『古事記傳』19


白檮原の宮の巻【中巻】

故爾於2宇陀1有2兄宇迦斯<自レ宇以下三字以レ音。下效レ此>弟宇迦斯二人1。故先遣2八咫烏1問2二人1曰。今天神御子幸行。汝等仕奉乎。於レ是兄宇迦斯以2鳴鏑1待=射=返2其使1。故其鳴鏑所レ落之地謂2訶夫羅前1也。將2待撃1云而聚レ軍然。不レ得=聚2軍1者。欺=陽2仕奉1而。作2大殿1。於2其殿内1作2押機1待時。弟宇迦斯先參向拜曰。僕兄兄宇迦斯射=返2天神御子之使1。將レ爲2待攻1而聚レ軍。不2得聚1者。作レ殿。其内張2押機1。將2待取1。故參向顯白。爾大伴連等之祖道臣命。久米直等之祖大久米命二人。召2兄宇迦斯1罵詈云。伊賀<此二字以レ音>所レ作仕奉於2大殿内1者。意禮。<此二字以レ音>先入明=白B其將レ爲2仕奉1之状A而。即握2横刀之手上1。矛由氣<此二字以レ音>矢刺而追入之時。乃己所レ作押見レ打而死。爾即控出斬散。故其地謂2宇陀之血原1也。

訓読:かれここにウダにエウカシ・オトウカシとフタリありけり。かれまずヤタガラスをつかわしてフタリにとわしめたまわく、「いまアマツカミのミコいでませり。イマシどもつかえまつらんや」。ここにエウカシ、ナリカブラをもちてそのミつかいをマチいかえしき。かれそのナリカブラのおちたりしところをカブラザキという。「まちうたん」といいてイクサビトあつめしかども、エあつめざりしかば、つかえまつらんといつわりて、オオトノをつくりて、そのトノヌチにオシをはりてまちけるときに、オトウカシまずまいむかえオロガミてもうさく、「アがあにエウカシ、アマツカミのミコのミつかいをいかえし、『まちうたん』といいてイクサビトあつめしかども、エあつめざりしかば、ツカエマツランといつわりて、オオトノをつくりて、そのウチにオシをはりて、まちとらんとす。かれまいむかえてアラワシもうす」ともうしき。ここにオオトモのムラジらがおや、ミチノオミノミコト、クメのアタエらがおや、オオクメノミコトふたり、エウカシをめしてノリていいけらく、「イがつくりつかえまつれるオオトノヌチには、オレまずいりてそのツカエマツランとするさまをあかしもうせ」といいて、ツルギのたかみとりしばり、ホコユケやさしてオイいるるときに、おのがはりおけるオシにうたれてしにき。すなわちヒキいだしてキリはふりき。かれそこをウダのチハラとなもいう。

口語訳:宇陀に兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいた。そこでまず八咫烏を使いに遣って、二人に「今天神の御子がやって来た。お前たちはお仕えするか」と訊ねさせた。その時兄宇迦斯は、鳴鏑の矢を構えて待っていて、この烏を射て追い返してしまった。その鳴鏑の落ちたところを訶夫羅前(かぶらざき)と言う。さらに「待ち受けてやっつけてしまおう」と呼びかけて、味方を集めようとしたが、思うように集まらなかった。そこで表面上は天皇に仕える振りをして御殿を造り、その中に押機を仕掛けて待っていた。弟宇迦斯は天皇に仕える気になり、そのもとに参じて、「私の兄、兄宇迦斯は、天神の御子の使いを矢で射て追い返した上、待ち受けて討とうと味方を集めましたが、思うように集まりませんでした。それで御殿を造り、その中に押機を仕掛けて、待ち受けています。そこでここに参って、事の次第を露わにお知らせする次第です」と言った。大伴の連の先祖、道臣命と久米直たちの先祖、大久米命の二人は、兄宇迦斯を呼びつけ、ののしって「お前が作った大殿には、まずお前が入って、天皇に仕えるそのやり方を明らかにしろ」と言うと、刀を握り、矛を差し向け、矢をつがえて追い立てたので、兄宇迦斯は大殿に入り、自分が仕掛けた押機に打たれて死んだ。その死体を引き出して、切り刻んだ。(辺りが血だらけになったので)そこを宇陀の血原と言う。

宇迦斯(うかし)は地名に因む名だろう。今の世にも宇陀郡に宇賀志村というのがある。【日張山(ひばりやま)の下である。】ここがこの兄弟の住んでいたところと思われる。一般に「兄〜」、「弟〜」という名は、その住んでいた地名である例が多い。【後に引く。】とすると、前の文で「宇陀の穿という」とあったのも、本当は宇迦斯だったのを、「うがち」と音が近いため「踏み穿ち」という故事と混同して、「穿」と名付けたと語り伝えたのだろう。だから「穿邑」というのはこの故事を伝えるだけの地名で、その地では最初から宇迦斯邑と言っていたのだろう。【また前の文の「穿」という地名と、この「宇迦斯」という人名は、元来別のものかとも思ったが、その名は大変よく似ており、何にしても無縁ではないだろうと思う。今も実際に宇賀志村があるからだ。あるいは今の宇賀志村が、かの兄弟の宇迦斯が住んでいたことから来た地名で、「穿」とは関係がないのかとも思い、それとも穿が訛って宇迦斯となったのであって、人名とは関係がないのかなど、いろいろ考えたが、やはりこの人名と地名、また「穿」も、全く無関係とは思えない。またこの人名を書紀で「猾」と書いていることから、師(賀茂真淵)は地名でなく、「みだりな」という意味だと言ったが、そうではない。この「猾」の字は、兄宇迦斯が天皇にまつろわなかった、その人となりについて書いたのであって、必ずしも「うかし」という言葉の意味に当たっていない。この兄はなるほど「猾(みだり)」とも言えるが、弟は天皇に忠実に仕えたのだから、どうして「猾(みだり)」と言えるだろう。八十建(やそたける)も、書紀では「八十梟帥」と書いてある。これもこの人物がまつろわなかったことを言う名だ。「たける」とは単に勇猛なことを言うのだが、「梟」の意味はない。天智天皇の御子に建皇子(たけるのみこ)という名がある。皇子に「梟帥」の意味の名を付けるはずはない。これらの例からしても、「猾」の字の意味が、必ずしも言葉の意味に当たっていないことを悟るべきだ。】兄弟の名を「兄〜」、「弟〜」と言っているのは、この次にも兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)、書紀の景行の巻に兄熊(えくま)・弟熊(おとくま)などがあり、これらもみな地名に因んでいて、この宇迦斯の類の(まつろわぬ)人だ。また書紀のこの巻に兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)もある。【これも地名か。】雄略の巻に兄君(えぎみ)・弟君(おとぎみ)、兄麻呂(えまろ)・弟麻呂(おとまろ)がある。女にも景行の巻に兄遠子(えとおこ)・弟遠子(おととおこ)という名がある。兄比賣・弟比賣は、この記にも幾つか例がある。○鳴鏑は「なりかぶら」と読む。上巻【伝十の四十葉】で述べた。○使(みつかい)は八咫烏のことだ。書紀では、ここには八咫烏の使いのことはなく、「まず使者をやって兄磯城(えしき)を召そうとしたが、兄磯城は承知しなかった。そこで頭八咫烏をやって召そうとした時、烏は兄磯城の陣営に到って『天神の子がお呼びだ。怡弉過、怡弉過(いざわ、いざわ:早く、早くの意)』【「過」の字は倭(わ)の音】と鳴いた。兄磯城は怒って、『天壓神(あめのおしがみ:われわれを圧迫する神)が来たと聞いて憤っている時に、どうしてこの烏はこうも悪く鳴くのか』と言い、弓で射た。烏は直ちに去って弟磯城(おとしき)の家に行き、『天神の子がお呼びだ。怡弉過、怡弉過』と鳴いた。弟磯城はおそれて、『天壓神が来たと聞いて、日夜怖じ畏れていたが、この烏の鳴き声は何といいことか』と言い、葉盤(ひらで)を八枚組み合わせて食べ物を盛り、烏をもてなした」とあるのも同じような話だが、宇迦斯と磯城と違った機会のことで、伝えが異なっている。【「天壓神」というのは、そのころ倭国の人々が言っていた名だろう。そう言ったのは、「天神の御子」と名乗って、軍兵の行くところ、いかなる敵も忽ち破るのが、ものを圧しひしぐようだったからだろう。「あめのおしがみ」と読む。訓注には「おす」とあるが、これは語の活用の基本形を書いたものである。】○待射返(まちいかえしき)は、待ち受けて射返したのである。古言に「待〜」という例は多い。射返というのは、必ずしも射殺そうというのでなく、おどして追い返したのだ。○「訶夫羅前(かぶらざき)」は他には見えず、この地名を聞いたこともない。書紀では「秋八月甲午朔乙未、天皇は兄猾、弟猾という者を召そうとした。この二人は菟田の縣を取り仕切っていた魁帥(ひとごのかみ:その地の首領格の人物)である。この時兄猾はやって来なかった。猾、これを『宇介志(うかし)』と読む」とある。【「介」を「け」の仮名とするのが誤っていることは、上述した通りだ。】○將待撃云而(「まちうたん」といいて)とは、天神の御子がやって来るのを待ち受けて攻撃しようと言ったのだ。○不得聚軍者は、「エあつめざりしかば」と読む。【「軍」の字は、ここでは読まない。上に既に「軍」とあるからである。後にまた同じ語が出るところでは、この字はない。】○欺陽は「いつわりて」と読む。【陽は佯と同じで、本当ではないことを、うわべだけそれらしく見せることを言う。】○「作2大殿1(おおとのをつくりて)」は、書紀に「請饗(ミアエたてまつらんともうす)<ごちそういたしましょうと言った>」とあり、そのために作ったのである。○押機は「おし」と読む。【師が「おしはじき」と読んだのは良くない。】後の文では押とだけ書いてもいる。書紀には「機(おし)」とある。【文選にも機を「おし」と読んでいるところがある。】この物は、下に「押見打而死」とあり、書紀では「機を踏んで圧死した」とあるように、人を騙して殺すために、一見そうは見えないが、踏めば覆って陥り、圧死する仕掛けである。和名抄の畋獵の具に「漢語抄にいわく、鼠弩、鼠弓とも言う、『おし』」とあり、【拾遺集の物の名(410)に、押年魚(おしあゆ)を「はし鷹の招餌(おきゑ)にせむと構へたる鼠弩あゆがすな鼠とるべく」とある。「あゆがす」は「動かす」である。】これは鼠を捕るための仕掛けだ。また天武紀に、「諸国に詔を発して、『今後、猟をする者は、檻・穽を作って機・槍などの類を仕掛けてはならない』と命じた」とある機を「ふむはなち」と読んでいるが、【「踏発」の意味だ。】これも「おし」と読むべきだ。獣を捕る押機である。【今の世では「落とし」と言い、地方によっては「こぶち」とも言う。○およそ「機」というにも種々あるが、どれもどこかに触れると、他の箇所が作動するような仕掛けになっているものを言う。】○作は「はりて」と読む。次の文には「張」と書いてある。これは古言だろう。○先參向。「まず」というのは、天皇たちが、その仕掛けのある大殿に入るより先にということである。○拝は「おろがみて」と読む。書紀の推古の巻に「烏呂餓彌弖兎伽陪摩都羅武(おろがみてつかえまつらん)」とある。「おがむ」と言うのは、この「ろ」が縮まったのである。○兄兄宇迦斯の上の兄の字は「あに」と読む。【「あに」と読むべきことは、上巻で言った。ところで旧印本では、「兄」の字が一つしかない。それでも悪くない。既に「兄(あに)」と言ったなら、さらに「兄(え)」とは言わなくてもいいわけだ。だが他の本にも書紀にも、みな「兄兄」とあるので、ここもそう読んでおいた。】○將爲は「爲將」を上下逆に写し誤ったかとも思ったが、後にも「將爲仕奉」などとあるので、こういうふうにも書いたのだろう。○殿(おおとの)は、上に「大殿」と書いてあるので、ここも「おおとの」と読む。書紀では「弟猾はすぐにやって来て、拝していわく『私の兄、兄猾は天孫がやって来たと聞いて、軍兵を集めて襲うつもりでしたが、皇軍の威勢を見ておそれをなし、集めた軍兵を伏せて置いて、仮の新宮を建て、その中に機(おし)を仕掛けました。そして大饗を奉ろうと言い、待ち受けて襲うことを考えているのです』」とある。【だがこのように弟でありながら兄の罪を告発したことは、義に於いてどうかと言うのは漢意からする疑問である。父であっても、君に背くことは許されないのだから、どんなに善い事をしても、天皇に背くことは大変な逆事と知るべきである。】○大伴連(おおとものむらじ)と久米直(くめのあたえ)のことは上巻【伝十五】で述べた。○道臣命(みちのおみのみこと)。書紀には「大伴氏の遠祖日臣命(ひのおみのみこと)は、大來目(おおくめ)を率いて、主将として山を踏み道を開いて進んだ。烏の行くところを見極め、ついに菟田の下縣(しもつあがた)に到達した。天皇はたいへん称賛して、『お前は忠義にして勇敢であり、また進むべき道を開いた功績がある。そこで、名を改めて道臣(みちのおみ)とせよ』と言った」とある。この記事で名の意味は明らかだ。【延喜六年の日本紀竟宴和歌に、この命を「伊佐袁志久多陀斯岐瀰知乃於牟迦斯佐斗弖曾我那毛岐微波多末比斯(いさおしくタダシキみちのおむかしサトシテゾわがなもキミはたまいし)」、二句と三句の間に「道臣」の名を詠み込んでいる。「おみ」を「おむ」と言うのは音便だ。】また「初め天皇が天基(あまつひつぎ)の業を始めた頃、大伴氏の遠祖道臣命は、大來目部を率いて、密命を受け、諷歌倒語で妖気を祓い去った。倒語<おそらく言葉を逆さまに言うこと>が用いられた初めである」【継体紀の詔(二十四年二月)に「道臣命が謀を述べ、それによって神日本(かむやまと)は隆盛になった、云々」という。】また「二年春二月甲辰朔乙巳、天皇は論功行賞を行い、道臣命に築坂邑(つきさかのむら)の宅地を与えて、特に寵愛した」【築坂は垂仁紀に「倭彦命を身狹(むさ)の花鳥坂(つきさか)に葬った」と見え、また檜隅(ひのくま)天皇(宣化天皇)を「大倭國の身狹の花鳥坂の上の陵に葬った」とあるのと同じ所である。諸陵式に高市郡と見えて、白檮原の京から遠くない。】新撰姓氏録の大伴宿禰の條に「高皇産霊尊の五世の孫、天押日(あめのおしひ)の命」とあるのと、高志(こし)連の條に「高魂命の九世の孫、日臣命」とあるのを合わせて考えると、道臣命は天押日命の玄孫(やしゃご)である。【また大伴の大田宿禰の條には「高魂命の六世の孫、天押日命」とあり、これによると四世の孫となる。天押日命については伝十五に出ている。】○大久米命は、皇孫の天降りの時、大伴連の祖、天忍日命(あめのおしびのみこと)と並んで先導した天津久米命の子孫で、今度もまた昔のように、道臣命と並んで、天皇を大和に導く功績を立てた。ところが書紀では「日臣命は大來目を率いて云々」となっており、また「道臣命に勅して、『お前は大來目部を引き連れて云々』」などと、道臣命の部下に属していたようになっているのはなぜか。たぶんやや後の子孫にいたって、大伴氏だけが栄え、久米氏はたいへん衰微して、ついには大伴氏の配下になったのを、書紀でその衰えた後の状況を反映させて書いたからだろう。【これほど大功があった臣を、単に「大來目」と言って、命(みこと)とも書かれず、また「部」とあるのは、一人の名とさえきこえない。この命のためにも、氏のためにも、何とも情けない扱いではないか。】このことは上巻【伝十五】でも述べた。考え合わせよ。この「久米」という名は、さらに後でも論じる。書紀では、前に引いた道臣に宅地を与えた記事の後に、「大來目は畝傍山の西の川辺に住まわせた。今來目邑というのは、この縁である」【來目邑は、和名抄に載っている「大和国高市郡久米郷」がそうである。延喜式神名帳には「久米御縣(くめのみあがた)神社」もある。この村は白檮原の京にたいへん近い。今も久米村、久米寺などがある。川の辺というのは、雄略紀に來目水(くめがわ)とあるのがそうだろう。ところで伯耆、美作、伊豫などにも久米郷というところがある。その他も諸国にこの地名があるのは、もとはこの氏から出ている。】続日本後紀に「伊豫國の人、浮穴の直千継(ちつぐ?)・・・千継の先祖は大久米命である」とある。【伊豫國の浮穴郡に隣接して久米郡があるのも、関連がありそうだ。このことは伝十五でも言った。】○罵言は「のりて」と読む。万葉巻十二【二十八丁】(3096)に「キョ(木+巨)ジャク(木+若)越爾麦咋駒乃雖詈(うませごしにムギくうコマののらゆれど)」、また(3098)「於能禮故所詈而居者(おのれゆえのらえておれば)」、巻十六【九丁】(3793)に「將異子等丹所詈金目八(わかけんこらにのらえかねめや)」などの例がある。「のる」とは、元は「詔」、「宣」などのことだが、このように人を辱めることにも言う。○伊賀(いが)。これは他に例がなく、たいへん難解な句だが、試みに強いて言うと、伊賀国風土記の伊賀郡のところに「猿田彦の神の娘、吾娥津媛(あがつひめ)命は・・・この神の治める国を吾娥郡と・・・後に伊賀と名を改めた。吾娥が訛ったのである」とある。【同国の延長の風土記には、「伊賀の国、この名は、もと伊賀津姫の治める郡であった。そこで郡の名とし、後に国の名とした」という。】これによれば、伊賀は「あが」と通う。「おのれ」とは自分を言う言葉だが、人を卑しめて言うにも使い、【今の世でもそうである。宇治拾遺物語に「此度の我命にかはれおのれらよ」などとある。】意禮(おれ)とは人を卑しめて言う言葉だが、今の世では自分のことをそう言う。これらの例から見ると、「あが(吾が)」と言うのも自分のことだが、人を卑しめて呼ぶにも使ったのだろう。これも今の世でもそうだ。書紀でここを「虜爾(やつこ、い)」と書いてあるのもその意味ではなかろうか。【師は、あるいは「厳めしく」だったのが、字が脱けたのではないかと言ったが、あまりいい考えとも思えない。】皇極紀【十一丁】に、「蘇我大臣蝦夷(虫+夷)は・・・怒って『ああ、入鹿よ、・・・イ(イ+爾)が命運は危ういぞ』と言った」とある。○大殿内(おおとのぬち)。この「殿」の字を諸本に誤って「麻」と書いているのを延佳が改めたのは当たっている。そこで、ここでもそれに従った。万葉巻十三【二十九丁】(3326)に「大殿乎都可倍奉而(おおとのをつかえまつりて)」とある。○意禮(おれ)が人を卑しめて呼ぶ語だということは、上巻【伝十の五十七葉】でも言った。【宇治拾遺物語に「やうれおれらよ」、また「おれは何事いふぞ」などとある。】○明白は「あかしもうせ」と読む。「あかす」は隠していることを顕して言うことだ。【今の世でもそう言う意味に使う。】ここでは言葉で述べよという意味ではないが、その状(隠している真相)を顕す意味では、言うのと同じようなことだ。【「白」の字は、自分の罪を顕し述べることを言う。後世のいわゆる「白状する」などと言うのがそうだ。だがここは必ずしもその意味ではない。単に「申せ」という言葉に用いたのだろう。なお師は「明白」の二字を「いちじろし」と読んだが、それはよくない。】○將爲仕奉之状(つかえまつらんとするさま)とは、ここでの兄宇迦斯のしたことで、陰では仕掛けをしながら、うわべは天皇に仕えるように見せているので、その見せかけのしわざを指して言い、その実は自分が仕掛けた押に打たれて死ねと言っている。【今の世の人も、こうした表現をする。】押に打たれて死ぬことは、天皇に害を為そうとする意図をみずから顕すのである。○握横刀之手上(つるぎのたかみとりしばり)は、書紀のこの巻【五瀬命の段】に「撫劔、これを『つるぎのたかみとりしばる』」とあり、そう読む。【ただし語尾の「る」は活用の基本形を示したものなので、実際には「り」と読み、ここもそう読む。】神代紀に「急握劔柄」、またこの巻に「案劔」とあるのなどは、みなそう読む。「手上」のことは伝五【七十六葉】で言った。「とりしばる」は「急握」とある意味で、強く固く握ることを言う。【「撫劔」というのは漢文めかした書き方で、本来の意味からは遠い。】○矛由氣(ほこゆけ)は、書紀の崇神の巻に「豊城命(とよきのみこと)は夢に見たありさまを天皇に語って、『御諸山に登って、東に向かって八回弄槍(ほこゆけ:槍を突き上げること)し、八回撃刀(たちかき:刀を振ること)する夢を見ました』」とある。ここに「由氣」とあるのは仮名だから、この下に「し」を補って、体言(名詞)に読むのは誤りである。用言(動詞)に読むこと。【一般に仮名で書いてある言葉に助辞を付けて読むことはなく、ここは上の「取りしばり」も後の「矢刺し」も用言なのに、これだけを体言に読むのはおかしい。前掲書紀の文も(「ホコユケし、タチカキす」と体言に読んでいるが)、「ほこゆけ、たちかく」と用言に読むべきだ。】ところで「由氣」という言葉は他に例がなく、どういう動作なのか確かなことは分からないので、【音の活用は「受け」、「掛け」、「付け」、「退(そ)け」、「避け」などの例によると、「ゆけ」、「ゆく」、「ゆくる」と活用するのだろうか。】とりあえず「弄槍」の意味に解しておく。○矢刺(やさし)は上巻【伝十の三十葉】にある。書紀では「彎弓(ゆみひきまかない:弓に矢ををつがえて)」とある。○追入(おいいる)はその押機を仕掛けた殿の中へ、兄宇迦斯を追い込んだのである。○所作は「はりおける」と読む。書紀では「天皇即遣2道臣命1察2其逆状1時、道臣命審知レ有2賊害之心1而、大怒誥嘖之曰、虜爾所造屋爾自居之、【爾、此云2飫例1】因按レ釼彎レ弓逼令2催入1、兄猾獲2罪於天1事無レ所レ辭乃自蹈レ機而壓死(訓読:スメラミコトすなわちミチノオミノミコトをやりそのアルカタチをみしめたまうときに、ミチノオミノミコト、アタナイまつるこころあることをツバラカにみしりて、いたくいかりてノリていわく、「イがつかえまつれるヤには、オレみずからイリいよ」と【爾、これをオレという。】ツルギのタカミとりしばり、ユミひきまかないておいいるときに、このエウカシ、キミにそむきまつれるツミはエのがろえずて、おのれオシをふみてウタレしにき)<口語訳:天皇は道臣命を派遣して状況を偵察させたが、道臣命は彼に天皇を殺そうという意図があることをはっきりと知り、非常に怒って、『お前が作った屋の中には、お前みずから入っておれ』と言った。【爾は『おれ』と読む:『お前』の意味】剣を握りしめ、弓に矢をつがえて追い入れた時、兄猾は君に背いた罪を逃れることができず、みずから機(おし)を踏んで圧死した」とある。【「虜爾」を本では「いやしきやつこ」と読んでいる。ここではこの記に倣って「いが」と読んでおいた。だが「獲2罪於天1」というのは例の漢意の潤色である。こういうことに「天」を言うのは、いにしえの心ではない。だからこの「天」の字を「あめ」とは読まず、「きみ」と読む方が、いにしえの心をよく知っていると言うべきである。】○控出(ひきいだし)というのは、圧死した死体を引き出したのである。○斬散は「きりはふりき」と読む。上巻の八俣遠呂智(やまたおろち)の段に「切散」とあったのもそう読んだ。これは水垣の宮(崇神天皇)の段に「斬=波布理2其軍士1、故號2其地1謂2波布理曾能1(その兵士を斬り屠った。そこでその地を「屠り園」と呼んだ)」とある「波布理(はふり)<現代語は『ほふり』>」による。この言葉については、そこで言う。○血原(ちはら)。これはどことも定めがたい。ただ宇陀郡にあると考えておく。【大和志に「上田口村にある」と言っているのは根拠薄弱だ。あの書物は、古蹟を何でも「ここだ」と決めつけるが、みだりなことが多い。】書紀によると「この時屍を引き出して、ずたずたに切ったところ、大量の血が流れてくるぶしまで浸るほどだった。そのためそこを菟田の血原という」とある。この記には血が流れたことは書いていないが、「斬散」という語に、自然と血のことも想像される。

 

然而其弟宇迦斯之獻2大饗者1悉賜2其御軍1。此時歌曰。宇陀能。多加紀爾。志藝和那波留。和賀麻都夜。志藝波佐夜良受。伊須久波斯。久治良佐夜流。古那美賀。那許波佐婆。多知曾婆能微能。那祁久袁。許紀志斐惠泥。宇波那理賀。那許波佐婆。伊知佐加紀微能。意富祁久袁。許紀陀斐惠泥。疊疊《音引》志夜胡志夜。此者伊碁能布曾。<此五字以レ音>阿阿《音引》志夜胡志夜。此者嘲咲者也。故其弟宇迦斯<此者宇陀水取等之祖也。>

しかしてそのオトウカシがたてまつれるオオミアエをばことごとにそのミいくさびとどもにたまいき。このときにミうたよみしたまわく、「うだの、たかきに、しぎわなはる。わがまつや、しぎはさやらず、いすくわし、くじらさやる。コナミが、ナこわさば、たちそばのみの、なけくを、こきしひえね。ウワナリが、ナこわさば、いちさかきみの、おおけくを、こきだひえね。ええ《おとひけ》しやごしや。」こはいごのうぞ。「ああ《おとひけ》しやごしや。」こはアザわらうぞ。かれそのオトウカシは<こはウダのモイトリらがオヤなり。>

歌部分の漢字表記(旧仮名):宇陀の、高城に、鴫罠張る。我が待つや、鴫は障らず、いすくはし、くぢら障る。前妻が、肴乞はさば、立柧リョウ(稜を木へんに置き換えた字)の實の、長けくを、こきしひゑね、後妻が、肴乞はさば、レイ(木+令)の實の、大けくを、こきだひゑね。ええ、しやこしや(こはいごのふぞ)、ああ、しやこしや(こは嘲笑ふぞ)。

口語訳:この後、弟宇迦斯が献ったたくさんのごちそうを全部皇軍の兵士たちに与えた。この時に歌を歌って、「宇陀の高い城で、鴫を捕ろうと罠を張って待っていたが、鴫はかからず、大きく立派な鯨がかかった。古妻が「食べ物をください」と言うと、ソバの木の、長く切った身を欲しいだけ割き取ってやれ。新妻が「食べ物をください」と言うと、イチサカキのように、大きく切った身をいくらでも割き取ってやれ。ええ、しやこしや。(これは勝利を祈ったのである。)ああ、しやこしや。(これは嘲笑ったのである。)」。その弟宇迦斯は、<宇陀の水取たちの先祖である。>

大饗は「おおみあえ」と読む。【天皇に奉った饗だから、「大」と言うのである。後世に言う大饗(盛大な宴会)ではない。それは饗が大きいということを言っているだけだ。】○悉(ことごとに)とは、宴の飲食を余さずということにも取れるし、このときの兵士に一人も漏らさずということでもあるだろう。○此時(このとき)とは、こうして宴会をしている最中にということである。○歌曰は、書紀の訓注に依拠して「ミうたよみしたまわく」と読む。この歌は皇軍の兵士たちが歌ったのだが、天皇が作った歌だから、書紀に「御謠(みうたよみ)」と言っている。書紀では「こうして弟猾は(牛・酒を準備して)大饗を皇軍に奉った。天皇はそれを兵士たちに与えて、御謠を歌って、【謠、これを『うたよみ』という】」とある。【「牛・酒を準備して」とあるのは、漢籍を真似て書いた潤色の文である。戎国(からくに)でこそ、こういう饗宴には牛肉を主に食べるのだが、皇国ではいにしえも今も、そういうことは決してなかった。天武天皇の御代に、牛馬に肉を食うことを禁じたのは、庶民の間では食った者もいるからだろうが、上代には全くなかったことだ。食った者が稀にはいたにせよ、こういう饗宴の席で牛馬の肉を食うことは絶対になかった。こういう虚構に惑わされてはいけない。<訳者註:宣長の時代には、肉食は被差別民に限られる賤しく穢らわしい風習とされたから、上代の「神聖な」人々が肉を食べたとは信じられなかったようだ。だが江戸時代初期までは、日本人は牛馬だけでなく、犬・猿の肉まで食べていたそうだ>】○多加紀爾(たかきに)は、契沖が「高城に」だと言った。その通りである。【高樹とするのは間違いだ。】これは、必ずしも後世の城のように高く築いたものでなく、仮に垣などを張り巡らした場所なども言う。【稲を積んでおくところを稲城(いなき)、馬を飼っておくところを牧(まき)と言うのでも分かる。】「たかき」は高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「美母呂能、曾能多迦紀那流(みもろの、そのたかきなる)」、書紀の顕宗の巻の歌に「於尸農瀰能苣能タ(施をてへんに置き換えた字)カ(加の下に可)紀儺屡(おしぬみのこのたかきなる)」などもある。○志藝和那波留は契沖が「鴫罠張」だと言った。鴫を捕ろうとして罠を張ったのだ。「しぎ」は、和名抄に「玉篇にいわく、シギ(龍の下に鳥)は野鳥である。楊氏抄にいわく、『しぎ』、あるいは田鳥とも言う」とある。書紀【神代上巻】には、「アン(偏は今の下に酉、つくりは隹)は『しぎ』と読む」とある。万葉巻一【二十七丁】(67?)に「旅にして、物戀之伎乃鳴事毛(ものこいしぎのなくことも)」、巻十九【九丁】(4141)に「春儲(ま)けて物悲しきに三更而(さよふけて)、羽振鳴志藝(はぶりなくしぎ)誰田(たがた)にか住む」。「わな」は、和名抄の畋獵の具に「蹄、周易にいわく、蹄は兎を捕まえるものである。・・・師の説に和名『わな』」と見え、書紀に「その時川雁が羂(罠)に掛かって苦しんでいるのに出会った」とあり、新撰字鏡には「ワナ(溫のつくりの上の部分の下辺を延ばし、下に月を書く形。音不明)は撃であり挂である。『わな』」とある。【上記のワナはケン(四の下に口、その下に月)の字で、羂と同じ。】万葉巻十四【五丁】(3361)に「あしがらのをてもこのもにさすわなの云々」。この句は兄猾が機(おし)を仕掛けて天皇を落とし入れようとした小さい謀略を、鴫を捕ろうと張った罠に喩えたのだと契沖は言った。○和賀麻都夜(わがまつや)は「我が待つ」で、鴫が掛かるのを待っているのである。「や」は「高行くや隼別(はやぶさわけ)」【高津の宮の段の歌】「打つや霰」、【遠つ飛鳥の宮(允恭天皇)の段の歌】「咲くや斯花」【古今集序】などの「や」で、「待つや鴫」と次の句に掛かる。【この句を上の句に付けて解するのは誤りである。】上の句は「張る」で意味が切れている。「和賀」は罠を張った人の「我が」で、「自分が待つ鴫は」といった意味だ。【だから下へ続くと言うのである。上の句に続くと見ると、「我が」と言う意味が分からなくなる。また契沖がこの「我」を兄猾のことだと言ったのは、少し違う。喩えた意味は兄猾のことのようだが、言葉の上では違っている。】○志藝波佐夜良受(しぎはさやらず)は、契沖が「『鴫は障らず』だ。『は』と『や』は同韻で通うので、『サハル』を『さやる』と言ったのだ。万葉巻五(870)に『百日(ももか)しも行ぬ松浦路けふ行て、あすは來なむを何かさやれる』とある。ここの『障る』は『掛かる』で、俗にものに触れることを『さわる』と言うのと同じである」と言った。この説の通りだ。また万葉巻五【三十八丁】(899)に「許良爾佐夜利奴(こらにさやりぬ)」ともある。○伊須久波斯(いすくわし)は、契沖が「『勇細』だ。『さ』と『す』とは音が通う。鯨を『いさな』と言い、万葉に『勇魚』と書いている。『くわし』は名細(なぐわし)、花細(はなぐわし)、香細(かぐわし)などの『細』で、美称である。それで次に『鯨』を言うための発語として、まず美称を置いたのである」と言った。この説の通りだ。なお、師の冠辞考の「いすくはし」、また鯨魚取(いさなとり)の條に詳しい記載がある。【万葉で「いさな」を鯨魚と書いていることを考えると、鯨をすなわち「いさな」とも言ったのだろう。壹岐国風土記に「鯨伏(いさふし)」という地名の由縁として、鯨を俗に「いさ」と言うとある。】○久治良佐夜流(くじらさやる)は「鯨障る」で、鴫罠に鯨が掛かったということだ。こう言ったのは、思い掛けない大軍が来て、兄宇迦斯の小さな仕掛けがぶち壊しになったことを言う。和名抄に「唐韻にいわく、大魚の雄を鯨、雌を鯢と言う。淮南子にいわく、鯨・鯢は魚の王である。和名『くじら』」と見える。だが鴫の小さいのに対して言うには、大きく猛烈なものは鳥にも獣にもいろいろあるだろうに、罠にかかりようもない海の動物の鯨を言ったのは、単に大きなものを言おうとしたのではない。たぶん後の大饗の食べ物の中に鴫と鯨があり、それに因んで喩えたものだ。【そうでなければ罠に鯨はふさわしくない。】なおこの句は、書紀で「流(る)」を「離(り)」と書いてある。「る」の方が優っている。○古那美賀(こなみが)は「前妻(こなみ)が」ということだ。和名抄に「前妻は和名『もとつめ』、または『こなみ』とも言う」とあり、新撰字鏡には「クン?(女+君)は『こなみ』」とある。【クン?(女+君)という字は納得できない。】○那許波佐婆(ナこわさば)は「魚(な)乞わさば」である。「乞わば」を「乞わさば」と言うのは古言の決まりである。【「立つ」を「立たす」、「行く」を「行かす」などと言うのと同じ言い方だ。】ここで魚のことを言うのは、大饗宴になったからだ。【この句は、延佳も契沖も師も「汝子(なこ)は」と解釈し、「さば」を契沖は「セン(言+山)ボウ(口+尨)<ののしりの語か>」と言い、師は「歌の辞<囃し言葉のことか>」と言ったが、どちらもよくない。というのは、記中で「子」の意味には「古」だけを使っていて、「許」を使った例はない。このことは初めの巻で述べた。書紀でも「子」の意味には古、胡、固などばかり使うが、ここでは「居」の字を使っている。これは「子」でない証拠である。それに「汝子」とすると、続く部分が解釈できない。誰もがこの句の解釈を誤っているので、後の句も分からなくなってしまっている。私も年来分からなくて、あれこれ思い巡らしていたが、最近やっと思いついて、「魚乞わさば」だと決定した。】○多知曾婆能微能(たちそばのみの)は、契沖が「立柧リョウ(稜の禾を木へんに置き換えた字)(たちそば)の実」かと言った。その通りだろう。「たち」は書紀の神代巻で「門前所植湯津桂木」とあり、訓注に「所植、これを『たてる』と読む」とある意味で、すべて草木は立っているものだから「たち〜」と言う。「木立」などと言うのも同じだ。【倭建命の段の歌に、「宇惠具佐(うえぐさ)」、万葉巻三(310)に「殖木(うえき)」、また(407)「殖子水葱(うえこなぎ)」、巻十四(3415)にも「うゑこなぎ」、また(3474)「うゑ竹」などとある「宇惠」も人が植えたのでなく、植わっているという意味だから、「立ち」というのと同じである。】和名抄に、「唐韻にいわく、柧リョウ(稜の禾を木へんに置き換えた字)(そば)は木である。また四方木である。和名『そばのき』」とある。【字書を参照すると、「そば」は木の名ではなく、木の楞(かど)である。それを「そば」の字に当てたのは、ものの稜角を「そば」と言うことから、思い違えたのである。】書紀の仁徳の巻の皇后の歌に「箇波區莽珥、多知瑳箇踰屡、毛毛多羅儒、揶素麼能紀破(かわくまに、たちさかゆる、ももたらず、やそばのきは)」とあるのも、この木ではないだろうか。【谷川氏いわく、「これは箭柧リョウ(稜の禾を木へんに置き換えた字)で、今は矢筈と言う。漢名鬼箭という木だ」という。また八ソバか、八十葉か、定かでない。】枕草子に「木は」という題で、「そばの木、はしたなき心ちすれども、花の木ども散りはてゝ、おしなべたる緑になりたる中に、時もわかず濃き紅葉のつやめきて、思ひかけぬ青葉の中より差出たる、めづらし」と言っている。【「はしたなき」と言うのは「そば」という名のことである。】さてこれはどの木を言っているのか、確かなことは分からない。【今「かなめ」という木を、山里の人たちは「そばの木」とも呼ぶ。これはどこの山にもよくある木で、三月頃の若葉が赤く艶やかなので、枕草子の記述と合致する。】この句は、次の「那祁久(なけく)」の序である。七言一句の序はたいへん珍しい。【古歌を考えると、一般に序の句は五言七言の二句、または三言四言五言の三句が普通で、一句で七言は滅多にない。一句の時はみな五言である。三言四言はよくある。それは五言の格だ。】○那祁久袁(なけくを)。この句は解釈が難しい。【契沖も意味不詳とした。】しかし強いて試みに言うと、「長けく」を「嘆く」、「長」を「な」とだけ言うことがある。風神のことを書紀で級長津彦(しなつひこ)命と書いているのを、この記では「志那都比古(しなつひこ)神としているのがそうだ。【また「中」を「な」とだけ言ったのは、書紀の神功の巻にある「渟中倉(ぬなくら)」という地名を、摂津国風土記には「沼名椋(ぬなくら)」とあり、継体紀に「坂中井、中は『な』と読む」、また天武紀に「渟中、これを『ぬな』と読む」とある。これらもその例とするべきだ。】「祁久(けく)」は「伎(き)」と言ったような意味だ。「き」や「く」を古言で「けく」と言った例は多い。【古今集(954)に「世の中のうけくにあきぬ」とあるのなどは「うき」で、「き」を「けく」と言っている。また「惜しけくもなし」などと言うのは「惜しく」で、「く」を「けく」と言う。いずれも万葉などに多い。】ただし序の句の「そば」もどの木のことかよく分からないので、その実もどんな形をしているのか分からないけれども、その実を一応細長いものとして、「長く」の序と考えよう。「長い」とは、鯨の肉を長く切ったものを言う。【鯨は大きな魚なので、そのままでは扱いにくく、その肉を適当な大きさに切り分けておくものだから、そのうちの「長く切って置いたものを」と言ったのである。○師はこの句を「少なくを」だったのが、「すく」の二字が脱落したのだろうと言った。確かに下の「意富祁久袁(おおけくを)」の対語とすればその通りだが、書紀もこの記と同じように書いてあって、やはり「すく」の二字はないから、従いがたい。】○許紀志斐惠泥(こきしひえね)。「こきし」は下の「許紀陀(こきだ)」と同じ言葉で、【書紀には、両句共に「き」を「氣」と書いてある。氣は「け」の仮名で、書紀でも「け」にのみ用いているので、それは「け」と読むのかと思ったが、一般に書紀の仮名は呉音と漢音が混在し、一字を三音にも四音にも使っているから、そこでは漢音の方を取って、「き」と読むべきである。】延佳が「幾許」と注したのがいいだろう。それは万葉巻二【四十四丁】(232)に「御笠山、野邊徃道者、己伎太雲、繁荒有可、久爾有勿國(みかさやま、ぬべゆくみちは、こきだくも、しげくあれたるか、ひさにあらなくに)」、巻廿【二十五丁】(4360)に「己伎婆久母(ここばくも)ゆたけきかも」、巻十四【二十八丁】(3431)に「許己婆(ここば)かなしき」、また【七丁】(3373)に「己許太(ここだ)かなしき」、巻十五【二十三丁】(3684)に「奈曾己許波(なぞここば)いのねらえぬも」、巻十七【四十八丁】(4019)に「許己太久母(ここだくも)しげき戀かも」、巻十八【六丁】(4036)に「許己太久爾(ここだくに)云々」、【また巻九の十八丁(1740)に「曾己良久爾(そこらくに)」、巻十七の三十四丁(3985)に「曾許婆(そこば)」、巻廿の廿五丁(4360)に「曾伎太久毛(そきだくも)」】などとあり、みな同言なのをこのようにさまざまに言っているから、「こきし」とも言っておかしくない。これらの言葉を正字では「幾許」と書いて、巻々にとてもたくさんある。【みな上記の例に倣って読む。】この言葉は、元はものの数の多いことを言うが、「あまた」、「さわに」などと言うのと少し趣が違い、「いかばかりか」と言うことなので、幾許と書くのである。【万葉巻四の三十七丁(633)に「幾許(いかばかり)思ひけめかも云々」、これは「いかばかり」と読む。巻五(875)に「伊加婆加利(いかばかり)」というのがある。また巻八の五十八丁(1658)に「わがせこと二人見ませば幾許(いくばく)か此降雪(このふるゆき)のうれしからまし」】その「いかばかり」と言う言葉は、数が多いという意味から転じて、甚だしいという意味にもなった。【「ここだ戀しき」などと言うのは、「いかばかりか恋しい」ということで、「甚だ恋しい」という意味になった。これでいずれの歌も意味を知るべきである。】まさに数が多いという意味で言ったのは、万葉巻五【十八丁】(844)に「妹がへに雪かもふると見るまでに許々陀母(ここだも)まがふ梅の花かも」【源氏物語などに「ここら」、「そこら」などと言うのは、まさしく数が多いという意味だ。】これがそうである。それはともかく、ここの「こきし」、「こきだ」は「いくらも」という言で、つまり「いくらでも多く」という意味だ。「ひえね」は漢籍の禮記【禮運】に「豚をヒエ(てへん+卑)す【注に「豚の肉を擘(さ)き析(わ)ること」とある。】また【少儀】に「牛と羊魚の生肉を、聶(ひえ)てこれを切り、なますにする」【「聶」はセツ(月+聶)チョウ?(喋のへんを月に置き換えた字)と同じ。「肉を薄く切ること」と字書に見える。】このヒエ(てへん+卑)、聶をいにしえから「ひえて」と読んでいる。【漢籍の古い訓に古言が残っていることはよくある。ものを「へぐ」というのも、「ひえぐ」が縮まった言葉だろう。】肉を薄く小さく切ることだ。【書紀の神代下巻に「竹刀(あおひえ)」、和名抄に、「弘仁私記にいわく、竹刀は『阿乎比衣(あおひえ)』」とあるのは、「え」に「衣」を書いているので、ここの斐惠(旧仮名ひゑ)とは別だろうか。ただし「ウルハシ」を新撰字鏡に「うるわし」と書いた例もあるから、弘仁私記で「ひゑ」を誤って「ひえ」と書いた可能性もある。これはどちらもあり得るだろう。】「泥(ね)」は「こうせよ」と命ずる辞で、「ひえよ」といった意味である。○宇波那理賀(うわなりが)は「後妻が」である。和名抄に「後妻、和名『うわなり』」と見え、【同書に「前夫は『したお』、後夫は『うわお』」ともあるから、「うわ」は「後」の意味なのだろう。一般に前のことを下、後を上という例が多い。】新撰字鏡には「嫌は『うわなり』」とある。【「嫌」の字は不審だ。】大和物語にも、「こなみ・うわなり」と言っている部分がある。檜垣の家集に「船にのせなどするほどに男も来たり、此うわなりこなみ一日一夜(ひとひひとよ)萬のことを云語らひて、つとめて船に乗りぬ」とある。また書紀で、「嫉妬」を「うわなりねたみ」と読んでいる。【これは本妻が後妻を嫉むことを言う。】○那許波佐婆(ナこわさば)は前と同じ。ここで前妻後妻は、鴫罠を張った者の家の妻で、【単なる喩えで、兄宇迦斯の妻を指して言うわけではない。】必ずしも二人ではないが、仮に前妻・後妻と二つに分けて言っているのは、いにしえの長歌の様式である。夫が猟に出たら、家にいる妻は朝夕の菜にしようと得物を待っているので、「魚乞者(ナこわさば)」と言うわけだ。○伊知佐加紀微能(いちさかきみの)は、田中道麻呂のいわく「近江の彦根辺りに、『ちさかき』という木がある。これだろう。尾張では『しらしゃけ』、美濃では『びしゃかき』と言う。黒い小さな実がたくさんなる木なので、『意富祁久(おおけく)』の序によく当たっている」という。この説がよい。その木は和名抄に「レイ(木+令)は、漢語抄にいわく『ひさかき』」とあるのがそうだ。【「レイ(木+令)」の字を当てたのは未詳。】今も「ひさかき」と言う。伊勢では「みさかき」とも「びしゃこ」とも言う。北国では、この木を「さかき」と言うそうだ。どこの山にもたくさんある木だ。【これにも大小二種類があり、小さい方は低くて群生し、春の若葉の色はたいへん赤い。<訳者註:小さいヒサカキとはハマヒサカキのことか>○契沖は「嚴龍眼木(いづさかき)か」と言い、師もこれに倣って、「いにしえに『さかき』と言ったのは、多くは橿(かし)であって、『橿の實の獨(ひとり)』と万葉(1742)に詠んでいるように、『大』の序詞である」と言ったが、どうだろう。いにしえに「嚴橿(いづかし)」という言葉はあったが、「嚴坂樹(いづさかき)」と言った例はなく、この歌に「嚴」という語は無縁である。また「橿の實の獨」という句はあっても、その実は大きなものではないので、「大」の序としたのもどうかと思う。】この句は次の「意富祁久」の序である。○意富祁久袁(おおけくを)は、「大きなのを」というようなことである。「大」と「多」は、元は同じ言葉なので【古くは少ないことと小さいことも通わして言い、小さいことを「すくな」と言った例も多い。】「大」も「おおけく」と言ったのだ。上記の「ひさかき」の実は小さいものなので、「大」の序辞には合わないようだが、言が同じなので、「多い」の意味に続けたのだろう。【上の「那祁久(なけく)」を取りあえず「長く」の意味に解したから、ここも「大きく」の意味に取ったのである。もし「那祁久」が他の意味だったら、それ次第で、ここも「多く」の意味かも知れない。それは後人の考察に待ちたい。】これは、鯨の肉を大きく切って置いたものを、という意味だ。○許紀陀斐惠泥(こきだひえね)は、「幾許(ここだ)聶(ひえ)よ」である。「こきだ」のことは、前述の通りだ。一般に同じ言い方を続ける時は、少し言い方を変えることが古歌に多い。【上巻の八千矛神の歌に、一度目には「ありと聞かして」と言い、二度目には「ありと聞こして」と言う。高津の宮(仁徳天皇)の段の歌にも一度目は「須賀波良(すがはら)」、二度目には「須宜波良(すげはら)」とあるのと同様だ。こういう例は他にも多い。】それで前には「こきし」と言い、ここでは「こきだ」と言ったのである。【師は「前の句もここも共に『許紀志陀(こきしだ)』だったのを、前では『だ』、ここでは『し』を誤って落としたのだ。許紀志陀斐惠泥(こきしだひえね)とは、実を『こきおろしシナヘ(しなえ)よ』だ。『しだ』は『しな』と同じであり、『ひえ』は縮まれば『へ』になる。その意味は、前妻の子の小さなものも、後妻の子の大きなものも、みななぶり殺せということだ」と言った。しかしこの説は、大変難解な上、書紀でもこの記と同じように「居氣辭(こきし)・居氣ダ(イ+襄)」とあるから、信じられない。またこの説が正しいなら、鯨のことを言う理由もないだろう。】○この歌の全体の意味は、「思いも掛けず大きな魚が捕れたぞ、家にいる我が妻が待っているから、この肉の長く、または大きく切ったのを、望むままに、幾らでも分け与えよう」ということで、その鯨の肉の大きさに皇軍の威勢を喩えて、いかなる強敵に会っても不足のないあり余るものを、小さな仕掛けで攻撃しようとしたことの身の程知らずなことよと、兄宇迦斯の所行を賤しめる意味が裏にある。ところで書紀では、この歌の次に「これを來目歌(くめうた)と言う。今も楽府(うたまいのつかさ)がこの歌を奏するには、手量(手振り)の大小、また歌声の巨細にいにしえの様式が残っている」とある。【「手量」とは舞の手の動く大きさである。その手を大きく動かすところと、小さく動かすところがあることを言う。】○疊疊(ええ)は定かでないが、強いて言うと、盈の草書の形を疊と見誤ったのではないか。盈の字を仮名に使った例はないが、【後世の平仮名には用いている。またその形は疊の草書体と全く同じだ。】言っている内容によっては、他に例のない仮名を用いた箇所は、この記にもときどきあり、特にこの箇所は尋常の言葉でもないので、こういう仮名を使った可能性がある。そこで「盈」の字だと仮定して、「延々(ええ)」の仮名とする。この言葉は、今の世でも醜悪なこと、汚い悪事などを見て「ええ」と言うが、これは憎み疎む意味の嘆息の声である。ここもそれと同じく、兄宇迦斯の身の程知らずな反逆を、辱め憎んだのである。【延佳本、また他の一本にも、「亜々」と書いているのは腑に落ちない。というのは、「亜々」だったら、次に「阿々」とあるのと同じなのに、「こはいごのうぞ」、「こはあざわらうぞ」と、別のこととして注されている理由が分からなくなるからだ。】○音引(おとひけ)とは、この二つの「盈」を離して読まず、一つの「え」を長く引き伸ばして読むのである。【「阿々」の下にあるのも同じ。】○志夜(しや)は、平家物語に「しや冠を打ち落とせ」、また「しや頬(つら)をむずむずとぞ踏まれける」、宇治拾遺物語に、貫之が東人に似せて詠んだ歌として、「あな照(てり)や虫のしや尻に火の著(つき)て、小人魂(こひとだま)とも見え渡る哉」、今昔物語に「しゃ頬(つら)は猿に似て」、また「しや足打折(うちおり)てむ物を」、また「しや衣のくび取て引立(ひきたて)よ」などとある【この他にも例は多い。】「しや」と同じで、何かを賤しめ辱める辞である。【今の俗言にも「しゃっつら」と言う。】上記の中昔の言葉は車・者などの音のように「しゃ」と言ったと思われるが、【「虫のしや尻に」という句は、七音のはずだからだ。】上代にはそういう語はなかったから、「し・や」と各音を確かに読むべきである。○胡志夜(こしや)は、「袁胡志夜(おこしや)」の「お」を省いた言で、「おかしや」と言うのと同じだ。【「おこし」はつまり「おかし」である。】「おこ」は、「おこがましい」などの「おこ」である。この言葉は軽嶋の宮(應神天皇)の段の歌に出る。そこ【伝三十二の七十一葉】で言う。「しや」は「嬉しや」、「悲しや」などの「しや」と同じで、「や」は嘆息の辞である。【つまり上の「しや」とは意味が異なる。】また書紀に「時夜塢(しやを)」とある【これは後に引く。】のによれば、「塢(を)」と「胡(こ)」は横に通って、特に近い音だから、「こ」を上に付けて「しやこ」と読み、下の「しや」は上の「しや」を再び重ねて言ったと解するのも悪くない。その場合、「こ」は上の「しや」に付けた助辞である。○伊碁能布曾(いごのうぞ)。この言は甚だ難解だ。【このように仮名で書いてあるのは、いにしえからその言葉の意味が明確でないから、言い伝えた言のままに書いてあることがしばしばだ。書紀の神功の巻に「阿豆那比之罪(あずないのつみ)」、また欽明の巻に「嘆いて『久須尼自利(くすにじり)』と言った。これは新羅の言葉だが、意味は不詳である」とあるたぐいである。ここは特に上の言葉を注した部分だから、意味が分かっていたなら、このように仮名で書いたりはしなかったはずだ。とすると、こういう言葉をはるか後世に「こういう意味だ」と注するのは、言って見れば興ざめなことでもあるのだが、といって何も言わずにおくべきでもないだろうから、】例によって強いて解釈するなら、「伊碁(いご)」は前の文にある「伊賀」を活用した語で、「のう」はまかないの物をだすことを「つぐのう(つぐなう)」というたぐいの「のう」で、【賄賂(まいない)を贈るのを「まいなう」、仇(あだ)することを「あたなう」と言う「なう」も同じだ。】「伊賀(いが)」と言って人を卑しめののしるのを、「いごのう」と言ったのではないだろうか。「あや」と驚くのを「あやし」、「あやしむ」などと言うのと同様である。「曾(ぞ)」は助辞で、これぞ、かれぞ、という「ぞ」だ。【延佳が「いきのぶぞ」と訓を付けたのは、「息延」と考えたのだろうか。だが「基」を「き」と読むのも、「布」を「ぶ」と読むのも間違いだ。師は「疊々」を延佳本に「亜々」と書いているのを取り、次の「阿々」と同じと考えて、「ここは本来『阿々志夜胡志夜、阿々、此者伊基能布曾。志夜胡志夜、此者嘲咲者也(ああしやこしや、アアはいこのうのである。シヤコシヤはあざわらうのである)』とあったのが、後に今の本のように誤ったのだ。今の本は、上を『亜々』と書いているのも下に『音引』とあるのもみな誤りだ。次に『阿々』とあるのだから、上も『阿』の字であることは明らかである。また『音引』という注は、下の『阿々』のところにこそあるべきで、上にはあるべき理由がない。下の『阿々』は上記のように『此者伊基能布曾』の上にあるべきで、それを下に書いたのも誤っている。『いごのうぞ』は『阿々』の注であり、『伊基』は『息』の意味、『いこう(憩う)』である。兄宇迦斯を滅ぼして息を延ばした(ほっと息をついた)のだ」と言った。確かに「亜」も「疊」も記中に仮名として使った例はないから、「阿」の誤りとするのももっともだ。また「亜々」の下に「音引」とあるのも、下の「阿々」と同じと見ると、やはり誤りだ。下の「阿々」を「此者伊基能布曾」の上に移したのも、「亜々」と「阿々」と同じとすれば、納得できる。「伊基能布」を「休息」のこととしたのも、一応は分かる。今の世でも力業を行って疲れると、一服して「ああ」と言い、苦労した人が、その苦労を終えて休むことを「ああと思った」などと言う。これらは「伊基能布曾」を「阿々」の注だとすると、よく当てはまっている。だがさらに考えると、「阿」と「亜」、「疊」は大きく字形が異なっている。「亜」も「疊」も仮名に使い慣れない字だから、これらの字に写し誤ったとは考えにくい。下の「阿々」の置き所を変えたのも得心できない。また「息を延ばす」のと「嘲笑する」とはたいへん違ったことなのに、一つに続けて言うこともないだろう。あれこれ考えると、やはり上の「疊々」と下の「阿々」は同じでなく、言が異なるのだろう。そして「伊基能布曾」は「疊々志夜胡志夜」の注、「阿々志夜胡志夜」の注は「嘲笑うぞ」なのだろう。】ところでこの言は、旧印本および他の一本には「「伊能基布曾(いのごうぞ)」とある。【日本霊異記に「彼犬之子毎向2家室1而期剋睚眥喚吠云々(そのイヌのコつねにカシツにむかいてイノコイ、にらみハニカミほゆ)<口語訳:その犬の子は、いつも妻に向かってうなり迫り、にらみつけ、歯をむき出して吠え立てた>」とあって、注に「期剋は『いのこう』」とあるが、何の意味か分からない。】どちらがいいか決められないが、取りあえず延佳本に依拠して論じることにする。<訳者註:岩波日本古典文学大系本は「伊能碁布曾」を採用している>○阿々(ああ)。この言は、書紀には「於佐箇廼(おさかの)云々」の歌の次に、「皇軍は大喜びして天を仰いで笑い、歌っていわく『伊莽波豫、伊莽波豫、阿々時夜塢、伊莽ダ(イ+襄)而毛阿誤豫、伊莽ダ而毛阿誤豫(今はよ、今はよ、ああしやを、今だにも吾子よ、今だにも吾子よ)』。今來目部が歌った後に大笑いするのは、これがもとである」とある。【これはこの記と伝えが異なる。ここに「今來目部が云々」というのは、久米舞のときのことである。】弘仁私記には、「阿々」を「笑う声」と注してある。確かに今の人も笑う時には「ああ(あはは)」と笑う。○志夜胡志夜は前に出たのと同じ。弘仁私記では、上記の「時夜塢」を「おかし」と言うような意味だと注している。○嘲咲者也は、師が「あざわらうぞ」と読んだのに従う。つまり嘲り笑うことだ。新撰字鏡に「嗤は蚩と同じ。『あざける』、『そしる』、また『わらう』」とあり、書紀の神代巻に「笑ギャク?(口へん+虐)(あざわらう)」また「嘲(あざわらう)」とある。この「者也」を「ぞ」と読むのは、上の「伊碁能布曾」の例による。ところで、「ええ」というところから下は歌ではない。【歌は「許紀陀斐惠泥」までである。】上の歌を歌った次にいう詞(囃し言葉)で、【書紀の「ああしやを云々」は「歌っていわく」とあるからには、これもまた別の歌のように聞こえるが、その次に「今來目部が歌った後に大笑いするのは」とあり、この詞は歌の後の大笑いに当たる。】兄宇迦斯の身の程知らずの行いを、ののしり辱めて嘲笑したのだ。これは「ええしやこしや、ああしやこしや」と続いている詞なのに、その間に「此者伊碁能布曾」という注を入れたのはおかしいと思われるかも知れないが、このように短くまとめていうのも、古言の書き方である。【もっと詳しく言うと、まず「ええしやこしや、ああしやこしや」と言っておいて、後に「ええしやこしやは伊碁能布曾」、「ああしやこしやは嘲咲者也」と書くべきだろうが、それでは同じ詞を二度言うことになり、煩わしい。そこでこうして縮めて一度に言ったわけだ。記中、こういう例はところどころにある。】<訳者註:この歌の後半の解釈は、現在では「(もう飽き飽きした)古妻には肉のないところを少しだけ取り分けてやれ、(可愛い)新妻には身がたっぷり付いたところをたくさん取り分けてやれ」といった意味に解されている。卑俗な内容で、風俗歌の趣だが、宣長には初代天皇の「神聖な大御歌」に、そういう意味があるとは想像もできなかった。また注釈も「伊能碁布」の方が原型とされている。意味は不詳。個人的な見解では、ここで古妻、新妻を歌ったのは、後の伊須氣余理比賣への求婚説話に関係するのではないかと思う>○宇陀水取(うだのもいとり)。水取は「もいとり」と読む。【和名抄に「主水司は『もいとりのつかさ』」とある。「もどり」、「もんとり」、「もんど」などと読むのは後世の訛りだ。】なお水取のことは、高津の宮の段で水取司とあるところ【伝三十六の六葉】で述べる。宇陀の、というのは、当時宇陀に住んで、水部(もいとり)の職を行っていた者があったのである。職員令の主水司のところに、水部四十人とあるのは、水取だ。【令の今の本に、この水部を「氷部」と書いているのは誤りだ。古い本に「水部」とあるのが正しい。】主水司の式にも、「官人が水部を率いて云々」とあるのが、ところどころに見える。【また令の同司のところに、「氷戸」というものがある。これも一本には「水戸」とある。水戸が正しいなら、これも水取の戸だろう。氷戸だったら氷室に関係する戸だろう。】書紀には、「二年春二月甲辰朔乙巳、論功行賞を定めて、・・・弟猾(おとうかし)に猛田(たけだ)邑を賜い、猛田縣主とした。これは菟田の主水部(もいとり)の祖である」とある。【猛田は竹田で、十市郡にある。延喜式神名帳に見える。今も竹田村がある。】二記ともに「猛田縣主の祖」と言っていないのは、その氏は記紀成立の頃には絶えてしまい、この人の子孫では、宇陀の水取だけが残っていたのだろう。

 

自2其地1幸行到2忍坂大室1之時。生レ尾土雲<訓云2具毛1>八十建在2其室1待伊那流。<此三字以レ音>故爾天神御子之命以饗賜2八十建1於レ是宛2八十建1設2八十膳夫1。毎レ人佩レ刀。誨2其膳夫等1曰。聞レ歌之者一時共斬。故明レ將レ打2其土雲1之歌曰。意佐賀能。意富牟廬夜爾。比登佐波爾。岐伊理袁理。比登佐波爾。伊理袁理登母。美都美都斯。久米能古賀。久夫都都伊。伊斯都都伊母知。宇知弖斯夜麻牟。美都美都斯。久米能古良賀。久夫都都伊。伊斯都都伊母知。伊麻宇多婆余良斯。如レ此歌而。拔レ刀一時打殺也。

訓読:そこよりいでまして、オサカのオオムロにいたりませるときに、オあるツチグモ、ヤソタケルそのモロにありてマチいなる。かれここにアマツカミのミコのミコトもちてヤソタケルにミアエたまいき。ここにヤソタケルにあててヤソカシワデをまけて、ひとごとにタチはけて、そのカシワデどもに、「うたをきかばモロトモにきれ」とオシエたまいき。かれそのツチグモをうたんとすることをアカセルうた、「おさかの、おおむろやに、ひとさわに、きいりおり、ひとさわに、いりおりとも、みつみつし、くめのこが、くぶつつい、いしつついもち、うちてしやまん。みつみつし、くめのこらが、くぶつつい、いしつついもち、いまうたばよらし」。かくうたいて、タチをぬきてモロトモにうちコロシつ。

歌部分の漢字表記(旧仮名):忍坂の、大室屋に、人多に、来入り居り、人多に、入り居りとも、みつみつし、久米の子が、頭椎(くぶつつ)い、石椎(いしつつ)いもち、撃ちてし止まむ、みつみつし、久米の子等が、頭椎い、石椎いもち、今撃たば良らし。

口語訳:そこから移動して、忍坂の大室に到った時、尾の生えた土蜘蛛の八十建がその室で待ち受けていた。そこで天神の御子は、八十建を饗応することにして、彼らにそれぞれ八十膳夫(接待役)を設け、それぞれ刀を持たせた。そして膳夫たちに「歌の合図を聞いたら、一斉に切ってしまえ」と教えた。その歌は、「忍坂の大室屋に、大勢の人が来て入っている。大勢の人が入っていても、みつみつし、久米の子が、頭椎の太刀、石の槌でもって、撃ってしまおう。みつみつし、久米の子等が、頭椎の太刀、石の槌でもって、それ、今撃てばいいぞ」。こう歌って、太刀を抜き、一度にみんな打ち殺した。

「自2其地1(そこより)」は宇陀からである。○忍坂(おさか)は和名抄に「大和国城上郡の恩坂は『おさか』」【「恩」の字は「忍」の誤りだろう。「恩」も「お」の仮名に使えないことはないが、やはりこの字ではないだろう。】延喜式神名帳に「同郡、忍坂山口坐(おさかのやまのくちにます)神社」、また「忍坂坐生根(おさかにますいくね)神社」などがある。諸陵式にも、押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)は、大和国城上郡にある」と見える。今も忍坂村がある。書紀の垂仁の巻にも「忍坂の邑」と見え、万葉巻十三【三十一丁】(3331)に「青幡之忍坂山者、走出之宜山之出立之妙山叙(あおばたのオサカのヤマは、ハシデのよろしきヤマのイデタチのくわしきヤマぞ)」とある。【延佳がこれを大坂と同一視して言った説は、大外れだ。大坂は玉垣の宮(垂仁天皇)の段に出る。そこで言うのを参照せよ。】○大室(おおむろ)。室は和名抄に、「白虎通にいわく、黄帝は室を作って寒暑を避けた。和名『むろ』」とある。【師は歌によって、ここの室も「むろや」と読んだ。】室一般のことについては、甕栗の宮(清寧天皇)の段に「新宮」とあるところ【伝四十三の八葉】で言う。ここにあるのは土雲の住処だから、書紀に「ムロ(穴かんむりに音)を掘る」とあるように、土中の室で、【ムロ(穴かんむりに音)は、字書に「地室」と注してある。仁徳紀で、窟も「むろ」と読んでいる。】山腹などの横穴を掘り、岩窟のようにしたものを言うのだろう。【平地を下へ掘ったものではない。】「大室」と言うから、その内部は大変広かったのだろう。書紀の綏靖の巻に、「手研耳命は片丘の大ムロ(穴かんむりに音)の中で、大牀(おおみとこ)に一人で寝ていた」とあるのは、普通の部屋で広いのを言うのだろう。【ただし、これも「片丘の」と地名を挙げているから、掘った土中の穴とも考えられる。】ところでここは、「到2忍坂1之時、生レ尾・・・在2大室1(オサカにいたりまししとき、オある・・・オオムロにありて)」と書くべきだろうが、「到2忍坂大室1」とあるから、何だか「大室」が地名のように聞こえる。これは後の歌に「意佐賀能意富牟廬夜(オサカのオオムロヤ)」とあり、当時名高い室だったので、この歌によってこう書いたのだろう。○生尾(おある)というのは、上の吉野の段にもあったように、非常に遠い昔には、そういう人もいたのだろう。書紀の神功の巻に、樗柱F鷲(はじろくまわし)という人物が翼を持っていて、空を飛び翔ったことが出ている。○土雲(つちぐも)。「雲」は借字である。書紀のこの巻に、「ソ(尸に曾)富縣(そふのあがた)、波タ(口+多)丘岬(はたのおかざき)に新城戸畔(にいきとべ)という者がいた。また和珥坂下(わにのさかもと)に居勢祝(こせほふり)という者がいた。臍見長柄丘岬(ほぞみのながらのおかざき)には猪祝(いのほふり)という者がいた。この三箇所の土蜘蛛は、いずれも勢力があり、天皇に仕えることを肯んじなかった。天皇は軍の一部を派遣して、みな殺してしまった。また高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛がいた。その人は短身で手足が長かった。侏儒(こびと)の類である。皇軍は葛の網を作って、打ち掩って殺した。」【摂津国風土記に、「宇禰備(うねび)の可志婆良(かしばら)の宮で天下を治めた天皇の世に、土蛛(つちぐも)という者がいた。この人は常に穴に住んでいた。それで賤しんで土蛛という名を与えた」とある。】また景行の巻に、「速見の邑に到ると、そこには速津媛(はやつひめ)という女がいた。この邑の長である。彼女は天皇がやって来たと聞いて、自分で迎え出て、『この山に大きな洞窟があります。鼠石窟(ねずみのいわや)と呼んでいます。その洞窟に二人の土蜘蛛が住んでおり、一人は青(あお)、一人は白(しろ)といいます。また直入縣の禰疑野(ねぎぬ)というところにも土蜘蛛が三人います。一人は打猿(正字はけものへん+爰)(うちさる)、一人は八田(やた)、一人は國摩侶(くにまろ)といいます。この五人はみな力が強く、その徒党も大勢います。みな天皇の命には従わないと言っています』云々」とある。【速見の邑は、豊後の国速見郡である。その国の風土記に「速見郡。昔、纏向の日代の宮で天下を治めた天皇(景行天皇)の御代に、・・・この村に速津媛という女性がいた。・・・語っていわく、『ここに大きな岩窟があり、名を鼠磐窟(ねずみのいわや)といいます、土蜘蛛が二人住んでいて』云々」、また「『直入郡の禰疑野にも土蜘蛛が三人います』と言った。云々」、また「禰疑野は、昔、纏向の日代の宮で天下を治めた天皇がこの地にやって来た時、この野に土蜘蛛がいた。云々」と見え、同書に「石井郷は、昔この村に土蜘蛛の堡があった。石を用いず、土で作ってあった。・・・五馬(いつま)山は、昔この山に土蜘蛛がいた。名を五馬媛という。・・・細磯野(網磯野:あみしの?)は、同じ天皇がやって来た時、ここに土蜘蛛がいた。名を小片鹿奥(小竹鹿奥?)、小片鹿臣(小竹鹿臣?)といった。云々」などともある。】また同巻に「高來縣(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)に渡った時、そこの土蜘蛛、津頬(つつら)を殺した。」【肥前の国に高来郡、肥後の国に玉名郡がある。】神功の巻にも山門(やまと)の縣に移り、土蜘蛛の田脂津媛(たぶらつひめ)を殺した。」【山門の縣は、筑後国の山門郡である。】などとあるたぐいで、岩窟や土室などに住み、人を害し乱暴を働く鳧帥(たける)どもを蜘蛛になぞらえて、こう名付けたのだろう。【上に引いた摂津国風土記などにその由来が見える。書紀に出た尾張邑にいたのは、短身で手足が長かったというから、その姿に因んでそう名付けたのが初めで、他の土蜘蛛もそれにならって名付けた可能性もある。ところが新井氏のいわく、「太古のとき、『つちぐも』と言ったのは、『国つ神』と言うようなものである。古語で『くま』と言ったのは『神』が転じたので、『くも』というのも『くま』の転訛である。だから虫の蜘蛛によって言ったのではない。土蜘蛛と書いたのは、後の借字である。蜘蛛を『くま』と言うのは韓地の方言で、今も朝鮮の人は『くも』と言う。ただしこれはもとわが国の言葉が、彼の地に伝わったのかも知れない」と言った。この説はよくない。「くも」という名は、もとより皇国の言葉だ。だから「もとわが国の言葉が彼の地に伝わったのかも知れない」としたのは正しい。韓語にはそういう例も多いことだろう。またある人は「『くも』は『こも』で、『土隠り』という意味の名だ」と言った。これは、語についてはありそうなことだが、やはりそういう意味の名ではないだろう。ところで今の世にも吉備の国などに、大きな石を積んで作った窟が所々にあって、伝えに、「昔火の雨が降った時、人々が隠れた跡だ」と言うと、その国の人が語った。今考えると、これらも上代に土蜘蛛たちが作ったものだろう。「火の雨云々」は、後の伝えの虚構と思う。日向国風土記に、「天孫が天降った時、大ジ(金+耳)、小ジ(金+耳)の二人の土蜘蛛が・・・と奏した」という記事が見える。これは人を害した者ではないが、土中に住んでいたことから、後にその名を付けたのだろう。】この土雲は、つまり八十建のことである。○「訓云2具毛1(『ぐも』と読む)とある注は納得できない。「雲」を「ぐも」と読むのに、注はいらない。【「く」を「ぐ」と濁るための注とも言えそうだが、これまた「土雲」と連言になる場合、濁ることは注を要しない。】それに記中の例は、みな「訓2云々1、云2云々1(シカジカを読んでシカジカと言う)」とあるのに、これは唐突に「訓云(読んで〜と言う)」とあり、「訓レ雲」と書いていないのも例がないことだ。○八十建(やそたける)は、書紀に「天皇がその菟田の高倉山の峯に登って国見をしたところ、国見丘のあたりに、八十梟帥(やそたける)がいた。梟帥、これを『多稽屡(たける)』と読む」とあり、また「弟猾が言うには、『磯城の邑に磯城の八十梟帥がいます。また高尾張の邑に赤銅(あかがね)の八十梟帥がいます。この連中はみな天皇を待ち受けて戦おうとしています』」、また「弟磯城(おとしき)は・・・やって来て言うには、『私の兄、兄磯城(えしき)は、天皇がやってくると聞いて、八十梟帥を集め、武器を準備して、待ち受けて戦おうとしています』・・・この時、磯城の八十梟帥はそこに集結していて、本当に待ち受けて大いに戦ったが、ついに皇軍に滅ぼされた」、景行の巻にも「襲(そ)の国に厚鹿文(あつかや)・サ(乍にしんにょう)鹿文(さかや)という者がいた。この二人は熊襲の渠帥(いさお)であり、その徒党は数多くいた。これを熊襲の八十梟帥という。その勢いは非常に強かった」などとあって、一人の名前ではない。「八十梟帥を集めて」ともあるから、八十とは数多の建(たける)どもを言う。後の文に「宛2八十建1設2八十膳夫1」とあるのを見れば分かる。この書紀の記事では、八十梟帥という者があちこちにいた中でも、この忍坂の大室にいたのは、国見丘のあたりにいた八十梟帥である。それは「まず八十梟帥を国見の丘で斬った・・・その後、残った党類はたいへん数多くて、その実情も分からなかったので、道臣命に『お前は大來目部を率いて、忍坂邑に大室を作り、云々』と命じた」とあって。伝えの趣旨がこの記と違う。なお「建(たける)」とは固有名詞でなく、威勢があって勇猛な者を言う言葉だ。【書紀に梟帥と書いてあるが、この字の意味に基づいて解釈してはいけない。】日代の宮の段に熊曾建(くまそたける)、【書紀には川上梟帥ともある。】出雲建などもある。○「在2其室1(そのむろにありて)」と言うのは、書紀の伝えと異なる。○待伊那流(まちいなる)。この言はたいへん難解だ。【いろいろ考えていることもあるが、自分でもいいと思う説はない。しかしその中で一つ挙げるなら、】獣が怒って吠えるのを「うなる」と言うのに似ているようなので、【「い」と「う」は通う音で、魚を「いお」、芋(うも)を「いも」、鱗(いろこ)を「うろこ」など、例が多い。】その意味で、皇軍がやってきたら戦おうと、怒り叫んで待ち構えているのをいうのではないだろうか。なお考察が必要だ。○命以(みこともちて)は勅命によって、ということだ。○饗賜は「みあえたまいき」と読む。これは書紀にあるように謀略である。○宛(あてて)。この字は、延佳本には充と書いてある。意味はそういうことである。【充の字は、「當(当)である」と字書にある。宛の字には「あてる」という意味はない。】だがわが国の古い書物には、多くの場合「宛」を書いて、ここも各本はみなそうなっている。【世に、分配するものを「幾つずつ」という「ずつ」にもこの字を書く。】○膳夫(かしわで)のことは、上巻【伝十四の五十五葉】に見える。○毎人(ひとごとに)。この人は膳夫を言う。これは歌によると、大久米命の配下の大久米部の兵士たちを膳夫に仕立てたのである。○佩刀は、「たちはけて」と読む。倭建命の歌に、「多知波氣麻斯袁(たちはけましを)」とある。「佩かせ」を縮めて「はけ」と言う。○聞歌之者は「うたをきかば」と読む。これは世に言う合図のことだ。○一時共は「もろともに」と読む。書紀に一時とあるのも、そう読む。【俗に「いちどきに」と言うのと同じ意味である。】また「同時(もろともに)」、「倶時(もろともに)」などともある。皇極紀に「一時倶(もろともに)」とあるのは、ここの書きぶりと同じだ。これは八十人もの建たちを討つから一時といったのである。○斬(きれ)は八十建を斬れと言うのである。○明(あかす)とは、そのことを直接言わずに、膳夫たちに攻撃の意図を伝えることである。○歌曰は「うた」と読む。この歌は、誰が作ったとも書いておらず、歌の内容からすると、天皇の作でないとすれば、大久米命の作だろう。だが書紀で、これさえも道臣命の作としたのはどういうことか。【それは、大久米部は大久米命が率いる兵士たちだが、書紀には大久米命という人はなく、「道臣命は大來目部を率いて」とだけある。このことは、前に論じた。だからこの歌も、実は大久米命の歌った歌なのを、同じく道臣命のこととしたのだろう。】書紀には「天皇は道臣命に『お前は大來目部を率いて忍坂邑に大室を作り、盛大な宴会を準備して敵を誘い込み、これを討ち取れ』と命じた。道臣命はこの密命を受けて、忍坂に大きな窟を掘り、兵士から勇敢なものを選んで、敵と交際させ、ひそかに約束して、『敵が酔って眠り込めば、私は歌おう。お前たちは私の歌声を聞けば、一度に立って敵を斬れ』こう定めて宴会に趣、酒を飲んだ。敵がそういう謀略があるとは知らず、何の考えもなくみな酔ってしまった時、道臣命は起き上がって歌を歌った」とある。○意佐賀能(おさかの)は「忍坂の」である。○意富牟廬夜爾(おおむろやに)は「大室屋に」である。○比登佐波爾(ひとさわに)は「人多(さわ)に」である。八十建たちを言う。万葉巻十四【二十丁】(3462)にも「比登佐波爾」とある。○岐伊理袁理(きいりおり)は「来入り居り」である。【この記と書紀の趣の違いによって、「来」という意味が少し違ってくる。この記では、この大室はもともと八十建たちの住処なので、あちこちから来て住んでいるのである。書紀では、このときに道臣命たちが大室屋を新しく作って、八十建たちを呼び集めたのだから、彼らはいつもの住処から出て、ここへやって来て、入っていたのである。言葉の様子からすると、書紀の記述の方がやや優っているようだ。】高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に「岐伊理麻韋久禮(きいりまいくれ)」とある。書紀には、この句は「異離烏利苔毛(いりおりとも)」とある。○伊理袁理登母(いりおりとも)は「入り居りといえども」ということだ。「袁流登母(おるとも)」と言わず「袁理登母(おりとも)」と言ったのは、高津の宮の段の歌にも「玖毛婆那禮曾岐袁理登母(くもばなれそきおりとも)」、また「比登理袁理登母(ひとりおりとも)」等があり、「居り」は、こう言うのが言葉の決まりである。【「居り」は「有り」などと同じ格で、「有り」も「ありとも」とはいうが、「あるとも」とは言わない。そう言うのは俗言である。「居り」も「おるとも」と言えば俗言だ。古今集の俳諧の歌(1030)に「胸走り火に心やけおり」とあるのも「やけあり」と言うのと同格である。これも今の人は「おる」と言うのが普通だと思われるだろうが、それは俗言だ。】この句は、書紀には「枳伊離(きいり)云々」と、初めに「き」がある。上記四句、同じ文句を繰り返して言うのは、古歌の様式である。【今の世でも、身分の低い人々が普通に歌う歌には、こうした繰り返しがある。これは歌というものの自然の傾向である。】○美都美都斯は「滿々し」で、「圓々(まどまど)し」というような意味である。【「し」は「嬉し」、「悲し」の「し」である。】「みつ」と「まど」は本来同言で、音が通う。【「全(また)」も同言で、これらはみなものが不足なく満ち足りているのを言う。】ここは目が丸く大きい顔を言って、久米の枕詞である。【釈日本紀でも「満々である」とは書かれているが、それは「充満していることを言う」とあって、八十建が室の内に満ちていたという意味に取っている。誤りである。また契沖は「大久米命の目が黥(さ)けていた(入れ墨があった)のが、にらむような感じだったので、大いに見るという意味で『見つ見つし』と言ったのだろう」と言い、「『つ』は天津、國津などの『津』と同じだ」と言ったが、これも誤っている。「つ」の助辞も場合によるが、「見つ見つ」などと言うことがあるものか。また師は「つ」を濁って、美豆垣(みずがき)の「みず」と解し、「若く健やかな人を賞めて言ったのだ。今もすべてのことに、若く美しいのを『瑞々しい』と言う」と言った。しかし何かを賞めて言う時の「みず」は、記中には「美豆能小佩(みずのおひも)」、また「水垣」などと書き、万葉にも「水枝」などとあって、「豆」は確かに濁音なのに、この「みつみつし」は、この記でも書紀でも「都(つ)」とあって、清音である。あるいは、私の考えだが、書紀の顕宗の巻に「不才」を「アツナシ」と読んでいる。書紀の傍訓には「ミ」を「ア」と書いているところが多いので、これも本当は「ミツナシ」で、「ミツ」は「才」の古言か。それならこの「みつみつし」も「才々(かどかど)し」で、目つきが才々しいという意味かとも思ったが、やはり前に言った意味だろう。】万葉巻三【四十九丁】(435)にも「見津々々四久米能若子(みつみつしくめのわくご)」とある。【師はこの枕詞も「若子」まで掛かっていて、若いことを言うのは、これでも分かる、と言ったが、これはただ久米に掛かる枕詞にすぎない。】○久米能古賀(くめのこが)は「久米の子が」ということだ。「久米」という名は、天津久米命、あるいは大久米命の名から出た。特に大久米命は「黥利目(さけるとめ)」と後の文にあり、目が丸く大きかったので、久米という名を負ったのであり、その久米は「久流目(くるめ)」が縮まった語だ。「くるめ」とは、宇津保物語俊蔭の巻に、「阿修羅(あすら)怒れる形を出して、眼(まなこ)を車の輪の如く見くるべかして云々」と言い、今の世の言にも、人の目が円く大きくて鋭いのを「目のくるくるした」などと言うのはこれである。それで「満々し久流目」と続けたのだ。【ところで久米を大久米命の目に因む名とするについて、もしそうならば、この命の先祖も既に天津久米命と言ったのはどうかと疑問もあるだろうが、一般に名高い神の子孫などは、代々世に珍しい異相のあることなど、今の世でも時々聞くことだから、元はこの天津久米命の目が「くるめ」であり、久米という名を負っていたのだが、その子孫代々の末である大久米命まで、同じく「くるめ」だった可能性がある。それとも大久米命の「くるめ」ぶりが世に名高く、先祖の神も、それによって後から称えた名かも知れない。いずれにせよ名の意味は同じだ。】さてこの大久米命が率いた兵士たちを久米部とも大久米部とも言って、ここに久米の子とあるのは、その久米部を指して言っており、上記の膳夫にして太刀を佩かせた人々を言う。【師はこの久米の子も大久米命を指していると言ったが、一人と見ると、この前に八十膳夫とあり、各人に刀を佩用させた、また一時共(もろともに)斬れ、などとあるのに合わない。】「子」とは男女ともに、親しみを持って呼ぶ言葉である。書紀のこの巻の歌に「阿誤(あご)」、【吾子である。】軽嶋の宮の段の歌に「古杼母(こども)」【子等である。万葉にもある。】推古紀の歌に蘇我の大臣を「蘇餓能古羅(そがのこら)」と詠んでいる。【武烈紀の歌に、鮪臣(しびのおみ)を「思寐能和倶吾(しびのわくご)」、継体紀の歌に毛野の臣を「ケ(りっしんべん+豈)那能倭具吾(けなのわくご)」と詠んでいる。「わくご」は若子である。また女を言ったのは朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌に三重の采女(女+采)を「美幣能古(みえのこ)」と詠み、万葉にも「子」、「兒等(こら)」と詠んだ例が多い。】なおこの句も、書紀には「固邏餓(こらが)」とある。○久夫都都伊(くぶつつい)は頭椎(くぶつつい)で、上巻の天降りの段に「天忍日命と天津久米命の二人は頭椎(くぶつち)の太刀を取り佩き」とある。この刀のことは、そこ【伝十五の七十七葉】で言った。「つつい」は「槌(つち)」ということだ。上代には、槌のことを「つつい」とも言ったのか。あるいはここの歌の調子に合わせて延ばして言ったかも知れない。これはある特定の刀を指して言うのではない。ある形に作ったもので、上に「各人に太刀を佩かせて」とある、その太刀である。○伊斯都都伊母知(いしつついもち)は石椎以(いしつついもち)である。石椎は、上の頭椎と同一物だが、そちらでは形を言い、こちらは石で作ったということによる名である。【上古の剣で、頭が石で作られているのを見たことがあると谷川氏は言っていた。このことは、上巻の頭椎のところで言った。師は石靭(いわゆぎ)のたぐいだと言ったが、それは堅固という意味で石と言ったので、みな「いわ」と言い、「いし」とは言わない。なお弘仁私記で「その頭が石に似ていた」としているのも間違いだ。】○宇知弖斯夜麻牟(うちてしやまん)は「撃ちてし止まん」で、「し」は助辞である。これは単に「撃とう」と言っても足りるのだが、それを極めて強く言ったので、撃たないではおかないぞといったことだ。書紀では、この句で歌を閉じており、後の句はない。○久米能古良賀(くめのこらが)。前に出たのと同じ。「ら」があってもなくても、意味は変わらない。○伊麻宇多婆余良斯(いまうたばよらし)は、【「余」の字は、旧印本および一本に「正字は尓(やねに小)」とある。ここでは真福寺本およびある一本によった。】前半は「今撃たば」で、後半は「善らし」だ。今の世の俗言で言う「良さそうだ」という意味である。「らし」は「櫻散るらし」、「しぐれふるらし」など、普通に言う「らし」だ。【「桜散るらし」も俗言で「桜が散るそうな」という意味である。すべて「らし」というのはこの意味と考えてよい。ところで「善らし」なら「善からし」になりそうなものなのに、「よらし」というのはどうかと思われるだろうが、万葉に「煮らし」など言うこともあるから、古言ではこうも言ったのだろう。師が「將宜」であると言ったのはもっともだ。契沖は「余」の字が「尓(に)(正字はやねに小)」とある本に基づいて、「これは『煮らし』であって、八十膳夫に撃たせたから、今撃てば煮上がるといった意味か。もしくは『似らし』かも知れない。『似る』というのは『善い』ということだ。『不肖』とは良くない人を言うが、『肖』は『似』の意味である。これを考え合わせよ」と論じたが、「煮」も「似」も間違いだ。膳夫だからといって、「煮よう」というのは、ここには合わない。また「似」を「良い」とする証拠に「不肖」という言葉を挙げたのも不適切である。古言と漢語を混同してはいけない。】軽嶋の宮(應神天皇)の段の歌でも「伊邪佐佐婆、余良斯那(いざささば、よらしな)」と言って歌を閉じている例がある。これと同じだ。そこ【伝卅二の六十七葉】で言うことも参照せよ。【以前は、その歌が書紀に「伊弉佐伽婆曳那(いざさかばえな)」とあるのと、そちらもこちらも「余」の字が「尓(やねに小)」とある本によって、「尓良」の二字を「延(え)」の誤字と見て「えし」と読んでいたが、考えてみるとやはり良くなかった。】○如此歌而は、師が「かくうたうときに」と読んだのも、事情がよく分かっていいが、【前文に「歌を聞かば」とあるから、歌う人と敵を斬る人は異なっているはずなのに、「こう歌って」と言うと、歌う人も斬る人も同じようで、何だか様子が違って聞こえるからだ。】「而」の字を書いているので、やはり「うたいて」と読んでいい。それは歌い手と斬る人は違うけれども、同じ味方のすることだから、一連のこととして書くのこそ古文の書き方だろう。【あるいは本来「聞2如レ此歌1而(かくうたうをききて)」とあったのが、「聞」の字が脱落したかとも思ったが、そうではない。】書紀には「その時、兵士たちはこう歌っているのを聞き、みな頭椎の剣を抜いて、一時に敵どもを残りなく殺してしまった」とある。

 

然後將レ撃2登美毘古1之時歌曰。美都美都斯。久米能古良賀。阿波布爾波。賀美良比登母登。曾泥賀母登。曾泥米都那藝弖。宇知弖志夜麻牟。又歌曰。美都美都斯。久米能古良賀。加岐母登爾。宇惠志波士加美。久知比比久。和禮波和須禮士。宇知弖斯夜麻牟。又歌曰。加牟加是能。伊勢能宇美能。意斐志爾。波比母登富呂布。志多陀美能。伊波比母登富理。宇知弖志夜麻牟。

訓読:そののちトミビコをうちたまわんとせしときのオオミウタ、「みつみつし、くめのこらが、あわふには、かみらひともと、そねがもと、そねめつなぎて、うちてしやまん」。また、「みつみつし、くめのこらが、かきもとに、うえしはじかみ、くちひびく、われはわすれじ、うちてしやまん」。また、「かむかぜの、いせのうみの、おいしに、はいもとおろう、しただみの、いはいもとおり、うちてしやまん」。

歌部分の漢字表記(旧仮名):(1)みつみつし、久米の子らが、粟生には、韮一莖、其根が莖、其根芽繋ぎて、撃ちてし止まむ。
(2)みつみつし、久米の子らが、垣下に、殖ゑし薑、口ひびく、吾は忘れじ、撃ちてし止まむ。
(3)神風の、伊勢の海の、大石に、蔓延ひ廻ろふ、細螺の、い蔓延ひ廻り、撃ちてし止まむ。

口語訳:その後、登美毘古を撃とうとするときの歌は、「みつみつし、久米の子らの粟畑には、韮(にら)が一本生えている。そいつを同類ともども、討ち滅ぼしてしまおう」。また歌って、「みつみつし、久米の子らが、垣のところに植えた薑(はじかみ)はとても口に辛い。その辛さを忘れず、撃ってしまおう」。また歌って、「神風の、伊勢の海の大石にびっしり取り付いた細螺のように、敵を打ち囲んで、撃ってしまおう」。

然後は、ここでは「そののち」と読む。○登美毘古(とみびこ)は、前に舟が白肩の津に着いた時、軍勢を率いて待ち受けていた、登美能那賀須涅毘古(とみのながすねびこ)のことだ。書紀には、「十二月癸巳朔丙申、皇軍はついに長髄彦を攻撃したが、連戦しても勝てなかった。ところが戦いの最中、空が急に陰って、氷雨が降ってきた。そこへ金色のふしぎな鵄(とび)が飛んできて、天皇が持つ弓の上に止まった。その鵄は煌々と光を放ち、まるで稲妻のようにあたりを明るく照らした。このために長髄彦の軍勢は、みな目が眩んで、戦うことができなくなった。・・・以前孔舎衛(くさえ)での戦いで、五瀬命が長髄彦の矢に当たって死んだことを、天皇はずっと恨みに思っていたので、今度こそは奴らをみんな殺してしまおうと思った。そこで詠んだ歌は云々」とある。○歌曰は「おおみうた」と読む。○阿波布爾波(あわふには)は「粟生には」である。書紀の神代下巻に、「粟田・豆田」とあり、和名抄に「弘仁私記にいわく、粟田は『あわふ』」とある。「ふ」は麻生、浅茅生(あさじふ)、蓬生(よもぎふ)などの「ふ」で、そのものが他に比べてたくさん生えているところを「〜生」と言うのである。【書紀に「田」の字が書いてあるのにこだわってはいけない。万葉には「苧原(おふ)」などと、「原」を書いていることもある。】書紀では、この上に「介耆茂等珥(かきもとに)」という一句がある。しかしここには、それはない方がいい。<訳者註:この項の「ふ」は、現代語では音便で「お」になっていることが多い。論旨が「ふ」にあるため、旧仮名使いのままにしてある>○賀美良比登母登(かみらひともと)。「みら」は韮である。和名抄には、「薤は和名『おおみら』、韮は和名『こみら』」とあり、新撰字鏡には「薤は『なめみら』、韮は『ただみら』」、また「ミラ(くさかんむりに目、下に心)は韮である。『みら』」とある。万葉巻十四【十八丁】(3444)に「久君美良(くくみら)」ともある。【「茎韮」だろう。】ところが「かみら」というのは、本には見えない。別の一種があるのだろうか、または単に韮であって、臭韮といったのかも知れない。越前国敦賀郡の鹿蒜(カヘル:かえる)も、臭蒜(かひる)の意味か。延喜式神名帳には「加比留(かひる)神社」とある。【釈日本紀には、「大韮のことだ」とあるけれども、拠り所が分からない。契沖は「『か』は『か青』、『か黒』などの『か』で、接頭辞か」と言ったが、あまりそういう気はしない。また延佳は和名抄の「こみら」を引いたが、「こ」の通音で言ったような気もしない。】「みら」は、後世には「にら」と言っている。「ひともと」は「一茎」だ。書紀の允恭の巻に「蘭一莖(あららぎひともと)」とある。上巻の八千矛神の歌にも、「一本薄(ひともとすすき)」とあった。○曾泥賀母登(そねがもと)は、「其根が莖」である。書紀で「泥(ね)」を「廼(の)」と書いてあるのは、楽府(うたまいのつかさ)で歌い訛ったものだろう。【この句を、書紀に基づいて、釈日本紀でも、また契沖も、「其のがもと」と解したのは誤りだ。「其のが」などという言い方があるはずはない。「の」と「が」は同じ意味なので、「のが」などと重ねて言った例はない。万葉巻三(236?)に「しひるしひのが云々」、また巻十四(3402)に「せなのがそでも云々」とあるが、これらは意味合いが違う。しかも次の句に「そね」とあるのだから、ここも「そね」でなくては筋が通らない。書紀に「曾廼(その)」とあるのを根拠に、この記の「そね」も「その」の意味だと思うのは、いよいよ誤っている。「の」は通音で「な」と言うことがあるが、「ね」と言った例はない。】ところで、「その」を「そ」とだけ言ったことは、古言では普通のことで、「その某」を「そ某」と続けて言うのは、「そのところ」を「そこ」と言うのと同じだ。【「その」という言葉は、「これ」、「おのれ」、「吾(われ)」、「彼(かれ)」、「誰(たれ)」などと同じく、下に「れ」が付くこともあれば、「の」、「が」とも活用し、あるいは下を省いて「こ」、「お」、「わ」、「か」、「た」とだけ言うこともある。また下に続く言葉がある時、「ここ」、「此度(こたび)」、「己妻(おのづま)」、「吾君(わぎみ)」なども言うから、「其の根」を「そね」と言うこともあるだろう。】「根が茎(ねがもと)」と言うのは、一般に木草の「もと」とは立っている幹(から)のことで、【必ずしも先端に対して、下の方を言うのではない。】大祓の祝詞に「繁木本乎(しげきのもとを)」とあるのも繁の木立のことで、孝徳紀の歌(大化五年三月)に「模騰渠等爾波那播左該騰摸(播の字は底本でハン<木+番>となっている)(もとごとにハナはさけども)」とあるのも、木ごとに、ということである。また「一もと」、「二もと」などと言うのも、木では「一木」、「二木」と言うのと同じことで、草もその意味で立っている茎を指して言う。ところが韮は、地中に隠れた根の部分も茎になっているので、そこを「根の茎(もと)」と言う。【ただの根でも「根の茎」と言えるが、ここはそうではないだろう。】韮は特に根の部分を重視するものだから、こう詠んだのだ。【漢籍でも本草に「禮記で韭を『豊本』と言う。おいしのは根である。薤は白いところがおいしく、韭は黄色いのがおいしい。黄色い部分は、地上に出ていないところである。」と言い、韭の茎を韭白、根の部分を韭黄と言っている。これらを考えよ。なお韭と韮は同じである。】○曾泥米都那藝弖(そねめつなぎて)は、「其根芽繋ぎて」である。上で「そねが茎」と言って、また「そね」と言うのは、古歌の通例だ。【書紀の神代巻の歌で「石河片淵片淵(いしかわかたぶちかたぶちに)」と歌ったような例が多い。】「芽」は「根の茎」に対し、土の上に萌え出た茎のことだ。【上記の漢籍で韮白というのがこれである。釈日本紀でも契沖も「その妻(め)である」と言っているのは誤っている。「妻」の意味だとしたら、韮のことを言ったのは、何の関係があるというのか。しかもこの記では、「女」、「妻」の「め」には「賣」だけを仮名に用い、「米」を使った例はない。これは延佳が「芽」としたのこそ正しい。】すべて「芽」は「萌え」が縮まった語である。【また「萌え」は「芽生え」が縮まった語でもあろうか。「めは」は「ま」に縮まるのを、通わせて「も」と言ったか。万葉に「目生(もえ)」と書いた例がある。】書紀の斉明紀の歌(四年五月)に「都那遇何播杯能倭柯矩娑能(つなぐかわべのわかくさの)」とある「都那遇(つなぐ)」は、他のところへ行かせないことを言う。ここもその意味で、根も芽も合わせて残さずに、ということだ。この根は登美毘古、芽はその党類を喩えて、みな許さず漏らさず、ことごとく討ち滅ぼそうと言っている。【契沖いわく、「こう詠んだのは、書紀に『意欲窮誅(奴らをみんな殺してしまおうと思った)』とあるのと同意だ」】○この御歌は、初めに「久米の子らが粟生」と詠んだ理由はと言うと、皇軍が大倭国に入って以来、あれこれの敵と戦って平定するには年月がかかっただろうから、その兵士たちが食っていくためには、穀物などを作らなければならなかった。だから久米部の人々は、粟を作ったと思われる。その粟生は近隣の地にあり、天皇も直接見ることがあったため、そう詠んだのだろう。【契沖は、「これは仮定のことを言ったのだ。実際は、この時はまだ、久米部の粟生は大和国にはなかった」といったのは、書紀の年代観によると、一応そうも考えられるが、さらによく考えると、仮定の話なら粟生と久米部は何の関係もない。それ以上に結びつける理由があるわけでもない。そこで考えるに、書紀によると皇軍が大倭に入って、まず兄猾(えうかし)を討ったのは戊午の八月で、この長髄彦を討ったのが同年十二月だから、それなら粟田を作る暇はない。しかし書紀の年紀が正しいとも限らない。初め日向を発って大和に上る年数も、この記と書紀では十年あまりの差がある。大倭に入ってからの年数も、またそれになぞらえて考えればいい。この書紀の年紀のことは、後に言う。】ところで、穀物の中でもここで粟生を言っているのは、いにしえには粟を特に多く作っていたらしく、このものがよく言われる。【奈良京の頃に至っても、ものの喩えに「粟蒔く」などと詠んだ歌が、万葉などにちらほら見える。】とすると、久米部が作っていた粟生の中に、韮が一本混じって生えていたのを見て、それに喩えて作った歌である。【書紀に「久米の子らが垣下(かきもと)に」とあるのは、敵をもう手中にしたと思った意味の歌だと契沖は言ったが、そういう意味はありそうなはずがない。この歌は十二月に詠んだものだから、その頃は粟はなかったと言うのだが、それも書紀の「十二月」にこだわりすぎている。その時天皇の目に入らなかったら、韮のことを言うのに、縁もない粟生のことを言うはずはない。だからこの歌は、実際に粟が畑にある時の歌である。この歌などを見ても、書紀の年月は疑わしいのである。】○又歌曰は、「また」と読む。【これを字の通りに読むと、上の「歌曰」を「おおみうた」と読んだのに対し、語のつながりが悪い。次も同じである。○加岐母登爾(かきもとに)は「垣下に」だ。これも久米部の軍営の垣のところに植えたのを見て詠んだのである。○宇惠志波士加美(うえしはじかみ)は「植えた薑(はじかみ)」である。薑は今でも単に「はじかみ」と言うが、和名抄には「生薑は和名『くれのはじかみ』、俗に『あなはじかみ』、乾薑は和名『ほしはじかみ』」と見え、新撰字鏡には「干薑は『くれのはじかみ』」とある。【これらに「くれの」とあるのは、どういう理由からだろうか。○加賀国加賀郡に「波自加彌(はじかみ)神社」というのが延喜式神名帳に見える。また皇太神宮では四月十四日の祭りに、遠江の神戸から進上した種薑(たねはじかみ)を献げる神事がある。年中行事に見える。】○久知比比久(くちひびく)は契沖いわく、「口響く」である。薑を食べると、辛みが後まで口に残り、疼くことを言う。これは音が響くのに似ているからと言う。「はじかみ」という名も「歯蹙(はしかみ)だ」と谷川氏が言ったのもこの意味で、よく当たっている。【「蜀椒(なるはじかみ:山椒のこと)」も辛くて歯が蹙(しか)む意味で言い、同じ名になっている。「なる」とは木に成るものだからだ。】これは薑を見て、これを食うと後まで口が疼くように、と言って、次の句の喩えにしたのだ。【この時に天皇がこれを食べて、後まで口に辛さが残ったわけではない。○「比比久」を書紀で「弭比倶(びひく)」とあるのは、「比弭(ひび)」を上下誤ったのだろう。「弭」の字は濁音である。】○和禮波和須禮士(われはわすれじ)とは、「私は忘れない」ということで、前に五瀬命が登美毘古の痛矢串を受けて死んだ、その恨みを命ある限り忘れないぞ、ということだ。【この意味は、上で引いた書紀の文に見える。】上巻の日子穂々手見命の歌に「妹は忘れじ世のことごとに」とあるのと同意だ。この「士」を諸本「志」と書いているのは誤りである。ここでは古い写本によった。記中、濁音なら「士」を書くのが通例だからだ。書紀では「儒(ず)」としてある。【「ず」なら、今も忘れていないという意味になる。】次の句に関連して思うと、「ず」の方が優っている。○加牟加是能(かむかぜの)は「神風の」である。この枕詞については、師の冠辞考に書いてある。【契沖は、万葉巻二の人麻呂の歌を引いて「天照大神が吹かせる風」と言ったが、誤りだ。神武天皇の御代、まだ天照大御神は伊勢に鎮座していなかった。】○意斐志爾(おいしに:旧仮名オヒシニ)は「大石(旧仮名オホイシ)に」だ。「ホイ」を縮めると「ヒ」になり、書紀には「於費異之珥夜(おおいしにや)」とある。【「や」は歌の調べに合わせて添えただけで、意味はない。「費(ほ)」をここで「ひ」と読むのは間違っている。】○波比母登富呂布(はいもとおろう)は「蔓延廻」である。「もとおる」の「る」を延ばして「ろう」と言うのは古言では普通だ。「もとおる」はめぐることで、新撰字鏡に「テン(亶+しんにょう)(底本正字は面の下に且+しんにょう)またはセン?(亶+走)(底本正字は面の下に且+走)は轉である。『もとおる』」とある。万葉巻四【十六丁】(509)に「磐間乎射往廻(いわのまをいゆきもとおり)」、巻九【二十一丁】(1751)に「島山乎射徃廻流河副乃(しまやまをいゆきもとおるかわそいの)」、巻十七【十八丁】(3944)に「をみなべし咲きたる野べをゆきめぐり、君を思ひ出たもとほりきぬ」、また【三十六丁】(3991)「之夫多爾能佐吉多母登保理(しぶたにのさきたもとおり)」、巻十八【七丁】(4037)に「乎敷乃佐吉許藝多母等保里(おふのさき、こぎたもとおり)」などがある。【この他にももっとある。】また巻十九【三十一丁、三十二丁】に(4227)「大殿之此廻之(おおとののこのもとおりの)云々」、(4228)「大殿乃此母等保里能(おおとののこのもとおりの)云々」とあるのは体言(名詞)として使ったので、「このまわりの」ということである。【衣服などの「縁(もとおり)」も俗に言う「へり」のことで、「周囲の」ということだ。】ところがこの句は、書紀では「伊波臂茂等倍屡(いわいもとおる:イハヒモトホル)」とある。【「倍」はここでは「ほ」の仮名に使っている。下の句も同じ。この字は「ほ」に使った例もある。これを「へ」と読むのは誤りである。いずれも「へ」では当てはまらない。】○志多陀美能(しただみの)は「細螺の」である。和名抄に「崔禹錫食経にいわく、小ラ(羸の下の羊を虫に置き換えた字)子は甲ラ(上と同字:かたつむりか)に似て小さいものである。口に白い玉盖(サザエの殻の蓋に似たものか)がある。楊氏漢語抄にいわく、細螺は『しただみ』、また玉盖は和名『しただみのふた』」とあり、万葉巻十六【二十九丁】(3880)に「机之島能小螺乎伊拾持來而(つくえのしまのしただみをいひりいもちきて)、石以都追伎破夫利(いしもちつつきやぶり)云々」、大嘗祭式に「細螺(しただみ)二十坩」とある。拾遺集の「物の名」にも見える。【その歌(413)は、「東にてやしなはれたる人の子は、舌たみてこそ物は云ひけれ」○谷川氏いわく、「細螺は吐ケン(口+見)を『つだみ』ということからすると、舌吐(しただみ)だろう。今『きしゃご』、または『ちしゃご』というものだ。玉盖は本草に『相思子』と言っている物で、今は俗に醋貝(すがい)というのがそうだ」と言った。またある人は「『しただみ』は、さざえに似て角がないものだ。『ちしゃご』とは違う」と言う。またある人の言うには、山形をして物に付いている貝だという。また荒木田久老の言うところでは、「志摩国で今も『しただみ』と言い、『尻高(しりだか)』とも呼ぶ。ところが『ふくだみ』というものがあり、この名と考え合わせると、『しただみ』は『尻高(しりたか)だみ』、『ふくだみ』は『低たみ』の意味であって、『だみ』はこの類の総称か」と言った。】この二句は、倭建命の歌に「伊那賀良邇波比母登富呂布登許呂豆良(いながらにハイモトオロウところづら)」とある【「稲柯(いながら)に延廻(はいもとおろ)うトコロ(くさかんむり+解)葛(ところづら)」である。】ように、たくさんの細螺が隙間なく連なって大石に付着しているのが、蔦などが伸びて大きな石を取り巻いているように、ということで、【もぞもぞ動いて這っているのではない。倭建命の歌の前に「御陵を作って匍匐(はらばい)廻(もとおり)」とあり、万葉巻三(458)に「若子乃匍匐多毛登保里(わくごのはいたもとおり)」とある「匍匐」と同じように考えてはいけない。匍匐も蔓延も、元は同じなのだが、言っていることは違う。次の句の喩えだ。この後に「如く」という言葉を添えて考えるべきである。】書紀では、この次にまた「之多太瀰能(しただみの)」、次に「阿誤豫阿誤豫(あごよあごよ)」、次に「之多太瀰能」という三句がある。【このように同じ言葉を何度も繰り返したのは、楽府(うたまいのつかさ)で歌っていたのをそのまま書いたのだ。】ここで、近いわけでもない伊勢の海のことを取り上げて歌ったのは、前にも言ったように、先に熊野を通過して、伊勢との境の錦の浦まで行き、その時天皇が伊勢の海を見て、目に留めたからだろう。【上代には、歌ったところに何の由縁もない他国のことを引っ張り出して詠んだことはなかった。紀の国の錦の浦から、今の道で五里ほど東に、伊勢国度会郡の「贄(にえ)の浦」というところがある。その十町ほどの海中に、大石と言って大きな岩がある。この歌に詠んだ大石はこれだろう。今もその石に細螺がたくさん付着しているのを、地元では「しりじろ」と言う。そのあたりの人が山詣でをする時、山越えの険しい道があって、往復に七日ほどかかるという。このことは天明三年の冬、荒木田久老が自分でその浦まで出かけて見聞きしたと語ったことだ。その大石も見たそうだ。】○伊波比母登富理(いはいもとおり)は「蔓延(はい)廻(もとお)り」で、「伊」は発語である。これはその細螺が隙間なく、おびただしく大石を取り囲んでいるように、登美毘古の軍の周囲を、千万の皇軍が取り囲んでいることを言う。蔓延(はい)とは、皇軍が長く隙間なく続いている様子だ。【契沖は上の国ある「波比(はい)」を匍匐の意味に取り、この句も「上の注と同様」と言ったが、書紀の「倍」を「へ」の仮名と考え、「イハヒモトヘリ」と読んで、この句も細螺のことと解したのである。この説は誤っている。「倍」はここでは「ほ」の仮名で、この記に「富」とあるのと同様、「イハヒモトホリ・ウチテ」と、次の句へ続くのだ。だからこの句は皇軍の様子を言っており、細螺のことを表現したのではない。また小さい敵と思って、細螺に喩えたというのも違う。細螺は皇軍の喩えなのである。】万葉巻二【三十五丁】(199)に「鶉成伊波比廻(うずらなすいはいもとおり)」【巻三の十三葉(239?)にも同じ言葉がある。】など言っているのと、言葉は同じだが意味が違う。○書紀では「撃ちてし止まん」という句も二度言う。またこの歌は前記の国見岳の八十梟帥を討ったときの歌として、「於佐箇廼(おさかの)云々」の歌の前にある。この歌の次に「歌の意味は『大石』で國見岳を喩えたのだ」と注がある。これらはこの記と異なる伝えである。

 

又撃2兄師木弟師木1之時。御軍暫疲、爾歌曰。多多那米弖。伊那佐能夜麻能。許能麻用母。伊由岐麻毛良比。多多加閇婆。和禮波夜惠奴。志麻都登理。宇《上》加比賀登母。伊麻須氣爾許泥。

訓読:またエシキ・オトシキをうちたまえるときに、ミいくさシマシはつかれたりき。そのときのオオミウタ。「たたなめて、イナサのやまの、コノマよも、いゆきまもらい、たたかえば、われハヤえぬ。しまつとり、ウカイがとも、いまスケにこね」。

歌部分の漢字表記(旧仮名):盾並めて、伊那佐の山の、樹間よも、い行きまもらひ、戦へば、吾はや飢ぬ、島つ鳥、鵜養が伴、今助けに來ね。

口語訳:また兄師木・弟師木を攻めた時、皇軍はやや疲れて気力をなくした。その時の歌に、「盾を並べて、伊那佐の山の木の間から、敵を伺い守りを固め、戦っていると、お腹が空いた。島つ鳥の鵜飼いたちよ、早く助けに来てくれ」。

「撃2兄師木弟師木1(えしき・おとしきをうちたまえるときに)」。書紀には「兄磯城の兵は磐余の邑に満ちあふれていた」、また「十一月癸亥朔己巳、皇軍が大挙して磯城彦を攻めようとした時、まず使者を遣わして、兄磯城を召そうとしたが、兄磯城は承けようとしなかった。云々」【書紀では、このことが詳しく書かれている。その文は長いので、ここでは省く。本を参照せよ。】とある。「師木」は大和国の地名で、城上・城下郡がこれである。この地のことは、水垣の宮(崇神天皇)の段【伝二十三の二葉】で述べる。この兄弟は、地名を名に負っている。書紀に「磯城彦」とあるのは、【登美毘古のたぐいだ。】兄弟を合わせて呼んでいる。「弟猾はまた、『倭国の磯城の邑に磯城の八十梟帥がいる』と言った」とあるのも、この磯城彦の党類を言っているのだろう。ところが弟師木は書紀では八咫烏を遣わして召すと、早々に天皇の命に従い、忠実に仕えたので、後に「弟磯城、名は黒速(くろはや)は、磯城の縣主とした」とある。それをこの記では、兄弟共に討ったように書いてあるのは、まだ弟が仕える前のことだからこう言ったのだろう。○御軍暫疲(みいくさしましはつかれたりき)。暫は「しましは」と読む。【「は」は「者」である。】万葉に「之麻志(しまし)」、あるいは「思末志久母(しましくも)」などとある。【師は歌の詞によって、「暫の字は飢の誤りだ」と言ったが、書紀に「不レ無2疲弊1(つかるることなきにあらず)」の「不無」も「しまし」の意味だ。】こう言ったのは、最後には勝ったけれども、行軍の最中にはしばらく疲れたこともあるからだ。書紀には「この後、皇軍は攻めれば必ず敵を取り、戦えば必ず勝った。しかしながら、兵士たちが疲れたこともないではなかった。そのとき天皇は幾つか歌を作って兵士の心を慰めた。その歌に云々」とある。○爾歌曰は(そのときのオオミウタ)と読む。○多多那米弖(たたなめて)は「盾並めて」である。成務天皇の御陵の「たたなみ」を書紀では盾列と書き、「これを『たたなみ』と言う」とある。ここと同意の地名だ。【ただし「なめ」は、人が(盾を)並べることを言い、「なみ」はそれが並んでいることを言う。また「盾」を「たた」と言うのは、稲を「いな」、酒を「さか」、船を「ふな」などと言うのと同格である。】この句は、契沖の言うところでは二つの意があるだろう。一つには盾を立て並べて射るという意で、次の句の「伊」に掛けた序辞か。戦いにはまず盾をしっかり立てて、敵の矢に当たらないようにした後で、弓を射るものだからだ。二つには序辞ではなく、実際に盾を並べたという意味か。万葉巻十七(3908)に「楯並而伊豆美乃河波乃(たたなめていずみのかわの)云々」と詠んでいるのも「伊」の一言に掛かる序なのか、もしくは泉川はもと「挑み川」だから、楯を並べて互いに挑み合ったという意味で続けたのか。これも二通りに解せると言った。【万葉にあるのは、いずれにしても序辞だ。】今考えると、確かに二通りの意味が含まれているようだ。後の意味なら、下の「たたかえば」というところに掛かると解すべきである。【師はともに「伊」の冠辞と確信していた。】○伊那佐能夜麻能(いなさのやまの)。この山は大和国城上下両郡のどこかにあると契沖は言った。【師は城上郡にあると言った。】大和志に「一名を山路山と言い、宇陀郡山路村の方にある」と断定的に言っているが、例によって信じがたい。【「いなさ」という地名は遠江<引佐郡>、出雲<伊那佐の小浜>などあちこちに見えるが、大和ではこの他に見えない。書紀のこの段には、阿坂、墨坂、菟田川などのことは出ているが、この山のことは見えない。】後に考察がある。<訳者註:現在宇陀郡の榛原に伊那佐山がある>○許能麻用母(このまよも)は「樹間(このま)よりも」のことだ。「も」は助辞である。「より」の「り」を省いて「よ」とだけ言っているのは古言だ。【これを「ゆ」と言うことは誰でも知っているが、「よ」とも言うことを知っている人は少ない。そこでこのことを少し詳しく言う。】万葉にも巻五【十九丁】(848)に「久毛爾得夫久須利波武用波(くもにとぶクスリはむよは)云々」、巻十四【十丁】(3396)に「乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能(オツクバのしげきコノマよたつとりの)」、また【十三丁】(3417)「與曾爾見之欲波(よそにみしよは)」【仙覚抄にいわく、「東方方言では、賤しい者は、今も『より』を『よ』と言う」とある。】また【十四丁】(3425)「安素乃河泊良欲(あそのかわらよ)」、【十七丁】(3439)「伊毛我多太手欲(いもがただてよ)」、【十八丁】(3449)「麻久良我欲安麻許伎久見由(まくらがよアマこぎくみゆ)」、【二十九丁】(3590)「兒呂我可奈門欲由可久之要之毛(ころがかなどよユカクシえしも)」、巻十五【三十八丁】(3783)に「許欲奈伎和多流(こよなきわたる)」、巻十七【七丁】(3890)に「安我松原欲見度婆(あがまつばらよみわたせば)」、巻十八【十丁】(4054)に「保等登藝須許欲奈枳和多禮(ほととぎすこよなきわたれ)」、また【二十一丁(4094)、三十一丁(4119)、三十二丁(4122)】に「伊爾之敝欲(いにしへよ)」、【二十三丁】(4101)に「和可禮之等吉欲(わかれしときよ)」、巻十九【十三丁】(4160)に「天地之遠始欲(あめつちのトオキはじめよ)」などとある「用」、「欲」はみな「より」の意味である。記中で「より」を「よ」とだけ言った場合は「用」の字のみを用いており、「由」を書いた例は一つもない。ところが書紀では、この記と同じ歌もその他でも、みな「由」とのみ書いて、「用」と言った例はない。万葉では「用」とも「由」とも書いてある。【この記の歌で「より」の意味の「用」を、延佳本でみな「由」に改めてあるのは間違いである。それは書紀でみな「由」と書いてあるのになずんで、「用」とも言ったことを知らず、賢しらに改めたみだりごとだ。旧印本でもまたの一本でも、みな「用」と書いてあるのを採用すべきだ。また師は、「用」の字の方を取っていながら、それを「ゆ」と読んだけれども、この記で「用」は「よ」の仮名にのみ用いて、「ゆ」に使った例がないから採用できない。この言葉は、書紀で「由」とばかり書き、万葉にも「従自」などと書いてあるのが、同じ言葉であるのを、今の本でどれも「ゆ」と読んでいるのに慣れてしまって、誰も「よ」という古言があるのを知らず、「欲」と書いた字さえ「ゆ」と読んでいる誤りもあるのは何事か。「欲」を「ゆ」の仮名に使った例は一つもない。「従自」も、上記の例で「よ」と読むのが当然で、「ゆ」などと読むと決めつけてはいけない。】とすると、いにしえには「より」を「よ」とも、あるいは「ゆり」、「ゆ」とも通わせて用いたわけだ。【書紀の崇神の巻に「於朋耆妬庸利(おおきぎより)云々」とあるから、「より」と言うのも上代からの言葉だ。これを必ず「り」を省くものと決めてかかるのも誤っている。また「ゆり」と言った例は、万葉巻二十の十五葉(4321)に「阿須由利也(あすゆりや)」と見える。】○伊由岐麻毛良比(イゆきまもらい)は「行候」であって、「伊」は発語である。【いにしえには「い」を発語に置く例が多いが、「い行き」という例は特に多い。】「まもり」の「り」を延ばして「らい」と言うのも、古言では普通だ。その「まもる」は、万葉巻七【三十九丁】(1390)に「淡海之海浪恐登風守、年者也将経去榜者無二(おうみのみナミかしこしとカゼまもり、としハヤへなんコグとはなしに)」【「風守」は風の様子(風の強さや方向)を候(うかが)い見ることだ。】とある風守のように、敵の様子を考察し候(うかが)うことを言う。上に「木の間よも」とあるのも、敵に察知されぬようひそかに候うことだ。【「まもる」とは、身を守るのと、目を離さずじっと見るのと、二つの意味を含んでいると考えるべきかと契沖は言ったが、それは派生的なことであって、本来の意味ではない。「まもる」とは、本来は候い見る意味で、目を離さずに見るのも、物が損なわれないように守るのも、これから派生した。また「さもらう」という言葉も「もる」を延ばして言った語である。】書紀のこの段に「椎根津比古が策略を考えて、『まず忍坂の道から私が女軍(めいくさ)を出せば、敵はそれを見て、全力で当たろうとするでしょう。その時に勁卒(おいくさ)を馳せて墨坂に直行して、菟田川の水を炭火に注ぎ、不意を突いて攻撃すれば、敵を破ることができるでしょう』と言った。天皇はこの作戦を良しとして、まず女軍を出して戦わせたところ、敵は『大軍が来た』と思い、総力で対抗してきた。そこで男軍に墨坂を越えて敵の背後から攻めさせて撃破し、その梟帥(首領)、兄磯城を斬った」とあるのを考えると、【「女軍」とは女々しく弱い軍、「男軍」とは雄々しく強い軍を言う。上に「勁卒」とあるのがそうだ。契沖が「追っ手、搦め手か」と言ったのは当たっていない。これはまず弱い軍を出して敵を欺く計略なのだ。また炭火を置いて水を注いだのは、その音で敵を驚かす策略だろう。炭火に水を注ぐと、大きな音がして鳴り轟くものだからである。】まず弱い軍を出して戦わせることで、敵に油断させ、その様子を伺い見ながら、伊那佐山の木の間隠れに、ひそかに強い軍を移動させ、敵の背後に回ったのだろう。そう考えると、伊那佐の山というのは、つまり墨坂の元の名のように思われる。【墨坂という名は、この時に炭火を置いたことから起こったと、書紀のこの前の記事に出ている。】○多多加閇婆(たたかえば)は「戦えば」である。○和禮波夜惠奴(われはやゑぬ)は「吾は飢えぬ」で、「や」は歎きの助辞だ。「よ」と言うのに近い。水垣の宮(崇神天皇)の段の歌に、「美麻紀伊理毘古波夜(みまきいりびこはや)云々」とある「はや」と同じことだ。この他にも、歌の結尾に置かれることが多い。それは倭建命が「阿豆麻波夜(あづまはや)」と言ったところ【伝二十七の八十一葉】で言う。【「早」の意味に取るのは間違いだ。また「者哉(はや)」と考え、疑問の意味に取るのも良くない。】この「和禮(われ)」は天皇のことで、兵士たちの意味も含んでいる。「飢ゑ」の「う」を省いて「ゑ」とだけ言った例は、書紀の聖徳太子の歌に「伊比爾惠弖(いいにゑて=飯に飢えて)」とある。前の詞に「暫し疲れ」とあり、ここには「飢えぬ」とあるから、この戦でまず女軍を出して戦わせ、その後伊那佐の山を越えて敵の後方に回るなど、あれこれするうちに時間が経ったので、兵士たちは飢えて疲れたのだろう。○志麻都登理(しまつとり)は「島つ鳥」で、鵜の枕詞である。雉(きぎし)を野つ鳥、鶏(かけ)を庭つ鳥と言うたぐいだ。○宇《上》加比賀登母(うかいがとも)は「鵜飼いが徒」である。万葉巻十七【四十五丁】(4011)に「安由波之流奈都能左加利等、之麻都等里鵜養我登母波、由久加波乃伎欲吉瀬其登爾可賀里左之、奈豆左比能保流(アユハシルナツのさかりと、しまつとりウカイがともは、ゆくかわのきよきセごとにカガリさし、なづさいのぼる)」、巻十九【十二丁】(4156)に「島津鳥ウ(廬+鳥)養等母奈倍(しまつとりウカイともなえ)」などがある。いにしえは鵜を使って魚を捕ることがたいへん多かった。そのため公(宮廷)に仕えた鵜飼いもあり、職員令の大膳職のところに「雑供戸」というのがあるのを、令義解に「鵜飼い・江人(えびと)・網引きなどの類を言う」とある。万葉集をはじめ、世々の歌にも鵜河を詠んだ例が多く、物語書にも時々見える。中昔まで、どこでも川辺に鵜飼いがおり、今の世まで稀には残っている。「とも」はその党類をいい、万葉巻一【二十四丁】(53)に「處女之友(おとめのとも)」、巻六【二十六丁】(974)に「大夫之伴(ますらおのとも)」、巻十八【十二丁】(4061)に「之津乎能登母(しずおのとも)」などもある。この一節で「宇」の字の下にある《上》の字は、旧印本、また他の一本に大字で書いてあるが、これは上声に読めという注で、上巻に多く見える例はみな細字なので、ここも改めて小さく書いた。【延佳本ではこの「上」の字がない。歌では他に例がないので、さかしらに除いたのだろうか。】<訳者註:この現代語訳では、文字の大小を付けると煩瑣になるため、すべて同じ大きさとした>○伊麻須氣爾許泥(いまスケにこね)は、「今助に来ね」である。「いま」と言うところに「早く」という意味がある。【今の世でも、「早く」ということを強調して「今」、「ただ今」などと言うことがあるだろう。】「すけ」を普通「たすけ」と言うのは「手助け」のことで、語の基本は「すけ」である。諸司の次官【輔、副、助、介など】もみな「すけ」と言い、今の俗言でも助けることを「すける」と言う。「来ね」は「来い」と言うのと同じだ。「早く食い物を持って来て、兵士たちの飢え疲れたのを助けてくれ」という意味だ。人もいろいろあるが、その中でも鵜飼いを特に選び出して言ったのは、契沖が「以前吉野で、阿陀の鵜飼いの祖、贄持之子が食物を奉ったことがあるからだろう」と言ったが、たぶんそうだろう。「贄持(にえもつ)」という名も関連がある。あるいは、この時の戦闘で、この人から陣中に食物を差し入れる約束があったのかも知れない。【○師は「書紀と合わせ考えると、この歌の次に何か文が脱落しているのではないか」と言ったが、そうではない。前に登美毘古を討ったときの場面でも、歌だけを挙げて前後のことを省いていたのと同じだ。】○書紀では、上記のいくつかの歌【「宇陀能多加紀爾云々」の歌からここまでの六首、書紀にはあと二首あって計八首だ。その順序もところどころ違っている。】の終わりに、「これらの歌をみな來目歌という。これは歌った者の名を取って名としたのである」と言う。後の久米舞(正字はイ+舞)(くめまい)というのがこれだろう。【書紀では、例の「宇陀能多加紀爾」の歌の次に「これを來目歌(くめうた)と言う。今も楽府(うたまいのつかさ)がこの歌を奏するには、手量(手振り)の大小、また歌声の巨細にいにしえの様式が残っている」とある。これは舞う様子を言ったのである。そのことは前に述べた。】続日本紀に、天平勝宝元年十二月、天皇が東大寺に赴いて仏事を行った時、また同四年四月に岡寺の大仏開眼に赴いた時など、種々の歌舞音楽があった中に久米舞もあったことが出ている。【その頃までは、そういうこと(仏事)にもこの舞があったことから、他の機会にも当然行われたことが想像される。】その後は大嘗會に見える。三代実録に「貞観元年十一月十六日丁于の大嘗祭・・・十九日庚午、悠紀・主基両帳を撤去し、天皇は豊楽殿の広廂に出て、百官を集めて宴を催した。多治(たじひ)氏は田舞を奏し、伴・佐伯の両氏は久米舞、安倍氏は吉志舞、内舎人は倭舞、夜に入って五節を奏した。どれも古い様式のままだった」【元慶八年の大嘗会のところでも同様に書いてある。この舞を伴・佐伯の両氏が舞ったのは、久米部が後に大伴氏に下属したからである。佐伯は大伴氏から分かれた氏だ。これらのことは前に述べた。】貞観儀式の踐祚大嘗祭、午の日の段に「伴・佐伯の両氏は舞人を率いて儀鸞門から入場し、【左は伴氏、右は佐伯氏、五位以上が相分かれて並ぶ。】中庭の床子に着き、【所司があらかじめ準備する】久米舞を奏する。【廿人が二列になって舞う】」また「金作りの剣廿口、これは久米舞の道具」などとある。北山抄の同日午の日の記事にも同様に書いてあり、「舞人廿人、琴工(ことひき)六人、新式にいわく、所司は五位及び弾正琴の床子を準備する。また琴の台の床子を設置する。寛平記にいわく、王(みこ)四人が緋衣を着、末額(まっこう)、剣、靴を着けていた。承平記にいわく、舞台の東に供奉する舞人の前後の端にいる者は四位の袍を着用した。中間にいる者は五位の袍を着ていた。みな剣を帯び、頭を終(まと)い、剣を抜いて舞った。歌はなく、琴で伴奏した。舞は駿河舞に似ていた。【「弾正琴」というのは「弾琴工」の誤りだろう。また「終」も「絡」の誤りだろう。この舞のことは、その後江次第などにおりおり見えるのも、大体上記と同じである。兵範記に、「仁安三年十一月廿五日壬午・・・最初に國栖(くず)が笛と歌を奏した。次に伴・佐伯の両氏が久米舞を舞った。悠紀の方でこれを行い、両氏の五位は小忌(おいみ)を着て列になり、舞人廿人は冠、退紅(あらそめ)の袍、半臂、下襲、白い袴、冐(意味不明。かぶりものを言うか)、額剣(意味不明。冠から放射状に出ている小さな剣を言うか)などを身に着け、琴工六人が従っていた。舞台の北に並んで舞った。舞は駿河舞に似ていた。次に安倍氏が吉志舞を舞った。主基の方でこれを行った云々」とある。】と見えている。近世に至っては、この舞は絶えて行われなくなったそうである。【北山抄に引かれた承平記、また江次第などに「歌はなかった」とあるから、当時もう歌は伝わっておらず、舞だけが残っていたのだ。】初国所知看(はつくにしろしめ)した天皇の御代に始まり、それほどまでにめでたかった舞楽が絶え果ててしまったのは、何とも悔しく哀しいことである。

 

故爾邇藝速日命參赴白2於天神御子1。聞2天神御子天降坐1故。追參降來。即獻2天津瑞1以仕奉也。故邇藝速日命娶2登美毘古之妹登美夜毘賣1生子宇麻志麻遲命。<此者物部連。穗積臣。采女(女+采)臣祖也。>

訓読:かれここにニギハヤビノミコトまいきてアマツカミのミコにもうさく、「アマツカミのミコあもりましぬとききつるゆえに、おいてまいくだりきつ」ともうして、すなわちアマツシルシをたてまつりツカエまつりき。かれニギハヤビノミコト、トミビコがいもトミヤビメにみあいてウミませるミコ、ウマシマジノミコト。<こはモノノベのムラジ、ホヅミのオミ、ウネベのオミのおやなり。>

口語訳:ところが邇藝速日命は皇軍の陣営にやってきて、天神の御子に「天神の御子が天降ったと聞いたので、その後を追って参りました」と言い、天津瑞を献げて仕えた。この邇藝速日命が登美毘古の妹の登美夜毘賣を妻として生んだ子が、宇麻志麻遲命である。<これは物部連、穗積臣、采女(女+采)臣たちの祖である。>

邇藝速日命(にぎはやびのみこと)は、書紀に「饒速日、これを『にぎはやび』と読む」とある。名の意味は、「にぎ」は書紀の「饒」の字の意味で、邇々藝(ににぎ)の命を「天邇岐志國邇岐志・・・」とも言う「邇岐志」と同じだ。「速日」は上巻の「勝速日」の名のところ【伝七の五十三葉】で言った通りだ。○參赴は「まいきて」と読む。書紀ではこの二字を「もうず」、「もうけり」、「もうきつ」などと読んでいる。「もう(旧仮名マウ)」は「マヰ」の訛った言葉で、「けり」は「来たり」の意味である。この他、「詣至」、「参来」、「来朝」、「来帰」なども「もうけり」と読んでいる。高津の宮(仁徳天皇)の段に「麻韋久禮(まいくれ)」、万葉巻四【四十六丁】(700?)に「參來而(まいきて)」、巻廿【十一丁】(4298)に「麻爲許牟(まいこん)」などがある。○「白2於天神御子1(アマツカミのミコにもうさく)」は天皇に言ったのである。○「聞2天神御子天降坐1故(アマツカミのミコあもりましぬとききつるゆえに)云々」は邇々藝命のことだ。○追參降來(おいてまいくだりきつ)は、邇々藝命の後を追って、天から降ったのである。【天から降ったのを「参る」と言うのは普通ではないが、これは邇々藝命が既にこの地上に下っていて、それを尊んで「参る」と言ったのだ。】書紀のこの巻の初めに「そもそも鹽土の老翁(シオツチのオジ)に聞いたところでは、東の方に青山に囲まれた美しい地があるということだ。そこに、天の磐船(いわふね)に乗って天から飛び降った者がいる・・・その飛び降ったというのは饒速日という者だろうか」とあり、終わりにも「饒速日命は天磐船に乗って大空を翔り、この国を見て降ったので、『虚空見日本國(そらみつやまとのくに)』と言う」【日本國とは畿内の大和国を言う。】この邇藝速日命が天上から降った神であることは無論だが【新撰姓氏録でも、この神の子孫はみな天神の部に載っており、続日本後紀にも「天神饒速日命」とある。】どの神の御子か分からない。【新撰姓氏録にも、この神の父は記載がない。】考えるに、天照大御神の子孫ではなく、他の天神の御子だろう。【というのは、新撰姓氏録では通例、天孫、天神、地祇の三種があり、天照大御神の子孫を「天孫の部」、他の神の子孫を「天神の部」としているうち、この神の子孫は天孫に入れず、天神の部になっているからだ。それを先代旧事紀で天忍穂耳命の子、天火明命をこの邇藝速日命としているのは、他の古い書物の説と大きくちがっていて、全く偽りであることは、伝十五の九葉で言った通りである。だがこの神の天降りをたいへん重大事のように書き、「三十二の防衛の神、五部の人、五部の造、天物部、二十五部の人などをお伴に副えて降した」とあり、その神々の名を詳しく書いているのは、全く架空の話でもないようだ。思うにこれらは、実際には御孫の命(邇々藝命)の天降りの時のお伴で、古い本には伝わっていたのが、後世には埋もれたままに遺っていたのを取って、この邇藝速日命のことのように擬装した家伝があり、それを採用したもののように見える。】この神が天から降った時代は、皇孫の天降りよりは後、~武天皇が日向を発った時よりは遙かに以前のことに違いないが、その間のいつとも定かには知れない。【皇孫の天降りを聞いて、追って降ったとあるので、続いてすぐ降ったように聞こえるかも知れないが、そうではない。皇孫が降った後、また同じようにして降ったので、「追って」と言ったのだ。その間に長い年月を経たかも知れない。また天皇が日向にいた頃に、昔倭国にこの神が天降ったと聞いたのも、最近あったことのようでもなかった。これはまだ神代のことだったので、人の命も長く、この神も天降って後、数百年も経ってから天皇に仕えるようになったかも知れない。旧事紀には、饒速日命は既に死んでいて、天皇に仕えたのは子の宇摩志麻遲命と書いているが、登美毘古の妹を妻としてとある。その登美毘古もまだ生きていたのだから、当時邇藝速日命が生きていたのも、疑うことはできない。】○天津瑞(あまつしるし)は天上から持ち来たったもので、天神の子である証拠の宝物だ。とすると瑞は師が「しるし」と読んだのが当たっている。【万葉巻十九の三十九丁(4254)に「従古昔無利之瑞(いにしえゆシルシなかりし)」、この瑞も「しるし」と読む。瑞の字は、説文に「玉をしるしとする」とある意味を取り、しるしの物としたのだ。それを「みず」と読むのはたいへんな誤りである。それはもともと。書紀の神代巻に「みずほの国」というところでこの「瑞」の字を書き、「これを『みず』と読む」と注があって、同じような意味の「瑞宮(みずみや)」、「瑞籬(みずがき)」などもそう書いているのから起こった。これらも正しい文字ではないが、「みず」と読むこと自体は外れてはいない。ただそれに倣って、他の意味の瑞の字までみな「みず」と読み、「祥瑞」という語までそう読もうとするのは、非常に誤っている。それも「しるし」と読むべきなのだ。】書紀には、「この時、長髄彦は人を使いに遣って、天皇に『天神の子が天磐船に乗って天降った。その名は櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)という。彼が私の妹、三炊屋媛(みかしきやきめ)、またの名は長髄媛(ながすねひめ)、または鳥見屋媛(とみやびめ)を娶って御子の可美眞手命(うましまでのみこと)を生んだ。だから私は饒速日命をこれこそ君主だとして仕えているのだ。どうして天神の御子が二人もいるだろうか。どうして天神の御子が再び天降ったりするのだろうか。私には、とても本当のことと思えない』と伝えた。天皇は『天神の御子はたくさんいるのだ。お前の仕えているのが本物の天神の御子なら、その表徴(しるし)の物があるだろう。それを見せろ』と言った。長髄彦側は饒速日命の天羽々矢(あめのはばや)と歩靫(かちゆぎ)を取り出して天皇に見せた。天皇は『なるほど、嘘ではないな。だがこれを見ろ』と言って自分の天羽々矢と歩靫を見せたところ、長髄彦はそれを見て、本当に天皇が天神の子だと知り、非常に恐れ入った。だがやはり天皇に仕えようとはせず、迷いながらも考えを変えなかった。饒速日命は、天皇こそ直接の天神の御子だということを早くから悟っていて、長髄彦を説得しようとしたが、彼は天性凶悪なうえ賢くなかったので説得することができず、結局は誅殺して、彼の党類を率いて天皇に帰順してきた。天皇はこれを聞き入れ、『饒速日命は天から降った神であり、今多大の功績を挙げた』といい、賞めて恵みを与えた。これは物部氏の遠祖である」と書かれている。【この記事からすると、矢や歩靫なども、通常のものでなく、何か特別優れたものだったようだ。天皇のものを見て「非常に恐れ入った」というのだから、天孫の持ち物は、その中でも一段と優れていたのだろう。旧事紀には「天神の命によって、饒速日尊に天璽・瑞寶十種を授けた、云々」とあり、「宇摩志麻治命の命により、天神の御祖が饒速日命に授けた天御璽・瑞寶を天孫に引き渡した云々」とある。それに「饒速日命が天から受けてきた天璽・瑞寶は、いずれも同じ藏に収め、石上の大神と言っている」とある。たぶんこの十種の神宝をさずかったのも、本当は邇々藝命だったのを、他の例のように邇藝速日命のことにしたのだろう。だが垂仁天皇の頃、石上の神宝を物部氏が管理することになったのは、もともとこの十種の神宝が物部に関係していたためかとも思え、やはり実は饒速日命が天から持ち来たったものかも知れない。そうだったら、ここで天津瑞と言っているのは、天羽々矢・歩靫だけでなく、この十種の神宝も含まれていただろう。この神宝のことは伝十の卅七葉で述べた。】ここでこの神宝を私蔵しておかず、天皇に献げたのは、【書紀の趣は違っている。また旧事紀に「天羽々矢と天羽々弓、また神衣。帯、手貫の三種のものを登美の白庭邑に葬斂して、これを墓とせよ」とあるのは、この記に「天皇に献げた」というのと違っており、「天羽々弓」という名も不審である。】天皇に仕えることの表徴である。○登美夜毘賣(とみやびめ)。名の意味は、登美は地名である。登美毘古のところで述べた通り。「夜」は意味が分からない。○宇麻志麻遲命(うましまじのみこと)。書紀には「可美眞手、これを『うましまで』と読む」とある。名の意味は、「遲」は阿斯訶備比古遲(あしかびひこじ)などの遲ではないだろうか。【ただし書紀に「手」とあるから他の意味か。新撰姓氏録にこの人の名がしばしば見えるが、みな「治」とある。「味島乳(うましまじ)」とも書くが、「手」と読むのは一つもない。旧事紀には「また味間見(うましまみ)命ともいう」とある。】旧事紀がこの人の功績を重大視して述べているのは、子孫が大いに繁栄したことからして、さもあるだろう。○物部連。これはまず「もののふ」、あるいは物部という名のことを論じた後、この氏のことを言う。そもそも物部は「もののふ部」ということで、「ふべ」を縮めて「もののべ」と言うのである。その「もののふ」とは、【この言葉の意味は分からない。】一般に武勇をもって君に仕えるものの呼び名で、万葉の歌でこれを「宇治」の枕詞にしているのも、「いちはやし」という意味である。【このことは師の冠辞考に詳しい。】また巻三【五十一丁】(443)では「武士(もののふ)」とも書いてある。後世まで武士のことを「もののふ」と言っている。だが朝廷に仕える人を総称するにも「もののふ」と言い、「もののふの八十伴緒(やそとものお)」などと詠んだのも、万葉に多く見える(478、543など)のは、上代の武勇をもって仕えた頃の古言が遺っていたのだ。【「もののふ」のことは師の冠辞考に詳しく書かれているが、「いにしえには武人を『もののふ』と言い、それは数知れず多くいたから、『八十稜威人(やそいづひと)』と言った」と述べたのは違っている。八十氏と続けて言うのは、上記の八十伴緒と同じく、武人だけでなく朝廷に仕える人々を総称して「もののふ」と呼んだ、その氏が多いことを言うのであって、八十稜威人の意味ではない。「八十」と言わずにただ「もののふの氏(うじ)」と言い、「ちはやぶる氏」、「ちはや人氏」などと言ったのとは、言葉の続きに意味の違いがある。「ちはやぶる」、「ちはや人」は「宇治」にのみ続け、「八十宇治」と続けた例はないので、違いを悟るべきだ。「もののふの」という枕詞は、単に「宇治」に続ける場合は「ちはや人」などと同じで「いちはやい」という意味であり、「八十宇治」と続けるのは八十伴緒の諸氏の数が多い意味だから、同じ枕詞、同じ地名であっても、続きの意味が違う。よく考えなければ混同する。また「もののふの八十乃カン(女+感)嬬(やそのおとめ)」(4143か)、「もののふの八十の心」(3276)などというのも「八十氏」と続けるのと同意で、「八十」の枕詞である。ところが冠辞考に「いにしえには『もののふ』という名はなかった。後代になって言われるようになった言葉だ」と言っているのもどうかと思う。なるほど記紀にはこの言葉が見えないが、それは言う機会がなかったからで、物部という名自体は上代からあったのだから、「もののふ」という言葉もあったことが分かる。】ところで物部というのは一団の武士であり、上代には特に勇敢で、武事に優れていたことから武士部(もののふべ)と名付けられたのだ。【つまり「もののふ」とは武勇の人の一般名で、物部というのは特定の武人たちの名だから違いがあるのだが、万葉などで「もののふ」を「物部」と書いてあったりして、紛らわしい場合がある。】上代に、物部という名が見えるのは、崇神紀に「物部八十手(やそて)」とあるのが最初である。【この物部は姓ではない。物部の氏の人を言う。】新撰姓氏録に「原の造は、神饒速日命が天降った時に従った天物部(あめのもののべ)現度の造の子孫である」、また「坂戸の物部は、同じ神の従者、坂戸の天物部の子孫である」、また「二田の物部は、同じ神の従者、二田の天物部の子孫である」と見え、【旧事紀の饒速日命の天降りの段に、「五部の造を伴として、天物部を率いて天降りに供奉した」とあり、その五部のうちに二田の造も坂戸の造も入っている。また「天物部ら二十五部の人が兵仗を帯びて天降りに従った」ともあり、その二十五部はみな「〜物部」という名である。「嶋戸の物部」という名もあるが、これは新撰姓氏録の「現度の造」のことか。「現」の字は、一本に「ケン(山+見)」を書いてある。「嶋」の字の誤りではないだろうか。新撰姓氏録の上記の三つの氏は、未定雑姓の部に載っている。未定雑姓は、「その氏姓の職、由来、本系を調べたが、これらの姓は先祖が古記と違っており、旧典に載っていない。いくら調査しても、考えが及ばない。そこで別巻に集めて未定と名付け、巻末に付け、後賢を待つ」とあり、不確定な姓を言う。とすると、上記の天物部などとあるのも実際は天孫の天降りの時の従神だったのを、偽って饒速日命の伴神としただろうことは前述の通りで、「先祖が古記と違う」ということだ。だが物部という名は神代からあり、かの天降りの時に従者として天から降ったから天物部と言うのだろう。】書紀の雄略の巻(七年八月)に「物部の兵士三十人をやって前津屋(さきつや)とその一族七十人を殺させた」、また(十二年十月)「天皇は御田(みた)が采女を犯したと疑い、物部に身柄を預けて処刑しようと思った」、また(十三年九月)「物部の連に託して野で処刑させた」。欽明の巻(十五年十二月)に「有至(うち)の臣が率いてきた筑紫の物部の莫奇委沙奇(まがわさか)は火矢を射るのが巧みだった」などとあり、職員令の囚獄司に「物部四十人、罪人を与り、処罰することを担当する」とあり、【続日本紀の和銅四年十月、はじめて禄法(給料)を定めたという記事にも「召使、門部、物部、主師らはいずれもケイ?(糸+系)二、コウ?(糸+勾)銭十文」とある。類聚国史の天長八年二月の記事に「囚獄司の物部の定数四十人、その名を負う氏に適任者がいないので、他の氏から採用する」とあるが、「名を負う氏」とは代々物部氏を名乗った人を言う。】とある。こうして後には衰えて、ただ刑罰のことに携わるようになり、賤職となってしまった。【雄略の巻にもその徴候が見える。】物部の連は、遠祖の宇摩志麻遲命の勲功により、上記の天物部の人々を率いさせて以来、【旧事紀に「宇摩志麻治命は天物部を率いて蛮夷のものどもを斬り平らげた」とあるのは事実だろう。】子孫世々相次いで、物部を率いて仕えたことで【書紀の雄略の巻に「物部目連(もののべのめのむらじ)は自ら大刀を持ち、筑紫の聞物部(きくのもののべ)大斧手(おおおのて)に楯を持たせ、軍中で大声を上げさせ・・・大斧手は楯で物部目連の体を敵から覆い隠した」、この「目」は人名である。続日本紀九に「石上の朝臣勝男らは内物部(うちのもののべ)を率いて」、これらは物部を率いたという証拠だ。】この姓を賜ったのである。書紀の崇神の巻に「物部氏の遠祖大綜麻杵(おおへそき)」、また「物部の連の祖伊香色雄(いかがしこお)」、垂仁の巻に「物部の連の遠祖十千根(とおちね)」などという人が見える。しかしこの姓を賜ったのがいつのことかは出ていない。【伝二十一の二葉、師木の縣主のところを参照せよ。垂仁二十六年に物部の十千根の大連とあるから、これより前にこの姓は賜っていた。旧事紀によると「饒速日命の子、宇摩志麻治命は・・・七世の孫、建瞻心大禰(たけいごころおおね)命は、伊香色雄命の子である。弟に安毛建美(あものたけみ?)命、また弟大新河(おおにいかわ)命は、纏向の珠城の宮(垂仁天皇)の御代に物部の連公の姓を賜った。弟の十千根命も、同じ天皇の御代に物部の連公の姓を賜った」とある。これはその通りだろう。新撰姓氏録にも「伊香色雄命は饒速日命の六世の孫、大新河命は七世の孫」とある。】仲哀の巻には物部の瞻咋(いくい)連、履中の巻に物部の伊コ(くさかんむり+呂)佛(いこふつ)大連、物部の長眞瞻(ながまい)連の名が見え、雄略の巻に「物部の目連を大連とした」とあって、この後にも位の高い人がそれぞれの世々にいた。天武の巻に「十三年十一月戊申朔、物部の連に姓を賜い、朝臣とした」とあり、続日本紀には「宝亀六年十二月従三位の石上朝臣宅嗣(やかつぐ)に物部朝臣の姓を与えた。請願があったからである」、「同十年十一月、詔勅により、中納言従三位の物部朝臣宅嗣に物部を改めて石上朝臣の姓とした。」【宅嗣卿は麻呂大臣の孫で、中納言弟麻呂(おとまろ)卿の子である。大納言正三位になり、天応元年六月に死亡。年五十三。】新撰姓氏録の左京神別【天神】に「石上朝臣は、神饒速日命の子孫である。【宇摩志麻治命の十六世の孫、物部連公麻呂が物部朝臣の姓を賜い、のち改めて石上朝臣の姓を賜った。】」とある。一本には「宇摩志麻治命云々」の注がない。【この注は後人が旧事紀の記事によって書き加えたものだろう。「連公」と「公」の字を加えたのは他に例がなく、旧事紀にだけある。この物部連麻侶は天武の巻に出ていて、朝臣の姓を賜ったのは、実際にはこの人の時(天武十三年)である。これを石上と改めたことは書紀に出ていないが、天武紀の終わりと持統の巻に石上朝臣麻呂とあり、次に十八氏を挙げたところでも石上とあるから、これもこの人の在世中に改まったことは明らかだ。旧事紀に「饒速日尊の十七世の孫、物部連公麻侶は浄御原朝(天武天皇)の御代に物部朝臣の姓を賜り、同じ御代に再び石上朝臣の姓を賜った」という。麻侶は続日本紀に「養老元年三月癸卯、左大臣正二位、石上朝臣麻呂が死んだ。大臣は大連物部目の子孫で、宇麻子(うまこ)の子である」とある。物部氏のことについては、旧事紀の第五巻で饒速日命から麻呂の大臣まで、詳しく書いてある。その文には信用できない部分も多いが、天皇と氏族の系譜のことはそれほど違ってもいないのは、家伝・家譜を取って書いたのだろう。石上の姓に改めたのは、伝十八の石上神宮のところで言った通りだ。代々の住処も石上だったようで、古今集雑の上の詞書きに(870)「石上の並松(なむまつ)がみやづかへもせで石上と云所にこもり侍りけるを云々」とあるのを考えれば、今の京に移っても、この氏は大和の石上に、昔からの土地などをそのままに持っていたのだろう。】宇摩志麻遲命の子孫で、物部連氏から別れた氏族はたいへん多く、新撰姓氏録にも数多く載っている。続日本紀に「韓國連(からくにのむらじ)源(みなもと)らが言上して、『私たちは物部大連の末裔です。その物部連らはそれぞれの住むところと行事によって分かれて、百八十氏があります』云々」とある。【百八十(ももやそ)とは、正確な数を表すのでなく、百以上もの多くの氏があるという古言である。】延喜式神名帳には、諸国に物部神社が多く掲載されている。【これはその地に住む人々の祖神を祀ったものと思われる。その中に物部天神社というのもあるのは、邇藝速日命を祭っているのだろう。】持統紀に「四年春正月戊寅朔日に、物部麻呂朝臣が大盾を立てた。云々」【これは天皇即位の儀礼である。】続日本紀に「神亀元年十一月己卯の大嘗で・・・従五位下石上朝臣勝男、石上朝臣乙麻呂、従六位上石上朝臣諸男、従七位上榎井(えのい)朝臣大島らが内の物部を率いて神楯を斎宮の南北二門に立てた」。「延暦四年正月丁酉朔、天皇は大極殿で朝を受けた(即位した)。その儀は従来と同様だった。石上・榎井の両氏はそれぞれ鉾と楯を立てた」。また貞観儀式の大嘗祭の儀に、「石上・榎井の二氏から各二人、内の物部四十(卅に縦棒をプラス)人を率いて【紺色の衫を着用】大嘗宮の南北に神楯・戟を立てて【門ごとに楯二枚、戟四竿】云々」とある。この氏の人がこのことを行うのは、上代の儀式が遺っていたのである。【榎井朝臣は、物部氏から別れた。孝徳紀(大化元年九月)に物部朴井(えのい)連椎子(しいのみ)、斉明紀(四年十一月)に物部朴井連鮪(しび)、などの名が見え、天武紀には朴井連雄君(おきみ)という人を物部雄君連とも書いている。この雄君連は壬申の乱で大きな功績があったので、天武五年六月に死んだ時は位を追贈され、氏上(うじのこのかみ)とされた人だ。とすると、榎井朝臣は、この人の子孫だろう。だが同十三年、五十二氏に朝臣姓を授けた中に、この氏が見えないのは、朴井連とも名乗っていたが、まだこの時は物部連の中に含まれていて、このとき一緒に朝臣姓になったのだろう。それが榎井朝臣に改まったのは、前記の麻呂公などが石上朝臣と改められた時のことなのだろう。続日本紀の「文武天皇二年十一月己卯、大嘗で、榎井朝臣倭麻呂(やまとまろ)が大楯を立てた」とあるのが、榎井朝臣の初出である。また「養老三年六月、榎井連カセ(てへん+峠のつくり)麻呂に朝臣姓を与えた」などもある。旧事紀の物部氏の歴世の中に「榎井臣らの祖」とあるが「臣」というのは違っており、書紀の記載とも合わないから、信ずることはできない。新撰姓氏録にはこの氏は見えない。ただ和泉国神別に榎井部というのがあり、饒速日命の子孫と書いてあるだけだ。朴井という地名は、推古紀の二十葉(二十四年七月)に見える。】○穂積臣。この氏については、堺原の宮(孝元天皇)の段で言う。○采女(女+采)臣(うねべのおみ)。采女(女+采)は「うねべ」と読む。旧印本でこの字を「妹」と書いてあるのは誤写である。延佳がさかしらに「采女」の二字に改めたのも、かえって間違っている。今は一本によった。なお「うねべ」のことは、下巻、朝倉の宮(雄略天皇)の段の「三重の采女」のところ【伝四十二の二十五葉】で言う。この氏が「采女(女+采)」の名を負っているのは、どういう理由なのか分からない。踐祚大嘗祭式の「悠紀の御膳を薦める行立(手順)の次第」に、「采女司・采女朝臣二人【左右で前駆けする】」とあるので、もともと「うねべ」に因む名だっただろう。この氏の人は、書紀の舒明の巻に采女臣摩禮志(まれし)、孝徳の巻に采女臣使主麻呂(おみまろ)、天武の巻に采女臣竹羅(つくら)などが見える。同巻十三年十一月、采女臣に朝臣の姓を与えた、また続日本紀に「天平神護元年二月、摂津国嶋下郡の人、右の大舎人、采女臣家麻呂(やかまろ)、采女の司の采部、采女臣家足(やかたり)ら四人に朝臣の姓を与えた」と見える。新撰姓氏録の右京神別【天神】に、「采女朝臣は石上朝臣と同祖、神饒速日命の六世の孫、大水口宿禰(おおみなくちのすくね)の子孫である」と書いてある。【旧事紀では、大水口宿禰は穂積臣、采女臣らの祖で、出石心(いずしごころ)命の子としている。】和泉国神別【天神】に、「采女臣は神饒速日命の六世の孫、伊香色雄命の子孫」とある。【なお天武紀に「采女造に姓を賜い、連とした」とあるのは別の氏だろう。】

 

故如レ此。言=向=平=和2荒夫琉神等1。<夫琉二字以レ音>退=撥2不レ伏人等1而。坐2畝火之白檮原宮1治2天下1也。

訓読:かれかくのごと、あらぶるかみたちをコトムケやわし、マツロワヌひとどもをはらいタイラゲたまいて、ウネビのカシバラのミヤにましましてアメノシタしろしめしき。

口語訳:このように、荒ぶる神たちを説得して静めさせ、どうしても服従しないものは排除して、畝傍の白檮原宮に住んで天下を治めた。

如此。ここは朝倉の宮の段の歌に「加久能碁登(かくのごと)」とあるのに従って読む。此というのは、この段の初めからの全部のことを指している。○荒夫琉神(あらぶるかみ)は、あの熊野の悪神のことを言っているだろう。○言向は「ことむけ」、平和は「やわし」と読む。この言葉については伝十三【十葉、二十四葉】で言った。上巻に「言=趣=和2其國之荒振神等1(そのくにのあらぶるかみたちをことむけやわせ)」、「言=向=和=平2葦原中國1(アシハラのナカツくにをことむけやわし)」などとある。○不伏人は「まつろわぬひと」と読む。「人」の字を諸本みな「之」としているのは、確実に写し誤りだ。そこでここは例によって改めておいた。その例も、読みも次に挙げる通りである。水垣の宮(崇神天皇)の段に「令レ和=平2其麻都漏波奴人等1也(そのまつろわぬひとどもをことむけやわさしむ)」、倭建命の段に「言=向=和=平2東方十二道之荒夫流神及摩都樓波奴人等1(あずまのかたとおまりふたみちのアラブルカミまたマツロワヌヒトどもをことむけやわせ)」、「平2東西之荒神及不伏人等1也(ひむかしにしのアラブルカミまたマツロワヌヒトどもをことむけやわし)」、「言=向=和=平2山河荒神及不伏人等1也(やまかわのアラブルカミまたマツロワヌヒトどもをことむけやわしたまいき)」などとある。この言葉は書紀の雄略の巻(四年)の歌に「飫褒枳瀰爾磨都羅符(おおきみにまつらう)(爾の正字はイ+爾)」ともある。【これによると、「まつろう」の「ろ」を「ら」とも通わせて言ったのだ。】万葉巻二【三十四丁】(199)に「千磐破人乎和爲跡、不奉仕國乎治跡(ちはやぶるひとをやわせと、まつろわぬくにをおさめと)」、巻十八【二十一丁】(4094)に「麻都呂倍乃牟氣乃麻爾々々(まつろえのむけのまにまに)」、巻二十【五十丁】(4465)に「知波夜夫流神乎許等牟氣、麻都呂倍奴比等乎母夜波之波吉伎欲米(ちはやぶるカミをことむけ、まつろえぬヒトをもヤワシはききよめ)」【この「倍(へ)」の字は、本来「波(は)」とあるべきだが、初めからこう詠み誤ったのか、それとも後に写し誤ったのか。】書紀に「帰順(まつろう)」、「不服(まつろわぬ)」、「不順(まつろわぬ)」等の語がある。○退撥は、万葉巻十九【三十九丁】(4254)に「天雲爾磐船浮(あまぐもにイワフネうけて)・・・國看之勢志弖安母里麻之、掃平千代累彌嗣繼爾所知來流天之日繼等(くにみしせしてあもりまし、はらいたいらげチヨカサネいやつぎつぎにシラシくるあまのひつぎと)云々」とあるのによって、「はらいたいらげて」と読む。また万葉巻五【十三丁】に「可良久爾遠武氣多比良宜弖(カラクニをむけたいらげて)」ともある。【「むけたいらげ」と読むのもいいが、上に「言向」という語があって「むけ」が重なるため、ここはそうは読めない。文字通りなら「そけはらい」とも読めるが、言葉が美しくない。こういう古言は例をよく考え、つとめて美しく読むべきだ。師は「はきやらいて」と読んだが、これもあまり良いと思えない。上巻の大穴牟遲神の段に「河の瀬ごとに追撥(追い払い)」とあるので、「退」の字が「追」の誤りで、「おいはらい」と読むのかとも思ったが、ここはそうではない。倭建命の段に「撥治參上覆奏」とある「撥治」も「はらいたいらげて」、あるいは「はらいむけて」と読む。】書紀の神代巻に「駈除平定(はらいむけしむ)」とある。○畝火(うねび)は大和国高市郡にある山の名である。この後にある大后の歌に「宇泥備夜麻(うねびやま)」とあり、書紀の欽明の巻の歌にもあり、允恭の巻に、新羅の客がこの山を賞めて「宇泥ミ(口+芋)巴椰(うねみはや)」と言ったとあり、また推古の巻には畝傍池、皇極の巻に蘇我大臣の畝傍の家などがある。【この「畝」の字を釈日本紀でも今の本でも「敏」と誤って「トシカタのいえ」と読んでいるのは誤りである。】続日本紀に、文武天皇の四年八月、この山の木が理由もないのに枯れたという記事がある。万葉巻一【十一丁】(13)に雲根火(うねび)、耳梨(みみなし)、香山(かぐやま)の三山が妻争いしたという天智天皇の歌がある。また【二十三丁】藤原宮の御井の歌(52)に「畝火乃此美豆山者、日緯能大御門爾彌豆山跡山佐備伊座(うねびのこのみずやまは、ひのよこのオオミカドにみずやまとやまさびいます)」、巻二【三十八丁】(207)に「輕市爾吾立聞者、玉手次畝火乃山爾鳴鳥之音母不所聞(かるのいちにわがたちきけば、タマダスキうねびのやまになくとりのオトもきこえず)」、巻四【二十三丁】(543)に「天翔哉輕路従玉田次畝火乎見管(アマトブヤかるのみちよりタマダスキうねびをみつつ)」などがある。書紀のこの巻に「畝傍山、これを『うねびやま』と読む」との註がある。延喜式神名帳には大和国高市郡、畝火山口坐(うねびのやまのくちにます)神社【大、月次・新嘗】が載っている。現在この山の東南の麓に畔樋村(うねひむら)というのがある。【その地の人は「ひ」を清んで言う。だが古い書物では「備」の字などを書き、みな濁音である。】○白檮原宮(かしばらのみや)。白檮は「かし」と読む。この木のことは、玉垣の宮(垂仁天皇)の段に「葉廣熊白檮(はびろくまかし)」とあるところ【伝二十五の二十葉】で言う。この宮の名は、この地が古くは白檮の木の原だったから、【書紀にも「山林を切り払って宮を作った」とある。】この名が付いたのだろう。この地名は現在は遺っていないが、宮地が畝火山の東南の麓に近かったことは、書紀に明らかに書いてある。【ある説に「葛上郡の柏原村がその宮の跡だ。しかしこの村は畝火山の西南に当たるから、書紀に東南と書いたのは写し誤りだ」というのは違う。今の柏原村は畝火山のあたりではなく、やや遠いから、畝火の白檮原と呼ぶような地ではない。根拠のない主張だ。】書紀に「道臣命に宅地を与えて築坂(つきさか)邑に住まわせ、大來目を來目邑に住まわせた」とあるのは、いずれも宮地に近いところだろう。【築坂は宣化天皇の御陵のある身狹桃花鳥坂(むさのつきさか)と同じだ。現在三瀬から東、軽村へ越える間の岡の、東からも西からも少し登って、その上の平らなところに窟がある。これがその御陵だろう。これについては、もう少し考えがある。この地は畝傍から遠くなく、また久米村や久米寺も畝火に近いところにある。】書紀によれば「己未年三月辛酉朔丁卯、天皇は・・・『畝傍山の東南の橿原の地は、国のまほら(中央)であろう。ここに宮を作ろう』と言い、この月に家臣たちに命じて、帝の宮を作り始めさせた」という。【古語拾遺に、この宮造りのこと、その他この御代の制(さだめ)など、いろいろ書いてある。】万葉巻一【十六丁】(29)に「玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世従(タマダスキうねびのやまのカシバラのひじりのミヨゆ)云々」とある。○治天下は「しろしめしき」と読む。後の代々の天皇のところも同様。万葉巻廿【五十丁】(4465)に「安吉豆之万夜万登能久爾乃可之婆良能、宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖々、安米能之多之良志賣之祁流須賣呂伎能(あきづしまヤマトのくにのカシバラの、うねびのミヤにミヤバシラふとしりたてて、アメノシタしらしめしけるスメロギの)云々」摂津国風土記に「宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇世(うねびのかしばらのミヤにアメノシタしろしめししスメラミコトのみよ)」ともある。【すべていにしえの天皇のことを呼ぶには、「〜の宮に天下を治(しろしめし)し天皇」と言う。書紀の天武の巻で、孝徳天皇のことを「難波の宮で天下を治めた天皇」、天智天皇のことを「近江の宮で天下を治めた天皇」と言っているたぐいだ。また「〜の宮御宇天皇」とある「御宇」も「アメノシタしろしめしし」と読む。後世にはこれを誤って「〜天皇の御宇(ぎょう)」などと読んで御宇を御時の意味と解するのは間違いだ。「御・宇時」の意味に考えるべきである。】書紀によると「辛酉年春正月庚辰朔、天皇は橿原宮で即位し、この年をこの天皇の元年とした。・・・そこで古語に、『畝傍の橿原に底つ磐根に宮柱太敷き立て、高天の原に榑風(ひぎ)高知りて、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)』と称え、號を『神日本磐余彦火々出見天皇(かむやまといわれびこほほでみのすめらみこと)』という」【書紀に、この御代の元年を辛酉と定め、その他何事にも何月何日と日付を書いてあるのは、非常に疑問である。このことは、私が既に詳しく論じた。その文はたいへん長く、ここに挙げることはできないので、別に「眞暦考」と題した一巻がある。】


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