『古事記傳』６－１
| 神代四之巻【夜見の国の段】 |
於レ是欲レ相＝見２其妹伊耶那美命１。追＝往２黄泉國１。爾自２殿騰戸１出向之時。伊耶那岐命語詔之。愛我那邇妹命。吾與レ汝所レ作之國。未２作竟１故可レ還。爾伊耶那美命答白。悔哉不２速來１。吾者爲２黄泉戸喫１。然愛我那勢命。＜那勢二字以レ音。下效レ此＞入來坐之事恐故欲レ還。且具與２黄泉神１相論。莫レ視レ我。如レ此白而。還＝入２其殿内１之間。甚久難レ待。故刺２左之御美豆良１＜三字以レ音。下效レ此＞湯津津間櫛之男柱一箇取闕而。燭２一火１入見之時。宇士多加禮斗呂呂岐弖。＜此十字以レ音＞於レ頭者大雷居。於レ胸者火雷居。於レ腹者黒雷居。於レ陰者拆雷居。於２左手１者若雷居。於２右手１者土雷居。於２左足１者鳴雷居。於２右足１者伏雷居。并八雷神成居。訓読：ココにそのイモいざなみのミコトをアイミマクおもおして、よもつクニにオイイデましき。すなわちトノドよりイデむかえマスときに、いざなぎのミコトかたらいタマわく、「うつくしきアがナニモのミコト、アレみましとトモニつくりしクニ、いまだツクリおえずアレバ、かえりマサネ」とノリたまいき。ココにいざなみのミコトのモウシたまわく、「くやしきカモとくキまさずて。アはヨモツヘグイしつ。しかれドモうつくしきアがナセのミコト、イリキませるコトかしこければカエリけんを、まずツバラカにヨモツカミとあげつらわん。アをナみたまいソ」。カクもうして、ソノとのぬちにカエリいりませるホド、いとヒサシクテまちかねタマイキ。カレひだりのミヅラにささせるユツツマグシのオバシラひとつトリかきて、ヒトツビともしてイリみますトキニ、ウジたかれトロロギて、ミかしらにはオオイカヅチおり、ミむねにはホノイカヅチおり、ミはらにはクロイカヅチおり、ミほとにはサクイカヅチおり、ヒダリのミテにはワキイカヅチおり、ミギリのミテにはツチイカヅチおり、ヒダリのミあしにはナルイカヅチおり、ミギリのミあしにはフシイカヅチおり、あわせてヤクサのイカヅチガミなりおりき。 口語訳：どうしても愛妻の伊邪那美命に会いたくなって、黄泉の国に行った。伊邪那美命がその扉から迎え出たので、伊邪那岐命は「愛しい妻よ、私と一緒に造った国は、まだ造り終えていない。帰ってまた続けようじゃないか。」伊邪那美命は「ああ、残念だわ、もっと早くいらっしゃらなかったのが。私はもう黄泉の国の食べ物を食べてしまったの。でも私の愛しい夫がおいでになったのは畏れ多いことだから、帰ってもいいかどうか、黄泉の神と相談してみるわ。その間、私の姿を見ないでね」こう言って黄泉の宮殿の中に入った。待っていたが、あまり長いので待ちきれず、みずらに指してあった湯津津間櫛の男柱一つを折り取って火を灯し、中に入ってみると、妻の体にはびっしりと蛆が取りつき、頭には大雷がおり、胸には火雷、腹には黒雷、陰部には拆雷、左手には若雷、右手には土雷、左足にも鳴雷、右足に伏雷、あわせて八つの雷神が生まれていた。 欲相見は、「あいみまくおもおし」と読む。【相の字は、逢の意味に取る。】○黄泉の国は、【「よみのくに」とも「よみつくに」とも読める。「よみつ」と言うのは、祝詞にある。しかし、】「よもつしこめ」、また書紀に「よもつひらさか」など、例が多いので、「よもつくに」と読んでおく。単に「黄泉」とある場合は「よみ」とする。この「よみ」は、死んだ人が行って住む国である。万葉巻九【三十四丁】（１８０４）に「遠津國黄泉乃界丹（とおつくにヨミのサカイに）」、同じ巻【三十六丁】（１８０８）に「雖生應合有哉、宍串呂黄泉爾将待跡（イケリとも、アウべくあれや、シジクシロよみにマタナン）云々」とある。源氏物語の夕霧の巻に「よもぢのいそぎ」とあるのは、泉路（よみじ）である。【泉門とするのは間違いである。】栄花物語、音楽の巻に「よみづとにし侍む」と言っているのは、黄泉に行くつと（果の下に衣：みやげ）である。生き返ることを「よみがえる」と言うのも、黄泉から帰ることである。【俗に「黄泉路がえり」、「黄泉路の障り（成仏できないこと）」などと言う。】名前の意味は、口决に「夜見土」とあり、「土」は間違いだろうが「夜見」はもっともだ。下に「燭一火（一つ火灯して）」とあるので、暗いところのようであり、「夜之食国（よるのオスくに）」を治める月読（つくよみ）尊の「読み」という語も通じる。祝詞に「吾名セ（女＋夫）能命波、上津國乎所知食倍志、吾波下津國か所知牟止申弖（氏の下に一）（アがナセのミコトはうわつクニをシロシメスべし、アはしたつクニをシランとモウシテ）云々」とあり、また須佐之男命が「妣（はは）の国、根の堅洲（かたす）国」と言った【弘仁私記では「根の国は黄泉である」と言い、万葉巻五（９０５）に「之多敝乃使（シタベのツカイ）」とあるのも黄泉路のことだが、「下方（したべ）の使い」のように聞こえる。出雲国風土記に伯耆の国郡内（くぬち）に夜見（よみ）嶋があると言うが、やはり黄泉に関係しているのだろう。】などを見ると、下方にある国のようである。この黄泉につい 於レ是伊耶那岐命見畏而逃還之時。其妹伊耶那美命言レ令レ見レ辱レ吾。即遣２豫母都志許賣１＜此六字以レ音＞令レ追。爾伊耶那岐命取２黒御鬘１投棄。乃生２蒲子１。是拾（正字はてへん＋庶）食之間逃行。猶追。亦刺２其右御美豆良１之湯津津間櫛引闕而投棄。乃生レ笋。是拔食之間逃行。且後者。於２其八雷神１副２千五百之黄泉軍１令レ追。爾拔Ｂ所２御佩１之十拳劔Ａ而。於２後手１布伎都都＜此四字以レ音＞逃來。猶追到２黄泉比良＜此二字以レ音＞坂之坂本１時。取Ｂ在２其坂本１桃子三箇Ａ持撃者。悉逃返也。爾伊耶那岐命告２其桃子１。汝如レ助レ吾。於２葦原中國１所レ有宇都志伎＜此四字以レ音＞青人草之。落２苦瀬１而患惚時。可レ助告。賜レ名號２意富加牟豆美命１。＜自レ意至レ美以レ音＞訓読：ここにイザナギのミコト、みカシコミてニゲかえりますトキニ、ソノいもオザナミのミコト、「ワレにはじミセたまいつ」とモウシたまいて、やがてヨモツシコメをツカワシテおわしめき。かれイザナギのミコトくろミかずらをトリテなげうちタマイしかば、すなわちエビかずらのミなりき。コをヒリイはまんアイダにニゲいでますを、なおオイしかば、マタそのミギリのミみずらにササセルゆつつまぐしをヒキかきてナゲウチたまえば、すなわちタカンナなりき。コをヌキはむあいだにニゲいでましき。またノチには、かのヤクサのイカヅチがみに、チイホのヨモツイクサをソエテおわしめき。かれミはかせるトツカツルギをヌキテ、シリエデにフキつつニゲきませるを、なおオイてヨモツヒラサカのサカモトにイタルトキに、そのサカモトなるモモのミをミツとりてマチうちタマイしかば、コトゴトにニゲかえりき。ここにイザナギのミコト、モモにノリたまわく、「いましアをタスケシがごと、アシハラのナカツクニにアラユルうつしきアオクサヒトの、ウキセにクルシマンとき、タスケテよ」とノリたまいて、オオかむずミのミコトというナをたまいき。 口語訳：これを見て伊邪那岐命は恐怖に駆られ、逃げ帰ろうとすると、妻の伊邪那美命は「私に恥をかかせたな」と言って、すぐに豫母都志許賣（黄泉の醜女：しこめ）たちに後を追わせた。そこで伊邪那岐命は頭の鬘を取って投げ捨てたところ、ぶどうになった。黄泉の醜女たちがこれを取って食べる間に逃げたが、またも追ってきた。そこで右のみずらに刺してあった湯津津間櫛の櫛の歯を引き欠いて投げ散らしたところ、すべて筍になった。黄泉の醜女たちがこれを抜いて食べる間に逃げた。そのあと、伊邪那美命はその八種の雷神と千五百の黄泉の軍兵たちに後を追わせた。そこで伊邪那岐命は帯びていた十拳剣を抜いて、背後を切り払いながら逃げてきた。なおも追って、黄泉比良坂のふもとまでやって来たときに、その坂本にあった桃の実を取って、待ち受けて投げつけたところ、追っ手はことごとく逃げ帰って行った。そこで伊邪那岐命は、その桃に向かって「汝は私を助けたように、葦原の中つ国に生きる人々が苦難に陥ったときには助けよ」と命じ、「おおかむづみの命」という名を与えた。 見畏（みかしこみ）は見て畏れることである。記中、ところどころにこの言葉がある。見驚（みおどろ）く、見喜（みよろこ）ぶ、見感（みめ）ずなどの言葉もあって、みな古語である。「かしこむ」はおそれるのである。書紀の推古の巻の歌に、「かしこみて」とある。新撰字鏡には「悸」を「惶」とし、「かしこむ」とも「おそる」ともしている。【また同書では忙怕を「おびゆ（おびえる）」とも「おず（おじける）」ともする。ここも「みおじて」と読むことができる。】○逃還（にげかえります）。「逃」という語は、朝倉の宮（雄略天皇）の段に「にげのぼりし」とある。○令見辱（はじみせつ）。恥を与えたのを「恥見す」というのは古語である。書紀【五の八丁】（倭迹迹日百襲姫命の神婚説話のくだり）に「令羞吾（アレにハジみセつ）」とあり、同【十二の六丁】（履中五年）にも「慚レ汝（イマシにハジみせん）」などとある。これを鎭火祭の祝詞では「吾名セ（女＋夫）乃命能、吾乎見給布奈止申乎、吾乎見阿波多志給比津止申給弖（アがナセのミコトの、アをミたまうなとモウスを、アをミあわたしつとモウシたまいて）」とある。○豫母都志許賣は、書紀に「泉津醜女（よもつしこめ）」と書いてあり、「醜女、これをシコメと読む、あるいは泉津日狭女（よもつひさめ）とも言う」とある。弘仁私記では「一説に黄泉の鬼である」と言う。【ただし「鬼」というのは、儒仏の書で言う鬼（幽霊）ではない。ただこの世の通常の人でなく、恐ろしいものを「鬼」と呼んだ。】書紀の欽明の巻に「魃鬼（しこめ）」とあるのもこの意味である。和名抄では、この「醜女」を「鬼魅」の項に載せている。名の意味は姿形が恐ろしく、醜いことである。後の段に「いなしこめ云々」と言うのと同じである。そのところでもう少し言う。○遣は「つかわして」と読む。【これを「まだし」と読むのは間違いだ。それは尊ぶべき所へ人をやって物を奉る意味のところに書く「遣」の字を「まだす」と読むことから転じた誤りである。「まだす」というのは伝十六、木花佐久夜比賣の段で詳しく言う。】○黒御鬘（くろミかずら）。「かずら」という言葉に三種類ある。葛と鬘とカモジ（髪の下の友を皮に置き換えた文字）である。【古い本には「蘰」とも「縵」とも「カツラ？（鬘の下の又を方に置き換えた字）」とも書いてある。「蘰」は字書にない。「縵」の字は字書にはあるが、カツラの意味はない。カツラ（鬘の下の又を方に置き換えた字）は鬘の字体を変えた文字である。】カモジ（髪の下の友を皮に置き換えた文字）は和名抄によると和名「かつら」、「釈名にいわく、髪が少ない者が補助としてかぶるものである」とあり、俗に「かもじ」と言う。このようにさまざまあるが、元はすべて草の葛から転じた言葉だ。葛の元の名は「つら」であって、記中に「登許呂豆良都豆良（ところヅラつづら）」、書紀や万葉に「磨佐棄逗邏（正字は口＋邏）（まさきヅラ）」、和名抄に「千歳ルイ（くさかんむりに田三つ、下に糸）百部（あまツヅラほとヅラ）」と言い、【これらの「つら」を「かづら」の略と思うのは本末転倒である。】忍冬（すいかずら）も、新撰字鏡には「すいづら」とある。【拾遺集雑下（５５８）に「さだめなくなるなる瓜のつら見ても」と詠んだのは、蔓（つら）に頬（つら）をかけたのである。現在「つる」と言うのは、「つら」から転じたのだ。弓の弦（つる）も、万葉では「つら」とも言っている。馬具の轡（くつわづら）、オモ（革＋龍）頭（おもづら）も草の蔓（つら）から出たのだろう。轡は手綱のことである。】何であれ、蔓草を頭の飾りに掛けるのを髪葛（かづら）と呼び、これがつまり鬘である。このように鬘に用いるので、草の葛を「かづら」と呼ぶようになったのであろう。カモジ（髪の下の友を皮に置き換えた文字）も髪を飾るものであるから、鬘と同じ名を付けたのである。この鬘は上代には女男ともに使ったもので、蔓草を用いたのは、石屋戸の段で（天宇受賣命が）眞拆（まさき）を鬘としてかけたことから、「日影の鬘」などと言い、また必ずしも蔓（つら）ではないが、花鬘、菖蒲（あやめ）の鬘、柳の鬘、木綿（ゆう）鬘などの言葉がある。【これらも「かづら」と呼ぶのは蔓草から出た。】他に、糸などを使って作ったようだ。珠を飾ることは、天照大御神の飾り【「うけい」の段】に見える、「玉鬘」とはこれである。【髪にも葛にも「玉かづら」と言うのは、この玉鬘の名から言うのだろうか。もっとも、ただ賞賛して言うだけかも知れない。】穴穗の宮（成務天皇）の段に「押木の玉縵（たまかづら）」と言う語があって、貴重な宝としている。万葉には「波禰蘰（はねかづら）」というのがある。【「蘰」の字は、これを草でも糸でも作るので、作った字だろうか。そういう風にして我が国で作った字は多い。「縵」の元の意味とは関係なく、そういう意味で用いたのだろう。○和名抄では「花鬘」を「伽藍の具」に入れているが、これは元々天竺の人の頭飾りである。】ここには「黒」とあり、色を言うのだが、何を使ってどんな作り方をしたのかは分からない。【「つづら」のことを「黒葛」と書くが、それは無関係だ。○この「黒」を「くろき」と読むのは良くない。ここで特別に色のことを言う必要はない。だから「くろみかづら」と読む。その「くろ」も色の名前ではあるが、こう読めば鬘の名前になって、古言の例に合っている。】それが「蒲子（えびのミ）」になったのは、この鬘の様子が蒲萄葛（えびかづら：ぶどうの蔓）に似て、玉を垂れていたのが、その実の成ったのに似ていたと言うことだろう。色が黒かったのも、ブドウの実に関係するだろう。○棄は、八千矛神の歌に「脱棄」を「ぬぎうて」あり、書紀には『「吹棄」は「ふきうつる」と読む』とあるので、「うて」と読むのが正しい。○蒲子（えびかづら）。書紀には「蒲萄」とある。和名抄には「紫葛は和名『えびかづら』、蒲萄は和名『エビカヅラのミ』」とある。ある人の言ったところでは、このものはヒゲがあって、エビに似た蔓なので、こう呼ぶという。○拾（正字はてへん＋庶）は字書に「拾」とあり、「取」ともいう。これを「ひろい」と言うが、古語では「ひりい」と言う。万葉巻十五【十丁】（３６１４）に「於伎都白玉比利比弖由賀奈（おきつシラタマひりいてユカナ）」、同【十三丁】（３６２７）に「和多都美能多麻伎能多麻乎（ワタツミのタマキのタマを）・・・比里比登里（ひりいとり）」、また巻十八【七丁】（４０３８）にも「多麻母比利波牟（タマモひりわん）」などがある。○逃行（にげいでます）。この「行」の字は「いでます」と読む。それは必ずしも出て行くことでなくとも、単に「行き給う」ことも、そう言うのが古言だからである。○湯津々間櫛（ゆつつまぐし）。前にはその男柱を取り欠いて」、とあったのを、ここにはどれともなく引き欠いた、とあるのは、【ここで「引く」と「取る」との間には意味の違いはない。】全部の歯のうち、中程の多数を引き欠いたのである。また前のは左のみづらの櫛、ここは右の櫛である。○笋は新撰字鏡に筍笋は「たかんな（旧かなはタカムナ）」、和名抄でも「筍は笋とも書き、和名『たかんな』」とある。【後世は「たかうな」とも言う。「む」を「う」と言う例は多い。音便である。】名の意味は「竹芽菜（たかめな）」である。【菜（な）は食に添えて食べるすべてのものを言う語である。食べるときの名を「たかんな」と言うのであって、直接には「竹の子」と言う。そのため歌では「竹の子」と言う。ここでは「抜いて食べた」とあるので、菜に属する。】櫛の歯が並んでいるのは、筍が並んでいる様子に似ている。書紀（一書）に塩土の老翁（しおつつのオジ）が玄櫛（くろくし）を投げると、五百箇竹林（いおつタカムラ）になったとあるのも、これと同様である。○且後。この「且」は「また」と読む。○其は「かの」と読む。○千五百（ちいほ）は、単に数が多いのを大雑把に言う語である。一般にその多さの水準によって、八（や）、五十（いそ）、五百（いお）、八百（やお）、千（ち）、千五百（ちいほ）、八千（やち）、万（よろず）、八十万（やそよろず）、八百万（やおよろず）、千万（ちよろず）などと書く（現実の数というわけではない）。百を「ほ」と言うのは、「もも」が転訛したのである。「も」と「ほ」は通じる。ただしこれは五百（いお：旧仮名イホ）と八百（やお：旧仮名ヤ）に限られる。その他の場合は「～もも」と読んでいる。○黄泉軍は「よもついくさ」と読む。「いくさ」とは兵士を言う。書紀の神武の巻に女軍（めいくさ）・男軍（おいくさ）、万葉巻二【三十四丁】（１９９）に「御軍士乎安騰毛比賜（みイクサをアトモイたまい）」、巻六【二十五丁】（９７２）に「千萬乃軍（チヨロズのイクサ）」、巻廿【二十七丁】（４３７０）には「須米良美久佐（スメラミクサ）」【皇御軍である。】などとあるのは、すべてそうである。最近のように戦いのことを「いくさ」と呼ぶのは古書にはなく、かなり後代のことである。【「いくさ」に「軍」の字や「師」の字を書くのは、その兵士たちの集団を言う。それを師は「いくさは射合箭（いクワシさ）だ」と言ったが、どうだろう。「戦」の字を「いくさ」と読んだ例もないのである。】○後手（しりえで）は、手を後ろに回して何かをするのである。宇津保物語に、「しりへ手にしばり云々」とある。○布伎（ふき）は「振り」である。古言で「振る」を「ふく」と言った例は、万葉に草の山吹を山振とも書いてある。風が「吹く」も「振る」と通った。中巻に「振レ風比禮（かぜをふるひれ）」という例がある。書紀に「背揮、此云２志理幣提爾布ク（尸にぎょうにんべん＋婁）１（しりえでにふく）」とある。【この「ク（尸にぎょうにんべん＋婁）」の字を最近の本に「侶」と書いているが、どうにも読みようがない。間違っているのは確かだ。書紀纂疏に「屡（尸に婁）」を書いてあるので、「ク」の間違いだと分かる。この二字は取り違っていることが多い。】皇極紀に「揮レ劔（タチをフキて）」という例もある。○都々（つつ）は「ながら」ということで、これをしながらあれもすることである。「且且（かつかつ）」が縮まったものか。ここでは雷神と黄泉の軍が追ってくるのを防いでいるのだが、防いでばかりでは逃げられないので、逃げながら防ぐため、後ろ手に防御しているのである。○黄泉比良坂（よもつひらさか）。書紀には「泉津平坂は『よもつひらさか』と読む」とあり、鎮火祭の祝詞には「よみつひらさか」とある。黄泉と現世の境である。平坂というのは、なだらかな坂という意味だ。【書紀の崇神の巻によれば、山城にも平坂というところがある。】○桃子は「モモのミ」と読む。【木や草の名は、花について言う場合もあれば、実を呼ぶ場合もあり、また幹を呼ぶこともある。もっぱら実について呼ぶ梨、栗、柿などは、ことさら「～実」と言わなくても実のことになり、「梨の実」、「柿の実」などとは言わない。桃もそのたぐいなので、実も「桃の実」でなく、単に「もも」と呼ぶのが普通だ。和名抄でもこうした果実類に分類され、「桃子、和名『もも』」としている。その他も梨子、栗子、椎子など、みな同じように書いてある。だが桃は果実だけでなく、花についても愛でる木である。それにこの場面で単に「坂本にある桃」と言えば桃の木ということになってしまうから、やはり「桃の実」と読むべきである。】ここを師が「桃の実を三つ取りて」と読んだのが良い。【「桃の実三つを取りて」というのは漢文読みである。師が言うところでは、ここでブドウや桃を投げ与えたのは、後世の道饗祭（みちあえのまつり）の起源である。その祝詞に「根の国・底の国よりあらび・うとび来んもの（荒々しく気味悪いもの）に云々」とある。】○持撃（まちうち）は、来るものを待って討つことである。中巻の倭建命が蒜を隠し持って、足柄山の神を待ち打ったとあるのと同じ。古言には待問（まちとう）、待取（まちとる）、待攻（まちせむ）、待戦（まちたたかう）、待向（まちむかう）など、「待～」の用例が多い。【これは「早く来て欲しい」と願うことを「待つ」と言うのとは意味合いが違い、単に来るものを迎え受けることを言う。後世の物語にも「待～」という語は多く見える。】○悉は「ことごとに」と読む。火遠理命（ほおりのみこと：山幸彦）の歌に、「伊毛波和須禮士、余能許登碁登邇（イモはワスレジ、ヨのコトゴトに）」、万葉巻五（８９２）に「布可多衣、安里能許等其等、伎曾倍騰毛（ぬのカタぎぬ、アリのコトゴト、キソエども）」などとある。○逃返（にげかえりき）。旧印本には「坂返」とある。これも捨てがたい。黄泉から帰るのを「よみがえる」と言うように、坂合（さかあ）いから帰ることを「さかがえる」という古言があったかも知れない。○告桃子（ももにのりたまわく）。ここでは「桃子」を単に「もも」と読む。【ここも「桃の実」と読んではおかしい。】告の字は「のりたまわく」と読む。【これを「つげ」と読むのも悪くはないようだが、やはりそうは読まない。】○「助レ吾（あをたすけし）」とは、この桃子によって追い迫る者たちを撃ち退け、難を逃れたことを言う。○葦原中國（あしはらのなかつくに）は、大御国の名であり、本来は天神が【天照大御神、天忍穂耳命の】時代に、高天の原から見て呼んだ名である。この名については、別に「國號考」で詳しく論じた。【ある書に、葦牙にたとえて名付けたという解釈をしているが、それは上代の考えではない。それでは原、中という言葉に意味がない。また中つ国というのを、漢国の人々が自国を誇って中華、中国と呼ぶのと同じように説くのも、あの国をうらやんで言う誤りである。単に葦原の中だったのである。また「この葦原の中つ国は九州のことだ」と言う人があるが、それは「高天の原は大和のことだ」という、誤った思い込みから出たこじつけである。】ここでは天上でなく夜見国にありながら、伊邪那岐命がこの国をこう呼んでいるのは、天上から呼ぶ名がそのままこちらでも用いるようになってから言い伝えた語である。【あるいは、天津神の時代になってから、天上で語り伝えた語であるかも知れない。】○所有は「あらゆる」と読む。「いわゆる」と同様の活用で、いずれも古言である。【「ゆ」は「る」に通用する古言の活用である。この「あらゆる」、「いわゆる」を漢籍読みの言葉と思うのは間違いである。漢籍を読む言葉には、古言が残っていることが多い。】○宇都志伎青人草。書紀には「顯見蒼生、此云２宇都志枳阿烏比等久佐１（顕見蒼生は『うつしきあおひとくさ』と読む）」とあり、弘仁私記には「顯見とは見在（げんざい）のことである」とある。つまり「宇都（うつ）」は現、「志伎」は「嬉しき」、「悲しき」などと同じ「しき」である。書紀の神武の巻に「顯齋、此云２于圖詩怡破毘１（顯齋は『うつしいわい』と読む）」とある。続日本紀十の宣命に「于都志久母（うつしくも）」などとある。人草のことをこう言うのは、書紀の大穴牟遅命の言葉に「吾所治顯露事者、皇孫當治、吾将退治幽事（アがシレルあらわにゴトは、スメミマのミコトしろしめせ、アはカクレテかみごとシリなん）云々」【ここにある「幽事（かみごと）」を、この前の文では「神事（かみごと）」と書いている。同じことである。】ここで「幽神事（かみごと）」に対して、「顯露事（あらわにごと）」と言っているように、目に見えず顕わでない神に対して、顕わな現世の人々ということである。【中巻の終わり近くに「神習（かみならう）、青人草習（あおひとくさならう）」という語が出ていて、これも現世の人々を神に対して言っている。】雄略天皇が、葛木の神（一言主の神）が顕現したことを「宇都志意美（うつしおみ）」と言っている。師の説では万葉に「空蝉（うつせみ）」【借字である】、「宇都曾臣（うつそみ）」などとあるのも、みな「顕（うつ）しき身」ということだそうだ。また「現心（うつしごころ）」、「夢現（ゆめうつつ）」などの「現」もみな同じ語である。青人草というのは、後の部分で「千人死、千五百人生」とあるような意味で、草がどんどん生い茂りはびこるのにたとえて言ったのである。「青」と言っているのでも分かる。【弘仁私記で「貴人は木にたとえ、賤しい人は草にたとえた」などと言っているのは間違いである。】人をこう呼ぶのは、神が人々に利益を与える場合、あるいは人々に損害を与える場合にだけ使う語である。【神が人々を助けるというのは千五百人生まれることである。損害を成すというのは、それに逆らい敵対するのである。だからいずれもこの語を使って呼ぶ。古い書物を多く当たって、気付くべきである。私の言うことが正しいことは、自然と分かるだろう。○漢籍の「蒼生黔首（そうせいけんしゅ）」の意味とは全く違う。この字の意味に惑わされて、取り違えてはならない。書紀で「蒼生」と書いてあるのは、やや似た意味の字を使ったに過ぎない。】○苦瀬は「くるしきせ」と読むのももっともだが、師が「うきせ」と読んだのが良い。瀬は歌に「嬉勢（うれしきせ）」、「哀勢（かなしきせ）」、「恋勢（こいしきせ）」、「逢勢（おうせ）」、「如是有勢（かかるせ）」などとあるという。この「せ」という言葉は、縦にも横にも使う。縦というのは時である。長い期間を経て人に逢うときを「逢瀬（おうせ）」という。他も同じである。横というのは場所である。川の瀬などがそうだ。川について言うのは、川上から川下まで長い間に、歩いてわたれる浅いところを瀬と呼ぶのである。【古い歌に「渡瀬（わたりぜ）」とある。川は浅いところを選んで渡るのだから、渡瀬は必ず浅いことになる。それから転じて、渡るところでなくても、浅いところがあればそれも瀬と呼ぶ。「たぎつ瀬」、「早瀬」なども、もとは渡瀬から出たのであろう。】大きく下った後の世のことになるが、西行の歌に「ここを瀬にせん」と言うのも「ここをその所にしよう」という意味である。この苦瀬は苦患に出会うことで、やはり時についても場所についても言う。○落（おつ）は沈と同じである。悪い方向に進むのを「落ちる」とか「沈む」とか言い、良い方向に行くのを「上がる」とか「浮かぶ」とか言う。○患愡の「愡」を惣（けものへん＋怱）やソウ（てへん＋怱）の字に書いているのは誤りである。一本や旧事紀でりっしんべんにしているのが正しい。火遠理命の段で愡苦とあるのも同じ。どちらも「くるしむ」と読む。天智紀の童謡で「愛倶流之衛（えくるしえ）云々」、「阿例播倶流之衛（あれはくるしえ）」とある。【「愡」は「ソウ（りっしんべん＋總のつくり）」の俗字だそうだ。字書には「愡恫は志を得ないこと」、「意を得ない様子」、また「コウ（りっしんべん＋空）愡は志を得ないこと」ともいう。また倥、偬とも通じ、窮困である、迫促である、苦であるとも言い、恫痛は呻吟であるとも書いてある。】＜訳者註：この「愡」の字は音読み「ソウ」であり、「惚（音読みコツ）」とは少し違うが、混同使用されていることが多い＞○可助は「たすけてよ」と読む。「如レ助レ吾」がここにかかる。今私を助けたように助けよと言っている。桃が後世まで鬼や魔物を避ける力を持っているのは、この詔によるのである。【漢籍にも桃にそういう力があることが載っているのを見ると、御国だけでなく、外国の隅々までこの大神の詔の力が及んでいることが分かって、たいへん貴いことである。】○意富加牟豆美（おおかむつみ）は「大神之実」であると谷川氏は言った。そうであろう。【ただし「大神」の実というのでなく、大「神の実」ということで、「神の実」に大を添えて讃えた。】この名は、奇功を賞めて「神の」と賞賛したのである。ただ「豆美（つみ）」については、別の考えもあるが、それは伝七の巻【五十五葉、五十七葉】で言う。 最後其妹伊耶那美命身自追來焉。爾千引石引＝塞２其黄泉比良坂１。其石置レ中。各對立而度２事戸１之時。伊耶那美命言。愛我那勢命。爲レ如レ此者。汝國之人草一日絞＝殺２千頭１。爾伊耶那岐命詔。愛我那邇妹命。汝爲レ然者。吾一日立２千五百産屋１。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。故號２其伊耶那美命１謂２黄泉津大神１。亦云以２其追斯伎斯１＜此三字以レ音＞而。號２道敷大神１。亦所レ塞２其黄泉坂１之石者。號２道反大神１。亦謂２塞坐黄泉戸大神１。故其所レ謂黄泉比良坂者。今謂２出雲國之伊賦夜坂１也。訓読：イヤハテにソノいもイザナミのミコトみミズカラおいキマシき。すなわちチビキいわをソノよもつひらさかにヒキさえて、ソノいわをナカニおきて、あいムキたたしてコトドをワタスときに、イザナミのミコトのモウシたまわく、「うつくしきアがナセのミコト、カクしたまわくは、ミマシのクニのヒトクサ、ひとひニチにチかしらをクビリころさな」とモウシたまいき。ここにイザナギのミコトのノリたまわく、「うつくしきアがナニモのミコト、ミマシしかシたまわば、あれはヤひとひニチにチイホうぶやたててな」とノリたまいき。ここをモテひとひにカナラズちひとシニ、ひとひにカナラズちいほひとウマルル。カレそのイザナミのミコトをヨモツオオカミともうす。マタかのオイシきしによりて、チシキのオオカミともうすトモいえり。マタそのヨミノサカにサヤレリシいわは、チガエシのオオカミともうし、サヤリますヨミドのオオカミとももうす。カレそのいわゆるヨモツヒラサカは、いまイズモのイウヤザカとナモいう。 口語訳：最後に伊邪那美命自身が追ってきた。そこで伊邪那岐命は千人がかりでなければ動かせない大きな石を、黄泉比良坂を塞ぐように置いて、その石を間に挟んで妻に向かい、絶縁を申し渡した。すると伊邪那美命は「愛しいあなた、こんな風にされたからには、あなたの国の人々を毎日千人殺してあげましょう」と言った。そこで伊邪那岐命は「あなたがそうするなら、私は毎日千五百人の産屋を建てるだろう」と言った。こういうわけで、現世の人は毎日千人が死に、毎日千五百人が生まれるのである。このため、伊邪那美命を黄泉の大神という。また追ってきたことから道敷の大神ともいう。またその黄泉比良坂を塞いだ大石を道返しの大神とも、塞坐黄泉戸大神ともいう。この黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂というところである。
最後は、白檮原の宮（神武天皇）の段に「いやさきだてる」とある歌に基づいて、「いやはて」と読む。【その歌の前に、「知立於２最前１（いやさきにたてることをしりて）」とある。】拾芥抄の人名の部に「最」の字を「彌（いや）」のところに出している。この神武の歌のことは、そこ【伝二十の二十六葉】で述べる。大穴牟遅神の段にも「最後之來（いやはてにきませる）」とある。【枕草子に「さいはての車」とあるのは最後の車である。その頃は「最」の字を音で読んでいたのだろう。また今の世で「最前（さいぜん）」と音で言う言葉も、もとは「いやさき」と言っていたのだろう。】「はて」とは、なにごとであれ、終わりのことであるのは、昔も今も同じである。○身自は「みみずから」と読む。普通「自」の一字を「みずから」と読むが、おのずから【己自である。】、てずから【手自である。】、口ずから【口自である。】なども言うので、自は「から」であって、「みずから」は本来「身つ自」である、ここで「みみずから」と「み」を重ねるのは、上に「御（み）」を添えたのである。○千引石は「ちびきいわ」と読む。【「ちびきの」と言わないのが古言である。】これを書紀には「千人所引盤石（ちびきいわ：千人が引く岩）」と書いたのは、名の意味を顕わにしたのである。万葉巻四【五十二丁】（７４４）に「吾戀者千引乃石乎七許頚二将繋母（わがこいは、チビキのイワをナナばかりクビにかけんも）云々」とあり。和名抄には「ちびきのいし」というのが出ている。弘仁私記も同じである。【ではあるが、石は「いわ」と読むのが良い。】記中には、他に五百引石（いおびきいわ）という語もある。○引塞は「ひきさえ」と読む。「さえ（旧仮名：さへ）」は「令レ障（旧仮名：さはらせ）」である。【「はらせ」を縮めれば「へ」となる。「令レ合（あわせ、旧仮名：あはせ）」を「あへ」と言うのと同じである。】後の文で「五百引石をその室戸に取り塞えて」ともある。【「引」と「取」は同じ意味である。前の部分で櫛の歯を「引き欠いて」とも「取り欠いて」ともある。】こうして追ってくる女神を防ぎ止めたのである。○各對立而は「あいむきたたして」と読む。万葉巻八【三十二丁】（１５１８）に「天漢相向立而（あまのがわアイムキたちて）」、また【同丁】（１５２０）に「河向立（カワにムキタチテ）」などがある。書紀では「相向而立（あいむきてたちて）」と欠いてある。○度事戸は「ことどわたす」と読む。書紀では「建２絶妻之誓１」と書き、「絶妻之誓は『許登度（ことど）』と読む」と註がある。弘仁私記では「古事記には『度事戸』とあるので、ここではその文によって解釈した。『度』は『言い渡（度）す』の意味と思われる、云々」と言う。【今俗に人にやるべきことを言いつけるのを「申し渡す」という。よく似た言い方だ。「引導を渡す」と言うのはなおさらである。】この書紀の文字で大意は分かるのだが、「ことど」という言葉の意味は定かでない。その誓いの言葉をそう呼ぶのかとも思われる。それは書紀の一書に「盟之曰族離、又曰不負於族（チカイたまわくはウガラはなれん、またウガラまけじとノリたまいき）云々＜口語訳：伊弉諾尊は誓って『離縁しよう』と言い、また『族には負けない』と言った。（訳者註：この一書では前半で伊弉冉尊が伊弉諾尊を『族（うがら）』と呼んでいる。『あなた』という意味だろう。）＞」とあるのが、つまり事戸の言葉のように思われるからである。この後（書紀一書第十）に「次に掃う神を『泉津事解之男（よもつこととけのお）』という」【この「解」の字は、昔から「さか（ことサカのお）」と読んできたのだが、そう読むべき確かな証拠もないので、「とけ」と読んでも差し支えなかろう。】とあるのを見ると、「事戸」は「事解言（ことどけごと）」の縮まった形ではあるまいか。【「とけごと」を二度縮めれば「と」になる。その「ご」の濁りを映して「ど」になる。こういう縮約は原語からほど遠いようだが、「こと」に「と」が重なっているから、こう縮まるのが語の勢いというものである。上述の書紀の「建２絶妻之誓１」は、古くは「ことどわたる」と読んでいた。だがそう読むのが正しいなら、この記には「事戸度」とあるはずなのに、「度事戸」と（度が動詞、事戸が目的語のように）書いてあるのはおかしい。師はこれを古い本にあるように「ことどにわたる」と読んで、「夫婦が同じ部屋に住んでいたのが、離れて別戸に渡って行く意味だ」と言った。しかしこの場面の様子では、そういう意味のようでもない。書紀の記載のように、夫婦の関係を全く絶つように思われる。万葉巻十九（４２５１）に「玉桙之道爾出立徃吾者、公之事跡乎負而之将去（たまぼこのミチにイデタチゆくワレハ、キミのコトドをオイテシゆかん）」とあるが、この歌は大伴家持卿が越中から京に上るとき、はなむけした人に答えた別れの歌であって、ここの「事跡（ことど）」とは、はなむけの離別の言葉のことで、それを忘れず心に持って行く、というのである。その意味とすれば、ここに出た「事戸」と同じく、離別の言葉なのだろう。ただこの歌は、師の説では『「事跡」は文字の通り「しわざ」と読む。このはなむけした人は、越中の次官だったから、「君の国での業績を京にも待っていって申し上げる」という意味だ』と言う。この説の通りなら、ここの「事戸」とは無関係だということになる。だが「業績を負って行く」というのは、どうだろうか。さらに考察する必要がありそうだ。】この他、大穴牟遅神の段、天の詔琴（のりこと）のくだり【伝十の五十二葉】に、もう一つの考えを述べている。参照のこと。○言の字は「もうし たまわく」と読む。この段では、女神の言ったことは、先にも「白」の字を書いてあり、鎮火祭の祝詞でも、女神が男神に向かって言う言葉を「申し給う」とあるからである。【終わりで独白するところは「宣」と書いてある。】○爲如此（カクしたまわば）というのは、石で道を塞いで事戸を渡したことを言う。○汝國とは現世の国を言う。女神自身が生んだこの現世の国を、このようによそよそしげに言うことに、現世とあの世の隔たりが思われて、何とも悲しいお言葉である。○千頭（ちかしら）。千人と言うべきところをこう言うのは、絞め殺すという言葉に関連している。同じことを後では千人死ぬと書いてある。【書紀では生む方についても千頭と書いてあるが、何とも変だ。文の対照だけを考えて、意味を考えなかったのである。】○絞は、新撰字鏡に「縊は絞、經である。クビル」とあり、首を絞めて殺すことである。【漢の国にも死刑の一つに絞死刑がある、周禮（しゅらい）にある「磬（けい）」というのもこれだ。】ここで単に殺すと言わず、絞殺すると言っているのは、非常に古い時代には、人を殺すにはもっぱら絞殺したからではないだろうか。【殺す方法もさまざまで、ほとんどは体に傷が付くのだが、絞殺だけは死体に大きな傷が残らない。これは、神が殺す場合にはその跡が鮮明でないので、こう言ったのではないだろうか。】○爲然（しかせば）とは、女神が人を殺すことを指す。女神が「爲如此（カクしたまわば）」と言い、ここでは男神が「爲然（しかせば）」と言うのは、単に文を変えたのではない。およそ「かく」と「しか」とは、細かく見れば違いがある。「かく」は自分の身にあること、あるいはさし当たって直面していることである。「しか」は相手の人、あるいは向こうにあること、また相手が言うことについて言う。「これ」と「それ」との違いである。【文章で前のことを受けて言う場合も、この違いがある。】だが「かく」と「しか」を同じ意味に使っている場合も、記中にある。【万葉巻四（６３９）に「吾背子我如是戀礼許曽（アがセコがカクこうれコソ）云々」のたぐいで、「しか」と言うべきところを「かく」と言っている。】○吾を「あれはや」と読む。これは白檮原の宮（神武天皇）の段の歌に、「和禮波夜惠奴（われはやえぬ）」【吾は餓えぬ、ということである。ヤは助辞。】とある語調に似ているからである。○産屋（うぶや）というのは、上巻の終わりの部分で出てくる。そこ【伝十七の六十四葉】で言う。ここで単に「生む」と言わず、「産屋を建てる」と間接的に言っているのは、上代に子を生むことをそう言ったのだろう。栄花物語の根合の巻に「大將殿も、女御の御産屋四月なるに、今二月三月をすぐさせたまはずなりぬる、いみじうくちをしうおぼしなげく云々」、これも子を生むことを御産屋と言っている。○前出の「殺」を「ころさな」、ここの「立」を「たててな」と読む。中巻の忍熊王の歌に「迦豆伎勢那和（かずきせなわ）」【「潜（かず）きせん吾（われ）」である。】書紀の崇神の巻に「伊弟弖由介那（いでてゆかな）」【「出て行かん」である。】同神功皇后の巻の歌に「伊弉阿波那和例波（いざあわなわれは）」【「いざ逢わん我は」である。】万葉巻一（１０）に「去來結手名（いざむすびてな）」【「いざ結びてん」である。】巻二（１１４）に「君爾因奈名（きみによりなな）」【「君に頼りなん」である。】同（１２１）に「玉藻苅手名（たまもかりてな）」【「苅りてん」である。】このように（意思を表す）「む（ん）」を「な」と言うのは、【「てん」が「てな」、「なん」を「なな」と言う】古語の一つの格である。ところで、ここで互いに（千人、千五百人と）言葉を交わしたのは、単に人数が多いことを言っているのであって、実数を言うわけではない。○千人は「ちひと」、千五百人は「ちいおひと」と読む。人の数を「ひとり、ふたり、みたり、よたり」などというのは古語であるが、【高津の宮（仁徳天皇）の段の歌に「ひとり」、書紀の仁徳の巻の歌にも「ふたり『赴駄利』」、「やたり」などとある。三人（みたり）、四人（よたり）と言う例に従えば、一人は「ひとたり」、二人は「ふたたり」になりそうなものだが、「ひとり」では「た」を省き、「ふたり」では「たた」を縮めて「た」の一音にしたのである。書紀の神武の巻には一人を「ひだり『毘ノウ（イ＋嚢）利』」とあるが、ここでは「とた」を縮めて「だ」と言った。これらの「駄」、「ノウ（イ＋嚢）」の仮名からいずれも「と」、「た」を濁って読むようにも思われるのだが、この記には「比登理」とあり、これにならえば、どれも普通に言っているように清音に読むべきである。ところがまた先には書紀に「五婦人」を「イツトリのオンナ」、「五人」を「いとり」と読んでいるところがある。この「とり」を正しいとするなら、「一人」は「一座（ひとつおり）」、「二人」は「二座（ふたつおり）」、「三人（みたり）」は「三座（みつおり）」、「四人（よたり）」は「四座（よつおり）」などの意味だろうか。「座（おり）」というのは、神に「三座」など、「幾座」という言い方がある、などとも考えたが、この「とり」は「ひとり」から派生して、後に作った言葉だろう。】多さを言うには、書紀の神武の巻の歌に「愛瀰詩烏毘ノウ（イ＋嚢）利、毛毛那比苔（えみしをヒダリ、モモなひと）」【「蝦夷を一人、百の人」ということである。】とあるように、「幾人（いくひと）」と言う。だから書紀で「醜女八人（やつひと）」、垂仁の巻に壹佰人（ひとももひと）」などの読みがあるのも古言であろう。○死は「しに」と読む。書紀の雄略の巻の歌に「伊能致志儺麿志（いのちしなまし）」とある。【その他、万葉にも無数の例がある。】古言である。「しに」は「過ぎ去（い）に」のことだ。「すぎ」は「し」と縮まる。「死ぬる」は「過ぎ去（い）ぬる」である。【これを「しに」は死の字の音だと思うのは間違っている。】○「生（う）まる」は「被レ産」である。この世で毎日死ぬ人より生まれる人の方が多いのは、ここで語られた言葉による。大祓の祝詞には「國中爾成出武天之益人等（クヌチにナリいでんアメのマシビトら）」とあり、また青草人と言うのもこの意味であることは、既に述べた。人が死ぬのは泉神（よもつかみ）の仕業であり、【世の人草が害を受けるさまざまな災いは、禍津日神の仕業である。この神は黄泉の国の穢れから生まれたのだが、その本源はここにある「千頭を絞殺しよう」という言葉が現実になったのである。】生まれるのは伊邪那岐大神の恩頼によるのであろう。【漢国の人々はこの伝えを知らないので、「天命」などと言っているが、それは彼らの「聖人」たちが仮託して言った言葉に欺かれ、空理を信じる誤りである。】「千五百人」を「ちいほ（お）ひとなも」と読む。「なも」は続日本紀の宣命などに多く見え、後世の文章で「なむ（なん）」という語である。【「なむ」は「なも」が訛ったのである。】○黄泉津大神は「よもつおおかみ」と読む。【「よもつの」 と「の」を加えて読むのは間違いである。助辞の「つ」の下には「の」を入れないことは、既に述べた。】○「亦云（またいう）」とは、別伝を挙げたのである。○「斯伎斯（しきし）」は「及んだ」ということである。【下の「し」は過去形の「し」である。】仁徳天皇の歌（古事記）に「夜麻斯呂邇、伊斯祁登理夜麻、伊斯祁伊斯祁、阿賀波斯豆麻邇、伊斯岐阿波牟加母（やましろに、いしけとりやま、いしけいしけ、あがはしづまに、いしけあわんかも）」とある「いしけ」の「い」は発語で、「及べ」という意味である。【「け」は命令形である。】道を追い及ぶことを「しく」と古言に言った。【俗に「追いつく」という意味だ。】これは後に続いて前者に重なるという意味なので、万葉の歌などにある「重浪」、あるいは「浪のしくしく」といった言葉と、元は同じ言葉である。【今でも、ものの優劣を言うのに「及（し）くものなし」、「及（し）かず」などと言う。】これは伊邪那美命が、黄泉津比良坂で男神に追いついたことを言っている。○道敷（ちしき）。道の字は普通「みち」と読むが、実は単に「ち」であって、「み」は美称の「御」を添えて言っているのである。【記中に「味御路（うましみち）」とあるのがその例である。】「み」は必ずしも尊んで言うわけでなくとも、地名やその他の物の名に添えて言うことが多い。「敷」は借字で、前記の「及」に相当する。書紀には「またその沓（くつ）を投げた。これを千敷の神という」とあり、一つの異伝である。○黄泉坂は「よみのさか」と読む。この読みは風土記による。次に引用する。【師は「亦所塞」の「亦」の字はなくても良く、「黄泉坂」は「比良」の字が脱けているようだ、と言ったが、これはいずれもあってもなくても良い。】○塞坐黄泉戸大神は「さやりますよみどのおおかみ」と読む。【延佳は「よみどにさやります」と読み、これは書紀に「泉門に塞大神」と書いてあるからだが、神の名をこのように漢文読みする例はないので、誤っている。ただし「葺不合命（ふきあえずのみこと）」だけはごく自然な表記であり、この例ではない。】前に「引塞」とある「塞」の字は「さえ」と読み、「所塞」は「さやれりし」と読み、「塞坐」は「さやります」と読む。それは最初の例は伊邪那岐命の意志で行った行為であるから「さえ」と読み、後の二つは石がそこに置かれたことによって、自らの意志とは関係なく塞いでいるから「さわり」とか「さやり」と言うのである。同じ言葉でも、人の行為の場合と、自然にそうなっているのとでは違いがある。ここで「さわり」を「さやり」とも言うのは、白檮の宮（神武天皇）の段の歌に「志藝波佐夜良受（しぎはさやらず）云々」、「久治良佐夜流（くじらさやる）」とあり、万葉巻五（８７０）に「奈爾可佐夜礼留（なにかさやれる）」、同（８９９）に「許良爾佐夜利奴（こらにさやりぬ）」などの例によって読んだ。【これらの例を見ると、この言葉は「やいゆえよ」と「はひふへほ」（「さえ」は旧仮名「さへ」）の二行で活用するようであり、「さやり」は人がする場合は「さへ」でなく「さえ」になりそうだが、そう書いた例がないので、最初の「塞」は「さへ」とする。これは「さはり（さわり）」の活用形である。後で述べる船戸の神のところでも言う。】延喜式の御門の祝詞で「四方内外御門爾、如２湯津磐村１久塞坐弖（よもウチソトのミカドに、ユツイワムラのゴトクさやりまして）云々」【これに続く文は、後段の禍津日神のところで引くのを参照せよ。また祈年、月次、道饗の祝詞にもこの文がある。】また後に出る石窓の神のところ【伝十五の三十一葉】に述べることも参照のこと。黄泉戸（よみど）は比良坂のことで、書紀に「泉門」とあるように、黄泉の国に入る門である。○所謂は「いわゆる」と読む。古言である。【これを漢籍の読みにあるのばかり見て、古言ではないだろうと思うのは誤解である。古言がかえって漢籍読みに残っているものである。「いわゆる」とは「所レ言（いわるる）」だ。「るる」を「ゆる」と言うのは、古言の格である。「所レ言」はその前に言ったことを指して言う。ただし、前言でなくとも、世間一般に言い習わしていることを言うこともある。】○伊賦夜坂（いうやざか）は、延喜式神名帳に出雲国意宇郡の揖夜（いうや：現在は「いや」）神社【この神は三代実録十四、廿にも出ている。風土記には伊布夜の社と書いてある。】がある。これがそうである。斉明紀（五年）に「この年、出雲国造に命じて厳神の社を修造させた、云々」、「犬が人の死体を食って、残骸を言屋（いうや）社に置いた」とあって、分注には「天子が崩御する前兆である」と書いてある。この社に崩御の前兆が現れたことを、この段の話と考え合わせるとよい。ここの文は、二通りに解釈できる。一つは、「黄泉平坂というところは、今の出雲の伊布夜坂のことだ」と人が言っている、という解釈である。【これを取るなら、「伊賦夜坂という」と読む。】もう一つは「この黄泉平坂のことを、今では出雲の伊布夜坂と呼んでいる」という解釈だ。【この解釈だと「出雲の」と付けるのは不自然なようだが、都で語られたのだから、そういう言い方もあるだろう。書紀には「一説によると、泉平坂はそういう場所があるのではなく、ただ死ぬ際に息絶える瞬間のことを言うのではないか、と言う」とあるが、それはこざかしい後代の人が書き加えた文であって、取るに足りない。撰者の言葉だとしても、「ではないか」と言うからには古伝でない。後世の者の考察であることは明らかだ。それなのに世の学者たちはこうした解釈ばかり喜んで、あれこれ空理をもてあそぶのは、みなうるさい漢意の癖である。ただこの記の古伝のままに信ずるべきなのだ。】さて、この伊賦夜坂が黄泉平坂だというのは、伊邪那岐神が黄泉から帰ったとき、この地に出たということだろう。出雲国風土記の出雲郡宇賀郷の条に、「北の海の浜に磯がある。この磯の西の方に岩窟があり、高さと広さは六尺ほどである。洞窟の中には穴があるが、人が入れないので、深さは分からない。夢でこの洞窟に行くと、その夢を見た人は必ず死ぬ。それでその郷の人は昔からこれを黄泉の坂または黄泉の穴と呼ぶ」とある。これは伊賦夜坂とはずいぶん離れた場所だが、やはり黄泉の国に到る一つの道なのであろう。【こういう話を、世のさかしら人たちは「バカバカしい」と思うだろうが、そうしたバカバカしいことの中に、かえって深い真理が潜んでいるものだ。その真理を、人の浅知恵でどうして知り得ようか。】
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