『古事記傳』24


玉垣の宮上巻【垂仁天皇上】

 

伊久米伊理毘古伊佐知命。坐2師木玉垣宮1。治2天下1也。此天皇。娶2沙本毘古命之妹。佐波遲比賣命1。生御子。品牟都和氣命。<一柱。>又娶2旦波比古多多須美知能宇斯王之女。冰羽州比賣命1。生御子。印色之入日子命。<印色二字以レ音。>次大帶日子淤斯呂和氣命。<自レ淤至レ氣五字以レ音。>次大中津日子命。次倭比賣命。次若木入日子命。<五柱。>又娶2其冰羽州比賣命之弟。沼羽田之入毘賣命1。生御子。沼帶別命。次伊賀帶日子命。<二柱。>又娶2其沼羽田之入日賣命之弟。阿邪美能伊理毘賣命1。<此女王名以レ音。>生御子。伊許婆夜和氣命。次阿邪美都比賣命。<二柱。此二王名以レ音。>又娶2大筒木垂根王之女。迦具夜比賣命1。生御子。袁邪辨王。<一柱。>又娶2山代大國之淵之女。苅羽田刀辨。<此二字以レ音。>生御子。落別王。次五十日帶日子王。次伊登志別王。<伊登志三字以レ音。>又娶2其大國之淵之女。弟苅羽田刀辨1。生御子。石衝別王。次石衝毘賣命。亦名布多遲能伊理毘賣命。<二柱。>凡此天皇之御子等。十六王。<男王十三。女王三。>

訓読:イクメイリビコイサチのミコト、シキのタマカキのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、サホビコのミコトのいも、サワジヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、ホムツワケのミコト。<ひとはしら。>またタニハのヒコタタスミチノウシのミコのミむすめ、ヒバスヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、イニシキノイリビコのミコト、つぎにオオタラシヒコオシロワケのミコト、つぎにオオナカツヒコのミコト。つぎにヤマトヒメのミコト、つぎにワカキイリビコのミコト。<いつはしら。>またそのヒバスヒメのミコトのおと、ヌバタノイリビメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、ヌタラシワケのミコト、つぎにイガタラシヒコのミコト。<ふたばしら。>またそのヌバタノイリビメのおと、アザミノイリビメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、イコバヤワケのミコト、つぎにアザミツヒメのミコト。<ふたばしら。>またオオツツキタリネのミコのむすめ、カグヤヒメのミコトをめして、ウミませるミコ、オザベのミコ。<ひとはしら。>またヤマシロのオオクニノフチがむすめ、カリバタトベをめして、ウミませるミコ、オチワケのミコ。つぎにイカタラシヒコのミコ、つぎにイトシワケのミコ。またそのオオクニノフチがむすめ、オトカリバタトベをめして、ウミませるミコ、イワツクワケのミコ、つぎにイワツクビメのミコト、またのナはフタジノイリビメのミコト。<ふたばしら。>すべてこのスメラミコトのミコたち、とおまりむつばしら。<ひこミコとおまりみはしら。ひめミコみはしらにます。>

口語訳:伊久米伊理毘古伊佐知命は、師木の玉垣の宮で天下を治めた。この天皇が沙本毘古命の妹、佐波遲比賣命を娶って生んだ子は品牟都和氣命である。<一人。>また旦波の比古多多須美知能宇斯王の娘、冰羽州比賣命を娶って生んだ子は、印色之入日子命、次に大帶日子淤斯呂和氣命、次に大中津日子命、次に倭比賣命、次に若木入日子命の五人である。またその冰羽州比賣命の妹、沼羽田之入毘賣命を娶って生んだ子は、沼帶別命、次に伊賀帶日子命の二人である。またその沼羽田之入日賣命の妹、阿邪美能伊理毘賣命を娶って生んだ子は、伊許婆夜和氣命、次に阿邪美都比賣命の二人である。また大筒木垂根王の娘、迦具夜比賣命を娶って生んだ子は、袁邪辨王である。<一人。>また山代の大國之淵の娘、苅羽田刀辨を娶って生んだ子は、落別王、次に五十日帶日子王、次に伊登志別王の三人である。またその大國之淵の娘、弟苅羽田刀辨を娶って生んだ子は、石衝別王、次に石衝毘賣命、またの名は布多遲能伊理毘賣命の二人である。この天皇の御子は、全部で十六人だった。<男十三人、女三人。>

この天皇の後の諡は垂仁天皇という。○師木は前【伝廿三の二葉】に出た。○玉垣宮(たまかきのみや)。玉垣とは、垣を称賛して言う。朝倉の宮(雄略天皇)の段に「美母呂爾、都久夜多麻加岐(みもろに、つくやたまかき)」、書紀の~武の巻に「玉牆内國(たまかきのうちつくに)」などとある。ここでは、それをその宮の名としたのだ。書紀には「二年冬十月、纏向に都を変えた。これを珠城宮(たまきのみや)という」とある。【「纏向(まきむく)」のことは日代の宮(景行天皇)の段で言う。「師木」というのは広い範囲を指す名で、纏向もその一部である。師(賀茂真淵)は書紀に珠城宮とあるので、「この記の玉垣も『たまき』と読むべきだ。『き』は『かき』の略である」と言ったが、「き」なら木、または城と書くのが普通なのに垣と書いたからには、この記の伝えは「かき」なのだ。】この宮は帝王編年記に「大和国城上郡、今の纏向河の北、里の西の田の中である」と言っている。【「纏向川」は穴師(あなし)川とも言って、巻向山から出て穴師村を通って西に流れている。】大和志には「今は穴師村の西にある」という。確かにそのあたりだろう。【「穴師」も古い地名で、延喜式神名帳に「穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社」が載っており、万葉巻七(1100)に「巻向之病足之川(まきむくのあなしのかわ)」、巻十二(3126)に「纒向之痛足乃山(まきむくのあなしのやま)」などがある。】○沙本毘古命(さほびこのみこと)、佐波遲比賣命(さわじひめのみこと)。ともに伊邪河の宮の段【伝廿二の五十八葉】に出た。○品牟都和氣命(ほむつわけのみこと)。後には「本牟智和氣(ほむちわけ)命」とある。この名のことは、そこで言う。書紀には「二年春二月辛未朔己卯、狹穂姫を立てて皇后とした。皇后は譽津別(ほむつわけ)命を生んだ。天皇はこの子を愛し、常に側に置いていたが、壮年になっても物を言わなかった」とある。○旦波比古多多須美知能宇斯王(タニハのヒコタタスミチノウシのミコ)は伊邪河の宮の段【伝廿二の六十二葉】に出た。ところでここには諸本に「能」の字がないのを、延佳は前文に基づいて補った。師もそれを採用し、ここでもそれによった。【この名は、ここ以前に二箇所あり、どちらも「能」がある。後にも二箇所あって、その一つはこの字がなく、一つにはある。そのないところも延佳は補った。「うし」という言葉は、上に「〜の」と言わなければならないから、ここもそうあるはずのところである。】○冰羽州比賣命(ひばすひめのみこと)。前【伝廿二の七十葉】に出た。○印色之入日子命(いにしきのいりびこのみこと)。「印色」は、書紀によると「いにしき」である。名の意味は、「印」は「印惠(いにえ)」【崇神天皇の名にある】と同じで、「色(しき)」は磯城だろう。「入」も前【伝廿二の四十五葉】に言った通りである。【三代実録四に、薩摩の国に「伊爾色(いにしき)の神」というのが見える。】○大帶日子淤斯呂和氣命(おおたらしひこおしろわけのみこ)。名の意味は、「帯」は借字で「足らし」。「淤斯呂」は「押知(おししろ)」だろう。【書紀では「忍代(おしろ)」と書かれている。この「押」は「おしなべて」、「押照(おしてる)」などの「押」で、「大(おおし)」、「凡(おおし)」などに通じる。「知」は「所知看(しろしめす)」意味だ。】「和氣」については日代の宮の段【伝廿六の十九葉】で言う。【文徳実録八に伯耆国の大帯孫(おおたらしひこ)の神が見える。】○大中津日子命(おおなかつひこのみこと)。名には特別な意味はない。書紀の應神の巻に「中子(なかつこ)」、継体の巻、欽明の巻に「仲(なかち)」、舒明の巻に「仲子(なかち)」、万葉巻十四(3438)に「等能乃奈可知(とののなかち)」【「殿の仲子」である。続日本紀廿四、廿六には女の名で「中千(なかち)」というのがある。「仲智」とも書く。中昔の物語書では、第二子に当たる女子を「中の君」と言っている。】などがある。ところでこの皇子は、書紀では大中津姫命とあって、皇女である。このことは後の文で考えを述べる。倭建命の孫に同名の人がいる。○倭比賣命(やまとひめのみこと)。【世人はこの「比賣」の「比」を濁って読むが、間違いである。この記で清音であることは明白だ。】名の意味には取り立てて言うことはない。この天皇の妹に「千々都久倭姫命【また弟に倭日子命】というのもある。この比賣は、古語拾遺に「天皇の第二皇女、母は狹穂姫」とある。異なる伝えだ。【書紀には母の氷羽州比賣命を丹波から娶ったのは十五年のこととしており、その第四子とすると、十八年か十九年頃の生まれと思われるが、そうすると廿五年に天照大御神を託された時には、まだ七、八歳以下という計算になり、年が合わない。これを考えると、母は狹穂姫という方が正しいように見える。しかし全体に書紀の年紀は、拠り所にならないことが多いので、古語拾遺の説は一つの異伝としておくべきだ。書紀の年紀が信じがたいというのは、たとえば景行天皇は六十年に百六歳で崩じたと言うから、垂仁天皇の五十四年に生まれたことになるが、その妹のはずの倭姫命が廿五年に生まれているのはどういうことか。また十五年に娶った氷羽州比賣命は、五十四年にはもう七十歳にもなっていたはずだが、それから子を生んだとはどうしたことか。書紀にはこのように年紀の食い違いが多い。倭姫命世記という書物には、崇神天皇の五十八年のところでこの比賣のことを書いている。それは偽書だから論ずるまでもないが、書紀~代巻の口决に「大倭姫命は垂仁天皇の娘である。ある日、箱の中に小さな虫が入っていた。それが化して人となった」と言い、またある書物には「開化天皇の手箱に物があった。小さな虫が蠢いているようだった。ところがよく見ると、人の顔をしていた。天皇が不思議に思って養っておくと、成長して美女になった。これが倭姫命である」など、みな信じられないことだ。また口决で「雄略天皇の御世に五百歳で大神宮に奉仕していた」というのも、上記の「世記」に基づいたでたらめだ。】○若木入日子命(わかきいりびこのみこと)。「木」は「城」の意味である。書紀には「皇后日葉酢媛(ひばすひめ)命は、三男二女を生んだ。第一に五十瓊敷入彦(いにしきいりびこ)命、第二は大足彦(オオタラシヒコ)尊、第三は大中姫(おおなかつひめ)命、第四に倭姫命、第五に稚城瓊入彦(わかきにいりびこ)命」とある。○沼羽田之入毘賣命(ぬばたのいりびめのみこと)。名の意味は分からない。沼羽田は、丹波の地名ではないだろうか。書紀には「淳葉田瓊入媛(ぬばたにいりびめ)」とある。だが前に丹波の道主王の子を挙げたところでも、後でこの兄弟を挙げたところでもこの名は見えない。このことは後で論ずる。○沼帶別命(ぬたらしわけのみこと)。「沼」の意味は、前【伝廿三の六葉】で言った。書紀には「鐸石別(ぬでしわけ)命」とある。【「ぬたらし」と「ぬでし」は、一つの語が転じたものと思われる。】新撰姓氏録には、和氣朝臣、稻城壬生公、山邊公などをこの皇子の子孫と書いてある。このことは後【石无別(いわなしわけ)のところ】で言う。○伊賀帶日子命(いがたらしひこのみこと)。「伊賀」の意味は定かでない。書紀には「妃の淳葉田瓊入媛は、鐸石別命と膽香足姫(いかたらしひめ)命とを生んだ」とある。【日子と姫と、伝えが異なっている。】ところがこの記でも書紀でも、次にまた五十日帶日子王(いかたらしひこのみこ)という名がある。【「伊賀」と「五十日」とは、清濁が異なるだけである。書紀では姫と彦だから、「膽香」と「五十日」は同じことのように思えるが、文字を変えて書いているのは、少し意味が違うのだろうか。】○阿邪美能伊理毘賣命(あざみのいりびめのみこと)。【旧印本、他一本に、「美」の下にもう一つ「美」の字があるのは誤りである、今はそれのない本によっている。】名の意味は思い付かない。書紀では「薊瓊入媛(あざみにいりびめ)」とある。【「薊」は借字だろう。和名抄に「薊は和名『あざみ』」とある。】だがこの名も、前後にも兄弟を挙げたところにも見えない。さらに後で言う。○伊許婆夜和氣命(いこばやわけのみこと)。「婆」の字は、諸本に「波」と書いてあるが、ここは真福寺本によった。後の方では諸本みな「婆」とあるからだ。名の意味は分からない。書紀には「池速別(いけばやわけ)命」とある。【ある書に、この命は下野国の室の八嶋に住んだと言っている。室の八嶋というのは池で、中に小さい島が八つあり、その池は火の気があって、いつも煙が立っているという。今は池の形だけが残って水も涸れ、煙も立たないそうだ。古今和歌六帖の歌(1910)にも「下野(しもつけ)や室の八嶋に立つ烟云々」とある。この説の通りなら、「池」はその池に因むのかも知れない。この記の一本に「許」の字を「計」と書いたものがある。しかし「計」の字は記中で仮名に用いた例はなく、一方「許」を「計」と取り違えた例は多いから、「計」は間違いなく誤写である。あるいは「祁」の字かとも思ったが、陸奥の神名などでも「伊去(いこ)」とあるから論を俟たない。】続日本紀、新撰姓氏録、三代実録などには「息速別(いこはやわけ)命」とある。【「息」の字は「いこう(憩う)」という訓を取ったのだろう。「いき」ではあるまい。】延喜式神名帳に「陸奥国牡鹿郡、伊去波夜和氣命(いこばやわけのみこと)神社」がある。○阿邪美都比賣命(あざみつひめのみこと)。母の名に因む名だろう。書紀では「次の妃薊瓊入媛は、池速別命、稚淺津姫(わかあさつひめ)命を生んだ」とある。○大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)は伊邪河の宮の段に出た。【伝廿二の五十二葉】○迦具夜比賣命(かぐやひめのみこと)。名の意味はかがやくということか。それなら称える意味の名だ。竹取物語のかぐや姫も、容貌が美しいのを誉め讃えた名である。前に「大筒木垂根王と讃岐垂根王の二王の娘は五人いた」とあったが、この比賣もそのうちの一人だろう。○袁邪辨王(おざべのみこ)。名の意味は思い付かない。あるいは「邪」の字が「那」の誤りかも知れない。【これを取り違えた例が時々ある。】應神天皇の妃に「袁那辨郎女」という人がいる。書紀には、この皇子の名はない。○山代大國之淵(やましろのおおくにのふち)。和名抄に「山城国宇治郡、大國郷」が載っている。この地だろう。「淵」は人名である。○苅羽田刀辨(かりばたとべ)。伊邪河の宮の段に同名の人がいて、そこ【伝廿二の五十六葉】で言った。【「苅羽田」は地名であり、その郷の名で呼んでいるために同名になったのだ。】○落別王(おちわけのみこ)。書紀に「祖別命(おちわけのみこと)」の名がある。【「祖」は「おぢ」である。】新撰姓氏録に「於知別(おちわけ)命」、旧事紀十に「意知別(おちわけ)命」と書かれている。名の意味は、「お」は「大知」で例の称え名、「ちわけ」は、書紀で景行天皇の子に「國乳別(くにちわけ)皇子」がいる。○五十日帶日子王(いかたらしひこのみこ)。「五十日(いか)」は「厳」の意味だろう。○伊登志別王(いとしわけのみこ)。「伊」の意味は分からない。「登志」は「速(と)し」だろう。書紀には「膽武別(いたけわけ)命」とあり、「武(たけき)」と「速(と)き」とは結局同じ意味だからだ。旧事紀には「五十建石別(いたけしわけ)命」とある。【延佳本には「速石(とし)」とあるが、書紀と考え合わせると「建」の字だろう。師は書紀の「膽武(いたけ)」もこの記に従って「いとし」と読んだが、「武」を「とし」と読む例はないから、それは「いたけ」である。】書紀には「山背の苅幡戸邊を娶って三男を生んだ。一人目は祖別命、二人目は五十日足彦(いかたらしひこ)命、三人目は膽武別命である」とある。○弟苅羽田刀辨(おとかりばたとべ)は、上に出た苅羽田刀辨の弟(妹)である。○石衝別王(いわつくわけのみこ)、次石衝毘賣命(いわつくびめのみこと)。上の五字は諸本でいずれも脱けている(石衝毘賣命の名しかない)のを、延佳が補って、「下に『二柱』と書いてあり、後にも石衝別王の名が出てくるので、脱落したことに疑問の余地はない」と言ったが、その通りである。だからそれに従った。【最後の「十六王」、また「男王十三」というのも、ここにこの名がなければ数が合わない。】「衝」は「つく」と読む。【師は「つき」と読み、「石衝(いわつき)」という地名だろうと言ったが、どうだろう。】名の意味は、「石」は称え名だろう。「衝」は分からない。この天皇の妹に「千々都久倭比賣命」という人がいる。その「都久」と同意だろう。ところで上宮記【釈日本紀に引用】に、「伊久牟尼利比古大王(いくむにりひこのおおきみ)の生んだ子は伊波都久和希(いわつくわけ)【継体天皇の母、振媛命の六世の祖である。】」とある。○布多遲能伊理毘賣命(ふたじのいりびめ)。名の意味は思い付かない。【「布多遲」は地名だろうか。】書紀の仲哀の巻に「兩道入姫(ふたじのいりびめ)命」がある。書紀には「三十四年春三月、天皇が山背に言った折、左右の人が『この国には美人がいます。綺戸邊(かむばたとべ)と言って、姿形がたいへん美しいということです。山背の大國不避の娘だそうです』と言った。天皇は矛を取って祈り、『もしその美人を娶ることになるのだったら、この道で何か瑞兆を見せよ』と言った。行宮(仮の宮)に到着しようという頃、川から大亀が出て来た。天皇が矛でその亀を刺すと、亀はたちまち白い石に変わった。そこで天皇は『この不思議があったことからすると、綺戸邊を娶ってよろしいという徴か』と言い、彼女を後宮に召して、磐衝別(いわつくわけ)命を生んだ」とあって、石衝毘賣命の名はない。【この二人の名は、上の記事で天皇が亀を刺したらたちまち白い石に変わったとあることから、石を衝くという意味ではないかと思う人もあるかも知れないが、そうではない。ところでこの母の父の名を「不避」とあるのはどうだろう。ある説に「古事記に『淵』とあるから、避の字は遲の誤りで、これも『ふち』だろう」と言った。そういうことかも知れない。またこの綺戸邊と苅幡戸邊を、文字を変えて違う名のように書き、苅幡戸邊を大國不避の娘でないかのように書いているのも、みなどうだろう。この記の伝えこそ明快に思われる。】しかし仲哀の巻に「母皇后を兩道入姫命という。活目入彦五十狹茅天皇(垂仁)の娘である」と書いてあるから、やはりこの記が正しいのである。○男王十三。このうちはじめの八人はみな「命」と書いてあるのに、後の五人は「王」としているのは、どういう区別があるのか、【生んだ母の尊卑によるのかとも思えるが、伊許婆夜別命など、はじめには「命」とあるのが、後では「王」になっている。】この後の代の皇子たちも、決まった書き方をしていない。

 

故大帶日子淤斯呂和氣命者。治2天下1也。<御身長一丈二寸。御脛長四尺一寸也。>次印色入日子命者。作2血沼池1。又作2狹山池1。又作2日下之高津池1。又坐2鳥取之河上宮1。令レ作2横刀壹仟口1。是奉=納2石上神宮1。即坐2其宮1。定2河上部1也。

訓読:かれオオタラシヒコオシロワケのミコトは、アメノシタしろしめしき。<ミみのたけヒトツエマリフタキ。ミはぎのながさヨサカヒトキましき。>つぎにイニシキイリビコのミコトは、チヌのイケをつくり、またサヤマのイケをつくり、またクサカのタカツのイケをつくりたまいき。またトトリのカワカミのミヤにましまして、タチちぢをつくらしめたまいき。こをイソノカミのかみのみやにオサメまつりき。すなわちそのミヤにましまして、カワカミベをさだめたまいき。

口語訳:大帶日子淤斯呂和氣命は、後に天下を治めた。<その身長は一丈二寸、脛の長さは四尺一寸あった。>次に印色入日子命は血沼池を作り、狹山池を作り、また日下の高津池を作った。また鳥取の河上の宮に住んで、横刀一千口を作らせ、これを石上神宮に奉納した。そこでその宮で河上部を定めた。

故大帶日子云々。書紀によると「三十年春正月、天皇は五十瓊敷命と大足彦尊に『お前たち、それぞれ欲しいものを言え』と言った。すると五十瓊敷命は『僕は弓矢がほしい』と言った。弟の王は『僕は皇位がほしい』と言った。そこで天皇は『それぞれの心の通りにしてやろう』と言い、五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には『お前は必ず私の位を継げ』と言った」とある。○御身長(ミみのたけ)。「長」は「高」と同言で、高さというのと同じだ。【物の長さを「たけ」と言うのは、立っているものに限って言う言葉で、横たわっているものの長さまで「たけ」と言うのは間違っている。】○一丈二寸は「ひとつえまりふたき」と読む。「丈(つえ)」という語は、杖で物の長さを測ったことから出た。万葉巻十三【三十四丁】(3344)に「杖不足八尺乃嘆(つえたらずやさかのなげき)」とあるのは、一丈に足りない八尺ということだ。【「百(もも)足らず八十(やそ)」などと言うのと同じ。】和名抄に「杖は『つえ(旧仮名:つゑ、ローマ字ではtsuwe)』」とある。【「つえ(ローマ字でtsue)」と書くのは誤りである。】「寸」は「きざみ」の意味である。万葉に「たまきはる」を「玉刻春」と書いて、「き」に「刻」の字を借りているのでも分かる。ところでここで言う丈は、令の定めにある丈よりも短いのだろうと師は言った。そうかも知れない。すぐには決められない。<訳者註:大宝の律令によると一丈はおよそ三メートルになる。古代にはもう少し短かったと考えられている>○御脛(ミはぎ)。和名抄に「説文にいわく、コウ(月+行)は脛である。釋名にいわく、脛は莖である、それは物の莖に似ているからである。和名『はぎ』」とある。膝から下の部分を言う。○四尺一寸は「よさかひとき」と読む。尺(さか)は、師の説に「『十量(そばかり)』が縮まった語である。尺の字の音だというのは誤りだ」とある。【「そば」は「さ」に縮まる。「り」が省かれるのは普通だ。若櫻の宮(履中天皇)の段に「曾婆加理(そばかり)」という人の名もある。尺の字の音と思うのは、「しゃく」を直音(拗音でない単純な音)で言えば「さく」となるが、その「く」が「か」に転じたと解釈するわけである。しかし古言が自然と漢音に似ていることもある。少しでも似ていたらみな字の音と思うのは間違いだ。】ところで身長一丈二寸ということからすると、脛の長さが四尺一寸というのは長すぎる。そこで思うに、他の部分に比べ、脛が特に長かったのだろう。この部分の長さを特記したのは、そのためだろう。○血沼池(ちぬのいけ)。この地名は白檮原の宮の段【伝十八の三十九葉】で言った。書紀には「三十五年秋九月、五十瓊敷命は河内国で、高石(たかし)の池と茅淳(ちぬ)の池を作った」とあり、和泉志に「珍努(ちぬ)の池は日根野郡の野村の西にある。広さ三百三十畝、印色入彦命が掘ったと伝えられ、今は布池という」とある。○狹山池(さやまのいけ)。和名抄に「河内国丹比郡、狹山郷」がある。今も【丹南郡にあり】広い邑である。延喜式神名帳に狹山神社も出ている。書紀では崇神の巻に「六十二年秋七月、詔して・・・『今河内の狹山の埴田は水が少ない。だからその国の百姓は農事を怠っている。たくさん池溝(うなで)を作って、民の業を盛んにせよ』。冬十月、依網の池を作った。十一月、苅坂の池を作った、一説に、天皇は桑間の宮に滞在して、この三つの池を作ったと言う」とある。これに狭山の池も出ているはずだが、それがないのは脱けたのか。この御世【垂仁】の巻にも見えない。続日本紀に「天平四年、河内国の丹比郡に狹山池を作った」、【これは別の池だろう。】「天平宝字六年四月、河内国の狹山池の堤が壊れた。そこで単功八万三千人(延べ人数か)を使って修復した」と見え、延喜式神名帳に「同郡狹山堤(さやまのつつみ)神社【大、月次・新嘗】」がある。これはこの堤を守るために祭った神ではないだろうか。【この社は、今も池の南にある。】堀川院の後度百首(永久百首121)に「春深き(み?)狹山の池のねぬなはの、くるしげもなく蛙鳴なり」、河内志に「丹南郡の狹山池は、狹山村にある。錦部郡の天野・小山田の二つの川水を集めて池にしている。周囲が一里ほどある。・・・永禄年間に安見美作守という者が重修した。慶長年間に片桐東市正(且元)が更に補修した」と言う。今もかくれもない大きな池である。○日下之高津池(くさかのたかつのいけ)。この日下は和泉国大鳥郡であって、白檮原の宮の段【伝十八の三十二葉】に出た。参照せよ。書紀には高石(たかし)の池とあるから、ここも「津」の字は「師」の誤りかも知れない。【延喜式神名帳には和泉国大鳥郡に高石(たかし)神社がある。持統紀に「河内國大鳥郡、高脚(たかし)の海」とある。万葉巻一(66)に「大伴乃高師能濱乃(おおとものたかしのはまの)云々」、後世の歌もさらに多い。今も高石村があり、池があるのはいにしえの池ではないだろうか。】ただし、白檮原の宮の段で「日下之楯津」と名付けたのを後に「蓼津」と言うとあるから、「高津(たけつ)」と言ったかも知れない。【「たけ」と「たて」は相近い言葉だ。】また書紀の~武紀にも「草香の津に到って、盾を立てて雄誥(おたけり)」とあるから、「誥津(たけりつ)」とも言ったのか。いずれにせよこの日下は「津」だから、高津という名も地形に因るだろう。するとその池は、今もあるかどうか分からない、【上記の高石村にあるのではないか。ある説でこの池を河内国河内郡の日下村にあり、今は御所の池と呼ぶというのは誤りだ。】○鳥取之河上宮(ととりのかわかみのみや)。和名抄に「和泉国日根郡、鳥取【ととり】郷」がある。ここである。【今も鳥取郷と言って十二村がある。】新撰姓氏録の和泉国【神別】に鳥取氏がある。この氏人が住んだことから、地名となったのだろう。名の由縁は、後に鳥取部のところで言う。河上は、書紀には「菟砥川上宮(うどのかわかみのみや)」とあり、宇度川の上流である。【この川は同郡の玉田山というところから出て、自然田(じねんだ)というあたりで井關川に合流し、その下流で金熊川と合流して、それより下流では大川と言う。いにしえは下流まで宇度川と言ったのだろう。このあたりはすべて今の鳥取郷のうちにある。和泉志に「菟砥河上宮は、自然田村にある」と言う。この村も鳥取郷である。】諸陵式に「宇度墓は五十瓊敷入彦命である。和泉国日根郡にある。兆域東西三町、南北三町、守戸二烟」とある。【この墓が諸陵式に載っているのは、太子だったからだ。太子は、上代には一人と限らなかった。このことは白檮原の宮の段でも言った。さらに日代の宮の段でも言う。和泉志には「宇度墓は自然田村の東、宇度の川上の玉田山にある」とある。】とするとこの命は、この河上の宮に住んでいたのだろう。○横刀は「たち」と読む。【太刀、剣などと違いはない。】○壹仟口は「知遲(ちぢ)」と読む。【「遲」は「二十(はたち)」、「三十(みそぢ)」、「百(ももち)」などの「ち」と同じ。「一(ひとつ)」、「二(ふたつ)」などの「つ」も同じである。】「壹仟」は一千の大字だ。【大字のことは伝五の六十二葉で言った。】「口」は書紀の垂仁の巻に「出石小刀一口」、神功の巻に「七枝刀一口」、雄略の巻に「大刀八口」などとあり、刀だけでなく鋤や鍬その他、ものによって「幾口」と言う。【延喜式の色々な物の注を見よ。】刀の場合は「幾柄」と言うこともある。【後世では太刀幾振、刀幾腰と言うのと同じだ。】○石上神宮(いそのかみのかみのみや)。前【伝十八の五十二葉】に出た。書紀には「三十九年十月、五十瓊敷命は茅渟の菟砥の川上の宮に住んで、劔一千口を作った。そのためその劔を川上部(かわかみとも)という。またの名は裸伴という。【「裸伴」、これを「阿箇潘娜我等母(あかはだがとも)」と読む。】石上神宮に奉納した。そこで、後に五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を管掌させた」とある。【茅渟の菟砥の川上は、鳥取の川上のことだ。異伝ではない。裸伴の訓注の我(が)の字は濁音で、「の」の意味である。この我を「か」と清音に読んで、「あかはだか」と考えるのは誤りである。大刀の名に「伴」などと言ったのは、一千口を一部(ひととも)として、それらを総称して呼んだのだ。川上部の部(とも)も同じことである。それは川上の宮で作ったことから言う。裸(あかはだか)は、どういう理由から来たのか分からない。旧事紀では「赤花之伴(あかはなのとも)」とも言っている。】○其宮(そのみや)というのは河上の宮を指している、と師は言ったが、その通りだろう。【書紀でこの命が石上の神宝を掌ったとあるため、これも石上神宮を指しているように聞こえるかも知れないが、そうではない。後に「河上部を定めた」とあるのに続くからだ。この句は、「河上の宮に住んで」という句と連続したものだ。】○河上部(かわかみべ)。いにしえには「某部」という名称が多い。「部」は「群」ということで、【「むれ」は「め」に縮まり、「め」は「べ」と音が通う。】「とも」【「伴」とも書く。】とも言う。【それぞれの「部」の長を「とものみやつこ」と言った。「伴造」のことは伝七の八十葉で言った。参照せよ。】これは今の世の武家で「何々組」と言うのと同じだ。この河上部は、書紀に「一説では、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上の宮に住んで、鍛(かぬち)の河上という者に命じて、大刀一千口を作らせた。その時に楯(たてぬい)部、倭文(しどり)部、神弓削(かむゆげ)部、神矢作(かむやはぎ)部、大穴磯(おおあなし)部、泊橿(はつかし)部、玉作部、神刑部(かむおさかべ)、日置部、大刀佩(たちはき)部、全部で十の品部(しなじなのとも)を五十瓊敷皇子に与えた。その一千口の大刀は忍坂邑に蔵しておいたが、後に移して石上神宮に奉納した。云々」とあり、【ここで「鍛(かぬち)名は河上」というのは、千口の大刀を河上部と名付けた由来について、それを作った鍛冶の名だと語る一つの伝えだが、疑問である。河上は地名だからだ。】この品部はこの皇子に与えて、河上の宮に属する部となったため、この十箇の部を総称して河上部と呼んだのだ。【これは上記の大刀の「河上部」という名称とは別である。名が同じだからといって混同してはならない。】「定めた」というのは、公(朝廷)の立場から見ると、十箇の部をこの皇子に与えて、河上部としたのであり、皇子の方から見ると、与えられて、自分の部として管掌し支配したということだ。【記中、「〜部を定めた」という場合は、すべてその部を初めて立てたことを言う。しかしここでは、書紀の十箇の品部は、このとき初めて立てたようには思われない。それ以前からあったものをこの皇子に所属させたように思えるので、そういう意味に解釈して言う。】

 

次大中津日子命者。<山邊之別。三枝之別。稻木之別。阿太之別。尾張國之三野別。吉備之石无別。許呂母之別。高巣鹿之別。飛鳥君。牟禮之別等祖也。>次倭比賣命者。<拜=祭2伊勢大神宮1也。>次伊許婆夜和氣王者。<沙本穴太部之別祖也。>次阿邪美都比賣命者。<嫁2稻瀬毘古王1。>次落別王者。<小月之山君。三川之衣君之祖也。>次五十日帶日子王者。<春日山君。高志池君。春日部君之祖。>次伊登志和氣王者。<因レ無レ子而爲2子代1定2伊登志部1。>次石衝別王者。<羽咋君。三尾君之祖。>次布多遲能伊理毘賣命者。<爲2倭建命之后1。>

訓読:つぎにオオナカツヒコのミコトは、<ヤマノベのワケ、サキクサのワケ、イナキのワケ、アダのワケ、オワリのクニのミヌのワケ、キビのイワナシのワケ、コロモのワケ、タカスカのワケ、アスカのキミ、ムレのワケらのおやなり。>つぎにヤマトヒメのミコトは、<イセのオオカミのミヤをいつきまつりたまう。>つぎにイコバヤワケのモキは、<サホのアナホベのワケのおやなり。>つぎにアサミツヒメのミコトは、<イナセビコのミコにみあいましき。>つぎにオチワケのミコは、<オツキのヤマのキミ、カワのコロモのキミのおやなり。>つぎにイカタラシヒコのキミは、<カスガのヤマのキミ、コシのイケのキミ、カスガベのキミのおやなり。>つぎにイトシワケのミコは、<ミコまさざるによりて、ミコシロとしてイトシベをさだむ。>つぎにイワツクワケのミコは、<ハクイのキミ、ミオのキミのおや。>つぎにフタジノイリビメのミコトは、<ヤマトタケのミコトのきさきとなりたまいき。>

口語訳:次に大中津日子命は、<山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國の三野別、吉備の石无別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟禮之別らの先祖である。>次に倭比賣命は、<伊勢大神宮を拝祭した。>次に伊許婆夜和氣王は、<沙本の穴太部之別の先祖である。>次に阿邪美都比賣命は、<稻瀬毘古王に嫁いだ。>次に落別王は、<小月之山君、三川の衣君の先祖である。>次に五十日帶日子王は、<春日山君、高志池君、春日部君の先祖。>次に伊登志和氣王は、<子がなかったので子代として伊登志部を定めた。>次に石衝別王は、<羽咋君、三尾君の先祖。>次に布多遲能伊理毘賣命は、<倭建命の后となった。>

山邊之別(やまのべのわけ)。大和国の山邊郡だろうか。この氏が新撰姓氏録【右京皇別】に「山邊公は和氣朝臣と同祖」【和氣朝臣は後で出る。】とあるのはこの記と異なる。【このことは後の石无別のところで言う。】○三枝之別(さきくさのわけ)。地名だろうが、どこの国とも分からない。この氏についても考えはない。【三枝部連という姓があるが、異姓である。】○稻木之別(いなきのわけ)。これも地名だろうが、確定できない。【尾張国丹波郡、出羽国川邊郡などにこの地名がある。他にもあるだろう。】新撰姓氏録【左京皇別】に「稻城壬生公は、垂仁天皇の皇子、鐸石別命から出た」とあり、この氏の分かれだろう。○阿太之別(あだのわけ)。地名も氏も考えがない。【大和国宇智郡に阿陀郷があるが、それは白檮原の宮の段で阿陀と書いている。そこではないだろう。】あるいは「太」は「本」の誤りではないだろうか。このことは、次の「沙本穴太部之別」のところで言うことを参照せよ。○尾張國之三野別(おわりのくにのミヌのわけ)。「三野」は地名だ。延喜式神名帳に「尾張国中嶋郡、見努(みぬ)神社」がある。この地だろう。【延佳本では「之」の下に「別」の字がある、これは「三野」も国名と解釈して、別の姓としてさかしらに加えたものだ。諸本共に「之」の下には「別」の字はない。しかし一応延佳本を正しいと仮定するなら、「國」というのは尾張国の中の地名ということになるだろうか。そうでなければ「尾張之別」と書くべきところを「〜國之別」と言うのは他に例がない。だが尾張に「國」という地名もありそうにない。とにかく間違っていると思われる。しかしまた、三野を尾張の中の地名とするにしても、記中の他の例では、諸国の姓で国名を挙げたものも、みな「國」の字はない。ところがここで「國」とあるのは、隣国も三野国だから、「尾張の三野別」と言ったのでは、二国の名のようで紛らわしいので、「尾張國」と言って、その中の三野であることをはっきりさせようとしたのだろう。延佳分では「野」の下にも「之」の字があるが、これも他の例を見て挿入したのだろう。諸本共に「野」の下には「之」の字はない。記中、「〜別」という姓の多くは「之」の字が付いているが、その国の名を書いた姓では国名の下に「之」を置いて、地名の下では省いているのが通例である。次の「吉備之石无別」のような書き方である。他の段にあるのもあれこれ見比べて知るべきである。】この氏も考えがない。【三野臣、三野連などがあるが、別の氏である。】○吉備之石无別(きびのいわなしわけ)。和名抄に「吉備国磐梨【いわなす】郡、石生【いわなす】郷」がある。この地である。【この地名は、この記に石无と書いてあり、郡名も磐梨とあるから、本来は「いわなし」だったことが明らかだが、和名抄に「いわなす」とあるのは、やや後に言うようになったのだろう。「无」も「梨」も「なす」とは読み難いからである。】この氏は続日本紀廿六に「備前国藤野郡の人、藤野別眞人(ふじぬのわけのまひと)廣虫女(ひろむしめ)、藤野別眞人清麻呂(きよまろ)ら三人に吉備藤野和氣眞人の姓を与えた。藤野郡の大領、藤野別公子麻呂(こまろ)ら十二人に吉備藤野別宿禰、別公(わけのきみ)薗守(そのもり)ら九人に吉備石成(いわなし)別宿禰の姓をそれぞれ与えた」とある。【この清麻呂は、後に道鏡の乱の時に大功を立てた人である。この人ももとの姓は磐梨別公だったことが類聚国史に見え、次に引用する。ここに「別眞人」、「別公」とある「別」はかばねでなく地名である。かばねの「わけ」と混同してはいけない。この地名は、和名抄に「備前国磐梨郡、和氣郷」とある。この地である。また和氣郡もある。続日本紀に「養老五年四月、邑久、赤坂の二郡の郷を分けて、初めて藤野郡を置いた」、「神護景雲三年六月、藤野郡を改めて和氣郡とした」、「延暦七年六月、和氣郡の河西の百姓が、河西を磐梨郡として建てようと願い出た。これを許した」とある。とすると姓の「別」は、もとこの和氣郡から出たもので、その郷は中頃には藤野郡のうちだったので、藤野別眞人などと言ったのだが、後にその郷名を取って藤野郡から和氣郡に改められ、また後に和氣郡の一部を割いて磐梨郡を建てたために、本来の和氣郷はその磐梨郡に属することになって、和氣郡とは別の郡になったのだ。上記の藤野別眞人などの本姓は磐梨別公だったと言う理由は、石生郷というのは、中頃にこそ和氣郷と並んで一つの郷だったが、上代には広い名であって、和氣郷はその中に含まれていたのだろう。だから「別公」の姓の人にも磐成別宿禰という姓を与えていた、この時は、磐梨はまだ郡名でなかったが、広い範囲を指す名だった。その磐梨別公という名も、もとの石无別から分かれた姓である。だがこの石无別の「別」はかばねであって、そこの地名ではなく、磐梨別公などの「別」は地名であって、かばねは「公」だった。こうしたことは、かれこれと紛らわしいので、少し詳細に述べたのである。詳細に考えて、思い違いのないようにすべきだ。】続日本紀廿九に「吉備石成別宿禰、國守ら九人に石成宿禰の姓を与えた」、【これは「吉備」を省いたのだ。】また「備前国藤野郡の人、別部大原、忍海部興志、財部黒士、邑久郡の人、別部比治、御野郡の人、物部麻呂ら六十四人に、石生別公の姓を与えた」、卅三に「和氣宿禰清麻呂と廣虫に朝臣の姓を与えた」【この清麻呂らの姓が和氣宿禰とあるのは唐突である。ここ以前に宿根姓を賜ったことは出ていない。漏れたのだろう。】新撰姓氏録【右京皇別】に「和氣朝臣は垂仁天皇の皇子、鐸石別命の子孫である。神功皇后が新羅を征伐して凱旋し、翌年都に帰還しようとしたとき、忍熊別(おしくまわけ)皇子たちが謀反を謀り、明石の境に兵を準備して待っていた。神功皇后はこれを知り、弟彦王を針間と吉備の境に遣わして、關を作って防がせた。世に言う和氣の關がこれである。事が治まってから、このときの勲功の報いに、吉備の磐梨縣を封地として与えた。<原文:仍被2吉備磐梨縣1>これが家系のはじまりである。光仁天皇の宝亀五年、和氣朝臣の姓を賜った」【「被」の字の下に「賜」の字が脱けているのだろう。弟彦王は、和氣氏の系図から見ると、鐸石別命の子、稚鐸石別命、その子、田守別王、その子、弟彦王となる。類聚国史に「延暦十八年二月、贈正三位、行民部卿兼造宮大夫、美作備前の国造、和氣朝臣清麻呂が薨じた。本姓は磐梨別公である。後に藤野と改めた。云々」、「宝亀元年、聖帝(光仁天皇)が即位すると、勅によって京に入らせ、和氣朝臣の姓を与えて本位に復させた。云々」とある。後世、医術で世々に名高い和氣氏もこの氏である。】続日本後紀五に「備前国の人、石生別公諸上らの本居を改めて、右京八條三坊に住まわせた」、文徳実録二に「磐梨郡の少領、石生別公長貞云々」などと見える。この氏や前記の山邊之別、稻木之別などは、この記の伝えと異なり、みな「鐸石別命の子孫」とあるのは、この御世の御子の中に、書紀では大中姫命がいて、大中津日子命がいないことからすると、大中津日子命というのは、実は沼帯別命の一名であるのを、大中姫命と混同して、別人として伝えたのかも知れない。【それなら、これは書紀の伝えを正しいとすべきだろう。】○許呂母之別(ころものわけ)。後に出る落別王の子孫に三川の衣君があり、それと混同した伝えではあるまいか。他に考えるところはない。○高巣鹿之別(たかすかのわけ)。諸本とも「鹿」の上に「庶」の字があるが、誤りと思われる。そこでここは真福寺本にその字がないのに従った。【「庶」の字は「鹿」と形が似ているため誤って重なったものだ。上巻の鹿屋野比賣の「鹿」の上に誤って「麻」の字が書いてあるのと同類である。「庶鹿」に「もろしか」と訓を付けているが、「もろ」なら「諸」の字を書くはずで、この記の書き方では「庶」とは書くことはなく、かといって他の読み方もできない。】これは地名も姓氏も考えがない。【「高巣鹿」は大須賀、蜂須賀、白須賀などのたぐいの地名と思われる。また「高鴨」、「高尾張」などと同じように、本来「高飛鳥(たかあすか)」だったのが、「たか」の「か」に「あ」の音があるので、「たかすか」と言うのかも知れない。そうだったら、次の「飛鳥の君」とも関係がある。】○飛鳥君(あすかのきみ)。大和の飛鳥ではないだろう。どこの国だろう。地名も氏も考えがない。【「飛鳥直」などという姓があるが、別姓である。】○牟禮之別(むれのわけ)。延喜式神名帳に「摂津国嶋下郡、牟禮神社」、「伊勢国多気郡、牟禮神社」があり、和名抄に「周防国佐波郡牟禮郷」、「讃岐国三木郡、武例郷」などがある。どことも定められない。この氏も考えがない。○「拜=祭2伊勢大神宮1也(イセのおおみかみのミヤをいつきまつりたまう)」書紀には「二十五年三月、天照大神を豊耜姫から離して、倭姫命に託した。云々」。この文の全文は伝十五【三十三葉】に引用して論じてある。参照せよ。また皇太神宮儀式帳に「次に纏向の珠城の宮で天下を治めた活目天皇の御世に、倭姫内親王を御杖代として奉斎した。・・・大神を頂いて、(大神の)願う国を求めて・・・その時、宇治の大内人を務める宇治土公らの遠祖、大田命に、『あなたの国は何というのですか』と尋ねると、『百船(ももふね)を度會(わたらい)の國、この川の名はサコクシルイスズノカワと言います。この川上はいい大宮地(おおみやどころ)です』と答えた。そこでその地を見て、大宮地を定めた。『朝日来向かう国、夕日来向かう国、浪音聞こえぬ国、風音聞かぬ国と、弓矢・鞆の音も聞かぬ国と、また大御心静まります国』と喜んで、大宮を定めた。・・・その時に大神宮の禰宜の氏、荒木田の神主らの遠祖、國摩大鹿島命の孫、天見通命を禰宜に定めて、倭姫内親王は朝廷に参上した」とあり、この他も詳しく書かれている。儀式帳本文を参照せよ。【「倭姫命世記」には「この比賣命は、雄略廿二年に登由氣大神を丹波の国から伊勢に遷した頃まで存命で、大御神に仕え、その明年二月に自ら尾上山(おべやま)の峯に退いて、石隠(いわがく)りした」と言っているのは、非常な偽りごとである。彼の書は、いろいろと信じがたい妄説ばかりが多い。】○沙本穴太部之別(さほのあなほべのわけ)。【「あなほ」の「ほ」に「太」を書くのは、「おお:旧仮名オホ」の「オ」を省いた借字である。その例は、万葉巻十三(3309?)に「爾太遙(におえる:旧仮名ニホエル)」、巻十九(4211)に「爾太要(におえ:旧仮名ニホエ)」などがある。記中にも「御太之前(みほのさき)」とある。】穴太部というのは、書紀の雄略の巻に「十九年春三月、詔して穴穂部を置いた」とある。これは穴穂天皇(安康)の御名代(みなしろ)として置いたのだろう。【この天皇には御子がなかったからだ。】そのためそこの地名にもなり、あるいは姓ともなったのである。延喜式神名帳に「尾張国葉栗郡、穴太部神社」がある。【今もこの地名は方々にある。】天武紀に「穴穂部の造に姓を与えて連とした」、続日本紀十八に「下総国穴太部の阿古賣(あこめ)」【人名である。】などが見える。ここに出たのは大和国添上郡の佐保(さほ)に住んだ氏なので「沙本の」と言ったのではないだろうか。また思うに、沙本の「沙」の字は「阿」の誤りで、【それは後に写し誤ったのかも知れないし、阿禮が口誦したときに同韻だから誤ったのかも知れない。】「本」の下に「君」の字が脱け落ちて、これは「穴太部之別」とは別の氏の名で、「阿本君(あほのきみ)」ではないだろうか。というのは、続日本紀卅八に「建部朝臣人上らが言上して、『私たちの始祖、息速別皇子は、伊賀国の阿保村(あほのむら)に住んでいました。遠明日香(とおつあすか)の朝廷に及んで、皇子の四世の孫、須珍都斗(すちつと)王が、地名に因んで阿保君(あほのきみ)の姓を賜りました。その子、意保賀志(おおかし)は武芸が人に優れ、後代の手本とするに足り、このため長谷旦倉(はつせのあさくら)の朝廷から、健部君(たけるべのきみ)の姓を賜りました。・・・願わくば、もとに戻し、名を正して、阿保朝臣の姓を賜りたく存じます』と言った。詔してこれを許した。これによって人上らに阿保朝臣の姓を与え、健部君黒麻呂らには阿保公の姓を与えた」とある。【伊賀国伊賀郡に阿保郷がある。また「須珍」とあるのは同国名張郡の周知(すち)郷に因むか。】新撰姓氏録【右京皇別】に「阿保朝臣は垂仁天皇の皇子、息速別命の子孫である。息速別命が幼い頃、天皇が皇子のために伊賀国の阿保村に宮室を建て、封邑としたので、子孫はその家に住んだ。允恭天皇の御代に、住んでいる土地の名に因んで阿保君の姓を与えた。廃帝の天平宝字八年、公を改めて朝臣の姓を与えた」などとあるからだ。それとも、その前にある阿太之別の「太」が「本」の誤りで、【穴太の名から見て、「太」も「ほ」と読むわけだが、「阿」の字は仮名であって、音で読むので、「太」の字も訓では読まないだろう。】上記の阿保朝臣は、その氏とも考えられ、【先祖の兄弟の間では伝えが違う例も幾つかあるからである。】これらのどちらが正しいか、決めがたい。○稻瀬毘古王(いなせびこのみこ)。【「稻」の字は、諸本に「稱」とあるが、ここでは延佳本によった。】「景行天皇の皇子、稻背入彦(いなせいりひこ)命だ」と延佳が言ったのが正解だろう。【「入」を省いて言うこともあるのは、豊スキ(金+且)入毘賣を豊スキ毘賣、五十瓊敷入彦命を五十瓊敷彦命と書く類で、そういう例は多い。】名の意味は思い付かない。「稻」は字の通りの意味で、「瀬」は「兄」の意味か。書紀の神代巻に「稻背脛(いなせはぎ)」という名が見え、倭建命の子に「稻依別王(いなよりわけのみこ)」というのもいる。この王は、書紀の景行の巻に「次の妃、五十河媛(いかわひめ)は神櫛(かむくし)の皇子と稻背入彦の皇子を生んだ。弟の稻背入彦皇子は、播磨別の始祖である」とある。この記には、この皇子は見えない。【景行天皇の子は合わせて八十柱いて、「記に入れなかったのは五十九王」とあるから、その中に含まれるのだろう。】○嫁は「みあいましき」と読む。姑(おば)と結婚した例は、いにしえには時々ある。○小月之山君(おつきのやまのきみ)。「月」の字は、諸本みな「目」となっているが、誤りにちがいないので、ここでは改めた。「小月」は延喜式神名帳に「近江国栗太郡、小槻(おつき)大社」、また「小槻神社」がある。この地である。【大和国高市郡にも小槻村があるが、そこではない。】「山君」というのは、山を守っていることによる姓である。そのことは次の春日山君のところでも言い、また穴穂の宮の段で、佐々紀山君のところ【伝四十の三十七葉】でも言う。参照して理解せよ。書紀の仁徳の巻に「近江の山君」という氏の人が見える。「小月」は、その氏人が住んでいる地である。続日本紀十二に「小槻山君廣虫」、続日本後紀十九に「近江国栗太郡の人、小槻山君家嶋に興統公の姓を与えた」、三代実録七に「小槻山君廣宅」、廿四に「近江国栗太郡の人、小槻山公今雄、同有緒らの本居を改めて、左京四條三坊に住まわせた」、廿七に「小槻山公今雄、同有緒、同良眞らに、いずれも阿保朝臣の姓を与えた。息速別命の子孫である」とある。【「息速別命の子孫」として阿保朝臣の姓になるのはどうだろう。先祖の兄弟の間で伝えが取り違えられたのだろう。】新撰姓氏録【左京皇別】に「小槻臣は垂仁天皇の皇子、於知別(おちわけ)命の子孫である」とある。【これは小槻山君氏の中に、小槻臣になった人がいたのだろう。】○三川之衣君(みかわのころものきみ)。「三」の字を諸本で「二」としているのは誤りである。ここでは一本によっている。和名抄に「参河国賀茂郡、擧母【ころも】郷」がある。【この郷は今もある。】この地名である。氏については考えがない。上記の氏々の他、国造本紀には「伊賀国造は志賀高穴穂の宮の朝の御世に、皇子意知別(おちわけ)命の三世の孫、武伊賀都別(たけいがつわけ)命を国造に定めた」とある。【「皇子」の上に「垂仁天皇」の四字が脱けたのだろう。】○祖の下の「也」の字は、一本、その他一本にはない。○春日山君(かすがのやまのきみ)。「春日」は大和国の地だろうか。新撰姓氏録【和泉皇別】に「山君は、垂仁天皇の皇子、五十日足彦別命の子孫である」とあり、また【摂津皇別】「山守は、垂仁天皇の皇子、五十日足彦命の子孫である」ともあるので、「山君」というのは「山を守ることによる姓であることが分かる。春日は住んだ土地である。【和泉国に山公氏がいるのは、この春日から別れたのだろう。】○高志池君(こしのいけのきみ)。【「池」の字は、旧印本ほか一本には「絶」と書いてある。一本には、それに「いけ」と読みを付けてある。ここでは延佳本、真福寺本によった。】この地名も氏人も考えはない。○春日部君(かすがべのきみ)。和名抄に「尾張国春部【かすがべ】郡」があり、書紀の安閑の巻に「火国の春日部の屯倉、阿波国の春日部の屯倉」などがあって、どの国とも決定できない。【安閑紀に「春日部の采女」というのがある。これも地名か。】続日本紀廿三に「春日部の三關」、廿九に「陸奥国牡鹿郡、春日部の奥麻呂」、続日本後紀に「越前国丹生郡の人、春日部雄繼ら二人の部の字を削って、春日臣とした」などとある。【延喜式神名帳に「加賀国能美郡、滓上神社」がある。これは「かすがみ」か。「かすがべ」とも読める。】これらはこの氏か、別の氏か、定かでない。【新撰姓氏録に春日部村主という姓もある。】○五十日帯日子王の子孫は、上記の他に書紀に「子石田君」、新撰姓氏録に「讃岐公」、「酒部公」などが見えるが、いずれも議論がある。【「子石田君」という姓は、物の本には見えない。「子」の字は特にいぶかしい。また「讃岐公」、「酒部公」は景行天皇の皇子、神櫛王の子孫だ。そのことはその王のところで言う。考え合わせよ。】○子代は「みこしろ」と読む。列木の宮(武烈天皇)の段に「この天皇は子がなかった。そこで御子代として、小長谷部を定めた」と見える。これは天皇や后、皇子たちなど、子がなかった場合に、その名を後世まで残すために、その名をつけて「某部」というものを置くのだ。そこでまた「御名代(みなしろ)」とも言う。書紀の景行の巻に「その名を伝えたいと思って、武部を定めた」とあり、【これは日本武尊のためである。】安閑の巻に「天皇は大伴大連金村に『私には四人の妻がいるのに、今に至るまで子がない。長い間には、私の名は絶えてしまうだろう。たいへん憂慮している』と語った、そこで大伴大連金村は『私も憂えておりました。国家の王として天下を治めるものは、子があろうとなかろうと、何かものに託して名を伝えるのが良いとされます。そこで皇后、次妃たちのために、屯倉の地を建てて後代に伝えさせ、前代の跡を留めることにしております』と答えた。天皇は『早く(御子代を)置くのがいいだろう』と言った。云々」、孝徳の巻の大化元年の詔に、「いにしえから、天皇の御代ごとにその御代を表す民を置いて、名を後世に残す云々」、【同巻に「子代の離宮」というのも見え、一説に「難波の狹屋部の邑の子代の屯倉を潰して行宮を建てた」とあるのは地名である。】「大化二年春正月朔、改新の詔を述べて、その一に昔から天皇たちが建てていた子代の民云々をやめた。」、「同年三月、・・・昔の天皇の御代に立てた子代の民云々」とあって、この孝徳天皇の御代に、みなやめることになった。【すべて孝徳天皇の御代から、万事の制が漢国風に倣って、いにしえ風のことはみな廃れた。】さらに高津の宮(仁徳天皇)の段にある御名代のところ【伝三十五の十葉】でいっていることを考え合わせよ。○伊登志部(いとしべ)。諸本「登志」の二字が脱け、「部」の字を「都」に誤って「伊都」と書いている。【延佳本では「伊都部(いとべ)」と書いている。これは「伊都」とある本に準拠して、「部」の字をさかしらに加えたのだろう。そもそも「都」の字を「と」と呼んだ例は「紀伊国伊都郡」などはあっても、この記では他にないことだから、決して「と」とは読めない。また「つ」と読んでは名に合わない。とにかく「都」の字は誤りだ。師は皇子の名の「登」を「つ」と読んで「伊都部」というのは「都」の下に「志」が脱けたのだろうと言ったが、「登」を「つ」の仮名に使った例もないので、これもどうだろうか。】真福寺本には「伊部」とある。とすると、「登志」の二字が脱けているのは明らかだ。書紀の安閑の巻には「婀娜(あな)國の膽年部(いとしべ)の屯倉を置いた」とある。これは国々に最初から伊登志部はあったのだが、この時に屯倉を置いたのだ。【この時に様々なところに屯倉を置いたが、その名はどれも地名だから、この「膽年部」も地名だ。それは伊登志部が住んだことから地名にもなったのである。「婀娜國」は備後国の安那郡のことだ。】○羽咋君(はくいのきみ)。和名抄に「能登国羽咋【はくい】郡、羽咋【はくい】郷」、延喜式神名帳に同郡、「羽咋神社」もある。この地である。万葉巻十七【四十九丁】(4025)に「波久比能海(はくいのうみ)」と詠んでいる。国造本紀では「羽咋国造は、泊瀬の朝倉の朝(雄略天皇)の御世に、三尾君の祖、石撞別(いわつくわけ)命の子、石城別王を国造に定めた」とある。【「朝倉の朝」とは誤りだろう。時代が合わない。景行紀に「妃尾氏は磐城別の妹」とあり、「尾氏」は「三」の字が脱けたのだ。旧事紀には三尾氏とある。】新撰姓氏録【右京皇別】に「羽咋公は垂仁天皇の皇子、磐衝別命之後(子孫)である。またの名は神櫛別命という」とある。【「またの名は神櫛別命」というのは一本では細注になっている。これは後人が書き加えた誤りだろう。神櫛命は景行天皇の子である。もとからの文だったら、「之後」の前にあるはずだ。】類聚国史に「能登国の人、羽咋の彌公(いやきみ)」、「羽咋公吉足」などの名が見える。○三尾君(みおのきみ)。和名抄に「近江国高嶋郡、三尾【みお】郷」、延喜式神名帳に「水尾(みお)神社」【臨時祭式には三尾と書かれている。】もある。この地である。書紀の継体の巻に「近江国高嶋郡の三尾の別業」、続日本紀廿五に「高嶋郡三尾埼」、万葉巻七【十五丁】(1171)に「高嶋之三尾勝野之(たかしまのみおのかちぬの)」、巻九【十六丁】(1733)に「水尾崎(みおのさき)」があり、拾遺集(605)に「高嶋や三尾の中山杣(そま)たてて、造り重ねよ千代の連庫(なみくら)」とある。氏のことは、書紀に「磐衝別命は三尾君の始祖である」、国造本紀【上記で引いた羽咋国造、また賀我(かが)国造の條】に「三尾君の祖、石撞別命」などとある。氏人は玉穂の宮(継体天皇)の段に見える。○「爲2倭建命之后1(ヤマトタケのミコトのきさきとなりたまいき)」日代の宮の段に「この倭建命は、伊玖米天皇の娘、布多遲能伊理毘賣命を娶って、帯中津日子(たらしなかつひこ)命を生んだ」とある。このことはそこで言う。【伝廿九の三十一葉。】

 

此天皇。以2沙本毘賣1爲レ后之時。沙本毘賣命之兄。沙本毘古王。問2其伊呂妹1曰。孰=愛2夫與1レ兄歟。答=曰2愛1レ兄。爾沙本毘古王謀曰。汝寔思レ愛レ我者。將3吾與レ汝治2天下1而。即作2八鹽折之紐小刀1。授2其妹1曰。以2此小刀1。刺=殺2天皇之寢1。故天皇不レ知2其之謀1而。枕2其后之御膝1。爲御寢坐也。爾其后。以2紐小刀1。爲レ刺2其天皇之御頸1。三度擧而。不レ忍2哀情1。不レ能レ刺レ頸而。泣涙。落=溢3於2御面1。乃天皇驚起。問2其后1曰。吾見2異夢1。從2沙本方1。暴雨零來。急洽2吾面1。又錦色小蛇。纏=繞2我頸1。如レ此之夢。是有2何表1也。爾其后。以=爲2不1レ應レ爭。即白2天皇1言。妾兄沙本毘古王。問レ妾曰。孰=愛2夫與1レ兄。是不レ勝2面問1故。妾答=曰2愛レ兄歟1。爾誂レ妾曰。吾與レ汝共治2天下1。故當レ殺2天皇1云而。作2八鹽折之紐小刀1。授レ妾。是以欲レ刺2御頸1。雖2三度擧1。哀情忽起。不レ得=刺2頸1而。泣涙落。洽レ於2御面1。必有2是表1焉。

訓読:このスメラミコト、サホビメをキサキとしたまえるときに、サホビメのミコトのイロセ、サホビコのミコ、そのイロモに、「オとイロセとはいずれかハシキ」ととえば、「イロセぞハシキ」とこたえたまいき。ここにサホビコのミコはかりけらく、「ミマシまことにアレをハシクおもおさば、アレとミマシとアメノシタしりてん」といいて、すなわちヤシオオリのヒモガタナをつくりて、そのイロモにさずけて、「このカタナをもて、オオキミのみねませらんをサシコロシまつれ」という。かれスメラミコトそのはかりことをしろしめさずて、そのキサキのミひざをまくらきて、みねましき。ここにそのキサキ、ヒモガタナもて、そのオオミクビをさしまつらんとして、みたびまでフリたまいしかど、たえかてにカナシクおもおして、エさしまつらずて、なきたまうナミダ、オオミオモにおちてながれき。スメラミコトおどろきまして、そのキサキにといたまわく、「アはあやしきイメみたり。サホのかたより、ハヤサメのふりきて、にわかにアがオモテをぬらしつ。またにしきいろなるヘミ、アがミくびにナモまつえりし。かくのイメは、なにのシルシにかあらまし」とといたまいき。ここにそのキサキ、あらそわえじとおもおして、もうしたまわく、「アがイロセ、サホビコのミコ、アレに、オとイロセとはいずれはハシキとといたりき。かくトウにはエおもかたずてナモ、イロセぞハシキとこたえつれば、アレにあとらえけらく、アレとミマシとアメノシタをしらさん。かれオオキミをしせまつれといいて、ヤシオオリのヒモガタナをつくりて、アレにさずけつ。ここをもてオオミクビをさしまつらんとして、みたびまでフリしかど、たちまちにカナシクなりて、エさしまつらず。なきつるナミダおちて、オオミオモをぬらしつ。かならずこのシルシにこそあらめ」ともうしたまいき。

口語訳:この天皇が沙本毘賣命を妻としていたとき、彼女の兄、沙本毘古王がその妹に「お前は夫と兄と、どちらが愛しいか」と聞いた。沙本毘賣命は「兄の方が愛しいですわ」と答えた。すると沙本毘古王は、「お前が本当に兄を愛しく思うなら、お前とオレとで天下を治めてやろうじゃないか」と言った。すぐに八鹽折の紐小刀を造り、妹に与えて、「天皇が眠っている隙に、この刀で刺し殺せ」と言った。天皇はそんな謀計があるとは知らず、その后の膝を枕にして眠っていた。そのとき、后は刀で天皇の頸を刺そうと、三度振りかざしたが、悲しみに耐えきれず、刺すことができなかった。涙がが溢れて落ち、天皇の顔を濡らした。天皇はすぐに目を覚まし、その后に「今、変な夢を見た。沙本の方から激しい雨が起こってきて、私の顔を濡らしたんだ。それに小さな蛇が私の頸の周りに巻き付いていた。こんな夢だが、何か意味があるんだろうか」と聞いた。后は、言い争うわけにも行かないと観念して、「私の兄、沙本毘古王が私に聞いたんです。『夫と兄と、どちらが愛しいか』と。面と向かって聞かれると逆らうこともできなかったので、思わず『兄さんです』と答えました。すると『オレとお前とで天下を治めよう。天皇を殺せ』と言い出して、八鹽折の紐小刀を造って私に渡しました。たった今、あなたの頸を刺そうと、三度まで刀を振り上げましたけど、どっと悲しさがこみ上げてきて、とても刺すことはできませんでしたわ。涙が溢れて、あなたのお顔に落ちかかりました。きっとそのことを夢に見られたんですわ」と答えた。

以沙本毘賣(さほびめを)。この名は、ここでだけ「命」の字がないのはなぜか。脱けたのだろうか。この兄妹は伊邪河の宮の段【伝二十二】に出ており、日子坐王の御子だから、天皇の従兄弟にあたる。○「爲レ后之時(きさきとしたまえるときに)」とは、この比賣命を后としたことにまず触れたのであって、次に起こったことは、后としたその時というわけではないが、文を続ける関係で「之時」と言ったのだ。○兄は、ここでは同母兄なので、「いろせ」と読む。次に出るのも同じ。○伊呂妹は同母の妹のことだ。「いろも」と読む。そのことは前【伝十三の六十三葉】で言った。○夫は「お」と読む。【「夫」を「せ」とも「せこ」とも言うが、ここは兄に対して言うので、そう読むとまぎらわしい。「兄」も「せ」、「せこ」と言うからだ。】上巻の須勢理毘賣命の歌に「那遠岐弖、遠波那志(なをきて、おはなし)」【「汝を置きて、夫は無し(あなたの他に夫はいません)」である。】とある。○孰愛は「いずれかはしき」と読む。【「愛」は「うつくしき」、「うるわしき」などと読んでも良い。いずれも意味は同じだ。】明の宮(應神天皇)の段に「孰=愛3兄子與2弟子1(あになるコとおとなるコとはいずれかはしき)」ともある。倭建命の歌に「波斯祁夜斯(はしけやし)」、万葉(454)に「愛八師(はしきやし)」、書紀の継体の巻、勾大兄皇子の歌に「婆シ(糸+施のつくり)稽矩謨(はしけくも)」、万葉巻二【十四丁】(113)に「三吉野乃山松之枝者、波思吉香聞(みよしぬのやままつがえは、はしきかも)」、高津の宮の段の歌に「阿賀波斯豆麻(あがはじづま)」、【「吾が愛妻(はしきつま)」ということだ。】万葉巻十八【三十七丁】(4134)に「波之伎故(はしきこ)」、【「愛しき子」である。】巻十九【二十一丁】(4189)に「波之伎和我勢故(はしきわがせこ)」、巻廿【十九丁】(4331)に「波之伎都麻良(はしきつまら)」などがあり、この他にも多数ある。○愛兄は「いろせぞはしき」と読む。○謀(はかり)は、後の文に「誂(あとらえ)」とあるのを【書紀にも「誂」とある。】ここでは謀反の計画を初めて言うところだから、「謀」の字が適している。「はかる」は神議(かむはかり)などと言って、人と相語らい、議論することだからだ。○八鹽折之紐小刀(やしおおりのひもがたな)。紐小刀は上巻【伝十六の十六葉】に出た。八鹽折は上巻の八鹽折之酒【伝九の三十葉】と考え合わせると、幾たびも焼き直し、精錬と鍛錬を繰り返して作ったということで、その刀の鋭く強いことを言う。【師が万葉考別記で「八鹽の衣」などと言うのと同じで、「八鹽折」は紐の色を言うと言ったのは良くない。刀の名称を、それに付けた紐の色で呼ぶものではないだろう。】○寝は「みねませらんを」と読む。次の文に「御寝坐(みねましき)」とある。「寝ているときに」ということだ。書紀には「四年秋九月、皇后の兄、狹穂彦王は謀反を図り、皇后が何の警戒心も持たずにいるとき、『お前は兄と夫と、どちらが愛しいか』と尋ねた。皇后は何を聞きたいのかよく分からないままに、『兄さんですわ』と答えた。そこで皇后に『・・・できればオレが皇位に着いて、お前とともに末永く天下を治めよう。天皇を殺せ』と言い、匕首を皇后に与えて、『この匕首を衣の内に隠して、天皇が寝ている隙にその頸を刺して殺すんだ』と言った。皇后は恐ろしさに震え上がったが、兄を諫めることもできず匕首を受け取って、隠すところもないから、衣の内にひそかに持っていた。兄の計画をやめさせたい心があったのだろうか」と書いてある。○謀は「はかりこと」と読む。沙本毘古王の計画のことだ。○御膝(ミひざ)。和名抄に「膝は脛の頭である。『ひざ』」とある。○枕は「まくらきて」と読む。万葉巻五【十一丁】(810)に「伊可爾安良武、日能等伎爾可母、許惠之良武、比等能比射乃倍、和我摩久良可武(いかにあらん、ひのときにかも、こえしらん、ひとのひざのえ、わがまくらかん)」、巻十九【十四丁】(4163)に「妹之袖和禮枕可牟(いもがそでワレまくらかん)」などの例がある。「まくらく」とは【「まくらかん」、「まくらきて」などと活用する。】「枕にする」ことで、「鬘にする」を「かづらく」と言う【万葉巻十八(4071)に「楊奈疑可豆良枳(やなぎかづらき)」、巻十九(4175)に「菖蒲可都良久麻泥爾(あやめぐさかづらくまでに)」など詠まれている。】のと同じ言い方である。また「まきて」とも読める。それも同意だ。【「まく」と詠んだ歌は殊に多い。「まくら」という名も、もとは「まく」という言葉から出て、「纏座(まきくら)」の「きく」を縮めて「く」と言ったのだ。何でも物を据える道具を「座(くら)」と言う。枕は物を纏って頭を据える座としたから言う。枕にすることをまた「纏(まく)」とも言う。「手をまく」、「袖をまく」など言うのもこれだ。記中の歌に「まくらまく」ともあるが、これは言葉が重なっているが、物の名になった後には、それに元の用言(動詞)をし終えて言うこともある。「歌をうたう」などと言うのと同じ。】万葉巻十四【十九丁】(3457)に「宇知日佐須美夜能和我世波、夜麻登女乃、比射麻久其登爾、安乎和須良須奈(うちひさすミヤのわがせは、やまとめの、ひざまくごとに、アをわすらすな)」とある。○「膝」の下にある「爲」の字は「而」を写し誤ったものだろう。草書はよく似ているからだ。【白檮原の宮の段に「爲遠延」、日代の宮の段に「爲泥疑」などとある「爲」の格(「する」の意)かとも思ったが、「御寝坐」という語は記中にところどころあり、いずれも上に「爲」の字はない。】○御寝坐也(みねましき)。若櫻の宮の段には「大御寝坐(おおみねましき)」ともある。書紀の仁徳の巻に「隼別皇子は皇女の膝を枕にして寝ていた」、雄略の巻に「安穂(あなほ)天皇は、昼に皇后の膝を枕にして、酔って眠っていた。この時、眉輪(まよわ)王は、熟睡しているのを見計らって刺し殺した」とある。○其天皇之御頸は「そのおおみくびを」と読む。【「天皇」の字は読まない。ここはそう読むと、語の姿が整わない。】○三度は師が「みたびまで」と読んだのがいい。○擧而は「ふりたまいしかども」と読む。「ふり」は振り挙げることだ。【紐小刀を、ということだ。】上巻に「この比禮(ひれ)を三擧振ハツ(てへん+發)(みたびふりて)」、【伝十の三十九葉】白檮原の宮の段に「打ち羽擧(はぶり)」【伝十八の十七葉】などとあるのも、みな「ふり」と読むべきで、同じ意味である。上巻の豫美(よみ)の段に「十拳劔を後手(しりえで)に布伎(ふき)」という【伝六の廿二葉】「ふき」も「振り」と同じだ。それぞれの箇所を参照せよ。これを「しかども」と読むのは、次に「雖(いえども)」の字があり、その意味である。「雖」の字がなくても、「而」の字にもその意味がある。○不忍哀情。「不」の字は諸本みな「爾」と書いているが、師が「不」の誤りだろうと言ったのに従って、ここでは改めておいた。「不忍」とある例は、上巻に「不忍御腹之急(ミはらたえがたくなりたまいければ)」、「不忍戀心(こいしきにたえたまわずて)」とあり、この後に「不忍其后云々」、朝倉の宮の段に「不忍於悒」などがある。この四字を「たえかてにかなしくおもおして」と読む。【ここの「情」を「こころ」と読むと、言葉の姿が良くない。】「たえかてに」は「耐え難く」というのと同じ。「かてに」というのは万葉などによくある言い方で、「難爾」などとも書く。【「か」は、濁音に書いた例は少ない。多くは清音に書く。】この語は、後では「哀情忽起(たちまちにかなしくなりて)」とある。【それと考え合わせると、ここの「爾忍」の二字は「忽」の誤りで、「情」の下に「起」の字が脱けているのかも知れない。】○不能刺頸而は、「エさしたまわずて」と師が読んだのがいい。【その前に「御頸を」とあるから、ここでまた「頸を」と読むと、文としてまずい。】○涙は「みなみだ」と読む。上巻に「御涙」とある。○御面は「おおみおも」と読む。【師は「みおもわ」と読んだ。それは万葉巻九(1807)、巻十九(4192)に「面輪(おもわ)」、同巻(4169注)に「御面は『みおもわ』と読む」とあるからだ。しかし「おもわ」とは、顔形を言う言葉なので、ここには合わない。皇極紀の歌に「おもて」とあるのは、うしろを「うしろで」と言うのと同じで、「て」はこれもそのありさまを言う。漠然と「顔」を指して言う時は、「おも」と言うのが正しい。】天皇の大御面のことだ。○落溢は「おちながれき」と読む。【「溢」の字を書いたのは、書紀に「流レ涕従レ袖溢之、沾2帝面1(なみだくだりてソデよりもり、ミカドのおもてをぬらしつ:垂仁紀の文を少し変えて引用したもの)」とある意味である。しかしここでは「もる」とも「あふる」とも読めない。また「かかる」というより「ながる」の方が「溢」の字義に近い。】涙が「流れる」というのは、万葉などでは普通に言うことだ。巻十九【十三丁】(4160)に「流涕等騰米可禰都母(ながるるなみだとどめかねつも)」とある。○驚起は「おどろきまして」と読む。「おどろく」とは目を覚ますことにも言う。○沙本(さほ)は大和国添上郡にある。諸陵式に見える。武烈紀の影媛の歌に「播屡比能、箇須我嗚須擬、逗摩御暮屡、嗚佐ホ(なべぶた+臼、下に衣)嗚須擬(はるひの、カスガをすぎ、つまごもる、オサホをすぎ)」とある。【「嗚佐ホ」の「嗚(お)」は「おはつせ(小泊瀬)」、「おつくば」などの「お」と同じ。今佐保は奈良の内で、北の方にある。】この地は、山川も里も、万葉に歌が多い。後世の歌にもよく登場する。沙本毘古王はこの地に住んでいたから、こういう夢を見たのである。○暴雨は「はやさめ」と読む。新撰字鏡に「トウ(さんずい+東)は暴雨である。『はやさあめ』」とある。【倭姫命世記に「速雨(はやさめ)二見の国」と言う。一本にこの「雨」の字を「再」と書いているのはどうだろう。】和名抄には「暴雨は『むらさめ』」とあるが、ここは「はやさめ」と読む方が優るだろう。上巻の八千矛神の歌に「汝(な)が泣かさまく、朝雨の云々」とあり、万葉巻二【四十四丁】に「泣涙コ(雨かんむり+脉)サメ(雨かんむり+沐)爾落者(なくなみだコサメにふれば)云々」とある。○急は「にわかに」と師が読んだのが良い。○洽は【この字を「濡」と書いた本もある。同じことである。】「ぬらしつ」と読む。○錦色小蛇(にしきいろなるへみ)。「小蛇」は「へみ」と読む。このことは上巻【伝十の卅六葉】で論じておいた。【「へみ」は「反鼻」の音読みだと思うのは誤りである。】「錦色」というのは、錦のような模様があることを言う。そういう種類の蛇がいるのだ。和名抄に「ゼン(虫+冉)蛇は、文字集略にいわく、蛇の模様が連銭錦(銭を並べたような文様)である。和名『にしきへみ』」とある。【ヒ(土+卑)雅に「「ゼン(虫+冉)蛇は、尾が丸く鱗がない。身に斑紋があり、錦纈のようである」と言う。ただし和名抄に「にしきへみ」とあるのは小蛇だろうが、ゼン蛇はたいへん大きな蛇だから、この漢名はあたっていないようだ。単に錦のような模様があるので当てたのだろう。漢名については、いずれにせよこだわってはならない。」○纏繞は「まつえりし」と読む。【「し」は助詞である。「き」と言わないのは、上に「なも」という助辞を付けているのに対応するからだ。】○如此之は「かくの」と読む。【「如此乃某」と言うのは聞き慣れない感じでどうかと思う人もあるだろうが、】続日本紀一の宣命に「如此之状乎聞食悟而(かくのさまをきこしめしてさとりて)云々」、また廿四に「如此之状聞食悟止、宣大命(かくのさまきこしめしてさとれと、のりたまうおおみことを)云々」などの例がある。【普通に「かくのごとく」と言うのも、同じ使い方だ。】○有何表也は「なにのしるしにかあらまし」と読む。万葉巻四(604)に「劔大刀身爾取副常夢見津、何如之怪曾毛、君爾相爲(つるぎたちみにとりそうといめにみつ、なにのしるしぞも、きみにあわんため)」とある。○以爲不應爭は「あらそわえじとおもおして」と読む。【「え」は「れ」と同じ意味の古言である。】「争うことは難しいだろう」という意味だ。【師は「あらそいがてに」と読んだ。あるいは「あらそいかてじと」とも読める。】○妾は「あが」と読む。【「妾」は漢文の文字遣いによって書いたのだ。男に「僕」と書くのと同じ。】○是不勝面問故は「かくとうにはエおもかたずて」と読む。【これはたいへん読みにくい文である。旧印本や延佳本では「まのあたりとうにたえず」と読んでいる。こう読んで意味は大体通るから、本来そういう意味で書いたのかも知れない。しかしそう読むと、まるで古語の姿でない。全く漢文読みである。師は「まさかのことどいにあえず」と読んだ。これは一つ一つの言葉は古諺だが、「まさか」も「ことどい」も、ココニは合わない。そこでつらつら考えて、】「勝面」は上巻の猿(けものへん+爰)田毘古神の段に「詔2天宇受賣神1、汝者雖=有2手弱女人1、與2伊牟迦布神1面勝神、故專汝往將問者(アメノウズメのカミにのりたまわく、いましはタワヤメなれども、イムカウカミにおもかつカミなり。かれいましモハラゆきてとわんは)云々」とあった「面勝」と同じで、【伝十五の十四葉を参照せよ。】兄がこういう風にあからさまに質問したのに対し、気強く「面勝」って【兄より夫が愛しいと】は答えられなかった、と言ったのだろう。【「是」の字は「如此」と言うのに当たるだろう。「勝面」は「面勝」を逆に写し誤ったのか、後人が「面勝」という古言があるのを知らないで、漢文の書き方を考え、「不レ勝2面問1(まのあたりとうにたえず:面と向かって質問したので気が挫けて)」とあるのが本当だと思って、さかしらに文字の並びを書き改めたのかも知れない。「面に勝つ」という意味とすれば、「勝レ面」と書いてはいけないというものでもない。ただ「問」の字の置き所を考えると、はじめから「面問にたえず」という意味で書いたようにも思われるが、そう読むのは古語からずいぶん離れてしまうので、撰者の意図とは違うかも知れないが、「おもかつ」と読んで間違いはあるまい。「得(え)」という辞を読み添えるのも、書紀のその段(猿田彦神の段)に「八十萬神皆不2得目勝相問1(ヤソヨロズノカミ、みなエまかちとわざりき:八十万の神たちは、誰もがその眼光の鋭さに恐れをなして、[猿田彦の正体を]聞きただすことができなかった)」とあるのによる。「故」の字は読まない。】○妾答の「妾」の字は読まない。○誂は「あとらえけらく」と読む。書紀でもそう読んでいる。【「誂」は説文に「相呼び誘うことである」とあり、史記の注に「微言(それとなく言う言葉)で何かを動かすこと」とある。】続日本紀廿の詔に「小野東人が上道朝臣斐太都(ひだつ)を呼んで、誂えていわく云々」とあり、古今集の「春」(99)に「吹風(ふくかぜ)にあつらへつくる物ならば、此一本(このひともと)はよきよと云(いは)まし」とある。○哀情忽起は「たちまちにかなしくなりて」と読む。【「起」の字は「なりて」という語に当たる。「忽」の字が「哀情」の下にあるのは漢文の書き方である。】○洽(ぬらしつ)の字は、沾と書いた本もある。それも意味は同じだ。【師は前の文を根拠に「溢」の字の誤りではないかと言ったが、それは良くない。】書紀によると、「五年冬十月、天皇が來目(くめ)に行幸して高宮にいたとき、皇后の膝を枕にして昼寝をしていた。皇后は、あの計画は実行に移すことができず、そのまま(立ち消え)になるものと思っていたが、今こそ兄の謀計を実行する機会だと思ったら、涙が流れ落ちて、帝の顔を濡らした。天皇はすぐに目を覚まし、皇后に『今妙な夢を見た。錦色の小蛇が私の頸に巻き付いいたんだ。それに、ひどい大雨が狹穂の方から降ってきて、私の顔を濡らした。これは何かの徴だろうか』と言った。皇后は隠しきれないと思い、畏れ伏して兄の謀を詳しく話し・・・『思わず目から流れた涙を袖で拭おうとしましたが、その袖から漏れて、お顔を濡らしましたの。今日の夢は、きっとそのことですわ。錦色の小蛇は兄が私に渡した匕首で、雨が降ったのは私の涙です』と言った」とある。

 

爾天皇。詔=之2吾殆見レ欺乎1。乃興レ軍。撃2沙本毘古王1之時。其王作2稻城1以待戰。此時沙本毘賣命。不レ得=忍2其兄1。自2後門1逃出而。納2其之稻城1。此時其后妊身。於レ是天皇。不レ忍3其后。懷妊及愛重至2于三年1。故迴2其軍1。不2急攻迫1。如レ此逗留之間。其所レ妊之御子既産。故出2其御子1。置2稻城外1。令レ白2天皇1。若此御子矣。天皇之御子所2思看1者。可2治賜1。於レ是天皇。詔雖レ怨2其兄1。猶不2得忍1レ愛2其后1故。即有2得レ后之心1。是以選=聚2軍士之中。力士輕捷1而。宣者。取2其御子1之時。乃掠=取2其母王1。或髮或手。當B隨2取獲1而。掬以控出A。爾其后豫知2其情1。悉剃2其髮1。以レ髮覆2其頭1。亦腐2玉緒1。三重纏レ手。且以レ酒腐2御衣1。如2全衣1服。如レ此設備而。抱2其御子1。刺=出2城外1。爾其力士等。取2其御子1。即握2其御祖1。爾握2其御髮1者。御髮自落。握2其御手1者。玉緒且絶。握2其御衣1者。御衣便破。是以取=獲2其御子1。不レ得2其御祖1。故其軍士等。還來奏言。御髮自落。御衣易破。亦所レ纏2御手1之玉緒便絶故。不レ獲2御祖1。取=得2御子1。爾天皇悔恨而。惡2作レ玉人等1。皆=奪2取地1。故諺曰2。不レ得レ地玉作1也。

訓読:ここにスメラミコト、「アはほとほとあざむかえつるかも」とのりたまいて、すなわちイクサをおこして、サホビコのミコをとりにつかわすときに、そのミコ、いなきをつくりてマチたたかう。このときサホビメのミコト、そのイロセをおもおしかねて、シリツミカドよりにげいでて、それのイナキにいりましき。このおりしも、そのキサキはらましたりき。ここにスメラミコト、そのキサキのうつくしみオモミしたまうこともミトセになりぬるに、はらましてさえあることをイトカナシとおもおしき。かれそのイクサをやすらわしめつつ、スムヤクもせめたまわざりき。かくとどこおれるあいだに、そのはらませりしミコあれましき。かれそのミコをいだして、イナキのそとにおきまつりて、スメラミコトにもうさしめたまわく、「もしこのミコをば、オオキミのミコとおもおしめさば、おさめたまえ」ともうさしめたまいき。ここにスメラミコト、そのイロセをこそきらいたまえれ、なおキサキをばイトカナシとおもおせりければ、それエたまわんのミココロましき。ここをもてイクサビトのなかに、チカラビトのハヤキをえりつどえて、のりたまいつらくは、「かのミコをとらんとき、そのハハミコをもかそいとりてよ。ミカミにまれミテにまれ、とりえんままに、つかみてヒキいでまつれ」とのりたまいき。ここにそのキサキ、あらかじめそのミココロをしりたまいて、ことごとにそのミカミをそりて、そのミカミもてミカシラをおおい、またタマノオをくたして、ミテにミエまかして、またサケもてミケシをくたして、またきミソのごとくけせり。かくまけそなえて、そのミコをむだきて、キのとにサシいでたまいき。かれそのチカラビトども、そのミコをとりまつりて、すなわちそのミオヤをとりまつらんと、そのミカミをとれば、ミカミおのずからおち、そのミテをとれば、タマノオまたたえ、そのミソをとれば、ミソすなわちやぶれつ。ここをもてそのミコをとりエまつりて、そのミオヤをばエとりまつらざりき。かれそのイクサビトども、かえりまいきて、もうしつらく、『ミカミおのずからおち、ミソまたやぶれ、ミテにまかせるタマノオもたえにしかば、ミオヤをばエまつらず。ミコをエとりまつりつ』ともうす、ここのスメラミコトくいうらみたまいて、タマつくりしひとどもをにくまして、そのトコロをみなとりたまいき。かれコトワザに『ところえぬタマツクリ』とぞいうなる。

口語訳:天皇は「私は危うく騙されるところだった」と言い、軍士を集めて、沙本毘古王を討とうとした。王は稲城を造って抵抗した。このとき沙本毘賣命は、「私のせいで兄は死ぬんだわ」と思うと、いても立ってもいられなくなり、宮廷の後ろの門から逃げ出し、稲城の中に走り込んだ。このとき、皇后は子を孕んでいた。天皇はもう三年もの間、その后をたいへん愛して重要な存在になっていたので、軍をいったん控えさせ、急には攻めないでいた。その間に時日が過ぎて、孕んでいた御子が生まれてしまった。そこで后はその御子を稲城の外に置いて、人に「この子を天皇の御子とお考えなら、どうぞお育てください」と言わせた。天皇は、兄こそ憎んでいたが、皇后はまだ愛していたので、ぜひ取り返したいと考えていた。そこで軍士のうちから、力が強く、動きの素早い者を選び出して、「あの子を受け取るときに、その母后も取り戻せ。髪であれ、手であれ、取ることができたら、そのまま引き出して連れてこい」と命じた。ところが后は天皇がきっと自分の身柄を取り戻そうとすると考えて、髪をすっかり剃り落とし、それで鬘を作って頭に被った。また玉の緒を腐らせて、手に三重に巻き付け、酒で衣を腐らせて、それを正常な服のように着ていた。そうやって準備して、御子を胸に抱いて稲城の外に差し出した。力士たちは御子を受け取ると、今だとばかり后の身柄を取ろうとした。ところが髪を掴むとすっぽりと脱け落ち、手を取ろうとすると、玉の緒がことごとくちぎれてしまい、衣を掴もうとすると、破れ去ってしまった。その結果、御子を取ることはできたが、母后はまた稲城のうちに逃げ込んでしまい、取り戻すことができなかった。軍士たちは帰ってきて、「髪は抜け落ち、衣は簡単に破れ、手に巻いた玉の緒もちぎれてしまいました。だから御后を取り返すことができませんでした」と詳しく報告した。天皇はたいへん歎き恨んで、その玉を作った人たちを憎むあまり、彼らの土地をすべて取り上げてしまった。それで諺に「ところ得ぬ玉作り」と言うのである。

殆は「ほとほと」と読む。【下の「と」を濁って読むのは良くない。俗にこれを音便で「ほとんど」と言うが、音便の「ん」の下は濁るのが通例だから、そう言うのだ、だがこの言葉は、本来「ほと」を二回続けたのだから、濁ってはいけない。】万葉巻三【卅丁】(331)に「吾盛復將變やも、殆寧樂京師を、不見か成りなむ(さがさかりまたおちめやの、ほとほとにならのみやこを、みずかなりなん)」、巻七【四十丁】(1403)に「三幣帛取神の祝が鎭齋杉原燎木伐殆之國手斧所取ぬ(みぬさとりミワのハフリがいわうすぎはらタキギコリほとほとしくにテオノとらえぬ)」、巻八【四十丁】(1565)に「吾屋戸の一村芽子を、念兒に不令見殆令散つるかも(わがやどのひとむらはぎを、おもうこにみせずほとほとちらしつるかも)」、巻十【二十三丁】(1979)に「保等穂跡妹に不相來にけり(ほとほといもにあわずきにけり)」、巻十五【三十七丁】(3772)に「還りける人來れりと云しかば、保等保登死き、君かと思ひて(かえりけるひときたれりといいしかば、ほとほとしにき、きみかとおもいて)」などがある。言葉の意味は「ほとりほとり」で、その近いところまで行ったということだ。ここでは欺かれる直前に至ったというのである。【俗に「すんでのところで騙されるところだった」ということである。】<訳者註:ここの万葉の歌は、すべてかな混じりで引用されている>○見欺乎(あざむかえつるかも)は、上巻の「易子之一木乎(このひとつけにかえつるかも)」とあるのと語の勢いがよく似ている。○撃は「とりにつかわす」と読む。「とり」と読む理由は、水垣の宮の段の「玖賀耳御笠を取らせた」とあるところ【伝廿三の六十葉】で言った通りだ。またここは「遣わす」という語も読み添えるのが自然である。○稻城(いなき)。書紀の雄略の巻に「根使主(ねのおみ)は逃げ隠れて、日根に到って稲城を作って待ち受けて戦った」、崇峻の巻にも「物部守屋大連は、みずから子弟と私兵たちを引き連れて、稲城を築いて戦った」とある。師の説明では、「稲を納めておく城は、垣を堅くし、溝を掘り廻らすなどして、盗人が入らないように、特に堅く造るものだから、そういう城のように堅固に構えたのを言う。日本書紀に『稲を積んで城にした』とあるのは間違いだ。稲を積んでも、何の守りにもなるまい」と言った。その通りだろう。【書紀に「稲を積んだ」とあるのは、「稲城」という名によって撰者が書き加えた、例の誤りである。稲城というのは、以前に引いた新撰姓氏録の大春日朝臣の條にある、「糟を積んで堵(かき)とした」というのとは違う。】それは本当の稲をしまっておく城とは違っていただろうが、ただ堅く作ったのをそう言い慣わしていたのだ。<訳者註:宣長や賀茂真淵はもっと後代の大規模戦闘を考えたのだろうが、古代の城は生け垣を厚く高くした程度だったと思われ、「稲を積んだ」というのが正しいだろう>○不得忍其兄は、【「得」の字を諸本で「待」と書いているのは誤りである。ここでは延佳本によった。後にも「不得忍」とあるのと同じ意味である。】「そのいろせをおもおしおかねて」と読む。兄への情愛に耐えかねたのだ。万葉巻十一【七丁】(2425)に「山科強田山馬雖在、歩吾來汝念不得(やましなのこはたのやまをうまはあれど、かちよりワきぬナをおもいかね)」、巻十四【二十二丁】(3475)に「戀乍も居むとすれど、遊布麻山隠れし君を、於母比可祢都母(こいつつもおらんとすれど、ゆうまやまかくれしきみを、おもいかねつも)」、巻十五【二十二丁】に「妹を思ひ、伊の寝らえぬに、安伎乃野にさをし鹿鳴つ、追麻於毛比可禰弖(いもをおもい、いのねらえぬに、あきのぬに、さおしかなきつ、つまおもいかねて)」など、この他にもたくさんある「思不得」と同じだ。【また「耐え難い」ということを「忍びかね」と詠んだ歌もたくさんあるが、ここはやはり「おもおしかね」と読む方が優っている。】○後門は「しりつみかど」と読む。水垣の宮の段の歌に「斯理都斗(しりつと)」【後戸である。】と見え、万葉に「常津御門(とこつみかど)」、「天津御門(あまつみかど)」などがあるのを考え合わせて、読み方を理解せよ。天皇の大宮の後方の門である。○納は「いりましき」と読む。「入りましき」である。○此時は「このおりしも」と読む。○妊身(はらましたりき)。ここにこう言ってあるのは、この後、皇后が妊娠していることを天皇が憂慮しているので、まずこう言っておいた言葉の綾である。○不忍其后懷妊及愛重至于三年は、「そのキサキのうつくしみオモミしたまうことも、ミトセになぬるに、はらましてさえあることを、イトカナシとおもおしき」と読む。【「カナシと」は「イトオシと」と読んでもいい。】ここの文は漢文の書き方になっているので、そのまま読むと古語にならない。だから文にこだわらず、全体の意味をよく理解してから読むべきである。【延佳が「及愛重」を「ウツクシミをしきて」と読んだのは、文にも合わず、「しきて」と言うのは何のことだか分からない。また師が「はらませるとウツクシミのおもきにタエたまわずて」と読んで「至2于三年1」を別に読んだのは、やはりよくない。言葉の続き具合が古言の姿ではない。それに「至2于三年1」は「愛重」に付いた言葉で別々でないのにそう読んではたいへん違ったことになるだろう。そのことは更に次で言う。】そこでここでは、上記のように読んだ。というのは、懐妊の時日を先に行って、「愛重」を後で言ったら、古言の言い方にならないので、「愛重」を先に、懐妊のことを後に読むのだ。【「愛重」は后だったとき全般のことで、懐妊はそのときの一時のことだからだ。】「愛重」は、天皇がこの后を愛し、それが天皇の人生にとってたいへん重いものになっていたことで、「愛」と「重」は二つのことである。【愛が重くなったというのではない。】「愛(うつくしみ)」はここでは用言で、【普通言う体言(名詞)とは違い、「み」は「重み」の「み」と同じ格である。】万葉巻十【六十二丁】(2343)に「吾背子之言愛美出去者(わがせこがことうつくしみいでゆかば)」とあるのと同格である。<つまり「うつくしみを重くした」のでなく、「うつくしみ、かつ重んじた」ということ>「重みす」とは、重くやんごとないものにするということだ。【俗に「大切にする」ということだ。この言葉を、普通に「おもんずる」というのは。音便で崩れた言い方である。この他にも「賤しみす」を「賤しんず」、「親しみす」を「親しんず」などと言うのは、みな同じ音便で、「み」が崩れて「ん」になっているのである。この「み」の使い方は、万葉などによくある。】続日本紀三の詔に「勞彌重彌所念坐(いとおしみおもみおもおします)」、同四に「天地心乎勞美重美畏坐(あめつちのこころをいとおしみおもみかしこみます)」などとある「重み」である。この二つの「み」【愛み重み】の言葉遣いは、万葉巻十二【四十一丁】(3215)に「白妙乃袖之別乎難見爲而(しろたえのソデのわかれをかたみして)」などと言ったのと同じ。「至2于三年1(みとせになりぬる)」とは天皇の宮に入ってからのことだろう。これは昨日今日のことでなく、互いの交情がすでにかなりの年月を経ていたことを言っている。書紀によると、二年の二月に皇后になり、この乱は、五年の冬のことだった。【この「至2于三年1」を後の文にかけて、「廻レ軍云々」の間に三年経ったと考えるのは間違っている。そういうことだったら、この言葉は「不2急攻迫1」の次にあるはずだが、「故廻レ軍」より前にあるから、そうではない。】これを「いとかなしとおもおしき」と読んだのは。「不忍」の意味に当たる。その例は後の文に出るので、そこで言う。ここでは「その后」というところで、いったん切って考えるべきである。これは読む上でのことだ。【文は「不忍」の字が「其后」より前にあるからはっきりしているが、ここを「其后之愛重」と読むため、言葉の続き具合が紛らわしいからだ。だが「懐妊(はらまし)てさえあるを」と言うところまでにかけて見ると、「その后の」ということなのは明らかだ。】○廻は「やすらわしめつつ」と読む。【「かえして」とも読めるが、そうすると少しここの意味とは違うだろう。師は「もとおらせて」と読んだが、合っているような気がしない。ここの「廻」の字は「徘徊」の意味で書いたのだろう。「徘徊」は「徘回」とも書き、「回」と「廻」とは同じだからだ。「徘徊」は「彷徨である」とも「進まない状態」とも注されて、文選の張衡思玄賦に「馬倚チュウ(車+舟)而徘回(馬はナガエによりて徘徊す:轅は馬車の先に付けて馬を繋ぐ部分。馬がその轅にもたれかかって進もうとしないことか?)」とある句の注に「踟躇して進まないことを言う」と言っている。】「やすらう」は進まないということで、休息する意味もあるから、ここに合っている。万葉巻十一【四十五丁】(2821)に「木間従移歴月之影惜、徘徊爾左夜深去家里(このまよりうつろうツキのかげおしみ、たちやすらうにサヨふけにけり)」、古今和歌六帖(1370)に「君や來む我や往むのやすらひに云々」とある。○不急攻迫は「すむやけくもせめたまわざりき」と読む。「急」は万葉巻十五【三十四丁】(3748)に「須牟也氣久波也可反里万世(すむやけくハヤかえりませ)」とあるのに依拠して読んだ。【この言葉は、普通「すみやかに」と言うが、「む」と「み」は通音なので、どちらでもいいだろう。「かに」は「けく」と言うのが古言の言い方だ。「明らかに」、「遙かに」、「のどかに」などという語も、古言では「あきらけく」、「はるけく」、「のどけく」と言う。ここの「すむやけく」の「すむ」は進む意味で、「やけく」は助辞である。】○逗留は「とどこおれる」と読む。万葉巻四【十三丁】(492)に「衣手爾取等騰己保里哭兒爾毛(ころもでにとりとどこおりなくこにも)」とある。【「とど」は「留(とど)まる」である。「こおる」は「凍る」と同言だ。流れる水も、凍れば止まるからである。】○既産は師が「あれましぬ」と読んだのに従う。【「既」の字は読まない。】この御子が生まれたのは、後の文に「焼2稻城1之時」とあるので、この一件が終わる頃だったと思われる。【稲城を焼けば、ほどなく事は終わるだろうからだ。】○「令レ白」は、后の言葉を城攻めの官軍に言って、天皇に伝えさせたのだ。○「矣」の字は、「を」の意味で置かれている。【旧印本、延佳本などには、この字がない。ここでは真福寺本によった。一本、また他一本では上の「子」の字がなく、終わりの「矣」の字がある。それは「子」の字が脱けたのである。】この後に「ば」という助辞を補うべきである。「私はどうなっても、この子だけは」という意味である。○天皇之御子。この「天皇」は「おおきみ」と読む。直接言うには、そう呼ぶのが普通だからだ。【万葉などでも「天皇」と書いて「おおきみ」と読む場合が多いが、今の本ではどれもこれも「すべらき」と読んでいるのは間違いだ。】○所思看者(おもおしめさば)。【「看」の字は、本によって「齊」、あるいは「齋」と書いてあるが、どれも誤りだ。ここでは真福寺本および延佳本によった。】万葉巻十五【三十二丁】(3736)に「於毛保之賣須(おもおしめす)」、続日本紀廿の詔に「所念看波奈母(おもおしめせばなも)云々」とある。【師は「看」の字を「齋」として「おもおしいつきまさば」と読んだが、良くない。】こう言ったのは、この母后が稲城の内に入って、すでに天皇に背いたからには、この御子も捨てて、皇子として扱わない可能性があったからである。しかし母の罪をよく考えて許す気持ちがあって、この御子をやはり御子として扱っていただけるなら、という意味である。○治は「おさめ」と読む。この言葉については上巻【伝十二の二十葉】で書いた。続日本紀四に「人祖乃、意能賀弱兒乎養治事乃如久、治賜比慈賜比(ひとのおやの、おのがわくごをヒタシおさむることのごとく、おさめたまいめぐみたまい)」、同十五に「可2治賜1伎一二人等、選給比治給布(おさめたまうべきヒトリフタリども、えらびたまいおさめたまう)」、同廿二に「此家乃子止毛波、朕波良何良仁在物乎夜、親王多知治賜布日仁、治不レ賜在牟止爲弖奈母、汝仁冠位上賜治賜夫(このいえのこどもは、あがはらがらのあるものをや、みこたちおさめたまうひに、おさめたまわずあらんとしてなも、いましにカガフリくらいをあげたまいおさめたまう)」、また同廿五に「明久淨岐心以天、仕奉乎方、氏々門方絶多末方須、治賜止勅御命乎(あかくきよきココロもちて、つかえまつるをば、うじうじカドはたちたまわず、おさめたまうとノリたまうおおみことを)云々」など、他にもたくさんある。これは皇子として受け入れ、養育してくださいということだ。皇極紀に「視養」ともある。【師はそのまま「ひたしたまえ」と読んだが、ここはそう読んでは良くない。】○天皇詔。この「詔」の字は衍(あやまり)だろう。これに続く文は【「雖怨」から「輕捷而」まで。】天皇の言葉ではなく、地の文だからだ。【あるいは他の字を誤ったかとも考えたが、そのようにも見えない。文が脱けたのかとも思ったが、そうでもない。阿禮が「すめらみこと」と口で唱えた時、その「みこと」を「詔」と思って書いたのかも知れない。】したがって、この字は読まない。○雖怨其兄は「そのいろせをこそきらいたまえれ」と読む。【こう読むと、「雖」の字の意味は含まれている。】「怨」は「仇であり讎である」と注される意味で、怨敵である。続日本紀廿六の詔に「己怨男女二人在(おのがアタおとこおみなふたりあり)」とある。ここを「きらいたまう」と読む理由は、続日本紀廿に「穢奴等乎、伎良比賜弃賜布爾依弖(きたなきヤツコどもを、きらいたまいステたまうによりて)」、同廿五に「先仁捨岐良比賜天之、道祖我兄鹽焼乎、皇位仁方定止云天(さきにすてきらいたまいてし、ふなどがあにシオヤキを、ミクライにさだめんといいて)」、同廿六に「従今往前仁、小過毛在人仁、所率流止之所聞波、法乃末爾末仁、罪奈比給、岐良比給止勅御命乎(いまよりゆくさきに、いささかのアヤマチもあらんひとに、いざなわるとシきこしめさば、のりのまにまに、つみないたまい、きらいたまわんとのりたまうおおみことを)」、同廿九に「傾=奉2朝庭1、亂2國家1弖、岐良比給弖之、氷上鹽焼我兒・・・理波法末爾末爾岐良比給倍久在利(みかどをかたぶけまつり、アメノシタをみだりて、きらいたまいてし、ヒカミのシオヤキがコ・・・ことわりはノリのまにまにきらいたまわんとのりたまうおおみことを)、同卅にも「退給比捨給比、岐良比給牟物曾(そけたまいすてたまい、きらいたまわんものぞ)」などあり、これらはみな逆心を以て朝廷に陰謀を廻らした者を怨敵として、棄て退けることを「きらいたまう」と言っている。書紀~代巻に「棄物」とある訓注に、「棄、これを『きらい』と読む」とある。これらの例から考えて、この読みがよく合っている。○不得忍愛は「いとかなしとおもおせりければ」と読む。【「かなしと」は「いとおしと」と読んでも良い。崇峻紀に「哀不忍聽」とあるのを「いとおしがりたまいて」と読むなど、「不忍」の字にこだわらず読むべき例である。】ここは前に「不忍其后云々」とあったところから係っているので、そこと同じ読み方をすべきである。【「愛」の意味も「かなし」という語に含まれている。】「かなし」という語は「悲哀(かなしむ)」、「愛憐(うつくしむ)」、「恋い慕う」などの意味を兼ねており、こう読めば「不得忍」の意味も含まれる。万葉巻四【廿丁】(592)に「宮爾行兒乎眞悲見(みやにゆくこをまかなしみ)」、巻十四【三十二丁】(3549)に「伊豆由可母、加奈之伎世呂我、和賀利可欲波牟(いずゆかも、かなしきせろが、わがりかよわん)」、また【三十六丁】(3577)「可奈思伊毛乎、伊都知由可米等、夜麻須氣乃、曾我比爾宿思久、伊麻之久夜思母(かなしいもを、いづちゆかめと、やますげの、そがいにねしく、いましくやしも)」、巻十五【三十一丁】(3727)に「於毛比和夫良牟、伊母我可奈思佐(おもいわぶらん、いもがかなしさ)」、巻廿【三十七丁】(4408)に「可奈之伎吾子、安良多麻乃、等之能乎奈我久、安比美受波、古非之久安流倍之(かなしきあがこ、あらたまの、としのおながく、あいみずは、こいしくあるべし)・・・乎之美都々、可奈之備伊麻世(おしみつつ、かなしびいませ)」、また【四十二丁】(4432)「可奈之伊毛我、多麻久良波奈禮、阿夜爾可奈之毛(かなしいもが、たまくらはなれ、あやにかなしも)」などあり、他にも例は多い。○故即の二字は読まない。【上の「れば」という辞にその意味が含まれている。】○有得后之心は「それエたまわんのミココロましき」と読む。「それ」は后のことを言う。【ここで「后」を字の通りに読むと、言葉が重なってわずらわしい。すぐ前に「后」とある文の続きだからである。また「有」を「まし」と読むのは尊敬語である。】「得賜わんの御心」という言い方は、万葉巻十二【二十五丁】(3071)に「眞玉葛絶牟乃心我不思(またまづらたえんのこころわがもわなくに)」、巻十四【二十六丁】(3507)に「多麻可豆良、多延武能己許呂、和我母波奈久爾(たまかづら、たえんのこころ、わがもわなくに)」、古今集【戀四】(690)に「君や來む我や往むのいさよひに」とある、これらの言い方である。○力士は、「ちからびと」と読む。書紀のこの(垂仁の)巻に「當麻蹶速(たぎまのけはや)は、天下の力士(ちからびと)です」とある。皇極紀に「健兒(ちからびと)に命じて相撲を取らせた」、「力人に兵(武器)を取らせ、家を守らせた」などとある。万葉巻十六(3831)には「力士舞(正字はイ+舞)(りきじまい)」という言葉も見える。○輕捷は「はやき」と読む。明の宮(應神天皇)の段の歌に「佐袁斗理邇、波夜祁牟比登斯、和賀毛古邇許牟(さおとりに、はやけんひとし、わがもこにこん)」とある。書紀の仁徳の巻に「強力者(ちからびと)がいて、百衝(ももつく)と言う。輕捷猛幹(かろくとくたけし)」、履中の巻に「強力輕捷(ちからこわくとし)」などの例がある。【「捷々」は「挙動が敏疾(敏捷)なさま」と注されている。】○「取2其御子1(かのミコをとらん)」は上記の稲城の外に置いたのを受け取ることを言う。○乃掠取(かそいとりてよ)。「乃」の字は、旧印本、延佳本などでは「巧」と書いてある。【それも悪くないが、やはり「乃」の方がしっくりする。】ここでは真福寺本、他一本による。「掠」は【「奪い取ること」と注されている。】「かそい(旧仮名:カソヒ)」と読む。続日本紀廿の詔に「加蘇比奪、盗止爲而(かそいうばい、ぬすまんとして:旧仮名カソヒウバヒ、ヌスマムトシテ)」とあるのによる。継体紀に「捉(かすい:旧仮名カスヰ)」、皇極紀に「求捉(かすい:旧仮名カスヰ)」、天武紀に「捉(かすいよ:旧仮名カスイヨ)」などとあるのも同言だ、【これらの例で「ヒ」に「ヰ」、「イ」と書いてあるのは、仮名を誤ったのだ。】普通は「かすむ(かすめる)」とも言う。○或髮或手は「みかみにまれ、みてにまれ」と読む。「まれ」は「もあれ」が縮まった語である。○掬は「つかむ」と読んでいる。万葉巻十六【十五丁】(3816)に「戀乃奴之束見懸而(こいのやつこのつかみかかりて)」とある。【巻四(695?)にも見える。】○豫は「あらかじめ」と読んでいる。【この語の仮名は古い書物に見えないので、「じ」は「ヂ」かも知れない。精確なところは分からない。さらに考察が必要だ。旧印本や延佳本では、「豫」の上に「有」の字があるが、「有豫」の二字を合わせて「あらかじめ」と読む。ただし他の本には「有」の字はない。ない方がいいだろう。】万葉巻三(468)に「出行道知末世波、豫妹乎將留塞毛置末思乎(いでてゆくみちしりませば、あらかじめいもをとどめんセキもおかましを)」、巻四【二十五丁】(556)に「豫荒振公乎(あらかじめあらぶるきみを)」、また【四十丁】(659)「豫人事繁(あらかじめヒトゴトしげし)」、巻六【三十四丁】(1013)に「豫公來座武跡知麻世婆(あらかじめキミきまさんとしらませば)」、巻九【十七丁】(1738)に「豫己妻離而(あらかじめおのづまかれて)」などの例がある。【これらの「豫」を「かねてより」と読む人が多いが、それは良くない。】また「かねて」とも読める。万葉巻二【二十三丁】(151?)に「如是有刀豫知勢婆(かからんとかねてしりせば)」、巻十【六十三丁】(2350)に「豫寒毛(かねてさむしも)」、また巻六【十九丁】(948)では「豫兼而知者(あらかじめかねてしりせば)」と重ねて言っている。○其情(そのみこころ)とは、天皇がこのように計画するだろうと推測していたことを言う。【ただし「心」と書かず「情」と書いたのからすると、心を言うのでなく、こう謀ったこと(事情)を察知したとも言えるが、そうなら「はかりこと」と読むべきかも知れない。それもどうかという気がするので、やはり「みこころ」と読むのが良いと思う。】○「以レ髪」は「剃り落とした髪で」ということだろう。【上下にある二つの「其」の字を削って、ここに「以2其髪1」とあれば文意は明らかだが、「其」の字がなく単に「髪」とあるから、別の髪のようで紛らわしいが、そうではないだろう。】そこで「そのみかみをもて」と読んでおく。○頭を「みかしら」と読む理由は上巻【伝五の八十一葉】で言った通りである。○玉緒(たまのお)は手の飾りの玉を貫く紐である。いにしえには手に玉を巻くのが一般的だった。このことは上巻【伝七の三十四葉、三十五葉】に言ってある。○三重纏手は「みてにミエまかし」と読む。【「まかし」とは「纏き賜い」ということである。この四字を師は「たまのオのミエのたまきを」と読んだが、良くない。そういう意味なら「三重手纏之玉緒」と言うべきであって、「玉の緒の云々」と言ったのでは言葉が違ってしまう。】○御衣は「みけし」と読む。この言葉は上巻の八千矛神の歌に出て来た。【伝十一の三十四葉】○全衣は「またきみそ」と読む。【腐らせたものに対し、腐っていないものを言う。】「まごろも」と読んでも良い。【「眞(ま)」に「完全な」という意味があるからだ。】○服は「けせり」と読む。【上の「衣」の字と続けて「みそ」とも読めるが、そう読むとその後に言葉が足りないことになる。髪については後に「覆い」とあり、玉の緒も「纏(まか)し」とあるから、ここも「けせり(それを着た)」といった語がなくてはならない。】「けせり」は「それを着た」といった意味である。この言葉は倭建命の歌に見える。そこ【伝廿八の九葉】で言う。○如此設備(かくまけそなえて)。この言葉は上巻の八俣遠呂智の段にもある。○抱は書紀などで「いだく」、「うだく」、また「むだく」とも読まれるが、万葉巻十四【十二丁】(3404)に「可伎武太伎(かきむだき)」とあるので、これによって「むだきて」と読む。ここでこの后が御子をみずから抱いて出て、渡したというのは、上代には貴賤に関係なく、婦人が子を生むと、みずから抱いてその子を父親に見せるのが慣わしだったのだろう。書紀の神代巻に「吾田鹿葦津姫(あたかあしつひめ)は、みずから子を抱いてやって来て、『天神の御子は、私一人で育てるべきものではありません。だからお知らせしに来ました』と言った」とあるのも、そういう慣わしによるのだろう。ところがこの后は兄の稲城に隠っているので、通常のやり方ができなかった。そのため子を渡す際には他人の手を経ることになったのだが、形は慣わしに従っていたのだ。もしそうでなければ、このような戦乱の最中に、高貴な婦人がみずから抱いて出るなどということはあるまい。【一般に古い書物を見るときは、こういう部分に注意して、上代の振る舞いを細かく考察すべきである。決しておろそかにしてはならない。】前の文に「置2稻城外1」とあるのもここと同じことを書いている。前文でまず全体を大雑把に言っておいて、ここで細かく書いたのだ。【前文で言ったのは、こことは別の時のことで、まず他人に子を出させたように聞こえるかも知れないが、そうではない。】○御祖(みおや)。いにしえは母を御祖と言った。記中みなそうである。○「握2其御髮1者(そのみかみをとらば)」。「御」の字は、ない本もあるが、ある方がいい。【次の御手、御衣などにも「御」の字があるからだ。】○「自落(おのずからおち)」、「且絶(またたえ)」、「便破(すなわちやぶれ)」。このように「自」、「且」、「便」と言ったのは、それぞれ意味が異なるのではなく、言葉を変えて文の綾としたのだ。○御衣易破。「易」の字は、この前の文に相照らすと、たぶん「且」の字の誤りだろう。【だが諸本みな「易」と書いてある。】だから「また」と読む。【前文で「玉緒且絶」、「御衣便破」とあるのを、ここでは「且」と「便」を置き換えたのだ。】○亦所纏の「亦(また)」の字は読まない。「玉の緒も」と読めば、「も」に「また」の意味がある。だがこの「亦」という字には意味がある。髪も落ち、衣も破れ、玉の緒もちぎれてしまったからという意味で、さまざま手を尽くしたが、ついに后を取り戻す手段がなかったことを強調して言っているのだ。ところで、ここでは前文と順序を変えて、玉の緒のことを最後に言っているが、それは続く文に玉作のことを述べるので、文を近いところに置いたのである。○「取=得2御子1(みこをエとりまつりつ)」。ここでは母后を取り戻せなかったことを先に言い、御子を受け取ったことを後で言っているが、それは単に前の文からの続き具合によって書いただけなのか、それとも天皇の命令が果たせなかったことを畏れ重視して、その方を先に報告したのか、あるいは御子を受け取った功績を確かなものにしようとして、最後に言ったのか。幾つかの事項を並べて言うとき、先に言うことが重要なこともあれば、後で言う方が重要な場合もあって、ここはどうともはっきり言えない。○悔恨は「くいうらみて」と読む。【「悔」の仮名は「くい(旧仮名も同じ)」である。「やゆよ」と活用する。】または二字合わせて単に「うらみ」と読んでも良い。【「悔」の字も「恨みである」と注されるからである。しかし「悔」はやはり「くい」だろう。】「くい」というのは、はじめに皇后が宮を脱けだしたときに気付かず、留めることができなくて、ついに失う結果になったことを、ここで悔しく思ったのだろう。○作玉人等は「たまつくりびとども」と読む。このとき皇后の手に纏いた玉を作った人たちを言う。【「たまつくりども」と読むこともできるが、それでは世のすべての玉作人を指しているように聞こえる。だがすべての玉作人を指すのではないだろう。この后のことで、すべての玉作人を咎めるというのではあまりにひどい。】玉作のことは、上巻玉祖連(たまのやのむらじ)のところ【伝十五の五十九葉】で言った。ところで后の手が取れなかったのは、玉の緒が切れたためで、その罪は緒にあって玉にはないのだが、玉作人を咎めたのは、その紐も共に玉作人が作って、紐を貫いて手の飾りに作り上げる職だったからだろう。○其地(そのところ)はその玉作人が所有していた土地だろう。【各地に「玉造」という地名があるのは、上代に玉作人たちが住んでいたのだろう。】○皆奪は「みなとりたまいき」と読む。【一本には「奪」の下に「取」の字がある。それも読みは同じだ。】「皆」は、この后の玉を作った人の地をすべて、ということだ。【世のすべての玉作人の地を、ということではない。】「奪(とる)」は、天武紀に「沒官(おさむるつみ)」とある意味だ。官(おおやけ)に取り上げることを言う。書紀のこの(垂仁の)巻に「當麻蹶速(たぎまのけはや)の領地を没収して、すべて野見宿禰に与えた」とあるのと同じである。続日本紀卅に「賜幣利之姓波取弖、別部止成給弖(たまえりしカバネはとりて、ワケベとなしたまいて)・・・其我名毛取給弖(そがナもとりたまいて)云々」とあり、同四十に「解レ官取レ冠倍久在(つかさをときカガフリをとるべくあり)・・・官冠乎乃未取給比(つかさカガフリをのみとりたまい)」などとあるが、これらも公(朝廷)に取り上げる(奪い去る)ことを「取る」と言って、同じことである。【この「奪」を師は「おいたまいき」と読んだ。それは令などに「追」とあるのに依っている。「追」も公に取り上げることだが、字のまま「おい」と読むのではない。天武紀でも「官位盡追(ツカサクライことごとくとらる)」と読んでいる。】○諺は「ことわざ」と読む。この言葉の意味は上巻【伝十三の三十九葉】で言った。○不得地は「ところえぬ」と読む。諺はどれもものの喩えとして言うことだ。【記中に見えるのもみなそうである。】これは報償を得ようとして行ったことで、かえってとがめを受けた、といった意味だろうか。【この事件のことだけを言うのなら、「ところ奪われし」などと言うだろうに、「得ぬ」と言っているのは、報償に土地が得られるようなことなのに、得られないというたとえだろう。】というのは、このときの玉作が玉の緒を腐らせて作ったのは、皇后の特別の注文だったから、その報償として土地がもらえると思っていたのに、かえって土地を取り上げられたからだ。【趣は違うが、竹取物語に、くらもちのみこの注文で玉作の匠らが蓬莱の玉の枝を作って奉ったが、「まだその報酬を受け取っていない」と書状で要求したという話がある。ここに少し似たところがある。】

 

亦天皇。命詔2其后1。言凡子名。必母名。何稱2是子之御名1。爾答白。今當B火燒2稻城1之時A而。火中所レ生故。其御名。宜レ稱2本牟智和氣御子1。又命詔何爲日足奉。答白取2御母1。定2大湯坐若湯坐1。宜2日足奉1。故隨2其后白1。以日足奉也。又問2其后1曰。汝所レ堅之美豆能小佩者誰解。<美豆能三字以レ音也>答白旦波比古多多須美智能宇斯王之女。名兄比賣弟比賣。茲二女王。淨公民故。宜レ使也。然遂殺2其沙本比古王1。其伊呂妹亦從也。

訓読:またスメラミコト、そのキサキにのらしめたまわく、「すべてコのナは、かならずハハなもつくるを、このミコのナをばなにとかつけん」とのらしめたまいき。かれミこたえもうしたまわく、「いまイナキをやくおりしも、ホナカにあれませれば、そのミナはホムチワケのミコとぞつけまつるべき」ともうさしめたまいき。また「いかにしてヒタシまつらん」とのらしめたまえるに、「ミオモをとり、オオユエ・ワカユエをさだめて、ヒタシまつるべし」ともうしたまいき。かれそのキサキのもうしたまいのまにまに、ヒタシまつりき。またそのキサキに、「ミマシのかためしミズのオヒモはたれかもとかん」ととわしめたまえば、「タニハのヒコタタスミチノウシのミコのミむすめ、ナはエヒメ・オトヒメ。このふたはしらのヒメミコぞ、きよきオオミタカラにませば、つかいたまうべし」ともうさしめたまいき。しかありてついにそのサホビコのミコをとりたまえるに、そのイロモもしたがいたまいき。

口語訳:天皇は(稲城の内にいる)皇后に「子供の名は母が付けるものだ。この子になんと名を付けるのだ」と尋ねたところ、「いま稲城に火を放っているとき、その火中で生まれたから、『本牟智和氣の御子』と名付けたらいいでしょう」と答えた。次に「どんな風に育てたらいいのだ」と尋ねると、「養母を付けて、大湯坐と若湯坐を定めて育てたらいいでしょう」と答えた。そのため、皇后の言った通りにして育てた。また天皇は「あなたが締めた下帯の紐を、あなたの他に誰が解くんだ」と尋ねると、「丹波の比古多多須美智宇斯王の娘で兄比賣、弟比賣の二人は、清らかな娘ですから、この二人を召しなさい」と答えた。その後、遂に沙本比古王を殺したが、その妹(后)もそれに従って死んだ。

亦の字は、真福寺本によった、【諸本にないが、ある方がいい。】○命詔(のらしめたまわく)の「命」の字は「令」の誤りだろうと師が言った。その通りだろう。前の文にも「令レ白2天皇1」とあるのと同じだ。【これは天皇が直接后に話したのでなく、使いを介して伝えた詔だから、「令」とあるべきだ。「天皇命(スメラミコト)」と書く例も上巻にあるが、ここはそれではないだろう。また「詔」は「命詔」とも言うが、それでもないだろう。】後の文の「命詔」も同じだ。○母名は「ハハなもつくるを」と読む。「なも」と「を」は助辞である。「つくる」は「名づくる(名付ける)」ことだ。【「名」は普通「なづく」と読むが、前に「名は」と言っているから、ここは「つく」とだけ言うのが言葉の決まりだ。それを「名」の普通の読みにこだわって「なづく」と読もうとするのは漢文読みで、たいへん卑俗である。】一般に子の名は母が付けたことは、書紀の神代巻に「豊玉姫は・・・天孫に『私が子を生む時、』・・・御子が生まれた後で天孫は『この子の名は何と付けたらいいのか』と聞いた。すると『彦波瀲武ウ(廬+鳥/茲+鳥)草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と呼んだらいいわ』と答えた」とあるから、神代からの礼法である。【文徳実録一に、「先朝の制(さだめ)として、皇子が生まれたらその乳母の姓を名としていた」と見えるので、ここに出る「母名」は「おものな」と読み、乳母の姓を言うようにも思えるが、そうではない。乳母の姓を名とすることは、やや後のことと思われる。そのことは伝廿で述べた。】○是子之御名(このこのみな)。自分の子の名を「御名」と言うのは、後世の人にはどうかと思われるだろうが、上代の言い方はこうだったのだ。○何稱は「なにとかつけん」と読む。【「稱」は「たたえん」と読んでも良い。】○答白【「白」の字は、旧印本や延佳本では「曰」と書いてある。ここは真福寺本他一本によった。この後に出るのもみな「白」になっているからだ。】は「みこたえもうしたまわく」と読む。○當火燒稻城之時は「いなきをやくおりしも」と読む。【「當」、「火」の字は読まない。】○火中は「ほなか」と読む。倭建命の段の弟橘比賣命の歌に「毛由流肥能、本那迦邇多知弖(もゆるひの、ほなかにたちて)」とある。○本牟智和氣御子(ほむちわけのみこ)。前には品牟都和氣命(ほむつわけのみこと)と書いてあり、「つ」と「ち」の違いがあるのは、【書紀では「譽津別(ほむつわけ)」とあり、後に出る品遲部(旧仮名ホムヂベ)も、書紀では譽津部(ほむつべ)とある。】通音で、「ち」とも「つ」とも伝えたのではないだろうか。この名の意味は、「ほ」は「火」、「むち」は大穴牟遲などの「牟遲」と同じだろう。【「智」も「都」も清音なのに「遲」は濁音なので、清濁が違うが、品遲部のときは濁音だから、これまた清音でも濁音でも言ったのではないだろうか。ところで師は「ほむち」を「火の内」だと言ったが、どうだろう。】○日足奉(ひたしまつらん)。この言葉の意味は、上巻の「治養(ひたしまつる)」とあったところ【伝十七の六十八葉】で述べた。このことを尋ねたのは、母のもとを離れてしまったからだ。○御母は「みおも」と読む。乳母のことを言う。「おも」とは、子を養育する婦人すべてを言う言葉である。中でも乳母は代表的な存在なので、単に「おも」と呼ぶ。実母も養育する中心だから「おも」と言うこともある。【母を「おも」と呼ぶのは「養育する」という面についてである。単に母の古名だと思うのは、精確な理解ではない。母を「おも」と言ったのは、書紀の仁賢の巻で「於母亦兄、これを『おもにもせ』と読む<訳者註:ある女が母にとっても兄、私にとっても兄(夫)と言う箇所>」とあり、万葉巻廿(4402)に父母のことを「意毛知々(おもちち)」と詠んでいる。同巻(4377)に「阿母刀自(あもとじ)」とあるのは防人の歌で、東言葉で「お」を「あ」と言うのだから同様だ。曾禰好忠集(好忠集93)に「おもとじの乳ぶさのむくい云々」とある。書紀の~武の巻に「孔舎衛(くさえ)の戦いのとき、ある人が大樹の陰に隠れて難を逃れたことがあった。そこでその樹を指して『その恩は母のようだ』と言った。時の人はそれに因んで、そこを『母木邑(おものきむら)』と呼んだ。今『おぼのき』と言うのは、それが訛ったのである」とあり、新井氏の「東雅」に「百済の方言で母を『おも』と言う。今も朝鮮語で母を『おも』と言うのは、いにしえの語が残っているのだ。これはわが国の言葉が向こうに伝わったのか、または向こうの国の言葉がわが国に伝わったのか、分からない」と言っている。思うに、これは~武の御世に上記の故事があり、古くから乳母もそう呼んでいるから、もともと皇国の言葉だったのが、韓の国にも伝わったのだろう。】実母を「おも」と言い、母の字をそう読むことから、乳母を言う「おも」にも「母」だけを書くようになったのは、いにしえには字にこだわらなかったからである。乳母を「おも」と言った例は万葉巻十二【十丁】(2925)に「緑兒之爲社乳母者求云、乳飲哉君之於毛求覧(みどりごのためこそおもはもとむといえ、ちのめやきみがおももとむらん)」、【これは「乳母」と書いてあるが、「おも」とよむべきであることは、最後に「於毛」とあるので分かる。今の本の読みは大きな間違いだ。】また(2926)「悔毛老爾來鴨、我背子之求流乳母爾行益物乎(くやしくもおいにけるかも、わがせこがもとむるおもにゆかましものを)」と見え、孝謙天皇の乳母、山田宿禰比賣嶋という人が、続日本紀廿【二十四丁】、万葉巻廿【十三丁】(4304詞書)で「山田御母(やまだのみおも)」と書かれている。和名抄に「乳母は、日本紀の師説にいわく『女乃於止(めのおと)である。妻の妹を言う』とある。詳細はその書を見よ。唐式には乳母と言う。和名『めのと』。辨色立成にいわく、ダイ(女+爾)母は、思うに乳母のことである。和名『知於毛(ちおも)』」とある。【古い本では「知於毛」の「知」の字はない。】○大湯坐若湯坐(おおゆえ・わかゆえ)。「湯坐」は「ゆえ」と読む。【「ゆざ」と読むのは間違いである。】書紀の雄略の巻に「湯人、これを『ゆえ』と読む」とあるのがそうだ。~代巻に「また彦火々出見尊に『婦人を傭って、乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)・飯嚼(いいかみ)・湯坐(ゆえ)とし、諸々の部備(ともそなえ)を行って養育しなさい』と言った。このとき、実母以外の女たちによって皇子を育てた。これが世に乳母を置いて子を育てることの初めである」とある。「湯坐」は。子供に湯浴みをさせる女のようだ。【上記の~代巻に湯母と湯坐があるのは、湯母は子供に湯を飲ませる女だろう。飯嚼は飯を噛んで子供に食べさせる者だろうから、湯を飲ませる者もあって当然だ。】それとしても、「え」という意味も、「坐」の字を書いた理由も、どういうことか思い付かない。【あるいは「ゆすえ」だったのを「ゆす」を縮めると「ゆ」だから「ゆえ」と言ったのか。そうだとすると、子供を湯の中に据えるという意味でそう言うのか。やはりはっきりしない。】「大・若」は「大・小」と言うようなものだ。【さらに後に述べる。】○隨其后白は「そのキサキのもうしたまいのまにまに」と読む。延喜式の祝詞に「大~等能乞賜比能任爾(おおかみたちのコワシタマイのまにまに)」、「皇大~乃乞志給乃任爾(すめおおかみのコワシタマイのまにまに)」、また「皇大~能乞比給万比之任爾(すめおおかみのコイタマイのまにまに)」などある言い方による。○所堅は「かためし」と読む。【師は「ゆいたる」と読んだ。その読みもいいが、「堅」という字を書いてあるから、やはり「かため」だろう。】結び固めたのだ。万葉巻廿【三十一丁】(4390)に「牟浪他麻乃、久留爾久枳作之、加多米等之、以母加去々里波、阿用久奈米加母(むらたまの、くるにくぎさし、かためとし、いもがココリは、あよくなめかも)」【「等之(とし)」は「てし」、「去々里(ここり)」は「心」である。「阿用久奈米(あよくなめ)」は「危うく無み」である。】巻七【八丁】(1114)に「吾紐乎、妹手以而結八川(わがひもを、いもがてもちてユウハガワ)」<訳者註:底本に「ユウハガハ」とあるが、現在一般には「ゆうやがわ」と訓読されている。どの川か不明>、巻十五【二十九丁】(3717)に「多婢爾弖毛、母奈久波也許登、和伎毛胡我、牟須比思比毛波、奈禮爾家流香聞(たびにても、もなくはやこと、わぎもこが、むすびしひもは、なれにけるかも)」などとある。○美豆能(みずの)は水穂、水垣、水枝(みずえ)、瑞之御殿(みずのみあらか)などの「みず」だ。【「水」と書いたのは借字である。書紀でみな瑞の字を書いているのは、全く当たっていない。】○小佩は、師の言うところでは「下紐を言う。『おひも』と読む。腰に纏うから『佩』の字を書くのだ」ということだ。その通りだろう。【紐だったら、「佩」の字は意味が遠い。また紐に「みずの」と言ったのも珍しいが、紐に違いないところであり、他に読みようがない。そこで思うに、帯と紐はよく似ていて通うこともあるから、帯の字の意味で「佩」の字を書いたのではなかろうか。帯は「ひも」と読む例もある。】○誰解(たれカモとかん)とは、いにしえには一般に、夫婦が互いに下紐を結び合って、また逢うまでは他人には解かせないことと、契りを堅くして、これを慎み重んじた。だからこの皇后に、このまま死別したら、今後この下紐を解く女性は誰が良いだろうかと尋ねたのである。こう尋ねたのも、この后への情愛が深かったからだろう。夫婦が互いに下紐を結び合って契りを固めたことは、万葉巻九【卅丁】(1789)に「吾妹子(わぎもこ)が結(ゆひ)てし紐を解かめやも、絶(たへ)ば絶(たゆ)ともたゞに逢(あふ)までに」、巻十一【十一丁】(2473)に「菅根(すがのね)のねもころ君が結びたる、我(わが)紐緒(ひものを)を解(とく)人はあらじ」、巻十二【九丁】(2919)に「二人して結びし紐を、一人して吾(われ)は解(とき)見じ、直(たゞ)に逢までは」、また【十二丁】(2951)「海石榴市(つばいち)の八十衢(やそのちまた)に立平(たちなら)し、結びし紐を解(とか)まく惜(をし)も」、同巻【十五丁】(2973)「眞玉つく遠近(をちこち)かねて結びつる、吾(わが)下紐の解(とく)る日あらめや」、また(2974)「紫の帯の結びも解(とき)も見ず、もとなや妹(いも)に戀(こひ)わたりなむ」、および(2975)「高麗錦(こまにしき)紐の結びも解放(ときさけ)ず、齋(いはひ)て待(まて)ど験(しるし)なきかも」、巻十五【二十九丁】(3715)に「獨(ひとり)のみきぬる衣の紐とかば、誰かも結(ゆは)む家遠くして」、巻廿【十九丁】(4334)に「海原を遠く渡りて年経(ふ)とも、兒等(こら)が結べる紐解(とく)なゆめ」など、この他にも多数例がある。これらで理解せよ。【こういうことなので、夫婦の間で紐の結びを重要視し慎んだことは、さらに万葉の中に多く見える。】○旦波比古多多須美智能宇斯王(タニハのヒコタタスミチノウシのミコ)は【「智」の下の「能」の字は諸本にない。ここは延佳本で補ってあるのによった。そのことは前に述べた。】伊邪河の宮の段【伝廿二の六十一葉】に出た。○王之(みこの)の下の女(みむすめ)の字は、諸本ではみな脱けている。ここも延佳本によった。○兄比賣弟比賣(えひめ・おとひめ)。姉妹のことをこう呼んだ例は、日代の宮の段に~大根王の娘たち、また書紀の雄略の巻に「呉の衣縫(きぬぬい)兄媛・弟媛(えひめ・おとひめ)」などがある。並べて言うだけでなく、兄比賣、弟比賣と単独に呼ぶ例はさらに多い。皇極紀に「長女少女(えひめ・おとひめ)」とあるのは、呼び名でなく一般的な名称として言う。○二女王は「ふたはしらのひめみこ」と読む。この女王たちは、皇后の姪に当たる。これは伊邪河の宮の段に出たのと、この段の前後に出たのと、いずれも二柱でなく、名前も所々で違っている。このことは次の巻でさらに言う。【伝廿五の四十三葉】この皇后が「二柱」と言ったのは、遠い丹波のことでもあり、何人と言うことまでは知らず、ただ人づてに「姉王・妹王」と聞いたことを言ったのではないだろうか。○淨公民は「きよきおおみたから」と読む。「公民」とは奴婢(ぬひ:被差別民のこと)に対して、良人のことを言う名で、古い本には普通に多く使われている。孝徳紀には「王民」ともある。良、良人、良男、良女などとともに、みな「おおみたから」と読む。続日本紀四十に「公民の徒が変じて奴婢となった」【また同廿九に「寺~の封戸の百姓・・・公戸の百姓・・・一に(等しく)公民に准じ云々」とあるのは、神戸・寺戸の百姓に対して、公戸の百姓を「公民」と言っている。】などの例が見える。ただし、奴婢に対してでなくとも、単に天下の公民と言う時には、「民」と言う。これについては水垣の宮の段の「人民」とあるところ【伝廿三の二十三葉】で言ったことも参照せよ。「淨(きよき)」というのは、氏素性が高貴だと言っているのだろう。この当時、氏の最も高貴だったのが、この女王たちだったと思われる。孝徳紀に「~名王名を以て、人の賂(まいない)とするので、他の奴婢に入り、清い名を穢す(神名・王名を自分勝手に付け、その部民を賂<取引などの具>とするため、他の部の奴婢に加えられて貴い名を汚す)」とあるのも、「清い名」とは「貴い名」のことを言っているように聞こえる。いにしえから、皇后には特別に尊貴な氏から選んで立てていたことは言うまでもない。【外国で、たいへんみだりな、貴賤を選ばずに立てる類とは違う。令の制度を見ると、皇后の次の妃二人までも、臣下の女を召さず、四品以上から選ぶとある。臣下の位には「品」とは言わない。】あるいは操行が貞(ただ)しいことを言うようにも思われるだろうが、公民という語に続いているから、やはりそうではないと思う。続日本紀【葛城王の表】に「卒立2清淨民1(ついにせいじょうのたみをたてて)云々」とあるのも、ここと同意だろう。「民」と言えば、下々の賤しい人々を言うようだが、そうではなく、天皇から見れば、貴人であっても、すべて公民となるのである。【「臣・連・伴造・国造・八十部・天下の公民」などと並べて言うときは、公民は下々の人々を言うが、貴賤のすべての人を公民と呼ぶ事もあり、孝徳紀に「およそ国家のあるとあらゆる公民、大小の所領の人々云々」とあるのは、官位を帯びて人を支配しているほどの人も含めて公民と呼んでいる。また「名々(ななの)王民」ともあるのは、朝廷に仕えるすべての人を「王民」と言っている。】○宜使は「つかいたまうべし」と読む。この言葉は、上巻の大山津見~の詛言(とこいごと)に「私が二人の娘を奉ったのは、石長比賣(いわながひめ)を使ったら・・・また木花佐久夜毘賣を使ったら云々」などとあるところ【伝十六の二十八葉】で例を挙げた。参照せよ。記中には、さらに軽嶋の宮の段に「日向の髪長比賣がたいへん容貌が美しいと聞いて、使おうと召し上げ」、高津の宮の段に「吉備の黒比賣は容貌が美しいと聞いたので、召し上げて使った」、また「天皇の使った妾(みめ)たちは」などもある。「つかいたまう」【「つかわす」とも】と言うのは、人を使う方から言う言葉で、「つかえまつる」と言うのは使われる人の側から言う、同言の活用である。【「つかえ(旧仮名ツカヘ:この項旧仮名はカタカナ)」は「つかわれ(ツカハレ)」の「ハレ」を縮めて「ヘ」と言うのであって、ツカヘ、ツカフ、ツカフルと活用する。このときは、「フ」は「ハル」が縮まった形である。「ツカフ」はツカハム、ツカヒ、ツカフ、ツカヘと活用し、この「ツカヘ」は命令形なので上の「ツカヘ」とは違う。また「遣わす(ツカハス)」は「ツカフ」を延ばして言った語で、「立つ」を「たたす」というのなどと同じだ。何かの用に遣る人を「使い(ツカヒ)」と言うのも、「ツカフ」を体言(名詞)にしたのである。とすると「使う」、「仕え」、「遣わす」、「使い」など、みな同じ言葉を活用させているのだ。】○沙本比古王の「比」の字は、前にはすべて「毘」だったのが、ここだけは諸本みな「比」と書いてある。誤写だろう。○従(したがう)とは、兄が殺されるのに従って、自分も死を選んだのだ。上に「稲城を焼いた」とあるから、兄妹ともに火中で死んだのだろう。この稲城を焼いたことについては疑問がある。もう城に火を放ったのであれば、中にいる人も何もかも焼け滅んでしまうのに大した時間も掛からないだろうに、その間に天皇の使いが【師木の宮から沙本まで】往還して、いろいろなことを質問し、定めたというのは【本牟智和氣の皇子が生まれたのは、城に火を着けてからのことである。それから「これを御子と思うなら育ててください」と皇后が言い、天皇の側からはその御子を受け取りに行かせた。これで使者は一往復している。また御子の名について質問したこと、どうやって育てたらいいかと尋ねたこと、「汝が固めた紐は云々」と尋ねたことは、御子を受け取って皇后を取り返せなかったという復命の後であるから、往復は二度になる。というのは、御子を受け取りに行った時は、まだ皇后の身を取り返せると思っていたから、そういう質問を同時にするはずはなかった。ただ后の帰りを待っていたのだ。】どうにも納得できない。【それとも最初に燃え上がった火はいったん消し止めて、城がまだしばらくは持ちこたえ、多少時間があったのかも知れない。詳細なことは分からない。】<訳者註:宣長は、はるか後代のような戦争を考えていたので、天皇は遠く宮中で安穏としていて、戦闘は将軍に任せていたと思っていた。しかし雄略以前の古代では、遠国でなければ天皇自ら武器を取って戦場に立ったケースの方が多い。攻城戦が長引く間に天皇も戦場に来て、最後は城内の皇后と言葉が交わせるほど近い距離にいたと考えるなら、彼の抱いたような疑問はない。>書紀では「ただちに軍を発し、上毛野の君の祖、八綱田に命じて狹穂彦を討たせた。この時狹穂彦も軍を構えて防戦した。すぐに稲を積んで城を造り、守りを固めたのでなかなか破れない。これを稻城と言う。一月経っても投降しない。皇后はこれを悲しんで、・・・皇子の譽津別命を抱きかかえて、兄の稲城に駆け込んだ。天皇は軍の人数を更に増やして、隙間なくその稲城を取り囲んだ。城の中に『直ちに皇后と皇子を出せ』と言ったが、出て来ない。そこで八綱田は火を放って城を焼いた。すると皇后は皇子を抱いて、城(稲)の上を踏んで姿を現し、天皇に・・・『私が取り仕切っていた后の宮のことは、わたしのライバルだった丹波の五人の婦人を取り立てなさい。みな志が貞潔で、丹波の道主王の娘です。彼女たちを娶ってください』と言った。天皇がこれを聴いたかと思うと、火の勢いが激しくなり、軍士たちはみな逃げ出した。狹穂彦は妹とともに城中で死んだ。天皇はこのことで将軍の八綱田を賞め、その名を変えて『倭日向武日向彦八綱田』と名乗らせた」とある。【この記に「淨公民」とあるのを「志並貞潔」と書いたのは、例によって漢籍めかそうとして書いた文で、意味を取り替えて書いたのだ。】



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