の巻】「三日のほど、よろづの殿ばらまゐりまかで、うちあげ遊び給ふ」、また【本のしづくの巻】に「三日のほど、めでたくうちあげあそびて過(すぎ)ぬ」、宇治拾遺物語に「酒まゐらせ、遊ぶありさま、・・・うちあげたる拍子(ひゃうし)のよげに聞こえければ、さもあれたゞ走出(はしりいで)て、舞(正字はイ+舞)(まひ)てむ云々」などの例がある。【ある人によると、美濃国の俗言で、結婚の時、婿が初めて妻の実家を訪れることを「うちゃげ」と言うそうだ。「うたげ」の古言が残っているのである。】「言動(いいとよみ)」とは、周囲に声高く言いふらすのだ。【万葉巻十九(4266)に「豊宴見爲今日者、毛能乃布能、八十伴雄能、嶋山爾、安可流橘、宇受爾指、紐解放而、千年保伎保伎吉等餘毛之、惠良々々爾、仕奉乎(とよのあかりみしせすきょうは、もののふの、やそとものおの、しまやまに、あかるたちばな、うずにさし、ひもときさけて、ちとせホギホギきとよもし、えらえらに、つかえまつるを)」とある「吉」の字は、あるいは「言」の誤りで、「壽言動(ほぎいいとよ)もし」ではないだろうか。】○食物(おしもの)は前【伝九の八葉】に出た。○設備(まけそなえ)も前【伝九の卅三葉】に出た。○傍は、師が「あたり」と読んだのに従う。○遊行は「あるきて」と読む。【上巻にも見え、そこでもそう読んだ。伝十の廿四葉】また万葉巻五【九丁】(804)に「阿蘇比阿留伎斯(あそびあるきし)」とあるから、これもそう読んでも良い。○「待2其樂日1(そのうたげするひをまちたまう)」とは、女の姿になって入り込もうとして、女性の服も準備してやってきたところ、ちょうど熊曾建たちが新室楽をすると聞いて、これは良い機会だと思い、その日を待っていたのだ。○「如レ童女之髮B梳=垂C其結御髮A」は「そのゆわせるミカミをおとめのカミのごとけずりたれ」と読む。結御髮(ゆわせるミカミ)とは、上記の額に結った瓠花の形の髪を言う。「童女」は上巻に出て、「おとめ」と読むことはそこ【伝九の十九葉】で言った。いにしえの童女の髪は、幼い頃から結婚するまで垂らしていたことは、師の説【万葉考別記】に詳しく見え、ほぼその説の通りだ。万葉巻七【二十三丁】(1244)に「未通女等之、放髪乎、木綿山(おとめらが、はなりのかみを、ゆうのやま)」、巻十六【十六丁】(3822)に「童女波奈理波髪上都良武可(うないはなりはカミあげつらんか)」、【この歌の後に「椎野連、長年の説に曰く云々」とある説は間違いである。】などとあるのがこれだ。「放(はなり)」とは、結っていない髪を言う。なお上代の女性の髪のことは、上巻【伝七の三十四葉】でも述べた。参照せよ。「如童女之髮」は「うないのごと」とも読める。和名抄に「髫髪は和名『うない』、俗に垂髪の二字を書く。後漢書の注にいわく、髫髪は子供の垂れた髪を言う」とあり、新撰字鏡にも「コン(髟の下に几)は髪が肩に垂れる様子である。『うない』」と見え、【コン(髟の下に几)の字は疑わしい。】万葉巻十六【七丁】(3791か)に「童子(うないこ)」、「童兒(うないこ)」ともあるからだ。「梳」は和名抄【容飾具】に「梳はある読みでは『けずる』」、新撰字鏡に「リュウ(てへん+梳のつくり)は『かしらけずる』」とある。【「梳」は説文に「髪をすくこと(理髪)」とある。漢籍では、普通「くしけずる」と読んでいる。】櫛で髪を理(と)くのである。【これを俗に「とく」というのは、乱れたのを解き整える意味で、「理」の字の意味に相当する。万葉巻三(278)に「髪梳の少櫛」とある「髪梳」を「くしげ」と読むのは間違いで、田中道麻呂が「ゆするのおぐし」と読んだのが良い。「ゆする」は髪をくしけずることである。】万葉巻九【三十四丁】の、勝鹿の眞間娘子(ままのおとめ)を詠んだ歌(1807)に「髪谷母、掻者不梳(カミだにも、かきはけずらず)」、巻十六【八丁】(3791)に「三名之綿、蚊黒髪尾、信櫛持、於是蚊寸垂(みなのわた、かぐろきかみを、まぐしもち、ここにかきたれ)・・・解乱(ときみだし)」などの例がある。ところで「リュウ(てへん+梳のつくり)」の字はもともと木偏だが、上代には手偏にも書いたと見えて、【手ですることだからそう書いたのだろう。】新撰字鏡では「手」の部に挙げている。【これと別に「梳ソ(木+足+梳のつくり)は櫛である。『くし』」というのが「木」の部にある。ということは、櫛の意味には木偏を書き、「けずる」という動作には手偏を書いたようだ。】この記は、諸本共に手偏に書いてある。だからここでもそれに従った。○服は「けして」と読む。「着て」という意味の古言である。「みけし」【御衣】の「けし」を動詞に使ったのだ。【「みけし」は「お着けになったもの」という意味で、身に着けたものを言う。太刀を「御佩(みはか)し」と言い、「お持ちになった」ということで、弓を「御執(みとら)し」というのと同じだが、その「執(とら)し」、「佩(はか)し」も動詞形では「執して」、「佩して」と言うから、「御衣(みけし)」も動詞では「けして」と言うことをそれに準じて理解せよ。】後に出る倭建命の歌に「那賀祁勢流、意須比(ながけせる、おすい)」とあるところで、さらに言う。【伝廿八の???】○既(すでに)は全く、ことごとくという意味である。この記の序文に「已因レ訓述者(すでにクンによりてのぶれば)云々」、書紀の継体の巻に「全壊(すでにそこなう)」、万葉巻十七【十五丁】(3923)に「天下須泥爾於保比底、布流雪乃(あめのしたすでにおおいて、ふるゆきの)」などとあるのも同じだ。また【十六丁】(3931)「吾名波須泥爾多都多山(わがなはすでにタツタやま)」【これは普通に言う「もうそうした」の意味か、それとも「ことごとく」の意味でもあろうか。】ともある。○姿は「すがた」と読む。書紀の雄略の巻に「容儀(すがた)」、「形容(すがた)」、皇極の巻に「容止(すがた)」、万葉に「光儀(すがた)」、「容儀(すがた)」、「儀(すがた)」などとある。万葉巻廿【二十九丁】(4378)に「阿母志々可、多麻乃須我多波、和須例西奈布母(あもししが、たまのすがたは、わすれせなうも)」とある。○「交=立2女人之中1(おみなどものなかにまじりたちて)」。諸本で「立女」を「妾」に誤っている。ここでは真福寺本によった。書紀にも「居2女人中1(おみなどものなかにまじりましぬ)」とある。「妾」と書いているのも、全くの間違いとは思えないが、次に「人」の字があるから、やはりそうではないだろう。【「妾人」と書くことはおかしいからだ。しかしそれを採るとすれば、「妾人」を「おみなめども」と読むことになる。和名抄に「妾は和名『おむなめ』」とあり、孝徳紀で「妻妾」とあるのもそう読んでいる。ところで「女」は中古以降は「おんな」と言うが、古言は「おみな」であって、(比較的新しい)新撰字鏡でさえ「おみな」としている。これから考えると、「妾」ももとは「おみなめ」だったのが、和名抄の頃には既に「み」を音便で「む」と言ったものらしい。ある人によれば、今も陸奥の南部あたりでは、「妾」を「おなめ」と言うそうだ。物語本では「かけめ」ともあり、後世の書物では「思いもの」とも言う。今の世では「てかけ」、「めかけ」などと言う。この「妾人」を師は「あらめども」と読んだが、良くない。「あらめ」などという呼称は存在しなかった。ここは「妾人」とあるなら「めしびとども」とも読める。「めし」は「幸(めす)」、「御(めす)」などとも書く意味である。中昔の物語本などで、そういう者を「めしうど」と言った例が時々ある。」○室内は「むろぬち」と読む。書紀の神功の巻に「波邏濃知(はらぬち)」【「腹の内」である。濃は「ぬ」の仮名だ。】とあるのによる。○入坐(いりまし)の「まし」は尊敬の辞で、単に入ったということである。【入って座ったということではない。】○兄弟は「あにおと」と読む。○嬢子は「おとめ」と読む。前にも出た。○見感(みめでて)。「感」の字は、諸本で「成」、あるいは「咸」に誤っている。ここでは延佳本によった。【書紀にも「感2其童女容姿1」とある。】○己中(おのがなか)とは、兄弟の間にということだろう。○坐は「ませて」と読む。そのことは玉垣の宮の段【伝廿五の三十四葉】で言った。万葉巻七【二十六丁】に「雜豆蝋、漢女乎座而(さにずらう、あやめをませて)」【これを「おとめをすえて」と読むのは間違いだ。「漢女」は漢国の女のことである。】○盛樂は「さかりにうたげたり」と読む。【こう読む時は、「うたげ」は動詞として言っている。】書紀には「そこで日本武尊は髪をとかして少女の姿になり、川上梟帥(かわかみたける)の宴の時を伺い、太刀を着物の中に隠して、川上梟帥の室の中に入り、女たちの間に交じっていた。川上梟帥はその少女の姿が気に入り、自分の側に坐らせて、酒を飲ませ、体をまさぐって戯れた」とある。○酣時【「酣」を諸本で「酎」と書いているのは間違いだ。ここは延佳本によった。】は「たげなわなるときに」と読む。「酣」の字は「酒楽である」とも「楽酒である」とも「飲洽(あまねく飲む:大いに飲む)ことである」とも注される。これを「たげなわ」と言うのは「うたげなかば」が縮まったので、【最初の「う」を省くのはよくあることだ。また「なか」を省いて「な」というのは、級長津彦(しながつひこ)~を「しなつひこ」と言い、天武天皇の「淳中」を訓注に「ぬな」とあるのと同じである。最後の「は」濁るはずだが、上の「げ」が濁音なので、近いところに濁音が重なってまずいため、自然と清音に言い慣れたのだろう。また「酒酣」を「さけたけなわ」と読むのは良くない。二字を合わせて「たけなわ」と読むべきだ。これを日が長けた、草などが長けた、という「長(た)けた」の意味に解するのは誤りである。日や草の「長けた」というのは、高くなる意味で、別の言葉だ。日が長けたというのは、古くは朝日が高く昇ったことを言ったが、今は誤って日が西に傾いたのをそう言うので、酣も宴が盛りを過ぎて、ちょっと湿っぽくなったぐらいの意味に捕らえることが多いが、これは間違いだ。ただこの言葉には紛らわしい点がある。史記の高祖本紀に「酒闌」とあり、文頴の注に「闌はまばらになることである。酒を飲む者が、半ばは退席し、半ばは酒席に残っているのを闌と言う。」とある「闌」も「たけなわ」と読んでいるのは、酣と同じ意味に誤解して付けた訓だろう。闌は、そう読む理由はないから、これによって「たけなわ」の意味を間違えてはいけない、また「ラン(門に戀の上部分)」も「たけなわ」と読んでいるが、これはまた「闌」の字を誤解したことから転じた。それは「闌入(みだりに入る)」という意味であって、酒宴には何の関係もない。】俗言で言うと、酒宴の真っ最中ということだ。甕栗の宮の段でも「盛樂酒酣」とあって、「たけなわ」と読む。ここは書紀に「于時也更深人闌、川上梟帥且被酒(そのとき夜が更けて人が少なくなり、川上梟帥は酔っていた)」と書いてある。【この「人闌」は「ひとうすらぎて」と読んでいるように、字の正しい意味で書かれているのだろう。とするとこの記に「酣時」とあるのとは、伝えが異なっている。だがよく考えると、ここも古伝には「酣」と書いてあったのが、史記の「酒闌」を酣と同じ意味に解し、人闌と誤って書いたのではないだろうか。たいへん紛らわしい。いずれにせよ酣と闌とは意味が異なり、酣という字には闌(うすらぐ)という意味はない。混同してはならない。】○熊曾(くまそ)。初めに出ているのは兄建(えたける)である。後に弟建(おとたける)のことが出ているからだ。○衣衿【諸本に「衿」の字が脱けている、ここでは真福寺本および延佳本によった。】は「ころものくび」と読む。新撰字鏡に「エリ?(ころもへん+或)は衿である。『ころものくび』」とある。【字彙補に「エリ?(ころもへん、つくりは戈の中に口)は衣の前の襟である」とあるから、エリ?(ころもへん+或)は、正しくはこの字か。】また「衿(正字はころもへん+令)は領、衣の上の縁である。『ころものくびのもとおし』」ともある。【「もとおし」は俗に言う「へり」である。】和名抄には、「釋名にいわく、衿(ころもへん+令)は頸である。頸を擁するところである。音は領(りょう)、『ころものくび』<訳者註:衿の音読みはキンで別字>」とある。【「衿(ころもへん+令)」の字を今の本に「袷」とあるのは間違いである。この衿(ころもへん+令)の字は、釋名を見ると「領」と書いてある。これはどうだろう。しかし新撰字鏡にも「衿(ころもへん+令)」とあるから、わが国で「領」を「衿」と書き習わしてきたのだろう。そういうことも多い。衿とは字が違う。だが「衿」も「エリ(ころもへん+令)」も共に衣の「くび」であって、俗に言う「えり」である。この「衿」と「襟」は通い、意味は同じだ。ここは「胸を刺し通した」とあるから、「衣の衿」を掴むとは、俗に言う「胸ぐらを掴む」ということだ。】と見え、天武紀では「襟」を「きぬのくび」と読んでいる。○「刺通(さしとおす)とは胸から指して、背中まで貫くことだ。○椅(はし)は「階」である。【「椅の字については伝二十の二葉で言った。」和名抄に「考聲切韻にいわく、カイ(土+皆)は堂に登る級(段のことか)である。俗に階の字を書く。『はし』、あるいは『しな』とも読む」とある。○背皮。「皮」の字は誤写である。【衣服があるのだから、皮を捕まえると言うことはないはずだ。また衣服がなくても、背中の皮を捕まえることはできないだろう。】師が「以」の誤りとして、「以レ劔(つるぎもて)」と読んだのに従うべきだ。【「劔」の上に「以」の字がなくては言葉が足りない。あるいは「以」の字は脱落したのであって、上代には寒さを防ぐため、衣の上に、背中だけ獣の皮を着ていて、それを捕らえたのかとも思ったが、そうではないだろう。】「背」は「せ」と読む。これは衣の後ろの方を言うのだろう。【俗言にも衣の後ろの方を「背」と言う。物語書などでも、衣を縫うことを言う場面で「御背合(おせあは)す」という言い方がある。】○自レ尻刺通(しりよりさしとおす)は、背後から前の腹の辺りへ貫いたのである。これは逃げるのを追って後ろから捕まえたから、尻から刺したのだ。○其熊曾建(そのくまそたける)。これは弟建(おとたける)である。兄建は胸を貫いたから即死したが、弟は尻からさしたから、すぐには死なず、しばらくは耐えて、ものを言うこともあったのだ。○「莫レ動2其刀1(そのミタチをナうごかしたまいソ)」。こう言ったのは、体を貫いた太刀を動かせば、忽ち死んでしまうからである。○有白言は「もうすべきことあり」とも「もうすことあらん」とも読める。○暫許(しましゆるして)。「暫」は「しまし」と読む。万葉巻十五【七丁】(3601)に「之麻思久母(しましくも)」、また【十四丁】(3634)「思麻志久母(しましくも)」、【三十一丁】(3731)「思末志久母(しましくも)」、巻十八【六丁】に「布禰之麻志可勢(ふねしましかせ)」などが見え、巻十四【二十一丁】(3471)に「思麻良久波(しまらくは)」ともある。「許」は師が「ゆるして」と読んだのが良い。【「ばかり」と読むのは良くない。そう読むと「押伏」の上に言葉が足りなくなる。】すぐに殺すべきところを、彼の言葉のままに暫く留めて、次の言葉を待ったのである。○押伏(おしふせ)は彼の体を俯せにして、押さえつけたのだ。書紀には「日本武尊は衣の下から剣を取り出し、川上梟帥の胸を刺した。まだ死なないうちに、川上梟帥は「暫く待ってくれ、私に言うことがある」と頼んだ、その時日本武尊は、暫く剣を留めて待った」とある。○誰は「たれにますぞ」と読む。【「誰なるぞ」という意味である。「なる」は「にある」が縮まった語で、尊敬の意味に言うと「にます」になる。】○「所=知2大八嶋國1(おおやしまくにしろしめす)云々」。前【伝五の二十一葉】に出た。私の「國號考」で詳しく論じてある。○大帶日子(おおたらしひこ)云々。こう名乗るのは、当時の天皇のことだから、後世から見ると「某の宮にいる」と言うのも、その名を言うのも、ありそうにないこと(まるで異国からやって来た刺客のように聞こえるから)だが、上代ではことさらにこう名乗るのが勇ましいことだったのだろう。書紀には「川上梟帥は『あなたはどなたですか』と訊ねたので、『私は大足彦天皇の子、名は日本童男(やまとおぐな)だ』と答えた」とある。○者也は「このところにます」と読む。それは上の「吾者(アは)」というところに係っている。【「名(みなは)」というところに係るのではない。】○意禮(おれ)は人を卑しめののしる言葉で、前【伝十五の十七葉】に出た。○「取殺」はこの二字を「とれ」と読む。前の文に単に「取(とれ)」とあるのと同じである。○信然は「まことにしかまさん」と読む。倭男具那王(やまとおぐなのみこ)と名乗ったので、「本当にそうか」と言ったのだ。それはこの王がたいへん勇猛であると伝え聞いていたため、それを思い合わせて言ったのである。【あるいは「まことにしかり」と読んで、「不伏無禮(まつろわずいやなし)」という非難を肯定したのかとも思ったが、そうではない。】○「於2西方1(にしのかたに)」は都から見て西の方にある諸国のうちで、ということだ。○除は「おきて」と読む。○建強は「たけくこわき」と読む。【今は「強い」ということを、いにしえは「こわい」と言った。俗に怖ろしいことを「こわい」と言うのも、強い者は怖ろしいからである。】ここは、「吾ら二人(熊曾建兄弟)に並ぶほどの強者はいない」ということだ。○大倭國(おおやまとのくに)は、畿内の倭国を言う。○u(まして)は「まさって」ということである。○建男は「たけきお」と読む。【師は「たけお」と読んだが、それでは「u而(まさりて)」とある「而(て)」に合わない。「たけお」と読むなら、uを「まされる」と言うべきである。】○坐祁理(いましけり)。「けり」は経験していることを、いささかの驚きを以て慨嘆する辞である。○「自レ今(いまより)」。一本には「自」の下に「于」の字がある。誤りである。○倭建御子(やまとたけのみこ)。これは前の文に「於2大倭国1云々」とあるのを受けた名である。「西の方には我ら二人に並ぶほど強い者はなかったが、それにもまさって強い者が倭国にはいたんだなあ」という意をこめて称えた名である。【あるいは「倭」というのは、元の名である「倭男具那」の「倭」に因んだようにも見えるが、やはりそうではないだろう。】○應稱は「たたえもうすべし」と読む。○熟コ(くさかんむりに瓜)は「ほぞち」と読む。【「コ(くさかんむりに瓜)」の字を延佳本で「瓜」としているのはさかしらに改めたのだろう。諸本みな「コ」となっている。集韻に「瓜を俗に『コ』と書くのは誤りだ」と書いてある。しかし皇朝(わが国)の古い書物では、「コ」を書いてあることが多い。】和名抄に「熟瓜は和名『ほぞち』、一説によると『熟し切ってほぞ(蔕:ヘタ)が落ちる』という意味だという」とある。【たいへん熟して、勝手にヘタのところから切れて落ちるという意味である。和名抄に「ホゾ(十の下にワかんむり、下に田、最下部に「疋」)は和名『ほぞ』、考えるに、ホゾは蔕と相通用する」とある。とすると「熟コ」は「ほぞちうり」とも読むべきだが、「うり」を省いて言うのは、他にも多く例がある。】齋宮式に「七月節に【九月も同様】、・・・官人以下の料として熟コ(ほぞち)百個」、大膳式に「七月二十五日の節の料の熟瓜、【参議以上は四個、五位以上は二個】」、内膳式に「供奉の雑菜に熟コ八個【六七八月】」、清愼公集に「女御(にょうご)簀子(すのこ)に、ほぞちを長櫃(ながびつ)に入て置せ給へるを、夕立のすれば、御格子(みかうし)おろしたるまぎれに、うせければ、盗人は、ほぞちを見ても、雨ふれば、ほしコ(うり)とてや、取隱(とりかく)すらむ」、古今著聞集に「暁行法印、人の許(もと)へまかりたりけるに、コ(うり)を取出たりけるが、わろくなりて、水ぐみたりければ、よめる、『山城の、ほぞちと人や、思ふらむ、水くみたるは、瓠(ひさご)なりけり』」○振折(ふりさき)は師が「折の字は柝(さく)の誤りだ」と言ったのが正しい。【「振折(ふりおる)」では、「振」の字が無意味だ。】「ほぞちのごとふりさきて」と読む。【師は「ほぞちを、ふりさくなして」と読んだが、それは良くない。「振柝」は「熟コ」の下にあるから、そう読むべきではない。それに、瓜を柝くには「振」という字が似合わないだろう。「ほぞちのごと振り柝く」と言えば、「ほぞちを柝くように振り柝いた」ということになる。そういう言い回しの例は多い。「瓦解」を「瓦の如く解く」と読み、「蜂起」を「蜂の如く起こる」と読むが、意味は「瓦を解くように解く」、「蜂が起こるように起こる」という意味なのと同様だ。】「振(ふる)」とは物が動き揚がることを言い、ここは尻から小腹へ刺し通した刀を、すぐに動かして、上の方へ裂き上げたことを言う。「ほぞちのように」と言ったのは、熊曾を切り裂くのがたいへん容易だったということを喩えており、この王が非常に力強く勇猛だったことを表現したのだ。ほぞちはたいへん柔らかく、裂きやすいからである。○也故。諸本みな「故也」とあるが、上下を誤ったのだ。【延佳本に「也」の字がないのは、独断で改めたのだろう。】ここでは改めておいた。若櫻の宮の段に「以レ矛刺而殺也、故(ほこもてさしてころしたまいき、かれ)云々」という例を考え合わせよ。書紀には「川上梟帥はまた『私はこの国で一番強い者だ。だから誰も私に勝つことはできず、従わない者はなかった。今まで多くの武人に逢ったけれども、まだ皇子のように強い者に逢ったことはない。そこでたいへん賤しい者の賤しい口からいうのも何だが、あなたに尊号を奉ろう。聴いてくださるか』。『よろしい』。『これからは日本武の皇子と名乗り給え』、彼が言い終わると、すぐに胸を刺し通して殺した。その時から『日本武尊』と称えて言う。その後弟彦らとその党類を、余すところなくすべて斬った」とある。○山~河~は、後の文に「山河の荒ぶる神とあるのと同じことで、山や川にあって賊を為す暴悪な神々を言う。白檮原の宮の段にある「熊野の山の荒ぶる神」、この段にある「足柄の坂の神」、「信濃の坂の神」、「伊服岐(いぶき)山の神」、「走水の渡りの神」、「柏の濟(かしわのわたり)の悪神」、また書紀のこの巻に出る「山に邪神、郊(の)に姦鬼がいて、道を遮り人々を苦しめていた」というたぐいだ。河の神が荒れたことは、はっきり書いた物は見えないが、そういうのもあったのだろう。【書紀の仁徳の巻で、十一年に茨田の堤を築いたところにある河の神などもこの類だろうか。】○穴戸~(あなどのかみ)は、穴戸にいて荒れ狂った神である。穴戸は長門の国と豊前の国の間の海峡で、筑前国の北面の海から、山陽道の南面の海に入る門である。「穴戸」という名になったのは、源貞世【今川了俊と言った人】の「道ゆきぶり」というものに「霜月の廿九日、長門の國府(こふ)を出て、赤間の關に着いた。『ひの山』とかいう山の麓の荒磯を伝って、はやともの浦に行く間、向かいの山は豊前の國の門司の關の上の峯だった。海に面した部分は八町だという。潮の満干が大きく、宇治の甲の瀬よりももっと激しく落ちたぎるそうだ。穴戸の豊浦の都というのは、今の赤間の關と門司の關との間に、かつて山が一つあって、その中にわずかに潮の通り道が、穴のように明いているだけだった。その岸の東西には人家が多かった。穴戸というのは、そういう意味で言うのである。それを皇后の軍の船は通れなかったが、船を仕立てた後、一夜にしてその穴戸の山が二つに分かれ、今のはやともの渡りになった。この山は、西の海中なので島になった。この島の向かいは柳の浦と言って、昔は里や内裏が立ったところだろう」とある。この穴戸の名の起源についての説は、その国の人の古伝を聞いて書いたのだろう。【ただし「その東西に人家が多かった、だから穴戸と言った」というのは、いにしえには海の門を「戸」と言ったことを知らずに、「戸」は民家のことだと思い込んで書いたのだ。正しくは「穴のような海の門」という意味なのである。皇后の軍の船とは神功皇后が韓国を征伐する時の船のことだろう。その時一夜にして島が二つに分かれたというのは、古い伝えと思われる。島となったというのは引嶋(ひくしま)という島のことだろう。「引(ひく)」という名も(このことに)由来がありそうだ。しかしこの名は、それ以前に仲哀紀に出ている。後のことに因む名を、前のことに適用したのかも知れない。この穴戸のことは、内山真龍の考察で「長門の段の浦と豊前の早鞆崎の間の海は、里人は一里あるというが、もっと近く、わずか五、六町離れているだけだ。この段の浦と早鞆が向かい合う両岸の山の面は欠けて崩れた形をしているから、いにしえにこれらは一つの山で、その下の方に東西につながった洞穴があり、船も通っていたのだろう。だから穴戸と言ったのだ。仲哀紀に洞(くき)の海と言うのもここだ。だが後にその洞穴の上を切って通し、今の世に見るような普通の海にしたのだろう。しかしまだ両側の山が高く、間の海はたいへん狭いから、潮の干満に伴う流れは急流のように速い。その結果西の方は段々広くなり、長門の赤間關から豊前の柳ヶ浦までの間は、約一里ある。早鞆神社は豊前にあるが、今も里人は長門の社だと言っている。これはもとは地続きで、長門に属していたからだろう」と言う。宣長が思うに、この説は貞世の考えとほぼ同じである。洞(くき)の海と言う「くき」は「くぐり」のことで、山の下にあった洞をくぐって船が通ったことから言う名だろう。今はこの海門の北は長門国で、段の浦、赤間の關と西に続き、その西は筑前国に続く。もっと西は大海である。南は豊前の国で、早鞆。門司の関、大裡、柳浦、小倉と西に並び、その西は筑前国になっている。引嶋は北の海門の西の口で、長門に属する。ついでに言うと、早鞆神社は海布刈(めかり)神社とも良い、毎年十二月の晦日の夜に、海布刈の神事というのが行われる。その夜は通常より大きく潮が引くため、その社の神主は海際の石段を五百段下りて、海の底の海布(め)を刈り取る。それと童子に長門の一の宮の神主も松明を持ち、北から同じように五百段下りて、海の底の海布を刈る。そこでその浦を五百段の浦といいそれを省いて段の浦と呼ぶのだという。】この海の戸によって国名も穴戸の国」と言う。【長門国がこれである。】その国のことは、豊浦の宮(仲哀天皇)の段【伝三十】で言う。ここは書紀では「そして海路で倭に還ったが、吉備に行く時、穴の海を渡った。そこに悪神がいたので殺し、難波に到る頃、柏の濟(かしわのわたり)の悪神を殺した」、また「ただ吉備の穴の濟の神と難波の柏の濟の悪神だけが、人を害しようと毒気を放って、道行く人々を苦しめていた。そこでその悪神をみな殺して、それぞれ水陸の道を開いた」とあり、伝えが異なっている。【このように同じところの悪神の記事が、同じように二度書いてあるのは、一つのことが紛れて二つになったのか、それとも前に出る穴の海というのはこの記にあるように長門国のことで、後に出る穴の濟と紛れて吉備の国のことになったのか、いずれにせよ紛れがあるだろう<訳者註:岩波日本古典文学大系本では、上記の一度目の記述は地の文、二度目は日本武尊の復命の言葉としている。宣長は、いずれも地の文と解釈していたようだ>。ともかく、この記には単に「穴戸」とあるから、吉備ではない。書記を読んで思い誤ってはならない。「吉備の穴の海」、「穴の濟」と言うのは、備後国の安那(あな)郡の海のことだ。この郡名は、もとは「あな」だったのが、和名抄では「やすな」と書いており、今もそう呼ぶのは、「穴」という言葉を嫌って、後に呼び方を変えたものである。たとえば駿河国の「u頭(やきづ)」を後に「ましづ」と呼び変えたのと同様だ。安閑紀に「婀娜(あな)国」とあり、国造本紀に「吉備の穴国造」とあるのもこれだ。この安那郡には、今は海がないが、その南にある深津郡は養老五年に分かれたのであって、もとは海までが安那郡だった。書紀のこの巻に「吉備の穴戸の武媛」という名もあるから、この吉備の穴も「穴戸」と言ったのだろう。延喜式神名帳に「備中国下道郡、穴戸山神社」というのもあるが、これは別だろう。和名抄に、同郡穴田郷もある。】○言向和(ことむけやわし)は上巻【伝十三の十葉、二十四葉】に出た。○參上(まいのぼり)は、ここでは都に帰ろうとして、その途上に着いたことを言う。【もう都に到着したということではない。それを「ましき」と読むと、「き」は過去の助詞だが、これは遠い昔のことを言っているから差し支えない。】後の文に「參上覆奏」とあるのが、実際に都に到着した時のことを言っている。

 

即入=坐2出雲國1。欲レ殺2其出雲建1而。到即結レ友。故竊以2赤檮1作2詐刀1。爲2御佩1。共沐2肥河1。爾倭建命自レ河先上。取=佩2出雲建之解置横刀1而。詔レ爲レ易レ刀。故後出雲建自レ河上而。佩2倭建命之詐刀1。於レ是倭建命。誂=云2伊奢合1レ刀。爾各拔2其刀1之時。出雲建不レ得=拔2詐刀1。即倭建命拔2其刀1而。打=殺2出雲建1。爾御歌曰。夜都米佐須。伊豆毛多祁流賀。波祁流多知。都豆良佐波麻岐。佐味那志爾阿波禮。故如レ此撥治參上。覆奏。

訓読:すなわちイズモのクニにいりまして、そのイズモタケルをとらんとおもおして、いたりましてすなわちウルワシミたまいき。かれひそかにイチイのキもてタチにつくりなして、ミはかして、ともにヒノカワにカワアミしたまいき。ここにヤマトタケのミコトかわよりマズあがりまして、イズモタケルがときおけるタチをとりはかして、「たちかえせん」とノリたまう。かれノチにイズモタケルかわよりあがりて、ヤマトタケのミコトのコダチをはきき。ここにヤマトタケのミコト、「いざタチあわさん」とアトラエたまう。かれおのもおのもそのタチをぬくときに、イズモタケル、コダチをエぬかず。すなわちヤマトタケのミコト、タチをぬかして、イズモタケルをうちころしたまいき。かれミウタヨミしたまわく、「やつめさす、いずもたけるが、はけるたち、つづらさわまき、さみなしにあわれ」。かれかくはらいたいらげて、まいのぼりて、カエリコトもうしき。

口語訳:その後出雲国に入り、出雲建を殺そうと考え、到着するとすぐ彼と友人になった。そしてひそかに赤檮の木を削って偽の刀をこしらえて佩き、一緒に肥河で水浴びをした。倭建命は先に川から出て、出雲建が外しておいた刀を取り、「刀を交換しよう」と言った。出雲建は後で川から出て、倭建命が作った偽の刀を佩いた。そこで倭建命は「一つ刀の腕試しをしようじゃないか」と言った。それぞれ刀を抜こうとしたが、出雲建が佩いているのは偽物だから抜くことができない。倭建命は本物の刀を抜いて、すぐに出雲建を打ち殺してしまった。そこで歌を詠んで、「八つ雲刺す、出雲建が佩ける太刀、葛(つづら)多(さわ)巻き、真身(さみ)なしに哀れ」そうして各地を平らげて都に帰り、復命した。

「入=坐2出雲國1」と言うのは、穴戸の悪神をことむけた後、都に還る途中で、出雲建を殺すために出雲国に立ち寄ったのである。○出雲建(いずもたける)。この人物もまつろわず、無礼な輩だったのだろう。【この件では、書紀の伝えはたいへんに違う。それは後に引く。】延喜式神名帳に「大和国山邊郡、出雲建雄(いずもたけお)神社」というのがある。○結友は「うるわしみしたまいき」と読む。【万葉巻十六(3797)に「死藻生藻、同心跡、結而爲、友八違(しにもいきも、おなじこころと、むすびなし、ともやたがわん)」とあるので、ここの「結」も「むすび」と読むかと思ったが、やはり字の通りに読んでは古言にならないだろう。師が「ともかきとしたまう」と読んだのも、あまり良いと思えない。】万葉巻十八(4088)に「左由理波奈、由里毛安波牟等、於毛倍許曾、伊末能麻左可母、宇流波之美須禮(さゆりはな、ゆりもあわんと、おもえこそ、いまのまさかも、うるわしみすれ)」とあるのも、友として親しく交わる意味だ。上巻に「愛友(うるわしきとも)」とあるところ【伝十三の六十八葉】も参照せよ。○赤檮は「いちいのき」と読む。書紀の用明の巻に「赤檮、此云2伊知毘1(これを『いちい』という)」とある。【「毘」の字は濁音(び)だが、書紀では清音(ひ)にも使っている、この木の名は、この記や万葉では「比」の字を書いており、濁らない。】和名抄【菓類】に「櫟子は和名『いちい』」、新撰字鏡には杞または櫟を「いちいのき」とある。万葉巻十六【卅丁】(3885)に「足引乃、此片山爾、二立、伊知比何本爾(あしひきの、このかたやまに、なみたてる、いちいがもとに)」、また(513?)「市柴(いちしば)」、(1643?)「五柴(いつしば)」などとあるのもこの木の柴のことだろう。この木は今も「いちい」と呼んでおり、「いちかし」とも意って、橿(かし)の一種だ。【この記では「かし」に「白檮」の字を当て、「いちい」に「赤檮」の字を当てている。このことは伝廿五の廿葉で述べた。】○作詐刀は師が「たちにつくりなして」と読んだのに従う。【「詐刀」の古い読み方があったかも知れないが、伝わっていないので分からない。字のままに「いつわりだち」などと読むと古言にならないだろう。】「つくりなす」とは本物の刀に似せて作ることだ。○爲御佩は「みはかして」と読む。【「爲」は「して」という語に当てて書いてある。記中に、こういう書き方をしたところはたくさんある。「みはかしとして」とも読めるが、「みはかし」というとそのまま刀の意味になるから、ここはそう読んでは具合が良くない。】「佩き賜いて」ということだ。用言(動詞)に「御」を付ける例は、「寝賜う」を「御寝賜う」という類である。○共(ともに)は出雲建と共にということだ。○肥河(ひのかわ)は前【伝九の十九葉】に出た。○沐は「かわあみしたまいき」と師が読んだのが良い。書紀に「游沐(かわあみん)」とある。【「沐」の字は説文に「髪を洗うことである」と注されている通り、「浴」の意味はないのだが、この記でも書紀でも「浴」の意味で使っている。いつも「沐浴」という言葉に使っているので、取り違えたのだろう。】日本霊異記に「澡浴は『かわあみて』」と見え、文選では【孫興公の「天台山に游ぶ賦」に、「靈渓に過ぎて一たび濯(かわあむ)」】、「濯」も「かわあむ」と読んでいる。万葉巻十六【十七丁】(3824)に「刺名倍爾、湯和可世・・・狐爾安牟佐武(さすなべに、ゆわかせ・・・きつにあむさん)」とある。○「自レ河先上(かわよりまずあがり)」は、水浴を終えて上がったということで、「先(まず)」とは出雲建より先に上がったのである。○解置横刀(ときおけるたち)。この前に解いて置いたという記述はないが、水浴びをする以上、刀を外して岸辺に置いたことは当然だ。○爲易刀は「たちかえせん」と読む。上代に、「刀易(たちかえ)」ということがあったのだろう。○後(のちに)とは倭建命が先に上がっていたことに対して言っただけのことである。○倭建命之詐刀。この「詐」は、諸本に「作」とある。【「作刀(つくりたち」でも意味は通るが、前後に「詐」とあるから、ここだけが違う字ということはないだろう。)ここでは真福寺本と延佳本によった。この「詐刀」は「こだち」と読む。後に出るのも同じだ。【前に同じ語が出ているのと違った風に読むのはどうかと思われるだろうが、前に出たのはいちいの木で作ったと言っていたから、「木刀(こだち)」とは言わなくても、当然木刀であった。ここは偽の刀であることを強調して言うので、言い方は同じではない。】書紀に「木刀」とあるのに依って読んだ。【ただし書紀では「きだち」と読んでいるが、高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「木钁」を「許久波(こくわ)」と読んでいるから、「こだち」と読んだ。その歌の「こくわ」を「小钁」と解するのは誤りで、「小」の意味の「こ」には「古」の仮字を使うのが記の通例である。○倭建命誂云々、諸本に「命」の字はない。ここでは延佳本に従った。また「誂」の字を諸本で「誹」と書いているのは誤りである。【「誹」は「そしる」という意味だから、ここには合わない。旧印本や延佳本で「あざむきて」と読んでいるが、そういう読みはない。師は「たわれて(ふざけて)」と読んだが、これも「俳」の字ならそうも読めようが、「誹」の字はそうは読めない。だが師の本には、そばに「誂」の字を書き添えてあり、その方が良い。】ここでは改めておいた。「誂」は、説文に「相呼び誘うことである」と注してある。玉垣の宮(垂仁天皇)の段に「誂妾曰(アレにあとらえけらく)云々」とあり、【伝廿四の三十六葉】万葉巻九【十八丁】(1740)に「相誂良比、言成之賀婆(あいあとらい、ことなりしかば)」とある。○伊奢(いざ)は誘う言葉である。「率(いざ)」、「去來(いざ)」などとも書く。○「合レ刀(たちあわさん)」。上代に、「刀易(たちかえ)」をする時は単に交換するのでなく、その刀を合わせて腕試しをする風儀だったのだろう。そうでなければ、ここで何の意味もなくそうは言わないだろうからだ。【ここは、刀易の時に決まったことだったからそう言ったのだろう。単に刀を取り替えて佩くだけなら、何の意味もない。】だがその刀合わせの詳しいやり方は伝わっておらず、分からない。○「不レ得=拔2詐刀1(こだちをエぬかず)」。つまり、この詐刀は、身と鞘の区別もなく、単にうわべを刀のように作っただけのものだったと分かる。【木で身を作って鞘に入れたのでなく、外も中身も一体のものだったから、抜けなかったのだ。ある人は疑って「木だけで作ったなら、本物の刀に比べてたいへん軽いだろうから、初めに佩こうとした時に誰でも気付くはずだが、気付かずに抜こうとまでしたのは、どうしてだろう」と言った。答え。「そういう細かいことを論ずるものではない。人を欺くために作ったのだから、重さなどもそれらしく作ったのかも知れない」。】○「拔2其刀1(たちをぬかして)」は、倭建命が佩いていた【つまりもともとは出雲建の】大刀のことだ。○歌曰(みうたよみしたまわく)。「曰」の字は、諸本に「白」とあるが、誤りである。ここは真福寺本、延佳本に依った。○夜都米佐須(やつめさす)【「夜」の字を旧印本に「衣」と書いてあるのは誤りだ。】は「八つ雲刺(さす)」で、「八雲立つ」と同じだ。書紀には「椰句毛多菟(やくもたつ)」とある。「夜都久毛(やつくも)」の「も」を「め」と通わせ、「つく」は「つ」に縮まったのである。「やくも」を「やつくも」とも言うのは、万葉巻十八【十一丁】(4058)および巻廿【四十六丁】(4448)に「八世(やよ)」を「夜都代(やつよ)」とあるのと同じだ。その他「八峯(やお)」を「やつお」と言うのも同じ。【「や」は本来、どれも「いや」の意味である。この「やつめ」を「つ」と「く」とは同じ韻だから「くも」を「つめ」と言ったと思うのは、まだ考えが足りない。「く」と「つ」は通わせて言うには音が少し遠い。】続日本紀十一に歌の名で「八裳刺曲(やつもさすぶり)」というのがある。これも同じく「八雲立曲(やくもたつぶり)」のように聞こえるから、【一般に「某曲(なにぶり)」というのは、みなその歌の初めの歌詞をとって名付けたものだということは、上巻の「夷振(ひなぶり)」のところで詳しく言った。これもその歌の初めの歌詞からこう名付けたのである。】「やつもさすぶり」と読んで【「八裳」を「やも」と読むと「八雲」から遠い。】ここの「やつめ」と相照らして、共に「やつくも」の縮まった語だと理解せよ。「くも」の「も」を「め」と言ったのは、通う音だから当然とも言えるが、「雲」は「くめ」とも言っただろう。上巻の豊雲野(とよくむぬ)神のところで言った通り、「くも」と「こもり」は、もとは同じ言葉であり、「籠める」の意味で「くめ」とも言えるだろう。雲はものを覆い籠めるものだからだ。「立つ」を「刺す」とも言ったのは、師が「『立ち昇る』を『刺し昇る』とも普通に言う」と言った通りだ。万葉巻三【四十八丁】(430)に「八雲刺、出雲兒等(やくもさす、いずものこら)」ともある。【延佳の説で、「『やつめさす』は『八芽萌(やつめさす)』で、『藻』に縁のある言葉である。万葉集(491)に『河上乃、伊都藻之花(かわかみの、いつものはな)』とあり、『伊都藻』と『出雲』は相通じる」と言った。師は「崇神紀に『玉モ(くさかんむりに妾)鎭石(たまもしずし)出雲云々』とある『玉モ鎭石』は『いず藻』の枕詞だから、延佳の説も根拠がないとは言えないが、『立つ』、『刺す』という語は藻に関係がない。藻に『八芽萌』とは言わないだろう。やはり『いや雲立つ』を『やつめさす』とも言うのだ」と言った。これが正しい。ある人は「『彌(いや)つ芽さす』である。春になって草木の芽が萌(さ)すのは、『いづいづしき』ものだから、『出雲』へと続く『いづ』は『活出(いづ)』の意味で、俗に言う『生き生きした』という意味だ」と言ったのも間違いだ。草木の芽は「張る」とは言うが、「刺す」と言った例はない。また「いづいづし」という言葉も聞いたことがない。】○伊豆毛多祁流賀は「出雲建が」である。○波祁流多知は「佩ける剣」である。上記の詐刀を言う。○真福寺本では、この間に「都豆(つづ)」の二字がある。それは次の句の初めの二字を誤って書いたとも考えられるが、誤りと決めつけることはできない。ひょっとしたら、歌の調子を整え、次の句の勢いを強くするため、その言葉の初めの二字を先んじて出したのかも知れない。そういう例は水垣の宮の段の歌にもあった。参照せよ。【伝廿三の六十四葉】○都豆良佐波麻岐は「黒葛(つづら)多(さわ)纏(まき)」である。黒葛をたくさん柄に巻き付けたわけだ。柄だけでなく、鞘にも巻いたのだろう。【前記の異説を唱えた同じ人がまた、「『は』と『や』は同韻で通うから、『さわ(旧仮名サハ)』は『鞘』のことか」と言ったが良くない。「さわ」は「多」である。】「都豆良」は延喜式などに「黒葛」と書いてある。和名抄に「馬鞭草は和名『くまつづら』」とあるが、これは別の種類だろう。万葉巻十四【五丁】(3359)に「波麻都豆良(はまつづら)」、【浜辺にあるのを言うのだろう。】また【十六丁】(3434)「安蘇夜麻都豆良(あそやまつづら)」、【「あそ山」は山の名だ。】古今集【戀四】(702)に「梓弓引野(ひきの)のつゞら」、宇津保物語【俊蔭の巻】に「青つゞらを、大(おおき)なる籠(こ)にくみて云々」、拾遺集【物の名『こにやく』】(399)に「野を見れば、春めきにけり、青つゞら、籠(こ)にやくまゝし、若菜つむべく」、【今もこれを使って作る大きな籠を「つづら」と言う。】釈日本紀に、「上代には葛(つづら)を太刀に巻いた」とある。「多(さわ)」という言葉は、「さわに」、「さわなり」などと(形容詞に)のみ用い、単に「さわ」とだけ言った例はめったにないのだが、ここに見える「佐波」は、他の言葉のようには聞こえない。「多(さわ)に」ということに違いない。【「さわに」という言葉は、俗言で「沢山に」という意味に当たる。だから考えるに、万葉(3462)に「やまさは人」という言い方も見え、またたいへん多いことを俗に「山ほど」とか「山々」とも言うし、「沢山」という言葉などをあれこれ考え合わせると、「さわに」と言うのも「沢」から出た言葉ではないだろうか。】この句はこの詐刀に黒葛を沢山巻いてあるけれども、それは単にうわべの飾りにすぎないことを言っている。○佐味那志爾阿波禮は「真身(さみ)無しにあわれ」ということだ。「真」を「さ」と言った例は多く、前に述べた。ここの「身」は刀身のことである。【木で作った詐りの刀だから、刀身はないのである。契沖は「さみ」を「鋤(サヒ)」のことだと言ったが、それが正しいのかどうか、私には分からない。鋤(サヒ)については上巻の佐比持神(さいもちのかみ)のところ伝十七の四葉で詳しく言った。そこで「さみ」のことにも触れている。参照せよ。】契沖は、「あわれ」というのはこの黒葛を巻いたのを、偽の刀とも知らずに打ち合って殺されたことを、当時の人々が憐れんだのだと言う。当時の人々というのは、書紀の記載によって注したのだ。この歌は、書紀に「時の人が歌っていわく」とある。この記と異なる伝えだ。だが比べてみると、最後の二句は、当時の世の人が歌ったと思う方が自然である。○この倭建命の事件は、書紀では崇神の巻に「六十年・・・出雲の臣の遠祖、出雲振根(いずもふるね)は・・・その弟、飯入根(いいいりね)が・・・その後年月を経て、(出雲振根は)怒りがますます募り、ついに弟を殺してしまおうと思った。そこで欺いて、『最近止屋淵(やむやのふち)に藻が沢山生えている。それを見に行こうじゃないか』と言った。弟は承諾して、兄と共に見に行った。ところで、兄はひそかに木で本物の刀に見せかけたものを作って、それを本当の太刀のように佩いていたが、弟は本物の刀を身に着けていた。一緒に淵に到着すると、兄は弟に『淵の水は清らかで冷たいなあ。ちょっと水浴びしようか』と誘った。弟も兄の言うままに従ったので、二人は衣服も刀も岸辺に脱いで置いて水浴びをした。兄は先に水から上がり、弟の本物の太刀を取って身に着けた。弟は後から水を出て、兄が作った木刀を取って太刀合わせをした。だが弟のは木刀なので刃を抜くことができず、兄は弟の飯入根を打ち殺してしまった。そこで当時の人々は、この事件を歌って『椰句毛多菟(やくもたつ)云々』【第二句以降はこの記と全く同じである。】」とあり、伝えが著しく異なっている。○如此(かく)は熊曾建の征伐から後のことをすべて含めて言っている。○撥治は「はらいたいらげて」と読む。【あるいは「はらいむけて」と読んでも良い。】こう読む理由は、白檮原の宮の段に「退=撥2不伏人等1而(まつろわぬひとどもをはらいたいらげて)」とあったところ【伝十九の六十八葉】で言った。○覆奏(かえりこともうしたまいき)。前【伝十三の十一葉】に出た。「覆」の字のことも前【伝十七の四十五葉】に述べた。

 

爾天皇亦頻詔2倭建命1。言=向=和=平2東方十二道之荒夫琉神及摩都樓波奴人等1而。副2吉備臣等之祖名御スキ(金+且)友耳建日子1而遣之時。給2比比羅木之八尋矛1。<比比羅三字以レ音>故受レ命罷行之時。參=入2伊勢大御神宮1。拜2神朝廷1。即白2其姨倭比賣命1者。天皇既所=以3思2吾死1乎。何撃=遣2西方之惡人等1而。返參上來之間。未レ經2幾時1。不レ賜2軍衆1。今更平=遣2東方十二道之惡人等1。因レ此思惟。猶レ所思=看2吾既死1焉。患泣罷時。倭比賣命賜2草那藝劍1。<那藝二字以レ音>亦賜2御嚢1而。詔C若有2急事1。解B茲嚢口A。

訓読:ここにスメラミコトまたしきてヤマトタケのミコトに「ヒムカシのカタとおまりふたみちのアラブルカミまたマツロワヌひとどもをことむけやわせ」とノリたまいて、キビのオミらがおやナはミスキトモミミタケヒコをそえてつかわすときに、ヒイラギのヤヒロボコをたまいき。かれミコトをうけたまわりてマカリいでますときに、イセのオオミカミのミヤにまいりまして、カミノミカドをおろがみたまいて、そのみおばヤマトヒメのミコトにもうしたまえらくは、「スメラミコトはやくアレをしねとやおもおすらん。いかなれかニシのカタのマツロワヌひとどもをとりにつかわして、かえりまいのぼりこしほど、イクダもあらねば、イクサビトどもをもたまわずて、いまさらにヒムカシのカタとおまりふたみちのマツロワヌひとどもをことむけにつかわすらん。これによりておもえば、なおアレはやくしねとおもおしめすなりけり」ともうして、うれいナキてまかりますときに、ヤマトヒメのミコト、クサナギのタチをたまい、またミフクロをたまいて、「もしトミのことあらば、このフクロのくちをときたまえ」となもノリたまいける。

口語訳:天皇はまた重ねて倭建命に「東方十二道の荒ぶる神たちと、まつろわぬ者たちを言向けてこい」と命じ、吉備臣らの祖、御スキ(金+且)友耳建日子を添えて遣わした。その際、比比羅木の八尋矛を授けた。命じられたままに行く時、伊勢の神宮に詣でて、神の朝廷(みかど:神のいるところ)を拝んだ。そして叔母の倭比賣命に「父は私を早く死なせたいと思っているんだろうか。西の方の国のまつろわぬ者たちを征伐に行かされて、都に帰って幾らも経たないうちに、大して大勢の軍も与えずに、また東方十二道のまつろわぬ者たちを言向けてこいと言って派遣する。これを考えると、私に早く死ねと言っているようなものだ」と言って、泣き憂えた。倭比賣命は彼に草薙の剣を与え、また一つの嚢を与えて、「緊急のことが起きたら、この袋の口を開けなさい」と教えた。

頻は「しきて」と読む。万葉巻十一【二十六丁】に「敷而毛君乎、將見因母鴨(しきてもきみを、みんよしもがも)」など、多数の例がある。【「敷」は借字である。】「斯久々々(しくしく)」、「伊夜斯伎(いやしき)」【「彌頻」の意味である。】などとあるのも同じ言葉で、【一般に「しきりに」と言うのも、「しき」から転じた言葉である。】どれも事が次々と重なるのを言う。【だから「重(しき)」とも書く。】○東方十二道は水垣の宮(崇神天皇)の段に出た。【伝廿三の五十七葉】○荒夫琉神(あらぶるかみ)【「琉」の字を、延佳本には「流」と書いてある。他の本はみな「琉」になっている。】は「悪神」、「荒神」とも書き、前にところどころで出た。○摩都樓波奴人(まつろわぬひと)も前に出た。【伝十九の六十七葉】○言向和平(ことむけやわせ)も前に出た。【伝十四の六十八葉】○吉備臣のことは、黒田の宮(孝霊天皇)の段に出た。【伝廿一の五十二葉から五十七葉まで】○御スキ(金+且)友耳建日子(みすきともみみたけひこ)。名の意味は、「スキ友」は懿徳天皇の名のところ【伝廿一の十葉】で言った通りだ。「耳」は例によって称え名である。この人は、後には「吉備の臣建日子」と書いてあり、書紀には「吉備武彦」とある。新撰姓氏録では「下道朝臣は吉備朝臣と同祖、稚武彦命の孫、吉備武彦命の子孫である」、また「廬原公は、笠朝臣と同祖、稚武彦命の子孫である。孫の吉備武彦命が、景行天皇の御世に、東方の毛人(えみし)や鬼神(あらぶるかみ)を征伐するために東方に遣わされ、阿倍廬原(あべいおばら)の国にまで到り、復命したので、その時に廬原の国を賜った」【和名抄に「駿河国安倍郡、廬原郷」がある。】また「眞髪部(まかみべ)は稚武彦の子、吉備武彦命の子孫である」とある。【稚武彦命の孫とも子とも書いてあるが、どちらが正しいのだろう。稚武彦のことは、伝二十六の四葉でも言った。】書紀では、この時の遠征にはこの人と大伴武日連を添え、また七掬脛(ななつかはぎ)を膳夫として遣わしたとある。○比々羅木之八尋矛(ひいらぎのやひろぼこ)。和名抄に「黄キン(くさかんむりに今)は和名『ひいらぎ』、楊氏の漢語抄にいわく、杠谷樹はあるいは巴戟天とも書く。和名は上と同じ」とあり、【「黄キン」の字を当てたのは納得できない。】新撰字鏡に「巴戟天は『ひいらぎ』、杠谷樹も同じ」とある。【ある人は「『ひいらぎ』は漢名で『枸骨』というものだ、一名『剛穀』とも言い、この音を取って杠谷と言うのではないか」と言った。】続日本紀二に「大宝二年正月、造宮職が杠谷樹の長さ八尋もあるのを奉った。俗に『ひいらぎ』という木である」、また「同年夏四月、秦忌寸廣庭(はたのいみきひろにわ)が杠谷樹の八尋桙根(やひろほこね)を奉った。使者を遣わして伊勢の大神宮に奉った」【倭姫命世記に、「日本武尊はひいらぎの八尋桙根を皇大神宮に奉献した。そこで倭姫皇女は、その八尋桙根を緋の嚢に入れて、皇大神宮の貴財として八尋の機殿に隠し置いて、皇大神の御霊として崇宗した」とあるのは、この記の記事と前掲の続日本紀の記事を合わせて言ったのではないだろうか。】播磨国風土記に【息長帯日女命が新羅国を平らげようとして下った時、神が教えた言葉の中に、】「比々良木の八尋桙根が底付かぬ国云々」<訳者註:風土記逸文の「爾保都比賣(におつひめ)命」の項にある>とある。出雲国風土記に【嶋根郡生馬郷の條】「八尋桙長依日子(やひろぼこながよりひこ)命」という神名も見える。【「桙」を「桙根」とも言うのは、いにしえには、物の名に「根」を付けて言った例が多かったのである。杵(きね)も古い書物で「き」の借字に使っている例が多いところから見ると、「ね」は添えて言ったのだ。屋根、岩根、島根なども同じだ。書紀の~武の巻に劔根というのがあるが、これは人名なので、「根」は名として添えたのか、劔を劔根とも言ったのかは分からない。】上代の矛は、必ずしも刃先のあったものとは限らない。全体が木製のものもあった。このひいらぎの矛もそうである。【もし刃先があって、その柄がひいらぎでできているだけだったら、その柄の材質を矛の名にするはずはないだろう。】続日本紀十八には「桙削(ほこけずり)」という工人も見え、【これも柄を削る者だったら、「桙柄削」と言うべきで、柄と言わずに「桙削」と言うからには、先端まで木の桙だったのである。】また古い書物で多くの場合「鉾」の字を木偏に変えて、「桙」と書いているのも、木の矛が多かったためと思われる。【もともと「桙」の字には、「ほこ」という意味はない。わが国で「ほこ」の意味に用いただけだ。漢国でも、「槍殳(そうしゅ)」などというのは、刃のない木製の武器である。】だからいにしえの木の矛には、今の世ならむしろ「棒」と呼ぶようなものもあっただろう。ただし刃先の付いたもの、全体が木製のもの、形は様々だったと思われ、廣矛などという名も見える。【近世に「槍(やり)」と言うのも、実は矛である。】「八尋」というのは、たいへん長いことを言う、書紀の神代巻で、大穴牟遲神が国を避(さ)るところで、「かつて国を平定する時に杖にしていた廣矛を二神に授けて、『私はこの矛で国造りを成し遂げました。天孫がもしこの矛を使って国をお治めになったら、必ず平安に行えるでしょう』と言った」、【二神とは經津主神と武甕槌神のことである。一説にここの「比々羅木の八尋矛」は実はこの廣矛で、大穴牟遲神が皇孫に奉って以来、朝廷に伝わっていたものを、ここで倭建命に与えたのだというのは疑問だ。あまりなこじつけである。】神功の巻に「皇后は杖にしていた矛を新羅の王の門に立てて、後葉(のちのよ)の印とした」と見え、いにしえには将軍などは一般に矛を杖についていたのだ。ここで比々羅木の矛を授けたのもこのためだ。【それを書紀では、すべてを漢籍に似せようとして、この矛も「斧鉞」などと変えて書いてある。それも矛の意味で書いたのかも知れないが、とてもありそうにないことだ。そういう場合に斧鉞を与えたというのは、戎(から)の国の習慣で、皇国では上代も後世も、斧鉞を使ったことはなかった。この二字を「ほこ」と読んで、「桙」の意味に解するべきである。神功の巻に「皇后はみずから斧鉞を執って」とあるのも同じで、その後の文に上記の「皇后は杖にしていた矛を」とあるので、実は矛だったと知るべきだ。継体の巻や天武の巻にも、「斧鉞を執って」、「斧鉞を授けて」などとあるが、みな漢文を真似た飾りの文である。】○罷行は、【「罷」の字は、諸本で「羅」に誤っている。ここでは真福寺本と延佳本によった。】「まかりいでます」と読む。「まかる」は天皇のもとを去って、他の所に行くのを言う。「参る」の反対語である。○神朝廷(かみのみかど)は、【「廷」の字は、真福寺本に「庭」とあるが、同じ意味である。】伊勢大御神宮の御門(みかど)である。【「朝廷」の字には、他の意味はない。読みが同じなので、字を借りて書いたのだ。天皇の朝廷も、もとは「御門」の意味から出た。】その御門は延暦の儀式帳に「御門十一間、上を葺いた御門三間、【それぞれ長さ一丈五尺、巾一丈、高さ九尺】上を葺かない御門八間、【それぞれ長さ一丈三尺、高さ九尺】」と見え、御門四間、瑞垣(みずがき)御門、番垣(まがき)御門、玉串(たまくし)御門、玉垣御門などともある。【これらは前出の「上を葺いた御門」である。ただし「番垣御門」だけは「上を葺かない御門」だ。そのことは次に言う。「番」は「蕃」で、「まがき」である。「上を葺いた御門」とは、屋根のある門で、普通の形の門を言う。「上を葺かない御門」とは、いわゆる鳥居のことだ。「鳥居」という名は、古い書物には見えない。】また「内の玉垣御門」、「外の玉垣御門」、「板垣御門」という名もある。【内の玉垣御門は、前に玉串御門とあるのと同じだ。外の玉垣御門は、前の玉垣御門である。板垣御門のことは次に言う。】これらの御門はみな垣があって、それぞれその垣にくっついている。【垣のことは儀式帳に「瑞垣一重、長さ卅九丈、高さ一丈、玉垣三重、一の玉垣は長さ十四丈、二の玉垣は周囲六十丈、三の玉垣は周囲百二丈、板垣は周囲百卅八丈六尺」と見えている。瑞垣は内から第一重の垣で、その御門を瑞垣御門と言い、第一の御門とも言う。次に一の玉垣というのは第二重の垣で、番垣と言う。これは四方を囲むのでなく、南の正面の門である。だからこの垣だけは周囲を言わず、長さも十四丈で、他の垣とは寸法が大きく違う。この御門を番垣御門と言い、第二の御門とも言う。これは「上を葺かない」御門である、しかし鳥居の形でなく、俗に猿頭(さるがしら)御門と言っている。次に二の玉垣というのは第三重であって、瑞垣の外側を取り囲んでおり、その御門を玉串御門と言い、第三の御門とも言う。今世人が詣でるのは、この御門である。次に三の玉垣とあるのは第四重で、二の玉垣の周囲を取り囲んでおり、それを玉垣御門と言い、第四の御門とも言う。外の玉垣御門というのはこれである。いまはこの垣はなく、御門だけがある。次に板垣というのは、三の玉垣の周囲を囲んでいて、これより内側を「内院」と呼ぶ。今はこの垣も絶えて存在しない。この板垣御門は、「上を葺いた御門三間」に入っていないから、「上を葺かない御門」だろう。これら御門、垣のことは、儀式帳に書いてあることから考察した。少し疑わしいところもあるが、全容を明らかにするには事が長くなるので、大体のところを記した<訳者註:伊勢神宮のホームページに図があるのを参照のこと。>】(http://www.isejingu.or.jp/naiku/naiku5.htm)○「白2其姨倭比賣命1」。儀式帳に、倭比賣命は大神宮を定め、その他種々のことを定めた後、「朝廷に参上して報告した」とあるから、この当時はもう伊勢でなく、京に還っていたように聞こえるがそうではない。それは事の終わりまでを一つに縮めて書いた文で、実際に都に帰ったのは何年も後のことであり、倭建命が神宮に参った頃は、まだそこにいたのである。【書紀のこの巻に「二十年、五百野皇女(いおぬのみこ)を遣わして天照大神を奉斎させた」とあり、この倭建命が参ったのは二十八年のことなのに、倭姫命がまだ伊勢にいたのは疑問である。年紀に合わない。五百野皇女が倭比賣命と交替したのは、倭建命が参った時より後のことだろう。】○所以思吾死乎は「はやくあれをしねとやおもおすらん」と読む。【「所以」を「ゆえ」と読むとしっくりしない。「おもおす」と読むと「以」の字が余分だが、後に「所思看(おもおしめす)」とあるのと相照らして見ると、ここもそう読むはずだ。】「以」の字は、本来「思」の下にあって、「以レ吾(あれを)」とあったのが、後に誤って上に書いたのだ。【「を」と言うところに「以」を書くのは、記中ではよくあることだ。】ここの「既」は、「どうにかして早く」と思う意味の「はやく」で、【「既」の意味には当たらないが、過ぎ去ったことを「はやく」と言うのはこの字に当たるから、それに通わせて書いたのだ。口に出して言う語さえ同じなら、文字の意味にこだわらずに当てて書くのが、いにしえの通例だった。】「死ね」というのに係る。後にも「吾既死(あれはやくしね)」とあるのでその意味と考えるべきである。「しねとや」の「や」や最後の「らん」というのは、「乎」の字がその意味に当たる。【「や」と言いかけて「らん」と閉じるのは、俗に「か」と言うのに当たる。つまり「私に早く死ねと思っているのか」ということだ。】○何は「いかなれか」と読む。【「いかなればか」と言うところを「ば」を省いて言うのは、古言の通例である。】この言葉は、後の「平=遣2東方十二道之惡人等1」というところまでに係っている。○惡人は「まつろわぬひと」と読む。後に出るのも同じである。【「惡神」は「あらぶるかみ」と読んだが、「あらぶるひと」などと言った例はない。】水垣の宮(崇神天皇)の段に「令レ和=平2其麻都漏波奴人等1(そのマツロワヌひとどもをことむけしむ)」とある例によってこう読んだ。ここでは前にあった熊曾建のことを言う。○撃遣は「とりにつかわし」と読む。○間は「ほど」と読む。例は万葉巻十一【十二丁】(2494)に「ホウ(てへん+旁)間(こぐほども)」、巻十六【三十丁】(3885)に「五月間爾(さつきのほどに)」などがある。○未經幾時は「いくだもあらねば」と読む。「いくばくもあらぬに(そんなに時も経っていないのに)」ということだ。【「ぬに」を「ねば」という古言の例はたいへん多い。】万葉巻五【九丁】(804)に「遠等痘ヌ何(おとめらが)・・・多麻提佐斯迦閇、佐禰斯欲能、伊久陀母阿羅禰婆、多都可豆惠、許志爾多何禰提(たまでさしかえ、さねしよの、いくだもあらねば、たつかづえ、こしにたがねて)云々」、巻十【二十七丁】(2023)に「左尼始而、何太毛不在者、白栲、帶可乞哉、戀毛不遏者(さねそめて、いくだもあらねば、しろたえの、おびこうべしや、こいもやまねば)」などの例がある。○「不レ賜2軍衆1(いくさびとどをもたまわずて)」というのは、いささか疑わしい。あるいは「不」の字が「亦」、「又」などの誤りだろうか。【そうだったら、「また軍衆を賜いて」の意味だ。】しかし「軍衆を賜う」といった語は、わざわざ言う必要のないことだから、やはり元のままに伝えたのだろう。「所思=看2吾既死1」とあるから、大した手勢を与えなかったというのにも、根拠がありそうだ。○今更(いまさらに)は、「今また更に」ということだ。○東方十二道(ヒムカシのカタとおまりふたみち)は水垣の宮の段に出た。○平遣は「ことむけにつかわすらん」と読む。「らん」という助辞を付けて読むのは、前の「何(いかなれか)」の結びだからである。「何」という語はここまでに係っており、天皇を恨んで言っているのである。○思惟の二字は「おもえば」と読む。○猶(なお)。この「猶」は白檮原の宮の段に例があって【伝十八の九葉】言った通り、あれこれ考え合わせて、やはりそうだと確信したことを言う。○所思看は「おもおしめすなりけり」と読む。【「看」の字を諸本に「者」と書いているのは誤りである。ここは真福寺本によった。】玉垣の朝(垂仁天皇)の段にも「所思看者(おもおしめさば)、続日本紀廿に「所思看(おもおしめす)」、万葉巻十五【三十二葉】(3736)に「淤毛保之賣須奈(おもおしめすな)」、巻十八【二十一丁】(4094)に「於毛保之賣之弖(おもおして)」などがある。その後に「なりけり」という言葉を添えて読むのは、「こうだ」と判断して、いくらか嘆いているのである。【前の文で「既所以思吾死乎(はやくアレをしねとやおもおすらん)」とあるのは、まだ確実にそうだと決めているわけでなく、父の仕打ちを「もしかしたら」と疑っているので、「や」とか「らん」と言って、疑問の余地を残した言い方である。だが事の様子をよく考えてみると、やはり「どうかして早く死ね」と思っているに疑いなしと、ついに思い定めて言ったのだ。よくよく文のありさまを考えて意味を悟るべきである。】これほどに武勇の高い皇子がこんなことを言っているのは、悲しい上にも悲しい言葉である。だが父の天皇の大命に背くことなく、誤ることもなく、少しも勇気のたゆむことがなく、ついに大きな功を建てたことは、またたいへんにありがたく貴いことであった。【この後でさえ、少しも勇気のたゆむことがなく、大きな功を建てて、父の天皇の大命に背くことなかった清く正しい心を持ちながらも、このように恨むべきことを恨み、悲しむべきことを悲しみ泣くのこそ、真の人の心であろう。これも漢人だったら、これほどの人物なら心の内に恨みや悲しみを抱いていても、それは包み隠して表面に出さず、こういう場面でも例の口うるさい理屈をこね、武勇の高いことばかり言うだろう。これを見ても、戎人がうわべばかりを飾るのと、皇国のいにしえ人の真心とを、万事につけて思うべきである。】○罷時(まかりますときに)は、倭比賣命のもとを去って、東国に下るのである。○草那藝劍(くさなぎのたち)は、上巻【伝九の卅七葉、伝十五の廿葉】で出た。名の意味は後に述べる。この剣は神代から天皇の三種の御宝の一つとして、代々御所に伝えられていたのだが、ここで伊勢神宮にあるとされたのはなぜかと言うと、古語拾遺に「磯城の瑞垣の宮(崇神天皇)の御世に、次第にその神威を畏れるようになり、同殿に置くことが不安になった。そこで齋部氏に命じて、石凝姥神の末裔と天目一箇神の末裔の二氏を率いて、新たに鏡と剣(のレプリカ)を作らせ、天皇の守りの印とした。これが現在踐祚の日に(新しい天皇に)奉る神璽の鏡と剣である。そして笠縫の邑には、特別に神籬を立てて、天照大神と草薙の剣を遷し、皇女の豊鍬入姫命に奉斎させた」とあるように、この剣も、天照大御神の御霊の鏡と共に遷したので、伊勢にあったのである。【書紀の崇神の巻、垂仁の巻で、天照大御神を遷した記事の中に、この剣のことが見えないのは、自然と省かれたのである。古語拾遺でも、伊勢に鎮座したことを書いた部分にはこの剣のことは出ていない。これも省いたのだ。】これほどに重大な宝剣を、ここで倭比賣命の考えで、個人的に倭建命に授けたというのは、後世の考えでは非常に納得できない行動だが、それも理由があってのことだろう。凡人の心では推測の付かないことである。【あるいは、草那藝というのは大葉刈などという類で、刀が鋭いと言うだけの名であって、一つの剣に限った名ではないのかも知れない。だからこの記でも、この名は倭建命が草をなぎ払ったことから付いた名だとは書かれていない。書紀でもそのことは「一云(一説には)」として、本文とは別に挙げられている。延喜式神名帳に伊勢国度会郡の外宮の摂社として草薙神社というのがあるが、これも別の剣による名である。とすると、ここで倭建命に授けた剣も、三種の神器の一つである剣でなく、別の剣を与えたかとも思ったが、記中にも書紀にも、この名の剣は他になく、固有名のように聞こえ、特に書紀では~代巻ですでに「この剣は今尾張国の吾湯市(あゆち)の村にある」と書かれているから、こういう考えは成り立たない。】○御嚢(みふくろ)のことは後に出るから、そこで言う。○而詔。旧印本や他一本に「詔而」と書いてあるのは、上下を誤ったのである。ここは真福寺本、延佳本、他一本によった。釈日本紀に引用されているのも同じである。また他の一本には「而」の字がない。○急事は「とみのこと」とある。【俗に「急なこと」という意味である。】「とみ」は「速(と)」の活用形だ。【「頓(とん)」の字の音とするのは間違いだ。】古今集(900の詞書?)に「とみの事とて書(ふみ)をもて來たり」、伊勢物語にも「とみの事とて御書あり、驚きて見れば」とある。源氏物語夕顔の巻【夕顔が急死した場面】に「かゝるとみの事には、誦經(ずきゃう)などをこそはすなれ」などがある。その他にも「とみに」と言う例は多い。【「とみに」とは俗に「早速に」ということである。】また「にわかなること」とも読んでもいい。○書紀によると、「四十年夏六月、東の夷が盛んに背き、辺境を騒がせた。秋七月、天皇は群卿に向かって、『今東国が騒がしく、暴神(あらぶるかみ)が大勢起こり、蝦夷たちがみな叛いて、しばしば人々をかすめ取っている。誰を遣わしてこの乱を平定させればよいだろうか』。群臣は誰を遣ったらよいか答えられなかった。日本武尊は『私は先に西の方を征して来ました。今度の戦は、大碓皇子の役目でしょう』と言った。すると大碓皇子は愕然として逃げ出し、・・・そこで日本武尊は雄誥(おたけ)びして、・・・天皇は斧鉞を取り、日本武尊に授けて、・・・『その東夷のうちでも蝦夷というのは最も手強いという。・・・往古から王化に与かっていない。私がお前を見ていると、・・・我が子ながら神人のようだ。・・・またこの天下は、お前が治めるのだ。私の位は、お前が継ぐのだ』・・・そこで日本武尊は斧鉞を受け、天皇は吉備武彦と大伴武日連に命じて、日本武尊に従わせた。また七掬脛を膳夫として共に行かせた。冬十月、日本武尊が出発する時、寄り道をして伊勢神宮に参拝した。そこで倭姫命に『天皇の命を受けて、東方の謀反した者どもを誅殺しに行くところです。そのためお別れを言いに来ました』と言った。そこで倭姫命は草薙の剣を授けて、『慎むことです。決して油断しないように』と言った」とある。このとき皇子が天皇に答えた言葉は、この記で倭比賣命に言った言葉と大きく違う。それは異伝でなく、書紀撰者が例によって漢文めかして書いた文である。【書紀のこの段は、特に漢文めいている。とても上代の言葉とは思えない。古伝の中の漢文めかない言葉を省き、漢風の文をたくさん潤色(かざり)加えて作ったように見える。そのため、そういう感じの文の多くは省いて引用した。】書紀のこの部分では、倭建命の「私は先に西の方を征して来ました。今度の戦は、大碓皇子の役目でしょう」と言った言葉だけがこの記の趣きに近い。

 

故到2尾張國1。入=坐2尾張國造之祖美夜受比賣之家1。乃雖レ思レ將レ婚。亦思2還上之時將1レ婚。期定而。幸レ于2東國1。悉言=向=和=平2山河荒神及不レ伏人等1。故爾到2相武國1之時。其國造詐白。於2此野中1有2大沼1。住2是沼中1之神。甚道速振神也。於レ是看=行2其神1。入=坐2其野1爾。其國造火著2其野1。故知レ見レ欺而。解=開2其姨倭比賣命之所レ給嚢口1而見者。火打有2其裏1。於レ是先以2其御刀1苅=撥2草1。以2其火打1而打=出2火1。著2向火1而燒退。還出。皆切=滅2其國造等1。即著レ火燒。故其地者於レ今謂2燒遣1也。

訓読:かれオワリのクニにいたりまして、オワリのクニのミヤツコのおやミヤズヒメのイエにいりましき。すなわちめさんとおもおししかども、「またかえりのぼりたらんときにこそめさん」とおもおして、ちぎりおきて、ヒムカシのクニにいでまして、ヤマカワのあらぶるカミまたまつろわぬヒトどもをコトゴトにことむけやわしたまいき。かれここにサガムのクニにいたりませるときに、そのクニのミヤツコいつわりもうさく、「このヌのうちにオオヌマあり。このヌマのなかにすめるカミ、いたくちはやぶるカミなり」ともうす。ここにそのカミをみそなわしに、そのヌにいりましつれば、そのクニのミヤツコそのヌにヒをなもつけたりける。かれ「あざむかえぬ」としろしめして、かのみおばヤマトヒメのミコトのたまえるミフクロのくちをときあけてみたまえば、そのうちにヒウチぞありける。ここにまずそのミハカシもてクサをかりはらい、そのヒウチをもちてヒをうちいで、ムカイビをつけてやきそけて、かえりいでまして、そのクニのミヤツコどもをみなキリほろぼし、すなわちヒをつけてヤキたまいき。かれそこをばいまにヤキヅとぞいう。

口語訳:尾張国に到って、尾張国造の祖、美夜受比賣の家に宿を取った。すぐに婚姻したいと思ったが、「また帰りの時に婚姻しよう」と思い、約束だけを交わして東国に向かった。そこで山河の荒ぶる神やまつろわぬ人たちをすべて退治した。だが相武(相模)国に到った時、その国造が彼を騙して、「この野の中に大きな沼があります。そこに住む神は非常に荒れ狂う神で困っております」と言った。そこでその神を見ようと野に入ったとき、その国造は野の周りに火を着けた。「騙されたのだ」と知って、倭比賣命にもらった嚢の口を明けてみると、燧石が入っていた。そこで刀で身の周りの草を切り払い、それに燧石で火を着けて、迎え火で火を避けた。帰って来ると、その国造たちをみんな斬り殺し、火を着けて焼いた。それでその地を今でも燒遣という。

尾張國(おわりのくに)。名の意味は分からない。【万葉巻十三(3260)に「小沼田之、年魚道之水乎(おぬまだの、あゆちのみずを)云々」、この「沼」の字は「治」の誤りで、「おはりだ」が正しいだろう。続日本紀廿九に「尾張国山田郡の人、小治田連藥(くすり?)ら八人に尾張宿禰の姓を与えた」とあるのを合わせて考えると、尾張(おわり:旧仮名オハリ)のことを小治田とも言ったのだろうか。そうであれば「小治」のことで、田による名だろう。神代には「伊都之尾羽張(いつのおはばり)」という剣の名もあるから、草薙の剣に因んで、これも「尾羽張」が縮まった名かとも思ったが、この国名は倭建命以前からある。またその剣はもとは大蛇の「尾」から出たためだという説もあるが、当たっていない。国の形が、西の方へ尾が張ったようになっているからというのもどうだろう。またこの国の風土記と称するものに「終(おわり)」の意味だと言っているものがあるが、信憑性はない。この風土記というものは、少し後の成立である。なおこの国名については、伝二十一の廿二葉、尾張連のところでも論じている。参照せよ。】延喜式神名帳に「山田郡、尾張神社」、また「尾張戸神社」がある。○尾張國造(おわりのくにのみやつこ)。この氏のことは、掖上の宮の段【伝廿一の廿一葉、尾張連】で言った。国造本紀に「尾張国造は、志賀高穴穂の朝に、天別天火明命の十世の孫、小止與(おとよ)命を国造に定めた」とある。【小止與命は美夜受比賣の父なので、志賀高穴穂の朝(成務天皇)というのは時代が合わない。このことは伝廿一でも言った。】新撰姓氏録の河内国神別の尾張連のところには、「火明命の十四世の孫、小豊(おとよ)命」とある。旧事紀でこの氏の代々の系譜を書いたところでは、小止與命は饒速日命の十一世の孫となっている。【それは「饒速日命→天香語山(あまのかごやま)命→天村雲(あまのむらくも)命、またの名は天五多底(あまのいたて)→天忍人(あまのおしひと)命→天戸目(あまのとめ)命→建斗米(たけとめ)命→建宇那比(たけうない)命→建諸隅(たけもろすみ)命→倭得玉彦(やまとえたまひこ)命、またの名は市大稻日(いちおおいなび)命→弟彦(おとひこ)命→淡夜別(あわやわけ)命→乎止與(おとよ)命」である。始祖を饒速日命と言っているのは偽りで、実は天火明命であることは、伝十五の九葉、伝廿一の廿一葉で既に述べた。この氏人が尾張国に住むようになったのは、この小豊命が最初ではないだろうか。その孫尻綱根(しりつなね)命に到って尾張連という姓を賜った。またこの氏の人が尾張国にいたことが、後の文に見えているのは、宣化紀に「尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀物を運ばせた」、続日本紀二に「尾張の国に行き、尾張連の若子麻呂、牛麻呂に宿禰の姓を与えた」、同四に「尾張国愛知郡の大領、尾張宿禰乎己志(おこし)」などの名が見える。】続日本紀十七に「命婦従五位下、尾張宿禰小舎(おぐら?)を尾張国国造とした」なども見える。熱田の大宮司もこの氏人である。【そのことは後に述べる。】○美夜受比賣(みやずひめ)。書紀には「尾張氏の娘」とある。熱田大神縁起という書物【この書は、貞観六年に神宮の別当、尾張連清稻が古記の文を調べ、遺老(昔のことをよく知っている老人)に聞いて書いたものを、寛平二年に、藤原朝臣村椙という人物が通儒(儒学に通じるという意味だが、ここではたぶん知識の深い者という意味だろう)に訊ねて文を修したと巻末にある。そうだろう。この書のことは、後で引くところでも述べる。】に、「日本武尊は斧鉞を受け、再拝して・・・天皇は吉備武彦と建稻種公(たけいなだねのきみ)に命じて、日本武尊に従わせた。・・・尾張国愛智郡に到ったとき、稻種公は『この郡の氷上邑は私の生まれた土地です。大王、どうかそこで休息してください』と言った。日本武尊は喜んだが、躊躇っていたところ、ふと一人の美しい娘を見た。その名を問うと稻種公の妹で宮酢媛(みやずひめ)というのであった。そこで稻種公に『あの美しい娘をもらえまいか』と言った。承知を得て婚姻した後は、寵愛が極めて厚く、数日そこに留まって、別れるに忍びないほどだった」とある。神皇正統記にも「日本武尊は信濃から尾張国に出た。そこに宮簀媛(みやずひめ)という娘がいた。尾張の稻種宿禰の妹である」と見える。稻種宿禰は、旧事紀に「乎止與命は、尾張の大印岐(おおいにき)の娘、眞敷刀婢(ましきとべ)を妻として、建稻種命を生んだ」と言っている。【ただし旧事紀では、乎止與命の子は男一人とあって、建稻種命の名だけを挙げ、その妹宮簀媛の名は見えない。漏れたのだろう。】美夜受比賣の母もこの眞敷刀婢だろう。この比賣のことは、後【伝二十八】でさらに言う。先祖の姉妹のことも「〜の娘」、「〜の妹」などと言わないで、単に「〜氏の祖」と言った例は高岡の宮(綏靖天皇)の段に見え、そこ【伝廿一の四葉】に例を挙げた。尾張国風土記にも「尾張連の遠祖、宮酢媛」とある。○亦思還上之時將婚(またかえりのぼりたらんときにこそめさめ)。この「亦」は「思」の字の下にある意味で、「都へ還る途中で、またここに立ち寄る時には」ということである。「時(ときに)」のところに「こそ」という語を添えて読み、「將婚」を「めさめ」と読むべきである。【「將」は「ム(ん)」と読むのが普通だが、前に「こそ」と言っているから、「め」と閉じるのが決まりである。「め」は「ム」の活用である。】○期定而は「ちぎりおきて」と読む。○「悉言向(ことごとにことむけ)云々」とは、次に言う事柄を要約して、初めに言っておいたのだ。○相武國(さがむのくに)。「武」の字は、諸本に「模」と書いてある。【釈日本紀や神名秘書などに引用してあるのも同じ。】ここでは真福寺本や延佳本によった。【記中では「武」の字を仮名に用いた例はないが、一般に国名、地名には、普通の仮名に使わない字を書いた例が多い。吉備の「吉」、高志(こし)の「高」、伊賦夜坂(ゆうやざか)、波邇賦坂(はにゅうざか)などの「賦」、伊服岐(いぶき)山の「服」、當藝野(たぎの)、當岐麻(たぎま)などの「當」がそうである。これらも記中ではまず使わない仮名だ。ここの「武」もそのたぐいである。なお記中に、国名や地名では普通でない字を書いてあることが多い。山代、无邪志(むざし)、三野、科野、高志、多遲麻(たじま)、稻羽、針間、阿岐などの例である。これは上代からそう書いてきたままと思われる。だからここもそのたぐいで、もとは「相武」だったのを今の本に「相模」と書いていることが多いのは、後人がさかしらに改めたのだろう。そういう例も幾つか見える、美濃は常に「三野」と書いているのに、上巻に一箇所「美濃」と書いてあり、近江のことを常に「近淡海」と書くから、遠江も「遠淡海」と書くはずなのに、「遠江」と書いてあるなども後人のしわざと見える。】元正紀に「酒部連相武」という人名も見える。これは、この国名をいにしえにそう書いたことの証拠である。【国造本紀でもこの字を書いている。】和名抄には「相模は『さがみ』」とあるが、いにしえは「さがむ」であった。後の歌にもそうある。「模」の字を書いたのも「む」の仮名である。【この字は「み」の仮名にはほど遠い。大隅国の「馭謨」も「ごむ」とある。「謨」と「模」は同音の字である。東遊の歌に「左加安无乃於禰(さがあむのおね)」とあるのは、相模(さがむ)の峯(おね)ということだろう。万葉巻十四(3362)に「相模禰乃乎美禰(さがむねのおみね)」とある相模も「さがむ」と読むべきだ。「さがみ」というのは、後に転じた呼び方だろう。上総国の郡名の「夷ジム(さんずいへん+旡二つの下に鬲)(現在の夷隅)」も和名抄に「いじみ」とあるが、この記では「いじむ」とある。】国名の意味は、後の歌のところで言う。○其國造(そのくにのみやつこ)については、後に述べる。○大沼。和名抄に「唐韻にいわく、沼は池である。和名『ぬ』」とあって、【印本には「奴萬(ぬま)」とあるが、古い本、また一本には「萬」の字がない。】いにしえには「ぬ」と言うのも普通だったが、明の宮(應神天皇)の段には「阿具奴摩(あぐぬま)」という沼の名もある。万葉巻十四(3415)に「伊可保乃奴麻(いかほのぬま)」、(3416)「可保夜我奴麻(かほやがぬま)」、(3417)「伊奈良能奴麻(いならのぬま)」、(3526)「奴麻布多都(ぬまふたつ)」【「沼二つ」である。】などもあるから、「ぬま」と読む。【師はここを「沼は借字であって、大野のことだ」と言った。それは次の文で「その野に入った」とあるのによる。いにしえは野も「ぬ」と言い、万葉などに沼を野と通わせて書いた例もあり、野の意味だとするのももっともだが、その前には「野中に」とあるから、「大野」とするのは疑問である。】○道速振(ちはやぶる)は上巻【伝十三の九葉】に出た。やや後の駿河国風土記に「安弁郡の権田の池は、和銅元年三月から五月にかけて、池の底が昼夜にわたり百度あまりも鳴り響いた。まるで地震のようである。五月の満月の夜、一頭の黒牛が池の底から出て来た。一つの玉を負っていて、その玉の光りが辺りを照らした。云々」という。駿河ではそんなに後世にも池の中から霊異のものが出たことがあるのだから、上代には道速振(ちはやぶ)る神が沼の中に住んでいたのもありそうなことだ。【ここは嘘を言っているのだが、そういうことが他にも実際にあったので、さも本当らしく聞こえたのだろう。】○看行は「みそなわしに」と読む。高津の宮(仁徳天皇)の段に「欲2見行1(みそなわさんとおもおして)」、朝倉の宮(雄略天皇)の段に「看行(みそなわす)」、書紀の仲哀の巻に「分明看=行2山川海原1(あきらけくやまかわうなはらをみそなわせ)」、続日本紀十に「所見行歡賜(にそなわしよろこびたまう)」、同十五に「見行波(みそなわせば)」、鎮火祭の祝詞に「奇止弖見所行須時(あやしとしてみそなわすときに)」などの例がある。これ以外にも「行」の字を添えて書いた例は、続日本紀に「所思行佐久止(おもおしめさくと)」、「念行須(おもおしめす)」、「所念行佐久止(おもおしめさくと)」、「所知行須(しろしめす)」、「所聞行(きこしめす)」、「聞行須(きこしめす)」、三代実録八に「念行米須(おもおしめす)」、万葉巻二(167)に「所知行(しろしめす)」などもある。【これらは「おもおしめす」、「しろしめす」、「きこしめす」と読むのだが、「看行」のみはそれらと違って「みそなわす」と読む理由は、「しろしめす」を「所知看」とも書くように、「めす」は「看(み)す」のことだから、「看賜う」ということを「みしめす」と読むと、同じ言葉が重なってしまう。だからこれはそうは言わないのである。】本来このように「行」を添えて書く場合、龍田の風神祭の祝詞に「思志行波須乎」とあるのは「おもおしおこなわすを」と読む。【「波」の字があるので、「おもおしめす」とは読めない。】その例によると所念行、所知行、所聞行などももとはみな「おこなわす」と言ったために「行」の字を書いていたのが、そう言うのも意味は「めす」と言うのと同じだから、通わせて「めす」と言うにも「行」の字を書く習慣になったのだろう。【前記の万葉の「所知行」、三代実録の「念行米須」など、「おこなわす」とは読めないからだ。】とすると「みそなわす」も「みしおこなわす」が縮まった言い方である。【「看(み)」を「みし」と言うのは古言である。「しお」は「そ」に縮まり、「こ」は省かれたのだ。あるいは「しおこ」を縮めてもやはり「そ」になる。】この言葉は今の京(平安)になって、仮名書きでも古今集の序に「今もみそなはし、後の世にも傳はれとて」などとある。【栄花物語の「本のしづく」の巻に「ゐなかの人々、いみしきおほやけのせめをもすてゝ、萬(よろづ)の事をかきて、皆のぼりこみて、このたびの事は、みそなはさむとすと云(いひ)思へり」とあって、賤しい者が自分の動作に「みそなはす」と言うのは言葉遣いが間違っていると思うが、どうだろう。】○「入=坐2其野1(そのぬにいりましつれば)」は、大沼のある野に入ったのだ。【前に「この野中に」とあるから、大沼はその野にあるのに、ここで「沼に行って」と言わず「その野に入って」と言っているのは、前後で違っているように思えるかも知れないが、いにしえには「この」と言う言葉を「あの」とか「かの」などの意味に用いたことがあり、中昔の物語にも例が多い。「この野中」というのも、ざっと見渡した野(全体)のことを言うのであり、今の世で「あの野に」と言うのと同じだから、違ってはいない。】「野に入る」と言った例は上巻にも「その野に入って」と見え、【「根の堅洲國」の段】万葉巻十一(2722)に「和射見野爾、吾者入跡(わざみぬに、われはいりぬと)」などがある。○其姨、この「其」は「かの」と読み、「姨」でなく「所給嚢(たまえるみふくろ)」に係ると考えるべきである。○解開は「ときあけて」と読む。「若有2急事1。解2茲嚢口1(もしとみのことあらば、このフクロのくちをときたまえ)」と言われていたので、解いてみたのである。○火打(ひうち)のことは、上巻伝十四【六十一葉】で言った。ところで、ここの倭建命の故事によって、いにしえは旅に出る人に火打ちを贈ることがあった。後撰集(1304)に「みちの國へ罷りける人に、火打を遣はすとて、書付(かきつけ)ける。貫之『打(うち)てたく火の、煙あらば、心ざすかを、しのべとぞ思ふ』」【八雲御抄に「小刀、心さすがとも言う」とあり、爲家卿の抄に「『さすが』は腰刀なり、燧につくる物なり」とある。今の世でも、物を切る小刀を「さすが」と言う。】公忠集(27)に「ゐなかへ下る人の許に、白き袋を、書き物してすりて、火打を入(いれ)てやるとて、『打(うち)見てば、思出(おもひいで)よと、吾屋戸(わがやど)の、忍草して、すれるなりけり』」、敦忠集(8)に「親盛唐物使(からもののつかひ)にていくに、金(かね)の火打、火糞(ほくそ)に沈(じむ)をして、緒を摺りたる袋に、『打(うち)つけに思ひ出(いづ)やと、故郷(ふるさと)の、忍草にて、すれるなりけり』」、【万葉巻十八(4133)に、「針袋、これはたばりぬ、須理袋(すりぶくろ)、今は得てしか、翁さびせむ」、この「須理袋」を一説に火打袋であると言うが、どうだろう。これは単に色を摺ったので、どんな袋とも分からないのではないか。また「スリ(たけかんむりに鹿)袋である」という説もあるが、これもどうだろう。】源平盛衰記【四十四】に、日本武尊の錦の燧袋のことを言っているところで、「今の世にも、人の腰の刀に錦の赤皮をさげて『燧袋』と呼ぶのはそのためだ」【新井氏の「軍器考」に「火打袋を着けることは・・・寛正の頃の記録に、足利殿の腰の物にも、こういう物が着けられていたことが見える。・・・織田殿のころまで、この物のことが見えるが、今はそういうものを作ることはなくなった」とある。またある書物に、「採桑老の舞(雅楽の一つ)の図に、老翁の面をかぶり、狩衣のようなものを着て、腰には『さすが』とでも呼ぶようなものの態に袋を結わえ付けて、『火打袋』と呼ぶと伶人(雅楽を奏する人)の家で言い伝えている。天皇の御しるしの宝剣にも、火打袋といって赤地の錦でこしらえた袋のようなものを、鞘に結わえ付けてある」と言う。またある書には、今の世で「巾着」というものは、火打袋が変形したものであるとも言っている。】などがある。今の世にも倭建命の火打袋をかたどったとして伝えたものがいろいろある。中には本当に古い形のように見えるものもあるが、それがそのまま倭建命の持っていた袋の形とは信じられない。【中には、最近になって古いもののように装って作ったと思われるものもある。○ある本に、延喜式の「尾張国愛知郡、日割御子(ひさきみこ)神社」は、この倭建命の火打を祭っていると言う。どうなのだろう。】○「先以2其御刀1(まずそのミハカシもて)云々」。「先(まず)」とは、火を打ち出すために、まずこうしたというように聞こえるだろうが、そういうことではない。前の文に「袋の中に火打があった」と言うから、それに続いて火を打ち出すところだが、それに先立って、という意味である。○「苅=撥2草1(くさをかりはらい)」というのは、向こうから燃えてくる火を身辺に近づけないためにしたのだろう。【近くに草がなければ火はそれ以上近づかないからである。】書紀に「一にいわく、王の佩いていた叢雲(むらくも)という名の剣が、自分から抜け出て、王の付近の草をなぎ払い、それによって難を免れた。そのためその剣を草薙と名付けた」とあるのもその意味である。【単に草をなぎ払っただけでは、それで免れることができたというのは理解しにくい。これも草をなぎ払ったので、火が近くまでは燃えてこなかったため免れたのだ。だがこの「剣が自分で抜け出て」というのは、この記とは伝えが異なる。】この記には、こうして草をなぎ払ったために草薙と名付けたことは出ていないが、伝えが異なるのか、特に理由はなく、その文が抜けただけなのか、よく分からない。【書紀でも、ここの本文には草薙の剣のことは出ていない。神代の巻にも、「日本武尊の時に草薙劔と名を改めた」という記事は、あくまで一説として書かれている。この記でも後の文には「その御刀の草那藝の劔」とあるのに、ここでは単に「その御刀」としか書いていないから、別の刀という疑いもないではない。しかしここでは、続く文に「草をなぎ払い」とあるから、「草那藝の劔をふるって」などと書くと、同じ言葉が重なって煩わしくなるので、単に御刀とだけ言ったとも考えられるが、それならますますその後に「このため草那藝の劔と呼んだ」という文がなければならない。だからその文が脱けているのかと言ったのである。もし脱けたのだとすると、この記の伝えもこのことによって草那藝の劔と名付けられたわけだ。だが脱けたのでなく、初めからそういう伝えがなかったのなら、「草那藝」という名は「大葉刈(おおばかり)」や「天繩斫(あめのはえきり)」のように、その刀が鋭かったということを表現したに過ぎない。それならば、草をなぎ払ったことによって名付けたという説は、草を刈り払ったこともあるので、それによって唱えた説のようにも取れる。だがやはり本来の伝えの一つなのだろう。この草薙という名のことを「実は青人草を払い平らげた(人を大勢殺した)ことの喩えである」などという説は、例のなまさかしらな漢意の解釈で、論ずるに足りない。駿河国風土記にも「草は主のない土地に生える。この葦原には、天孫降臨以来、草叢の神がいなかった。だから天孫降臨の後に『草薙』の名がある。・・・一説によると日本武尊は東夷を征伐に行く時、駿河の国に到って、浮島原と阿部の市の東夷が尊を欺いて、御廣野で狩をさせ、その間に火を放った。時は十月、冬枯れの草に着けた火は、まるで油を塗ったように激しく燃え、煙はすみやかに尊の軍を包み込んで、危機に陥った。このとき尊が帯びていた叢雲の劔は、ひとりでに鞘から脱け落ち、野火を払った。これによって『草薙』の名を付けた、と言うが、これは大きな誤りである」と言う。この風土記はやや後に成立したもので、仮名にもところどころ誤りがあり、信じがたい点が多い。この草薙という名を論じたのも、例の漢意による解釈である。】延喜式神名帳に「駿河国有度郡、草薙神社」、【上記の風土記では、この神社は天照大神を祀ると言い、草奈岐という地名、また草薙山という名も挙げている。】「廬原郡、久佐奈岐神社」がある。【風土記には、「稚足彦天皇(成務)の元年に初めて官幣を奉った」と言い、東草奈岐という地名を挙げている。】○「著2向火1(むかいびをつけ)」とは、向こうから迫ってくる火に対して、こちらからも火を着けたのだ。こうすれば、向こうの火は勢いが弱まって負けるのである。源氏物語【眞木柱の巻】に「此(この)みけしきもにくげに、ふすべ恨みなどし給はゞ、中々ことつけて、我も向火(むかひび)つくりてあるべきを」、【河海抄に「日本紀第七にいわく・・・たとえば人が腹を立てているのを、こちらからも逆に腹を立てることを言う」】また【竹川の巻に】「いとうしろめたき御心なりけりと、向火つくれば」、【花鳥餘情に「火が付いているところへ、こちらからも火を着けると、向こうの火は必ず消えるのを向火と言う。そのように、先方が腹を立てている時、こちらからも腹を立てれば、先方も腹を立てることをやめるものだ」とある。】などとあるのは、ここの故事によって、人が腹を立てている時、こちらからも同じように腹を立てることを「向火」と言い習わしたのである。和名抄には「野火、字統にいわく、ジ?(火+爾)は野火を防ぐことである。また燹(せん)とも書く。野人の説に『ほそけ』と言う。孫メン(りっしんべんに面)の切韻にいわく、燹は逆(むかえ)焼くことである」とある。「ほそけ」は「火退け」のことで、向火である。【逆焼によって向こうから来る火を退ける意味だからだ。】○燒退は「やきそけて」と読む。「そけ」は「退(そ)かせ」が縮まった形で、向火を焼いて、向こうの火を退かせるという意味だ。○還出(かえりいでまして)は、その野から出たのである。【前に「その野に入った」とあるのと対照的になっている。】○「即著レ火燒(すなわちひをつけてやき)」とは、書紀にも「その賊どもをことごとく焼き滅ぼして」とあるように、その国造たちを焼いたのである。ただしその前に「切り滅ぼし」とあるから、その斬り殺した死体を焼いたのか、彼らが住んでいた家屋などを焼いたのか、または「切り殺し」の「切り」は軽く言い添えただけで、実は焼き滅ぼしたのを、その地名の起源として言うために、焼いたことを特別に言ったのかも知れない。そのことはともかく、焼き滅ぼしたのは、王を焼き殺そうとしたことに対する報復としたのだろう。【この「著レ火燒」を前文の野に火(向火)を着けたことを言うと見るのは誤りである。】○「故其地者於レ今(かれそこをばいまに)」。「其地者」の三字は私が補った。というのは、この記で地名の起源を説いた箇所では、通例「故號2其所1謂レ某」、「故其地云レ某」といった書き方をしており、「其所」、「其地」という言葉のない例は一つもない。この言葉が脱落したことは明らかだからだ。【白檮原の宮の段に「血沼の海に到って、その手の血を洗った。だから血沼の海という」、「踏み穿ち越えて宇陀に出た。それで宇陀の穿(うがち)と言う」などの例は、直前に「血沼の海に到って」、「宇陀に出た」とあり、改めて「其の地を」と言わなくても通じるので、ここと同じではない。】その例の中で「於今(いまに)」とあったのは、上巻の「故其地者於今云2須賀1也」という文だけだから、ここもそれに倣って「故」の下に「其地者」を補ったのである。○燒遣(やきづ)。「遣」の字は、真福寺本他一本で「遺」と書いてある。ここでは旧印本及び他一本によった。【五百年ほど前にできたある本にも「遣」と書いてある。】この字はたいへん妙だ。書紀、万葉や延喜式神名帳などを参照すると、「津」の字を誤ったのかも知れない。【「遣」の字の下の一画(しんにょうの下の部分)を取ると「津」の字によく似ている。延佳本では「津」を書いてあるが、それは当人の考えで改めたものだろう。諸本にそう書いたものはない。】それとも「道」の字を誤ったか。【「道」なら「やきじ(旧仮名ヤキヂ)」だ。そうだとすると、「やきづ」というのは後に訛ったのか、それとも元から「ヂ」と「ヅ」と通わせて言ったのか。それはどちらの場合もあるだろう。】ともかく「遣」、「遺」などの字ではどうにも読めないが、字についてはさておいて、読みは「津」の方を採用した。【後学の人は、さらに考えて頂きたい。】万葉巻三(284)に「焼津邊(やきづへ)吾去(わがゆき)しかば、駿河なる、阿倍の市道(いちぢ)に逢(あひ)し兒等(こら)はも」とあり、延喜式神名帳に「駿河国u頭郡、焼津神社」【今も焼津村というのがある。野焼村というのもあり、野脇ともいう。】和名抄に「同国u頭【ましづ】郡u頭【ましづ】郷」と見え、上記の風土記にも「麻賤(ましづ)郡」と書いてあるが、「u頭」は音を取った表記で、実は焼津(やきづ)である。【このことは谷川氏も指摘している。「頭」の字は音を取っているのだから、「u」の字も「やく」の音を「やき」に用いたのである。これを「ましづ」と読んだのは、後になって「焼」ということを嫌って、字の訓に読み替えたのだ。こういう例は他にもある。】○書紀では、「この年(四十年)、日本武尊は初めて駿河に到った。そこの賊どもは、表面的に従うふりをして、欺いて『この野には糜鹿(しし)がたくさんいます。・・・狩をして行かれてはどうですか』と言った。日本武尊はその言葉を信じて、野中に入って獣を求めた。ところが賊は王を殺そうとして、火を野に放った。王は欺かれたことを知り、燧で火を出し、向火を着けて兔がれた。王は『もう少しで騙されるところだった』と言い、その賊衆をことごとく滅した。そのためそこを燒津と言う」とある。この段のことは、書紀ではこのように「駿河」とあって、地名なども駿河国の地名になっているが、この記では「相武」となっている。これを疑う人もあるが、古語拾遺でも「倭武尊の東征の年、相模国に到って野火に逢い、この剣で草をなぎ払って免れた。そこで名を改めて草薙の劔という」【帝王編年記にもこれを相模国でのことと書いてある。】と見える。これは国が違うのではない。いにしえと後代で、名が変わっただけで、実は同じ場所である。いにしえには駿河という国名はなく、【駿河というのは一つの郷の名で、駿河郡駿河郷がそうである。それをやや後には郷名をとって郡の名にし、広い範囲に適用して国名ともしたのである。】駿河国の範囲まで、広く相武と言ったから、【このことは後にも述べる。】この倭建命の時には、まだ駿河という国名はなかったのだろう。【前に引いた駿河国風土記に「御間城入彦天皇(崇神)三年に、伊豆国を分割して分國とした」とあるが、例によって信じられない。】そこでこの記は当時のままの伝えで「相武」と記し、書紀は後に分かれた国名で記されたのである。だから倭建命を欺いた国造というのも、今の相模国の国造ではない。焼津の地名から考えると、駿河国のu頭、有度、安倍、廬原あたりの国造たちだろう。【上代には、後に郡や郷となった狭い範囲も国といったから、そういう範囲を収めていた者も「国造」といったのだ。国造本紀に「珠流河(するが)国造云々」、「廬原国造云々」、「相武国造云々」などを挙げているが、ここはそれに無関係だ、そのあたりには、まだ他にも国造はいただろうからだ。】

 

自レ其入幸。渡2走水海1之時。其渡神興レ浪。廻レ船不2得進渡1。爾其后名弟橘比賣命白之。妾易2御子1而入2海中1。御子者所レ遣之政遂應2覆奏1。將レ入レ海時。以2菅疊八重皮疊八重キヌ<糸へん+施のつくり>疊八重1敷レ于2波上1而。下=坐2其上1。於レ是其暴浪自伏。御船得レ進。爾其后歌曰。佐泥佐斯。佐賀牟能袁怒邇。毛由流肥能。本那迦邇多知弖。斗比斯岐美波母。故七日之後。其后御櫛依2于海邊1。乃取2其櫛1。作2御陵1而治置也。

訓読:それよりいりいまして、ハシリミズのうみをわたりますときに、そのワタリのカミなみをたてて、ミフネたゆたいてエすすみわたりまさず。ここにそのキサキみなはオトタチバナヒメのミコトのもうしたまわく、「あれミコにかわりてウミにいりなん。ミコはマケのマツリゴトとげてかえりこともうしたまうべし」ともうして、ウミにいりますときに、スガタタミやえ・カワタタミやえ・キヌタタミやえをナミのうえにしきて、そのうえにおりましき。ここにそのアラナミおのずからなぎて、ミフネエすすみき。かれそのキサキのうたわせるミウタ、「さねさし、さがむのおぬに、もゆるひの、ほなかにたちて、といしきみはも」。かれナヌカありてのちに、そのキサキのミクシうみべたによりたりき。すなわちそのミクシをとりて、ミハカをつくりておさめおきき。

歌部分の漢字表記(旧仮名):さねさし、相模の小野に、燃ゆる火の、火中に立ちて、問ひし君はも。

口語訳:さらに進んで、走水の海を渡ろうとした時、その渡りの神が波を激しく立て、船は一カ所の留まり漂って、進めなくなった。同行していた后、弟橘比賣命は「私が皇子の代わりに海に入りましょう。あなたは首尾良く征伐を成し遂げて、天皇に復命してください」と言った。海に降りる時、波の上に菅畳、皮畳、あしぎぬの畳を沢山積み重ねて敷き、その上に降りた。すると荒れていた波はおのずと静まって、船は進むことができた。后は歌って、
相武の小野に、燃える火の、火中に立って、(私のことを)尋ねてくださった君よ
七日後に、その后の櫛が海辺に流れ着いた。それを拾って、陵墓を作って中に納めた。

入幸は「いりいまし」と読む。後に出るのも同じだ。「いまし」は「行きまし」という意味である。【「行きます」を「います」というのは普通のことで、例が多い。】白檮原の宮の段に「自レ此於2奧方1莫レ使2入幸1(これより奥つ方に、な入りましそ:これより奥に進んではいけない)」【そこでは「いりまし」と読んだけれども、ここは単に「いり」とだけ読んだのでは、言葉が足りない感じがするので、「いりいまし」と読んだ。】「入り」とは東国の奥の方へ進み入ることである。【ここでは駿河の地から今の相模の国に向かったことを言う。】○走水海(はしりみずのうみ)。【この地名は今もあり、「はしりみず」と呼ぶ。】書紀には「また相摸に進んで、上總に行こうとした。高いところから海を眺めて、『こりゃ小さな海だなあ。可立跳渡(立ち走りでも渡れるよ)』と言った。ところが海中に船を乗り出すと、暴風が起こり、王の船は一ヵ所を漂って進めなくなった。その時同行していた王の妾で、弟橘媛という媛がいた。これは穗積氏の忍山宿禰の娘である。彼女が王に『今風が起こり、波が激しくて、王の船は沈んでしまいそうです。これは海神の心に違いありません。私の身を王の命を贖うため、海に入りましょう』と言い終わると、すぐに海に入った。すると暴風はすぐに止み、船は岸に着くことができた。そこで当時の人々はその海を馳水(はしりみず)と呼んだ」とある。ここで「当時の人々はその海を馳水と呼んだ」とあるのは、前に皇子が「立ち走りでも渡れるよ」と言った(言挙げした)のを受けたのだろうか。【「跳」の字は「走ること」と注がある。また万葉に「たちばしりせむ」という詞がある。それとも、この時に起こった波の速かったことを言うのか。「浪速国」という名と同じような意味である。】ここは、今も相模国御浦郡の海辺【浦川(うらが)より三十町ほど北】に走水という村があり、【海辺の上に走水の観音という寺がある。諸国の往来の船は、この前の海を通過する時、初穂米といってこの観音に奉る習慣があるということだ。思うに、この観音というのは、実はこの弟橘比賣の御形(みかた)を祭ったもので、その所以で海路の無事を願ったのが残ったのではないだろうか。確かな理由はないが、後の人の参考に指摘しておくのである。】上総国に向かっている土地である。【走水というところは、今は船が停泊するところではない。】その海は、前の文に「東之淡水門(あずまのあわのみなと)」とあった、その入り海である。【その水門のことは伝二十六の卅五葉で言った。】○渡神(わたりのかみ)は明の宮(應神天皇)の段にも「難波に到ろうとした時、その渡りの神が遮って入らせなかった」と見え、書紀には「難波の柏の濟(わたり)の悪神」などと見えたのと同類か。【その柏の濟の悪神は、この王が殺したと出ているから、ここに出たのはそれではない。書紀に「海神」とあるから、同類の悪神ではないのか。それともこれも悪神ではあるが、この王の力を以てしても平らげることができないほど強力だったのか、そういう細かいことは分からない。】○興浪は、師が「なみをたて」と読んだのが良い。荒い波を立てたのだ。○廻船は「みふねたゆたいて」と読む。万葉巻二【十六丁】(122)に「大船之、泊流登麻里能、絶多日二(おおふねの、はつるとまりの、たゆたいに)」、また【三十三丁】(196)「大船、猶預不定見者(おおぶねの、たゆたうみれば)」、巻十一【三十六丁】(2738)に「大船乃、絶多經海爾、重石下(おおぶねの、たゆたううみに、いかりおろし)」など見え、他にも巻七【五丁】(1089)に「海原、絶塔浪爾(うなはらの、たゆたうなみに)」、巻十五【二十九丁】(3716)に「安麻久毛能、多由多比久禮婆(あまくもの、たゆたいくれば)」、巻四【四十八丁】(713)に「情多由多比(こころたゆたい)」、巻十一【四十五丁】(2816)に「天雲之、絶多不心(あまくもの、たゆたうこころ)」など、さらに多い。古今集【戀一】(508)に「大船のゆたのたゆたに」とあるのもこれである。船が波に揺られて、同じ場所に漂い、進むことができなかったのである。【師は「みふねもとおらせて」と呼んだ。これなら「もとおして」とも読める。「もとおし」は「もとおらし」の「ら」を省いたのだ。訶志比の宮(仲哀天皇)の段の歌に「本岐母登本斯(ほぎもとおし)」、甕栗の宮(清寧天皇)の段の歌に「斯麻理母登本斯(しまりもとおし)」などとあるのがそうだ。俗に「縁(へり)」と言うのを雅言で「もとおし」と言うのも「廻(もとお)らし」という意味だ。ここは船を滞らせたのを「もとおし」と読めば、万葉で「徘徊」を「たもとおり」と読むのと同じ意味になる。しかし船が進めないことを「もとおり」と言った例はない。万葉(4037)に「こぎたもとほり」などと詠んだ例はあるが、それは漕いでめぐるということで、意味が異なる。だから「廻」の字の意味からは少し遠いが、船に関係した言葉を取って、「たゆたいて」と読むべきだろう。】○得進渡は「えすすみわたりまさず」と読む。「進む」というのは特に船が行くことに使う言葉らしく、後にも「得進(えすすみき)」、書紀の仲哀の巻にも「御船不進(みふねゆかず)」、「船得進(みふねゆくことえつ)」とも見え、万葉巻四【二十五丁】(557)に「大船乎榜乃進爾(おおぶねをこぎのすすみに)」などがある。○后(きさき)とは天皇の妻に限って使う字だが、ここでこう言い、後にも「倭にいた后たち」とあるのは、この倭建命が帯中津日子天皇の父親だから、あらゆることを天皇に準じて言うのである。書紀でも日本武尊と「尊」の字を書き、死んだことを「崩」と書き(皇子の場合は薨が普通)、墓を陵と言い、仲哀の巻に「母皇后【倭建命の妻である。】」と書くのと同じである。なお「后」という呼称のことは、上巻に嫡后(おおぎさき)、白檮原の宮の段に大后とあるところ【伝十一の三十葉、伝二十の十葉】で述べた。○弟橘比賣命(おとたちばなひめのみこと)。名の「弟」は上巻の歌に「淤登多那婆多(おとたなばた)」とある「おと」と同じで、美称である。そのことはそこ【伝十三の六十六葉】で言った通りだ。「橘」はこの頃常世の国から伝わったもので珍しく、世に称賛された木であって、やはり称え名であろう。【この比賣のことを書紀で「妾」と書いているのはどんなものだろう。後の文(日本武尊の子孫を挙げたところ)では「次妃」としているのと合わない。書紀の書き方では、妃というほどの人を妾などとは言わないものだ。しかもこの記では、後の文で倭建命の妻を五人挙げた中でも、三人は単に「〜比賣」とあり、布多遲能伊理毘賣命とこの比賣命だけが「〜命」となっているのを見ても、尋常の妻ではない。この記に「后」とされているのが正しいことを知るべきである。】延喜式神名帳に「上総国長柄郡、橘神社」がある。これはこの比賣を祀っているのではあるまいか。【和泉国大鳥郡、多治速比賣命(たじはやひめのみこと)神社は、この比賣命を祀るという。同郡の大鳥神社は倭建命を祭るというから、由縁はある。】ところでいにしえには、軍旅にも妻を連れて行くことが普通だったと見え、書紀にはそういう記事がたくさんある。【雄略の巻に吉備の上道臣、弟君が新羅征伐に遣わされたとき、その妻の樟媛(くすひめ)が同行して忠国の働きをしたこと、また同じ巻で紀の小弓宿禰を新羅征伐に向かわせた時、吉備の上道の采女、大海(おおしあま)を与えて同行させたこと、欽明の巻に、新羅を征討に遣わした河邊臣瓊缶(にえ)が、その妻と共に新羅の将軍に生け捕られたこと、この時、調吉士(つきのきし)伊企儺(いきな)が殺され、妻の大葉子(おおばこ)も生け捕られたこと、推古の巻に當麻皇子(たぎまのみこ)を新羅征伐に遣わす時、同行した妻の舎人姫王が播磨の国で薨じたこと、舒明の巻に、蝦夷地を征伐に遣わされた上毛野の君形名(かたな)の妻が、その地で武勇を発揮した記事などがあるので分かる。】○御子(みこ)。天皇の子については、二人称としても、このように「御子」と言うのが古言である。○入海中は「うみにいりなん」と読む。【一本には「中」の字がないが、それも悪くない。】○所遣之は「まけの」と読む。「まけ」は「令レ罷(まからせ)」の縮まった語である。天皇の命によって、都の外の国々の官などに遣わすことを言う。【このことは伝九の四十八葉、伝廿三の八十三葉で説明した。】ここは東国を征伐に遣わしたことを言う。○政(まつりごと)は「仕奉事(つかえまつること)」という意味で、天皇の命によって仕え奉ることを、内容は何であれ、「政」と言うのである。このことは白檮原の宮の段で言った。【伝十八の七葉】ここは水垣の宮の段に「和=平2所レ遣之國政1而。覆奏(まけまつるクニのまつりごとをコトムケて、かえりこともうしき)」とあったのと同じである。参照せよ。【伝廿三の八十八葉】○菅疊(すがたたみ)。白檮原の宮の段に「須賀多々美、伊夜佐夜斯岐弖(すがたたみ、いやさやしきて)」とあった。○皮疊(かわたたみ)、キヌ<糸へん+施のつくり>疊(きぬたたみ)。【旧印本、延佳本などではキヌを「絹」と書いているが、その他の本ではいずれもキヌ<糸へん+施のつくり>である。上巻にあったのもこの字である。】上巻の海神の宮の段に「ミチの皮の畳八重を敷き、またキヌの畳八重を敷いて、その上に座らせ」とあった。畳のことはそこで言った。【伝十七の廿九、三十葉】○下坐(おりまし)は、船から下りたのである。○暴浪は「あらなみ」と読む。万葉巻二【四十三丁】(226)に「荒浪爾(あらなみに)」、巻六【三十六丁】(1020)に「付將賜、嶋之埼前、依將賜、礒乃埼前、荒浪風爾不令遇(つきたばん、しまのさきざき、よりたばん、いそのさきざき、あらきなみかぜにあわさず)」などの例がある。また「はやなみ」と読んでも良い。○自伏(おのずからなぎて)。「伏」は師が「なぎて」と読んだのに従う。「自」は上巻の石屋戸の段に「高天原及葦原中國自得2照明1(タカマノハラもアシハラのナカツくにもオノズカラてりあかりき)」とあった「おのずから」と同じで、「すなわち」と言うのに近い。【このことは、伝八の三葉でも言った。】○得進は「えすすみき」と読む。この「得」という言葉の使い方は、上巻に「得作(えつくらん)」とあるところ【伝十二の十七葉】で言った。この段のことは、神明鏡にいわく、「そこから相州へ越え、上総に渡ろうとした時、伏戸の渡りで波が荒れて、船が今にも転覆しそうになったのを、船の梶取りが言うには、『船中の美人を龍神が見たためと思われます』と言ったので、『数百人の軍士を失うよりは』というので、最愛の橘姫という夫人を一人流したのである。実にかたじけないことであった。こうして船は無事に上総に渡り、云々」と言っている。○歌曰は「うたわせるみうた」と読む。歌の様子から考えると、前記のように畳の上に座って、まだ沈んでしまわないうちに、王の船が少し遠ざかって行くのを見ながら詠んだのだろう。○佐泥佐斯(さねさし)は相模の枕詞らしいが、言葉の意味は分からない。【しかし試みに言うと、「佐斯」は国の名で、「佐泥」は「眞」と同じく美称ではないか。「真」はそのまま「さね」とも読み、「さねかづら」なども「真かづら」の意味に聞こえる。それを「さなかづら」とも言うのは、稲を「いな」、金を「かな」とも言うのと同じ変化である。万葉巻十四(3499)に、萱を「佐禰加夜(さねかや)」とも詠んでいる。とすると「佐斯(さし)」という国を賞めて「さねさし」と言うのではないだろうか。「佐斯」を国の名というのは、いにしえには駿河、相模、武蔵の地を合わせて「佐斯の国」と言ったのを、二つに分けて相模、武蔵としたのだろう。駿河は、また後に相模から分かれたことは、前に言った。たぶん相模は「佐斯上(さしがむ)」の「し」を省き、武蔵は「身佐斯(むざし)」の意味だろう。古い書物には「身刺(むざし)」と書かれていることが多い。「身」とは、その中の主要部分と言うことだ。家(屋)の主要部を「身屋(むや)」というのと同じである。後に母屋(もや)と言うのは「むや」が訛ったのだ。とすると武蔵は、「佐斯」の国の中の主要な平坦地だから、そう名付けたのだろう。「さ」を濁るのは、連便(音の続き具合によって清濁などが変化すること)である。一つの国を分けた場合、「前後」、「上下」などという語を付けるのが一般的だが、丹波などは、分割した後は丹波、丹後となり、丹後に対して丹前とは言っていないから、「佐斯」を分けて、「佐斯上」に対して「佐斯下」とは言わなかったことも例がないではない。これを「佐泥佐斯佐賀牟」と続けて言うのは、「御吉野の吉野」とか「佐檜前檜前(さいのくまひのくま)」などというのと同様だ。延佳が「佐と斯の間に『泥』の字が脱けたのかも知れない。下巻の輕皇子の歌に『佐泥斯佐泥弖婆(さねしさねてば)』、万葉に『左宿左寐弖許曾(さねさねてこそ)』とある」と言ったのは良くない。ここは「さねさねし」と言ったのでは、末の句に合わない。また契沖が「相模の枕詞だ。意味は未詳。考えるに、旧事紀やこの記で武蔵を『胸刺』とも書いているから、『むねさし』を縮めて『むさし』と言うのだろう。するとここでは『狹胸刺(さむねさし)』の『む』を省いて言ったのだろうか。武蔵・相模はもと一つの国だったから、こう続けて言うのではないか。相模は武蔵より小さいので『狹胸刺』と言ったのかも知れない」と言ったが、この記では武蔵は「牟邪志」と書いていて、「胸刺」と書いたことはない。旧事紀でも「牟邪志」と「胸刺」は別のように書いてある。また師が「『佐』は発語であり、『泥(ね)』は『奴(ぬ)』に通い、『奴』と『牟』はまた通うから、『牟佐斯(むさし)』である。いにしえ、武蔵と相模が一つの国だった時には、こうも唱えたのだろう」と言ったのもどうだろうか。「むさし」を「ねさし」と言うことがあるだろうか。またある人は、「相模は小さい峯が多い国なので、『小峯刺(さねさし)』の意味である。『刺す』は『立つ』の意味だ」と言ったのもどうかと思う。私も以前、「佐」は例の「眞」で、「泥」は「峯」の意味であり、富士山を「眞峯(さね)」と称賛して呼び、「佐斯」は「立つ」だろう。駿河ももとは相模だったから、富士山を国の象徴として、枕詞にしたのだろうと考えていたが、これも良くない。】○佐賀牟能袁怒邇は「相模の小野に」である。「さがむ」という国名の意味は思い付かない。【上記の試みの論によると、「佐斯上(さしがむ)」の「し」を省いたのである。「が」と濁るのは連便である。「かむ」は「上」の意味なので「さがみ」とも言うのではないだろうか。一般に上、神などの語を「かむ」と言うのは、下に語が続く時のことだから、この国の名を「さがむ」と言うのは、元は「佐賀牟の国」、「佐賀牟の小野」などと続けて言う時の言い方ではないだろうか。後に書かれた風土記には「嵯峨身」という説があるが、信じられない。一説に、「この国は足柄・箱根から見下ろすから、『坂見』という意味だ」というのも良くない。なお師の考察もある、それは伝七の六十九葉、「牟邪志国造」のところで挙げた。】○毛由流肥能は「燃ゆる火の」である。○本那迦邇多知弖(ほなかにたちて)は「火中に立ちて」である。玉垣の宮(垂仁天皇)の段に「當B火燒2稻城1之時A而、火中所レ生(いなきをやくおりしも、ほなかにあれませり)」とあった。【万葉巻三(326)に「明石之浦爾焼火乃保爾曾出流(あかしのうらにもゆるひのほにぞいでぬる)」とあるのは、「火乃保」という語の続きは同じだが、それは「火のように穂に出た」と言っているのだから意味が異なる。また「炎(ほのお:旧仮名ホノホ)」というのも違う。「ホノホ」は「火の穂」のことだ。】「火」を「ほ」と言うのは木に木末(こぬれ)、木陰(こかげ)、木葉(このは)などと言うのと同じ活用で、下に言葉が続く時の言い方である。【これを何でも「ほ」と言うのが古言だと思うのは間違いだ。このことは前にも言った。】ここまでの四句は、倭建命が野火の難に遭遇した時のことを言うのだろう。【聖徳太子傳暦に「斑鳩宮之、甍丹炎火之、火村中丹、心者入沼(いかるがのみやの、いらかにもゆるひの、ほむらのなかに、こころはいりぬ)」とあるのは、この歌を作り替えたものである。あの本には、この記や書紀の歌を盗んで、少し変えたものが幾つかある。】○斗比斯岐美波母は「問し君はも」である。これは2通りに解釈できる。一つは「吾が問いし君」で、もう一つは「吾を問いし君」である。一つ目の解釈では、「問い」は妻問いなどの問いで、夫婦の交わりを言い、あれほどの艱難の中でも、互いに離れず、交わっていた君ということだ。【こう見ると、「問い」の主語は比賣であり、野火に囲まれた時、比賣もその中にいたのである。】二つ目の解釈は、そのとき王がこの比賣の身を案じて、「大丈夫か」と訊ねたことがあったのだ。そういう危急の時にも忘れず、身を案じてくださった君よと感動して詠んだ歌ということになる。【この二つのうちでは、後の解釈の方がややあわれが深く、穏当であるが、古意という点では、一つ目の解釈が少しまさっているだろう。】結尾に「はも」と言うのは、嘆息の辞だが、「はや」と言うのに似て少し違う。【「はや」については、次の「阿豆麻波夜(あづまはや)」のところで言う。】「はも」は恋い慕って、「どちらに?」と尋ね求める気持ちを込めた字である。万葉巻三(455)に「如是耳、有家類物乎、芽子花、咲而有哉跡、問之君波母(かくのみに、ありけるものを、はぎのはな、さきてありやと、といしきみはも)」、【二十一丁】(284)「阿部乃市道爾、相之兒等羽裳(あべのいちじに、あいしこらはも)」、巻十一【十九丁】(2566)に「情中之、隱妻波母(こころのうちの、こもづまはも)」、また【三十三丁】(2706)「不飽八妹登、問師公羽裳(あかずやいもと、といしきもはも)」、巻十二【二十一丁】(3041)に「消者共跡、云師君者毛(きえばともにと、いいしきみはも)」、巻十四【二十九丁】(3532)に「安乎思努布良武、伊敝乃兒呂波母(あをしぬぶらん、いえのころはも)」、巻廿【四十三丁】(4436)に「伊都伎麻佐牟等、登比之古良波母(いつきまさんと、といしこらはも)」など、この他にもたくさんある。○七日之後は「なぬかありてのちに」と読む。【「ありて」は「経って」ということである。「ありありて(このまま続けて)」、「ありさりて(そのまま日が経って)」、「ありがよう(通い続ける)」などという「あり」である。俗言にも「ありのはてに」などと言う。】万葉巻八【五十丁】(1621)に「今二日許、有者將落(いまふつかばかり、あらばちりなん)」、巻十三【二十六丁】(3318)に「久有者、今七日許、早有者、今二日許、將有等曾(ひさならば、いまなぬかばかり、はやからば、いまふつかばかり、あらんとぞ)」とある。○「依2于海邊1(うみべたによりたりき)」とは相模の国の海辺か、上総の国の海辺か、決定できない。○御陵(みはか)は墓のことだが、古い書物では文字の意味にこだわらなかったので、「陵」と書いたのである。○治置(おさめおきき)。崇峻紀に葬を「おく」と読む部分がある。ここも「置」とはその意味か。またこれは櫛だから「置」と言ったのかも知れない。この御墓も相模か上総か分からない。師の書き入れには、「今相模国の梅澤のあたりに吾妻森というのがある。これである」という。【梅澤は餘綾(とろぎ)郡にある。大道で、小田原と大礒の駅との間にある。吾妻山に吾妻明神の社がある。この社に古い伝えがあるかどうか、尋ねてみたいものだ。】

 

自レ其入幸。悉言=向2荒夫琉蝦夷等1。亦平=和2山河荒神等1而。還上幸時。到2足柄之坂本1。於B食2御粮1處A。其坂神化2白鹿1而來立。爾即以2其咋遺之蒜片端1待打者。中2其目1。乃打殺也。故登=立2其坂1。三歎。詔=云2阿豆麻波夜1。<自レ阿下五字以レ音也。>故號2其國1謂2阿豆麻1也。

訓読:それよりいりいまして、ことごとにあらぶるエミシどもをことむけ、またヤマカワのあらぶるカミどもをやわして、かえりのぼりますときに、アシガラのサカモトにいたりまして、ミカレイきこしめすところに、そのさかのカミしろきカになりてきたちき。かれそのミオシののこりのヒルのかたはしもてまちうちたまいしかば、そのメにあたりて、うちころさえたりき。かれそのさかにのぼりたちて、ねもころになげかして、「あづまはや」とノリたまいき。かれそのクニを「あづま」とはいうなり。

口語訳:さらに道の奥に入り、荒ぶる蝦夷たちを退治し、山河の荒ぶる神たちを平らげて、都に還る時、足柄の坂本で食事をした。その時坂の神が白い鹿に姿を変えて、側にやって来た。そこで飯の残りの蒜の切れ端で打ったところ、目に当たって死んだ。その後坂の上に登り、嘆いて「吾妻はや」と言った。そこでその国を「あづま」と言うのである。

悉(ことごとに)は「「山河荒神」というところまで掛けて言う。○蝦夷は「えみし」である。名の意味は、体毛が多いことを鰕(えび)に喩えたのだ。【「び」と「み」は通う。蝦夷と書くのもそのためである。また「蝦」の字は「鰕」と通用する。書紀には「蝦イ(虫+夷)」とも書かれている。「イ(虫+夷)」の字は、他の意味があるわけではない。「蝦」の字に倣って、何となく虫偏を付けたのだろう。続日本紀では蝦狄とも書いてある。【「えみし」の「し」の意味は考えつかない。】後には訛って「えびす」と言う。また後には「えびす」という語を「夷」、「戎」などの訓に用いて、蝦夷を「えぞ」とだけ言うようになった。「えぞ」と言うのは「えみし」とは違った語源を持つのか、それともやはり「えみし」から派生したのか、定かでない。「えぞ」という語は古い書物には見えない。中昔頃に登場した言葉である。この国を漢籍では毛人国と言っている。敏達紀に「蝦夷の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)」という名を出して、「魁帥は大毛人(おおえみし)を言う」とある。これは、蝦夷の魁帥(首領)はすべて大毛人と言うというのか。】書紀の~武の巻の歌に「愛濔詩烏毘ダ(イ+襄)利、毛毛那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毘毛勢儒(えみしをひだり、ももなひと、ひとはいえども、たむかいもせず)」【「蝦夷は手強く、一人が百人に当たると世の人は言うけれども、手向かいすることもできず討たれてしまった」ということである。】この歌は、倭の八十梟帥たちの勇猛さを蝦夷にたとえて言っている。【八十梟帥が蝦夷そのものだと言っているのではない。】蝦夷は特に勇猛な人々だからだ。蝦夷は皇国の人とは、姿も考え方も違っており、元来別の人種のようである。その国は今も「蝦夷嶋」と言っているように、皇国とは海を隔てた外国で、住んでいる領域が異なる。だが上代から、その国の人は陸奥の北辺に渡って来て住み着いた者が多く、【彼らの本国は五穀なども成らず、たいへん生活の苦しい土地であるが、陸奥は産物が多いから、移り住む者が多いのである。】次々に子孫を生み、陸奥の中程までも広がり、皇国人と雑居していた。書紀に「二十五年、武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、人々の暮らしぶりを検察させた。二十七年に武内宿禰が戻って、『東方に日高見の国というのがあります。その国人は男女みな結髪・文身して、たいへん強悍であります。これを総称して蝦夷と呼んでいます。土地は肥沃で、たいへん広い国です。討って取るべきです』と報告した」【日高見の国とは、どこであれ広く平らな地を言う。ここは陸奥にそういう地があると言うのである。延喜式神名帳によると、桃生郡に日高見神社というのもある。ところでこの文に「その国人は男女みな」とあるのは、陸奥国の人はみな蝦夷だというように聞こえるが、そうではない。本来の陸奥人は、みな皇国人なのだが、その中に混じっている蝦夷どもはみな、という意味だ。文の書き方がまずくて、紛らわしくなっている。書紀はひたすら漢籍の書き方を真似ようとするので、かえってこうしたまずい書き方になっていることが多い。前述のように、蝦夷は本来人種が異なるから、皇国の領域にそうした者が混じっているはずがない。そういうことがあったなら、後世にも陸奥に蝦夷が住んでいそうなものだが、今はいないのでも、本来住んでいた土地でないのが分かる。また多賀城の古碑に「蝦夷の国界を去ること百二十里」とあるのは、ある人の説で、「百二十里とは今の二十里だから、桃生郡のあたりになり、仙台の封域の中央辺りになる」と言ったが、確かにそうである。これも蝦夷が混じって住んでいる領域の限界を言っている。そこから向こうは本来の蝦夷の国というわけではない。】「四十年、東の蝦夷たちが盛んに背いて、辺境を騒がせた。天皇は群卿に『今東国が騒がしく、暴神が盛んに起こり、また蝦夷どもがみな背いて、人々を脅かしている。誰を遣わして平定したら良いだろうか』と諮った。・・・天皇は斧鉞を日本武尊に授けて、『私は、東夷たちは性質が荒く、暴力で他人の生活を犯すことが当然と思っていると聞いている。村には長がなく、邑に首というものがない。互いに領域を侵し合い、互いに盗み合う。山に邪神、里には姦鬼がおり、ちまたを遮り道を塞いで、人々を苦しめる。その東夷のうちでも、蝦夷というのが最も手強い。男女が雑居して暮らし、父子の別をわきまえない。冬は穴で暮らし、夏は巣に住んでいる。毛皮を着て血を飲み、兄弟も互いに疑う。山に登ることは飛ぶ鳥のようで、草原を走るのは獣のようだ。恩を受けても直ちに忘れ、恨みを持てば必ず報復する。常に頭髪の中に矢を隠していて、刀を衣の中に潜ませている。時には徒党を組んで辺界を犯し、時には農作物の収穫を狙って人民から盗む。討てば草に隠れ、追えば山に入る。そのため昔から王化に浴していない。』云々」【ここに「農作物の収穫を狙って人民から盗む」とあるので、陸奥の人が蝦夷でないことが分かる。蝦夷はたいへん勇猛だったので、皇国の人民から掠奪し、ところによってはその一帯を支配したこともあったのだろう。】「そこで日本武尊は上総から陸奥国に入る時、王の船に大きな鏡を掲げた。海路で葦浦に回り、玉の浦を横切って蝦夷の国の境に到った。蝦夷の首領や島津神、国津神が竹水門(たけのみなと)に集合したが、王の船を遙かに見て、まだ到着しないのに威勢をおそれ、とても勝てないと分かって、みな弓矢を捨てて拝み、『あなたのお顔を見ますと、ただの人でなく、あるいは神様ではないかと思います。お名前を教えてください』と言った。王は『私は現人神の子だ』と答えた。蝦夷たちは恐れ入り、海に入って、王の船を引いて着岸を手助けした。自分たちの罪を認めたので、王はその罪を許し、首領を虜にして、自分の従者とした」、【葦浦、玉浦、竹水門などはみな陸奥の地名だろう。蝦夷の境とは陸奥であって、蝦夷が住んでいたところを言う。「首領を虜にして」というのは、後の文に「捕らえた蝦夷たちを(伊勢の)神宮に献上した」ともある。後の史書に「俘囚」とか「夷俘」と書かれているのはこのたぐいで、捕らえた蝦夷たちを、陸奥や出羽の国、また諸国にも住まわせた。子孫まで良民とは区別して、俘囚という種類の民である。本来は蝦夷なので、その子孫も勇猛な行いを好み、ややもすると反逆した。】應神の巻に「三年、東の蝦夷が朝貢してきた。彼らを使役して厩坂の道を作った」、仁徳の巻に「五十五年、蝦夷が背いた。田道を遣わして彼らを討たせた。云々」、雄略の巻に「二十三年、新羅を征伐する将軍、吉備臣の尾代(おしろ)が吉備国に到ったとき、率いていた五百人の蝦夷たちが集結して、周辺の郡を襲った」、【ということは、派遣軍に蝦夷を連れて行くこともあったのだ。】清寧の巻の四年、欽明の巻の元年に「蝦夷や隼人たちがみな(天皇に)帰属してきた」、皇極の巻に「元年、越の辺りの蝦夷たち数千人が帰属した」、斉明の巻に「元年秋七月、難波の朝廷で北の【北は越のこと】蝦夷九十九人と東の【東は陸奥のこと】蝦夷九十五人を饗応した。柵養(きかう)の蝦夷九人、津刈(つがる)の蝦夷六人に、それぞれ冠位を二階授けた」、【「北の蝦夷」とは越の国に住んでいた者、「東の蝦夷」とは陸奥に住んでいた者を言う。ということは、越の国にも、陸奥と同様に蝦夷が渡って来て住んでいたのである。越の北の辺とは出羽の地域である。出羽はもと越後に属し、越の地域に含まれる。続日本紀に「和銅元年九月、越後国が新たに出羽国を建てることを進言した。これを聴許した。同五年九月・・・初めて出羽の国を置いた」とある。だから越の国の蝦夷というのは、出羽に住んでいた者を言う。出羽の国は陸奥国から分かれたというのは誤りである。それは続日本紀に「和銅五年十月、陸奥国の最上(もかがみ)、置賜(おいたみ)の二郡を割いて、出羽国に属させた」とあるのを誤解したのだろう。これは越後国を分けて出羽国を置いた上に、陸奥国の二郡を出羽国に着けたのである。】「四年、阿倍臣【名は不明】が船師(海軍)百八十艘を率いて蝦夷を討った。齶田(あいた)・渟代(ぬしろ)の二郡の蝦夷たちは、それを遠くから見て恐れ、降伏したいと言って来た。・・・齶田の蝦夷恩荷(おんか)が進み出て、誓って『・・・清白(きよ)い心で朝廷にお仕えしましょう』と言ったので、彼に小乙上の位を授け、淳代・津軽の二郡の郡領とした。最後に有間濱(ありまのはま)に渡嶋(わたりじま)の蝦夷たちを集合させ、饗応して帰った」、【渡嶋は蝦夷の本国、いわゆる「えぞが嶋」を言うのだろう。持統紀に「越渡嶋(こしのわたりじま)」とあるから、越の国の地名かとも思えるがそうではない。「越の」と言うのは、蝦夷の本国をいにしえには越に属させていたからだろう。というのは、彼らは津軽から渡ってきたことが多く、津軽は後世陸奥国に属するが、斉明紀の文などを見ると、当時は越の国に属していたように聞こえるからだ。そこから渡って来たので「越の渡り嶋」と言ったのだろう。】「五年、阿倍臣【名は不明】が船師(海軍)百八十艘を率いて蝦夷を討った。阿倍臣は、飽田(あいた)・渟代(ぬしろ)の二郡の蝦夷たち二百四十一人、その虜三十一人、津軽郡の蝦夷百十二人、その虜四人、膽振ショ(金+且)(いふりさえ)の蝦夷二十人を選んで一所に集めて饗応した。そのとき船一艘、五色のサイ(糸+采)帛(しみのきぬ:染めた絹)を献げてその地の神を祭った。肉入籠(ししりこ)に到った時、問菟(という)の蝦夷、膽鹿嶋(いかしま)と菟穂名(うおな)の二人が進み出て、『後方羊蹄(しりべし)を政所にしましょう』と言った。そこで膽鹿嶋らの言うままに郡領を置いて帰った。ある本によると、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらぶ)が粛慎と戦って帰り、虜囚四十九人を献げたという」、【ここに「蝦夷の国」とあるのは、まさに蝦夷の本国のことである。他にはいずれも「蝦夷」と言っただけで「国」という言葉がないが、ここでだけ「国」と言っているのは、本国だからだ。そのため膽振ショ(金+且)、肉入籠、問菟、後方羊蹄など、蝦夷の国の地名であり、皇国の地名とは様子が違う。「しりへし」という地は今もその地にある。「しりべつ」とも言う。上記の四年の記事と五年の記事を見比べると、将軍の名も同じで船の数も同じ、全体の様子も似ているから、同じ事件なのだが伝えが異なっていて、まぎれて二度のことのように書かれたのだろう。また「粛慎と戦って」とあるのは、粛慎国は蝦夷地の西北にあって、近い国なので、蝦夷を討ったついでに討ったのだろう。同六年にも阿倍臣が粛慎を討った記事がある。これも五年の時と同じ事件を二度書いたのだろう。】「同年、坂合部連石布(いわしき)、津守連吉祥(きちぞう)を唐(もろこし)に遣わした。その際、陸奥の蝦夷、男女二人を伴って行き、唐の国主に見せた。【伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書にいわく、「・・・唐主が『これらの蝦夷の国は、どこにあるのか』と尋ねた。使者は『東北にあります』と答えた。また『蝦夷はどれくらいの種類がいるのか』と尋ねた。『およそ三種類がいます。遠いところにいるのを都加留(つかる)、その次に遠いのを麁蝦夷(あらえびす)、一番近いのを熟蝦夷(にぎえびす)と呼んでいます。ここに連れてきたのは熟蝦夷で、毎年朝廷に貢ぎ物を奉っています』と答えた。また『五穀はあるのか』と尋ねた。『そういうものはありません。肉を食って暮らしています』と答えた。そこでまた『その国に屋舎はあるのか』と尋ねたので、『それもありません。深い山の樹木のもとで暮らしています』と答えた。云々」とある。五穀がないというのは、蝦夷の本国(北海道)のことである。今もそうだ。ところが「遠いところにいるのを都加留、云々」というのは、陸奥や出羽にいる蝦夷を言っているようだ。とすると麁蝦夷、熟蝦夷も陸奥、出羽にいた蝦夷で、その中で遠いとか近いとかいうことだろう。】天武の巻に「十一年(三月)、陸奥国の蝦夷二十二人に爵位を与えた。同年(四月)、越の蝦夷伊高岐那(いこきな)らが俘囚七千戸(正しくは七十戸)を、一つの郡にしたいと申し出た。これを許した」などとある。その後にも、陸奥・出羽の蝦夷たちが時折背いて、荒れたことが代々の記録に出ている。【和銅二年、陸奥。越後の蝦夷が暴れたことがある。越後は後の出羽である。養老四年に陸奥の蝦夷が背き、按察使を殺した。宝亀五年、また同十一年、陸奥国上治郡の大領だった伊治公(いちのきみ)呰麻呂(あざまろ)が反逆して按察使を殺した。この呰麻呂は夷俘の種だという。蝦夷の子孫である。延暦七年以後、蝦夷の蜂起が続いて、長い間静まらなかった。このときに坂上大宿禰田村麻呂に軍功があり、元慶二年に出羽の夷俘が背いたのを、翌年平定した。】だが陸奥や出羽の蝦夷は次第に数が少なくなり、ついには残った者がなく、津軽の端まで良民ばかりになった。【これらの二国で蝦夷が絶えただけでなく、近世ではその蝦夷の本国内の松前までが皇国の地になった。このように陸奥や出羽の蝦夷がきれいさっぱりいなくなったのは、皆殺しにしたわけでもなければ、本国に追い返したわけでもない。ただいつの間にかいなくなったのだ。なぜかと言うと、陸奥の蝦夷、越の蝦夷というのは、もとはその本国から渡って来たのだが、それだけではなくて、内地に住み着いて生まれた子も、蝦夷の子は何代経っても蝦夷だった。そのため、その二国では数が多く、栄えていた。しかしそのうちに皇国の女性を娶って生んだ子、またその子も同じようにして、三、四代も経つと、次第に顔形も変わり、ついには皇国の人と同様になっただろう。今の世でも、蝦夷の富裕な者などは、松前の貧賤の女を嫁にすることがあり、その生んだ子は鬚などもやや短く少なくて、全くの蝦夷とは姿が違うという。いにしえもそれに倣って考えるべきだ。しかしいにしえには、姿は皇国の人になっても、蝦夷の子は蝦夷と言い、俘囚といったのだが、やや後になるとその決まりも厳密でなくなった。また上代のように、本国から思いのままに渡ってくることもできなくなったから、おのずと絶えて、みな皇国人になったのだ。今の世でも南部と津軽には蝦夷と称するものがいくらかいるらしい。これも顔形などは、皇国人とあまり違わないという。この蝦夷の本国のことについては、書かれた本が新井氏の蝦夷志など、幾つかあるが、いにしえに陸奥・出羽にいた蝦夷のことは、その由縁や始終を詳しく言った者がない。そのため詳細に述べたのである。】○足柄之坂本(あしがらのさかもと)。和名抄に「相模国足柄上【あしがらのかみ】郡、足柄下【前記と同様】郡」とあって、【古い本には上下郡とも「柄」の字がない。たぶんそれが正しいだろう。すべて諸国の郡や郷の名は、二字に書く定めであるから、字を省いて書いた例が多い。それを省かず、三字にも書くのは、その国だけの私事である。そういう例もまた多い。】下の郡には足柄【あしがら】郷もある。万葉巻三【四十丁】(391)に「鳥總立、足柄山爾、船木伐(とぶさたて、あしがらやまに、ふなききり)」、巻七【十五丁】(1175)に「足柄乃、筥根飛超、行鶴乃(あしがらの、はこねとびこえ、ゆくたづの)」、巻九【三十二丁】(1800詞書)に「足柄の坂を過ぎて云々」、巻十四【五丁】(3361)に「安思我良能、乎弖毛許乃母爾(あしがらの、おてもこのもに)」、また【六丁】(3364)「安思我良能、波姑禰乃夜麻爾(あしがらの、はこねのやまに)」、また【七丁】(3371)「安思我良乃、美佐可加思古美(あしがらの、みさかかしこみ)」、巻廿【二十七丁】(4372)に「阿志加良能、美佐可多麻波理(あしがらの、みさかたまわり)」、また【四十丁】(4423)「安之我良乃、美佐可爾多志弖(あしがらの、みさかにたして)」、また【四十四丁】(4440)「安之我良乃、夜敝也麻故要弖(あしがらの、やえやまこえて)」などがある。巻十四では(3369)「阿之我利(あしがり)」と詠んだ歌もある。後の歌には関を詠んだものが多い。この山は駿河と相模の境界である。東国の道は、今は箱根を越えているが、いにしえは足柄を通るのが主要な道だった。ここは甲斐の国に行く道だからなおさらだった。【この道は、相模からこの坂を越えて、藤野東の麓を通って甲斐に出る道である。】坂本は、相模から上る道である。○食御粮は「ミカレイきこしめす」と読む。穴穂の宮(安康天皇)の段にも「山代の苅羽井(かりばい)に到って御粮(みかれい)を食(きこしめ)す時に」とある。【その箇所もここも「みおしす」と読むのも理に合っているが、特に「粮」という字を書いているのだから、やはり「みかれい」と読むべきだろう。書紀では「食」、「飲食」、「進食」などを「みおしす」と読んでいる。】新撰字鏡に「チョウ(米+長)は『かれい』」、【爾雅に、「チョウ(米+長)は糧」とある。】和名抄には「四聲字苑にいわく、餉は食を人に贈ることである。『かれいおくる』、俗に『かれい』という」、【餉を「かれいおくる」と読むのはその通りだが、単に「かれい」と読むのはおかしい。】また「考聲切韻にいわく、糧【この字は粮とも書く。】は旅に行く時のセイ(囊のワかんむりの下を貝に置き換えた字。もたらす)米のことである。また食を儲けるともいう。和名『かて』」とある。万葉巻五(888)に「都禰斯良農、道乃長手袁、久禮久禮等、伊可爾可由迦牟、可利弖波奈斯爾、一云可例比波奈之爾(つねしらぬ、みちのながてを、くれくれと、いかにかゆかん、かりてはなしに。あるいは、かれいはなしに、という)」とある「かりて」は「かれいて」が縮まったのである。【「れい」は「り」に縮まる。】「かれいて」とは「かれい(食事)」の料ということだ。【「かれい」にする米という意味である。「かれい」の代価ということではない。】「かて」は「かりて」の「り」を省いたのだから、【「り」を省くのもよくある。】これも同じ「かれいて」である。「かれい」は「乾飯(かれいい)」で、旅に行く時には飯を乾して持って行くのだ。これが転じて、乾したものでなくても、旅先で食う飯を「かれい」と言う。古今集【旅の部の詞書】(417の詞書)に「但馬國の湯へまかりける時に、二見浦と云所にとまりて、夕去(ゆふさり)のかれいひたうべ(食べ)けるに云々」、伊勢物語に「其澤の邊(ほとり)の木の陰におりゐて、かれいひ食けり」などがある。和名抄の行旅の具に「漢語抄にいわく、ルイ(木+累)子は『かれいけ』【思うに、破子は『わりご』、蒋魴の切韻にいわく、ルイはルイ子の中の障害になる器(弁当箱などの中の仕切り)である。】」とある。【「け」は「笥」のことである。今の世に言う弁当なども「かれい」である。】○坂神(さかのかみ)は、この次にも「科野之坂の神」とあるのと同様である。○白鹿は「しろきか」と読む。和名抄に「鹿は和名『か』」とある。【鹿は「か」と読むのが正しい。だから万葉巻の歌を考えるにも、「鹿」の一字を書いてあるところは、どれも「か」と読むべきなのに、今の本にみな「しか」と訓を付けているのは誤っている。「しか」と読むと、どれも句の調子が良くない。注意すべきである。「しか」というところでは、「牡鹿」と書いてある。とすると、「しか」という名称は、牡鹿に限ると思われる。「しか」という所で「鹿」の一字だけを書いてあるのは、集中にいくつもない。和名抄に「牡鹿は『さおしか』、牝鹿は『めか』、麑は『かご』」とある。また「かのしし」と言うのも、「猪(い)」を「いのしし」と呼ぶのと同じで、「か」というのが本来の名だからだ。その他、地名や借字でも「鹿」の字は「か」という音に用いる。これはそれが正しい名だからだ。ところが「かせぎ」と言うのを古名と思って、書紀などでもそう読んでいるのは、かえって間違っている。何でも普通の言葉と違い、耳慣れない言葉を古言だと思うのは誤りだ。鹿を「かせぎ」と言ったことも、その通りの形で書物に出ていることはない。それは春日に祭る神の、鹿島の神が東国から大和にやって来た時のことを伝える話に「かせぎに乗って」という例があるだけであり、これも「父母」を「かぞいろは」と言うのと同じたぐいである。】書紀の仁徳の巻に「白鳥の陵守の目杵(めき)という者が、突然白い鹿になって走り去った」という事件もある。白鹿は普通にない珍しいものとされる。【書紀の仁徳の巻には、上毛野の臣の祖、竹葉瀬(たかはせ)が新羅へ行く途中に白鹿を捕らえ、帰国後に奉ったこと、また推古の巻に越の国から白鹿を献上したことが出ている。】○來立は「きたちき」と読む。万葉巻五【卅丁】(892)に「寝屋度麻デ(イ+弖)、來立呼比奴(ねやどまで、きたちよばいぬ)」とある。○咋遺之は、師が「みおしののこりの」と読んだのが良い。○蒜(ひる)は、和名抄【葷菜(くんさい)類】に「唐韻にいわく、蒜は葷菜である。和名『ひる』、楊氏の漢語抄にいわく、蒜の顆は『ひるさき』【思うに、顆は小頭(花か)を言うのだろう。】」、また「大蒜は和名『おおひる』、小蒜は和名『こひる』、あるいは『めひる』とも言う。獨子蒜は和名『ひとつひる』、澤蒜は和名『ねひる』」などと見える。明の宮(應神天皇)の段の歌に「伊邪古杼母、怒毘流都美邇、比流都美邇(いざこども、ぬびるつみに、ひるつみに)云々」とある。【「怒毘流」は野蒜である。】○打殺は「うちころさえたりき」と読む。この段は書紀では【甲斐の酒折の宮の一件の後にあり、】信濃の坂でのこととしている。伝えが異なっている。その文によると「山中で食事をしていると、山の神が王を苦しめようとして、白鹿に姿を変えて王の前に立った。王はこれを怪しんで、一切れの蒜で白鹿を討つと、それが眼に当たって死んだ。すると王は、道を見失ってしまった。どこへ進めばよいのか分からない。その時、白い犬が出現して王の道案内をしようとする様子なので、その犬について行き、やっと美濃に出ることができた。そこへ吉備武彦が越から出てきたのに遭遇した。それ以前は、信濃の坂を越えようとする者は、神の息吹に当たって病み臥すことが多かった。この白鹿を殺して後、この山を越える者は蒜を噛んで人や牛馬に塗りつければ、神の息吹に当たらなくなった」とある。○登立(のぼりたち)。書紀の継体の巻の歌に「美母慮我紆陪爾、能朋梨陀致、倭我彌細麿(みもろがうえに、のぼりたち、わがみせば)」【「彌細麿」は「見しすれば」ということで、「見れば」という意味だ。】万葉巻一【七丁】(2)に「天乃香具山騰立、國見乎爲者(あめのかぐやまのぼりたち、くにみをすれば)」、また【十九丁】(38)「高殿乎、高知座而、上立(たかどのを、たかしりまして、のぼりたち)」などの例がある。○三歎は「ねもころになげかして」と読む。【「三」は字の通り「みたび」と読んでも悪くないが、古言で嘆いた回数などを言ったことはない。漢籍では何であれ丁寧(ねもころ)に反復するのを「三(みたび)〜」などと言う。「三思」、「三省」などだ。「三歎」は特によく言う言葉だから、ここでもその言い方をしただけで、三回嘆いたなどということではないだろう。】返す返す嘆いたことを言う。上巻の海神の宮の段に「大一歎(おおきなるなげきひとつ)」とあった。【それは「一」を「ひとつ」と読んだ。その理由はそこで言った。】「歎」のこともそこで説明した。【伝十七の三十三葉】○阿豆麻波夜(あづまはや)。書紀では「吾嬬者耶」と書いて、「嬬は『つま』と読む」と注がある。「あがつま」と言うところを「あづま」と言うのは、「己(おの)が妻」と言うのを万葉巻十四(3571)に「於能豆麻(おのづま)」【他の巻で「自妻」、「己妻」などと書いてあるのもこう読む。】と言っているのと同様である。「吾君(わがきみ)」を「あぎみ」と言うのも同じだ。書紀の仁賢の巻に「弱草吾夫カ(りっしんべん+可)怜矣(わかくさのアガツマはや)」とあって、「吾夫カ怜矣、これを『あがつまはや』と読む」と訓注がある。【これが正しいなら、書紀ではここの「吾嬬」も「あがつま」と読むのだろうか。同じことである。】「はや」は何かを思って深く嘆く辞である。【書紀に「者耶」と書いてあるのは当たらない。「は」も「や」も嘆きの言葉であって、「吾夫カ怜矣」と書いたのも正確ではないが、「者耶」よりは近い。<訳者註:「者」は主格の助詞、「〜は」の「は」の意味に使われるので、感嘆の「は」に用いるのは不適当という意味>】「はも」と似ているが、「はも」よりも重いように聞こえる。【ただ「はも」は、「どこに」と探し求めている気持ちがあるが、「はや」はそうは聞こえない。】水垣の宮(崇神天皇)の段に「美麻紀伊理毘古波夜(みまきいりびこはや)」とあった。またこの段で後に「都流岐能多知、曾能多知波夜(つるぎのたち、そのたちはや)」とある。書紀の允恭の巻には「宇泥灯b椰、彌彌巴椰(うねめはや、みみはや)」、雄略の巻の歌に「伊比志タ(てへん+施のつくり)倶彌ハ(白+番)夜、阿タ羅陀倶彌ハ夜(いいしたくみはや、あたらたくみはや)」、出雲国風土記に「伊農波夜(いぬはや)と言った」、【「伊農」は夫神の名で、こう言ったのは女神である。】拾遺集六(351)に「君が住(すむ)屋戸(やど)の梢の行々(ゆくゆく)と、隠るゝまでに顧(かえりみ)しはや」、源氏物語の須磨の巻に「いざりせむとは思はざりしはや」【この他にも多い。】などがある。【白檮原の宮の段に「和禮波夜惠奴(われはやえぬ)」とあったのは、「波」は「者(主格の『は』)」で、「夜(や)」は「よ」の意味である。推古紀の皇太子の歌に「枳彌波夜那祗(きみはやなき)」、万葉巻七(1390)に「年はやへなむ」、巻九に「吾はや戀(こひ)む」、これらの「はや」の「は」は「者」、「や」は疑問の辞である。どれも嘆きの「はや」とは違う。】この言葉は、海に入った弟橘比賣命を思って、こう嘆いたのである。海であれ坂であれ、どこかの国境を去って行く時は、別離の情がよみがえり、嘆きにとらわれるものだろう。万葉巻十五(3730)に「加思故美等、能良受安里思乎、美故之治能、多武氣邇多知弖、伊毛我名能里都(かしこみと、のらずありしを、みこしじの、たむけにたちて、いもがなのりつ)」、【「多武氣(たむけ)」は手向けで、坂の上を言う。俗に「峠(旧仮名タウゲ)」と言うのは「たむけ」を訛ったのである。】○註<自レ阿下五字以レ音也。>の「也」の字は、師は誤りだと言った。確かにそうかも知れないが、ところどころそういう例がないでもない。○「號2其國1謂2阿豆麻1也(そのくにをあづまとはいうなり)」。「その国」とは、細かく言うと相模国を指して言う。弟橘比賣命が死んだのは、相模の海だったからだ。だが広く言うと、この足柄山より東の国々全体を言う。【「其國」と言うとどこか一国を指しているようだが、都から見ると、山の東にある国々を総称して「その国」と言っても良いだろう。】書紀に「そこで山の東の諸国を『吾嬬』と言う」とあるように、いにしえも今も、東方の国々を広く「あずま」と呼ぶ。この段のことは、書紀には「蝦夷どもを平げて日高見の国から帰って、西南に常陸を通り、甲斐の国に到って酒折宮(さかおりのみや)にしばらくいた。・・・そこで日本武尊は『蝦夷の凶(わる)い人どもは皆(天皇に)従った。ただ信濃国と越の国は、まだ服従していない』と言い、甲斐から北に転じて、武藏・上野を経て碓日坂(うすひのさか)に到った。その時、日本武尊はことあるごとに弟橘媛のことを思い出していた。そこで碓日嶺に登って東南の方角を望み、深く嘆いて『吾嬬者耶(あがつまはや)』と言った。それで山東の諸国を『吾嬬國』と言う。ここで道を分け、吉備武彦を越の国に遣わし、その地形や険しさ、人々が(天皇に)帰順しているかどうかを調べさせた。日本武尊は信濃に進み入った」とある。この記とは違う点が多い。その違いというのは、まず道筋が、この記では蝦夷を平定して帰り、相模から足柄山を越えて甲斐に入り、そこから信濃を経て尾張に帰ったとあり、国の順序もよく実際に合っているが、書紀では「常陸を経て甲斐に入った」とあり、その後「甲斐から北に転じて、武蔵・上野を経て碓日坂に到った。・・・信濃に進み入った」とあって、道順が実際に合っていない。【というのは、常陸から甲斐に行くには途中に武蔵もあり、相模もあるのに、それを言わないで単に「常陸を経て甲斐に入った」と言うのでは、この二国が続いているように聞こえ、どうかと思う。「常陸・武蔵を経て」などと言うべきだろう。もっとも常陸だけを言ったのは、日本武尊の歌にその国の地名があるためかも知れない。だがまた甲斐から信濃へ行くのに、武蔵・上野を通って行くのは、道順がたいへん違っている。あるいは武蔵や上野にも反逆する者がいて、それを平定しに行ったのか。それならそのことを言うべきだろう。何も言わなかったら、理由がないように聞こえる。たぶんここは「常陸・武蔵・上野を経て碓日坂に到った」とあったのが、伝えが紛れて前後が入れ替わっているのだろう。】また上記のままなら、甲斐に入ったのも、どういう理由からか分からない。【この記の記述なら常陸→武蔵→相模→甲斐→信濃という順路だが、書紀ではそうでないからだ。もし上記のように常陸・武蔵・上野を経て碓日坂を越え、信濃に到ったとすると、甲斐に行くにはその後信濃から別途行ったとしようか。しかしそれでは後の歌の「九夜十日」の日数が足りず、あまりにも早い移動である。とにかく甲斐に行ったことは、何ら理由がないように聞こえる。】またその嘆きの言葉があった場所も、足柄と碓日の違いがあり、これはどちらが正しいとも決めかねる。上野国に吾妻【あがつま】神社があるから、碓日の方が正しいかも知れない。【一般に郡の名などは非常に古いもので、何らかの由縁があることだからだ。碓日の方が正しいとすると、この記に「その国を阿豆麻と言う」とあるのも、この吾妻郡によく当たり、後の文に「東国造」とあるのも、この郡の地のことと考えられる。だがこの国造についても郡名についても、別の考えがある。それは後の国造のところで言う。】しかし、書紀のような順序であれば、「吾嬬」の嘆きがずいぶん遅くなって、場面に似つかわしくない。【というのは、常陸から甲斐に行くには、足柄であれ他の道であれ、まず山を越えたわけだろう。甲斐国都留郡の丹波(たば)山というのは武蔵の多麿(たば)川の源で、武蔵から甲斐へ越える道である。今は大菩薩通りと言う。国人は「昔、倭建命がこの国に入った道だ」とも言い伝えている。いずれにしろ、武蔵あるいは相模からは、この山を越えなければならないから、あの嘆きの言葉は、この時にこそ発せられたのだろう。国境を越える時には何も言わず、ずっと後に碓日坂で嘆いたというのは、ずいぶん間延びしているではないか。しかも相模の海で亡くなった妻を偲んで言ったのだから、足柄で言うのこそ似つかわしく、後に上野の西にある碓日で言ったのでは、かなり縁遠いような感じもある。ただし前述のように道順が常陸・武蔵・上野を経て碓日坂に到ったとするなら、なるほど碓日坂はこの嘆きがあった場所に当たるだろう。】とにかく決められない。万葉巻十二(3194)に「氣緒爾、吾念君者、鷄鳴東方坂乎、今日可越覧(いきのおに、あがもうきみは、とりがなくあづまのさかを、きょうかこゆらん)」、この「東方坂」も足柄か碓日か分からない。

 

即自2其國1越出2甲斐1。坐2酒折宮1之時。歌曰。邇比婆理。都久波袁須疑弖。伊久用加泥都流。爾其御火燒之老人續2御歌1以歌曰。迦賀那倍弖。用邇波許許能用。比邇波登袁加袁。是レ以譽2其老人1。即給2東國造1也。

訓読:すなわちそのくによりこえてカイにいでて、サカオリのミヤにましましけるときに、うたいたまわく、「ニイバリ、ツクハをすぎて、いくよかねつる」。ここにそのミヒタキのおきなミウタをつぎて、「かがなべて、よにはここのよ、ひにはとおかを」とぞうたいける。ここをもてそのオキナをほめて、アヅマのクニのミヤツコにぞなしたまいける。

歌部分の漢字表記(旧仮名):新治、筑波を過ぎて、幾夜か宿(ね)つる
夜には九夜、日には十日を

口語訳:その国を越えて甲斐に出た。そこで酒折宮にしばらく滞在し、歌って「新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことだろう」。するとたき火の番をしていた老人が歌を継いで、「全部合わせると夜は九夜、昼は十日になります」と歌った。それが当意即妙だったので老人を賞め、東国の国造に任命した。

甲斐の名の意味は山峡(やまかい)だろうという説が良い。「かい」は「間(あい)」と同じだ。○出(いで)は、前の文に「入幸(いりまし)」とあるのが向こうへ進んで行くのを言うのに対し、こちらへ帰ることを言う。○酒折宮(さかおりのみや)。名の意味は分からない。【あるいは「坂折」の意味だろうか。「酒折」というのが文字の通りの意味なら、「八鹽折之酒(やしおおりのさけ)」というのもあるから、「折」というのは酒を造ることを言う語か。記中には「酒折の池」というのもある。これは上記の「八鹽折之酒」のところ、伝九で言った。この地名が酒を造ることに因むのだったら、初めにそういう由縁があったのだろう。】今、山梨郡に酒折村があり、酒折天神という社がある。【甲府の東十町ほどのところである。私の友人で甲斐の国の人、萩原元克が書いた甲斐名勝志には、「酒折天神は、倭建命が東夷を征伐した時、この地に行宮を建てて住んだところである。祭神はすなわち倭建命である。また八幡の社もある。昔の宮の跡を今では『古天神(ふるてんじん)』と呼ぶ」とある。】○坐(ましまして)というのは、しばらくとどまったことを言うのだろう。【そうでないのなら「到って」などと言うだろう。また「宮」という名を付けたのも、しばらくそこにいたからだろう。】○邇比婆理都久波袁須疑弖は「新治・筑波を過ぎて」ということだ。和名抄に「常陸国新治【にいばり】郡、新治郷」、「筑波【つくば】郡、筑波郷」がある。延喜式神名帳には筑波神社もある。仙覺の万葉抄に「常陸国風土記では『にひばりの国』、『つくはの国』などと言う」とある。万葉巻九【二十三丁】(1757)に「筑波嶺爾、登而見者・・・新治乃、鳥羽能淡海毛、秋風爾、白浪立奴(つくはねに、のぼりてみれば、・・・にいばりの、とばのおうみも、あきかぜに、しらなみたちぬ)云々」とある。他にも筑波山の歌は巻々にたくさん見え、後の歌集などにもよく出てくる。【筑波の「波」を普通濁って読んでいるのは間違いである。古い書物では、いずれも清音の「波」を書いてある。】書紀に「蝦夷どもを平げて、日高見の国から帰って、西南に常陸を通り、甲斐の国に到って」とあるように【ここに武蔵や相模を挙げないで、「常陸を通り」と、かなり遠い地を書いているのは、この歌に新治・筑波を詠んだ由縁をはっきりさせようとしたのだろう。】常陸国を経てきたのであれば、その新治・筑波を過ぎてから、ということだ。【契沖の厚顔抄の説も同様だ。だが別の考えを言うなら、「にいばり」は筑波に続けるための枕詞かも知れない。そう考えるにも二通りある。新墾(にいばり)の田を「つくる」という意味か。また万葉巻十二(2855)に「新治今作路(にいばりのいまつくるみち)」、巻十四(3399)に「信濃道者伊麻能波里美知(しなぬじはいまのはりみち)」などがあって、道を作るのも「筑(つく)」と言うから、新治の道を「つく」と続けたのかと言うのは、二つとも良くない。師の冠辞考に「新墾・筑波という地名を『新毬(にいまり)をつく』と言い換えて、その次の句を鞠をついた数のこととして詠んだのだ」という説を述べているが、はるか後世の歌ならそういう技巧もあるとしても、このように古い時代にそこまでの意味を歌い込むことはありそうにない。それに毬を「つく」と言ったかどうかも疑わしい。また和名抄には新治郡に月波郷というのがあり、「つきは」という「き」は「く」の誤りで、「都久波」とは実はこの郷を意味し、「新治の月波」ということかとも考えたが、やはり良くない。新治、筑波の二箇所である。】ところで、陸奥国から甲斐までの間には、多くの地を経てきただろうに、特にこの二箇所を挙げたのは、理由があることであろう。【その理由は分からない。】常陸国風土記には「倭武尊は東夷の国を狩りをして巡り、新治の縣を通り過ぎ云々」とある。○伊久用加泥都流は「幾夜か宿(ね)つる(何夜寝たことだろう)」である。「何日経っただろう」と言わず、「何夜寝ただろう」と言うのは、およそ日数を言うのに「幾夜寝て」と言うことが昔も今も普通【子供などは「幾つ寝て」などとも言う。】だが、旅では特に夜の宿りの回数で数えることが多い。【「幾夜泊まりで行く」など、俗にも言う。契沖は「幾夜かと言っているが、実は幾日かと言っているのだ。これに続く句の最後の句に注意せよ」と言ったが、良くない。】ところで「幾夜寝ただろうか」というのは自分で思うことだが、最後の「つる」というのは、人に問いかける言葉である。こう詠んだのは、新治・筑波あたりに、特に思い出すことがあったのだろう。○御火燒之老人は「みひたきのおきな」と読む。甕栗の宮(清寧天皇)の段にも「焼火小子(ひたきのわらわ)」とある。上代には、夜の明かりによくたき火を用いていた。後世にもいわゆる「衛士(えじ)の燃(た)く火」【宮衛令に「およそ理門は、夜になると火を燃く」とあり、義解に「内、および中、外の門は、みな衛士が火を燃く」とある。左右衛門式に「宮の門は、衛士に火を燃かせる。閤門も同じ」とある。】神社の庭火、【火炬屋(ひたきや)というのもある。】篝火など、みな明かりのためで、いにしえの習慣が遺ったのである。【上代には屋内でもたき火を用いていた。だから前記の甕栗の宮の段にある「焼火小子」も「竈の傍にいる」とある。竈とは、そのたき火をする炉のようなものを言う。飯などを炊く竈ではない。それを書紀でここもその「焼火小子」も共に「秉燭者(火ともし)」と書いているのは、漢文めかすために改めて書いたもので、実際とは違っている。「秉燭者」だと竈の傍にいることはない。書紀はそういうことがたいへん多い。注意すべき点である。】○「續2御歌1(みうたをつぐ)」とは、上記の三句【五七五】は、この次、また高津の宮(仁徳天皇)の段で「片歌」とも呼び、実際歌の半分のようなものである。このことは、次の「片歌」のところで言う。伝廿八の五十四葉」そのため書紀にもここを「王の歌の末に続けて」と書いてある。この続けた歌と合わせて、完全な歌のようになるのである。【二つを合わせると旋頭歌というものになる。】特にこの歌は「幾夜か宿(ね)つる」と問いかけているから、それに続けて答えにしたのだ。甕栗の宮の段にも「志毘臣(しびのおみ)が『意富美夜能、袁登都波多傳、須美加多夫祁理(おおみやの、おとつはたで、すみかたぶけり)』、こう歌ってその歌の続きを乞えば、袁祁命(おけのみこと)が『意富多久美、袁遲那美許曾、須美加多夫祁禮(おおたくみ、おじなみこそ、すみかたぶけれ)』と続けた」とあるのも同じようなことである。この他にも三句の歌で問いを出し、またそれに続く句で答えたのが、記中には幾つか例がある。万葉巻八(1635)に「尼が頭句を作り、大伴宿禰家持が、尼に答えて続けた歌、『佐保川の水をせき上(あげ)て植(うゑ)し田を【尼作】、刈(かる)早飯(わさいひ)は一人なるべし【家持続く】』」などがあるのは、通常の五句【三十一文字】を本末に分けて、二人で合作したのが見えた初めである。【だからこの「邇比婆理都久波」の歌の問答を連歌の初めとして、後世もそれを「筑波の道」とさえ言っている。三句の歌で問い、答えた例は、~武の巻にもあるのだが、それを取らないでここの例を取るのは、書紀ばかり知って、この記の歌を知らないのだろうか。ただし「その歌の末に続けて」という言葉があるから、これを初めとするのももっともではある。】○迦賀那倍弖(かがなべて)は「日々(かが)並べて」である。「か」は二日、三日、幾日(いくか)などの日(か)で、日数を数える数詞である。それを「かが」と重ねたのは「日々(ひび)」、「夜々(よよ)」などと言うのと同じだ。この「か」は、「氣長(けなが)く」などと言う「氣」とも通音で、同じ意味である。そのことは上巻に「日八日、夜八夜」とあったところ【伝十三の五十二葉】で言った。日数を数えるのに「幾日(いくか)」と言うのは、昼夜を合わせて言う。【「幾日(いくか)の日」、「幾日の夜」などと言うのも、「か」は夜も兼ねて言うのだ。ただし夜を「幾夜」と言うのに対しては、昼を「幾日」と言う。それは日数に関しては昼を主とするからで、昼だけを言うにも使う。】「那倍弖(なべて)」とは、新治や筑波を過ぎてから、今日までの日数をすべて数え上げればということである。【「おしなべて」というのも「すべて」と同意である。やはり全部並べ上げて総数を言う。】万葉巻三【十七丁】(263)に「氣並而(けならべて)」、【今の本に「いきなめて」と読んでいるのは誤りである。】巻六【十一丁】(916)に「日不並二(ひならべなくに)」、【これも訓を誤っている。】巻八【十五丁】(1425?)に「日並而(ひならべて)」、巻廿【四十五丁】(4442)に「我が背子が、屋戸(やど)の撫子(なでしこ)、比奈良倍弖(ひならべて)、雨はふれども、色も變はらず」、巻十一【二十八丁】(2660)に「夜並而、君乎來座跡(よならべて、きみをきませと)」などとあるので理解せよ。【ただ万葉にあるのは、みな「日を重ねて」、「夜を重ねて」という意味だから、こことは言い方が少し違うようだが、煎じ詰めれば同じことである。ここも「日々を重ねて」と解釈しても同じ意味になるからだ。この句の解釈は、昔からみな誤っている。契沖は「物を数えるには、指をかがめて(折って)数えるものだから、『かがめ』の下を省いて言ったか、または『考え(こうがえ)なべて』と言ったものか。万葉巻一(4)に『馬なべて』と言うのを『數而(なべて)』と書いてあるから、『なべて』は数えることだ」と言ったのも間違いだ。指を折って数えることなら、「指」ということを言わなければ分からない。何をかがめるのか言わず、ただ「かがめる」と言っても、どうして指を折ることになるだろう。万葉巻八(1537)にも「指折可伎數者(ゆびおりかきかぞうれば)」と詠んでいる。また「かが」を「かうがえ」と言ったのも納得できない。日数を数えるのに「考え」は似合わない。万葉を引いて「なべて」は数えることだというのは、なるほどと思う。しかしこれも「日々(かが)數而(なべて)」と解すれば、もっと明白だろう。また師は「かがなべ」ということを即ち「考え」ということと解釈して、自分の書く文にも「考え」をことさらに「かがなべ」と書いたのは誤りである。もともと「考え」を「かがなべ」と書いた例もなく、前述したように「考える」ということは、数えることには似つかわしくない。契沖が「考(かが)數而(なべて)」と解釈したのは、まだ「考え」という言葉には軽い意味しかないが、ただ「考え」とだけ言ったのでは、「数える」ことには聞こえないだろう。ところでここにはあまり関連がないが、人がよく迷うことだから、ついでに触れておこう。「考え(旧仮名カムカヘ)」は、「カ」は「か易い」、「か弱い」、「か依る」などの「か」(接頭語)で、「ムカヘ」は「対(むか)え」のことだ。それは、あれこれと相対して、思い巡らすのである。だから元は「カムカヘ」と「む」を確かに発音し、下の「か」も清音に言ったのだが、中昔以降はあるいは「こうがえ(旧仮名カウガヘ)」、あるいは「かんがえ」などと言うようになったのは、いずれも音便に崩れた形である。】○用邇波許許能用(よにはここのよ)は、「夜には九夜」である。○比邇波登袁加袁(ひにはとおかを)は「日には十日を」である。末尾の「を」は「よ」と言うような意味である。古い歌には、この「を」という辞の例が多い。【契沖が「『を』と言うのには『過ぎた』という意味が含まれている」と言ったのは「十日を過ぎたり」という意味に取ったのである。それはいにしえの意味合いではない。】上巻の「阿那邇夜志、愛袁登古袁(あなにやし、えおとこを)」のところ【伝四の三十葉】で言った通りだ。「夜は」、「日は」と言うところを「夜には」、「日には」と言っている「に」は、現在の目から見ると奇異な感じがするだろうが、いにしえにはこういう言い方もしたのだろう。また万葉巻十三【十五丁】(3274)に「朝庭丹、出居而嘆、夕庭、入居而思(あさにわに、いでいてなげき、ゆうにわに、いりいておもい)」、巻十七【二十一丁】(3957)に「安佐爾波爾、伊泥多知奈良之、暮庭爾、敷美多比良氣受(あさにわに、いでたちならし、ゆうにわに、ふみたいらけず)」などとある「朝庭」、「夕庭」になぞらえて考えると、あるいは「夜庭」、「昼庭」なのかも知れない。(「庭」は旧仮名「ニハ」)それなら「夜庭に伺候すること九夜、昼庭に伺候して十日」と言ったことになる。【後世のいわゆる上日、上夜(出勤日数)のようなものだ。】万葉巻十三【四丁】(3230)に「朝宮仕奉而(あさみやをつかえまつりて)」、【これは朝に宮仕えしたのを「朝宮」と言っている。】巻二【三十二丁】(196)に「朝宮乎(あさみやを)・・・夕宮乎(ゆうみやを)」【これは「朝宮・夕宮に仕える人たちを」ということである。】ともある。この老人は、ここで火を燃やして夜庭に伺候しているので、新治・筑波から今いるところまで、夜昼伺候して務めた自分の労力を思って答えたとするのも似つかわしいだろう。昼が十日なら夜も十夜になるだろうが、九夜と言ったのは、この時まだ宵の口だったので、その夜は数に入れていないのだろう。○「譽2其老人1(そのおきなをほめて)」は、即座にこの歌を付けたのを賞めたのである。また夜庭・昼庭という考えが正しいとすると、その勤労ぶりについても賞めたのかも知れない。○給東國造也は「あずまのくにのみやつこにぞなしたまいける」と読む。【文字のままに「東国造を給う」と読むのは漢籍読みで、古言の言い方ではない。】これは東方諸国の中の一国の国造にしたのだが、その国の名は伝わっていない。単に広くこの話を語り伝えたのだ。【「東(あずま)」という名の国があって、その国造にしたというのではない。もしそういう名の国があったというのなら、前に「阿豆麻」とあるように、ここも「阿豆麻の国造」と書くのがこの記の通例であって、「東」と書いてあるからには、東国を広く指していることは明白だ。だが前述の嘆きの地を碓日坂だったとすると、この「東の国」というのも上野の吾妻郡のことになるだろう。】もう一つの考えとして、この老人が常陸から甲斐まで、夜昼怠らず勤めて、東方の国々をともに遍歴してきた功労によって、「東国造」という名を与えたのだったか。【「給う」と書いてあるのも、他の「為2某国造1」という書き方と違い、何か理由があるように聞こえる。しかし称え名を与えた例からすると、「給」の字の下に「號」の字などが脱けているのではないか。「譽(ほめて)」と言うのは、このように誉め讃えた名であったから言った可能性がある。そうならば、上野の国の吾妻郡はこの老人に与えた国であり、その際「東国造」という称え名も与え、そういう名を賜った人が治めた国だったから、後に「吾妻」という地名になったのかも知れない。とすると、嘆きの地を碓日坂だったとする伝えは、上野国にこの由縁による「吾妻」という地名があるので、足柄と取り違えて碓日と伝えたのかも知れない。ある人はこれを難じて、「東方諸国を『あづま』と言うのは、この倭建命の嘆きの言葉によって、後に言い出したのだ。それをここでこの老人に『東国造』と名付けたと言うのはおかしいだろう。その当時まだ『あづま』という言葉はなかったはずだ」と言った。私の答え。「『阿豆麻波夜』と言って、あの比賣命を忘れず、恋い偲んだ心からして、彼女が亡くなった東方を遙かに望んで、一人の時にも『我が妻の国よ』と呼んでいたかも知れないし、そういう名は当時はなく、後世に初めて言い出したことと断ずることはできない。またこの老人にそういう名を与えたのは、王が悲しく思い出す愛妻の亡くなった、東の国の国造という意味合いで、ことに親しみをこめた名だったのだ」。】書紀によると、「酒折宮にいた時、燭をかかげて食事をした。この夜、歌で侍者に問いかけて、・・・【この歌はこの記と全く同じである。】誰も答えられずにいた時、秉燭者(火灯せる者)が王の歌を継いで歌って、・・・【この歌もこの記と全く同じである。】そこでその秉燭人の聰いことを篤く賞めた。その宮にいて、靭部(ゆぎべ)を大伴連之遠祖武日に与えた。【師の冠辞考で前記の「新毬つく」という説を上げた後、「単に遍歴してきたところどころで宿を取った日数を尋ねているのだから、誰も歌で答えることはできなかったのだ。ただこの老人だけは手毬をつく回数を歌に仕立てて続きにすることができたから、賞めたのである」と言ったのは、後世の歌に対するような解釈である。単に日数を答えただけであっても、その歌が良くできていたら、賞めないわけがあろうか。この歌を「毬」の意味が含まれなければ、さして賞めることもないというなら、この記や万葉の歌の多くは捨てられて、顧みる人もないだろう。書紀に「誰も答えられなかった」とあるのは、この老人を賞めたとあるので、撰者が加えた文だろう。この記にこの言葉はない。またそれが古伝のままの言葉だったとしても、この場面で、多くの人に答えの歌がすぐにできなかったことは、だれも疑問に思わないだろう。】



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