『古事記傳』21−1


高岡の宮の巻【綏靖天皇】

神沼河耳命。坐2葛城高岡宮1。治2天下1也。此天皇。娶2師木縣主之祖河俣毘賣1。生2御子1。師木津日子玉手見命。<一柱>天皇御年肆拾伍歳。御陵在2衝田岡1也。

訓読:カムヌナカワミミのミコト、カヅラキのタカオカのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、シキのアガタヌシのおやカワマタビメをめして、ウミませるミコ、シキツヒコタマデミのミコト。<ひとばしら>スメラミコトみとしヨソヂマリイツツ。ミハカはツキダのおかにあり。

口語訳:神沼河耳命は葛城の高岡の宮に住んで、天下を治めた。この天皇が師木縣主の先祖、河俣毘賣を娶って生んだ子が師木津日子玉手見命<一柱>。天皇は四十五歳で崩じた。御陵は衝田の岡にある。

この天皇は、後の漢風諡号では綏靖天皇という。○葛城(かづらき)は書紀の~武の巻に「また高尾張の邑に土蜘蛛がいた。その身長は低く、手足が長かった。侏儒(こびと)の類である。皇軍は葛の網を作って掩いかぶせ、土蜘蛛を殺した。そこでその邑の名を改めて葛城と言った。【また劔根(つるぎね)」という者を葛城の国造とした】」と見え、高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「迦豆良紀多迦美夜(かづらきたかみや)」とあり、書紀の推古の巻に「葛城の縣」、天武の巻に「葛城下の縣」など見える。和名抄に、「大和国葛上郡は『かづらきのかみ』、葛下郡は『かづらきのしも』」とある。「高岡」。この名は他の書に見えたことがない。【大和志にこの宮の址が葛上郡の森脇村にあると書いてあるが、例によって信じられない。】高宮というのは、あるいはこの宮の址で、「丘」を省いて言うのか、または別なのか分からない。書紀には「葛城に都を作った。これを高丘の宮という」とある。<訳者註:現在御所市大字森脇に高丘宮址の碑が建てられている>○師木縣主(しきのあがたぬし)。師木は大和国の地名である。【城上(しきのかみ)、城下(しきのしも)二郡がこれである。この地のことは、水垣の宮(崇神天皇)の段でさらに言う。磯城とも志貴とも、字はさまざまに書くが、同じことだ。】この縣主は大変紛らわしいが、【まず志紀が大和と河内の二箇所にあるうえ、縣主も、大和と河内に合わせて三氏あって、取り違えやすい。このことは次に弁別してみる。】よく考えれば、これがつまり物部氏の先祖である。それは書紀の天武の巻に、「十二年冬十二月、磯城縣主に連の姓を与えた」とあり、新撰姓氏録に「大和国神別、志貴連は、神饒速日命の孫、日子湯支(ひこゆき)命の子孫である」【印本に、この下に二十六字書いてあるのは、後人が旧事紀の分を書き入れたのである。古い本でこれがないのこそ良い。】とある日子湯支命は、宇摩志麻遲命の子で、物部連の先祖だからである。それを「物部連の祖」と言わずに「師木縣主の祖」と言っているのはなぜかというと、この日子湯支命のころに初めて師木に住み、その縣主となったので、まだ当時は物部連という姓はなかったからだ。【この氏が物部連になったのは、日子湯支命の五世の孫、十市根(とおちね)大連の代からで、それ以前はずっと師木の縣主といった。伝十八の物部連のところを参照せよ。この氏は、旧事紀五に載せられた系譜によると、日子湯支命の四世の孫、伊香色雄(いかがしこお)命の子に、大新川(おおにいかわ)命、十市根命、建新川(たけにいかわ)命、大燈z(おおめふ)命などがいた。その大新川と十市根が、初めて物部連という姓を賜い、十市根は石上の神宝を管掌した。すると物部連になった十市根たちは、このときに石上に住居を移したと考えられるが、弟の建新川と大燈zは師木の本拠に留まり、元のまま子孫まで師木の縣主であり続けた。だから旧事紀では建新川を倭の志紀縣主らの祖と書いている。これが物部連と師木縣主が別れた初めである。それを新撰姓氏録で日子湯支命の子孫としているのは、この縣主となった始祖を挙げただけで、両者に違いはない。大燈zは新撰姓氏録に「和泉国神別、志貴縣主は、饒速日命の七世の孫、大賣布の子孫」とあるのがそうだ。大和の師木から、子孫が和泉へ移住したのだろう。上記のことは、よく考えなければ混同しやすい。旧事紀は、大半は信じがたい書物だが、この氏のことはすべて載せられているので、参考になる点も多い。○だがこの他に、師木縣主というのが二氏ある。一つは書紀の~武の巻に「弟磯城、名は黒速(くろはや)を磯城の縣主とした」とあるのがそうだ。しかしこれは伝えが誤っているのではないだろうか。もし本当なら、一代で絶えたのだろう。というのは、この氏が存続していたのだったら、前記の日子湯支命と同時に、二氏の縣主がいるはずはない。またこの子孫のことは物の本に見えたことがない。もう一つは新撰姓氏録に「河内国皇別、志紀縣主は多朝臣と同祖である云々」、「志紀首云々」、「和泉国皇別、志紀縣主は、雀部臣と同祖である」、「右京皇別、志紀首は、多朝臣と同祖」などあるのがこれだ。これはもと河内の志紀と同族で、みな神八井耳命の子孫である。この流れの中に連姓の人はない。そのため、天武の巻で「連姓を与えた」とあったのは、日子湯支命の流れと決定して、上記に引いたのである。続日本後紀四に志紀宿禰水成(みずなり)という人が見えているのは、皇別の方か。後には大和の氏を志貴、河内の氏を志紀と書いていることが多いからである。いずれにしても、宿禰の姓になったことは史書に見えず、漏れたようである。】延喜式神名帳には、大和国城上郡、志貴御縣坐(しきのみあがたにいます)神社が載っている。○河俣毘賣(かわまたびめ)。【延佳本で、「俣」を「股」と書いてあるのは、さかしらである。このことは上巻で言った。】河俣は地名である。和名抄に「河内国若江郡(現在の東大阪市)、河俣郷」とあるのがそうだ。【この「俣」の字も、今の本では「保」に誤っている。】延喜式神名帳に「同郡、河俣神社」も載っている。書紀の應神の巻、大雀命の歌に「伽破摩多曳(かわまたえ)」とあるのも、河俣の江のことだろう。【川俣村というのは、今もある。また川俣公という姓もある。】延喜式神名帳に大和国高市郡、川俣神社がある。【これは御子の天皇(安寧)の御代に、この比賣を祀った神社ではないだろうか。】しかしこれは、やはり河内の地名から出たのだろう。この後に生まれた御子は、いずれも河内に縁があるからだ。【このことは、後の代のところで言う。】それはこの父の師木縣主が河内に領地を持ち、行き来があったのだろう。【河内の志紀は、倭の師木の縣主が治めていた地だから、その本拠の名を取って志紀といったのだろう。上記の神八井耳命の子孫の志紀縣主は、後になって、この地名から出た姓である。この河内の志紀郡には、延喜式神名帳に志貴縣主神社がある。これを一方と考え合わせると、倭の師木縣主であって、日子湯支命を祭っているのではないだろうか。この人は天皇の外祖だから、その位が高いのではないかと思われるからである。<訳者註:現在の志貴縣主神社は神八井耳命を主祭神としている>】その国の女性を娶って、この河俣毘賣を生んだのだろう。【旧事紀に「彦湯支(ひこゆき)命は日下部の馬津名久流久美(むまつなくるくみ)の娘、河野姫を妻とした」とあり、日下は河内国河内郡にあるから、これも関係ないとは言えない。】そうだったら、河俣はその母の本郷などではないか。ここの文は、師木縣主の祖、誰それの娘とあるはずなのに、「誰それの娘」という語がなく、直接に祖としているのは、先祖の姉妹なども先祖と言ったもので、【師(賀茂真淵)はこれを疑って、「祖」の字の下に「誰それの娘」が脱けていると言ったが、】こういう例も多い。境岡の宮(懿徳天皇)の段で、「師木縣主の祖、賦登麻和訶(ふとまわか)比賣命」、水垣の宮(崇神天皇)の段に「尾張連の祖、意富阿麻都(おおあまつ)比賣」、日代の宮(景行天皇)の段に「尾張国造の祖、美夜受(みやず)比賣」、玉穂の宮(継体天皇)の段に「三尾の君らの祖、名は若比賣」などとあるのと同じだ。ところで河俣毘賣は、状況から考えると、日子湯支命の娘なのではないだろうか。【姉妹だったら「祖」とは言えないだろう。日子湯支命がこの縣主の初めだからだ。その次の代の姉妹以下であればこそ、「祖」と言うべきだろう。】書紀には、「二年春正月、五十鈴依媛を立てて皇后とした。一書には磯城縣主の娘、川マタ(さんずい+瓜)媛と言う。また一書には春日縣主、大日諸(おおひもろ)の娘、糸織(いとり)媛だという。すなわち天皇の叔母である。皇后は磯城津彦玉手看(しきつひこたまでみ)天皇を生んだ」とある。○師木津日子玉手見(しきつひこたまでみ)命。師木は母の実家の師木、【河俣毘賣は、河内から大和に上って父の家のあった師木に住んでこの御子を生んだか、あるいは河内の実家に住んで生んだか。どちらもあり得るだろう。】玉手は河内郡安宿郡に玉手村、玉手山がある。この地名だろう。この地は、片鹽の浮穴の宮(師木津日子玉手見命:安寧天皇)に縁があるからだ。それは次の段で言う。【大和国葛上郡にも玉手の岡がある。孝安天皇の御陵があるところだ。しかしそこではないだろう。】「見」は「耳」と同じで、尊称である。【それについては伝七の五十四、五十五葉で言った。この名は、「玉」は美称で、「手見」は「日子穂々手見」などの手見かとも思えるが、これはそうではあるまい。】○天皇御年(すめらみことみとし)。「天皇」は堺原の宮(孝元天皇)の段や、玉垣の宮(垂仁天皇)の段、また下巻にもあちこちに「この天皇の御年は」とあるから、「この」があるものとして読むべきである。古言では、そうでなくてはならない。以下の天皇も同じだ。【「此」の字を省いて書かないのは、漢文の格によって書いたのである。】○肆拾伍歳(よそぢまりいつつ)。【この下に旧印本や他の一本に「崩」の字があるのは、他に例がない。ここでは真福寺本他一本で、その字がないのを採用した。】書紀には「三十三年夏五月、天皇は病になり、癸酉の日に死んだ。この時八十四歳」とある。○御陵在2衝田岡1也(みはかはツキダのおかにあり)。書紀の安寧の巻に、元年冬十月丙戌朔丙申、神淳名川耳天皇を倭の桃花鳥田(つきだ)の丘の上の陵に葬った」とある。【「つき」を「桃花鳥」と書いたのは借字で、和名抄に「トウ(刀+鳥)は和名『つき』」とある鳥の名だ。今は「とき」と言う。「鴇色」というのも、この鳥の色を言う。「トウ(刀+鳥)」は漢名では朱鷺ともいう。】諸陵式に「桃花鳥田丘の上の陵は、葛城の高丘の宮で天下を治めた綏靖天皇である。大和国高市郡にあり、兆域東西一町、南北一町、守戸五烟」とある。この御陵は、今は所在が不明だ。【延喜式神名帳には、葛下郡、調田坐一事尼古(つきだにますひとことねこ)神社がある。もし高市郡との境に近いならこの地だろう。昔と今とでは、国の境が変わっていることがあるからだ。しかしこの神社も今詳細が分からないので、確実にこうだとも言えない。大和志でこの神社は疋田村にあると言うが、根拠があるのか、それとも「調(つき)」と「疋(ひき)」の音が似ているため推量で書いているのか、覚束ないことである。疋田は高市郡の境からはやや離れている。同郡には築山(つきやま)村というのもあるが、これも所在地をはっきりとは知らない。<訳者註:疋田は現在の葛城市新庄町で、調田坐一事尼古神社もある。祭神はおそらく一言主神と同じ。築山村は現在の大和高田市築山である。いずれも高市郡からはやや遠い。現在宮内庁が桃花鳥田丘上陵としているのは、橿原市にある>】この郡内に身狹花鳥坂(むさのつきさか)【垂仁紀、宣化紀に見える。~武紀の築坂に見える。】があるから、それと同じか。【大和志に「桃花鳥の野は三瀬村にある」というのは、今そう言う名の野があるのか、調べる必要がありそうだ。だが「身狹」とは、いかにも今の三瀬と思われる。このことは、詳しくは檜クマ(つちへん、冂の中に巳)(ひのくま)の宮(宣化天皇)の段で言う。また万葉巻十六(3886)に「都久怒(つくぬ)」とあるのはこれかどうか。鳥屋村の西南の方に宣化天皇の御陵というのがある。これは桃花鳥田の丘の上の陵ではないだろうか。周囲は池で、中に御陵がある。樹木が生い茂っている。(松下見林の)前皇廟陵記に「桃花鳥田の丘は、俗に言う鳥田の丘である。久米寺の戌亥(西北)にある」と言うのも、この御陵のことのようだ。そうならば、桃花鳥坂と同じ所ではない。桃花鳥坂の御陵のことは檜クマ(つちへん、冂の中に巳)(ひのくま)の宮の段で述べる。空海のu田池(ますだいけ)碑銘の序に「鳥の陵を右にし」とあるのは桃花鳥田の丘上の陵のことか。もしそうならu田池の西の方、近いところにあるはずだ。この鳥陵のことを倭建命の白鳥陵のことというのは間違いである。それはその池からずいぶん遠いからだ。大和志に「桃花鳥田の丘上の陵は、慈明寺村の東南の丘にあり、俗に主膳(しゅぜん)塚と呼ぶ」とあるのは、神武天皇だということは、前に論じた。綏靖の御陵は、絶対にそこではない。というのは、~武、安寧、懿徳の陵のように畝火山につながっている場合、いずれも畝火山のどこそこの陵と書かれているのに、この綏靖の陵は、もしその主膳塚だったら、畝火山のほとりに当たるから、必ず「畝火山の西北」などとあるはずだ。ところがこれは畝火山のことを言わないで、単に衝田(つきた)の丘と言うから、畝火から離れたところにあるのは明らかだ。貝原氏が「畝火山の乾(西北)に鳥田の陵がある。これは綏靖天皇陵である」と言っているが、乾というのは前記の主膳塚のように聞こえるが、鳥田の陵というのは廟陵記の鳥田の丘のようなので、乾というのは間違いだろう。】


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