本居宣長『古事記伝』(現代語訳)43_4

 

 

 

小長谷若雀命。坐2長谷之列木宮1。治2天下1捌歳也。此天皇无2太子1。故爲2御子代1。定2小長谷部1也。御陵在2片岡之石坏岡1也。天皇既崩。無B可レ知2日續1之王A。故品太天皇五世之孫。袁本杼命。自2近淡海國1令2上坐1而。合2於手白髮命1。授=奉2天下1也。

 

訓読:オハツセのワカサザキのミコト、ハツセのナミキのミヤにましまして、やとせアメノシタしろしめしき。このスメラミコト、ひつぎのミコましまさず。かれミコシロとして、オハツセベをさだめたまいき。ミハカはカタオカのイワツキのオカにあり。このスメラミコトすでにかむあがりまして、ひつぎしろしめすべきミコましまさず、かれホムダのスメラミコトのいつつぎのミコ、オオドのミコトを、オウミのくによりのぼりまさしめて、タシラカのミコトにあわせまつりて、アメノシタをさずけまつりき。

 

口語訳:小長谷若雀命は長谷の列木宮に住んで、八年間天下を治めた。天皇には太子がなかったので、御子代として小長谷部を定めた。御陵は片岡の石坏の岡にある。天皇が既に崩じて、天の日を継ぐ王がなかったので、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を淡海国から上らせて、手白髮命と合わせ、天下を授けた。

 

この天皇の後の漢風諡号は武烈天皇という。○列木宮(なみきのみや)。書紀に「・・・皇太子は有司に命じて壇場を泊瀬の列城に作らせ、即位した。ついにそこを都とした」とある。また仁賢の巻にも「天下を有するにおよんで、泊瀬の列城を都とした」とある。これらの文によると、列木はもとからの名だろう。【この宮の址は、ある人は長谷寺の南にある出雲村の北の方に、武烈天皇の御屋敷というところがある。これであるという。】○「无2太子1(ひつぎのみこなし)」は、「御子」とあるべきところだが、【前の例はそうである。】「太子」と言ったのは意味があるのだろうか。この天皇に到って仁徳天皇以来の皇統が絶えるので、日嗣ぎの御子はなかったと言ったのではあるまいか。○御子代(みこしろ)は、【「子」の字を延佳本に「名」と書いてあるのは、例のさかしらに改めたのだろう。】中巻の玉垣の宮の段に「子代(みこしろ)」とあるところで言った。【伝廿四の二十五葉】○小長谷部(おはつせべ)は、書紀には「六年秋九月、詔して『国を伝える政は、子を立てるのを貴いとする。私には子がない。どうやって名を伝えようか。天皇の旧例によって、小泊瀬の舎人を置き、万代に忘れられないようにしよう』」とある。○この天皇は年齢を記さず、書紀にも「八年冬十二月壬辰朔己亥、天皇は列城宮で崩じた」とあるだけで年齢は見えない。ある書には十八と言い、ある書には五十七と言っている。【十八も五十七も書紀の紀年には合わない。】○片岡之石坏岡(かたおかのいわつきのおか)。書紀の継体の巻に「二年冬十月辛亥朔癸丑、小泊瀬の稚鷦鷯天皇を傍丘(かたおか)の磐杯(いわつき)の丘の陵に葬った」、諸陵式に「傍丘の磐杯の丘の北の陵は、泊瀬の列城宮で天下を治めた武烈天皇である。大和国葛下郡にある、兆域は東西二町、南北三町、守戸五烟」とある。大和志に「葛下郡平野村にある」と言っている。【ある書に字(あざな)石の北と言い、またある書に字は片岡山という。】○既崩(すでにかむあがりまして)。上に御陵のことを記して、これは「崩」を記したのではない。「崩」の後のことを記す文であるから「既に」と言う。○五世之孫は「いつつぎのみこ」と読む。【続日本紀十五の詔に「那々都義乃美與爾(ななつぎのみよに)云々」、古今集の序に「世はとつぎになむなれりける」、これらは代々の数を言っているが、父子の世継ぎも同じだ。「孫」は、こういうところは「まご」と読むのは間違いだ。ここは子の子の意味ではない。後裔の意味だからだ。「まご」とは子の子に限って言う。それにいにしえは子の子を「ひこ」と言うのが普通で、「まご」と言うのは後のことである。「みこ」と言うのは広く後々までを言うから、「幾世の孫」とあるところはみな「みこ」または「こ」と読む。】この世系のことは、袁本杼命の段で詳しく言う。○袁本杼命(おおどのみこと)。名の意味は中巻の意富々杼王のところで言った。【伝卅四の五十一葉】書紀に「またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)」とある。【この名の例は、彦太瓊(ひこふとに)尊、彦太忍信(ひこふつおしのまこと)命などがある。】○「自2近淡海國1(おうみのくにより)云々」。【「近」の字は読まない。文には遠淡海に対して近淡海と書くけれども、読むにはいにしえも今も単に「おうみ」と言う。】書紀【この命(継体)の巻の初め】に「天皇の父は振媛の容貌がたいへん優れていると聞いて、近江国高嶋郡、三尾の別業から、使いを遣わして三國の坂中井(さかない)に呼んで、妃とした。妃は天皇を生んだ。天皇が幼い時、父王が死んだ。振媛は嘆いて、『私は今生まれ故郷を遠く離れている。どうやってこの子を育てたらいいのか』と言い、高向(たかむこ)に帰って育てた【高向は越前国の邑の名である。】・・・小泊瀬天皇が崩じた。もとより子がなかった。世継ぎは絶えようとしていた。大伴金村の大連は議っていわく、・・・元年春正月、大伴金村大連はまた議って、『男大迹王(おおどのみこ)は性質が慈愛深く、親孝行である。天の緒を受け継ぐべき人だ。願わくは懇ろに勧めて、帝業を栄えさせよ』と言った。物部麁鹿火(ものべのあらかい)の大連、許勢の男人(おびと)の大臣たちは、みな『詳しく調べると男大迹王こそ賢者である』と一致して、臣・連らを遣わして、節(天皇の印)を持たせ、法駕(みこし)で三國から迎えさせた。云々」とある。【三國も高向も越前国坂井(さかない)郡である。】「みくにから迎えさせた」というのはこの記と異なる。そもそもこの天皇は曾祖父の意富々杼王からして、淡海国に住んでいたことは、その由縁が深いので【意富々杼王の末に息長君、坂田君などがあり、みな近江国の地名である。伝卅四のこの氏の人々に関するところを考えよ。】この天皇も本居は淡海国にあっただろう。【書紀に見える父王の三尾の別業、またこの天皇の妃たちの父、三尾君の祖、また息長眞手王、坂田の大俣の王など、みな近江国の地名である。本居は近江にあって、越前の三國にも通って住んだのだろう。】釈日本紀に引いている上宮記に「・・・汗斯(うし)王が彌乎(みお)国の高嶋宮にいたとき、この布利比賣(ふりひめ)命がたいへん美女だと聞いて、人を遣わして三國の坂井郡に召し上げ、伊波禮(いわれ)の宮で天下を治めた乎富等大公王(おおどのおおきみのみこ)を生んだ。父汗斯王が死んで後、王の母布利比彌(ふりひみ)命は、『私が一人抱いている王子を、親族もいない国でどうやって育てたらいいだろう』と言い、その時に親の国、三國へ帰って、多加牟久(たかむく)村に住まわせた」とある。○「合2於手白髮命1(たしらかのみことにあわせまつりて)」は【「合」の字を「令」に誤った本がある。ここは真福寺本、延佳本、また他一本によった。】「合わせ」は結婚させたのである。【「めあわす」という「あわす」もこれである。また俗に一つにすることを言うのも「あわせる」意味だ。】これは臣・連たちが相談して決めたことだ。【だから「娶る」と言わず、「合わせる」と言ったのである。「あわせ」とは他からそうするように仕向けると言うことだ。】○授奉(さずけまつる)。これは前の天皇が譲ったのでなく、臣連たちが議ってしたことだから言う。【それでは臣連たちが自分のものでもないのを「授ける」というのはどうかと思う人もあるだろうが、「さずく」というのは自分のものでないものでも、人に附属させるのを言う言葉だろう。】○ある人は問うて「この武烈天皇が崩じて、袁本杼命を迎え立てたありさまを見ると、当時大伴金村をはじめ、賢く忠勤なものはなかったわけではないのに、この天皇の所行がたいへん暴虐で悪かったのを、すこしも議論することなく、御世の限り、心のままに荒んでいたのをただ見過ごしたのはなぜか」。答え。「良くも悪くも、君のやることを臣が計ることがないのは、これこそいにしえの道の優れた点で、君と臣の理の永く全くして崩れず廃れない道であろう。それを君が悪ければ臣としてなんとかしようと計るのを良いこととするのは外国の道で、実際には逆のしわざである。かえって諸々の乱れの原因になるものだ。【君のしわざが甚だ悪いことを臣たちが議論することもなかったのは、一見愚かで不忠なように見えるだろうが、そうではない。君の悪行はその生涯以上にはならないので、世の人の苦しむのも限りがあって、しばらくの間なのを、君臣の道の乱れは長い世に渡ってその弊害に限りがない。陽成院の天皇の所行が悪かったので、藤原基經大臣が退位させたのは、国のため世のために賢く忠勤なように聞こえるだろうが、いにしえの道ではない。外国のしわざで、畏れ多いことであった。これ以降、天皇の稜威は次第に衰え、臣の勢いが強く盛んになってきたではないか。】

<訳者註:これは宣長が古事記と日本書紀を混同して言っているのである。日本書紀は武烈天皇の「悪行」を書いているが、古事記には全くその記事はない。書紀では雄略天皇も「大悪天皇」と呼ばれたとあり、思いつきで人を殺したという記事があるが、古事記にはあまり出て来ない。記紀の記録はこの点でずいぶん違っている。>

 



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