『古事記傳』21−4


掖上の宮の巻【孝昭天皇】


御眞津日子訶惠志泥命。坐2葛城掖上宮1治2天下1也。此天皇。娶2尾張連之祖奧津余曾之妹。名余曾多本毘賣命1。生御子。天押帶日子命。次大倭帶日子國押人命。<二柱>

訓読:ミマツヒコカエシネのミコト、かつらきのワキノカミのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、オワリのムラジのおやオキツヨソのいも、なはヨソタオビヒメをめして、ウミませるミコ、アメオシタラシヒコのミコト。つぎにオオヤマトタラシヒコオシビトのミコト。<ふたばしら>

口語訳:御眞津日子訶惠志泥命は、葛城掖上宮に住んで天下を治めた。この天皇が、尾張連の祖、奧津余曾の妹、余曾多本毘賣命を娶って生んだ子は、天押帶日子命。次に大倭帶日子國押人命である。<二柱。>

この天皇の漢風諡号は、孝昭天皇という。○葛城(かづらき)は前に出た。○掖上(わきのかみ)は、【「掖」の字は、説文に「腋と同じ」とある。諸本みなこの字だ。それを延佳本で「腋」としたのは、さかしらに改めたのだろう。】諸陵式によると葛上郡である。書紀の~武の巻に「天皇は行幸のついでに腋上のケン(口+兼)間丘(ほほまのおか)に登った云々」、履中の巻に「掖上の室の山」、推古の巻に「二十一年、掖上の池を作った」、持統の巻に「四年二月、掖上の陵に行って云々」などが見える。【「掖上の室の山」とある牟婁郷も葛上郡である。新撰姓氏録の秦の忌寸の條に、「大和の朝都間(あさつま)の掖上の地」とあるのも同じ所だろう。いまの朝妻村も同郡で、室村からも遠くない。】この地名はどう読むのが正しいか定かでないが、書紀ではどこでも「わきのかみ」と読むので、取りあえずそう読んでおいた。【「わきべ」、「わきのべ」とも「わきがみ」とも読めるので、決められないのである。「わきのかみ」というのは、石上は「いそのかみ」、丹波国多紀郡の草上は「くさのかみ」というのと同様だ。城上郡(しきのかみのこおり)や葛上郡(かつらぎのかものこおり)などは、それぞれ磯城郡と葛城郡を上下に分割したことによる名だから、これとは別である。】書紀に「元年七月、掖上に遷都した。これを池心(いけごころ)の宮という」とある。○尾張連(おわりのむらじ)。書紀の神代巻の一書に「天忍穂根(あめのおしほね)尊が高皇産霊尊の娘、栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)命を娶って生んだ子は、天火明(あめのほあかり)命、次に天津彦根火瓊瓊杵(あまつひこねほのににぎ)尊。その天火明命の子、天香山(あめのかごやま)は、尾張連らの遠祖である」また一書に「正哉吾勝勝速日天忍穂耳(まさかあかつかちはやびあめのおしほみみ)尊が高皇産霊尊の娘、天萬栲幡千幡(あめよろずたくはたちはた)姫を娶って生んだ子は、天照國照彦火明(あまてるくにてるひこほのあかり)命、これは尾張連らの遠祖である。次に天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎ)尊」と見える。【それを書紀本文で「彦火々出見(ひこほほでみ)尊の弟を火明命という。これは尾張連らの始祖である」とあるのは、伝えが異なっている。そのことは伝十五の八葉で言った。彦火々出見尊の弟の火明命は、この記では火照命(ほでりのみこと)といい、隼人の祖である。】ところがこの記で、天火明命のところに、この氏の祖ということは見えない、これは漏れたのである。【一般にこの記は書紀に比べて、その子孫の氏々を挙げることが詳しいので、そこでその氏の祖ということが書かれていなければおかしい。】旧事紀では、天孫の天降りのお伴三十二神【これを饒速日命の天降りの時のこことして書いているのは、例の偽りごとで、実は邇々藝命の天降りのお伴であり、そういう古伝があったのを取って作った話だろう。】の始めに、「天香語山(あめのかごやま)命は尾張連の祖」とあり、同記五の巻にこの氏の系譜を挙げて、【その中で始祖の天火明命を饒速日命と混同して、この尾張連を物部連と同祖としているのが甚だしい偽説であることは、伝十五の九葉で詳しく言った通りである。またその子の天香語山命を「また高倉下命ともいう」と言い、白檮原宮の高倉下と同一人物としたのも、信じがたい。その他にも採用できない記事が多いが、全般にはそういう家伝があった上で書いたもののようであり、全く捨て去るような書物でもない。】始祖から十三世の孫、尻綱根(しりつなね)命が品太(ほんだ)天皇(應神天皇)の御世に、尾治(おはり)連の姓を賜ったとある。【それで十四世の孫以降、世々の名をみな「尾治の〜の連」と書いている。】それは倭建命の段に「尾張国造の祖、美夜受(みやず)比賣」とある国造が、この氏と思われるので、この氏の人はそれ以前から尾張に住んでいたところ、尻綱根に至って、この姓を賜ったのだろう。【このことはさらに軽嶋の宮(應神天皇)の段で言うことを考え合わせよ。書紀にこの美夜受比賣を尾張氏の娘としているから、当時すでにこの姓があったように思えるが、それは例によって後で起きたことを前のことに反映させたのである。ところでこの氏の本拠は大和国葛城である。というのは、境原宮の段で、この氏の人に葛城の高千那毘賣という人がある。また旧事紀には、この氏の三世の孫を「天忍人(あめのおしひと)命、異母妹角屋(つぬや?)姫、またの名は葛木出石(かつらぎのいずし)姫・・・次に天忍男命が葛木の土の神、劔根(つるぎね)命の娘を妻として云々」、「四世の孫瀛津世襲(おきつよそ)命、またの名は葛木彦命という」、「七世の孫建諸隅(たけもろすみ)命は、葛木直の祖、大諸見足尼(おおもろみのすくね)の娘を妻とした」などとあるからだ。書紀の~武の巻に「高尾張の邑、ある本には葛城の邑という。」また「高尾張の邑・・・よってその村の名を改めて葛城という」とあり、「高尾張」というのは「葛城」の元の名のように見えるので、国名の尾張はこの高尾張から出て、それはこの氏人が葛城から尾張に移り住んだため、元いた国の名を取って国名にしたように思われるだろうが、そうではない。~武の巻にある記事は一つの伝えで、実は天火明命の子孫が葛城に住んでいたが、尾張の国造になって下り住んだ人があったので、その国の名を取って、葛城を高尾張とも言ったのを、誤って元の名のように伝えたのだろう。ただしこれは今私が思いついたことで、確証はないけれども、いずれにしても葛城に「高尾張」という名があるのは、この氏の本拠だったためであるには違いない。三代実録九に「尾張国海部郡の人、其目連公宗氏、尾張の医師、其目連公冬雄ら、同族十六人に高尾張宿禰の姓を与えた。天孫天火明命の子孫である」とあるので、尾張と高尾張は別でないことが分かるだろう。上記の「其目連」の「目」の字は、印本には「日」とある。古い本では「目」である。また「其」の字は「甚」の誤写か。伊勢国一志郡に「甚目(はだめ)村」がある。尾張の海部郡に甚目寺がある。この氏の人が葛城から初めて尾張国に移り住んだのは、いつの時代だったか、定かでない。国造本紀に「尾張国造は、志賀高穴穂の朝(成務天皇)、天別天火明命の十世の孫、小止與(おとよ)命を国造とした」とあるが、倭建命が東国へ下ったとき、すでに尾張にはこの氏の人がいたから、志賀高穴穂の朝というのは間違っている。小止與命についてはそうだった可能性もあるだろう。尾張国にいたこの氏の人については、倭建命の段で詳しく言う。ところでまた備前の国に、この氏が関係している。和名抄には備前国邑久郡に尾張郷があり、延喜式神名帳に同国御野(みの)郡に尾針(おはり)神社、尾治針名眞若比女(おはりはりなまわかひめ)神社が載っている。旧事紀に「十四世の孫、尾治針名根(おはりはりなね)連」、これを新撰姓氏録に「波利那乃連公(はりなのむらじきみ)」とある。ところが尾張国愛智郡にも針名神社があり、尾張国海部郡に伊福(いふく)郷がある。神鳳抄には尾張国伊部の御厨があって、備前国御野郡にも伊福郷がある。新撰姓氏録には、「伊福部宿禰は尾張連と同祖、火明命の子孫」とある。】書紀の天武の巻に、「十三年十二月戊寅朔己卯、尾張の連に姓を賜い、宿禰とした」とある。【「天平宝字二年三月庚申、初め尾張連馬身(まみ)は・・・まだ姓(かばね)を賜らないうちに死んだ。そこで馬身の子孫は、みな宿禰の姓を賜った」と続日本紀に見える。】新撰姓氏録の左京神別【天孫】に「尾張宿禰は火明命の二十世の孫、阿曾連の子孫である」、【「二十世」は、一本には「二十七世」とある。また「曾」の字は、一本には「魚」と書いてある。】「尾張連は尾張宿禰と同祖、火明命の子、天香語山命の子孫である」、右京神別【天孫】に「尾張連は、火明命の五世の孫、武礪目(たけとめ)命の子孫である」、【右京の尾張連は、天長十年に忠宗宿禰という姓を賜った。】山城国神別に「尾張連は火明命の子、天香山命の子孫である」、大和国神別に「尾張連は、天火明命の子、天香山命の子孫である」、河内国神別に「尾張連は、火明命の十四世の孫、小豊(おとよ)命の子孫である」とあって、この他にもこの氏から分かれた氏々がたいへん多く、同書【また旧事紀】に見える。○奧津余曾(おきつよそ)。旧事紀に「三世の孫天忍男命。この命は、葛木の土の神、劔根命の娘、賀奈良知(かならち?)姫を妻として、二男一女を生んだ」とある。【書紀の~武の巻に「劔根という者を葛城国造とした」とある。】「四世の孫瀛津世襲命、またの名葛木彦命は、尾張連らの祖である。天忍男命の子」とある。また「天忍男命は、天火明命の子、天香語山命、その子、天村雲命の子である」という。○余曾多本毘賣命(よそたおびめのみこと)。書紀に「二十九年春正月甲辰朔丙午、世襲足媛(よそたらしひめ)を立てて皇后とした。一にいわく、磯城縣主葉江(はえ)の娘、淳名城津媛(ぬなきつひめ)という。また一にいわく、倭國豊秋狹太媛(やまとくにとよあきさふとひめ)の娘、大井媛(おおいひめ)という」【狹太媛の娘という(父の名を挙げていない)のはどうだろう。】また孝安紀に「母は世襲足媛といい、尾張連の遠祖、瀛津世襲の妹である」とある。旧事紀には、天忍男命の二男一女を挙げて、「瀛津世襲命、次に建額赤(たけぬかか)命、妹世襲足姫命、またの名は日置(ひおき)姫命」と言う。【和名抄には、大和国葛上郡に日置郷がある。】名の意味は分かっていない。【「多本(タホ)」を書紀で「足(たらし)」と書いているので、師は「本」の字は「李」の誤りではないかと言ったが、記中で「李」を仮名に用いた例はない。】○天押帶日子命(あめおしたらしひこのみこと)、大倭帶日子國押人命(おおやまとたらしひこくにおしびとのみこと)。この二人の名は、いずれもみな美称である。「押」は「おふし」で「大」の意味である。それは「凡河内(おおしこうち:旧仮名オフシカフチ)」を安閑紀、推古紀などで「大河内」とも書き、【伝七の七十三葉を参照】天武の巻に「凡海(おおしあま:旧仮名オフシアマ)」という姓を「大海」とも書き、【天武天皇の幼名を「大海人(オフシアマ)皇子」と言ったのも、この姓を取ったのである。】神代紀の一書に「熊野忍隅(くまぬおしすみ)命」という名を、一書で「熊野大隅(くまのおおすみ)」と書いてあるので、納得できるだろう。すべて称名の「押(おし)」【「忍」とも書く。】はみな同じだ。「押し並べて」などの「押し」も同じく「大」の意味である。「帯(たらし)」は借字で、「足(たらし)」の意味だ。【万葉巻二(147)に「御壽者長久天足有(みいのちはながくあまたらしたり)」。】記中で「たらし」に帯の字を借りて書いているのは、古歌に「御帯(みおび)の倭文服(しずはた)結垂(むすびたれ)」とあるように、帯は結び垂れるものだからである。【大刀を御佩(みはかし)、弓を御執(みとらし)などというのと同じ。】書紀には、「后は天足彦國押人(あまたらしひこくにおしびと)命、日本足彦國押人(やまとたらしひこくにおしびと)天皇を生んだ」とある。

 

故弟帶日子國忍人命者。治2天下1也。兄天押帶日子命者。<春日臣。大宅臣。粟田臣。小野臣。柿本臣。壹比韋臣。大坂臣。阿那臣。多紀臣。羽栗臣。知多臣。牟邪臣。都怒山臣。伊勢飯高君。壹師君。近淡海國造之祖也。>

訓読:かれいろどタラシヒコクニオシビトのミコトは、アメノシタしろしめしき。いろせアメオシタラシヒコのミコトは、<かすがのオミ、おおやけのオミ、あわたのオミ、おののオミ、かきのもとのオミ、いちひいのオミ、おおさかのオミ、あべのオミ、たきのオミ、はぐりのオミ、ちたのオミ、むざのオミ、つぬやまのオミ、いせのいいたかのキミ、いちしのキミ、ちかつおうみのクニノミヤツコのおやなり。>

口語訳:弟の帶日子國忍人命が天下を治めた。兄の天押帶日子命は、<春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造の先祖である。>

春日臣(かすがのおみ)。春日は大和国添上郡にある地名である。この地のことは、黒田の宮(孝霊天皇)の段で言う。この姓は、書紀の天武の巻に「十三年十一月戊申朔、大春日の臣の姓を賜い、朝臣とした」とある。「大」という字は、これ以前のいつの時代に加えられたか、はっきりしない。【持統五年のところで十八氏を挙げた中には、単に春日とあって、「大」の字はない。元明紀に出ているのは「大」の字がある。】新撰姓氏録の左京項別には「大春日朝臣は、孝昭天皇の皇子、天帯彦國押人命から出た。仲臣令は家に千金を重ね、糟(かす)を積んで堵(かき)とした。大鷦鷯天皇が【諡は仁徳】その家に行った時、糟垣(かすがき)の臣と名乗れと言った。後に改めて春日臣となった。桓武天皇延暦二十年、大春日朝臣の姓を賜った」とある。【ここに「仲臣令」とあるのは、文字が脱けているのか。本当は人名を書くべきところだ。「仲」は一本に「件」ともある。これもどうか。桓武天皇云々というのも疑わしい。これ以前に、既に大春日朝臣の姓になっているからだ。糟垣のことも論ずることがある。黒田の宮の段で言う。】文徳実録に、「斉衡三年八月辛未朔丁酉、春日臣雄繼(おつぐ)に大春日朝臣の姓を授けた」【○新撰姓氏録にある春日真人は異姓である。混同してはならない。】○大宅臣(おおやけのおみ)。大宅は、和名抄の大和国添上郡に春日、大宅と二つ並べて挙げてある郷で、書紀の武烈の巻の歌に「暮能娑幡爾(正字はイ+爾)、於褒野該須擬、播屡比能箇須我嗚須擬(ものさわに、おおやけすぎ、はるひのかすがをすぎ)」と詠んだところだ。【「物沢に」という枕詞は、「沢に多し(たいへん多い)」という意味で、次の「おお」に続くのである。「さわ」と「多」とは同じ意味だが、重ねて言うこともある。万葉巻十八(4089)に「山乎之毛、佐波爾於保美等(やまをしも、さわにおおみと)」と詠んでいる。】この姓は、天武紀に「十三年十一月戊申朔、大宅臣を朝臣姓とした」と見え、新撰姓氏録の山城皇別に、「大宅は小野朝臣と同祖」、また摂津国皇別に「大宅臣は、大春日と同祖、天足彦國押人命の子孫である」とあって、朝臣というのは見えない。【右京皇別に、火氏の次、粟田朝臣の上に、姓がなくて単に「孝昭天皇の皇子、天足彦國押人命の子孫」と書いてあって、もしやこれは大宅朝臣で、その一行が脱けたのかと思っていたことがあるが、後に他の本を入手して考えたところ、この火氏の次の「孝昭天皇云々」は小野朝臣條の記事が錯入したものだった。そのことは、後で詳しく言う。】続日本後紀に、「承和三年五月己亥朔庚子、山城国の人、大宅臣福主(ふくぬし?)の姓を改めて朝臣とした」とある。【新撰姓氏録に「大宅眞人」、「大家臣」、「大宅首」、「大家首」などもあるが、これらは異姓である。】○粟田臣(あわたのおみ)。粟田は和名抄に「山城国愛宕郡、上粟田【あわた】、下粟田」とある地だろう。【諸陵式にも「山城国愛宕郡、上粟田郷」とある。文徳実録八に「山城国宇治郡、粟田山」とあるのも同じ所だ。】この姓は、天武紀に「十三年十一月戊申朔、粟田臣に姓を賜い、朝臣とした」と見え、続日本紀に「天平宝字三年七月丁丑、粟田臣道麻呂に姓を賜い、朝臣とした」、また「天平神護元年三月癸巳、近江国坂田郡の人、粟田臣之瀬、直瀬、斐太人(ひだびと)、池守四人に朝臣姓を与えた」、【「之瀬」の「之」は誤写だろう。】また「神護景雲元年六月己亥、左京の人、粟田臣弟麻呂(おとまろ)、種麻呂(たねまろ?)、乎奈美麻呂(おなみまろ)の三人に朝臣姓をあたえた」とある。新撰姓氏録の右京皇別に「粟田朝臣は大春日臣と同祖、天足彦國押人命の子孫」とある。【また山城国皇別に】粟田朝臣は天足彦國押人命の三世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命の子孫である」と見える。続日本後紀に「承和四年二月甲午朔癸卯、大春日、布瑠(ふる)、粟田の三氏の五位以上に、小野氏に準じて、春秋の二祠(祭)のとき、官符を待つことなく、近江国滋賀郡の氏神の社に向かうことを許した」とある。【布瑠氏のことは、伝十八の五十二葉、五十三葉で言った。この近江の氏神のことは、次の小野臣のところで言う。】○小野臣(おぬのおみ)。【旧印本、延佳本とも「臣」の字が脱けている。ここでは真福寺本他一本にあるのを取った。】この姓のことは、天武紀に「十三年十一月戊申朔、小野臣に姓を賜い、朝臣とした」と見え、新撰姓氏録の左京皇別に「小野朝臣は大春日朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の五世の孫、米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)命の子孫である。大徳小野臣妹子は近江国滋賀郡の小野村に家があった。それに因んでこの氏となった」という。【小野妹子臣は、小治田(おはりだ)の御世、初めて大唐に遣いした人である。今も滋賀郡に小野村がある。堅田の北、比良の南である。】山城国皇別に「小野朝臣は、孝昭天皇の皇子、天足彦國押人命の子孫である」【新撰姓氏録の今の本は、この部分で第卅一葉と第卅二葉の前後が乱れている。そのため第卅一葉の最初に、姓を書かないでいきなり「孝昭天皇云々」とあるのは、実は第卅二葉の最後の小野朝臣條に続く部分だ。ここに引いたのは、修正した文である。また第卅一葉の最後にある阿閇臣は、第三十三葉の初めにある「阿倍朝臣大彦云々」に続いている。この錯簡により、第卅一葉の粟田臣から阿閇臣までの八氏が右京皇別に入ってしまっているが、これらは上記小野臣の続きなので、実は山城国皇別である。最近、他の本を入手して考えたところ、上記の結論に至った。新撰姓氏録を読む人は、この錯簡によって、多くの姓を誤って解することもあるかと思い、こう詳しく言っておくのである。】延喜式神名帳に「近江国滋賀郡、小野神社二座、【名神大】」というのがこの氏神である。続日本後紀に「承和元年二月壬午朔辛丑、無位小野の神に従五位下を授けた。近江国滋賀郡にある。かの氏の五位以上は、春秋の祭になると、官符を待たずに行き帰りすることを許す」【「同三年五月、遣唐副使、小野朝臣篁(たかむら)の言上により、無位小野の神に従五位下を授けた」、三代実録に「貞観四年十二月、近江国の小野の神に従四位下を授けた」などがある。延喜式神名帳には、同国高島郡にも小野神社があり、山城国愛宕郡に小野神社、和名抄に同郡小野、また宇治郡小野などがある。これらも関係があるかどうかは分からない。】また新撰姓氏録の山城皇別に「小野臣は天足彦國押人命の七世の孫、人花(ひとはな?)命の子孫である」とある。【「人花」の人の字は、印本にはない。古い本にはある。皇胤紹運録には、小野妹子臣を敏達天皇の子、春日皇子の子となっているので、世に小野氏を敏達天皇の後裔だと言っているのは誤っている。思うに、春日の皇子の母が春日臣氏の出身で、春日臣と小野臣は同祖だったことから起きた間違いだろう。】○柿本臣(かきのもとのおみ)。天武紀に「十三年十一月戊申朔、柿本臣に姓を賜い、朝臣とした」とあり、新撰姓氏録の大和国皇別に「柿下朝臣は大春日朝臣と同祖、天足彦國押人命の子孫である。敏達天皇の御世、家の門に柿の樹があったので、柿本臣氏とした」とある。【延喜式神名帳には、「山城国紀伊郡、飛鳥田神社は一名柿本社」とある。また大和国葛下郡に柿本村がある。】歌仙(うたのひじり)と呼ばれる人麻呂はこの氏の人である。この氏の人のことは、他にも続日本紀に時々出ている。○壹比韋臣(いちひいのおみ)。壹比韋は大和国添上郡の地名で、軽嶋の宮(應神天皇)の段の歌に「伊知比韋能、和邇佐能邇袁(いちひいの、わにさのにを)」とあるのがそうだ。この地のことはその段で言う。この姓は天武の巻に「十三年十一月戊申朔、櫟井(いちひい)臣に姓を賜い、朝臣とした」とあり、新撰姓氏録の左京皇別に「櫟井臣は和安部(わにべ)と同祖、彦姥津命の五世の孫、米餅搗大使主命の子孫である。」【「和安部麻美は、大春日朝臣と同祖云々」とあり、これらの「安」は「爾」を誤っている。このことは伊邪河の宮(開化天皇)の段の丸邇臣のところで言う。】この他に朝臣姓の名は見えない。○大坂臣(おおさかのおみ)。大坂は地名で、和名抄に備後国安那(やすな)郡に大坂郷がある。これだろうか、その理由は次の阿那臣のところで言う。【また和名抄には大和国葛上郡に大坂郷がある。延喜式神名帳に同国葛下郡、大坂山口神社がある。この大和の大阪は古い書物に時々見えるから、これかも知れない。】この姓は、他に見当たらない。【新撰姓氏録にある大坂直は異姓である。】○阿那臣(あなのおみ)。阿那は書紀の景行の巻【十三丁(二十七年十二月)】に「穴海」、安閑の巻に【六丁(二年五月)】「婀娜國」とあるところで、和名抄の備後国安那郡【やすな】がそうだ。【「やすな」は「あな」と言うことを嫌って、後に言い変えたのである。こういう例は他国にもある。】国造本紀に「吉備の穴国造は、纏向の日代の朝(景行天皇)の御世、和邇の臣と同祖、彦訓服(ひこくにぶく)命の孫、八千足尼(やちのすくね)を国造とした」とある。【彦訓服命は、天押帯日子命の三世の孫である。】新撰姓氏録の右京皇別に「安那公(あなのきみ)は天足彦國押人命の子孫である」とある。【この「那」の字を印本で「郡」と書いているのは誤っている。古い本には「那」としてある。この氏は、この記に臣姓とあるのに、姓氏録に公とあるのはどういうことか。○この姓は、近江国坂田郡阿那がある。垂仁紀に吾名邑とあるのがそうだ。また美濃国郡上郡に安那がある。それをおいて備後国の安那だと言うのは、国造本紀によっている。このことから、上記の大坂も備後だろうと言うのである。】○多紀臣(たきのおみ)。丹波国の多紀郡から出たのか。多紀という地名は他にもあるだろうから、定めることはできない。この姓も他に見えない。○羽栗臣(はぐりのおみ)。和名抄に「尾張国葉栗郡【はくり】葉栗郷」がある。これから出たのだろう。【山城国久世郡にも羽栗郷がある。】続日本紀に「宝亀七年八月丙辰朔癸亥、山背国乙訓郡の人、羽栗翼(つばさ?)に臣の姓を賜う」とある。【日本後紀や文徳実録にも羽栗氏の人の名が見える。】新撰姓氏録の左京皇別に「葉栗は、和邇部朝臣と同祖、彦姥津命の三世の孫、建穴(たけあな?)命の子孫である」、【「穴」は、一本に「安」と書いてある。】また右京皇別に「葉栗は小野朝臣と同祖、彦國葺命の子孫である」とある。【臣姓がないのはどういうことだろう。】○知多臣(ちたのおみ)。和名抄に尾張国智多郡【万葉巻七(1163)に「知多之浦(ちたのうら)」】とあり、これから出たのだろう。羽栗と並んでいるからだ。この姓は他に見当たらない。○牟邪臣(むざのおみ)。和名抄に「上総国武射(むざ)郡」とあるのがそうだ。【大和国高市郡の身狹(むさ)ではない。邪、射などは濁音の仮名である。】国造本紀に、「武社(むざ)国造は、志賀高穴穂の朝(成務天皇)の御世、和邇臣の祖、彦意祁都(ひこおけつ)命の孫、彦忍人(ひこおしひと)命を国造と定めた」という。続日本紀に「神護景雲三年三月、陸奥国牡鹿郡の人、春日部奥麻呂ら三人に、武射臣の姓を与えた」とあるのは、本来この氏の人だったのだろう。【三代実録卅六にも、武射臣助守(すけもり?)などの名が見える。○舒明紀、皇極紀に見える身狹君、身狹臣は、別姓だろう。】○都怒山臣(つぬやまのおみ)。この地名も姓も、古い書物に見当たらない。続日本紀九に角山君内麻呂という名は見える。【これは君姓だから別の氏か、または同姓か分からない。しかし角山は同じ地名だろう。この人は「私的に蓄えた穀物を陸奥国の鎮所に献じた」とあるから、東国の人だろう。検討を要する。】伊勢飯高君(いせのいいたかのきみ)。和名抄の「伊勢国飯高郡【いいたか】」のことである。【皇太神宮儀式帳に「忍飯高(おしいいたか)国」と見え、倭姫命世記に「そのとき飯高縣の造の祖、乙加豆知(おとかずち)命に、(倭姫が)『あなたの国は何というのですか』と訊ねると、『意須比飯高(おすいいいたか)国と言います』と答え、神田と神戸を奉った。倭姫命は『飯が高い(収穫が多い)というのは縁起のいい名だわ』と喜んだ」とある。】続日本紀に「天平十三年四月甲申、伊勢国飯高郡の采女、正八位下、飯高君笠目(かさめ)の親族、縣造らに、みな飯高君の姓を与えた」、また「神護景雲三年二月辛酉、伊勢国飯高郡の人、飯高公家繼(やかつぐ?)ら三人に宿禰姓を与えた」、また「宝亀六年四月戊辰、飯高公若舎人(わかとね)ら十一人に、宿禰姓を与えた」とある。【また「同八年五月戊寅、典侍(ないしのすけ)従三位、飯高宿禰諸高(もろこ)が死んだ。伊勢国飯高郡の人である。性質が大変廉直・謹厳で、志慕は貞潔だった。奈保山に葬った天皇(元正天皇)の御世に内教坊(舞踊や音楽を教えるところ)に勤めたが、ついには本郡の采女に加えられた。飯高氏が采女を奉るのは、これから始まった。四代に仕え、始終落ち度なく、死んだときは八十歳だった」とある。この人は上記の采女、笠目である。後に名を諸高と変えたのだろう。宝亀元年のところにも諸高とある。この笠目の「目」を廿二の三葉では「日」に誤り、廿三の十四葉では「因」と誤っているが、古い本ではみな「目」とある。当時この氏人が朝廷に親しく仕えて栄えたのは、この人のゆかりと思われる。】また「同九年二月癸巳、飯高公大人、諸丸の二人に宿禰姓を与えた」と見え、続日本後紀に「承和三年三月庚子朔丙午、左京の人飯高宿禰全雄、同姓弟高ら五烟を、宿禰姓を改めて朝臣とした」【「全雄」は、一巻には「今雄」とある。】また「同九年六月甲子朔丙寅、伊勢国の人飯高公常比麻呂、弟五百繼、飯高宿禰濱水ら、男女廿七人に飯高朝臣の姓を与え、左京三條に編入した」と見え、三代実録には「貞観十五年十二月二日、越前国敦賀郡の人、伊部造豊持(とよもち)に飯高朝臣の姓を与え、本居を改めて、左京三條五坊を本貫とした。その先祖は孝昭天皇の皇子、天足彦國押人命から出た」とある。○壹師君(いちしのきみ)。和名抄の「伊勢国壹志郡【いちし】」がこれである。続日本紀十三に「壹師君の族、古麻呂(こまろ)」、続日本後紀十九に「壹志公吉野」などいう人が見える。この吉野は、文徳実録斉衡二年のところに「壹志宿禰吉野」とあるから、これ以前に宿禰姓になったのが、史書では漏れているのだろう。三代実録には「貞観四年七月廿八日、左京の人、壹志宿禰吉野に、大春日朝臣の姓を与えた。天足彦國押人命の子孫である」ともある。○近淡海國造(ちかつおうみのくにのみやつこ)。これはいまだ物の本に見えない。【書紀の崇峻の巻に近江臣滿(みつる?)という人が見えるが、これはこの氏かどうか分からない。国造本紀には、「淡海国造は、志賀高穴穂の朝の御世に、彦坐王(ひこいますのみこ)の三世の孫、大陀牟夜別(おおだむやわけ?)を国造に定めた」とある。】書紀には、天足彦國押人命は、和珥(わに)臣らの始祖である」とある。この記では、この氏は漏れている。これは大変広い範囲に居住した姓だから、ここでも載せなければいけないところだ。この姓のことは伊邪河の宮の段で言う。この皇子の後裔には他にも多くの姓があることが、新撰姓氏録に見える。また三代実録に民首(たみのおびと)方永(かたなが?)という人がこの命の子孫とある。続日本後紀四にも「近江の国人、嶋朝臣眞行(まゆき)に高生朝臣の姓を与えた。觀松彦香殖稻天皇の子孫である」【「嶋朝臣」は、古い本では「鳥脚臣」とある。】とあり。これもこの皇子の子孫だろう。

 

天皇御年玖拾參歳。御陵在2掖上博多山上1也。

訓読:このスメラミコトみとしココノソヂマリミツ。みはかはワキノカミのハカタのやまのエにあり。

口語訳:この天皇は、崩じたとき九十三歳だった。御陵は掖上の博多山の地にある。

御年玖拾參歳(みとしココノソヂマリミツ)。書紀には「八十三年秋八月丁巳朔辛酉、天皇は崩じた」とだけあって、年齢が書かれていない。【ただし「父の天皇の廿二年に皇太子となった。年十八歳」とあるから、百十四歳ということになる。】書物によっては百十四歳、百十五歳、あるいは百二十歳ともいう。○掖上博多山上(ワキノカミのハカタのやまのエ)。書紀の孝安の巻に「三十八年、秋八月丙子朔己丑、觀松彦香殖稻天皇を掖上の博多の山上の陵に葬った」とある。三十八年というのは、腑に落ちないことである。【旧事紀には「八十三年、天皇が死んだ。明年八月に葬った」とあるが、これは書紀によりながらも三十八年ということを疑い、推測で明年と書いたものだから、拠り所にならない。】諸陵式に「掖上の博多の山上の陵は、掖上の池心の宮で世を治めた孝昭天皇である。大和国葛上郡にある。兆域東西六町、南北六町、守戸五烟」とある。大和志には「室村にある。陵のそばに八幡の祠と塚四つがある」という。【○一般に御陵の地を「山の上」、「坂の上」などと書いてあるのは、上であれ下であれ、「そのあたり」ということである。いにしえは「うえ(旧仮名ウヘ)」とか「ヘ」というのはみなその意味だった。今言う「上」の意味とは限らない。これは古代の御陵の今ある状態を見て、その地形が古記と違うように考える人もありそうだから、思いつくままに注意しておくのである。】

 


もくじ  前へ  次へ
inserted by FC2 system