『古事記傳』31


訶志比の宮下巻【仲哀天皇】

 

於レ是息長帶日賣命於レ倭還上之時。因レ疑2人心1。一=具2喪船1。御子載2其喪船1。先令レ言=漏=之2御子既崩1。如レ此上幸之時。香坂王忍熊王聞而。思レ將2待取1。進=出2斗賀野1。爲2宇氣比カリ(けものへん+葛)1也。爾香坂王騰=坐2歴木1而是。大怒猪出。堀2其歴木1。即咋=食2其香坂王1。其弟忍熊王不レ畏2其態1。興レ軍待向之時。赴2喪船1將レ攻2空船1。爾自2其喪船1下レ軍相戰。此時忍熊王。以2難波吉師部之祖伊佐比宿禰1爲2將軍1。太子御方者。以2丸邇臣之祖難波根子建振熊命1爲2將軍1。故追退到2山代1之時。還立各不レ退相戰。爾建振熊命權而。令レ云息長帶日賣命者既崩故。無レ可2更戰1。即絶2弓絃1。欺陽歸服。於レ是其將軍既信レ詐。弭レ弓藏レ兵爾自2頂髮中1採=出2設弦1。<一名云2宇佐由豆留1。>更張追撃。故逃=退2逢坂1。對立亦戰。爾追迫敗。出2沙沙那美1悉斬2其軍1。於レ是其忍熊王。與2伊佐比宿禰1共被2追迫1。乘レ船浮レ海。歌曰。伊奢阿藝。布流玖麻賀。伊多弖淤波受波。邇本杼理能。阿布美能宇美邇。迦豆岐勢那和。即入レ海共死也。

訓読:ここにオキナガタラシヒメのミコトやまとにかえりのぼりますときに、ひとのこころうたがわしきによりて、モフネをひとつそなえて、ミコをそのモフネにのせまつりて、まず「ミコははやくかむさりましぬ」といいもらさしめたまいき。かくしてのぼりいでますときに、カゴサカのミコ・オシクマのミコききて、まちとらんとおもおして、トガヌにすすみでて、ウケイガリしたまいき。ここにカゴサカのミコいクヌギにのぼりいましてみたまうに、おおきなるイカリイいでて、そのクヌギをほりて、すなわちそのカゴサカのミコをくいつ。そのみおとオシクマのミコそのしわざをもかしこまずて、イクサをおこしてまちむかえたまうときに、モフネにむかいてムナシふねをせめたまわんとす。かれそのモフネよりイクサをおろしてたたかいき。このときオシクマのミコは、ナニワのキシベのおやイサイのスクネをイクサのきみとしたまい、ひつぎのミコのみかたには、ワニのオミのおやナニワネコタケフルクマのミコトをぞイクサのきみとしたまいける。かれおいそけてヤマシロにいたれるときに、かえりたちておのもおのもしりぞかずてあいたたかいき。ここにタケフルクマのミコトたばかりて、「オキナガタラシヒメのミコトははやくかむさりましぬれば、さらにたたかうことなし」といわしめて、ユヅラをたちて、いつわりてまつろいぬ。ここにそのイクサのきみいつわりをたのみて、ユミをはずしツワモノをおさめてき。ここにタギフサのなかよりまけたるツルをとりいで、<またのなはウサユヅルという。>さらにはりておいうちき。かれオウサカににげしりぞきて、むきたちまたたたかいけるを、おいせめやぶりて、ササナミにいでてなもことごとにそのイクサをきりける。ここにそのオシクマのミコ、イサイのスクネとともにおいせめらえて、フネにのりウミにうかびて、うたいたまわく、「いざあぎ、ふるくまが、いたておわずは、におどりの、オウミのうみに、かづきせなわ。」とうたいて、すなわちウミにいりてともにみうせたまいぬ。

歌部分の漢字表記(旧仮名):いざ吾君、振熊が、痛手負はずは、鳰鳥の、淡海の海に、潜きせな吾

口語訳:さて息長帯比賣命は倭国へ帰還しようとしたが、謀反の疑いがありはしないかと思い、喪船をこしらえ、御子をその喪船に乗せて、まず「御子はもう死んだ」と言いふらさせた。そうやって東に上ったが、香坂王と忍熊王はそのことを聞いて、待ち受けて攻撃しようと思い、斗賀野まで出て来て宇氣比カリ(けものへん+葛)(うけいがり)をした。ところが香坂王が櫟に登ったところ、大きな怒り狂った猪が現れ、その櫟の根元を掘って、香坂王を食い殺してしまった。弟の忍熊王は、この様子を見ても(神の怒りだと思わず)、恐れることなく軍を起こして待ち受け、喪船がやってくると、空の船とも知らず攻めた。そこで喪船から軍を出して互いに戦った。このとき、忍熊王は味方の軍に難波の吉師部の祖、伊佐比宿禰を将軍としており、太子の味方は丸邇臣の祖、難波根子建振熊命を将軍としていた。忍熊王の軍は追いやられて山代に到ったが、そこでまた向き直って、双方退かずに戦った。建振熊命は一計を案じ、(兵士に)「息長帯比賣命はもう死んだ。これ以上戦うことはあるまい」と言わせ、弓の弦を断ち、詐って降伏した。そこで敵の将軍はすっかり騙され、弓の弦を外し、兵器をしまい込んだ。その時(建振熊命の軍は)頂髮の中に隠しておいた弦(一名「うさゆづる」>を取り出し、弓に張って、新たに攻撃を始めた。忍熊王の軍は逢坂まで逃げたが、そこで再び体勢を立て直して、また戦った。それを追い詰めて破り、沙沙那美まで出て、軍士を悉く斬った。忍熊王は伊佐比宿禰と共に逃れて、船に乗って琵琶湖に出た。歌って、「なあ、お前。建振熊に痛手を負わされないように、カイツブリのように、淡海の海に、潜ろうじゃないか」。歌い終わるとすぐに海に飛び込んで二人とも死んだ。

因疑人心は、「ひとのこころうたがわしきによりて」と読む。【師(賀茂真淵)は「人の心をうたがいおもおせば」と読んだ。それも悪くはないが、「うたがう」と言えば、疑いのないようなものまで疑うのである。「うたがわし」と言えば、本当に疑う理由があって疑うのである。】香坂王と忍熊王が服従しない徴候があり、また周囲の人々も彼らに協力すると思われることなどがあり、その行動が予測しがたく疑わしかったのである。○喪船(もふね)は、柩を載せた船である。【書紀の孝徳の巻で「轜車」を「きぐるま」と読んでいる例からすると、これも「きふね」と読むべきかとも思ったが、やはりこれは「もふね」と読むのが正しい。】○一具は「ひとつそなえて」と読む。【「一」を「もはら」と読むのは誤りである。】「一」と言うのは一艘ということで、「具(そなえ)」は準備したということだ。これは実際は喪船ではないのを、欺くために擬装したのである。【書紀によると、この喪船というのは天皇(仲哀)の柩を載せた船で、御子もその船に載せたのだとも考えられるが、この記の趣はそうではない。この記には天皇の喪船のことは省いて言わない。】○御子(みこ)は新たに生まれた品陀別命【應神天皇】のことである。○先(まず)とは、何かに先立って、予備的に行うことを言う。○崩(かむさりましぬ)と言うことは、宇遲能和紀郎子のところ【伝卅三の七十八葉】で言う。○「令2言漏1(いいもらさしめたまいき)」とは、俗に言う「言いふらす」である。「漏らす」というのは、御子が本当になくなったのだとしても、【この時は世情が不安定だったので、】隠すのが当然だからである。隠そうとしたが、漏れてしまったように見せかけたのだ。これは、香坂王と忍熊王を油断させようとしてのことだ。○「如此上幸(かくしてのぼりいでます)」。書紀には「新羅を討った明年春二月、皇后は群卿と百寮を率いて、穴門豐浦宮に移った。そこで天皇の喪を収め、海路で京に向かった。・・・時に皇后は忍熊王が軍を起こして待ち受けていると聞いて、武内宿禰に皇子を抱かせ、南海に出て紀伊の水門に泊まらせた。皇后の船はまっすぐに難波を指して進んだ」とあって、この記と異なる。【この記の趣は、大后も御子も、共に同じ海路を通って直接難波に向かっている。】○香坂王忍熊王(かごさかのみこ・おしくまのみこ)。前に出た。【伝卅の四葉】○聞而(ききて)は大后が上ってくると聞いて、である。太子が崩じたということは、彼らも信じたようだ。その様子は後に見える。○待取(まちとる)は、待ち受けて討つことだ。この「取る」は討つことを言う。【このことは前に例を挙げて述べた。】○斗賀野(とがぬ)は、書紀の仁徳の巻に「三十八年秋七月、天皇は皇后と高台に登り、毎夜涼んでいた。兎餓野(とがぬ)から鹿の鳴き声がたいへん哀れに聞こえてきた。云々」、【「兎」の字は、ここでは「と」の仮名である。「つ」と読むのは良くない。】摂津国風土記に「雄伴郡に夢野がある。父老は伝えて、『昔、刀我野(とがぬ)に牡鹿がいた。・・・そこでその地を夢野と言う』」などとある野だ。雄伴郡というのはどこの郡か定かでない。【和名抄に「西成郡、雄惟郷」がある。「惟」の字は誤写と思われるので、これが実は雄伴であって、いにしえは郡だったのかも知れない、そうであれば斗賀野は西成郡である。ある書にも「西成郡だ」と書いてある。仁徳紀に猪名縣の佐伯部が、その夜々鳴いていた鹿を苞苴(にえ)に奉ったとあり、爲那(いな)郷は河邊郡で、同郡に雄上郷というのもある。だがその野で鳴く鹿の声が難波の宮まで聞こえたというから、河邊郡ではあるまい。そこはあまりにも遠いからだ。もっとその国人に尋ねてみるべきである。万葉巻十一(2752)に「吾妹兒乎聞都賀野邊能(わぎもこをききつがのべの)」とあるのはこの野か、別だろうか。】<訳者註:大阪市北区に兎我野町という地名があり、高津の宮があった場所からは直線距離で約2キロメートル余である。古くは梅田界隈まで含む広い地域だったという。現在はビジネスホテルが建ち並ぶ喧噪の地だが、古代なら鹿の声が聞こえてもおかしくない。一方夢野は神戸市兵庫区にあり、その約500メートル南の会下山(えげやま)付近には、雄伴郡の郡衙があったという。宇氣比狩りをしたのは夢野の方だろう。>】○進出(すすみいでて)は、大和から摂津に進み出たのである。【「出」の字の下に「於」の字がない本もあるが、同じことである。】○宇氣比カリ(けものへん+葛)(うけいがり)は書紀では「祈」と書いて、「これを『うけいがり』と読む」とある。「もし事が成し遂げられるなら、必ず良い獲物が得られるだろう」という意味で言う名である。書紀で息長足姫尊が「もし事が成し遂げられるなら、魚はこの釣り針を飲め」と言って鮎を釣ったのと同じことで、上代にはこうした例が他にも多かった。○歴木(くぬぎ)は、書紀の景行の巻に「筑紫の後(みちのしり)の国の御木(みけ)に到着し、高田行宮に滞在した。このとき、大きな木の倒れたのがあり、長さは九百七十丈ほどもあった。・・・天皇は『これは何の木か』と尋ねた。一人の老人が『これは歴木(くぬぎ)です』と言った。・・・天皇は『たいへん神異の木だ。この国の名を御木とせよ』と言った」とあり、公望の私記に「筑後国風土記にいわく、三毛郡・・・昔トウ(イ+東)の木が一株、郡家の南にあった。その高さは九百七十丈、・・・櫟木とトウ木と、それぞれ名前が違っている。そのため書いておく」、【トウ(イ+東)の字は「楝(おうち:センダン)」の誤写か。】仁徳の巻に「荒陵(あらはか)の松林の南の辺りに、突然歴木が二本生えた。道を挟んで、上の方で一体になっていた」。これらはいずれも「くぬぎ」と読んでいる。【ある人が、景行天皇がこの木に因んで御木の国と名付けたのだから、「くぬぎ」は「国木」の意味だろうと言ったのは間違いである。】そこで和名抄には「本草にいわく、釣樟は、一名鳥樟という。和名『くぬぎ』」、また「本草にいわく、擧樹は和名『くぬぎ』。弘仁私記にいわく、『歴木』」、【「釣樟」と「擧樹」と、いずれも「くぬぎ」と書きながら、別に出しているのは同名異物か、それとも別に出したことが間違いか。】新撰字鏡には「櫪は櫟と同じ、『くぬぎ』」とある。古い書物に歴木と書いてあるのは櫪の意味で、例によって偏を省いた形なのだろう。【漢(から)ぶみにも「櫪」に通わせて歴と書くことがある。また櫪と櫟と通わせて書いた例がある。しかし同じ物というわけではない。】「くぬぎ」は、今も「くぬぎ」、または「くのぎ」という木である。【契沖は「くぬぎ」は今も「くのぎ」といって、「つるばみ」のなる木であると言った。だが橡(つるばみ)を「くぬぎ」の実としたのは間違っている。和名抄に「橡は櫟の実である」と書いてあるのでそう言ったのだろうが、橡は「いちい」の実であって「くぬぎ」の実ではない。「いちい」は櫟と書く。その字によって混同してはならない。】ただこの記や書紀の「歴木」は、「くぬぎ」の意味で書いたのかどうかは、はっきりとは決められない。【玉垣の宮の段にある、葉廣熊白檮(はびろくまかし)のところ、伝廿五の廿葉でも言ったように、すべて魚鳥草木の名の漢字は、いにしえはそれぞれの思いで当てて書いたものだから、中国とは異なっていることが多く、漢名でははっきり決められない。だからこの歴木も櫪だろうとは思えるが、実際はどの木のことか、確かなことは言えない。前掲の風土記の「楝」の字も、書紀の「歴木」と伝えが異なるのではなく、ただ書いた者の判断で当てた漢名が違っているだけである。】万葉巻十二(3127)に「度會大河邊若歴木、吾久在者妹戀鴨(わたらいのおおかわのべのわかひさぎ、わがひさならばいもこいんかも)」、【これは旅の歌で、私のこの旅の日数が長くかかれば、家にいる私の妹が私を恋しく思わないだろうかという意味である。】この上の句は「吾久(わがひさ)」と言葉を重ねるための序だから、歴木は「ひさぎ」と読むのは明らかだ。【本ではこれも「くぬぎ」と読んでいるが、そうなら「若(わか)」と「吾(わが)」が重なるだけで、「久」には縁がない。この歌は「久」を中心に詠んでいることを考えるとよい。また同巻四(529)に「佐保河乃涯之官能小歴木莫苅焉(さほがわのはてのつかさのしばなかりそね)云々」、この「小歴木」は「しば」と読んでいるが、まことにそう読むべきである。これはどの木であろうと、柴(小枝)を言うからだ。そのため「小」の字を添えてはっきりさせている。ただしそれを「歴木」と書いたのは、何か特定の木を思い浮かべて言ったようではあるが、どんな木かは分からない。河岸に多くある木だろう。】「ひさぎ」は巻六(925)にも「久木生留清河原(ひさぎおうるきよきかわら)などとあり、河辺に縁がある。今も河辺でよく見かける木だ。和名妙に「唐韻にいわく、楸は、元の名は漢語抄にいわく、『ひさぎ』」とある。するとこの記や書紀などの歴木も「ひさぎ」かも知れないが、取りあえず書紀の訓に従って読んでおく。○騰坐(のぼりいまし)。朝倉の宮の段の歌に「和賀爾宜能煩理斯、阿理袁能波理能紀能延陀(わがにげのぼりし、ありおのはりのきのえだ)」とある。「坐」は「いまし」と読む。その木の上にいたのである。【単に「のぼりたまう」という意味で添えて言った語ではない。】○而是は、このままでは語が続かない。【「而」の字は、「於」と草書が似ているので、「於是」かとも考えたが、そうではないだろう。】また単に「歴木に登っていた」というのでは、何のためとも分からないから、「而」の下に字が脱けているのだろうか。【ここは「登っていて何々」とあるべきところだ。】それとも「是」の字が「見」の誤りだろうか。そうだとすると、木の上に登って、狩人たちの狩のありさまを見ていたのである。書紀に「二王はそれぞれ假キ(まだれに技)(さずき:樹上に仮にしつらえた座席のようなものだろう)にいたが、突然赤猪が出て云々」とあるのと考え合わせよ。その様子が似ている。そこで取りあえず「是」の字を「みたまうに」と読んでおく。○怒猪は、師が「いかりい」と読んだのが良い。【俗に言う「手負いの猪」である。】書紀の雄略の巻に「嗔猪(いかりい)が草の中から突然出て人を追い、狩人たちは樹に逃げ登って大いに懼れた」とある。拾遺集の物の名【きさの木】の歌(390)に、「いかり猪の石をくゝみて嚙來(かみこ)しは象(きさ)の牙(き)にこそ劣らざりけれ」、朝倉の宮の段に、「あるとき天皇は葛城山に登った。すると大きな猪が出てきたので、天皇は鳴鏑の矢で猪を射た。猪は怒って『うたぎ』、迫ってきた。天皇はその『うたぎ』を恐れ、榛(はりのき)の上に登って、云々<訳者註:『うたぎ』は『唸り』の意味かという>」とある。○堀(ほる)は、【正しくは「掘」の字で手偏だが、昔から土偏に書いている。漢(から)ぶみにも、堀と掘を通用させた例がある。】ここでは、根を掘り起こして木を倒したのである。○咋食(くいつ)は、書紀に「咋而殺焉(くいてころしつ)」とある通りだ。○「不レ畏2其態1(そのしわざをもかしこまず)」とは、祈狩(うけいがり)でこの事態になるのは甚だしく不吉で奇怪であるから、畏む(恐れ入る)のが当然なのに、まだ畏まることがなかったのである。【単に猪を恐れなかったのではない。】○待向(まちむかえ)。「向」は「迎える」の意味である。【「迎」を「向」と書いた例は上巻にもあった。】白檮原の宮の段にも「登美能那賀須泥毘古は軍を起こし、待ち向(むかえ)て戦う」とあった。この後、書紀には「船を引いて住吉に帰って駐屯した」とあるが、この記の様子はそうは聞こえない。進み出た斗賀野のあたりで待ち迎えたように聞こえる。○空船は師が「むなしふね」と読んだのが良い。【「むなしき船」と言わなければ、言葉が整わないようだが、古言ではこういう言い方が多かった。「哀しき妹(いも)」を「かなし妹」、「麗(くわし)き妻(め)」を「くわしめ」と言うたぐいだ。】軍士が乗っていないのを言う。というのはこれを本当の喪船と信じたから、【上述のように、御子が死んだことを、忍熊王たちの方では本当だと信じていたわけである。】軍士がいなければ攻めやすいだろうと思って、まずこれを攻め破ろうとしたのだろう。【真実でなく偽りのことを「空(そら)何々」と言うから、この空船も「空(そら)喪船」の意味かも知れない。そうならば、その偽りであることを知らないで、本当の喪船と思い、その柩を奪おうとして、まずこれを攻めたのだろうか。しかし「空船」というのは、その意味ではないだろう。】○「下レ軍(いくさをおろし)」は、うわべは喪船のように装って、中に隠しておいた軍士を出して上陸させたのである。書紀には「時にカゴ(鹿の下に弭)坂王と忍熊王は、天皇が崩じ、また皇后が西の方を征したこと、皇子が新たに生まれたことを聞き、密かに謀って『今、皇后には御子がある。群臣は皆彼女に従い、共に議って幼主を立てようとするだろう。われわれは兄なのに、どうして弟に従うことができるだろう』と言った。そこで天皇の陵を作るためと詐って、播磨の山陵を赤石(明石)に作った。船を連ねて淡路嶋に渡し、その嶋の石を運んで造ったのである。各人に兵器を持たせ、皇后を待った。このとき犬上君の祖、倉見別と吉師の祖、五十狹茅宿禰(いさちのすくね)は、共にカゴ坂王に着いた。そこで将軍として、東国の兵を起こさせた。時にカゴ坂王と忍熊王は、菟餓野(とがぬ)に出て祈狩(うけいがり)を行い、『もし事が成し遂げられるなら、良い獲物が得られるように』と言った。二人の王は、それぞれ假キ(まだれに技)(さずき)にいた。ところが赤猪が突然出現し、そのサズキに駆け上って、カゴ坂王を食い殺してしまった。軍士たちはこれを見て慄え上がった。忍熊王は倉見別に『これはたいへん奇怪だ。ここで敵を待つのは良くない』と言った。そこで軍を引いて、いったん住吉に帰って駐屯した」とあって、この時に戦ったことは見えない。○難波吉師部(なにわのきしべ)。この難波は吉師部の郷里の地名に過ぎない。姓ではない。だから書紀には難波とは書いてなく、単に吉師とある。【書紀にところどころ顕れる難波の吉士というのは別の姓である。混同しないように。】「吉師部」は姓である。新撰姓氏録摂津国皇別に「吉志は難波忌寸と同祖、大彦命の子孫である」【難波忌寸は大彦命の子孫であるともある。】とある。これだろう。大彦命は孝元天皇の子で、阿倍氏の祖だから、【前に出た。】この氏も阿倍氏の支流だろう。ところで吉師部というのは地名から出た名か、【今も嶋下郡に吉志部村がある(大阪府吹田市岸辺)。これがこの氏の郷里だろう。とするとこの地名が元は吉師が住んだことから出たのか。吉師という者のことは、明の宮の段、「阿知吉師」のところ、伝卅三の二十三葉で言う。】それとも吉志舞から出たのか。続日本紀十一【四天王寺に食封を施入したとき】に、「摂津職が吉師の樂を奏した」とあるのがそうだ。【阿倍氏の人が、昔新羅国から大嘗会の日に帰って、初めて吉志舞を奏したことは、伝廿二の八葉に言った通りである。この「吉志舞」という名は、吉師という名がもと新羅から出たので、この舞もその吉師の舞だったのを、新羅から伝えたので吉師舞と言うのだろうか。この舞を舞った人が、子孫に相伝して、大嘗会のたびにその舞を舞ったから、その氏を吉師部としたのか。それならば摂津国の吉志部という地名があるのは、この氏人の里だったことから地名になったのだ。しかし吉師部という名が地名から出たとすると、その舞も吉師部の祖だった人が初めて舞って、その氏で代々伝えたから吉志舞と言うと思われる。】とすると、その本末【地名から出たか、舞から出たか】は決められない。【ところで、書紀の継体の巻に吉士老とあるのをはじめ、巻々に「吉士某」という名がたくさん出るが、みな韓国の吉士に因む名であって、この氏の人ではない。混同しないようにせよ。】○伊佐比宿禰(いさいのすくね)は書紀には五十狹茅宿禰とあり、歌にも「伊佐智須區禰(いさちすくね)」とあるから、「比」の字は「地」の誤りか。【記中で「地」の字を仮名に用いたところも上巻の神名にある。】「伊佐地」は、名の例も、水垣の宮の段【伝廿三の七葉】で挙げたようなものがある。しかしこの記では次にも「比」とあるので決められない。そこで「比」とあるのを採って言うと、「いさち」は「いさつひ」が縮まったのであって、「つ」は助辞、「ひ」は彦・姫などの「ひ」で、【彦・姫などの「ひ」の意味は、伝三の十三葉で言った。】それを「イサヒ」とも良い、または助辞の「つ」を省いて言っただけの違いではないか、【助辞の「つ」は添えて言うことも、省いて言うこともある。】この人は、上記の新撰姓氏録によると、大彦命の子孫なのだろう。【この人の時には、まだ吉師部という姓はない。その子孫を吉師部と呼んだのは、はるかに後のことだろう。】○將軍は書紀で「いくさのきみ」と読んでいる。【いにしえのこうした名称の例からすると「いくさのうし」とも読める。】この名は高津の宮の段でも【將軍山部の大楯連】見え、書紀では崇神の巻に初めて見える。○太子(ひつぎのみこ)。この御子が大后の腹中にいたとき、父の天皇は崩じてしまったので、実はその胎内にいたときから天皇であり、胎内天皇とさえ言っているから、生まれてからはまさしく天皇であった。しかし母の命が長くこの世にいて天下の政を執り、神武天皇以来、このように幼い天皇がいた例もなかったから、この頃は取りあえず日嗣ぎの御子と言ったのだろう。【ところが成長してからも、母命が生きていたうち内は、なおも初めの呼び名のように日嗣ぎの御子と言ったのか。または成長してからは天皇と呼んだか、それは分からない。この後にもなお御子とあるのは、「建内宿禰命が率いて」とある文によると、まだ幼かった頃のことと聞こえる。それに父の天皇の段の内だから、まだ天皇とは書かないのが道理だ。】全体にこれらのことは、後代の定めや漢国の例も忘れて、皇朝の上代のありさまをよく知った人でなければ、疑いを抱くものである。この巻の最後で、もう一度論ずる。【書紀に「三年春正月丙戌朔戊子、譽田別皇子を太子に立てた」などとあるのは、例の漢文を真似て書かれたもので、皇朝のいにしえのさまではない。その理由は、前にも既に論じた。】○御方(みかた)。日本紀略にも「天慶三年十二月十九日庚戌、土佐の国が言上して、『八多郡が海賊のために焼亡しました。合戦の間に、御方の人および海賊に矢に当たって死んだものが大勢います』と報告した」とある。後世に「味方」と書くのは、いわれもない間違いである。【普通にも自分の方に着く人を「みかた」と言うが、これは御方から転じたのか、または「身方」であって、もとから違うのか。】○丸邇臣(わにのおみ)のことは、伊邪河の宮の段で言った。【伝廿二の四十六葉】○難波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)。「〜根子」という名の例は、孝霊天皇の名のところ【伝廿一の三十五葉】で言った。「振(ふる)」の意味は思い付かない。「熊」は勇猛な意味か。この人は書紀によると、この巻には「和珥臣の祖、武振熊」と見え、仁徳の巻の六十五年のところに「和珥臣の祖、難波根子武振熊」とある。【書紀の年紀に依れば、この年から仁徳天皇の六十五年まで、百七十余年を経ている。たいへん長寿だったのだろう。】新撰姓氏録の和爾部(わにべ)朝臣の條に「彦姥津(ひこおけつ)命の三世の孫、難波宿禰(なにわのすくね)」とあるのは、この人だろうか。眞野臣の條に「天足彦國押人(あまたらしひこくにおしひと)命の三世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命の子孫である。その子、大口納命の子、難波宿禰の子、大矢田宿禰は、後に氣長足姫皇尊が新羅を討って凱旋した日に、その場に留めて鎮守将軍とした。云々」【「納」の字は誤写だろう。】とあるのによると、難波宿禰は彦國葺命の孫である。【時代も大体ここの記事に合う。彦國葺命の孫なら、彦姥津命の三世の孫に当たる。彦姥津命のことは伝廿二の四十八葉、彦國葺命のことは伝廿三葉の七十四葉で言った。】○追退(おいそけ)は上に「相戦い」とあるのから続いていて、太子の御方の軍が忍熊王の軍を追い払ったということだ。○還立(かえりたち)は、忍熊王の軍が追われて山城までは引いたが、そこでまた体勢を立て直して向かってきたのである。書紀には「忍熊王の軍は逃げて菟道(うじ)に到り、そこでまた戦った」とある。菟道は山城の宇治である。【ただし書紀は、この時まではまだ戦わず、ただ菟道まで退却した様子で、この記の趣とは違う。】○各不退(おのもおのもしりぞかず)とは、忍熊王の軍はここに到って退かず、また太子の軍も退かなかったことを言う。書紀には「皇后は紀伊国に到って太子と日高で出会い、群臣と協議して、とうとう忍熊王を討とうと決心した。そこで小竹宮(しぬのみや)に移って、・・・三月、武内宿禰と和珥臣の祖、武振熊に命じて、数万の衆を率いて忍熊王を討たせた。そのとき武内宿禰は精兵を選んで、山背から菟道に出て、河の北で待機した。忍熊王は陣営を出て戦おうと思った」とある。【ここに「太子」とあるのが、三年の文(皇太子とある)と合わないのはどうしたことか、しかしここにある文の方が古伝のままだろう。書紀は、概して漢文のために傷ついているが、時々取り外して、このように古伝のまま書いている。この段の書紀の趣では、太子を武内宿禰に託して、南の海路を紀伊へ行かせ、皇后の船はまっすぐ難波に向かったが、結局難波に到着せず、紀伊国に行って太子に再会している。この記の趣はそうでなく、大后も太子も、共に同じ海路を進んでいる。】○「令レ云2・・・故無1レ可2更戰1」。前に太子は既に死んだといった。今度は大后も崩じたので、王【忍熊王】を除いて他に君はいないから、戦う必要はないと言わせて、忍熊王に帰順する振りをしたのである。【前の文で「その喪船から軍を出して相戦った」とあるのは、その時もう喪船が擬装だとばれていたように聞こえるが、そうではない。その時ばれていたら、太子が死んだということは嘘だと、敵方にも知れていただろうから、ここでまた大后が死んだと同じような嘘を言っても、敵も信じるはずがない。とすると、ここでこう謀ったのは、喪船から軍を出したときも、やはり喪船は本物として、偽りだとは気付かず、太子は死んだと思い込んでいたのである。書紀はこのところの趣が違う。後に引用する。】○弓絃は、【「絃」の字は「弦」の誤りかとも言えそうだが、いにしえには通わせて、こうも書いたのだろう。】「ゆづら」と読む。万葉巻二【十一丁】(99)に「梓弓都良緒取波氣(あずさゆみつらをとりはけ)」、巻十四【十六丁】(3437)に「都良波可馬可毛(つらはかめかも)」【「はく」は弓に弦を張ることを言う。】だが書紀の仁徳の巻の歌によると、「ゆづる」と読むのも悪くない。【いにしえは「つら」とも「つる」とも言ったのだろう。草の葛(つら)も今は「つる」と言っている。上記の万葉の歌を師は「連なり緒」の意味だと言ったが、疑問である。】和名抄には「弦は『ゆみづる』」とある。○欺陽は「いつわりて」と読む。【「陽」は「佯」と同じで「詐(いつわり)」である。】○歸服は「まつろいぬ」と読む。○其將軍(そのいくさのきみ)は伊佐比宿禰である。○既(すでに)は【旧印本では誤って「帥」と書いてあり、師は「即」の誤りだと言ったが、諸本にいずれも「既」とある。】ことごとく、全くの意味である。【このことは前にも述べた。】○信は「たのみて」と読む。○弭は「はずし(旧仮名ハヅシ)」と読む。【この語を仮名書きした例は古い書物に見当たらないので、「ヅ」は「ズ」かも知れないが、取りあえず一般に書き習わしている書き方に従っておく。さらに考察する必要がある。あるいは「はじき」とも読むべきか。万葉巻十四に「美知乃久能安太多良末由美波自伎於伎弖(みちのくのあだたらまゆみはじきおきて)」とあるのは、弦を外して置くことを言う。】○「藏レ兵(つわものをおさめ)」とは、持っている刀を鞘に入れるなどすることを言う。○頂髮中は「たぎふさのなか」と読む。書紀でここを「髮中」とあるのもそう読んでおり、景行の巻に「頭髻(たぎふさ)の中に矢を隠す」、崇峻の巻に「四天王寺の像を作って頂髮(たぎふさ)に置く」なども、みなそう読んでいる。「たぎ」は髪を上げたのを言う。「ふさ」はその上げて集めた髪を束ねたところを言う。「總(ふさ)」や、沢山のものを統べ集めるのを「ふさねる」などと言うのと同じ言である。【万葉に「髪たぐ」という語がしばしば出る。挙げることである。またものがたくさんあるのを「ふさ」と言う。】つまり「頂髮」は、後世に言う「もとどり」のようなものである。【そのため師は直接に「もとどり」と読んだが、それは中昔以降の言葉に聞こえる。】ここからは、太子の御方のことである。○設弦は、「まけたるつる」と読む。【「まけ」は「もうけ(旧仮名マウケ)」である。「まうけ」と言うのは、後世に音便で「う」が加わったのであって、古言は「まけ」である。「つる」は「つら」とも読める。】ところが師はこれを「うさゆづる(予備として持っておく弦)」と読んだ。それももっともな読みだが、やはりよく考えると「うさゆづる」を持つのは当たり前のことで、切れたときのために必ず準備しておくものだから、敵を欺いて、弓弦をみな捨て去るのであれば、その「うさゆづる」も断ち切って捨てたに違いないと思う。【そうでなければ敵はきっと疑っただろう。】とすると、その普通に持っている「うさゆづる」はみな切り捨て、これはそれとは別に隠し持っていた弦だから、「うさゆづる」とは書かなかっただろう。【もし「うさゆづる」と書けば、普通に決まって持っていた予備の弦と紛らわしいからだ。】特別に髪の中に隠し持っていたことをよく考えて、普通の「うさゆづる」とは違うことを知るべきだ。【必ず持っている「うさゆづる」は隠すようなものではない。ただし、後に引く註のない本によると、やはり「うさゆづる」と読むのも間違いではない。というのは、目にも露わに準備しているのと、隠して持っておくのと、違いはあっても、いずれもあらかじめ準備するのだから、やはり「うさゆづる」と読んでもおかしくはないからだ。ただこの記の例からすると、「うさゆづる」と読むのであれば、仮名で書くべきところを「設弦」と書いたのだから、訓注で「これを『うさゆづる』と読む」とあるはずだが、それがない。あれこれ考え合わせると、やはりそうは読まないと思う。】○註に「一名は宇佐由豆留(うさゆづる)」とあるが、真福寺本にはこの注はない。師も後世の人が書き入れたのだろうと言っていた。【それは、既に本文を「うさゆづる」と読んでいたので、こんな注がある道理はないと思ったのだろう。】それもよく言われることである。【というのは、「うさゆづる」という言葉は仁徳紀の歌に見えて、たいへん古いものだから、直接本文で言えばいいことで、わざわざこれを「一名」として注するまでのことではない。この名の他に「まけづる」などという名もあって、それに基づいて書いたのであれば、この一名を書く必要はなかった。とすると、本文にある「設弦」がつまり「うさゆづる」であることを知らない誰かが、上記の歌をもとに、こう注したとも考えられるからだ。】しかしもっと考えると、上記のように本文では、弓を持つ物が決まって持っているはずの「うさゆづる」とは違うものだったから、「設弦」とわざわざ書くことで、それは違うと示したのだが、世人はやはり普通に持っている「うさゆづる」と混同して、そう読む可能性があるから、そうではないぞと念を押すために、「一名」と書いて確かにしようとしたものかも知れない。【ある人は、「もし『設弦』を『うさゆづる』と読まないことを示すなら、『うさゆづる』とは違うと書くべきだろうに、『一名云々』とあると、同じ物にしか聞こえないだろう」と言った。答え。「それは確かにその通りで、たいへんまぎらわしい注である。今の人なら、こんな注はしないだろう。だがいにしえにはこういう注のしかたも、それほど精細でなく、おおらかなものだったから、今の人が聞くと、何だか不確かに聞こえることも多かった。だからこの注もその意味で見ると、こう書いてあってもおかしくはない。というのは、はっきり目に見えて用意してあるものと隠し持っているものとの違いはあっても、これも『うさゆづる』の一種には違いないから、『うさゆづるではない』とも言えないので、『一名云々』と注して区別したのだ。『うさゆづる』を『一名』と書いたからには、直接『設弦』を『うさゆづる』と読むのではないことが分かるからである。とすると、この注は必ずしも後世の人の注とは言えないことになる。」】だからここは取りあえず諸本のままに書いておく。「うさゆづる」は、取り替え用に用意しておく弦である。書紀の仁徳の巻の歌に「于磨臂苔能、多菟屡虚等太弖、于磋由豆流、多由麼菟餓務珥、奈羅陪弖毛餓望(うまひとの、たつることだて、うさゆづる、たゆまつがんに、ならべてもがも)」、【「うま人」は貴人を言う。契沖が物部(もののふ)と書いたのは誤りである。初めの二句は、「うさゆづる」に係っているのではない。「ことだて」は体言(名詞)に読むべきである。「太」の字は濁音に読む。万葉巻十八(4106)に「世人能多都流許等太弖(よのひとのたつることだて)」とあるのも同じ。同じ巻(4094)に「大伴等・・・立流辭立(おおともと・・・たつることだて)」。これは用言(動詞)として言っている。前後の言葉で判断すべきである。この歌の意味は、例えば弓弦が切れたら、代わりに「うさゆづる」があるように、貴人が立てる「事立て」であれば、后妃を並べて用意しておくべきだという意味である。】またこの段には「儲弦」と書いて「をさゆづる」と読んでいる。【「を(ローマ字:wo)」は「う」にたいへん近く、通音である。この読みは、仁徳紀だけで見ると「うさゆづる」とあるべきだが、「をさゆづる」と読んでいるのは、通音なのでそうも言った古言が残ったのだろう。契沖がこの名を解釈するのに、「藏弓弦(おさめゆづる)」の略だと言ったのはおかしい。】軍防令に「およそ兵士は【云々】各人に弓一張り、弓弦袋一口、副弦二條」と見え、江家次第【賭射(のりゆみ)條】に「射手・・・弦が切れたら、替わりの弦を掛けて、弓場の柱に当てて張る」、また【射場始めの條】に「射手の弦が切れたら、跪いて弦を掛け替えて云々」、【中右記の弓場始めのところに、「替わりの弦を懐から出して弓に掛け云々」とある。】などが見える。書紀には「武内宿禰は三軍に指令してみな髪を上げさせ、『それぞれ髪の中に用意した弦を出し、木刀を帯びよ』と言った。この時皇后の命を受けて、忍熊王に『われわれは天下を貪ろうとは思っていない。ただ幼い王を抱いて、それに従おうとしているだけだ。何を互いに間を隔てて戦うことがあろうか。願わくば共に弓弦を切り、兵器を捨てて和合しようではないか。そうすれば君王は天業(あまつひつぎ)を無事に治め、枕を高くして休むことができ、政一切を安らかに執れるというものだ』。表面上は軍に指令してすべての弓の弦を断ち、刀を外させて、河水に捨てさせた。忍熊王はその言葉を信じて、軍衆に指令して、兵器を解いて河水に投げ入れ、弓弦を斬らせた。すると武内宿禰は三軍に指令して、準備して置いた弦を取り出させ、新たに張って、眞刀を帯びさせ、河を渡って軍を進めた」とある。○逢坂(おうさか)。この名は書紀に見え、後に引く。孝徳紀の大化二年の詔に「およそ畿内は、東は・・・南は・・・西は・・・、北は近江の狹々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)よりこちらを畿内とする」とあり、山城と近江の堺にあって、近江に属している。【今の大津の西にある坂道がこれである。】万葉巻六【三十五丁】(1917)に「大伴の坂上の郎女が賀茂神社に参詣したとき、相坂山(おうさかやま)を越えて近江の海を望見して・・・木綿疊手向乃山乎今日越而(ゆうだたみたむけのやまをきょうこえて)」、【手向山は即ち逢坂山である。】巻十【五十五丁】(2283)に「吾妹兒爾相坂山之皮爲酢寸(わぎもこにおうさかやまのはたずすき)」、巻十三【六丁】(3238)に「相坂乎打出而見者淡海之海、白木綿花爾浪立渡(おうさかをうちいでてみればおうみのみ、しらゆうはなになみたちわたる)」、また(3237)「未通女等爾相坂山丹手向草麻取置而(おとめらにおうさかやまにたむけぐさぬさとりおきて)」、巻十五【三十五丁】(3762)に「和伎毛故爾安布左可山乎故要弖伎弖(わぎもこにおうさかやまをこえてきて)」などがある。○逃退(にげしりぞき)は、忍熊王の軍である。○對立(むきたち)は、また留まって、太子の軍に向かい立ったのである。○亦戰(またたたかう)。これで戦うのは三度目になる。○追迫敗(おいせめやぶり)は、太子の御方の方から言っている。前に追退(おいそけ)と言い、追撃(おいうち)と言い、ここでは追迫(おいせめ)と言う。段々と忍熊王の軍を追い詰めて行ったのである。【「せむ(せめる)」というのは、「令レ迫(せまらしむる:追い詰める)」ことである。この記では「迫」の字を書いていることが多い。】上巻に「建御名方命・・・逃去、故追往而迫=到2科野國之洲羽海1將レ殺時(タケミナカタのミコト・・・にげいにき、かれおいゆきてシナヌのクニのスワのウミにせめいたりて、ころさんとするときに)云々」とあった。○沙々那美(ささなみ)は近江国の地名で、その由縁は師の冠辞考に詳しく説かれている。【志賀は古くから広い範囲を指す名で、郡の名にもなっているが、もっと古くは沙々那美が志賀よりも広い範囲を指していたらしい。万葉の歌などでは「沙沙那美の志賀」と読んだ例が多く、「志賀の沙沙那美」と言った例はない。また巻九(1715)には「樂浪之平山(ささなみのひらやま)」ともあるから、比良山のあたりまでも含んでいたのだろう。綺語抄に「考えるに、近江国志賀郡にささなみ山がある。『志賀のささなみ』と言うべきところを『ささなみや志賀の』と言い伝えたのは、そう言う理由があるのだろう」と言う。】明の宮の段の歌に「佐々那美遲(ささなみじ)」【「遲」は「路」である。】ともある。○出(いでて)は真福寺本によった。この字は、諸本に「於」とある。【「出」と「於」は、草書体ではよく似ているので、誤ることがある。出雲国風土記を各本付き合わせてみると、この二字を誤っている例が多い。】「於」とあるのを採用するなら、上の「敗」に返って「沙沙那美に敗りて」と読む。【「沙沙那美で敗った」ということだ。書紀にこの巻の歌に「于泥珥等邏倍菟(うじにとらえつ)」とある。これも「宇治で捕らえた」ということである。または、「敗」の字が「到」の誤りかも知れない。】しかしここは「出」というのが面白い。というのは、山城の宇治から山科を経て逢坂までは、すべて山深い路であるが、逢坂山を東に越えると沙沙那美の地となり、湖に向かって大きく開けた景観は、まさしく「出た」と言うべき地形である。上記の万葉の歌に「逢坂を打ち出て見れば」とあるのを考えれば分かる。また後世このあたりに「打ち出の濱」というのがあるのもこの意味である。【拾遺集(982)に「近江なる打出の濱の打出て云々」とある。】○其軍(そのいくさ)は忍熊王の軍である。書紀によると「忍熊王は欺かれたことに気付くと、倉見別と五十狹茅宿禰に『私はすっかり騙された。もう予備の武器もない。どうして戦うことができよう』と言った。そこで兵士を連れてやや退いた。武内宿禰は精兵を出して追い、たまたま逢坂で出会って、忍熊王の軍を破った。そのためその場所を逢坂と言う。軍衆は逃げだしたが。狹々浪(ささなみ)の栗林(くるす)でその大勢を斬った。血が流れて栗林に着いた。そこでこのことを嫌って、今もその栗林の栗の実は、御所には進上しない」とある。【狹々浪の栗林は、催馬楽の鷹ノ子に「安波川乃波良乃美久留須乃(あわずのはらのみくるすの)」とあるところだろう。粟津原は志賀郡で、大津から勢多へ行く間にある。書紀に「瀬田濟(せたのわたり)に沈んで死んだ」とあるのによく適合する。このあたりもいにしえには沙々那美の地だった。】○「浮レ海(うみにうかび)」というのは、陸路で追い詰められ、行くところがなくなった【瀬田の濟の岸に追い詰められたのである。】ので、海に逃げたのだ。書紀には「忍熊王は逃げて行くところがなかったので、五十狹茅宿禰を呼び、歌って云々」とある。○伊奢阿藝(いざあぎ)は「いざ吾君」である。「いざ」は人を誘う言葉で、ここでは最後の句の「迦豆岐勢那和(かづきせなわ)」に係っている。「阿藝」は明の宮の段の天皇の歌にも「佐邪岐阿藝(さざきあぎ)」、【「佐邪岐」は大雀命を言う。】書紀の同巻(應神)にも「伊奘阿藝(いざあぎ)」とある。どれも「吾君」である。崇神の巻に「叩頭したところを『吾君(わぎ)』という」とあるのは、延喜式神名帳に「和伎」とあるところだ。【山城国相楽郡、和伎坐天乃夫支賣(わぎにますあめのふきめ)神社がこれである。この社を今「湧出宮(ゆしゅつぐう)」と呼ぶのは、もとは「わぎ」だと知らないで、みだりに「わき」と読んだことから来た誤りである。】これで理解すべきだ。臣(やつこ)でも子でも、面と向かっては「あぎ」と呼ぶのが古代には普通だった。【契沖がこれを「吾子(あご)」としたのは間違いである。】ここは伊佐比宿禰を「吾君」と呼んだのだ。書紀では、これに続いて「伊佐智須區禰(いさちすくね)」という句がある。○布流玖麻賀(ふるくまが)は「振熊が」で、太子の側の将軍の名として前に出た。書紀では、この句は「多摩岐波屡、于知能阿曾餓、句夫菟智能(たまきわる、うちのあそが、くぶつちの:たまきわる内の朝臣が頭槌の)」と三句になっている。○伊多弖淤波受波(いたておわずは)は、「痛手を負わずは」である。痛手については白檮原の宮の段で「五瀬命は手に登美毘古の痛矢串(いたやぐし)を負った。そこで・・・『賤しい奴の痛手を負ったものだ』と言った」とあるところで言った。【伝十八の三十八葉】この「負わずは」は「負うよりは」ということである。これは古語の言い方であって、万葉に廿余首の例がある。私は前に「詞瓊綸(ことばのたまのお)」【七の巻、古風の部】でみな引用して論じた。いずれも「こんなことになるくらいなら、こうしよう」という意味のことを「かくあらずは」と言っている。【一例を引くと、巻二(86)に「如此許戀乍不有者、高山之磐根四巻手、死奈麻死物乎(かくばかりこいつつあらずは、たかやまのいわねしまきて、しなましものを)」とあるのは、「これほど恋い焦がれながら生きるよりは、いっそ死んでしまいたいものを」という意味である。他もこれと同じだ。ところがこういう言い回しを世間にはよく分かっている人がいないので、その歌ごとにいろいろ難しい説明を考え出して解説するが、どれも明らかでない。ここの歌も契沖は「痛手を負ってしまっては動作も不自由になり、入水もできないだろう。今まだそこまでの傷は負っていないから」という説明をしたが、とても納得できない。もう死のうとしているときに、「それほどの傷は負っていないから」などと言うのは、おかしな言い方である。「痛手を負うよりは」と解すると、明白なことではないか。】○邇本杼理能(におどりの)は「ニオ(辟+鳥)ドリ(へんに褫のつくり+つくりに鳥)の」である。和名抄に「郭璞の方言の注にニオドリは野鳧(のがも)の小さいもので、好んで水中に潜る。和名『にお』」【この文には誤りがある。楊子方言に「野鳧の小さいものは、好んで水中に潜る。これをニオドリという。大きなものは鶻テイ(鳥+褫のつくり)という」とある。】とあり、今「かいつぶり」と呼ぶ鳥である。地方によっては、今も「にお」、「みお」とも言う。ここは続く一句を隔てて「かづき(潜り)」の枕詞になっている。【後世の歌に「にほてるや近江の海」と詠んでいるのは、この歌の言葉の続けから、この句を直接次の「近江」に続くものと考え、同時に「にほとり」を「にほてる」に取り違えたのである。近江の湖を「にほの海」と詠むのも、この歌の枕詞を間違って解したためで、「青丹よし國内押照宮(あをによしくぬちおしてるみや)」というたぐいだが、「にお」はこの海には縁がない。この「にほてるや」、「にほの海」には様々の説があるが、みなこじつけである。元の言葉を考えて理解せよ。】書紀と合わせて知るべきである。明の宮の段の歌にも「美本杼理能迦豆伎(みおどりのかづき)云々」、万葉巻十四【九丁】(3386)に「爾保杼里能可豆思加和世乎(におどりのかづしかわせを)」、【これも「潜(かづ)く」意味で言いかけたのである。】巻四【五十丁】(725)に「二寳鳥乃潜池水(におどりのかづくいけみず)」などがある。【さらに師の冠辞考を参照せよ。】○阿布美能宇美邇(おうみのうみに)は「淡海の海に」である。【「淡海」はつまり湖のことだが、国名になったので、その淡海国の湖(うみ)という意味でこう言った。】書紀の建内宿禰の歌では、「阿布瀰能瀰(おうみのみ)」とも詠んでいる。【「う」を省いた例は多い。】なお書紀にはこの一句はない。○迦豆岐勢那和(かづきせなわ)は「潜きせん吾」である。【「吾は」とあるべきところだから、「和」の次に「波」の字が落ちているのかと師が言ったが、それは書紀のこの前の歌に「伊奘阿波那和例波(いざあわなわれは:いざ逢(あ)わな我は)」などの例があるのに依ってだろうが、「吾」とだけ言ったのも良い。】書紀には「和」の字はない。「潜(かづき)」は「頭衝(かづく)」という意味で、頭を衝(つ)き入れて水に潜るのを言う。それで水鳥が水に潜ることも、海人が潜って魚を取るのもそう言う。【後世に海人の潜ることにだけそう言うと思っているのは間違いである。】ここは海に飛び込んで死のうということだ。「勢那」は「せん(旧仮名セム)」と言うのと同じで、「む」を「な」と言った例は、万葉や書紀の歌にたくさん見える。これも「詞瓊綸(ことばのたまのお)」で多数の例を出して置いた。参照せよ。【ただし「む」と言うのは自分のことにも言い、人や物についても言うが、「な」は自分が主格のことについてのみ言い、他のことには言わない。これが「む」と「な」の違いである。】書紀でこの前に出る歌に「伊奘阿波那(いざあわな)」とあるのも「逢おう」ということだ。このことでも知るべきである。【契沖が「勢那」は「せんな(旧仮名セムナ)」、「阿波那」は「あわんな(旧仮名アハムナ)」だと言ったのは違っている。】○この歌全体の意味は、もはやどこにも逃れられないのに、なおも建振熊に攻め寄せられ、その痛手を負わされて、苦しんで死ぬよりは、私はいっそこの海に飛び込んで死のう。さあ、吾君(あなた)も一緒に死のうと言ったのである。○共(ともに)は伊佐比宿禰と共にということである。書紀には「すぐに共に瀬田の濟に飛び込んで死んだ。武内宿禰は、『阿布彌能彌、齊多能和多利珥伽豆區苔利、梅珥志彌曳泥麼、異枳廼倍呂之茂(おうみのみ、せたのわたりにかづくとり、めにしミエネバ、いきどおろしも)』と歌った。【この終わりの二句は、二人の遺体が見つからないことを不審に思ったのである。】そこで遺体を探したが見つからない。数日後に菟道河(うじがわ)に遺体が浮かんだ。武内宿禰はまた歌って、『阿布瀰能瀰、齊多能和多利珥介豆區苔利、多那伽瀰須疑弖、于泥珥等邏倍菟(おうみのみ、せたのわたりにかづくとり、たなかみすぎて、うじにとらえつ)』と言った。【「とらえつ」と言うのは「鳥」と言ったからである。摂津志に、『河邊郡中山寺村の中山寺。寺の背後に荒れ果てた墳墓があり、鍵塚と言う。忍熊王の墓と言い伝える。』とある。】<訳者註:「たなかみすぎて」の「たなかみ(田上)」は、岩波古典文学大系本の注によると、近江国栗太郡の上田上村・下田上村を言うそうである。大津市に田上の付く地名が幾つかある。「中山寺の古墳」は不明だが、白鳥塚という横穴式古墳があるそうだ。>

 

故建内宿禰命率2其太子1。爲レ將レ禊而。經=歴2淡海及若狹國1之時。於2高志前之角鹿1造2假宮1而坐。爾坐2其地1伊奢沙和氣大神之命。見レ於2夜夢1云。以2吾名1欲レ易2御子之御名1。爾言祷。白之恐隨レ命易奉。亦其神詔。明日之旦應レ幸レ於レ濱。獻2易レ名之幣1。故其旦幸=行2于1レ濱之時。毀レ鼻入鹿魚。既依2一浦1。於レ是御子令レ白レ于レ神云。於レ我給2御食之魚1。故亦稱2其御名1號2御食津大神1。故於レ今謂2氣比大神1也。亦其入鹿魚之鼻血シュウ(自の下に死)故號2其浦1謂2血浦1。今謂2都奴賀1也。

訓読:かれタケウチのスクネのミコト、ひつぎのミコをいてまつりて、ミミソギせんとして、オウミまたワカサのクニをへしときに、コシのみちのくちのツヌガにかりみやをつくりてマセまつりき。かれそこにますイザサワケのオオカミのミコト、よるのイメにみえて、「アがなをミコのミナにかえまくほし」とノリたまいき。かれことほぎて、「かしこしミコトのまにまにかえまつらん」ともうしき。またそのカミのりたまわく、「あすのあしたハマにいでますべし。ナカエのいやじりたてまつらん」とのりたまいき。かれそのつとめてハマにいでませるときに、ハナやぶれたるイルカウオ、すでにひとうらによれり。ここにミコ、カミにもうさしめたまわく、「われにミケのナたまえり」ともうさしめたまいき。またそのミナをたたえてミケツオオカミともうす。かれいまにケヒのオオカミとナモもうす。またそのイルカウオのハナのチくさかりき。かれそのうらをチウラといいしを、いまはツヌガとぞいうなる。

口語訳:建内宿禰は太子を連れて、禊ぎのために近江から若狭を経て、越前に到ったとき、角鹿に行宮を建てて、そこに太子を住まわせた。ところがその地の伊奢沙和氣大神の命が夜の夢に現れ、「私の名を変えて、太子の名を頂きたい」と言った。そこで言祷いで、「畏れ多いことです。おっしゃる通り、御名を奉りましょう」と答えた。神はさらに「明日の朝、浜へ出なさい。名換えの徴の贈り物をあげよう」と言った。言われた通り、早朝浜へ出てみると、鼻先にけがをして弱った海豚が、もう浦一杯に流れ寄っていた。そこで太子は神に対して、人に「私に食事の魚(な)をくださいました」と言葉を述べさせた。またその神を称えて御食津大神と言った。そのため今も氣比大神と言う。またその海豚の鼻の血は臭かった。そこでその浦を血浦と呼んだ。今は「つぬが」と言う。

率は「いてまつりて」と読む。【師は「て」を除いて「いまつりて」と読んだ。実際、理屈から言うと「いてまつる」とはおかしい言い方で、他の言葉に続くときに「てまつる」と言った例もない。しかしこれはどういうわけか、いにしえから「いまつる」とは言わない。「て」を添えて「いてまつる」と言うのが普通だろう。】書紀の清寧の巻に「小楯(おたて)らは億計(おけ:後の仁賢天皇)、弘計(おけ:後の顕宗天皇)を連れて(奉り:いてまつり)、攝津國に到った」、孝徳の巻に「(白雉四年)皇太子(中大兄皇子)は皇祖母尊(みおやのみこと:皇極上皇)、間人皇后、および皇弟らを引き連れて(奉り:いてまつり)、倭の飛鳥の河邊の行宮に行って住んだ」、また「(白雉五年)皇太子は皇祖母尊(みおやのみこと:皇極上皇)と間人皇后を引き連れて(奉り:いてまつり)、難波の宮に行った」、これらの「奉」をみなそう読み、物語書などでも「ゐてたてまつる」と言っている。【「〜し奉る」と言うのを古言で「まつる」と言ったが、中古以降は「たてまつる」と言った。とすると「いてたてまつる」と言うのは古言の「いてまつる」に相当する。】○禊は上巻に出た。【伝六の四十三葉】「御」を添えて「みみそそぎ」と読む。【ここは太子に禊ぎをさせるために連れて行ったのだから、「禊ぎせさせまつらんとして」と読むべきように見えるが、やはり「禊ぎせんとして」と読む方がいいだろう。】○「經=歴2淡海及若狹國1(オウミまたワカサのクニをへし)」。そもそもこの禊ぎを何のために行ったかは分からない。多分上代には、貴賤を問わず、心にかかる罪穢れ、禍事、祈願の事などがある場合はもちろんだが、何となくすることもあったのだろう。その軽い禊ぎは普段住んでいる場所の近くの海川で行い、重い場合は遠くの海辺まで出かけて行ったのだろう。【万葉巻四(626)に「君により言(こと)の繁きを故郷の飛鳥の川に潔身(みそぎ)しにゆく。一尾云龍田越え三津の濱べに潔身しにゆく」、巻六(948)に「其の佐保川に・・・解除(はらへ)てましを、往水(ゆくみず)に潔(みそぎ)てましを」、巻十一(2403)に「玉久世の清き川原に身祓(みそぎ)して齋命(いはふいのち)は妹がためこそ」などがある。】また一ヵ所に限らず、数ヵ所を経て重ねてすることもあったのだろう。【齋王が伊勢に赴くとき、その途上、六ヵ所で禊ぎを行った。任を終えて京に帰るときには、難波に下って、三ヵ所で禊ぎをした。これらは上代の儀式のやり方が残ったのである。後世には「大七瀬」、「小七瀬」、「靈所七瀬」と言って、そこで禊ぎをすると決まった場所があった。大七瀬は難波、田蓑(たみの)嶋、河後(かわじり)、大嶋、橘の小嶋、佐久那谷(さくなだに)、辛崎であった。小七瀬はすべて鴨川で、川合、一條、土御門、近衛、中の御門、大炊の御門、二條などの末(河辺という意味か)である。靈所七瀬は耳敏川(みみとがわ)、河合、東瀧、松ヶ崎、石影(いわかげ)、西瀧、大井川である。河海抄に見える。これらも上代に数カ所で重ねて禊ぎをしたことが残ったのだ。源氏物語の「みをつくしの巻」に源氏の君が難波で七瀬の祓えをしたことが見える。また源氏の君が難波で祓えを行ったことは「明石の巻」の末にもある。】だからここも、淡海の海、若狭の海辺などでも禊ぎを行いながら、敦賀まで行ったのだろう。○高志前之角鹿(こしのみちのくちつぬが)。高志は越の國で、上巻【伝十一の三葉】に出た。その前(みちのくち)は越前國である。「前」のことは前【伝廿一の五十葉】でいった。和名抄に「越前は『こしのみちのくち』」とある。角鹿(つぬが)のことは後に言う。ここの文は、この前に「〜之時」とあるので、高志前という所も淡海・若狹の内にあるように聞こえるだろうが、これはいにしえの文の書き方で、淡海・若狹を過ぎて高志前に到ったとき、その国の角鹿で、という意味である。「經歴(へし)」とあるので、【「へし」と読む。これは、もう通り過ぎたということだ。】淡海・若狹はもう通り過ぎたということが分かる。【となると淡海・若狹を経歴したことは無意味なようだが、禊ぎしながら国々を通ったことを言うためである。】この越前国に到ったのも、やはり禊ぎのためだろう。○假宮(かりみや)は前に出た。【伝廿五の卅葉】○坐は「ませまつりき」と読む。このことも前に言った。【伝廿五の三十四葉】○伊奢沙和氣大神之命(いざさわけのおおかみのみこと)は氣比の大神である。【龍田の大神を「天御柱命國御柱命」と言い、出雲国造の神賀詞で出雲の熊野の大神を「櫛御氣野(くしみけぬ)命」、大三輪の大神を「倭の大物主櫛ミカ(瓦+髟のへん)玉命」というたぐいだ。】だがこのように普通に神の名を挙げるときに「〜之命」と言うことはないから、この「命」は神名に付いているのでなく、夢に現れて告げた、命ずる言葉を言ったのかも知れない。この段は、書紀では「十三年春二月、武内宿禰は太子を連れて笥飯(けひ)大~を拝ませた」とあるが、この記の記述によると、この浦で禊ぎをさせようとして連れてきたのだから、【この大~を拝むためではなかった。】ここに来たからこそ大神が夢に現れたという状況である。どちらが正しい伝えなのかは分からない。【書紀の記事を採るとすれば、この記の文には誤りがあるということかも知れない。というのは、禊ぎのために来たとすると、越前はあまりにも遠いからだ。逆にこの記の記述が正しいなら、書紀はこの記のような古記を、誤解して書いたのかも知れない。この大神を目指して拝むために来たと考えると、その理由が分からないからである。】ところで、この神社は仲哀天皇を祀っているという説【帝王編年記の仲哀天皇の段に、「今、氣比大明神はこの天皇である」とある。】は信じられない。【この説は、書紀の仲哀の巻に「二年二月、角鹿に行幸し、行宮を建てて滞在した。そこを笥飯宮という」とあるのと、この太子が笥飯大神に参拝したことを取り違えたことから出たのだろう。】どんな神なのかは定かでない。【承和六年に、遣唐使の船の帰着が困難だったので、住吉の神とこの氣比の神に幣帛を奉り、祈ったと続日本後紀に見える。住吉と同じようにこの神にも祈ったというから、何にせよ外国のことに関係のある神だろう。それについては、書紀の垂仁の巻の「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」、また「天日槍(あめのひぼこ)」などに関して思い付くこともあるが、定かでないので、言うことはできない。】○夜夢(よるのいめ)。夢を「夜の夢」と言ったことは、万葉巻五【十丁】(807)に「奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾(ぬばたまのよるのいめにをつぎてみえこそ)」など、他にも多い。これは太子の夢でなく、そのお伴の人の夢だろう。【建内宿禰の夢か、またはそれ以外の人でもあり得よう。】太子であったら、「御夢」と書いてあるはずだ。○「以2吾名1欲レ易2御子之御名1」は「アがなをミコのミナにかえまくほし」と読む。これは「自分の名を変えて、御子の名を頂き、自分の名にしたい」ということである。「易(かえる)」は自分の名を変えることで、御子と互いに名を交換するのではない。【「以2吾名1」という字面から考えると、「我が名を以て御子の御名にしよう」という意味にも取れて、「交換しよう」と言ったようにも聞こえるだろうが、そうではない。「以」の字は単に「を」という辞に使っているので、これに拘泥してはならない。ただ自分の名を変えたいということで、御子の名も変えようという意味ではない。取り違えないように。互いに交換するのであれば、上巻(海佐知毘古・山佐知毘古)に「各相=易2佐知1欲用(かたみにさちをかえてもちいん)」とあるように、文の書き方が異なる。見比べて区別を知るべきである。】<訳者註:岩波古典文学大系本では、神が太子の名を欲するというのは理不尽だから、反対に太子が神の名を貰ったのだろうと解釈している>○言祷(祷の正字は「示+壽」)は「ことほぎて」と読む。大殿祭の祝詞に「天津璽乃劔鏡乎捧持賜天言壽(あまつしるしのつるぎかがみをささげもちたまいてことほぎ)【古語に『ことほぎ』と言う。言壽の詞は、今の壽觴の詞と同様である。】宣志久(のりたまわしく)云々」、書紀の持統の巻に「壽詞(ことほぎこと)」などがある。「ほぐ」という言葉については、後の歌に「加牟本岐(かむほぎ)云々」とあるところで言う。ここは大神の名変えを祝福したのである。【師はこの「言祷」の二字を「ここには関係がない」と言い、「ここは『御子答白之(ミコこたえたまわく)』とあって、『言祷』はこの下の『故亦』と『稱2其御名1』の間に入れるべきだ」と言ったが、もとのままでも何の不都合があろうか。】○恐(かしこし)は、直ちに承諾し受け入れる言葉で、上巻にもあり、そこで例を引いて言った。【伝九の二十六葉】○易奉(かえまつらん)は、太子の名を神に譲り献げようということだ。そうすると神の名が変わることになるから、「易(かえ)」と言ったのである。【交換するのではない。】ところでこの御子の名は大鞆和氣(おおともわけ)命、またの名は品陀和氣(ほむだわけ)命とあった。ここで大神に譲ったのは、どちらの名かと言うと、後まで「品陀天皇」と言っているから、この名でなく「大鞆和氣」の方を譲ったのだろう。【とすると、ここ以降は、この御子は「大鞆和氣命」とは言わなかっただろう。】だからこの神は、もとは伊奢沙和氣と言ったが、この後は大鞆和氣と言ったのだろう。【ところがこの神は常に氣比大神と言っており、そういう名は伝わっていない。それはたまたま文書に現れないだけであろう。出雲の熊野の大神の名、櫛御氣野命や三輪の大神の名、櫛ミカ(瓦+髟のへん)玉命などというのも、出雲国造の神賀詞などに現れるだけで、世間では知られていないのと同じだ。】それが書紀の應神の巻に、「一説に、初め天皇が太子であった頃、越の國へ行って、角鹿の笥飯の大神を拝祭した。この時、大神は太子と名を交換した。それでこの大神を去來紗別(いざさわけ)神と言い、太子を譽田別(ほむだわけ)尊と呼ぶと言う。とすると大神の本の名は譽田別神と言い、太子は元の名を去來紗別尊と呼んでいたと考えられる。しかし文献などにそのことは出ていない。未詳である」と書いてあるのは、一書が誤っているのだ。【ここで挙げている「一云(あるいはいわく)」は一書の説であって、この記の伝えに似ているが、この記の主旨を誤って伝えたものだ。「とすると大神の本の名は」という部分から後は撰者の憶測に過ぎないが、これも本来の趣を取り違えていて、いい加減に解釈しているので疑わしい。この記をよく読めば、道理は明らかであろう。】○白之は「もうしき」と読む。この段では、太子はまだたいへん幼く、建内宿禰命が連れて行ったとあるからには、言祷も神への答えの言葉も、太子が自分で言ったわけはなく、建内宿禰の口から言ったに違いないからだ。【この事件の順序を考えると、「分かりました。変えましょう」と言ったのを先に述べて、言祷はその後にあったことと思われるが、その言祷を先に言っているのは、順序が逆のようだが、そうではない。こう言うのも古言の言い方で、実際の順序は「変えましょうと白(もう)した」のが先、「言祷白(もう)した」のは後だったのを、順序通りに言うと「白(もうし)」が重なって煩瑣だから、言祷を先に述べたのだ。これも古文の美しさである。】○亦其神詔(またそのかみのりたまわく)。この前にある「言祷云々」は、最初に夢に現れた翌朝のことだろうから、ここでの神の言葉は、またその日の夜に告げられたのだろう。これももちろん夢に見えたのだが、ここでは夢だと言わないのは、前に同様のことを語っているので、明らかだからである。○明日之旦は、師が「あすのあした」と読んだのが良い。【万葉巻十五(3769)に「安久流安之多(あくるあした)」ともある。書紀でに「明旦」を「くるつあした」とも読むが、ここはそういう読みではないだろう。】○濱(はま)は角鹿の浜である。○「應レ幸(いでますべし)」は、太子に出て来いと言ったのである。○易名之幣は「なかえのやじり」と読む。【俗言で言うなら、改名の祝儀の音物である。】「易名」は大神の名を変えることを言う。日本紀竟宴和歌に「木兎宿禰(つくのすくね)の題で【源兼似】、都玖數久禰、須女羅加美許珥、那加幣世流、許己路波幾瀰遠、伊婆布奈理氣利(つくすくね、すめらがみなに、なかえ(名易え)せる、こころはキミを、いわうなりけり)」とあるのは名を交換したのである。【こればかりと思い込んで、ここの「易名(なかえ)」も交換だと思ってはいけない。互いに交換するのでなくても、名を変えるのは「易名」と言うのだ。】「幣」を「いやじり」と読むのは、師が「遣唐使の時の奉幣の祝詞」に「禮代(いやじろ)の幣帛(みてぐら)」とあるのを考察した中で、「代(しろ)とはその奉る物実(ものざね)を言う。古事記の安康の段に『その妹の禮物(いやじり)として、押木(おしき)の玉縵(たまかづら)を持たせて献げた』とあり、崇神天皇紀に『香山(かぐま)の土を取って、その領布頭(ひれのはし)に包み、祈って(呪って)、これは倭國の物実、云々』、出雲国造の神賀詞に『神乃禮自利臣能禮自登、御祷乃神寳獻良久登奏(かみのいやじりおみのいやじと、みほぎのかむたからたてまつらくともうす)云々』とあるのを考えるに、『神乃禮自利』とは天穂日命以降の代々の神々の禮物である。『臣能禮自』とは国造の禮物である。『り』を省いたのは、祝詞の調子を整えるためだろう。また上に『禮代』とあるから、おおよそは分かるけれども、それを『じり』と言った『り』は『るし』が縮まったのであって、『禮(いや)のしるし』ということである。紀で『物實』を『ものしろ』と読んでいるのもこれと同じことだ」【ここまでは師の考察である。】とあるのに依った。ここは特に神よりも君【太子】に奉る幣だから、上記の「~乃禮自利」と同じだからだ。【普通「幣」の字は「みてぐら」、または「にぎて」としか読まないが、それは一般に人が神に献げる物を言う。神に献げるのも君に献げるのも、意味は同じだが、神が君に献げるのを「みてぐら」などと言うのは、ふさわしくない感じがする。人から人へ贈るときは「まい」とも読むが、ここは「まい」と読んでもおかしい。やはり「いやじり」と言うのがよく当たっている。】○其旦は「つとめて」と読む。夜に何かあって、明くる朝ということをこう言った。白檮原の宮の段で、高倉下のこともそう言っている。物語書にはよく使われる言葉である。○「幸=行2于濱1(はまにいでませる)」は、【「于」の字は、多くの本にはない。なくても悪くはない。ここは釈日本紀に引用したのと、真福寺本によっている。】太子が浜に出たのである。○毀鼻入鹿魚。「毀鼻」は「はなやぶれたる」と読む。【あるいは「はなかけたる」と読んでも良い。】このことは後に言う。「入鹿魚」は和名抄に「フ(魚+孚)フ?(魚+布)は臨海異物志によると、フフは大きな魚である。色は黒く、あるいは浮かびあるいは水没する。兼名苑にいわく、フフは一名鯆ヒ(魚+卑)、また一名フ(魚+敷)イルカ(魚+常)、野王が考えるに、一名『江豚』と言う。和名『いるか』」とあり、出雲国風土記の嶋根郡、南の入り海にある雑物の中に入鹿がある。新撰字鏡に「鮪は『いるか』」と書いてある。貝原氏は「海豚」をこの魚に当て、「長さ六尺ばかり、色は黒く、形は鯨のようで、豚にも似ている。ひれがあるが、足のようでもある。尾は二つに分かれ、鱗はない。くちばしはサヨリのように上下とも長く尖っている。皮が厚く、脂の多い魚である」と言っている。【今の漁師に聞いても、同じように言う。漢籍を見ると、フフ、江豚、海豚は同一物のようである。】○「既依2一浦1(すでにひとうらによれり)」。【真福寺本では「浦」を「津」と書いてある。それも悪くはない。】「既に」は、「太子がやって来たときには既に」ということだ。「一浦」とは、浦一面に満ちていたということである。【俗に「浦に一杯に」ということだ。】書紀の神代巻に「一箕に盛り」とあるのも箕に一杯に満たしたということで同じだ。宇津保物語に「いかき者ども、一山にみちて」、大和物語に「一寺(ひとてら)求めさすれど、更に逃(にげ)て亡(うせ)にけり」、【「一寺」は「寺の内ことごとく」の意味だ。】源氏物語【須磨】に「一宮(ひとみや)」のうち忍びて泣(なき)あへり」、蜻蛉日記に「一京(ひときょう)」などもある。涙を「一目浮(うけ)て」とあるのも、目に一杯浮かべてということである。このようにこの魚が寄り集まったのは、大神が太子に御饌の料として贈ったのであって、これがつまり名変えの幣(いやじり)だった。ところでこの魚が、みな鼻が破れていたのは、大神が既に捕らえていたからだ。【その捕らえる様子は、幽事(かみごと)だから、人の目には見えない。】これは、いにしえにこの魚を捕るのに、鼻を突いて捕ったからではないだろうか。だから鼻が破れていたのだ。【甕栗の宮の段の歌に、「志毘都久(しびつく)」とある。万葉の歌でも同様に詠んでいる。鮪(しび)は、今の世でも口を突いて捕ると言う。入鹿はどうやって捕るか知らないが、この段の話から考えると、きっと鼻を突いて捕るのだろう。紀伊国の熊野浦の漁師が語ったところでは、この魚は、多くは長さが八、九尺もあり、最大のものは一丈二、三尺にもなるという。「入鹿の千本づれ」と言って、頭をもたげておびただしく群れているものだと言う。逃げるのはたいへん速く、どんなに船を漕いでも追いつけない。だからこれを捕るには毛理(もり:銛)というものを用い、「夜那波(やなわ)」という四十尋の縄を付け、その端に浮きを付けて、その銛を投げる。この銛が体に刺さっても、なお逃げるが、第二の銛を投げて捕る。一頭を捕らえると、必ず二頭捕れる。というのは、一頭が銛を受けて逃げ遅れると、友を哀れむのか、群れの中の一頭が必ずその銛を受けた入鹿に付き添って泳ぐので、それも捕るという。銛というものは空高く投げ上げて、それが魚の上に上から落ちて突くものである。そして入鹿は鼻が上を向いているので、その鼻を突くことになる。そうでなければ「毀鼻」というのはここに関係がないことになるだろう。谷川氏が「たぶんこの魚は鼻が上を向いていて声を出す。だから『毀鼻』と言ったのだろう」と言ったのは納得できない。これは漢書(からぶみ)に「海豚は鼻が脳の上にあり、そこから声を出し、潮を噴き上げる」とあるのに依って書いたのだろうが、それはこの魚ならどれでもそうだから、特別に「毀鼻」とは言わないだろう。なお「鼻毀」でなく「毀レ鼻」と書いたのは、鼻を破って捕ったという意味合いだ。だがここで太子が見たのは、もう鼻が毀れた入鹿だったから、「やぶりたる」でなく、「やぶれたる」と読むべきである。】○令レ白(もうさしめ)。太子はまだ幼く、自分で物を言うことはなかったから、太子の命として、建内宿禰が言ったのだろう。だから直接に「白(もう)す」と言わないで、「令レ白」と言ったのである。○御食之魚は「みけのな」と読む。【魚はまた「まな」とも読める。上巻に「眞魚」とあったのと同じだからだ。】大神の御饌の料の魚である。【この「御食」を太子の食事の料の魚と解釈しても意味は通る。天皇は自分のことについても「御〜」と言うのが普通だから、太子も同じように自分の食事も「みけ」と言っただろう。しかし「於レ我」とあるところからの文脈を考えると、やはり神の御食の魚と考える方がいいだろう。】「魚」は、食事の料をどれも「な」と言う例である。【このことは前に述べた。】ここに「私に御食の魚(な)を下さいました」とある一言に、大神の恵みを深く感謝し、喜んだ心が自然に表れている。【古語は言葉が簡略であって、しかもこのようにめでたく語られる。書紀の漢ざまの潤色の、語が多くうるさいのと比べて考えよ。】○故亦(かれまた)。「亦」とは、既に自分【太子】の名を奉った上、さらにその名を讃えて言ったことをいう。○御食津大神(みけつおおかみ)という名は、【「津」の後に「の」を添えて読むのは間違いであることは、前に述べた。「津」は「の」の意味だから「つの」などと言った例はない。】「止由氣宮儀式帳」で天照大御神のお告げに「我御饌都神等由氣大神(わがみけつかみ・とゆけのおおかみ)」、延喜式神名帳に「神祇官に坐(ま)す御巫(みかんなぎ)の祭る神八座」の中に「御食津神」、【祈年祭の祝詞ではこれを「大御膳都神」と書いてある。】「大膳職に坐す御食津神社」、三代実録二に「河内国、恩智大御食津比古命の神、恩智大御食津比当スの神」、この他にもまだある。みな同じ神というわけではないだろうが、御食にちなむ神をこう呼んだのだ。ここでの神も御膳の料の魚を太子に与えたので、この名で呼んだのである。○氣比大神(けひのおおかみ)。この名の「氣」は「食(け)」の意味である。「比」は「産霊(むすび)」の「霊(ひ)」だろう。【「霊」のことは、伝三で言った。書紀には笥飯(けひ)と書いてあるが、その字の意味には当たらない。】御食津神と讃えたので、その意味で「食霊大神」と言ったのだ。またこの神の名から、その地を「氣比」と言うのである。書紀の垂仁の巻にすでにこの地の名が見えており、仲哀天皇二年にも笥飯宮とあるのは、後の名で語り伝えたのだ。ところでこの社は、延喜式神名帳に「越前国敦賀郡、氣比神社七座、並びに名神大」、【ある説にこの七座を御食津大神・仲哀天皇・應神天皇・神功皇后・建内宿禰・若武彦命・建功狹日命だという。これは根拠がはっきりしない。若武彦命と建功狹日命は、国造本紀から取ってきたのだろう。】持統紀に「六年九月、越前の国司が白い蛾を献じた。詔して、『白い蛾を角鹿郡の浦上の濱で捕らえた。そこで笥飯の神に二十戸を増封し、前例と同様にせよ』」、続日本紀卅に「・・・幣帛を越前国の氣比の神に奉った」、同卅四に「初めて越前国の氣比の神の宮司を置き、従八位の官位に準ずる」、続日本後紀四に「越前国の正三位勲一等、氣比大神の祝・禰宜を鹿島・能登の両大神の祝・禰宜に準じて、把笏を持たせた」、同八に「承和六年十二月、越前国の正三位勲一等、氣比大神に従二位を授けた」、文徳実録二に「嘉祥三年十月、越前国の氣比大神に正二位を与えた」、三代実録二に「貞観元年正月、越前国の正二位勲一等、氣比大神に従一位を授けた」、寛平五年十二月廿九日の格に「正一位勲一等、氣比大神宮」とある。【万葉巻十二(3200)に「飼飯乃浦爾依流白波(けひのうらによるしらなみの)」、巻三(256)に「飼飯海乃庭好有之(けひのうらのにわよくあるらし)」、などとあるのは、この浦を詠んだものかどうか分からない。「飼」の字も不審である。「笥」と取り違えて書いたのだろうか。なお巻十七(4025)に「赴=參2氣比大神宮1云々」とあるのは「氣多」を「氣比」に誤ったのである。氣多の社は能登国の羽咋郡にある。】○其入鹿魚(そのいるかうお)。【「其」の字を旧印本、および一本に「毀鼻」とあるのは誤りである。】○鼻血(はなのち)は、【「鼻」の字を旧印本および一本で「其」と書き、他の一本に「其鼻血」と書いてあるが、どれも間違いだ。】鼻が破れてその傷から血が出ていたのだ。○シュウ(自の下に死)は、【字書に「臭」の俗字とある。】「くさかりき」と読む。新撰字鏡に「シュウ?(口+シュウ)・嗅は同じ。『くさし』」、また「臭は『くさし』」とある。これは一浦を埋め尽くすほどの多数の海豚だから、その血の臭気も浦に満ちて、臭かったのだろう。だからこの浦の名にもなったのだ。【書紀の皇極の巻(二年)に「(八月)茨田池の水がシュウ(腐って)、大小の魚がシュウ(腐る)ことは、夏に魚が腐るような状態だった」、「(九月)茨田池の水が元に戻って白く澄み、シュウ(臭)気もなくなった」とある。<この項の「シュウ」はいずれも自の下に死>】○血浦は「ちうら」と読む。【師は「ちのうら」と読んだ。と言うのは「のう」が「ぬ」に縮まり、「つぬが」の音に近いからだ。しかし「う」と「ぬ」も音が近く、通わせた例も多いから、やはり「ちうら」と読むべきだろう。】○都奴賀(つぬが)は血浦から転じた名である。【また「血の臭(か)」が転じた名のようでもある。】書紀の垂仁の巻には「一説に御間城(みまき)天皇(崇神)の時、額に角のある人が船に乗ってやって来て、越の国の笥飯の浦に泊まった。それでそこを『角鹿』と呼ぶ。云々」とあり、伝えが異なる。この二つの伝えのどちらが正しいか分からないが、應神天皇の歌でも既に「都奴賀」と詠んでいるから、【もし初めは「血浦」と言ったなら、その名の由縁は應神天皇が目の当たりにしたことだから、歌でも「血浦」と言っただろう。またその御世はこの名の起こりからあまり時が経っていない。その短期間で、「つぬが」に転じたとは思えない。】書紀の方が正しいのではないだろうか。【ただしその額の角があった人を「都奴賀阿羅斯等(つぬがあらしと)」と言ったというから、角鹿はこの人の名に因むようだけれども、その名は皇国の言葉のように聞こえるから、本来の名ではなく、こちらが名付けたのだろう。もちろん額に角があったのでそう呼んだのだ。本来の名は「またの名」として書いたある方(于斯岐阿利叱智于岐:うしきありしちかんき)ではないだろうか。ただし「額に角があった」というのは、本当の角ではなく、頭にかぶっていた物の形が角に見えたのだろう。】ところでこの名は、後世には「つるが」と言う。和名抄に「越前国敦賀【つるが】郡」とあるのがそうだ。書紀の武烈の巻に、角鹿の鹽の話がある。国造本紀に「角鹿国造は、志賀高穴穂の朝の御代、吉備臣の祖、若武彦命の孫、建功狹日(たけいさひ)命を国造に定めた」、延喜式神名帳に「敦賀郡、角鹿神社」、万葉巻三【三十四丁】(366)に「角鹿の津から船に乗ったとき、笠朝臣金村が作った歌」として、「越海之角鹿乃濱從(こしのうみのつぬがのはまゆ)云々」、後撰集の別(わかれ)(1335)に「我を君思ひつるがの越(こし)ならばかへるの山は惑はざらまし」とある。【この二の句は、「思い出(いず)る」を「敦賀」に言いかけたのである。】

 

於レ是還上坐時。其御祖息長帶日賣命。釀2待酒1以獻。爾其御祖御歌曰。許能美岐波。和賀美岐那良受。久志能加美。登許余邇伊麻須。伊波多多須。須久那美迦微能。加牟菩岐。本岐玖琉本斯。登余本岐。本岐母登本斯。麻都理許斯。美岐敍。阿佐受袁勢佐佐。如此歌而獻2大御酒1。爾建内宿禰命。爲2御子1答歌曰。許能美岐袁。迦美祁牟比登波。曾能都豆美。宇須邇多弖弖。宇多比都都。迦美祁禮迦母。麻比都都。迦美祁禮加母。許能美岐能。美岐能。阿夜邇。宇多陀怒斯佐佐。此者酒樂之歌也。

訓読:ここにかえりまししとき、そのみおやオキナガタラシヒメのミコト、まちさけをかみてたてまつらしき。そのみおやのみうた。「このみきは、わがみきならず、くしのかみ、とこよにいます、いわたたす、すくなみかみの、かむほぎ、ほぎくるおし、とよほぎ、ほぎもとおし、まつりこし、みきは、あさずおせささ」。かくうたわしておおみきたてまつらしき。ここにタケウチのスクネのミコト、みこのためにコタエまつれるうた、「このみきを、かみけんひとは、そのつづみ、うすにたてて、うたいつつ、かみけれかも、まいつつ、かみけれかも、このみきの、みきの、あやに、うただぬしささ」。こはサカホガイのうたなり。

歌部分の漢字表記(旧仮名):「この御酒は、我が御酒ならず、酒の司、常世に坐(いま)す、石立たす、少名御神の、神壽き、壽狂ほし、豊壽き、壽き廻(もとほ)し、獻(まつ)り來し、御酒ぞ。乾(あ)さず食せささ」
「この御酒を、醸みけむ人は、その鼓、臼にたてて、歌ひつつ、醸みけれかも、舞ひつつ、醸みけれかも、この御酒の、御酒の、あやに、轉た樂しささ」

口語訳:都に帰ったとき、その御母の息長帶日賣命は、待酒を作って奉った。このとき御母が歌った歌に、「この酒は、私が作ったのではない。酒造りの神で、常世にいる、石のように立っている少名毘古那神が、神の祝福として、狂ったように祝福し、豊かに祝福し、この世の祝福のしるしとして、あなたに贈ってくださったものです。盃を乾かさないように召し上がれ。ささ」と歌って酒を奉った。そこで建内宿禰は、太子に代わって、「この御酒を造った人は。その鼓を臼に立てて、歌いながら作ったのだろう。舞いながら作ったのだろう。この御酒は、本当に飲めば飲むほど楽しい。ささ」と歌った。これは酒楽(ほが)いの歌という。

還上坐(かえりのぼりませる)は、太子が角鹿から倭京【書紀に「三年春正月、譽田別の皇子を立てて皇太子とした。そのため磐余を都とした。これを若櫻の宮という」とあるから、この京であろう。】へ帰ったのである。○御祖(みおや)。記中では御母をすべて御祖と書いている。○待酒(まちさけ)は、どこかから来る人に飲ませるため、作っておいて待つ酒である。万葉巻四の「太宰帥、大伴卿(旅人)の、大貳(だいに)丹治(たじひ)の縣守卿が民部卿に遷任するときに贈った歌」(555)に「爲君醸之待酒安野爾獨哉將飲友無二思手(きみがためかみしまちさけやすのぬにひとりやのまんともなしにして)」、【これは縣守卿が大貳だったとき、京に上ったことがあったが、そのまま民部卿に任ぜられ、筑紫へ帰らなかった。そこで、大伴卿が京へ贈った歌である。】巻十六(3810)に「味飯乎水爾醸成吾待之代者曾无直爾之不有者(うまいいをみずにかみなしわがまちししるしはぞなきただにしあらねば)」、【「直爾之不有者」は、待っている人がすぐに来なかったのである。】これも待酒である。書紀に「十三年・・・太子が角鹿から帰ってきた。この日、皇大后は太子を迎えて大殿で宴して、待酒を作って奉った。太子を壽(さかほがい)して歌って云々」<訳者註:宣長は書紀の記事を「待酒を醸みて」と訓読しているが、それに相当する文字はない。>○許能美岐波は「この御酒は」である。○和賀美岐那良受(わがみきならず)は「我が御酒ならず」である。自分が作った酒ではないという意味だ。後に続く言葉で、その意味合いを知るべきである。書紀の崇神の巻の歌にも、初めにこの二句がある。【後に引用する。】日本後紀に「延暦廿二年、遣唐使藤原葛野麻呂に酒を与えて、『許能佐氣波、於保邇波阿良受、多比良可爾、何陪理伎末勢止伊婆比多流佐氣(このさけは、おおにはあらず、たいらかに、かえりきませといわいたるさけ)』」とある。○久志能加美(くしのかみ)は「酒の上」である。それは横井千秋の考察によると、「くし」は酒の古名で、應神天皇の歌に「須須許理賀、迦美斯美岐邇、和禮惠比邇祁理、許登那具志、惠具志邇、和禮惠比邇祁理(すすこりが、かみしみきに、われえいにけり、ことなぐし、えぐしに、われえいにけり)」とある二ヵ所の「ぐし」がそうである。【これは他の言葉の続きだから「ぐ」と濁っている。】御酒(みき)、白酒(しろき)、黒酒(くろき)などという「き」は、この「くし」が縮まったのだ。【それを「さけ」とも言うのは、またの名で、縣居(あがたい)の大人(うし)=賀茂真淵の説で「酒(き)を『さけ』と言うのは、これを飲むと心が陽気に栄えるからで、『さかえ』が縮まったのだ」とある通りだ。】「かみ」は「上」である。長子を「子の上(かみ)」と言い、書紀で長首、魁帥、尊長などを「ひとこのかみ」、座長を「くらがみ」、氏上を「このかみ」、氏長を「うじのこのかみ」などと読んでおり、また諸司の長官を「かみ」と読む。これらの「かみ」と同じで、「酒の首長」という意味だ。【この「加美(かみ)」を多くの人は「神」だと考えている。それもおかしくはなく、すんなりと意味が通って聞こえるが、私の先生(賀茂真淵)の考えの通り、記中「神」の仮名は、みな「加微」と書いていて、「美」の字を使った例はないから、これは神ではない。】少名毘古那神をこう言ったのは、この神が特に酒造の神だとは物の本にないけれども、大穴牟遲神と相並んで国土を造営し、書紀に「大己貴命と少彦名命は力と心を合わせて、天下を経営した。また顯見蒼生(うつしきあおひとくさ=人間)と畜産のため、その病を癒す方法を定め、鳥獸や昆虫(はうむし)の災いを除くため、禁厭(まじない)の法を作り定めた。これによって、百姓は今もみな彼らの恩頼(みたまのふゆ)を受けている」とあり、万事のことはこの二柱の恩恵をこうむっているのだから、【万葉巻六(963)に「大汝小彦名能神社者名著始鷄目(おおなんじ・すくなびこなのカミこそはなづけそめけめ)云々」、巻七(1247)に「大穴道少御神作妹勢能山(おおなんじすくなみかみのつくらししいもせのやまを)」、巻十八(4106)に「於保奈牟知須久奈比古奈野神代欲里伊比都藝家良久(おおなんじすくなびこなのかみよよりいいつぎけらく)云々」などとあるように、国土の根本をこの二柱の神にかけて言うことが多い。】書紀の崇神の巻にも「天皇は大田田根子に大神を奉斎させた。この日、活日(いくひ)がみずから天皇に神酒を献げて、『許能瀰枳破、和餓瀰枳那羅孺、椰磨等那殊、於朋望能農之能、介瀰之瀰枳、伊句臂佐、伊久臂佐(このみきは、わがみきならず、やまとなす、おおものぬしの、かみしみき、いくひさ、いくひさ)』と歌い、神宮で宴を催した」ともある通り、酒の起源をこの二柱の神にあるとして、その神の授けた酒だと歌っていた【ここまでは千秋(横井千秋)の考察】という。この考えが当たっているように思われる。「くし」については、さらに應神天皇の歌のところ【伝卅三の四十五葉】で言うことも参照せよ。【契沖は「奇(くし)の神だ」と言ったが、師は「『奇』は用言(形容詞)だから、『の』とは言えない。『薬の神』だろう。『すり』は縮まって『し』になる」と言った。確かに「奇の」とは言わない。また「薬の神」と言ったかも知れないというのは、根拠のあることだ。ここは酒を褒め称えて言うのだから、特に関連があるように思われる。そうではあるが、「神」の「み」の仮名に「美」を用いた例は他になく、やはり上述の千秋の考察によるべきだろう。万葉巻七(1098)に「櫛上二上山」という言葉がある。この「櫛上」も正しくは「くしのかみ」と読み、ここと同じかと思ったが、やはり違ったことを言っているようだ。ところで「酒(くし)の首長(かみ)」と言うのは、今俗に何かの首長(つかさ)を水上(みなかみ)と言って、これは「源」と同じことだから、この神は「酒の源」、「酒の首長(みなかみ)」という意味にも通じ、なおさらよく当たっているように思われる。弘仁私記には「少彦神、これは酒造の神である。その跡は今も残っているそうだ」とあるが、根拠はあるのだろうか。ここの歌に依拠して言っただけか。その遺跡はどこにあるのか。これも「〜だそうだ」と言うからには、不確かな話のようである。】○登許余邇伊麻須(とこよにいます)は「常世の国に坐す」ということだ。上巻に「・・その後、少名毘古那神は常世の國に行ってしまった」とあり、この神は常世の国にいる神である。その国のことは、そこ【伝十二の九葉】で詳しく言った。【あるいはこれは「常世の国」を言っているのでなく、常住不滅の神として、今現にいることを言ったのだろうか。常住不滅を「常世」と言った例もある。それも伝十二の同じところで述べた。「常世の国」と解するなら、現世で常住不滅だという意味はなく、常住不滅と解すると、それは眼前のこの国にいることだから、常世の国という意味はない。どちらか一方だろう。上代の歌は、意味は一つであって、複数の意味を兼ねていることはなかった。なお「常世」の「とこ」は借字で、この文字の意味ではない。これも前述した。】○伊波多多須(いわたたす)は「石立たす」である。「たたす」は「立つ」を延ばして言った語で、【上巻に「『立』を『たたし』と読む」とあった。】「お立ちになっている」といった意味だ。この句の意味は、契沖は「弘仁私記に『石のように立っていることを言う』とある」と言った。考えるに、これは「立っている」という意味ではあるまい。ここでは「立つ」という意味は軽い。弘仁私記の述べるところも、「石が立っているようにおられる」ということで、結局は堅固に不滅に存在するという意味になるだろう。壽歌なのだから、そういう意味で歌うのが当然だ。延喜式神名帳には「能登国羽咋郡、大穴持像石(おおなもちのみかた)神社」、「同国能登郡、宿那彦神像石(すくなびこのみかた)神社」がある。また伝十二【十一葉】で引用した文徳実録八の「斉衡三年云々」の記事などを考えると、この神は何かと石に関係しているから、常世の国においても、その御霊は石の姿で立っているのかも知れない。【あるいは常世の国にいるというのは、この神が基本的には常世の国にいるということであって、眼前の皇国では、いろいろな箇所に石像として立っていることを言ったかも知れない。あるいは「常世」を常住不滅の意味に解するなら、「石立たし常世に坐す」と続く(枕詞的な)意味で、その像が石像とあいて立っているから、永遠不滅だと言ったのかも知れない。延喜式神名帳には「大和国添上郡、天乃石立(あめのいわたて)神社」というのもある。これはどんな神なのかは知らない。<訳者註:これは豊磐間戸命を祭るらしく、少彦名命とは無関係である。古事記伝には、あまり関係のない思いつきを述べたところも多い。宣長は古事記研究を志した頃、師の賀茂真淵が徐々に進めていた研究を見せて欲しいと懇願したが、「お前にはまだ早い」と突っぱねられ、辛い思いをしたことがある。そのためもあって、研究が未完成でも、思い付いたことはできるだけ公開しようと考えたらしい。その結果、明治皇国史観が隆盛になった頃には、宣長の思いつきに過ぎない論述までが聖典扱いされて、後代に大きな歪みを残すことになった。しかしこれによって古典研究が大きく進んだことも否定できない。>】○須久那美迦微能(すくなみかみの)は「少名御神の」ということで、少名毘古那神を言う。万葉巻七(1247)にも「少御神」とある。「御神(みかみ)」という例は「大御神」、万葉巻十七(3930)の「久爾都美可未(くにつみかみ)」、巻十八(4101)の「於伎都美可未(おきつみかみ)」などの例が見える。○加牟菩岐(かむほぎ)は「神壽」である。出雲国造の神賀詞に「神賀吉詞奏賜波久登奏(かむほぎのよごともうしたまわくともうす)」、持統紀に「天神壽詞(あめのかむほぎのことば)」、【これも神壽(かむほぎ)と続けて読む。「天神の」と切って読むのは良くないだろう。今は同じような言葉も「天神之」と「之」を添えて書かれているが、それは漢文を真似た書き方で、古語を考えないからだ。】などが見える。「かむ」は「神集(かむつどい)」、「神議(かむはかり)」、「神祝(かむほさき)」などの「神」と同じだ。「ほぎ」は、大殿祭の祝詞に「言壽は、古語で『ことほぎ』と言う」とあり、万葉巻十八【三十七丁】(4136)に「知等世保久等曾(ちとせほぐとぞ)」、巻十九【四十三丁】(4266)に「千年保伎保伎吉等餘毛之惠良々々爾仕奉乎見之貴左(ちとせほぎほぎきとよもしエラエラニつかえまつるをみるがとうとさ)」【「吉」の字は「言(いい)」の誤りか。】また【四十八丁】(4289)に「千年保久等曾(ちとせほぐとぞ)」、巻六【二十八丁】(989)に「祷豊御酒爾吾酔爾家里(ほぐとよみきにわれえいにけり)」、【倭姫命世記に「〜止國保伎白支(〜とクニホギもうしき)」、「〜止國保伎給支(〜とクニホギたまいき)」などもある。古事記のこの箇所では「ほぎ」という言葉が四回出る。ところがそのうち三回は「本岐」なのに、最初の句では「菩」の字を書いてある。これは読み方に違いがあるかとも思ったが、それほどのことではないのだろう。師もこの字に注目して、濁音ではないかと言ったが、この字は上巻で神名に使ったのも清音であった。次に「岐」の清濁だが、初めの巻で言ったように、「岐」は清音にも濁音にも用いるので、どちらに読むか決めがたいが、万葉巻十八、巻十九ともに「保久(ほく)」とあるから、「岐」も清音ではないだろうか。「ことほぎ」を後世「ことぶき」と「ぶ」を濁って「き」を清音に言うのも、「き」が本来清音だったためだと思われる。しかしながら、現時点ではやはり世間で言われるように、濁音に読んでおく。これはなお検討の必要がある。】この「ほぎ」を延ばして「ほがい」とも言う。そのことは次の「酒樂(さかほがい)」のところで言う。○本岐玖琉本斯(ほぎくるおし)は「壽ぎ狂おし」である。万葉巻四【五十三丁】(751)に「相見而者幾日毛不經乎幾許久毛久流比爾久流必所念鴨(あいみてはいくかもへぬをここだくもくるいにくるいおもおゆるかも)」。一般に「くるう」とは何かが定まり静まらないで、ここかしこ動き漂うのを言う。ここでは、あれこれと考えを尽くして様々に壽ぐということである。【「くるおし」というのは「くるう」ということでなく、何か事を狂わせることである。】万葉巻六に打酒歌(うちほがいのうた)(989)、「燒大刀之加度打放大夫之祷豊御酒爾吾酔爾家里(やきだちのかどうちはなちますらおのほぐとよみきにわれえいにけり)」、【「打酒」は、「祈酒(さかほがい)」の誤りだろう。「祷」も「ほぐ」と読むべきである。ここを「ねぐ」または「のむ」などと読むのは良くない。また初めの二句は誤字があるだろう。】この初めの二句も、壽ぐ動作を言うのだろう。ところでこの皇后の歌は、書紀では次の二句と前後入れ替わっている。○登余本岐(とよほぎ)は「豊壽ぎ」である。豊は豊樂(とよのあかり)、豊榮登(とよさかのぼり)【「豊御禊(とよのみそぎ)」とも言う。】などの「豊」と同じ。【これらは事(動作)について言っている。物について言った例はもっと多い。】○本岐母登本斯(ほぎもとおし)は「壽廻し」である。「廻(めぐ)る」を「もとおる」と言うのは古語では普通だが、「もとおし」と言うのは【「もとおらす」のことで、】「廻らす」のである。また「めぐる」を俗言で「まわる」と言い、「めぐらす」を「まわす」と言い、万事一点に留めるのでなく、これもあれも、ここもかしこも、ものを為し廻ることを「まわす」と言うことが多い。【「なで回す」、「叩き回す」などのたぐいだ。】また「思い回す」、「言い回す」などと言うのも、あれこれ考え合わせ、いろいろに言い換えてみて、善いように表現するのである。だから「もとおす」も俗言の「まわす」に相当し、【契沖が「今の俗語なら『祝いまわり』である」と言ったのは、もっともだ。ただし「もとおり」と「もとおし」の違いがあるから、「祝いまわし」の方がぴったりだ。】様々に壽ぐ意味で、前の「くるおし」と同様のことである。【甕栗の宮(清寧天皇)の段の歌に「斯麻理母登本斯(しまりもとおし)」は、単に回すことである。】宇治拾遺物語に「翁伸び上がり屈まりて、舞(まふ)べきかぎりすぢりもぢりゑい聲(ごゑ)を出して、一庭(ひとには)を走りまはり舞ふ」とある。この様子は「くるおし・もとおし」と言うのによく似ている。この二句は前述の通り、書紀では「かむほぎ」より前にある。○麻都理許斯(まつりこし)は「獻(献)り来し」である。「献(たてまつる)」は「まつる」とだけ言うこともある。万葉巻一【十九丁】(38)に「山神乃奉御調等(やまつみのまつるみつぎと)」、巻十八【三十二丁】(4122)に「萬調麻都流(よろずみつぎまつる)」など、この他にも多い。ここは少名毘古那神が常世の国から【「とこよ」を常住不変の意味にとるなら、どこからであれ、この~の許からと言うことだ。】献って来たことを言う。【「来た」というのは、この~が来たのではない。酒が来たのである。物を寄こしたのも普通に「来た」と言う。】○美岐敍(みきぞ)は、【三言一句】「御酒ぞ」ということである。○阿佐受袁勢佐佐(あさずおせささ)は、「あさず」は「あささず」か、または池や川の水がなくなって涸れるのを「あす」【「あせ」、「あする」と活用する。】と言うから、「乾せ」ということを「あさす」とも言うだろう。【俗言で言うと「あせさす」ということだ。万葉巻十四(3542)で馬を走らせるのを「はさせて」と言っている。】とすると「あささず」は「乾させず」ということになるが、同じ音が重なれば一つを省いて言うことが多いから、【「旅人」を「たびと」、「留(とど)まる」を「とまる」と言う例は多い。このことは前にも言った。】「あさず」と言ったのかも知れない。そうであれば、盃を乾かすことなく、次々に飲みたまえと勧めたのである。書紀の私記(弘仁私記)で「阿布佐須(アフサス)」と解釈したのは、【契沖は「その意味は知らない」と言ったが、】「放(旧仮名アフサ)ず」の意味のように聞こえ、そういう説もある。「アフサズ」は「ハフラサズ(放らさず)」のことで、万葉巻十九【三十九丁】(4254)に「四方之人乎母安夫左波受愍賜者(よものひとをもアブサワズめぐみたまえば)」【「夫」の字を、本では「天」に誤っている。】光仁紀の宣命に「大臣之家内子等乎母波布理不賜失不賜慈賜波牟(おおおみのうちのこどもをほうり(旧仮名ハフリ)たまわずうしないたまわずめぐみたまわん)」、源氏物語玉葛の巻に「落しあふさず取したゝめ給ふ」などあるのは、どれも同じことである。この意味だったら、なおざりに放り出さず、味わって飲みたまえと言ったのだ。【延佳は「不餘(あまさず)」と傍注を付けた。これは疑問だ。契沖は「『さ』と『か』は通音だから、『不飽(あかず)』か」と言ったが、「あかず」を「あさず」とは言わないだろう。師は「不浅」だと言ったが、それは「浅からず」という意味なのか、あやふやな解釈である。】「袁勢(おせ)」は「飲め」である。明の宮(應神天皇)の段で国主人(くずびと)の歌にも「・・・意富美岐宇麻良爾岐許志母知袁勢(おおみきうまらにきこしもちおせ)」とある。食うのも飲むのも、いずれも「おせ」と言った。書紀の神代巻に「飲食(みおしす)」、景行の巻に「その水を飲(おし)で」などがある。「佐々」は書紀の私記(弘仁私記)に「樂を言う。万葉集に『神楽』を『ささ』(3887?)、『樂浪』を『ささなみ』(この例多数)と詠んでいる」とあり、契沖は同書(弘仁私記)で「審~者(さにわ)」の解釈に、「沙庭・・・師(太安萬侶のことか)の説で、『沙は唱え進めるの意、出居~樂稱2沙佐之庭1<いでませる~の樂(出現した神の遊ぶところといった意味か)を沙佐之庭と言った>云々』」と言っているのを引用して、「『佐々』は弘仁私記に『人に勧める意味』とあり、今の世でも人に何かを強いて勧めるとき『ささ』と言うから、その意味だろうか。しかし古事記ではその答えの歌にも『佐々』とあるから、はっきりしない。ただしそれは、自分で飲食することを言った言葉かも知れない。万葉で神楽浪を『ささなみ』と読み、略して『楽浪』も同じように読むから、弘仁私記に『いでませる神の楽を沙佐之庭と言った』と注したのを考え合わせると、祝語の一種か」【以上は契沖の説】と言った。しかし万葉で「ささ」と言うのに「神楽」とか「楽」と書くのは、神楽(かみあそび)で「佐々(さあさあ)」という相の手があるからだ。「ささなみ」を「~樂聲浪」とも書く、その「聲」の字で分かる。【「~樂浪」、「樂浪」などというのは、「聲」を省略して書いているのである。】このことについては、上巻の石屋戸の段【伝八の五十四葉】で述べた。参照せよ。【弘仁私記で「楽を言う」と注したのは、万葉を誤解して、「ささ」を即ち「楽」のことと思ったのではないだろうか。それは間違っている。「楽」を「ささ」と言った例はない。「いでませる神の楽を沙佐之庭と言った」というのも、神楽で「さあさあ」と唱えることがあるので、そう言ったのだろう。そのことを「沙庭」の注に引いたのは間違いである。沙庭の意味は別である。】その神楽(かみあそび)の「さあさあ」と、ここにある「ささ」とは、元は同じだろう。それは、前述の石屋戸の時の吉例にちなんで、神楽のときは言うまでもなく、人に酒食を勧めるにも、自分で飲食するにも、祝って「佐々(さあさあ)」と言うのだろう。【そもそもあの石屋戸では、種々の幣(みてぐら)を献げ、神楽を演じて、天照大御神が石屋から出るように、催促し、誘い勧めた行為だったから、それに因んで飲食の祝言(ほぎごと)になったのも道理である。だから弘仁私記に「唱え進めるの意」とあったのも、祝言となったことについては当たっている。しかしこれもまた沙庭の注には無関係である。この文を契沖が、ここの注に引用したのは、こじつけと言うべきだ。】書紀の崇神の巻で、活日(いくひ)という人物が、酒を天皇に勧める歌の最後に、「伊句臂佐伊句臂佐(いくひさいくひさ)」とあるのも、自分の名を挙げて「ささ」と勧めたのである。【「伊句臂」は自分の名、「佐」はここの「佐々」と同じことを、離して二度に言ったのだ。そこの歌の様子が、全般にここの歌に似通っているのでも分かる。これを弘仁私記でも契沖も「幾久」の意味に解したのは間違いである。何かを祝って「幾久しく」などと言うのは、非常に後の世のことである。万葉にも「幾久」という言葉はあるが、それは意味が異なり、祝言(ほぎごと)ではない。】今の世では飲食だけでなく、何事でも人に催促し、誘うときに「さあさあ」と言うのは、やはり飲食の祝言から転化したのだろう。【ただし石屋戸の神楽で、大御神が出るように催促し誘ったことから見ると、飲食だけでなく、万事に言うのも当然である。さて契沖が「今の世にも、人に強いてものを勧めるときには『ささ』と言う」と言ったのは不十分だ。今もものを催促し誘う言葉で、必ずしも強いるときに言うのではない。また契沖は、「今の世の女言葉で酒を『ささ』と言うのは、この歌の遺風ではないか」と言ったが、それはない。それは「酒」の頭の「さ」を重ねて言っているのである。女子供の言葉には、頭の一音を重ねて言うことが多い。鳥を「とと」、尿(しと)を「しし」、香の物を「香々(こうこう)」というたぐいである。その他にも飯を「まま」、乳を「ちち」、手を「てて」というなど、まだ例はたくさんある。】<訳者註:ここで宣長が言っている「ささ」というかけ声は、岩波古典文学大系「古代歌謡集」の「神楽歌」には一例もない。「おけ」とか「や」、「あちめ」、「なよや」といったかけ声が代表的なようだ。とすると、「神楽」と書いて直ちに「ささ」を連想するわけには行くまい。それともこれは文字に書いてないだけで、実際に奏するときには、始終「ささ」と発声されるということだろうか。>○「獻2大御酒1(おおみきたてまつらしき)」。前に「釀2待酒1以獻」とあったのに、ここでまた同じように言うのは、言葉が重なって煩わしく、まずい文に思われるだろうが、これは「〜を作って大御饌に献った」といった文である。前の「待酒」はその物を言っており、ここの「大御酒」は、いよいよ召し上がる酒で、御膳といった意味合いだ。だから「大御酒に」と「に」を添えて読むような意味に解すべきである。○「爲2御子1(みこのみために)」は「みために」と読む。書紀の敏達の巻に「大伴金村の大連は国家(みかど)の為(みため)に云々」、崇峻の巻に「護世四天王の為(みため)に云々」、天智の巻に「天皇の為(みため)に云々」、万葉巻七【二十七丁】(1275)に「妹御爲私田苅(いもがミタメにわたくしだかる)」などがある。ここは太子がまだ幼いので、代わって答えたのである。○許能美岐袁(このみきを)は「この御酒を」である。○迦美祁牟比登波(かみけんひとは)は「醸みけん人は(作った人は)」である。【「ける」と言わず、「けん」と言ったのは、その人はどこの誰とも知れないからである。大后の歌に「少名御神の献った酒」というのを受けて、誰が作ったにせよ、その人は知らないので、こう言ったのだ。】○曾能都豆美(そのつづみ)は「その皷(鼓)」である。こういうところに「その」というのが古歌には多いが、みな前に指示することがあるのに、ここは何を指して言うかが不確かである。【これについては考えがある。次に言う。】皷は和名抄に「皷は和名『つづみ』」、また「大皷は和名『おおつづみ』。考えるに、俗に『四皷(しのつづみ)』と言うものではないだろうか。また小皷に『一二三』の名がある。みな節に応じ、順序を名にしたのである」とある。【これは古い本に依っている。今の本では「考えるに」とあるところから「小皷に」と言うところまで、十一字が違っており、「あるいは『四乃豆々美(しのつづみ)』と言う。考えるに、細腰皷というものだろう」とある。いにしえに、一般的に皷と言ったのは、今の世に言う太鼓(たいこ)で、今の世の皷と言うのは、鼓の中の一種である。また和名抄の「大皷」は今あるような太鼓の一種だ。ただし今も雅楽で太鼓と言っているのは、上記の「大皷」のことである。世間で「太鼓」と言っているのがいにしえの皷に相当する。猿楽に「大皷」、「小皷」というものがあるが、それは世間で言う皷であって、その大小を言っている。いにしえの大皷、小皷とは違っている。一般にこれらの物は、いにしえと今とでは呼び名が変わっていることが多い。注意しなければ取り違えるだろう。】また「槌、一名は枹、また字は桴とも書き、これで大皷を打つ物である。俗に『つづみのはち』と言う」、また「摺皷は俗に『すりつづみ』と言う」、また「トウ(鼓の下に兆)皷は、和名『ふりつづみ』」、また「腰皷は俗に『三のつづみ』、本朝令にいわく、腰皷師。腰皷は『くれつづみ』と読む。呉の楽に用いる物がこれである」【これらの他に鉦皷(ショウコ)、鞨皷(カッコ)なども見えるが、和名の記載はない。】などがある。ある人の説で、「『つづみ』は『都曇』の字音である。唐書の禮樂志に『天竺伎に都曇皷』がある。白孔六帖に『都曇・答蝋は本来夷(えびす)の音楽である。都曇は腰鼓に似て小さい。答蝋はショ(虫+昔)皷そのものである。』とある」と言った。【「都曇(とどん)」と言うのも、「答蝋(とうろう)」と言うのも、もとはその音から名付けたように聞こえる。これを皇国で「つづみ」と言うのは、「あづみ」を「阿曇」と書くから、実際「都曇」の字音のように思われる。すると、皇国に元からあった物でなく、外国から伝わったのだから、この大后の御代にはなかったはずなのに、ここの歌に出てくるのはなぜか。つらつら考えてみると、この時皇国に皷があったというのではない。これは以前に新羅を討ったとき、建内宿禰命がかの国で、この楽器を打つのを見て、面白く思ったのを、思い出して詠んだのだろう。だからこそ「その皷」と詠んだのであって、「その」とは大后の歌に「常世にいます」とあるのを受けて、「その常世の国」と言ったのだろう。「その常世の国が面白く見聞きし、鼓というものを打ちはやして、醸(か)んだのだろう」と言ったのではあるまいか。そう見るとここで「鼓」を出したのも不思議はなく、また「その」という語で指すところもはっきりするだろう。】○宇須邇多弖弖(うすにたてて)は「臼に立てて」である。皷を臼の縁(へり)に立てて置いて打つことを言う。【契沖はこれを「酒造の米を舂(つ)くときのことだ」と言ったが、「醸(かみ)」という言葉に続いていることを忘れたのだろうか。米を搗くことを「かむ」などと、どうして言うだろうか。】明の宮の段に「吉野の国主(くず)たちは、吉野の白檮上(かしふ)に横臼を作り、その横臼に大御酒を造って、その大御酒を献げたとき、口皷(くちつづみ)を打ち、伎(まい)を舞って歌った。『加志能布邇、余久須袁都久理、余久須邇、迦美斯意富美岐、宇麻良爾、岐許志母知袁勢、麻呂賀知(かしのふに、よくすをつくり、よくすに、かみしおおみき、うまらに、きこしもちおせ、まろがち)』」【「よくす」は「横臼」である。】ともあって、上代には臼に酒を造ったのである。そのことはそこで言う。【伝卅三の四十四葉】○宇多比都都(うたいつつ)は「歌いつつ」である。貞観儀式の大嘗會の儀に、「造酒の童女がまず御飯の稲を舂く。次に酒波らが共に手を変えず、舂きながら歌う。【歌詞はその時々の定めによる】<訳者註:造酒童女は造酒で主要な役割を持つ高貴の少女。酒波はその助手を務めるやや下級の少女たちという。>」とあるのは稲を搗く時のことだが、醸造作業も同じように考えてよい。○迦美祁禮迦母(かみけれかも)は「醸みけれかも」である。「けれかも」は「ければにや(したのではないだろうか)」だが、こういうところの「ば」を省いた例は、古歌に多い。【「詞の玉の緒」の第七巻に例を多く挙げてある。】万葉巻十七【三十一丁】(3977)に「孤悲家禮許曾波(こいけれこそは)」【これも「恋いけれこそは」である。】ともある。この句は、書紀では「伽彌鶏梅伽墓(かみけめかも)」とある。【「梅」は「め」の仮名である。「む」ではない。】○麻比都々(まいつつ)は「舞いつつ」である。○迦美祁禮加母(かみけれかも)。書紀にはここの二句はない。【この歌をよく味わうと、この二句がなければ、たいへん劣った歌のように思う。書紀では脱落したのだろう。】○許能美岐能(このみきの)は「この御酒の」である。○美岐能(みきの)。【三言一句】こういう風に前の語の一部を繰り返して歌う例が多い。倭建命の段の歌に、「那豆岐能、多能伊那賀良爾、伊那賀良爾(なづきの、たのいながらに、いながらに)」とあったのと同類だ。書紀にはこの句はない。○阿夜邇(あやに)。【三言一句】この言のことは、上巻の阿夜訶志古泥(あやかしこね)神のところ、また沼河比賣の歌のところで言った。【伝三の四十四葉、伝十一の二十六葉。契沖は「美岐能阿夜邇」の六言一句だろうと言ったが、間違いだ。】○宇多陀怒斯佐々(うただぬしささ)は、【諸本で「多」の字が脱けているものが多い。ここでは真福寺本および延佳本によった。】「転(うたた)楽(だぬし)佐々」である。「転(うたた)」は、上巻で須佐之男命の悪行を「轉(うたてあり)」とあったところ【伝八の十一葉】で言ったように、物事がいよいよ進んで甚だしくなることを言う。「うたて」とも「うたた」とも通わせて言う。【「うたただぬし」と言うところを、同じ音が重なるので、「た」を一つ省いて言っている。】だからここは、この御酒を飲めば飲むほど、いよいよますます楽しいと言ったのだ。【契沖が「『うた』は『宴』の下一音を省いたのだろう」と言ったのは間違いである。また師は「『歌楽し』で、この歌は前の歌を言うのだろう」と言ったが、それでは「御酒のあやに」という言葉から続いているのに合わない。】「佐々」は、釈日本紀に「枳沙(きさ)」とある。【今の本、類聚国史ともに「作沙(ささ)」とあるから、「枳」は後の写し誤りかとも思ったが、注に「古事記では『陀怒斯佐々(だぬしささ)』とある」と書いてあるので、写し誤りではない。古事記と違っているから、そう注したのだ。】「枳」はその上の「けれかも」【「けめかも」でも同じ】の結びの辞である。【「だぬし」だけでは、「かも」の結びにはならない。「けれかも、たぬしき」と言って初めて「てにをは」の上下の形が整う。】ここで「佐々」を「佐」一語で言うのも、前述の「伊句臂佐」と同様だ。だが「佐々」と言って、その前が「たぬし」であっても、「てにをは」が違っているわけではない。そう見る時は、前の「けれかも」で言葉が切れていて、「か」の辞の意味は下に続いていない。そういう言い方の例もある。【「てにをは」の整い具合をよく考えるべきである。】この「佐々」は、太子が自分で飲んで壽ぐ言葉としてもいいし、太子の答歌だと言っても、そばから建内宿禰が歌ったのだから、前の歌と同じように、太子に勧めている歌と考えても筋は通る。【歌全体は、自分で飲みながら歌ったように感じられ、そう考えても太子自らの意志と考えてもよく、また建内宿禰もご相伴に与っていると思われるから、この宿禰の感想としても通じる。】○この歌全体の意味は、誰だろうと、この御酒を造ったときには、【皇后の歌に「常世に坐(いま)す云々」とある。その常世の国で、あの】皷【というもの】を、臼の近くに立てて置いて打ちながら、歌いながら、舞いながら、心を込めて壽ぎ、【大嘗會の稲舂き歌なども、そのことを壽ぎながら読むのだから、酒造の時にする歌や舞いも、その酒を祝い称える意味があることを、これになずらえて考えるべきである。】作ったからではないだろうか。【その壽ぎ言葉の効果が現れて】この御酒を飲めば飲むほど、いよいよ楽しさが増すことよ。さあさあ召し上がれ、召し上がれということである。○酒樂は「さかほがい」と読む。「ほがい」は「ほぎ」を延ばして言った語で、【「ねぐ」を延ばして「ねがう」と言うのと同じだ。】宮内省式に「大殿祭、これを『おおとのほがい』と言う」とあるのがそれである。【祝詞式に載っている大殿祭の詞は、つまり大殿壽(ほがい)の詞ということだ。】新撰字鏡に「祠は『ほかう』」とある。【「祠(ほこら)」の字を書いてあるのは少し納得できないが、「ほかう」という言葉の例証である。】書紀に「皇太后擧レ觴以壽2于太子1」とあるのも「さかほがいしたまう」と読んでいる。ここに「樂」の字を書いたのは、宴楽(うたげ)のときに歌う歌だからだ。【「ほがい」という言葉は「樂」の意味には当たらないが、大殿祭(おおとのほがい)のたぐいである。「祭」の字も「ほがい」の意味ではないが、その祭の時に読む詞だから、そのまま「祭」と書いている。師はここを「さかえらぎ」と読んだ。それは「樂」の字にはよく当たっているけれども、やはりそうではないだろう。新猿楽記にも「酒祝(さかほがえ)」とある。これは後代の書物ではあるが、「ほがえ」という言葉はその時代のものでなく、たいへん古い言葉だから、いにしえから伝わった名なのだろう。】ところで前にも述べたように、【倭建命の段の思國歌(くにしぬびうた)のところ】記中では通例二首以上の歌を載せてあるときに「この二首は」、「この三首は」とあるのに、ここで言っていないから、「酒樂之歌」は建内宿禰の一首だけなのだろうか。しかしやはり皇后の歌も合わせて二首を言っているように聞こえる。

 

凡帶中津日子天皇之御年伍拾貳歳。御陵在2河内惠賀之長江1也。

訓読:すべてこのタラシナカツヒコのスメラミコトのみとしイソジマリフタツ。みはかはカワチのエガのナガエにあり。(訳者註:河内は旧仮名カフチであり、現代読みではコウチとすべきだが、「高知」などと紛らわしいのでここではカワチとした。)

口語訳:帶中津日子天皇は崩じたとき五十二歳だった。御陵は河内の惠賀の長江にある。

凡は「すべてこの」と読む。こういうところで「凡」と言う言い方については、白檮原の宮の段【伝二十の六十三葉】で述べた。そういう例ではみな「凡此」とあるから、【倭建命の段にも「凡此倭建命云々」とあった。】ここも「この」という言葉を読み添えるべきだ。○伍拾貳歳は「いそじまりふたつ」と読む。【「五十」は「い」と読むのが普通で、「いそ」と読んだ例は、古くは見当たらないが、こうして物の数を確かに言う時に、「い」とだけ読んだのでは通じない可能性があるので、取りあえず「いそ」と読んだ。そもそも三十(みそ)から九十(ここのそ)まで、みな「そ」と言うのに、五十だけが例外で「い」としか言わないのはどういう理由か、なお考察すべきである。また「五」は「いつ」と言って、「い」と言う例はないのに、「五百」は「いお(イホ)」と言って「いつお(イツホ)」とは言わない。これは自然と「つ」が省かれたとも言えそうだが、「五十(い)」と紛らわしい。これはついでに指摘しただけである。また「二十(はた)」は「二(ふた)」から転じたと思われるから、これも「はたそ」と言うべきだろうに、「そ」と言わないのはなぜか。これもついでに言っておいたのである。】この年齢は、書紀【細註】と同じである。【書紀によると、この天皇は九年に崩じて、その時五十二歳だったから、生まれたのは成務天皇の十九年に当たるが、その年は、倭建命が景行天皇四十三年に崩じて三十六年後のことなのはどういうことか。およそ書紀の年紀のつじつまの合わないことは、このような具合である。だがこの食い違いによって、この天皇は倭建命の子ではないと考えるのは、かえって間違っている。それは疑うべき方を疑わないで、疑うべきでない方を疑っていることになる。書紀の年紀の食い違いは珍しくない。なお「稚足彦天皇(成務)の四十八年に太子に立てた。この時年三十」とあるのも、一年違っている。】○旧印本、真福寺本、他一本には、この間に「壬戌年六月十一日崩也」という細註がある。この種の細註のことは、前【伝二十三】で論じた。この壬戌年は、書紀によると成務天皇の五十二年だから、十八年の差がある。【また成務天皇の段の細註に「乙卯年崩」とあるから、その翌年をこの天皇の元年とすると、壬戌年は七年に当たる。】月日も書紀では「二月五日」とあって合わない。これらもそれぞれいにしえの伝えの一つなのだろう。○河内惠賀之長江(かわちのえがのながえ)。「惠賀」は應神天皇の御陵も「惠賀の裳伏の岡」とあり、書紀の雄略の巻、顕宗の巻に「餌香市(えがのいち)」、【続日本紀三十に「會賀(えが)市の司に任ずる」という記事が見える。】崇峻の巻に「餌香の川原」、天武の巻に「衛我(えが)河」などとあるところである。【餌香川は石川とも言い、石川郡から北に流れ、古市郡を経て、志紀郡の東の境を過ぎて、大和川に入る川である。】「長江(ながえ)」は、允恭天皇の御陵も「惠賀の長枝(ながえ)」とあり、同じ所である。書紀の神功の巻では「二年冬十一月丁亥朔甲午に、天皇を河内国の長野陵に葬った」とあり、諸陵式に「惠賀の長野の西の陵は、穴門の豊浦の宮で天下を治めた仲哀天皇である。河内国志紀郡にある。兆域は東西二町、南北二町、陵戸一烟、守戸四烟」とあり、このように書紀でも諸陵式でも「長野」とある。上記の允恭天皇の御陵も、書紀では「長野原」、諸陵式では「惠賀の長野の北の陵」とあって、いずれも「長江」とは書いてない。【それにまた、この二陵とも、諸陵式では「惠賀」とあるのに、書紀ではいずれも「長野」とあって、「惠賀」とは言わない。長野という地名は、延喜式神名帳に「志紀郡長野神社」(大阪府藤井寺市の辛國神社に合祀。すぐ南に惠賀長野西陵がある)が載っている。続日本紀十八に「使いを大内・山科・惠我・直山等の陵に遣わした云々」と見える「惠我」は西陵か北陵か、定かでない。】この付近で「長江」という地名が他に見えているのは、延喜式神名帳に「志紀郡、志紀長吉神社」(大阪市平野区長吉長原の長吉神社という)がある。この「吉」の字は「え」と読んで、同じ地なのではないだろうか。【師は書紀・諸陵式ともに「長野」とあるので、「江」の字は「沼」の誤りかと言ったが、允恭の御陵も「長枝」とあるから、誤字ではない。また上記の長吉神社は、一説に、今の丹北郡長原村にある「日蔭明神」のことだともいう。それならばこの長江とは違うだろう。日蔭明神社も志紀郡の境には近いけれども、その西の方にあるのに、惠賀は、應神・允恭の二陵とも志紀郡の東の方になり、惠賀川も東の境だからだ。しかし長吉神社をその日蔭明神だというのも、確かな証拠がある話ではないから、必ずしもその場所にこだわることもないだろう。】この御陵は、河内志に「丹南郡の岡村にある。陵のほとりに塚が六つある」という。【岡村は続日本紀で志紀郡と書いており、今もその郡の境界に近い。上記の長野神社も今は丹南郡に属し、葛井寺(ふじいでら)村(大阪府藤井寺市)にあって、この岡村に近いところである。また允恭の御陵より西の方だから、「西の陵」というのにも合う。しかし更に考えると、惠賀という地は志紀郡の東の辺りと聞こえるのに、岡村はやや離れて西の方にある。特に長江(長野)というのは惠賀のうちの小区域の名だろうから、その地はさほど広くないと思われるが、二つの御陵がいずれも長江(長野)にあると言うから、西陵も岡村より少し東で、北陵に近いところにあると思われる。しかし私はこの辺りの地理をよく知らないので、あえて強説することはできない。だが俗に錦部(にしごり)郡長野荘(現在の河内長野市)の上原村にあるのをこの陵だと言い、廟陵記などでもそう書いているのは大きな間違いである。そこは場所が大きく離れているのに、「長野」という名に釣られて誤ったのだろう。また筑前国の大保(おおほう)村というところに「大靈石(だいれいせき)神社」というのがあって、この天皇を祀るという。その社の前に塚があるのを、この天皇の御陵だというのは、穴戸の豊浦宮に移す際、しばらく遺体を収めて置いた場所かも知れないが、はっきりしない。また播磨国の明石郡にもあるのは、香坂王と忍熊王が作った陵(神戸市垂水区の五色塚古墳と言われる)だろう。そのことは書紀に記事がある。】○諸本ともに、この後に「皇后御年一百歳崩。葬于狹城楯列陵也(皇后は百歳で崩じた。狹城楯列の陵に葬った)」という十六字の細註がある。師が後世の人が書き込んだのだと言ったが、これは疑問の余地なくそうである。文の書き方がこの記の通例と違う。また各段の終わりの細註の例とも異なる。【それは「皇后」と言っているのも、下巻では二ヵ所に見えているが、この巻にはない字である。またそれぞれの天皇の崩御時の年齢は、多くは書紀と違っているのに、この「一百歳」は書紀と一致しているのも、かえって疑わしい。「狹城楯列(さきたたなみ)」も書紀の記載の通りだ。この記では「狹木・沙紀」と書き、「多他那美」と書いているのである。とすると、この細註は後世になって、書紀によって書き入れたものである。前にあった「壬戌年云々」の細註は、書紀と大きく違っているのと比べて、ここはいにしえのものでないことを知るべきである。それを延佳が上記の「壬戌年云々」の方を除いて、この「皇后云々」の方だけを採用したのは、書紀と一致するのを喜んだからで、かえって誤っている、何でも書紀と一致するのを喜んで、一致しないのを嫌うのは、世の学者の漢意の癖であろう。書紀と少しでも違っているのこそ、一つのいにしえの伝えと聞こえるはずだ。】そのためここでは除いた。しかしながら、この大后はほぼ一代の天皇のような存在だったから、ここでも天皇の通例のように言ってみたのだろう。書紀に「六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后は稚櫻(わかざくら)の宮で崩じた。【時に百歳だった。】冬十月戊午朔壬申、狹城楯列の陵に葬った。この日、皇太后を尊んで、息長足姫尊と追号した。この年、太歳己丑」とある。【「この日尊号を」とあるのは納得できない。これは漢國で葬ったときに諡を付けるのを真似て、そういうふうに書いた例の作為だろう。】この年齢は、ある本には百十一歳とある。御陵のことは、成務天皇の御陵のところ【伝廿九の六十五葉】で言った通りである。【続日本後紀に「承和十年夏四月、楯列の陵守らが言上して、『昨月十八日の食時に山陵が二度鳴りました。その音は雷のようで、赤氣が飄風のように離(南)を指して飛び去りました。申の時にまた鳴り、その氣は初めのように兌(西)を指して飛びました』と言う。参議正躬王(まさみおう)を遣わして調べさせたところ、陵の木を七十七株も切っており、すわえ(木+若:細い枝などのこと)に至っては、とても数え切れないほどだった。・・・参議藤原朝臣助、掃部頭坂上大宿禰正野らを遣わして、楯列の南北二山陵に謝罪させた。この三月十八日の奇異によって、図録を詳細に調べたところ、二つの楯列の山陵のうち、北側が神功皇后陵で、南側が成務天皇陵だと判明した。世人が南の陵を神功皇后陵と伝えていたので、その口伝によって、神功皇后の祟りがあるごとに、成務天皇陵に無駄に謝罪していたのである。先年も神功皇后の祟りがあり、弓や剣を作ったが、やはり誤って成務天皇陵に奉っていた。この日改めて神功皇后陵に奉った」<訳者註:あいまいな記事だが、当時は「神功皇后はよく祟る」と信じられていたらしい。この事件では、多分北陵(当時成務天皇陵とされていた方)で奇異が起こったので、これも神功皇后の祟りかも知れないと考え、念のため南北の山陵に謝罪させた。しかし誰かが疑問を持ち、図録を調べて、取り違えが分かったということだろう。>百錬抄に「永保三年五月廿日、諸卿が定めて(議定して?)報告したところでは、神功皇后の山陵の樹木がみな焼けた。同廿一日、三日間の廃朝(朝の政務を行わない)をおおせられた」とある。】○この記では、息長帯比賣命の御世を立てない。【そのことを仲哀天皇の段の終わりに書いてある。】仲哀天皇の次はすぐに應神天皇のはずなのに、書紀ではその間にこの大后の巻を置いて、仲哀天皇の崩御の翌年をその摂政元年とし、六十九年の崩御までをその御世として書き、またその翌年を應神天皇の元年としてある。【これについては、世の物知り人が様々に論じている。】ここでその違いについて論じると、この記は当時の実際の様子をそのまま伝えたものであり、書紀は漢国の例や後世の考え方で、ことさら各代を鮮明に定めたのである。【古い書物にも、そういう趣旨に書いたものがあったのかどうかは分からない。】というのは、一般に上代では、天皇が崩御すればすぐにその太子の時代になるので、太子はすぐに天皇になったのである。【それを某年某月某日などと、はっきりと区分立てして言うのは、もとは漢国にならった後のことでこそあれ、上代にはそういうものはなかった。】だから仲哀天皇が崩御してからは、品陀別命がまだ生まれないうちから、自動的に天皇だったのであって、その御代になったのだ。【「胎中天皇」という呼び名があったのも、そのためだ。また忍熊王との戦いで「大后の御方」とは言わず、「太子の御方」といったのも、この太子の御代だったからである。ただし天皇と言わないで、まだ太子と呼んだ理由は、次に言う。太子という名も「某年月日誰それを立てて皇太子とした」などと鮮明に示されるようなことは、上代にはなかったのだ。】だがまだ生まれる前には、臣・連・八十伴緒みな大后に仕え奉った。【その間に、例の新羅征伐などの大業もあった。】生まれた後も、まだ幼かった頃はもちろんのこと、成長した後も、大后が生きていた間は、自分の親だからと言うのでなく、敬い仕え奉り、万事その大后の心に適うようにしていたので、おのずと御子はまだ太子のようになり、大后こそ天皇のようになったのだ。【だから摂津国風土記など、この大后を天皇と書いた例もあるようだ。しかしまた本当にその大后の御代とは言えなかった。摂政などという名称も、その頃にはなかった。それを世の物知り人たちは、とにかくはっきりとした時代の区分を立てた漢国の例や、後代の定めに基づいて見るものだから、あれこれとその是非を論じ、儒者などは、大后は自分の地位にしがみついて、太子に譲ろうとしなかったのだろうとさえ言っているのは、畏れ多いことである。上代には、そんなにはっきりした区分などはなかったことが分からず、漢意で解釈した誤りである。実際は本来御子の世だったので、大后の世ではないのだから、譲るような何があっただろうか。「摂政の御世」などというのは、後世に定めたのだということを理解すれば、何も議論することはないのだ。万事が漢国のように鮮明なのは正しく美しいように見え、大らかなのはしどけなく、いい加減なように見えるかも知れないが、実はそうではない。本当の人の世には、そのように鮮明な区別が立つものはない。ただ大らかにあるのこそ真の姿だ。かの漢国などは、本来人の性質が悪いため、世が乱れやすいのを防ごうとして何でも事細かに定めたのだろうが、どんな国でも時代が下がって人の心が悪くなり、乱れることが多くなるにつれて、万事が細かに煩瑣に規定されてゆくのを見れば分かるだろう。】しかし現実にはこの御子が天皇だったのであり、大后の御代ではなかったから、この記では大后の御世を立てなかったのだ、【だが大后が生きていたときには、自然とその御世のような状態になり、御子はまだ太子のような存在だった。だからその間に、越の国の角鹿のことなども、大后のことの続きのように書いて、天皇とはいわず、あくまで太子と書いてあるなど、あいまいな書き方になっているが、それこそ当時の実情に合っているのである。】それを書紀ではこの大后の巻を立てて摂政の御世とし、その紀年で示したのは、書紀はこれより前の時代にも、漢国の例や、後世の書き方に従って書き記したから、この間のこともはっきりと書かずにいられなかった。これは書紀としては当然のことである。それもなお筋を通して正すなら、大后の御世を立てず、【最近では水戸の中納言光圀卿の撰述した大日本史などがそうだが、】摂政元年とした年を、直接應神元年としても良かったのだろうが、それもこれも、いずれも後世から無理矢理に定めることであって、本来のことではないから、どちらでもいいことであって、書紀でそれぞれの御世を定め、天皇とは書かず皇太后と書き、摂政としたなど、敢えてその当時にはあり得ないような書き方をしていても、みなそれぞれ理由があって、実際のあり方に大きくは背くことなく、【摂政という名称や、その間の紀年を無理に立てたのは、その時代のやり方ではないのだが、はっきりと天皇でなかったことを示すためには、摂政などという呼称も使わざるを得ず、またその御世を立ててしまったからには、その紀年を立てずにはいられなかった。もし摂政元年を應神元年とすれば、それもまた実際の当時のあり方とは食い違う点もあり、この間の書きようは、書紀のようなものもあって当然だったろう。】また正史のことだから、そういうふうに書いたとしても、何ら差し支えはなかったわけである。



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