本居宣長『古事記伝』(現代語訳)44_7

 

 

 

長谷部若雀天皇。坐2倉椅柴垣宮1。治2天下1肆歳。御陵在2倉椅岡上1也。

 

訓読:ハツセベのワカサザキのスメラミコト、クラハシのシバカキのミヤにましまして、よとせアメノシタしろしめしき。みはかはクラハシのオカのえにあり。

 

口語訳:長谷部若雀天皇は倉椅の柴垣の宮に住んで、天下を治めた。御陵は倉椅の岡の上にある。

 

真福寺本には、この初めに「弟」とある。○この天皇の後の漢風諡号は崇峻天皇という。○倉椅(くらはし)は前に出た。【伝卅七の十五葉】○柴垣宮(しばかきのみや)は、多治比之柴垣宮のところで言った通りだ。【伝卅八の三十六葉】この宮は今の倉橋村の金福寺という寺がその跡であるという。○肆歳(よとせ)。【「肆」の字を、真福寺本には「四」とある。】書紀に「二年夏四月、橘豊日天皇が崩じた。八月癸卯朔甲辰、炊屋姫尊と群臣に勧められて、天皇の位に就いた。この月に倉梯に宮を敷いた」とある。「四歳」とあるのはかの紀と一年違う。○書紀には御子二柱を挙げているが、この記に書いていないのは、省いたのだろう。【この記のさまは、近い御世になると、次第に事を省いているからである。】○肆歳とあるところに、旧印本、真福寺本、また一本などに、「壬子年十一月十三日崩」という細注がある。【真福寺本では「崩」の後に「也」という字がある。また旧印本では本文に続けて書いている。】書紀と年月は合って、日は違う。【書紀の乙巳は三日である。あるいは巳の字が「卯」の誤りか。乙卯こそ十三日である。】ある書に年七十二とも七十三ともあるが、みな年紀が違う。○倉椅岡上(くらはしのおかのえ)。書紀に「五年冬十一月、山猪を奉るものがあった。天皇は猪を指して、『いつこの猪の首を切るように、私が嫌う人を斬ることが出来ようか』と言った。兵器をたくさん蓄え、いつもと違うところがあった。蘇我馬子宿禰は天皇が言ったことを聞き、己が嫌われていることを恐れ、自分の党の人を集めて、天皇を殺そうと謀った。十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰は群臣を偽って、『今日東国の調を献る』と言い。東の漢直、駒に天皇を殺させた。その日に天皇を梯岡の陵に葬った。【ある本にいわく、大伴の嬪(みめ)小手子(こてこ)は天皇の寵愛が衰えたのを恨みに思い、使いを蘇我馬子宿禰のところへやって、「最近山猪を奉ったものがいます。天皇はその猪を指して云々」。】とある。天皇が崩じて、その日のうちに葬られたことなど、古今に渡って例があるだろうか。当時の馬子の威勢の程が思い知られる。諸陵式に「倉梯岡の陵は倉梯宮で天下を治めた崇峻天皇である。大和国十市郡にある。陵地、陵戸ともになし」とある。【陵地、陵戸のないことは、これまた例がない。理由もなくこうなることは、これもまた馬子の威権を恐れてだろう。しかし後に至ってでも陵地、陵戸を置くべきなのに、そういうこともなかったのはなぜか。】この御陵は大和志に「倉橋村の東にある。今は赤坂という。陵のほとりに冢が六つある」と言っている。【この御陵は赤坂という坂の上にある。丸い塚で、松の樹がたくさん繁っているという。】

 



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